一話
月は隠れ、星は翳り、風は朽ちる。
清かな輝きは消え失せて、ただ闇が広がっている。
今宵は朔。月なき夜、光なき時。
この祝祭を――闇夜に紛れ、ひそりと行われるそれを、銀色の眼は見ていない。
たとえ見ていたとて、月乙女は眼を背けるであろう。あまりの穢らわしさに、
「これも宿命よ」
明るい、酔ったような声。ぼうと浮かぶのは、石榴のごとき、火のごとき赤。禍つ紅。ぬめるような輝きを帯び、一心に彼を見つめている。
返事などできようはずもない。喉が裂かれているから。穢され、もてあそばれ、四肢を地に縫い止められているから。
宿命だと、とぼんやり思う。都合のよい言葉だ。選んだのは目の前にいる男だ。男が選んだのだ、彼を。
瞬く。ぽろり、と涙がこぼれた。悲しいのではない。ただ虚しかった。たぶん、これは彼の咎でもあるのだ。彼は男を止めなかった。どうせ聞きやしないと思っていた。逃げられるはずもなかった。逃げきれるはずもなかった。わかっていたから従った。男と彼はひとつ
「もし、神がいるのならば」
最初に捧げるものは、最も愛しいものでなければならぬ。
男は歌う。嘔う。ほくそ笑みながら祝祭を眺める邪なる神に、告げるように。
「仕方のないことだ」
お前がいなくなるのは辛く、きっと寂しいことだ。
だが、誉れだ。
この犠牲は忘れぬ……。
なあ、と男は笑う。にっこりと、無邪気に。お気に入りの誰かを愛でるように。
「受け取られよ」
この命。
そして裂かれよ。
奏上し、男はそっと彼の前髪を払う。ひどく、優しく。
「さようならだ」
身を屈め、彼の耳元で囁く。甘く腐った吐息が耳朶をくすぐり。
白銀の色が、突き立てられた。
凍えるような冷たさ、いいや灼熱が身を貫く。魂に責め苦を与える。叫ぼうにも叫べず、ただ千切れ、砕けたなにかを放つ。
紅の星を見る。穢らわしいそれを睨む。
ああ。
私を愛しいと言ったお前。私を貶め、穢し、きっと死して後も利用するお前。
非道を成すお前。
許さない、赦さない。
お前は開けてはいけない
どうしてこんなことになったのか。
必ず――いつの日か。
月が満ち、欠け、星が巡ったその先で。
再び――。
「叡智のレイブンクローが泣かせるね」
一九■■年十一月一日。ハロウィン――猫石化事件……いいや『秘密の部屋』が開かれたらしい日の翌日。図書館。
「ハリーはトラブル体質だ。なんだか知らないがとても間が悪いんだ」
絶命日パーティに行っていたらしいよ、と彼は言う。緑の眼を細め、同寮の面々を見やる。なぜかハッフルパフも混ざっているが、細かいことは気にしない。
「でもフェン」
いくらなんでも時機が……とハッフルパフのアーニー・マクミランが言う。彼は肩をすくめた。拍子に、さらりとした黒髪が青みを帯びた。
「赤ん坊の頃にヴォルデモートに――おい、ただの名前だろう」
びくりと身をすくめる一同を、彼はもう一度睨んだ。ぴかりと輝く双眸で子羊たちの心臓を射抜き、彼は話を続けた。構っていられない。
「……あれに狙われただけで、十分に不幸で、いわば星の巡りが悪いだろう」
一応、仕方ないので配慮して「あれ」呼びにした。そして思った。おかしいな、僕もハリーも七月末の生まれなのに。土星は冬だよな、と一人呟く。そんなことよりも、と天文学と占い学にさまよい始めた心を引き戻す。
「ハリーが継承者なんてことはないだろう」
「『例のあの人』がポッターを……いや、ハリーを狙ったのは」
次の闇の帝王だからっていう噂だ、といらない話をしたのはまたもやマクミランであった。彼はアンソニー・ゴールドスタインに視線をやった。どうなのか、と。自慢ではないが彼は魔法界に疎いのである。なにせ十一歳まで隔離されて育ったものだから。狭苦しい階段下の物置育ちである。
