その日から、シュミットはヨレンタのそばを離れず着いて回るようになった。
周りからはまるで飼い犬だと散々揶揄われたが、甘んじて受け入れた。自分が引き起こしてしまったヨレンタへの仕打ちに比べれば痒いものだ。
当のヨレンタは気にすることもなく、シュミットのしたいようにさせている。
グラジナの店で同じ席に着く二人を見たそばかすの女給が、話を聞きたくてうずうずしている。
グラジナが手で追い払う仕草を見せると、口を尖らせて他の客のオーダーを取りに行った。
ヨレンタは今日も相変わらず蜂蜜酒を舐めている。
その横顔を見つめながら、以前グラジナから聞いた話を思い出していた。
ヨレンタはこの町の人間ではないらしい。ある日ふらりとやって来て、居着いていたらしい。
いつもあの調子で、いつのまにか懐に入り込み、誰に言われるでもなく、町のために働いているという。
女給が運んできた料理を、ヨレンタが微笑んで受け取る。
口元から欠けた歯が覗いた。
ヨレンタは歯のことを気にする素振りは見せなかったが、彼女の口元を見るたびにシュミットの自責の念が疼いた。
「……なんで、この町にこだわるんだ?」
ヨレンタの横顔に話しかける。
「この町に、私の目的があるから」
そう答えて、麻の実をすりつぶして作る温かいスープを口に運んだ。
シュミットも同じものを食べながら、疑問を口にする。
「人魚姫のことと、関係してるのか?」
ヨレンタはスープを静かにかき混ぜた。
熱いものは傷に響くのかもしれない。
シュミットが続けた。
「町のならず者が、最近この薬を使って幅を効かせるようになった。奴らの目的は何だ?」
ポピウを起点に、繁華街でも人魚姫と呼ばれる合成麻薬が出回り始めた。
カラフルなタブレット型の菓子のような見た目は、若者の警戒心をすり抜けた。
その情報をシュミットは何度も耳にした。
「年若い子たちから声を奪い、時間をかけて町の中枢に入り込もうとしている」
ヨレンタはシュミットをまっすぐ見つめて呟いた。
「人魚姫の出所は確かにギャングだけど、作っているのは奴らじゃない。その背後にいる、誰か」
「……一体、何者なんだ」
静かに首を振る。
「……わからない。とても巧妙に隠れていて、尻尾を掴ませない。これは、あの人のやり方だわ」
「あの人?そいつが、お前の目的なのか?」
ヨレンタは肯定も否定もせず、薄く微笑んだ。
「……食べましょう。せっかくのスープが冷めてしまう」
…………………………
ああ、気に食わない。
灰の町から程近い廃ビルの一室で、ほぞを噛む。
レヴァンドロフスキはねぐらにしているその場所で抱えた膝に額を埋める。
何もかもが気に食わないのだ。自分の置かれている現状も、目の前で兄貴風を吹かす同僚の存在も。
「……レヴィ、時間だ。そろそろ用意しろ」
「……」
「返事しろ」
レヴァンドロフスキは顔を上げ、無言で上着に手を伸ばす。
町のギャングに声をかけられて入ったのがつい数ヶ月前。ほぼ同時期に加入した目の前の男――ボルコは、年上だからという理由でレヴァンドロフスキに何かと説教めいた態度をとる。
「レヴィって呼ぶな。俺は、レヴァンドロフスキだ」
勝手に愛称をつけ、呼んでくるボルコを睨みつけ、ドアを乱暴に開ける。
同じ空間にいたくないのに、上役から二人セットのように仕事を言いつけられるから、仕方なく行動を共にしている。
ボルコは気にした様子もなくフンと鼻を鳴らし、レヴァンドロフスキに続いた。
ガタイのいい男だ。
なんでも、昔は漁師をしていたらしい。
せっかく働いても、売り上げを横取りする網元がいて、不満が募った末に殴ってやったらしい。そうしたら、犯してもいない罪をなすりつけられて漁師町を追われたという。行き場を失っていたところを拾われたと言っていた。
