翌日の空は妙に晴れ渡り、ヨレンタの胸に焦燥感を与えた。
「……嫌な予感がする」
夜明けと共に下宿を飛び出し、ポピウへ向かう。
ヨレンタの下宿の隣部屋に無理やり居座るシュミットも、物音を聞いて慌てて彼女を追いかける。
「どうしたんだ?」
「分からないけど、何かが起きてるような気がする」
いつになく焦った姿のヨレンタに、シュミットは頷き歩みを強めた。
早朝の大通りに人影は少なく、繁華街はまだ眠っていた。
裏路地に入るとヨレンタの違和感はより強まる。
灰が。
ポピウが、消えている。
昨日見たはずの同じ景色は、一変していた。
人々の姿も、暮らしの気配も、跡形もなく消え去っている。
喉の奥でざらつくあの匂いも、踏みしめるたびに舞い上がる煤も、空気に混じったあの苦味も。
もう、どこにも無かった。
ただただ、伽藍堂になった廃ビルが立ち並ぶだけ。
「……爺さん」
ヨレンタが呟いて、グジェシの元へ急ぐ。
シュミットが地下への階段を滑るように降り、診療所の扉を蹴り開ける。
そこは、冷たいコンクリート壁の、広い部屋になっていた。
グジェシがいた痕跡など何一つ残っていない。
ヨレンタの瞳が揺れ動いて、やがて伏せられた。
「どういうことだ?何故――ポピウは、あの爺さんは、消えたんだ」
どう考えても、ギャングのやり方では無い。
町の一角が最初から無かったかのように消えてしまう。
そんなことが、本当に現実に起きているのか。
シュミットは部屋を見渡す。
まるで幻を見ていたかのような錯覚に陥り、首を振る。
壁に残された微かな張り紙の跡から、グジェシは確かにそこにいたのだと自分に言い聞かせた。
「ヨレンタが以前言っていた、「あの人」に関係してるのか?」
「……」
沈黙するヨレンタに、シュミットは続けて言葉を被せた。
「一人で抱え込んで、巻き込まないつもりなら無駄だ。俺はどこまでも踏み込んでいく。……ヨレンタについていく」
シュミットの決意の表明に、ヨレンタは少し驚き、そして口元を緩めた。
彼女の表情はいつもの様子に戻っていた。
「シュミットは、若いね」
シュミットはまっすぐにヨレンタを見つめ返し、笑みを浮かべた。
レヴァンドロフスキは、ひとりごちる。
全くの想定外。
尾行していたはずの男が自らやって来て、目の前にいることも。
威嚇のために持っていたナイフを易々と取り上げられて、一瞬で女にのされてしまったボルコのことも。
「……強かったんだな」
「まあ、一人でいると色々とね」
以前だって、果物売りの子どもを人質に取られなければ捕まりなどしなかった。
緊張感の欠ける会話を繰り広げている二人は、目の前で縮み上がる男に視線を移す。
レヴァンドロフスキは背筋が冷えていくのを感じた。
「お前、俺を尾行していただろう」
男が威圧的に睨みつけてくる。
バレていたのか。
「人魚姫を握っている、大元のところに連れて行ってくれる?」
女の言葉遣いは優しげだが、目が笑っていない。
「……」
二人は、レヴァンドロフスキの返事を静かに待っている。
判断しかねて目を泳がせると、ボルコと目があった。
ボルコは関節を決められて身動きできない状態で、首だけを縦に動かした。
……そもそも、ギャングなんて性に合わなかったのだ。
薬を売るのが嫌で、川に捨てた。
女を拉致する時も腹の調子が悪いと言って二人してボイコットした。
上役のヤンはそろそろ自分たちを見限るか始末しに来るだろう。
ここいらが潮時だ。
「……降参する。お前たちの言うことを聞くから、俺たちを連れてってくれ」
ギャングたちが使っているミニバンを一台拝借する。運転席にはボルコが乗り込んだ。
あらましを聞いたレヴァンドロフスキとボルコは事の重大さに唸った。
彼らの話では、ポピウを一夜にして消失させた件も、人魚姫を作っている件も、ギャングの仕業ではないらしかった。
しかし、今となっては人魚姫を繋ぐ唯一の手がかりはギャングの大元である。手がかりを掴むために、シュミットはレヴァンドロフスキたちにコンタクトを取ったのだ。
