試験の足音は聞こえずとも、影くらいはちらつくようになった。吸魂鬼のせいで変わらず陽は乏しくとも、季節は歩みを続けている。
レイブンクローの奇妙に熱気の籠もった談話室から逃げ出し、フェンネルが足を向けたのは図書館であった。五年生と七年生はそれぞれ大事な試験を控えていることもあり、五月に入ってから、神経を尖らせるようになっていた。四年生以下は引きずられるようにして学期末試験の勉強を始めている。他の寮はどうだか知らないが、レイブンクローでは恒例行事と化していた。
フェンネルはレイブンクロー生であるが、間違っても「引きずられる」ことなく、好きにしていた。なにせ二周目なので楽……というわけではない。試験範囲が変わっていたり、解釈が変わっていたり、魔法史で新事実が発見されたり。新薬が開発されたり。前世と今世では勝手が違うことが多かった。そもそも、学生時代の勉強を一から十まで完璧に覚えているか、という問題もある。結局おおまかに覚え直し、調べ直し、という工程が発生する。多少は楽だし余裕はあるが、多少の勉強は必要であった。前世と同じく優の成績を修め……なんて酔狂な真似をする気は失せている。ハーマイオニーは占い学を蹴った。それでも十一科目受講し、試験を受ける。彼女のことだからすべて最高の成績を修めるだろう。対してフェンネルは基礎七科目に加え、古代語と魔法生物飼育学しか受講していない。前世ではこれに占い学が入っていたが……六年生から錬金術を受けたかったものだが、ロディアの時代は受講人数が足りないのと、教師がいなかったから受けられなかったのだよなあと、脇道に逸れた。ロディアも兄も錬金術は独学であった。
話を今世に戻そう。同じくらいの成績と素行であれば、受講科目が多いかつ優秀な方に学年一位――首席の座は約束されている。つまり、今年からフェンネルは学年二位――次席かそれ以下に甘んじることになるだろう。より向上心があって、勉学に打ち込む者に栄冠は授けられるべきである。ハーマイオニーには頑張ってほしいものだ。
羊皮紙に羽根ペンを滑らせながら、軽く眼を瞑った。兄の不満げな顔が蘇る。なんでお前はそんなにやる気がないんだ、次席で悔しくないのか、等々。断言するが、ロディアが十二科目優をとって、兄を蹴り落としていたらそれはそれで文句を言ったし暴れていたと思う。どうしろというのだ。
兄曰く「やる気がない」割にはよくやっていた方だと思う。死喰い人同士のつまらない喧嘩を仲裁したり――両者とも地に沈めた――死喰い人同士の「どちらが強いか」も仲裁した――まとめて湖にぶち込んでご理解願った――とか。
あとはなんだったかな。お宅の次の代か、その次の代に七変化の女の子が生まれるかもしれないので、兄には黙っておいた方がよい、とブラック家にそれとなく言った。なるべく兄とは距離を取ったほうがよい、とまでは言わなかった。ロディアの時代のブラック家は、賢明であったのだ。スリザリンの末裔を自称する者に懐疑的であった。
どうして、とブラック家の夫妻に訊かれた。ロディアは投げやりに答えた。
そんなもの、純血主義だろうがなんだろうが誰かが「異能生産機」になる未来なんて嫌でしょう、と。
思えば、兄に対するちょっとした反抗だったのかもしれない。胸に闇の印を刻まれた身。たとえ刻まれていなくともひとつ胞の兄弟。逃れる術はほぼなかった。逃げようとすればマクファスティー家は叩き潰されただろうし、諸島は蹂躙されていただろう。不穏な動きをする兄が捕縛、あるいは討たれたとして――グリンデルバルドの血族よろしくロディアは狩られていただろう。同じ根を持つ悪徳として。
――始末すればよかった
ヴォルデモートと名乗る男を、片づけていればよかった。きっと誰かは……誰かたちはそう言うだろう。そうすれば悲劇は起こらなかった、と。
簡単に言ってくれる。ロディアが考えなかったと思うのか。ひとつ胞の兄を始末することを?