「そういう噂はあった」
だけれども、ハリーは闇の帝王らしからない、とゴールドスタインは言う。彼は頷く。
「証拠もないのに犯人呼ばわりはどうかな」
猪突猛進グリフィンドールじゃあるまいし、と席を立つ。勉強しようと思っていたのに「事情聴取」で台無しである。
寮に戻ったほうがいい、と踵を返す。継承者騒ぎなんて馬鹿らしい。フィルチの猫が石化しただけだ。
妙な声は聞いたけれど、と彼は額を揉む。殺してやるだの引き裂いてやるだの腹が減っただの、あちこちで聞こえた。正確には魔法薬学の授業に向かう途中が多かったか。つまり地下……。
鈍く頭が痛む。レイブンクローはがり勉の頭でっかちと言われがちだが、まだそんなに勉強はしていないのだけど。なにせ二年生が始まって二ヶ月しか経っていない。学期末試験は遙か遠いのだ。
たぶん、頭痛は寝不足のせいで、なぜ寝不足かというと夢のせいで。ろくでもない、嫌な夢だったことしか覚えていない。
もしかして、両親が殺された時の夢を見たのだろうか、と首を捻る。双子の弟――二卵性ゆえに似ていない――と違って、緑の光やら空飛ぶバイクやらの夢は見たことがないはずなのだけど。
なにせ彼はヴォルデモートに杖を向けられていないらしい。緑の光とやらは死の呪文だろう。
フェンネル・ポッター。ハリー・ポッターの双子の兄は。
額に稲妻持たぬ、印されなかった者である。
「ホグワーツには怪物がいる」
そう言われている。グリフィンドール対スリザリン戦の数日前。図書館にて、フェンは客を迎えていた。正確には邪魔をされていた。一人で勉強するつもりが、栗色の髪の女の子と机を並べるはめになっていた。
魔法薬学の課題を書きながら、弟の友人ハーマイオニー・グレンジャーのほうを見ずに言う。
「怪物?」
「イエス」
問いに頷けば、一巻か三巻か……どれに書いていたかしら、とハーマイオニーが唸った。
「後半じゃなかったか?」
羽根ペンを走らせる。我ながらよく覚えているな、と思いながら。フェンネルは読書家である。濫読といってもいい。浴びるように本を読む。『ホグワーツの歴史』もどこかで読んだのだろう。あいにく、鞄の中には入っていないけれど。あのシリーズを新品で買うと高くつく。いくらポッター家が資産家でも、双子の兄弟それぞれに金庫の鍵を渡されていても、無駄遣いはできない。
『ホグワーツの歴史』以外なら、鞄にあれこれと本を詰めている。ダンブルドアにもらった詫びの品というやつである。背負っても肩にかけてもいい革の鞄。たぶんいい品。
先学期、弟が「公然の秘密」の賢者の石事件に巻き込まれた際、ダンブルドアに抗議した、その戦利品だ。
僕の目の届かないところで弟が勝手をするのは仕方がないけれど、校長先生、危険物を持ち込んで一年生を巻き込むなんて最低……とかなんとか。まあ吼えた。弟が青白い顔で眠り続けているのだから、怒りもする。ダンブルドアは一生徒に素直に謝った、というわけだ。
そんな経緯で手に入れた鞄には拡張呪文だか拡大呪文だかがかかっていて、軽量化されている。小さな図書館とまではいかずとも、書店の一角くらいにはなるだろう。
『ホグワーツの歴史』争奪戦に敗れた彼女のために、フェンネルは囁く。
「断琴の交わり結んだグリフィンドールとスリザリン。されど永遠はなく……」
太陽すらも沈みゆくもの。
二人の傑物、道を違える。
かつての
スリザリン、敗れたり。
血の涙を流し
我が果たせずとも、我の子孫が成すであろう。