かくいう自分だってそうである。
自分には、生まれつき心臓に疾患のある妹がいた。何年も待ってやっと見つかったドナーがいたが、手術の直前で妹の元に来るはずだった心臓を奪われた。
有力者が自分の息子のために、金に物を言わせたらしかった。
絶望の中で妹は命を落とした。何も出来なかった無力感から生活は荒れて行き、非行に走っていた時に声をかけられた。
この町のギャングには、何人もそう言った経歴の者が寄せ集められていた。
権威に翻弄され、人生を狂わされた者たちは、既得権益者への復讐を願ってここにいる。
というのに。
実際に任される仕事といえば、組織を探る輩の尾行や、縄張り内の見張りなど。
今日とて命じられたのは、女子供に薬を売ることだった。
小さなジッパー袋に入れられたラムネ菓子のようなこれは、人魚姫なんて呼ばれているらしい。
気の向かない仕事がさらにレヴァンドロフスキの気を重くする。
隣を歩くボルコは、フーと、長く息を吐いて、おもむろに持っていた薬を全て川に放り投げた。
「なっ……何してる?」
「やめだ。薬の売りなんて、気が進まん」
持っていた薬全てをヘドロのような灰色の川に捨てると、ボルコは満足そうに口の端を上げた。
それを目にしたレヴァンドロフスキは、腹の底から笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
「いいね!同感だ!」
そう言って自分も持っていた薬を全て放り投げる。
何もかも気に食わない。
ただ、目の前の男の行動だけは、少しだけ気に入った。
「薬の数が、売り上げと合わねぇ」
レヴァンドロフスキとボルコを前に、血走った目の上役がドスの効いた低い声で言った。
「俺、学がないんで計算間違いしたのかもしれないっす」
レヴァンドロフスキが右上を眺めてとぼける。
「魚の数なら、間違えないんだが」
ボルコも神妙な顔で答える。
「……」
上役――ヤンは目を半目にしたまま呆れとも怒りともつかぬ表情をした。
真新しい包帯で片腕を吊っている。今なお鮮血が滲んでいた。
「……まあいい。次の仕事は、お前たちでもできる簡単なもんだ」
懐から二枚の写真を取り出した。
若い男と、女。
視線は合っておらず、隠し撮りだと分かる。
「こいつらを見張れ」
こめかみに青筋を立て、男の写真を憎々しげに握り込み、皺を作った。
「……こいつらは?」
「俺たちを嗅ぎ回ってる奴らだ。……女は殺す」
先日、この男を脅しに行って返り討ちにされ、片腕をやられたことは、二人の耳にも入っていた。次は弱い女に標的を絞り、報復するつもりらしい。
「……」
二人の冷めた視線に気づく事なく、ヤンは男の写真を握り潰した。
確かにヤンの言う通り、あのシュミットとかいう男は自分たちの組織のことを調べまわっているらしい。
新聞を読む姿でカモフラージュしながら、視界の隅で黒髪の男を追う。
人通りの多い場所でも、背が高く、姿勢のいいシュミットの姿は目につく。
数日間の尾行で分かったことは、なかなか骨のありそうな男だということだ。
普通、この町の人間はポピウのことに触れたがらない。何か知っていたとしても見ぬふりをするのが当たり前となっている。
皆、関わってポピウに堕ちることを恐れているのだ。
だのに、何度断られようとも聞き込みをやめない。そのうちあまりのしつこさに折れて、情報を漏らし始めるのだ。
「あいつ、元は警官だって話だ」
サングラスをかけたボルコが隣でそう言った。
確かに、警察がする捜査のようなやり方だ。しかし、警察官を辞めてまで、何が奴をそこまで突き動かしているのだろう。
ほんの少し、興味が湧く。
「……あいつは、俺たちと同じ側の人間かもな……」
ボルコの独り言は、レヴァンドロフスキの頭に浮かんだ考えと同じものだった。