相手は開心術の名手であった。ロディアは常に心を閉じていなければならなかった。兄は眠っている間、ナギニに周囲を守らせていた。寝込みを襲うのはほぼ不可能であった。
心を閉じていてさえ、殺意を感知される恐れがあった。絶対にないとは言い切れなかった。刻まれた闇の印は「主」の気分によっては灼け付くように痛んだ。感情の波が下僕に伝わっていた。逆がないとは言い切れなかった……。印は主と下僕を繋ぐものであった。
毒はどうか。とち狂った兄は、おそらく錬金術を応用して肉体を改造している節があった。推測でしかないが毒への耐性も得ていたはずだ。そも、毒を仕込もうとしても勘付かれるに決まっていた。
「……できるならば」
していたさ、と囁く。
誰もヴォルデモートを討てなかったから今があるのだ。
数多の血と涙が流され。
秘密の守り人は裏切り、友情は壊れた。
ジェームズ・ポッターとリリー・ポッターは死んだ。
ただの赤ん坊にヴォルデモートは退けられ。
運命の悪戯か、赤ん坊に稲妻が印された。
なにも解決していない。
「――なに一つとして」
終わっておらず、清算されてもいない。
気づけば陽が暮れつつあった。淡い紺の空に、紅の星が瞬いていた。禍つ星の色彩。兄の眼の色……スリザリンの末裔の証。
フェンネルはその星を睨みつけた。低く、低く唸りを発する。あれさえいなければこんなことにはなっていないのだ。忌々しい……。死の呪文を受けても死ななかった兄。肉体改造が功を奏したか。何度も殺さねばならないのか。たとえば、七……とまで考えて頭の芯が揺らいだ。目眩がして、頭を低くする。机に突っ伏すようにした。
――その先に進んではいけないと
思い出してはいけないと。フェンネル――ひとつ胞の兄に殺された者、ロディア・オミニス・マクファスティーの深部が囁く。ただでさえ殺された衝撃が強く、その魂は傷ついていた。耐えられるわけがないと無自覚に悟っていた。殺された夜の記憶は砕け、欠けていた……。
忘却の手によって、思い出しかけた記憶が掬いとられ、沈められる。酷い痛みに屈し、男は眼を瞑った。
「酷い運命で」
悲劇だ。
「……今も、前も」
フェンネルの両親は裏切られ。ロディア自身も裏切られた。
せめて、と囁く。
「今世の、裏切り……真実を」
お見せください。
命は取り返せずとも、救えるものがあるかもしれない。
戯れの問い。気まぐれな願い。
ロディアは知っていた。己が神の恩寵を受けていたことを。いずこかにまします神は、ロディアに未来を見せ、警告して下さっていたことを。
恐れから眼を背け、耳を塞いだのにもかかわらず……見えざる者は恩寵を取り上げなかった。
未だ――生まれ変わってなお、目をかけて下さっている、と。穢されきった身だというのに。
朦朧としながら囁いた願いに、いずこかにまします神は応えた。
夢という導を下した。
冴え冴えと輝く月。照らされる暴れ柳。その根元には運命の環。番をするように控える牡鹿。環を回すのは犬と狼。鼠がぴょんと跳ね……。
天に羽ばたく銀の影。地を駆ける金の影。
は、とフェンネルは眼を開けた。壁に掛かった時計を見れば、ほんの数分しか経っていない。だが、視たものは鮮烈であった。
席を立つ。なんでもない風に、しかし早足で図書館を後にする。いったいぜんたい何の啓示だ、と訝りつつ、足を緩めることはしない。
先視は知っている。示されたものが、最も可能性の高い未来だということを。
少なくとも、神は嘘を示さないということを。
読みを誤るのはいつも人だということを。
そうして、先視は聞いた。
「仕方がなかったんだ」
「怖くてたまらなかったんだ」
私は裏切っていない。ああ、シリウスが怖くて潜んでいた。お門違いだ。
あの方はあまりに強大だった。逆らえるわけもなかった。
友よどうか、助けてくれ。
優しいお嬢さん……。
ロン、私はいいペットだったろう?
