【完結】Pandora   作:扇架

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十六話

 震える息とともに目が覚めた。視界に広がるのはレイブンクローの深い青。星々の絵図だ。

 身を起こす。ああ、ともうう、ともつかない声を出すが、嗄れていた。喉に触れ、手足を動かす。

――生きている

 心臓は脈打っている。銀の刃に貫かれることなく。手足は無事だ。地に縫い止められてはいない。喉は滑らかだ。裂かれていないから。

 この身も、魂も綺麗なものだ。穢されてはいないから。

「……大丈夫だ」

 何度か咳をして、囁く。言い聞かせるように。かつて殺された男に語りかけるように。

「僕の生は終わっていない」

 あの夜は過去のものだ。

 儀式にも似たそれを終える。気怠い身体を引きずるようにして寝台から下りる。

 冬の澄んだ空気が、覚醒を促す。フェンネルは乱れた敷布や蹴飛ばした布団を整えた。個室でよかった、と再確認する。週に二、三日うなされる同室者など迷惑なだけであろう。フェンネルはダンブルドアに交渉し、四年生から個室に移っていた。表向きは人数調整の都合上、ということになっている。

 狂わないのが不思議なほどだ。月のない夜。朔の日の光景を夢に見る。かつての終わりを。ロディアの死を。どうやら『分霊箱』を壊したところで魂の疵が癒えるわけではないようだ。

――何度も味わいたいものではない

 死など一度で十分だ。生は一度しかなく――フェンネルのような例外を除けば――続きなどないのだから。

 死とは終わりだ。永遠に覚めない眠りだ。魂については未だ解き明かされておらず、謎の包まれている領域だ。死ねばどこにいくのか。どうなるのか諸説ある。空に帰る、地に潜る。山へ飛んでいって裁きを受ける……海へ還る。あるいは……これが有力だが――門をくぐって「次」へと向かう。霊とは門をくぐらなかったもの。次へ行くことを拒んだ者だとされている。門をくぐることで魂は次の「誰か」になる。それまでの記憶は綺麗に拭われ、前世を知ることはない……とされている。

 のろのろと寝間着を脱ぎ、制服を身につけ、ネクタイを締める。姿見でざっとあらためる。淀んだ眼をした十四歳の少年がそこにはいた。

 明るい顔などできようはずもない。ましてやここは個室で、余人はいないのだ。取り繕う必要はない。

 フェンネルは死の影を見て、笑い飛ばせるほど剛胆ではないのだ。

 胃の中に鉛の塊でもあるかのように重い気持ちで、大広間に下りる。憂鬱だろうがなんだろうがなにかを食べなければいけない。疲労と空腹は苛立ちの元。ろくなことならない。

 ロディアの時代、カリカリイライラしている馬鹿どもを黙らせるため、何度お茶の時間をつくったことか。逗留している邸が――たいていレストレンジのところだった――荒らされるのは本意ではないので、人数分の茶を淹れて、菓子も用意して「は、俺たちはどこかのレディですかね」と嘗めた口を利いたやつはソファに沈めて、強制的にお茶の時間にしたのである。これは兄も例外ではなくロディアが「お茶にしましょう」と言えば素直に言うことを聞いた。珍しいことに。

 闇の陣営は兄が興したものであり、兄を中心に回っていたが、すべてにおいて独断、というわけではなかった。時には配下の意見を聞く場を設けたのだ。集まりはそれなりの頻度であり、配下たちの意見が割れて決闘にもつれこむか否か、という場面もあったのだ。ちなみにお茶の時間ごときでおさまらないと見れば、ロディアがまとめて叩き伏せていた。兄にやらせて磔刑の呪文耐久戦よりはマシであろう。

 夢の名残と、かつての記憶でなんとも冴えない気分のまま、大広間に到着した。そうして、やっぱり厨房に籠もろうかなと思い、どうにかこらえる。レイブンクローの長テーブルに身を滑り込ませた。

 あっちこっちで「パートナーが決まったか」「誰と行くのか」と聞こえてくる。ホグワーツにかなり早い春がやってきているのだ。常春のボーバトンではあるまいし。大広間、それに長テーブルなこともあって、あまりあからさまな会話は聞こえてこない。たとえば誰それを――女の子を――獲得した、というような。そういうことは深夜の談話室か男子寮に集まって言うものだと承知しているのだろう。レイブンクローは女子の比率が他寮に比べて高い傾向にあることも関係しているのだろう。

