街を横断する大通り。その一角にベーカリーはある。
先代は終戦の混乱続く中、貧しい人々にもパンを焼いて多くの人を飢えから救ったという。
その信念は二代目の現店主に引き継がれ、今は世話好きなおじさんとして街でも有名である。
オクジーも世話になった一人で、彼の口利きでここいらでは破格の家賃で今のアパートを紹介してもらった。
「よう、オクジー。ここでアルバイトしてるんだってな。実は、おりいって相談があってだな…。」
「どうされたんです?相談なんて…。」
いつになく緊張した様子で、それでも知り合いがいることに少し安堵した面持ちで、オクジーに声をかける。
「立ち話もなんですし、座って話しましょうか。」
客用のソファを勧めると、ベーカリー帽子を外して座る。寂しくなった頭皮をかきながら、どう話したものかと呟きながら、一度咳払いをする。
いつもの格好だ。年季の入ったコックコートに腰までのエプロン。ほのかに優しいパンの匂いがした。
「相談したいのは、アルベルトのことなんだ。」
アルベルトは、ベーカリーで働く店員の青年だ。オクジーとも顔見知りで、歳も近く、よく話をする。
数ヶ月前、探偵事務所のアルバイトに応募をした時に話しかけてきたのも彼だった。
「彼がどうしたんです?」
店主の経営するベーカリーは、小さな店だ。現在は店主と店主の妻、そしてアルベルトの三人で切り盛りしている。
夫婦とアルベルトに血の繋がりはない。しかし、彼らのもとで預かることになって以来十数年、今では我が子のように想い育ててきたという。
店主はパン作り一筋で生きて来たが、アルベルトはとても頭が良かった。彼は小麦や卵の相場を調査して価格が安い時にまとめて仕入れたり、気候や客層などを細かく調査し、売れやすい商品を多めに焼くようアドバイスしたりと、店の売り上げに大いに貢献した。
今では、ちょっとした人気店である。おかげで経済的に余裕が出てきた。
夫婦は、彼に何か恩返しがしたいと考えた。
「アルベルトを大学に行かせてやりたくてな。」
考えついたのが、教育だった。義務教育しか受けさせてやれなかったが、大学ならば彼の可能性をもっと広げることができるはずだ。
「いいですね。アルベルトも喜んだのでは?」
「それがなぁ……。」
「お断りさせていただきます。」
「はっ?」
即答だったそうだ。
「ええっせっかくの機会なのに。どうして…」
店主によると、大学への入学を断った理由は、彼の出自に深く関係しているらしい。
……今から遡ること、十数年前。
アルベルトの父は学ぶことを重んじる人物であった。考古学を研究していた父は発掘調査のため、各地を渡り歩いていたそうだ。
アルベルトは幼いうちに母を病気で亡くしていたので、幼い頃から父に着いて引っ越しを繰り返していた。調査が終わるたび住居を変えなければならず、その度に学校の転入を繰り返していたため、ひと所に落ち着けず、仲の良い友人を作れなかった。そんな息子を見て、父は家庭教師を雇うことにした。
発掘調査に同行する弟子のひとりで、飛び級で進学してきた秀才の青年だ。彼なら年も近い。何より、青年の知識を探求する姿勢を高く評価していた。
元から学ぶことが好きだったアルベルトは、青年を「先生」と呼び、彼のもとで多くの知識を身につけていった。
青年もまた、熱心に学ぶアルベルトのことを弟ができたみたいだと可愛がってくれていた。お互い良き兄と弟、良き友人ができたと喜んでいた矢先。事件は起こる。
家庭教師の青年が、アルベルトの父を殺害した。
「は…?」
話の急な展開に、頭がついていかない。
「理由はよく分からないんだ。ただ、アルベルトが父親の殺害現場にいたらしくてな…。」
それは子供にとって大きなトラウマになるだろう。オクジーは、ベーカリーで会う気さくな友人の顔を思い浮かべた。
「アルベルトが大学に行かない理由が、そのことに関係しているんですか?」
「家庭教師が父親を殺害した時、話をしたらしい。」
床に伏し、微動だにしない父。ただ、体から流れ出る血だけがじわじわと広がり続けていた。
兄のように慕っている青年が、父の亡骸をそばで見つめていた。小刀が握られたその手は、境目がわからないほど赤く染まっていた。
これは夢か現実か。目の前で起こる惨状に、脳の処理が追いつかない。
「先生…な、何して……。」
青年が口を開いた。
「おっと、これは面倒なことになったな。」
青年はいつもと同じ声音で言った。まるで些細な悪戯がバレてしまった時のような態度であった。
「こうなってしまったのは、僕の本意ではないのだけど…。
君のお父さんは資料の共有を拒んだ。粘り強く説得したんだが、頑なに首を縦には振らなかった。」
父の遺体をまたいで、青年がアルベルトに近づく。アルベルトの体は、動かし方を忘れてしまったかのようにその場に縫いつけられていた。
「僕の人生全てを賭けてでも手に入れたい資料だった。だが、君のお父さんは、これは世に出してはいけないものだと。しまいには資料を破棄すると言い出した。歴史的価値の高い遺物を、自分の手に余るからと喪失させる…それは許されないことだ。」
彼を止めるためにやむなく刺した、と青年は言った。表情は苦悩の様子を見せたが、どこか演技めいていて、感情が伝わってこない。彼の言葉が耳に届くたび、喉の奥がざらりと逆撫でされる。
「神がこの世界を作り、人はそれを知りたいと望む。そのように作った。その欲求を抑え込み、ましてや秘匿することは、罪だ。」
先生に褒めてほしくて、たくさん勉強した。知を得ることのかけがえのなさを語る、優しく笑った横顔。全てが音を立てて崩れ落ちていく。
目の前の殺人鬼はあろうことか、アルベルトに手を差し伸べ、微笑んだ。
「君ならわかるだろう?」
店主は片手で額に浮いた脂汗を拭いた。
「青年はその後行方が分からなくなり、資料もまた、姿を消した。
学ぶことを受け入れることは、父親を殺した家庭教師の男の思想を受け入れることだと…そう考えるようになってしまったらしい。」
想像を絶する過去だ。オクジーは手で口元を覆い、絶句していた。
話し終えた店主は、ふーっと長く息を吐き出して、オクジーを仰ぎ見る。
「アルベルトは、ずっと過去に囚われていていい子じゃない。なあ、オクジー、あいつの考えが変わるよう、なんとかしてやってくれねえか。」
そう言われても。
オクジーは口元を覆ったまま、考え込む。
そんな体験をしてしまったら、俺たちが何かしたところで考えは変わらないんじゃないか?
すがるような店主の目を見て、自分の無力感を伝えることなど到底できない気がした。
沈黙を破ったのは、バデーニだった。
「きっかけを作った家庭教師からなんらかの働きかけがあれば、考えが変わるのではないか?」
「でもバデーニさん、家庭教師の男は行方不明で…。」
「分かっている。別に本人が伝えなくていい。
店主、ここに作家志望の男がいる。彼に家庭教師からの手紙を書いて貰えばいい。」
「……はぁ!?」
何を言い出すんだ、この男は。