見苦しいまでの言い訳。それが通じないとみるや命乞い。
叫びの屋敷に這い蹲る鼠を、フェンネルは蹴った。思い切り、容赦なく顔面を蹴り抜いた。
白いものが飛び、床に落ちた。かつ、と軽い音がした。
「よくもまあ」
鼠に身をやつして十数年ともなると。
「恥知らずになるらしいな?」
ひぃ、とわめく裏切り者を見下ろした。
「どの面下げて」
弟が父の生き写しだと? 父なら助けただろうと?
鼻が折れ、歯も折れ、血を流した鼠がフェンネルを見上げる。小さな眼には紛れもない恐怖があった。ロディアがよく知る誰かを見るように。
ヴォルデモートと名乗る者、闇の帝王と畏怖される誰か。『名前を言ってはいけない例のあの人』と呼ばれる者を見るように。
かつて闇の大君――もっぱら大君と呼ばれていた男は、一つ息を吐いた。すべての謎は開示された。偶然とは恐ろしい。弟はホグズミードに行けなくなった鬱屈を、少々の外出で晴らそうとした。ルビウスの小屋へ行けば、潜伏していた鼠ことスキャバーズを発見。これまた偶然、パッドフットが弟一行と遭遇。あとはなし崩しに事が運んだ。
物事というものは、驚くほどめまぐるしく動くものである。それが運命かのように。
追っつけ――そうと知らず暴れ柳に向かい、叫びに屋敷に突入したのは先着順にフェンネル、ルーピン、スネイプであった。すったもんだの末に――大変ややこしかったので、フェンネルはスネイプを一旦気絶させた――十二年前の真実が明らかになったのだ。
「あー……フェン」
おずおずとした声に、振り向く。ひょいと杖を振って、ワームテールに全身金縛りと沈黙呪文をかけた。大人たちが驚愕してようがどうでもよかった。
「なんだい弟よ。腕か足でも折るか? いいとも」
「いやいやよくない」
なんて優しい弟だろう。両親を殺されているのだから、一本ずつぺきりでもよいと思うのだけど。
少々、かなりねじが外れている兄と違い、まともな弟は頭をかきむしった。じろりとワームテールを睨み。
「生け捕りにするとして、あんまり暴行したら心証が悪くなるだろう」
実に現実的な意見を出した。大人たちはこそこそ相談し始めた。セブルス・スネイプは真実を知り、過去の恨みは棚上げにしていた。もちろんワームテールは始末してもよいと思っていた。シリウス・ブラックもリーマス・ルーピンも始末に一票であった。
だというのに、当事者であるポッター家の双子は生け捕りに一票らしい。どうしたものか?
「僕だってできることなら、こいつの首をぶら下げて帰りたいよ」
パッドフット、とフェンネルは呼びかけた。ハーマイオニーが「フェンがおかしくなった!」と泣きそうになっているが無視である。フェンネル・ポッターは元からかなりおかしいのだ。
「いや、さすがに子どもの手を汚せないだろう」
微妙に常識寄りだが、箍が外れている意見をシリウスは言った。フェンネルは肩をすくめた。
「死人に口なしで、やっぱりあなたが守り人で、そこの鼠は不都合な存在だったから消された……みたいに言われかねないでしょう」
あなたの冤罪を晴らすには、生きた証拠がいるわけだ。なにせ両親は死んでいる。守り人が誰か分かっているのはあなたと鼠だ。
「ああ、そうそう」
フェンネルはにっこりした。
「仕方なかった、怖かった。ヴォルデモートに逆らえなかったと言っているけれど」
ねえ、鼠。
「守り人の秘密は」
自分で進んで明かさなければならない。知っていたかな?