穢れを祓うであろう。
日月星辰が昇り、沈み、瞬き、眠ったその果てに。
必ずや。
「……というわけで、とても悔しかったのだろうサラザール・スリザリンは」
『秘密の部屋』をどこかにつくりました。そこに怪物を隠したのです。
彼が学ぶに値しないと考えた者たちを、穢れた血を放逐するために。
あくまでも伝説だけどもね、とフェンネルは締めくくった。はいともいいえとも、うんとも聞こえてこない。はて、と隣を見る。ハーマイオニーは眼を見開いていた。びっくりした猫かな君は。羽根ペンからインクが滴って大変なことになっている。そっと手を伸ばし、彼女から羽根ペンを取り上げた。
「あなた、あなた……吟遊詩人みたいだわ」
腐れバンドマン、浮き草人生を送っていそうな感じという意味なのか。それとも純粋に誉めているのか。フェンネルは半秒ほど迷った。びっくりした猫ことハーマイオニーは嫌味な性格ではないと思い出す。慎重に彼女の表情を読みとって「ありがとう?」と首を傾げておいた。
弟のために「しあわせになるきょうだいのはなし」とか「実はお金持ちの子だった」とかの作り話をしたり童話を聞かせたりした副産物だろう。同い年の弟は時たまうなされていたから、寝入るまで聞かせてやったものである。
幸い、ダーズリー家は息子の教育に力を入れていた。絵本もあった。シンデレラやら眠れる森の美女やら人魚姫やらの「魔法」が絡むものは置いていなかった、と思う。ダーズリー家の教育は徹底していた。アーサー王のおはなしは置いてあった、とも思う。あれはなぜか「検閲」をくぐり抜けた。たぶん、一般教養の類だから許されたのだろう。
ダーズリー家もといバーノンとペチュニアの検閲をくぐり抜けた絵本たちを、厄介者のポッター兄弟が読むことなんて許されていなかったが。許されていないだけで、読むことはできたわけだ。夜中にこっそりと。おもちゃ箱、本箱には鍵もかかっていなかった。絵本はいつまでもぴかぴかで、ぽつんと忘れ去られたようにあった。いとこは「おはなし」を好まなかった。なにせおもしろいおもちゃが二つもいたので。
仮に本箱に鍵がかかっていようが問題なかったろう。厄介者の双子が生き延びてこられたのには理由がある。ロビン・フッドのように忍びやかに、鮮やかに食べ物をくすねてきたのである。鍵なんてないようなものだった。本箱ならなおさらだ。
フェンネルはロビン・フッドのおはなしが大好きであった。悪徳領主に反抗する義賊って最高ではないか。
母親の妹こと叔母、旧姓はエヴァンズというらしいペチュニアは、なにもポッター家の兄弟を積極的に殺すつもりはなかったろう。いくらダドリーのお下がりを着せられようが、古着屋で買ってきたものを着せられようが、フェンネルたちは生かされ続けてきた。愛情なんて欠片ももらっていないけれど、それだけは本当だ。感謝する気にもならないし、さっさとダーズリー家を出て行きたいが。
「僕はハリーのような特技はないから」
ダーズリー家でのあれこれを思い返し、それだけを答えた。歯医者の娘だというお嬢様に、孤児の悲惨な生活を語ったところで仕方がない。同情なんてなんにもならない。恥をさらすものではない。
「いいじゃない、歌があるんだから」
それに学年首位じゃないの。
ハーマイオニーのしっぽが膨らんだ。フェンネルは寮に置いてきたニーズルを思い出した。去年、ハグリッドに誕生日の贈り物としてもらった、金色に青い眼の雄だ。ロビン、と名付けた。アーサーかロビンか迷ったものだ。危ないところであった。まさかロンの父がアーサーという名だなんて思わないではないか。