 パートナーの申し込みをして受けてもらった、と言えばいいものを獲得した、というのが品のないことである。

 ソーセージやらオムレツやらを皿にとりながら、顔をしかめる。冬の舞踏会は華やかなばかりではない。四年生以上は全員出席とするからこうなるのだ。

「……で、フェンは誰と行くか決まったの?」

「選びかねている」

 パドマの興味津々な問いに、さらりと返した。彼女は瞬き、呆れたように笑った。

「フェンじゃなかったら嫌味よそれ」

「ハリー・ポッターの双子の兄は大変なのさ」

 肩をすくめてみせる。それだけでパドマは察したらしい。

「あー……あなたは踏み台候補って?」

「兄は辛いよ」

 ハリー・ポッターの、生き残った男の子の双子の兄。本人ではないが兄。つまり、有名なハリー・ポッター、第一の課題で飛び手の才を見せつけ、ドラゴンを出し抜いた「四人目の代表選手」とお近づきになりたい子が多いのだ。

 手っ取り早いのが双子の兄であるフェンネル・ポッターと「仲良く」なることだとお思いらしい。浅はかである。

「あのね、あの……フェン、あなたもけっこうおモテになっているのよ?」

「どいつもこいつも羊を狙う狼にしか見えないんだが」

 皆さん眼がぎらついているのだ。

「あと、弟が駄目だったから兄……とか」

 うわあ、とパドマが呻いた。いい友人である。仕方がないのだ。ハリー・ポッターの名は書物に載っているが、フェンネル・ポッターの名は脚注に記載されているくらいなのだ。たとえば一九■■年十月三十一日、ハリー・ポッターが『名前を言ってはいけない例のあの人』を倒した。彼はジェームズ・ポッターとリリー・ポッターの息子である。

 そして脚注にハリー・ポッターと双子の兄のフェンネル・ポッターはマグルの元で育てられている、と続く。

 挙げ句に我々はハリー・ポッターの帰還を指折り数えて待っている、と書かれる始末だ。

 脚注に書くくらいなら、最初から書かない方がマシだろうが。今から出版社に抗議するか、とよそ事に意識を持って行かれ……いやそうじゃない、とパドマに水を向けた。

「で、そっちの首尾はどうなんだ?」

 アンソニーとでも行くのか、と言えば「いいえ」「いや?」と同時に答えが返ってきた。フェンネルはパドマの隣を見る。今朝の席順は上座に近い方から、アンソニー、パドマ、フェンネルであった。

「僕は別の子と行くから」

「へえ、だあれ?」

「ラブグッド」

「あの子、ちゃんとした服持ってるのかしら……」

「素っ裸じゃなきゃなんでもいいよもう」

「ねえ、大丈夫なの」

 朝食の席でこんな会話はいかがなものか。フェンネルは悩んだが口を挟まないことにした。なんとかなるであろう。一つ下のルーナ・ラブグッドはありていに言えば虐められかけていたが、おさまった。なぜかというといくら物を隠そうが見つけられるから。もっと言うと生き残った男の子の双子の兄が「あのルーニーの捜しものを手伝っていたから」。いつの間にかルーナ・ラブグッドに構うなという不文律が出来上がった。

 フェンネルだけの功績ではない。ルーナが杖十字会に所属しているのも大きい。昨年まではペネロピー・クリアウォーターが庇護者のようなもので、今年からはロジャー・デイビースに引き継がれた……というか、なってしまった。おまけに「あの」セドリック・ディゴリーまでもが「やあルーナ」と軽い挨拶をするものだから、ますますルーナに手を出すものはいなくなった。

――馬鹿なわけではないし

 むしろ反対である。ルーナは賢い部類だ。よく人を観察している。距離をとり、そっと窺うようなところがある。たまに舌鋒の鋭さを見せることもあり、単なる頭がお花畑の類とは違っていた。

 だから、ルーナは自分の格好が冬の舞踏会にふさわしいか考えるであろうし、誰かに相談するだろう。たとえばパドマとかに。

「いや、パドマ。僕じゃなく君のパートナーの話じゃなかったか?」

 アンソニーが呟く。フェンネルは少々の興味をもってパドマを横目で見た。彼女はもったいぶって言った。

「ロ――」

 ジャーと続く、と誰もが思ったであろう。パドマ・パチルは人気者であった。ロジャー・デイビースが彼女を選んでも……いいや、双方合意してもおかしくないと。

「ロン・ウィーズリーよ」

「……は?」

 アンソニーであった。おい信じられるか、と声なき伝言を受け取って、フェンネルは天井を見た。曇りであった。

「僕の弟のお友達の」

「ハリー・ポッターの親友の」

 彼よ、とパドマ。フェンネルは天井から彼女へと視線を戻した。

「やつが面食いだろうがどうでもいいけど」

「豪速球な褒め言葉をどうもありがとう」

「いや……」

 なんと言ったものか迷う。ロンは別に悪人じゃあないし、弟と喧嘩したが仲直りしたし、なによりも弟の良き友人である。一緒に授業を受けて、一緒にちょっとした悪さをして――たとえばホグズミードにこっそり行くとか――。それに、冒険も。つまり、普通に馬鹿ができる友人というものは大事である。それは間違いない。ないのだけど。

