冬の入り口らしい寒さが少しずつ身に堪える。
灰色の十一月と呼ばれるように、空がどんよりして薄暗く雨も多い。ここしばらくはずっと雨模様だ。
オクジーが探偵事務所に雇われてから、二ヶ月が過ぎようとしていた。
探偵事務所の仕事もひと通り覚え、ひとりでできる依頼や業務も増えてきた。もっとも、うちの探偵事務所はどうやら街の便利屋さんとして通っている様子で、猫探し、納屋の整理、修繕など、ちょっとした困りごとを解決する平穏な毎日を送っている。
センセーショナルな事件を求めているわけではないが、創作のネタ探しには物足りない毎日である。
今日とてレインコートを着込んだオクジーが向かったのは、雨漏りで困っていた一人暮らしの老婦人のところだった。
幸い簡単な修繕で済んだ。実家にいた頃は古い家や家畜小屋がしょっちゅう雨漏りしていたので、こういった作業はお手のものだ。
今回も材料費だけ頂いて、謝礼は辞退する。また困ったことがあったらうちに仕事を頼んでくれと言付けを伝える。
こんな調子で仕事の依頼を受けるものだから、ちょっと困ったトラブルがあるとすぐうちに相談が来る。確かに、これでは人手が足りない。
しかしながら、謝礼を貰わないで探偵事務所の経理が回るのか、全くもって謎である。それでいて、働いた分の給金はしっかり支払ってくれた。以前所長に聞いたところ、自分が受けた仕事の報酬があるから心配しなくていいと言う。何の仕事でいくら報酬があったのかは秘密だそうだ。
老婦人は冷たい雨の中修理してくれたオクジーに大変感謝し、焼きたてのシャルロトカを包んで持たせてくれた。修理中に焼いてくれたのか、まだ温かい。タオルで包んでバックパックの中に入れると、背中がじんわり暖かかった。
鼻歌まじりに、工具をガチャガチャ鳴らしながら事務所への道を急ぐ。
事務所が入るテナントに着くと、ひさしの下でレインコートを脱ぎ、雨雫を払い落とす。
「おっ今日はドゥラカさんの飯の日だ。」
彼女の作る料理にすっかり胃を掴まれてしまったオクジーは、事務所のあたりから漂ってくる香りに気がつく。
料理は毎日用意されているわけではない。彼女のバイトの都合と、当たり前にあると有り難みが薄れるからという理由からだそうだ。
一食あたり十ズウォティという値段設定も、高くはないが安くもない。絶妙な価格帯を狙っている。それでも、手作りのものを食べられる機会は自炊をあまりしない自分にとって貴重なので、毎回ありがたくいただいている。バデーニの言う通り、まんまと彼女の策にハマっているのである。
「戻りました。」
事務所の扉を開けて、パソコンの画面を睨みつけている青年に声をかける。
事務所にはバデーニだけのようだ。所長は仕事や所用で出掛けていることが多いし、ドゥラカもバイトが忙しい。必然的に、バデーニがひとりで留守を預かることがほとんどだ。
工具を片付け、濡れたレインコートをコートかけに引っ掛けると、そそくさと奥のキッチンへ向かう。今日はキャベツとじゃがいものスープだ。パンも添えてある。
その様子を見て、以前バデーニからは「熊が餌の匂いに釣られてやってきたぞ。」と揶揄われたこともあった。
しかし、今日は思うように研究が進んでいないのか、皮肉が飛んでくることはなかった。こういう時はあまり話しかけないほうがいい。
鍋を温めるために、コンロに火をつけた。十ズウォティ紙幣を穴が開けられたお菓子の缶に放り込む。
ドゥラカが用意したサービスを受ける際は、この缶にお金を入れる。通称ドゥラ缶。
この前偶然、中身の溜まったドゥラ缶を振ってニヤニヤしている彼女の姿を見てしまった。
「バデーニさんも食べますか?」
返事は返ってこない。オクジーは食事をトレイに乗せ、キッチン用のカウンターチェアに腰掛けてさっそくパンを頬張る。スプーンで大盛りにすくったスープを冷まして口に入れる。ハフハフさせながら咀嚼、嚥下する。うまい。冷えた体にスープが染み渡る。
オクジーが食事を終えても、バデーニは変わらず青白い顔でパソコンに睨みをきかせていた。キーボードを打つ手がいつもより荒い。
あとで、もらったシャルロトカを切り分けてお茶に誘おう。そう決めて、バックパックからノートとペンを取り出す。
バデーニの邪魔にならないよう、キッチンのカウンターで作業する。卒論のことを考えると気が重いが、そうも言っていられない。時間は待ってくれないのだから。自分の考えをまとめるために、ノートに文字を綴っていく。
隣の部屋でバデーニがキーボード音を響かせている。最初耳障りだと思っていたこの音も、慣れてしまえば心地よい生活音となっていた。ペンを走らせ始めると、すぐに没頭していった。
どれくらい集中していたのだろう。ふと思考が途切れ、そばに人の気配を感じて顔をあげる。
「!!」
思わず椅子から転げ落ちそうになるのを、必死にこらえた。バデーニがコーヒーを啜りながらオクジーのノートを覗き込んでいるではないか。
「な、何してるんですか!」
驚いた拍子にぶつかりそうになったコーヒーをヒョイと避けて、バデーニが不思議そうな顔をする。
「君、作家になりたいのか。」
「まぁ…。でもこれは、回想録というか、日記というか。記録用に書いてるだけで、人に見せるつもりはなかったもので。」
「人に読ませるためでないなら、なぜいちいち文字にする。頭の中で思考すればいい。」
人の日記を盗み見ておいて、悪びれる様子もない。自らの知的好奇心に従って行動したのだろう。彼はそういう人物だ。
だけれど、オクジーにとってこのノートは自分の弱さや悩みをさらけ出している場所だった。勝手に覗かれたことは、屈辱に近い。
『現実を見ろ。自分が特別だなんて、思い上がりだ。』
兄の声がフラッシュバックする。薄暗い部屋の中、冷えていく食事。家族からの視線。
記憶を振り払うかのように、声を荒げる。
「誰も彼も、バデーニさんのように頭の中で整理できるわけじゃないんです!俺は、どうせ凡俗ですから!」
いつになく強い語調で言い捨てると、バデーニがムッと表情をこわばらせた。気まずさから、ニ人の間に冷たい空気が流れる。
「オクジー君、客だ。」
バデーニが突然声を発した。
「えっはい!」
思わず返事をして、ノートをバックパックに放り込む。
バデーニは、事務所の外に客が来ていることを言っている。自分は人の気配など微塵も感じないから、彼の耳の良さには毎回驚かされる。そういえば、はじめて探偵事務所を訪れた時にも、ドアを開ける前に声をかけられて驚いた。
「どうぞ。」
バデーニがノックもないのに扉に向かって声をかけた。外にいるであろう人物の戸惑いが自分事のようによく分かる。
恐る恐る開かれた扉から顔を出した意外な人物に、オクジーが声をかけた。
「あれ?オヤジさん?」
オクジーがよく足を運ぶベーカリーの店主だった。