「たとえば」
家族を人質にとられていた、脅迫されていた。強要されたじゃあ。
「忠誠の術は破られない」
お前に情状酌量の余地はないんだ。
鼠の顔から、血の気が失せた。守り人だったくせに、詳細を知らなかったようだ。実に愚かである。
だいたい、大人たち曰く「以前から闇の陣営に通じていた」のだとすれば、鼠の言い訳はすべて、信憑性に欠ける。
どうせなら勝つ方に付きたかったのか、はたまた優秀な友人たちの鼻を明かしてやろうと思ったか。なんにせよ、兄は駒をかすめとり、我がものとしたのだ。鼠はそれを是としたのだ。
先視にして竜騎士、ヴォルデモートのひとつ胞の弟。生き残った男の子のふたつ胞の兄は、歌うように告げた。
「まあ、命だけは助けてやろう」
大丈夫、十二年耐えた人もいるからね。
それはもう、優しく優しく囁いた。
散々脅し、それなりの逃亡防止策を行使したが、鼠はしぶとかった。叫びの屋敷を出て、隧道を通り……暴れ柳から距離をとったとたん、わずかな隙をついて、ロンから杖を奪おうした。けれど失敗した。かわいそうに、ロンは足を折っていたが――犬の姿のシリウスが無茶をしたせいで――フェンネルがひとまず治療していた。柳の杖持つフェンネル・ポッターは治療の心得があったのである。
結果、ロンは素早く身をひねり、鼠の魔手をかわした。そこでめげる鼠ではなかった。人から鼠へと――動物もどき形態へ変化し……戒めをすり抜け――暗がりに紛れ、逃亡。
――しようとした。
「愛しているぞヘドウィグ」
「よくやったロビン」
ワームテールはいくつか計算違いをしていた。
一つ、元飼い主の足が治癒していたこと
一つ、セブルス・スネイプは慌てながらも『脱狼薬』をローブのポケットに入れていたこと
一つ、よってリーマス・ルーピンが狼に変身するという「僥倖」が起こらなかったこと
一つ、ポッター家の双子の兄が先視であったこと
一つ、先視は啓示に従い、鼠の天敵を連れてきていたこと
結論。いかに鼠となって逃亡を図ろうが、金色のニーズルにはたかれ、白ふくろうにくわえられ、振り回されれば失神する。
「ほんとしょうがない鼠だよ」
スネイプ先生、と呼びかける。眉間に皺を刻んだ男は、ローブのポケットから瓶を取り出した。たとえ人の姿に戻ろうとしても割れないように強化されている。
「……さすが魔法薬学教授」
持っていると思っていた。スラグホーン先生のポケットも魔法のポケットであった。あの人はパイナップルの砂糖漬けを個包装したものを入れていたが。ただの菓子好きではなく、できる男であった。もちろん瓶やら薬やらあれこれ入れていた。
セブルス・スネイプは甘味好きではなかろうが、ポケットに色々突っ込んでいそうと踏んでいたのだ。魔法薬学の教授とはそういうものである。
手招きすれば、冴え冴えと輝く月を背に、知恵と戦の神の使いが舞い降りる。瓶の中に鼠を落とした。きっちりと蓋をして、封印。スネイプに押しつけた。シリウスは逃亡犯で、残りは子どもたちなのだ。消去法でスネイプに預けるしかなかった。ちなみに、ルーピンは叫びの屋敷で待機中。なにかあってはいけない、と杖をシリウスに託していた。
「ポッター兄」
「なんでしょう」
スネイプは衝動的な悪意がたぎる眼で、鼠入りの瓶を見つめていた。
「鼠一匹殺したところで問題はない気がするが」
「ありますよ。それとも僕らの名付け親に罪を着せたいと? 酷い大人だ。僕は人間不信になる」
元からその気はあるよね、と弟が呟いたが無視した。どうしよう、シリウスに瓶を預けたほうがいいのか? いやしかし。アズカバンの十二年分の恨みが爆発し、殺鼠事件が起こるかも。
善は急げである、とフェンネルは小走りになった。恨みの爆発と衝動的な悪意は侮れない。さっさとダンブルドアに引き渡そうではないか。
運命の環は、からからと回っていた。おおむね、滑らかに。
ただ、忘れがちなのが。
環を回すお方は気まぐれで、少し悪戯好きなのである。
そう、たとえば――。
吸魂鬼の大群という悪夢を見せるのだ。
絶望を湛えた魂は、吸魂鬼によって時を遡った。深い深いところの傷を抉られた。
闇の祝祭の記憶を繰り返す。ばらばらになった欠片が繋ぎ合わさる。
――七つ、と
その男は囁いた。魔法数字の七。最も強力な数字。物はもうあるのだ。ロケット、髪飾り、カップ……指輪……。お前に見せてやったな?