「フラーによろめいている類だろう?」

 ちら、とボーバトン生が固まっている一角を見やる。フラーの美貌は輝かんばかり。魅了を振りまいているわけでもないのに、涎を垂らさんばかりの野郎どもは日々発生している。

 輝く美貌を覆う群雲、影から眼を逸らす。強いて考えたくないことというものはある。今は冬の舞踏会について考えるべき時間であった。三校対抗試合の「伝統」であるクリスマスダンスパーティこそが本題だ。

「なあに、彼女の周囲に群がる虫について、きちんと把握しているって?」

「で、君は群がったそいつのパートナーになってやったと」

 虫、とは言わなかった。しかし皿のソーセージを奪われた。安いものである。

「ロジャーもよろめいた挙げ句に片膝を突いて申し込んでたからね」

 ロンだってよろめくだろう、とアンソニーが補足する。フェンネルは頷いた。求婚かよ、と思ったが言わなかった。しかしフラーは断ったようだ。さぞかし絵になりそうな二人で、悪くない組み合わせだろうに意外である。ロジャーは「よろめき」はしたがそこそこ理性は残っていて、下衆な振る舞いなどしようはずがないし、フラーを女神のように崇め奉るであろう。それこそ春の女神を奉じるが如く。

 その可能性はあった、と思う。ちらりと過ぎった光景を振り払う。その一枝は見えざる神に手折られてしまったようだ……。

「パーバティに頼まれたのよ」

 パドマは双子の姉妹の名を出す。ポッター家の双子と同様、寮が分かれたくちだ。レイブンクローとグリフィンドールに。パーバティはグリフィンドール生なのだ。

「パーバティがハリーとパートナーになって、私がロンを引き取ったのよ」

「なにやってんだあいつらは」

 パドマによるあらすじ。ハリー・ポッターとその親友はぐずぐずしているうちにパートナーの当てがなくなりましたとさ。愚か者め。

 そりゃあ「当て」の一人はハーマイオニーだったろう。しかし彼女が分裂しない限り、二人のパートナーにはなれない。逆転時計を返してしまったし、なにより同時刻、同じ場所にいるわけにはいかないから不可。

「グレンジャーは?」

 アンソニーが口を挟む。パドマは「パートナーが決まっているんですって」と返し、フェンネルをちらと見た。

「僕じゃない」

 実はハーマイオニーはクラムと行くらしいのだが、内緒である。ハーマイオニー曰く「フェンは無神経じゃないもの」らしいので、打ち明けられたのである。

 そう、フェンネルは無神経じゃない。ハーマイオニーのお墨付きである。信頼の証。

「パドマ、舞踏会でロンに我慢ならなくなったら」

 僕かアンソニーのところに駆け込めよ。

「待て。勝手に決めるなよ」

「君は薄情なやつだよアンソニー」

 歌うように言ってやる。目配せすれば、ため息を吐いた。もうなんだ、僕とラブグッドとパドマで踊ればいいのか? と言った。なんだか楽しそうだな。

「仮にもパートナーなのよ、しかもパーバティの紹介だし」

 パドマは鼻で笑う。

「決断力のないぐずぐず男だぞ、あいつ。しかも面食い」

 フェンネルは容赦なく言った。実は十月三十日に「ホグワーツではあんな女の子はつくれない」という無神経発言を耳が拾ったことは言わないでおこう。ホグワーツの半分を敵に回すような危険な行為をロンはしたのである。ぽろっと口から出ることはあるだろう。が、あまりいただけない。

「フェン」

 アンソニーとパドマに呼ばれ「なんでしょう」と首を傾げた。

「決断力のないぐずぐず男なのは」

「あなたもでしょう」

 しかも面食い、と二人に口撃され、顔をしかめた。

 

 

 クリスマス、冬の舞踏会まで残り数日を切ってもフェンネルの相手は決まらなかった。正確に言えば決めなかった、選ばなかった。手をとらなかった。

 気が乗らなかったせいもある。早い段階で誰かを――パドマとか、チョウとかを誘えばよかっただけの話だ。そうしなかったのは、とてもではないが浮かれる気になれなかったせいだ。

「……下手に話せない」

 夜の校庭、湖のほとりをあてどなく歩く。どうにも落ち着かず、なにかに誘われるように抜け出したのだ。水面には月が溺れ、白い花を咲かせていた。

 先を視てみるか、どうするか。お誂え向きの「水盆」。月の魔力が満ちる夜。冬の空気は澄み、かすかな香気が漂っている。あいまいな問いでもなにかしらの答えは得られるかもしれない。