「僕はレイブンクロー生だから」
成績で負けられないんだよ。
「なんだかおはなしに出てくる予言者みたいだったわよ」
さっきの歌。厳かで……とハーマイオニーが呟く。おっと、成績の話は禁忌らしい。よほど同点首位が気に入らなかったのか。最初に学年首位について触れてきたのは彼女のくせにね。
「『秘密の部屋』を開いたと言っている誰かがいる」
フェンネルは話を戻した。本題から逸れまくっていた。吟遊詩人だの予言者だの孤児だのはいいのだ。『ホグワーツの歴史』争奪戦。敗れたハーマイオニーの話、時の彼方、霧に包まれた伝説の「おはなし」である。
「あいまいな物言いね」
「怪物の正体も不明。確実なのはスリザリン曰く穢れ……」
そういえば、マルフォイ家のお坊ちゃんに暴言を吐かれたのだったなと思い出す。フェンネルは現場を見ていないが、そういうことらしかった。レイブンクローでも噂になっていた。あいつ、今時ないだろう。マルフォイのお坊ちゃん、と。穢れた血。マグル生まれを貶める言葉。フェンネルはその意味を察した……するり、と呑み込んだ。ああ、そういう言葉なのだと。特に驚くこともなく。
「マグル生まれを追い出したいやつがいる」
「ご配慮ありがとう」
「ごめんね、気遣いが下手で」
軽口を叩く。ハーマイオニーがため息を吐いた。
「マグルの学校じゃあがり勉、こっちじゃあ穢れたなんとかよ。びっくりよね」
「レイブンクローに入ればよかったのに」
「あなたこそグリフィンドールに入ればよかったのに」
「いや、スリザリンと二択だった」
えっ、とハーマイオニー。眼を丸くする猫再び。フェンネルは心についたひっかき傷を見ないようにした。ああそうとも、誰にだって差別心はあるものだよ。
「……ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「あんなお坊ちゃんがいる寮だし、サラザール・スリザリンがあれだし。仕方ないよ」
軽く流す。あんなお坊ちゃんことドラコ・マルフォイ。彼曰く「純血」名家の嫡男。「傷物」のポッターことフェンネルの弟のことを気にしている。いや、敵視している。ほとんど彼のせいなのだ。マダム・マルキンで会った時の印象が最悪だった。ホグワーツ特急でもいただけなかった。お近づき、あるいは交流なんて無理だろう。それに気づかず生意気にも握手を拒んだな、孤児ふぜいが、とお怒りなのがマルフォイ坊ちゃんである。
先学期、グリフィンドールが寮杯を獲得したときもうっとうしかった。帰りのホグワーツ特急でフェンネルは絡まれたのだ。お前の弟のせいで、と。ふうん、稲妻形の傷をもつ「生き残った男の子」が怖いから、僕に絡んでいるんだ、
「マルフォイはいいんだよ。どうせあいつはお祭り騒ぎを楽しむだけだろう」
「そうかしら……?」
疑われた。もしかして、ハーマイオニーはマルフォイが継承者だと考えているのか。賢者の石事件で盛大に犯人を間違えたのに……フェンネルは後から色々と聞いた……懲りないのか。
「犯人が誰だろうと、証拠を掴まないと、なんともね」
肩をすくめる。口も動かし、手も動かし。大忙しで魔法薬学の課題が完成した。あとで誤字の確認をすればおしまいだ。
「マルフォイはいいんだよ」
もう一度言った。大事なことは何度でも言ったほうがいいのだ。
「ハーマイオニー、たぶん、君が一番危ないんだよ」
マグル生まれで「生き残った男の子」の友達。しかも賢い。
「スリザリンの継承者を名乗るものがいるとして、真っ先に狙われるか」
最後の締めに狙われるか。
