その日から、シュミットは独自に調査を始めた。
ポピウで出回る「人魚姫」という合成麻薬。
出所はどこか。
何のために。
誰が関わっているのか。
警察官時代に築いた人脈を駆使し、情報を聞いてまわった。
だが、ポピウの名を出すと、誰もが言葉を濁し、視線を逸らした。
情報は思ったようには集まらない。
それでも繰り返し心当たりのありそうな人物に話を聞いていくうちに、断片的な情報が集まり始める。
そんな折だった。
夜の繁華街で、それは接触して来た。
夜の繁華街は昼間とは違う熱気が漂い、夜の気配がさまざまなものの姿を見えなくする。
路地に入ったところで、シュミットは足を止めた。
背後で人の気配。近い。
「……警官くずれが、何の用だ」
低い声がかかった。
首だけで振り返ると、男が一人、闇に溶けるように立っていた。
「ポピウの名を出して嗅ぎ回ってるらしいな」
男の手には刃物があった。
だが、それは振り上げられるでもなく、身体の前で控えめに構えられている。
「これは忠告だ。これ以上、踏み込むな。
さもないと……」
袋小路へと、じわりと距離を詰められる。
それは、ネオンの色鮮やかな照明を受けて、鋭利な光を反射させた。男の口元が、わずかに歪む。
「お前の大事なものが、消える」
それまで涼しい顔で男の話を聞いていたシュミットだったが、その言葉に視線がわずかに揺れた。
七つの棺が、頭を掠める。
「……俺には、何も残っていない」
男の懐に掴み掛かる。
シュミットの思わぬ反撃。
男が慌てて武器をふりまわす。
切っ先が頬を掠め、熱が走る。
だが次の瞬間、手元の刃は手刀で叩き落とされ、乾いた音を立てて地面に転がった。
「ヒィ……」
男は刃物を振り回した時に自分の腕を切ったらしい。
「使えもしないモノを、持つんじゃ、ない!」
男の腹部にシュミットの蹴りが決まった。
吹き飛ばされた男は足をもつらせながら、その場から逃げていった。
「……しまった」
地面に落ちた刃物を蹴り飛ばし、シュミットは舌打ちした。
あの男は、何か情報を握っていたかもしれなかったのに。
後日。
グラジナの店を訪れたシュミットは、顔を見るなり苦言を呈され、面食らう。
「あんた、派手にやってるみたいじゃないか」
「……俺が勝手にやってることだ」
シュミットの不貞腐れた言い方に、グラジナは半分呆れ顔で畳み掛ける。
「いいかい。あんたのやってることは、この町の禁じられた領域に踏み込んでいるんだよ!」
カウンターから出てきたグラジナは、指先をシュミットの鼻先に突きつけ、低く、しかし確かな力で怒鳴った。
背は低いのに、その威圧感は部屋中を支配する。
「割を食うのは自分の身すら守れない子らなんだ」
「……」
「今後、寝た子を起こすような真似は慎むんだね」
そこまで言うと、肉付きの良い体を再びカウンターに収めた。
今日は数人の客が来ていた。店の隅でこちらを伺いながらチビチビとグラスを傾けている。
立ち尽くすシュミットに女給が声をかけ、席に案内する。
そばかす顔の女給はシュミットの耳元で囁いた。
「ヨレンタの飼い犬ってあんたのことでしょ」
「犬じゃない」
反射的に強い口調になった。
シュミットの反論に、思わず女給がたじろぐ。しかし、負けじと言葉を続ける。
「いっつもひとりのあの人に、珍しく連れがいたもんだから、結構噂になってるのよね」
自分が勝手について回っていただけだったが、説明するのも面倒だったので無言を貫く。
女給の好奇心はまだ止まらなかった。
「ね。なんで一緒にいたの?恋人?」
シュミットは出された水を苦い顔で飲み下す。
なんでそうなる。
「……一緒に居ただけだ」
シュミットの返答に女給はつまらなそうに口を尖らせた。
シュミットは無言のまま立ち上がり、扉を目指す。
「あれ?気を悪くしちゃった?ゴメン!」
慌てて女給が止めに入るも、足はすでに出口の方へ向いていた。
「……用事を思い出した」
客たちの視線が刺さる。
店を出る時、グラジナがシュミットの背中に投げかけた。
「アタシの言葉、忘れるんじゃないよ!」
酒場の扉を閉めると、シュミットは肺の中の息を全部吐き出した。
ビルの隙間から見える夕暮れが過ぎた空は、オレンジから群青に染まっていた。
自分がやっていることは、余計なことなのだろうか。