 しかし、視たところでどうする。彼らの死相はなにゆえか。分かり切ったことだ。三校対抗試合絡みに決まっている。どこかで……事故かなにかで命を落とす、のかもしれない。

 どのように死ぬか視るとする。だからといって防げるかは微妙なところだ。五分五分以下であろう。

 先視は絶対ではない。視たものを読み間違えることもままある。

 たとえば母親が襲われている場面を視てしまい、助けに行ったら自分が襲われ、結果的に母親が襲われたということもある。その場面、その視点だけではわからないことも多い。

 もっと身近な例を挙げよう。ある男が己を滅ぼしうる存在について知ってしまった。予言を聞いたその男は、ただの赤ん坊を始末しようとした。そうとは知らず予言の一部だけを聞いてしまい、最悪の未来を回避するどころか成就してしまった。

 男の肉体は滅び、赤ん坊は印されし者となった……。

 ダンブルドアに死相について話したところでどうしようもなく、不安材料を与えるだけだ。三校対抗試合を中止できるはずもない。そして、ダンブルドアが知ってしまったことで、なんらかの行動を起こすことで最悪の未来が成就する可能性は……なくもない。

 保留だ、と結論づける。あまりに判断材料が少ない。セドリックの死相が一番濃いのが気がかりだ。彼は実力者で、人柄もよい。事故であっけなく死ぬように思えず、三校対抗試合で嫉妬に狂った誰かに謀殺されるなんてこともないだろう。昔の、夥しい死が生産された時代とは違うのだから。

 かつての三校対抗試合。人死には付き物であった。純粋な、競技由来の死とは思えないものも多数ある、と書物は語っていた。謀りごとに向いていた。純血貴族たちが水面下で暗躍し、杖を振るっていたのだろう。表は競技、裏は各家の闘争。余興は賭け。

――兄ならば

 もし、トム・マールヴォロ・リドルが現代において代表選手となっていたら、嬉々として邪魔な生徒を排除していただろう。ドラゴンになにか仕掛けて暴走させ、観客――穢れた血どもを始末するとか。それか、代表選手であるヴィーラ混じりを片づける、とか。

 それか……あれなら、男どもをけしかけて心身ともに重大な損傷を与えるなんてことをしかねない。穢れた者ども、魔法族ならざる者を兄は嫌っていた。なぜそこまで憎めるのかというほどに。

 震える息を吐く。白く凍り、虚空に儚く消えていった。

「……トム」

 私たちのほうがよほど穢らわしい存在なのだと、なぜわからない。出生の経緯は最悪で、流れる血はおぞましいほどに濃く。

 お前は善たることを放棄し、高みへ至ると言いながら、深い闇へと堕ちた。

 私を道連れにして。私を穢し、魂を粉々に砕き、嗤いながら殺し、器までもを利用した。お前の玩具に。『分霊箱』にした……。

 過去を振り払おうとする。「ロディア」の嘆きを押し込める。私はすべての『分霊箱』を壊したのだ。正確には余分な一つがある。しかし、問題はなかろう。

「最初の『分霊箱』たる私が」

 ヴォルデモート、お前の生存を赦さない。

 歯を食いしばる。強く拳を握った。いつの間にか俯けていた顔を上げ、輝く銀盤に眼をやり……瞬いた。

 対岸に影がある。月の滴をその身に受けて、白く輝いていた。

 シルヴァー・レディ、と思わず呟く。月を讃える異称。雅な名を。

「来てくださらない?」

 くすくすと、彼女が笑う。彼女とて不意の邂逅に驚いているはず。しかし、声は揺らがず、わずかに甘い響きを帯びていた。

「じゃあ、月の上で」

 返し、靴も脱がずに湖面へ踏み出した。眠りに沈む魔法の城、その庭は静かで、水音すらもよく響く。一歩、二歩、三歩……銀の綾が描かれる。

 そうして波紋が出会い、交わった。しらしらと咲く月花の上で、二人は向かい合った。

「溺れるって思わなかったの?」

「まさか」

 君ならば水の女神とだって手を取り合い、歌い踊れるだろう。

 返し、フェンネルは続けた。

「夜の散歩か?」

「眠れなくて……」

 フラーは仄かに笑う。身を守るための鎧じみたものでも、他を圧倒し、ひれ伏せさせるものでもない。完璧ではない笑み。

「冬のお城は悪くないわ」

 そう、この庭は好き。輝く湖は綺麗だし……。

「こうしておしゃべりできるもの」

「いくらでもおしゃべりできるだろう?」

 君の周りには人がたくさん……と言い掛けて、ふと口を噤む。フラー・デラクールは代表選手で、ボーバトン生から尊敬を勝ち得ている。ホグワーツ、ダームストラング問わず男子生徒の注目の的で、ひっきりなしに申し込まれている。