「ギャングのボスは、どんな奴なんだ?」
「……知らないのか?」
シュミットの問いに、ボルコは少し驚いたように問いを返した。
「ギャングの元締めは、警察の上層部だって話だ」
ボルコの言葉に、一瞬言葉を失う。しかし、すぐに腑に落ちた。
ポピウが突然消えたり、人魚姫が出回っても、決して表沙汰にならなかったわけだ。
警官だった頃、いかに狭い世界で生きていたかを思い知らされる。
なるほど、警察の上層部が情報を操作していたために人魚姫の危険性が周知される事なく広まっていったのか。
「あんたらは、なんで危険な思いしてまで足を突っ込んでるんだ?」
今度は助手席のレヴァンドロフスキがシュミットたちに問いかけた。
「……私の目的は、そこにいるかもしれない。
あれの暴走を止めるために、私は人生を賭けてる」
呟くように言ったヨレンタの言葉に、レヴァンドロフスキは鏡越しに冷かし調子で言った。
「お前の女、おっかねえのな」
「……俺たちはそんなじゃない。……俺たちは、同志だ」
「……同志、ね」
シュミットの言葉を、ヨレンタは口に出して噛み締める。名を与えられた感触が胸の中に染み込んだ。
車窓から見える風景は流れていく。
「……人魚姫の出所に用があるのなら、心当たりがある」
ボルコがポツリと言った。
「向かってくれ」
その言葉を合図に、ボルコがハンドルを切る。
向かう先は、町を出て森を抜けた先にある、古い製薬会社の施設だと言う。
ボルコは、以前ここに薬をとりに来たことがあると言った。
割れたアスファルトの隙間から草がはみ出る荒れた道路を進み、たどり着いた建物の前でミニバンを停める。
褪せた色のコンクリート壁はひび割れ、建てられてから相当な月日が経っていることを思わせた。
機械警備などはなく、受付にはやる気のない守衛が一人。
ボルコが軽く手を挙げ通りすぎても、守衛室の小さなテレビから目を離すことなく四人を受け入れた。
あまりにすんなりと中に入れたので、レヴァンドロフスキは拍子抜けした。
表向きは新薬開発のための研究施設だが、隔離された一角では人魚姫と呼ばれる合成麻薬の製造を行っているらしい。
まだギャングの一味だと思われているボルコたちは、薬をとりに来たと言う名目で受付をパスし、中に入り込むことができた。
薄暗い廊下が続いている。
人の気配はまるでなく、機械の音だけがまるで呼吸のように規則正しく響いている。
薬品の匂いに混ざって、ほんのりと甘い匂いが漂っていた。
廊下の途中、半開きの扉があった。
わずかに中の様子が視界に入り、一瞬、シュミットが立ち止まりかける。
部屋の扉には番号だけが書かれ、管に繋がれた人の足が、ぴくりと動いた気がした。
「……行くぞ」
ボルコの声で、扉は視界から消えた。
廊下の突き当たり。匂いが最も濃い扉の前でボルコが立ち止まる。
「……ここだ。ここで、例の薬を作ってる」
ひと呼吸置いてから、ドアノブをひねる。
中は機械や道具でひしめき合っていた。
薄暗い部屋の中、ゆらり、と何かが揺れた。
「ひぇっ」
レヴァンドロフスキの小さい悲鳴に、全員が身構えた。
「……爺さん?」
そこにいたのは、ポピウと共に姿を消していたグジェシだった。
薄暗い照明の中、老人の表情はよく見えない。しかし、骸骨が白衣を着て佇む姿は見間違えようはずもなく、あの診療所にいたグジェシだった。
「ここに、たどり着いたんじゃな。ヨレンタちゃん」
「……爺さん、どう言うこと?」
グジェシがぬらりと薄い照明の下に姿を現す。
青白い顔は、まるで本当に幽鬼のようだ。
「……かつて、わしはここである研究をしておった」
腰を曲げ、両手を後ろ手に回して語り始めるグジェシの姿は、スポットライトを浴びた役者のように見えた。
「かつてここで、ある男が研究していたのは、前世の記憶を取り戻すための薬だった」
「!!」
ヨレンタが息をのむ。
探していた人物にやっと辿り着くかもしれない。そんな期待から、拳を強く握りしめた。