ポピウで見たあの少女の姿が頭をよぎる。
これ以上犠牲者を増やしてはいけない。
シュミットの胸の中の正義は、そう叫ぶ。
ふと、視線を感じて顔をあげる。
繁華街の裏通りは、徐々に人通りを増やしていく。道ゆく人々は皆目的の場所を目指して歩いてゆく。
誰もこちらを見てはいない。
先ほどの違和感は何だったのだろうか。
その時、男がシュミット目掛けて走ってくるのが見えた。
「あの!」
息を切らし、シュミットの前で立ち止まった男は膝に手をつきながら見上げて言った。
「ヨレンタさんと一緒に居たのって、あなたですよね!」
「……まあ」
どいつもこいつも、ヨレンタと行動を共にすることがそんなに珍しいのか。
「ヨレンタさん、知らない男たちに連れ去られて……!」
「……なに?」
空気がピリ、と変わった。
男にヨレンタを最後に見た場所を聞くと、地を蹴って走り出す。男もシュミットを追いかけて来るが、追いつかなかった。
猛然と走りながら、頭にはヨレンタの姿が浮かぶ。
あの夜、彼女と出会わなければ。
ポピウの現状を目にしなければ。
今の自分はないだろう。
議員の頭を打ち抜き、自らの生もそこで終わるはずだった。
あの日、ヨレンタに視界をこじ開けられて世界の見方を変えられた。
景色が流れていく。
シュミットの深層では、彼女を失うことだけはどうしても許せないという想いが芽生えていた。
繁華街の隅。
小さな露天の立ち並ぶ界隈でヨレンタは連れ去られたらしい。
小さな机の上に偽物の宝石を並べた老婆がいた。連れ去られた女がいないか聞いたが、首を横に振って商品を差し出すだけだった。
隣で果物を売っていた兄弟がシュミットと目を合わせるとビクリとした。
あまりの剣幕だったのかもしれない。弟の方が涙目になりながら、ある方向を指差す。
そこは――繁華街の中にあるクリニックだった。
「う……」
自分の呻き声を聞いて、目が覚めた。
ヨレンタは痛む頭を少し振り、目を開いた。
薬を使われたのか、鼻の奥に苦味が残る。
微かな消毒液の匂いがした。
手足は椅子に固定され、きつく縛り付けられている。
血の巡りを阻まれた指先は、感覚が薄れ、冷え切っていた。
目の前の机には、用途の分からない医療器具がいくつも並べられている。
この状況で、それが医療目的でないことは明白だった。
「目が覚めたか?」
高揚した男の声。
器具をひとつ手に取り、息を吹きかけて磨き上げる。
「恨むなよ。お前が悪い訳じゃ無い。だが、お前の仲間は一線を越えてしまった」
他の器具を手に取ると、うっとりと眺める。片腕に、雑に巻かれた包帯があった。
「ちゃんといたぶって殺されたってことがわかるようにしないとな。見せしめにならない」
どうやら、自分はとばっちりを受けているらしい。
ヨレンタは黙って目の前の男を睨みつける。
次の瞬間、男の手が乱暴に彼女の顔を固定し、無理やり口を開かせる。
前歯に、冷たい器具が当てられた。
引き抜かれる。
「――っ!!」
声にならない悲鳴が漏れる。
「次は、爪行こうか」
男は楽しむように、器具を爪先へと滑らせる。
じわじわと、逃げ場のない痛みを予告する動き。
次に来る痛みを覚悟した、その瞬間――。
パン
乾いた破裂音。
男の手から、器具が弾き飛ばされた。
パン
二度目の銃声。
弾は男の腕を貫き、肉を抉った。
「ぐ、あぁっ……!」
男がその場に崩れ落ちる。
激痛に呻きながらも、銃を構えた人物――シュミットを、恨みがましい目で睨みつけた。
息も絶え絶えに、その場から這うように逃げ出していった。
「……ヨレンタ」
白煙の立ち上る猟銃を取り落とし、シュミットはヨレンタに近づくと手足の拘束を外す。
「ありがとう。……助けに来てくれたの?」
跡がつき、色の変わった手首を撫でながらそう呟いたヨレンタを、シュミットが抱きしめた。
「……すまない……俺のせいで……」
絞り出された声は小さく、震えていた。
息が苦しくなるほどの力で抱きしめられ、しかし、ヨレンタはなすがままに受け入れた。
どれくらいの時が流れたか。
心臓の音。
伝わる温もりに安堵する。
離れ難く思うも、体を離すと、ヨレンタは鉄の匂いのする口元を緩ませた。
「人肌の温もりって、悪くないね」
「……!」