 しかし、それだけだ。周りに人がいてもそれが孤独ではないと言えるだろうか。尊敬と友情は違う。尊敬と愛情も違う。ましてや男からいらぬ視線を向けられるなど、さぞ疎ましいことだろう。

「私の魅了に屈しないひとは貴重で……」

 そう、セドリックもそうだった。彼はとても紳士だもの。ロジャーもいい線を行っていたわ。

「こんな場所で出会える人はもっと貴重」

 気が合うわね、と囁かれ、小さく頷いた。たまたま満月の夜で、たまたま散歩に出て、たまたま出会える確率はいかほどか。

 こうして月の上で向かい合うことなど、そうあるまい。

「……私の」

 影に、隠された半分に思い至れる人なんていないと思っていた。

「勘違いだ」

 否定し、嘆息したくなる。口を噤んだのが間違いだった。心は完璧に閉じているのに、言い当てられた。恵まれているように見える魔女の、魅了の異能者ゆえの孤独を察してしまったのだ、と。

 魅了というものは厄介だ。男女問わず虜にしてしまう。だからわからなくなるのだ、と言われている。

 この人は本当に自分を好いているのか。これは本音なのか。偽りはないのか。どこまで信じていいのか、と。

 制御する術を学ばなければ、危険極まりない能力だ。歴史書は歌う。魅了の異能者を手に入れるべき。敵方は甘い香りを放ち、溺れ死ぬだろう。

 偽りの愛、執着によって。

「嘘吐き」

 フラーは手を伸ばす。額を指で弾かれ、フェンネルは苦笑した。

「痛いな」

「馬鹿なふりをするからよ」

 嘘のにおいには敏感なのよ、私。

「魅了持ちは大変だね」

 わざと薄っぺらい慰めを口にする。なんでこんなところで話しているんだ、と正気に戻った。夜で、湖の上、正確には月影の上で二人きり。

「また嘘を吐いた」

 再び弾指されそうになり、するりと逃げる。ぱっと飛沫が散り、きらきらと輝いた。

「生き残った男の子の双子の兄には、秘密がいっぱいなのさ」

 軽口を叩く。フラーの青い眼に射抜かれて、その場に立ち尽くした。

「秘密主義者の嘘吐きさん」

 こんな言葉をご存じない?

「嘘吐きは泥棒のはじまりだと」

「なにかを盗んで差し上げようか、宮廷の花殿」

 からかうように言ってやる。ほんの冗談、戯れのはずの言の葉であった。くすくすと笑っていられたのは、ほんの刹那であった。

「盗んでくださらない?」

 小さな、ひやりした手に捕まえられ。

 赤い唇に囁かれ。

 青い双眸に縫い止められるまでのこと。

 

 銀色の花を一輪、どこにお連れしましょうか、と問えば。

 彼女は喉を鳴らした。

 どうぞ盗人さん、棘にはお気をつけになって、と。

 

 

 

 姿見に映るのは十代半ばか、少し上の少年だ。烏の濡れ羽色の髪は整えられ、母親譲りの緑の眼は鮮やか。眉は美しい弧を描き、唇はきゅっと閉じられている。

 見劣りしなさそうでなによりだ、とフェンネルは息を吐く。鏡の中の写し身を一瞥し、踵を返した。拍子に正装の裾が翻る。髪に合わせたような闇色が、魔法灯を受けて艶を帯びた。

 靴を履き替える。ドラゴン革の、これまた黒色のものだ。しなやかで頑丈なそれは、フェンネルの足にぴたりと寄り添った。

「……さすが腐っても貴族だよ」

 シリウス、とここにはいない名付け親に賛辞を贈る。任せておけ、と言われたので丸投げにしていたのだ。なにをって正装を。

 数ヶ月前のクィディッチワールドカップでの騒動から新学期まで時間があったので、シリウスがフェンネルと弟をダイアゴン横丁へ連れて行ったのだ。弟はシリウスと出かけられるのが嬉しかったらしく、なぜ四年生以上に正装が必要なのかなんて疑問は抱いていないようだった。フェンネルも深くは考えなかった。闇の印のことで頭がいっぱいだったのと、ブラック邸の清掃で疲れていたから。まさか三校対抗試合復活なんて思いもしない。開催が宣言されて後に試合について調べ、伝統行事の復活を知ったので――パートナー争奪戦が始まるであろう、と予想はしたが。