席を立つ。硬直した猫を置き去りにする。一歩、二歩、三歩。その歩みは規則正しい。
ドビーはハリーをホグワーツに行かせたがらなかった。だから手紙を隠した。だから、浮遊呪文を使って……あれはちょっと愉快だったが…妨害した。ホグワーツは危険ですと言っていた。
「あいつ、どこの誰のしもべだよ」
まさか『秘密の部屋』が開かれることを知っていた? だからホグワーツに行かせたくなかった? そうなると、生き残った男の子、稲妻形の傷を付けられてしまった弟は、継承者の敵になるのか。絶命日パーティで弟とそのお友達がふらふらしている前提で動いたのではないか? だから廊下にでかでかと犯行文を書いたのではないか? 弟たちが通るのを見越して……。
猫は石化した。弟はどうやら狙われている。たぶん、ハーマイオニーも標的候補。ああ、弟よ。どこかの狂人に杖を向けられたばっかりにかわいそうに。傷物なんて呼ばれてしまって。
唸りながら、少し湿った前髪をかき上げる。ざらざらとした感触が、指先に引っかかる。
弟が傷物ならば、フェンネルだって傷物だ。ただし、こちらは魔法由来ではない。
みすぼらしいポッター兄弟をおもちゃにしたがるやつらは多かった。石を投げてもいいおもちゃだと。いとこのダドリーがその筆頭だった。フェンネルは弟に飛んでいった石を受けたのだ。それだけのことだ。大人の拳大の石だったもので、けっこうな騒ぎになったが。
これでお前とお揃いだぞ、と笑ってみせたのだけど。
「……泣かれると思わないだろう」
ポッター兄弟の兄のほう、フェンネル・ポッターは合理主義である。それだけのことだ。
だって、弟は眼鏡をかけていたのだ。石なんて当たったらどうなることか、である。弟が「醜い傷跡」を気にしているのを知っていた。言ったのは叔母だが。あの人最低だな。裸眼で、傷跡もないから庇った。極めて合理的である。
叡智のレイブンクローだって、すべてがわかるわけでもなく、見誤ることだってあるのだ。
だいたい、弟の反応は見誤る。
「……うん」
数日後、フェンネルは呟いた。医務室の椅子に座り、弟に骨生え薬を飲ませながら。
「ハリー・ジェームズ・ポッター」
双子の弟よ。
「お兄ちゃん、お前がこんなにトラブル体質だって思わなかった」
見誤ってた。
「やあ賢いフェン。フェンネル・エムリス・ポッター」
痙攣しつつも兄の腹を殴るな。
「双子なんだから、トラブル体質も等分じゃないとおかしいだろ!」
「きっと神様が配合をお間違えになったんだ」
「僕だってさらさらな髪がいい」
「あー……」
「眼を逸らさないで」
「遺伝子って不思議な働きをするから。それに、僕らは二卵性の双子。つまり、同じ日に生まれた兄弟。神様の思し召し」
「神様なんて嫌いだって言ってたくせに」
「都合のいいときに使うのが神様ってものだよ」
くだらないことを言いつつ、口直しのジュースを渡す。マダム・ポンフリーはけっこう優しいのだ。ちなみに睡眠薬入り。
骨生え薬はきっと、眠りすら覚ますだろうとのことだ。つかの間の安息。
着替えを手伝い「付き添い入院は必要かな」と訊けば「いらない」とぴしゃりと言われた。可愛くない弟。
「ではさらば、弟よ。なにかほしいものはあるかな?」
「ロックハートの帽子を射抜いてくれないかな、ロビン・フッド」
フェンネルは小さく笑い、手を振った。
「悪徳領主をこらしめる。いいね」
いや、あれはむしろ道化だな。ブラッジャーに骨を折られた治療で、骨を抜くやつがあるか。底抜けの莫迦。
そうしてロビン・フッドは道化の帽子を盗み出し、鼻歌交じりに医務室に届けに行き、うなされる弟の前髪をちょっと払ってやった。
