プロになれない天才たちへ   作:囲碁の未来

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第1局 名前のない棋士

日本棋院の公式サイトに載った1行を、私は何度も読み返していた。

 

《2028年度以降、プロ棋士採用枠を6名から4名に縮小する》

 

白地に黒い文字。

それだけの、よくある告知だ。

 

だが、その裏に押し込められているものが何かを、私は知っている。

2人分の時間で、2人分の努力で、2つの人生の行き先だ。

しかも、それは次の誰かへと続いていく。

 

囲碁の世界では、制度の変化はいつも静かにやって来る。

ある日突然すべてが壊れるわけではない。

少しずつ、しかし確実に、門は狭くなっていく。

 

私は、脚付きの碁盤のそばにある畳の上へ、スマートフォンをそっと置いた。

 

碁盤の木目と、黒い長方形の無機質な表面、碁笥の蓋を開ける。

白石と黒石が、何事もなかったかのように並んでいる。

光を返す白と、吸い込むような黒。

どれほど時代が変わっても、この対比だけは変わらない。

 

私は白石を1つつまみ上げ、指の腹で転がした。

 

私は9歳でプロになった。

そこから先の人生は、ほとんどすべてが盤の前だった。

学校より対局室にいる時間のほうが長く、

同年代の会話よりも、棋譜のほうがずっと自然だった。

 

だからこそ、

「席が足りない」という言葉の重さが分かる。

 

私のところに通っていた院生の中に、ひときわ感覚のいい子がいた。

石を置くたびに、盤の空気がわずかに変わる。

あの子は、確かに前へ進んでいた。

だが、進める距離には限りがあった。

 

枠は決まっている。

誰かが入るということは、誰かが弾かれるということだ。

 

私は白石を碁笥に戻し、静かに蓋を閉じた。

 

――その瞬間、視界が歪んだ。

 

畳の目が引き伸ばされる。

脚付き碁盤が遠ざかり、

黒と白の境界が崩れていく。

 

次に意識が戻ったとき、私は駅前の横断歩道に立っていた。

 

信号の電子音。

人々の足音。

エンジンの唸り。

 

どれも現実のはずなのに、どこか遠い。

 

視線を上げると、街頭モニターがあった。

 

碁盤。

対局室。

盤の前に座る男。

 

《天元戦 塔矢行洋》

 

息が止まった。

 

その名前を、私は知っている。

漫画の中でしか見たことのない棋士が、今、現実の盤の前にいる。

 

――ここは、ヒカルの碁の世界だ。

 

私はポケットを探った。

 

スマートフォン。

財布。

免許証。

 

すべて、現実の私のままだ。

 

免許証に記された名前は、

石神 一(いしがみ はじめ) 32歳。

顔も、名前も、年齢も、現実と同じだった。

 

家の鍵があった。

なぜか、その場所も分かる。

 

私は住宅街を歩き、

記憶にないのに確信のある家の前で立ち止まった。

 

鍵を回す。

 

中に入ると、静かな居間が広がっていた。

 

棚の上には、分厚いブラウン管のテレビ。

電源が入っており、天元戦の盤面が、わずかに走査線を揺らしながら映っている。

この時代の映像の重さが、空気ごと違う。

 

私は畳に座り、

その前にスマートフォンを置いた。

 

現代の薄い画面と、

この世界の重たい映像が、同じ視界に並ぶ。

 

私はそれを手に取った。

画面を操作し、日本棋院の公式サイトを開く。

 

棋士一覧。

検索窓に、自分の名前を打ち込む。

 

石神 一。

 

……出てこない。

 

何度打ち直しても、結果は同じだった。

 

私はそのまま、制度の項目を開いた。

 

院生志願は、14歳を迎える年度まで。

棋士として採用されるのは、採用時に30歳未満。

 

私は32歳だ。

 

この世界の制度では、

私はもうプロ試験を受けることができない年齢だった。

 

この世界には、ヒカルがいる。

アキラがいる。

佐為がいる。

 

彼らの時代は、これから始まる。

 

だが、私はもう、

その席に座ることすら許されていない。

 

それでも――盤は、ここにある。

 

私はゆっくりと立ち上がった。

 

この時代の石の音を、

この時代の碁盤の感触を、

自分の身体で確かめるために。

 

碁会所へ行こう。

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