「……しかし、その人物はとうの昔に死んだ。二十数年前になるかの。今なお、亡霊のようにこの施設では研究が細々と続けられ、副産物として生まれたのが、人魚姫じゃ」
「爺さん、その人物って……」
「さあ、もう時間がない」
言いかけたヨレンタの言葉を遮って、グジェシが急かす。
「奴らに無理やり連れてこられたがな、わしとてタダで使われる気はない。
人魚姫のデータごと、全部まとめて吹き飛ばしてやるわい」
引き攣ったように笑い、それからヨレンタたちを見渡した。
「起爆装置はもう起動している。早く逃げろ!」
「……爺さんも一緒に!」
シュミットが手を伸ばしたが、拒否される。
「わしの頭に、データが残っとる」
そう言ってグジェシは自分の周りに薬品を撒き、火をつけた。
途端に、アルコールの濃い匂いが充満する。
炎が部屋を赤く染め、熱は肌を焼く。
「……あの男はまた、不死鳥のように現れるじゃろう」
炎に巻かれるグジェシが残した言葉の意味を聞くことなく、四人は部屋を出るしかなかった。
走って研究所を飛び出す。次の瞬間、研究所の奥から爆発音が響き始めた。
研究所から逃げ出した四人は、ひとまずグラジナの店に身を寄せた。
「ヨレンタ。あんた、また飼い犬を増やしてどうする気?」
煤で汚れた四人を出迎えたグラジナは、呆れ顔でヨレンタの背後に立つ男たちを一瞥した。
「……薄汚れた店だな」
「今のアンタに言われたくないよ」
レヴァンドロフスキの独り言を耳ざとく聞きつけ、ピシャリと言い放つ。
「今からあったことを話すから、食事を用意してくれる?……少し疲れた」
ヨレンタが椅子に体を預けてふう、と長く息を吐くと、女給がウキウキしながらテーブルに水と牛肉が煮込まれたビゴスを運んで来るのが見えた。
シュミットたちもヨレンタと同じテーブルについて、ようやく人心地つく。
焼きたてのパンの匂いが辺りを包む。
事のあらましを聞き終わったグラジナが最初に口に出したのは、グジェシの事だった。
「あの死に損ない、きちんと落とし前をつけたんだね」
ずっとポピウに潜み、亡霊のように生きながらえてきたあの男は、最期に不可思議なことを言っていた。
「で、ヨレンタ。アンタは、後始末をどうする気だい?」
しんみりとした空気を破り、グラジナはヨレンタに詰め寄った。
「それがね……グラジナの力が必要みたい」
「アタシを巻き込むんじゃないよ」
ヨレンタは困ったような顔で微笑んだ。
「そう。これから行き場を失ったギャングたちが繁華街に溢れる。もしかしたらここも治安が悪くなるかもね……」
「……」
レヴァンドロフスキやボルコが深刻な顔で互いの顔を見て、言った。
「あそこには血の気の多い奴が多い。なあ、レヴィ」
「ああ。俺、ギャング同士の喧嘩で片足を失くした奴知ってる」
「……」
シュミットは猟銃の入った鞄を握りしめた。
「いつも最初に犠牲になるのは弱い者だ……」
温かいビゴスでほぐれていた空気が一気に冷え込んだ。
「……」
「姐さん……」
そばかすの女給が、グラジナの顔を窺い見ていた。
耐えきれなくなって盛大に息を吐く。タバコの臭いを含んだ呼気が周囲に漂った。
「……はあ。……分かったよ」
「ありがとうグラジナ。迷惑はかけないから」
ヨレンタがニコリと笑う。場の空気が和んでいく。
「交渉を成功させたい時は、相手が決めたように見せかけるといい」
ヨレンタが小さな声で、シュミットに耳打ちした。
…………………………
部下からの報告を受けたヤンは、こめかみに青筋を立ててタバコを握りつぶす。
ヤンは何度目かの発信ボタンを叩いた。
呼び出し音は途中で途切れ、無機質な沈黙だけが残る。
何度押しても、その番号は二度とかからなかった。
力任せに机を蹴り、机上にあったものを散乱させた。
ヤンの右手は包帯で完全に固定されており、後遺症によってもう動かすことはできない。
切り裂かれてズタズタになった写真を踏み潰す。
「全部、奪いやがった!……許さねえ」