 ポッター家の兄弟は採寸だけマダム・マルキンでしてもらい、後は名付け親とマダム・マルキンに任せた。ちょうどパートナー争奪戦が始まる頃に届けられたのである。直しの必要はなく、フェンネルの身を飾っている。十四歳より少し年上に見えるくらいの、品のある雰囲気に仕上がっている。

 フラーが成人済みなので、あまり子ども子どもしていると困るな……と思っていたので助かった。まさしく「ちょうどいい」。伝統行事とはいえ学生が主の催しだ。シリウスとてそのあたりは織り込み済み。正装とはいえあまり格式を重んじず、という路線で衣を誂えたようだ。たとえばブラック家の職人に仕立てさせ、最高級の絹を使う……なんてことはしなかった。たとえば弟の衣にポッター家の紋『飛び跳ねる牡鹿』を挿し、フェンネルの衣にブラック家の『双狼』紋を挿すこともしなかった。

 マルフォイが張り切って『竜』紋――咆哮する竜――を身に着けていたり、ウィーズリー家が――あそこは確か一角獣だったか――を挿していたり、その他諸々、名のある家の者がここぞとばかりに装っている可能性はなくもない。たぶん、ウィーズリー家は没落してそれなりに経つらしいし、気取らない家風なのでそういった「みんなおそろい」はしなさそうだが。

 マルフォイがここぞとばかりに見せつけてきても無視を決め込むとしよう。ほかの純血、たとえばレストレンジ家の子息はいないはずだし、中立寄りのグリーングラスが『隼』紋を挿している可能性は極めて低い。グリフィンドール系のマッキノンは確か『烏』であった。しかし滅ぼされ、烏は一羽も残っていない。プルフェットも似たようなもので、『天馬』の血は哀れにも細ってしまった。やはり、ポッター家のフェンネルに絡んでくるとしたら――マルフォイくらいだろう。「シリウス・ブラックの名付け子」がそれなりに上等な黒、しかも小さく星が挿された衣を纏う意味を察して、退くか、噛みつくかは五分五分だ。

 そう遠くない未来、フェンネルがブラック家の秘伝の黒を身に纏い、家紋の『双狼』を背負った暁にはどんな顔をするだろうか。ほんの少し楽しみである。

 くつ、と笑う。

 胸に挿した青玉(サファイア)留め飾り(ブローチ)をそっと撫で、フェンネルは自室から談話室へ向かった。そこには色とりどりの花と、眼を血走らせた野郎どもが少々、そわそわしている野郎も少々いた。

 パートナーは誰にしたんだ、等々問われたが、フェンネルはひらひらと手を振ってかわした。クリスマス当日、ダンスパーティ開催直前となっても、フェンネルは口を割らなかった。

 あいつどうせパートナーなんていないんだぜ、と棘のある言葉が聞こえたが無視。じゃあ乗り換えようかしら、というかなり洒落にならない言も――今から乗り換えはどうなのだ――黙殺した。

 だんまりのフェンネルに、問いが投げられた。

「おいフェン、どこに行くんだ?」

 花を盗みに、とだけ返して談話室を――寮を、城を出た。

 

 指笛を吹けばバックビークが飛んできて、後は楽なものだった。積もる雪もなんのそのでフェンネルは目的地に着いた。

 ボーバトンの馬車の前。杖で軽く戸を叩けば、くすくす笑いとともに開く。現れた小さな手を取って、男の膂力にものを言わせてバックビークの背に乗せる。もちろん、横座りで。

「悪い人だわ」

 フェン、とその女――今宵の主役の一人が笑う。蝶のはばたきよりも、かすかに。すんなりと伸びた足には硝子の靴が、その身は銀の衣装で飾られている。青い眼は興味津々とばかりにフェンネルを見下ろしていた。

「ろくに待ち合わせの時間も指定しないのだもの」

「犯行予告をするのは怪盗の流儀だからね」

 盗人は好きにするのさ。花があれば手折ってしまう。

「棘がある花でも? 悪くて強欲な人」

「盗人なんてそんなものだよ」

 軽口を叩きながら、フェンネルは歩き出す。バックビークも心得たように歩を踏んだ。めかし込んでいる女の子を歩かせるのは酷であったし、迎えに行くのが筋であろう――とフェンネルは当然のように思っていた。しかし、背後から黄色い声が聞こえるところをみると……。

――やりすぎたか?