闇の領域、最も深いところへ踏み入るための準備は整った。
「俺様は死を越える」
超越する。飛翔してみせよう。死神の手の届かぬところへと。
「だから、必要なのだ」
お前が。
ひんやりとした手が頬を撫でる。
月は隠れ、星は翳り、風は朽ちる、その夜。
清かな輝きは消え失せて、ただ闇が広がっている朔の日。
「これも宿命よ」
「もし、神がいるのならば」
最初に捧げるものは、最も愛しいものでなければならぬ。
男は歌う。嘔う。ほくそ笑みながら祝祭を眺める邪なる神に、告げるように。
「仕方のないことだ」
お前がいなくなるのは辛く、きっと寂しいことだ。
だが、誉れだ。
この犠牲は忘れぬ……。
なあ、と男は笑う。にっこりと、無邪気に。お気に入りの誰かを愛でるように。
「――俺様のための」
最初の『分霊箱』よ?
これは祭り。闇の祝祭。愛しいお前だからこそ、穢さねばならぬ。
ひとつ胞の弟よ。お前の苦痛には価値があり、お前の屈辱にも価値がある。
男は歌う。
厳かに――されど歓喜を込めて。高み、いいや闇深きところへ至る、愉悦を滴らせ。
「受け取られよ」
この命。
そして裂かれよ。
奏上し、男はそっと彼の前髪を払う。ひどく、優しく。
「さようならだ」
身を屈め、彼の耳元で囁く。甘く腐った吐息が耳朶をくすぐり。
白銀の色が、突き立てられた。
凍えるような冷たさ、いいや灼熱が身を貫く。魂に責め苦を与える。叫ぼうにも叫べず、ただ千切れ、砕けたなにかを放つ。
紅の星を見る。穢らわしいそれを睨む。
ああ。
私を愛しいと言ったお前。私を貶め、穢し、きっと死して後も利用するお前。
非道を成すお前。
許さない、赦さない。
お前は開けてはいけない
私を贄にするに飽きたらず。
器をも穢す。
どうしてこんなことになったのか。
必ず――いつの日か。
月が満ち、欠け、星が巡ったその先で。
再び、お前と巡り会い。
その罪を贖わせてくれる。
そうして男は絶望と怒りにまみれて死んだ。
ひとつ胞の兄に殺された。
これは誰も覚えていない記憶。
生まれる前の、夢幻だ。
怪物によって穢された者は、ただただ、悲鳴を上げ、血の涙をこぼし、さまよった。
どっちつかずのままで。どこでもないどこかをあてどなく歩いた。白銀の色に緑の眼、整った顔立ちの男は、どす黒いなにかと成り果てていた。
どこでもないどこか、それにとっては海岸――暗い浜――を腐臭を漂わせ、人の言葉を忘れ果て、獣のようにうろついた。
悲しく、苦しく、どこへ行けばいいのかもわからなくなっていた。生前に与えられたあまりの痛苦と屈辱、穢されたという事実が、男から人らしさを奪っていた。その魂は壊れていた。
そのままであれば、男に救いはもたらされなかったであろう。壊された魂は、悲嘆する者は、明るいところへ行けなかっただろう。
だが。
「……弱く、見苦しく」
あまりに、哀れ。