空に近い、青の寮に戻って就寝した。
少々機嫌が直ったせいだろうか。奇妙な夢を見た。
こんな夢だ。
いつも、穏やかで優しげな顔をしている誰かが、小さく鼻歌を歌っていた。緑と銀のネクタイを締め、胸には監督生のバッジが光っている。
彼は首を傾げた。本当に「機嫌がよい」ように見えた。実は隣を歩く男――少年と青年の境目――が仮面を着けていることを彼は知っていた。どの寮の生徒とも親しい、優等生。孤児でありながら極めて優れている……と周りは思っているようだけど。
誰も知らないもう半分を、彼は知っている。
「■■」
呼ぶ。とたんに、男が顔をしかめる。眉間に皺を寄せ、彼を睨む。
「その名で呼ぶな」
処置なし、と肩をすくめる。覚えやすくていい名ではないか。父親らしき者から「トム・リドル」を受け継ぎ、どうやら祖父から「マールヴォロ」を継いで、トム・マールヴォロ・リドル。ご不満らしい。昔からだけど。黒髪も顔立ちも、なにもかもがトムはいとわしいのだ。黒髪なんてどこにでもいる。それこそ、君の隣にいる僕だって黒髪なのだが。お忘れかな?
「改名でもするかい?」
ふん、と鼻を鳴らされる。ああ、お怒りらしい……と彼は眼を泳がせた。でも、蹴ったのはトムではないか。勝手なやつだ。
機嫌をとったほうが無難だ。彼はあれこれ考える。改名、改名ねえ……と。
「ヴォルデモート」
死の飛翔、と彼は囁く。
名前を並べ替えただけの、ただのお遊び。でも、トムが気に入りそうなちょっと仰々しい名前。秘密の名前。
「どうだい?」
トムことヴォルデモートはにっこりする。彼はほっと胸をなで下ろす。こんなもので機嫌がよくなるんだから安いものだ。
「ヴォルデモート」
いいな。何度も何度も、宝物を愛でるように口にする男。彼はその横顔を窺った。いつ飽きるかな、と思いながら。飽きる日はくるのかなとも思いながら。
こうも思った。
ヴォルデモートという名はとても有名になるのでは、と。
ただの妄想であった。少なくとも、この時はそうであった。
授業の間の、ほんのひととき。日常の一場面。戯れのように贈った名が。
恐怖とともに口にされるとは、いいや忌み名とされるとは。
誰が思うだろうか?
「大事にするよ」
「それはよかった」
「この名前があれば、僕はなんだってできる」
「ふうん」
「まあ見てろよ」
男の眼が、ちかりと光る。黒い眼から変化する。深い、深い赤に。
なにをするかは知らないが、準備は万端ということか……と聞き流した。
そうして、翌日。
生徒が石になったと聞いて眼を剥いた。
某日。グリフィンドール対スリザリン戦が終わった日……の翌日。真夜中。
ゲラート・グリンデルバルドを討ちし者、大魔法使いは眼を瞑った。
「トムではない」
これは確定だ。あれは今、弱っているから。アルバニアの森に潜伏しているはず……。
むしろ「どうやって」だ。五十年前も現在も、手段が不明なのである。
誰なのか。どうやって。何が。
思考がもつれる。
誰が。誰かが。ホグワーツに魔手を……。
椅子から立ち上がる。書棚に向かう。なにか手がかりはないものかと、古い一冊を抜き取る。卒業アルバムだ。
頁を繰る。トム・リドルの顔をじっとみて、さらに先へ。
その顔を、指で撫でる。銀色の髪に緑の眼の青年。寮の首席バッジをつけている。
書かれている名は。
ロディア・マクファスティー。
フェンネル・ポッター
ハリーの双子の兄。黒髪に緑の眼。二卵性なのであまり似ていない。
さらりとした髪質。フェンネルという名はリリーが付けた。
稲妻の傷を持たぬもの。印されなかったもの。
レイブンクロー所属。