シュミットの歩みがふと、止まった。
彼の姿を眺めていたレヴァンドロフスキは慌てて新聞をめくり、視線を外す。
横目で確認したシュミットはひと所を熱心に見つめていた。
視線の先――写真の女が歩いている。
ひとりで、まっすぐ歩みを進める女は、シュミットの視線に気づくことなく繁華街の裏道に消えていく。向かう先には、ポピウがある。
あいつらは危険を承知で、闇の中に自ら足を踏み入れているのか。
女の背中が見えなくなるまで立ち止まっていたシュミットが再び歩き出すと、レヴァンドロフスキは自虐的な笑みを浮かべて自らを皮肉った。
「同じ側にいても、やってることは真逆だな……」
…………………………
その日。
ポピウの空は、相変わらず灰がかって澱んでいた。
グジェシの診療所へと向かうヨレンタとシュミットは、いつも不穏なポピウの空気が、一層不気味さをもって肌に刺さるのを感じていた。
違和感は言葉にできないまま、地下へ続く階段を降りていく。
湿気と水の滴る音は以前のまま、グジェシの診療所への扉を開いた。
「グジェシ爺さん」
背を向けた椅子に、ヨレンタは声をかけた。
しかし、返事はない。
シュミットが猟銃の入った鞄を握りしめながら、椅子の正面に回り込む。
「……おい」
「なんじゃ」
グジェシが何事もなかったように声を上げ、シュミットの肩が跳ね上がった。
「起きているなら返事をしろ!」
「耳が遠くての。やぁ、ミランダちゃん」
「ヨレンタよ。爺さん、例の薬の解析、出来た?」
無い歯を揺らして痙攣する。
もしかして、揶揄われているのか?
シュミットが口を曲げる。
「出来とるよ」
グジェシがヨレンタに書簡を手渡した。
ヨレンタが早速中身を取り出し、書類に目を通す。
「……?」
覗き込むシュミットの目は、見慣れぬ単語の上を滑っていく。
薬品の成分が印字された用紙には、グジェシの手書きらしい注釈が加えられていた。いわく、成分が人の体にどんな作用を及ぼすのか。
「典型的な中枢神経刺激と感覚処理の撹乱だな」
色が過剰に鮮やかに見え、音が遠く、水中のように聞こえる。
そして、与えられる幸福感はさらなる欲求を引き起こす。
「服用を繰り返すと、声帯を動かす神経にダメージを受ける。同時に脳にも影響を及ぼし、言語や運動を司る機能が低下していき、やがて……声が奪われる」
失われた声は、もう戻らない。以前グジェシはそう言っていた。
前に出会った少女は、今なお禁断症状と後遺症に苦しめられているという。
「成分にずいぶんムラがあるのね」
ヨレンタの指摘に、グジェシは頷いた。
「おそらくじゃが」
一度咳払いをしてから、言葉を続けた。
「これは完成品じゃない。神経系に作用する何かを作ろうとして失敗した、残り滓だ」
人魚姫を作ったのはギャングでは無いらしい。
では、一体何者が、何の目的で、何を作ろうとしているのだろう。
「分からないことだらけだ……」
シュミットは呟き、頭を抱えた。
二人が去った後の診療所で、グジェシは小瓶の中の薬を見つめていた。
今日のポピウはやけに静かだ。まるで、息を潜めて何かを待っているかのように。
「まさか、まだこの研究が続いていたとは……」
かつての記憶を呼び起こす。
金髪の青年。
青い瞳と、自信に満ちた表情。
知への絶対的な信奉。
しかし、あの青年はとうの昔に死んだはずだ。
青年の死と共に研究は止められた。そして全ては闇に葬り去られたはず――。
――自分を含めて。
「プロフェッサー•グジェゴジュだな」
診療所の入り口で、無機質な男の声が響いた。
濃紺の制服に身を包んだ男たちが音もなくグジェシを取り囲む。
グジェシはまるで彼らの姿など見えていないように、天井を見上げる。
「前世を取り戻す薬など、不可能だ」
男たちがグジェシに銃を突きつけた。