白い手が、男を――壊れた者を、そっと撫でた。どす黒い闇が祓われる。人の言葉を話せぬまま、男は――誰かだった者は、手の主を見上げた。
紅の色に悲鳴を上げ、よろよろとあとじさり、湿った浜辺に転がった。
ああ、ああ、と叫び、泣き。頭を抱え、身を固くした。紅の色。禍つ星の眼は、男に深い傷を刻んでいた。
「なにもしない」
少し、癒すだけだ。
「……これが」
私を引っ張ってくるから悪いのだ。軽い舌打ちとともに彼は言った。銀の髪に紅の眼を持つ誰かは、不機嫌そうに視線をやった。一族の祖に睨まれているとも知らず、その女はよろよろと歩を進めた。錆びたような陽に、くすんだ銀に髪を煌めかせ。紅の双眸を濡らし。
獣の叫びを発することしかできぬ、壊れた子に。そろそろと子の頭を撫でる女に一瞥をくれ、銀の髪に紅の眼の男――かつて■■■■■■■■■■■と呼ばれた男は嘆息した。
「仕方があるまい」
我が
「別に私は」
裔に不幸になってほしいわけではなかったのだから。
ぶつぶつ、ぶつぶつと言いながら、癒し手は獣に――己の末裔に歩を進める。なんとか獣を宥めようとする娘に手を振って、場所を空けさせた。
穢され、痛めつけられ、四肢を縫い止められ……喉を裂かれ。心臓を貫かれた身を、そろり、と癒しの手が獣を撫でる。闇が祓われる。獣は人の言葉を取り戻し、人の形を取り戻した。
癒し手は、末裔の背を押した。
「行け」
明るいところへと。
促され、かつて誰かだったものは、殺されてしまった誰かは、歩き始めた。
そのうちに、小さな小さな輝きが、まとわりついた。
「……一緒に行こうか?」
囁けば、ちかり、とそれは瞬いた。じゃあそうしよう、と男は頷いた。気づけば小さな手を引いていて、散歩をするように歩いていた。
白い鹿の
ロディア・オミニス・マクファスティーは。
門をくぐった。
眼を開ければ寝台の上。
フェンネル・エムリス・ポッターは手を翳し、指を曲げ伸ばしした。
どうやら己は生きているらしい。火事場の馬鹿力で守護霊を出したことまでは覚えている。
白銀の竜は、吸魂鬼を祓ってくれた。
しかし、抉り出された忌まわしい記憶までは拭い去ってくれなかったようだ。
「……くだらない夢のために」
私を殺したのか。
ロディア・オミニス・マクファスティーだった者の。
その命を贄とされ、その器を最初の『分霊箱』とされた男の嘆きは、虚空に解けていった。
彼の声に耳を傾けたのは、見えざる神、先視の恩寵を与えし者だけであった。
そうしてその者は知っていた。嘆く先視、竜騎士の魂に炎が息づいていることを。砕かれ、壊れようが――助けを借りたとはいえ、見事復活してみせたことを。
「……あの野郎」
赦さん。
ほら、緑の眼に光が灯った。くつくつと、その者は笑った。なんとおもしろい生き物か。我が愛し子は。
傷つき、折れ、嘆き、間違えながらも歩み続けるが故に。
その者は恩寵を下し、取り上げることもしなかった。
きっとそれは間違いではなかったのだ。
アズカバン編終了です。