 さすがフラーのパートナーだわ、と大絶賛である。やりすぎだった。明らかに気障であった。そんなつもりはなかったのだけど。もちろん、めかし込んでいようが移動手段はそれなりにあるだろう。雪を融かして歩けばいいだけの話。それか、馬車を移動させて正門前に着けて一斉に降りればよかったのだろう。

「僕は余計なことをしたらしいね」

 だらだらと冷や汗を流す。十中八九、ボーバトン組は馬車移動で対応するつもりだったのだろう、と思いついたところで今更だ。

「いいじゃない、雪の校庭、お迎えに来てくれるパートナー」

 少なくともあなた、ボーバトン生の心をがっちり掴んだわよ。フラーは間違いなくにやにやしている。フェンネルは強いてそちらを見なかった。ただ、手綱を引くことに集中する。

「自分が初の逢い引きに浮かれる馬鹿になった気分だよ」

「可愛いこと」

 フラーはますますにやにやしているようだった。フェンネルは沈黙した。背後からの黄色い声が止まないこともあり、とてもいたたまれない。

「逢い引きに浮かれるどころか、しっかりしてらっしゃいますけど」

 盗人さん。

「恥をかかせるわけにはいかないからね」

 どうにか返す。調子が狂いっぱなしだ。夜の湖での邂逅だって、どうかしていたのだ。勢いで、なし崩しにその手を取ってしまったのである。月に酔わされていたとしか思えない。

「大丈夫よ」

 私とあなたを見れば、みんな眼が眩むでしょうよ。

「ちょっとくらい踊りを間違えても?」

「踏んだらごめんなさいね」

「耐えてみせましょう。僕こそ踏んだらごめんね」

 なにせ孤児なものでね、とフェンネルは軽く笑った。

 

「――どこが孤児よ」

 優雅に歩を踏みながら、フラーが毒づく。フェンネルは肩をすくめ、踊りに集中した。古いお城はその装いを変え、美しく飾り立てられている。冬の舞踏会、主たる会場である大広間とて例外ではなかった。壁は魔法灯を受けて眩く輝き、天井は夜と星々に飾られている。大広間を巡るように花々や宿り木が配され、仄かな芳香を漂わせていた。

「お嬢様の硝子の靴を」

 砕くわけにもいかず、とフェンネルは返す。彼女の腰に手を添えて、くるりと回転した。フェンネルの纏う夜と、フラーの纏う月がふわりと翻った。

「断言するわ」

 会場で一番注目を集めているのは、私たちよ。

 すっと身を寄せられ、囁かれる。視界の端にフラーの、翠玉(エメラルド)の耳飾りが煌めいた。

「眼が潰れるかと思うほど、眩い方がいるので」

 足を踏まれかける。すっと避けた。なかなか凶暴なお嬢様である。

「そこはフラー、今日の君もとっても綺麗だよ、と」

 言うところでしょう。

 息を合わせて回る。フラーの銀糸がきらきらと光った。

「綺麗なだけならいくらでもいるけれど――」

 と、と歩を踏む。またもや硝子の靴から逃れた。

「こうやっておしゃべりできる人間はそういない」

「目眩ましになる人も、と」

 そういうことでしょう。

「弟、空ではすごいし、地上でもかけっこはなかなかのものなんだけど」

 ちら、と他の代表選手、もっと言えば弟とそのパートナーを窺う。

「……踊りなんて習ったことないしね」

 ぎりぎりなんとかなっているようだ。パートナーの技量によるところが大きい。多少は「踊りの練習」が催されたはずで――少なくともレイブンクローではそうだった――付け焼き刃と生来の反射神経、それと運動神経、パートナーも鈍くない、で踊りは成立していた。ありがとうパドマの姉妹。本当にありがとう。助かった。

「私たちに注目を集めなくてもね」

 あなたの弟、必死だからこっちの思惑に気づいてないわよ。フラーがしょうがないとばかりに笑う。

「笑顔の練習は科目に入っていなくて」

「あなた、周りに気を回しすぎなんじゃなくて?」

「有名な弟を持つとこうなるのさ」

 それに、目立つ兄を持っても同じことだ……とは言わなかった。仮に兄が冬の舞踏会に参戦していたら、どれほどの女性が兄の前に身を投げ出し、花の如く散ったであろうか。

 兄は己の出生について、孤児であるということを汚点に思っていたであろうから、そうそう下手を打たなかったとは思う。たぶらかしはしても、花を手折り、散らせたかどうか……。特定の女性と親しい、という噂は聞いたことはなかったと思う。

 同じ顔をしているから、という理由でロディアに近づく女はいたが。あとはそれこそ「踏み台」に、だ。

 苦い思いを封じ込める。多少のお付き合いはあった。が、たいてい「ミネルバ・マクゴナガルとはどうなのよ」と言われて別れた。

 ミネルバとの仲を誤解されることはしばしばあった。しかし、友人以上には進まなかった。居心地がよかったのだ。だいたい、男女がいればすなわち恋愛と神がお決めになったわけではあるまい。何度否定しても疑われる悲しさよ。

 『秘密の部屋』事件以降、なるべく誰とも親しくしないようにした。冬の舞踏会なんてものがあっても、ロディアは誰も選ばずにひっそりと壁際にでもいただろう。

――こんなことは

 望めなかった。学生生活を送り、冬の舞踏会に参加し、パートナーと踊るだなんて。

 曲が終わりに近づく。ゆったりと回り、ぴたりと止まる。夜の黒と月の銀が向かい合い、一礼すれば、指笛と拍手が鳴り響いた。

 

 

 雨が降らないのが幸いといったところかな、とフェンネルは呟いた。空を見上げても月はない。雲に覆い隠されてしまっている。星々もまた同じ。代表選手とパートナーの「お仕事」を終え、フェンネルたちはさっさと薔薇の庭園に退避した――のであればどれほどよかったろうか。

 思い切り目立ったポッター家の双子の兄と、ボーバトンの妖精はひっきりなしに声をかけられた。ダンスカードは埋まっているなんて断り文句が魔法界で使えるわけもなく、群がる連中を丁重にお断りしつつ、無難で妙な勘ぐりをしない信頼のおける女性の下へ走るはめになった。

 フラーも似たようなもので、かくして世間の荒波に二人は引き裂かれたのである。

 利害が一致したパドマと踊り――彼女はロンにご立腹だった……次にパーバティと踊り……ごめんうちの弟が……ハーマイオニーと踊り……すまないうちの弟とロンが、あのボケナスどもめ、といった具合に妙な勘ぐりをしない女性陣に助けていただいた。チョウとも踊った。彼女からは「あなたたち夜空の月よね」と感想をいただいた。そして「セドってあまり目立ちたくない類だから助かったわ」とも。いや、あいつことセドリック・ディゴリーは、立っているだけで一分間に六人の異性を視線を引きつける類だが? と首を傾げた。目立ちたくないが目立っているかわいそうな男は、フラーの相手をしていた。感心なことに魅了によろめかず、ふらつかず、膝を突かずである。フラーとて制御しているだろうが、無意識にこぼれ落ちる香はあるだろう。セドリックはまったく平気な顔をしていた。

 フェンネルは少し前に起こった波乱を思い返し、小さく息を吐く。フラーの手を引いて、ベンチに腰掛けた。引き裂かれた二人は無事に再会し、そっと庭園に忍び出たのである。

 月も星も隠されていても、幸いなことに魔法灯に照らされている。そもそも、城が眩く輝いているお陰で、闇が遠ざけられていた。

「飲み物をとってきたらよかった」

 今は昂揚し、少しばかり暑いくらいだがそのうち冷えるだろう。なにせ真冬で、温室の中ではない。生け垣があるとはいえ吹きさらしのようなものだった。

 なにがいい、と訊く。フラーがフェンネルを見る。青い眼の縁に、うっすらと銀の環が浮かんだ。

「補給なら」

 どうとでもなると思わない?

「ヴィーラは淫魔(サキュバス)じゃなかったはずだけど」

 拳が飛んでくる。はっしと受け止めた。軽い音が響き、苦く笑う。魅了の香がフェンネルを包む。意地でもものにしてやろう、とお思いらしい。

「そんなことをしなくてもいい」

 パートナーになることと、一歩踏み出すことは別だろう、と素っ気なく言う。

「私は淫魔じゃないもの」

 ほんの少し、傷ついた声。フェンネルはふっと息を吐き、魅了を散らした。

「そうとも、君は妖精だ」

 だからこそ、慎重になったほうがいんじゃないか、と抑えた声で告げる。

「ボーバトンの代表選手で名誉を重んじる」

 その場の空気に酔って、男を引き留めるのはいかがなものかな?

「酔っているのはあなたじゃなくて?」

 金の環が浮かんでいてよ、とフラーが囁く。フェンネルは己の未熟さを自覚した。昂っているし、心を閉じているはずなのに、ほんのわずかな隙間から魅了が忍び寄っている。振り払うために魔力を使い、この有様と。きっとフラーの眼には、緑の眼に金の光環を浮かべた男が映っているのだろう。ヴォルデモートを相手にしても心を閉じきった男が、なんと無様なことであろうか。

「――僕は真っ暗闇が嫌いでね」

 こんなに間近で、月に照らされれば酔おうというものだよ。

「仄灯りの夜も悪くないでしょう」

 盗人も、手折られる花も隠してくれる。

「隠れなくていいと思うね」

 花盗人に罪はなし、と言うだろう?

 応えは、かすかな吐息だった。月の精にそっと手を伸ばす。頬はやわらかく、少しひやりとしていた。

 青い眼が隠され、二人の吐息が交わったとき。

――真夜中を告げる鐘が鳴った。

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