【完結】Pandora   作:扇架

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二話

『――今度はグリフィンドールのコリン・クリービーが襲われた。彼は物言わぬ石となり、医務室に隔離されている――中略――渦中の人物ハリー・ポッターの兄、フェンネル・ポッターに取材したところ「骨生え薬を飲んでのたうち回っていただろう弟が、どうやって同じ寮のお仲間を襲うと?」と冷たく言い放たれた。生き残った男の子、優秀なシーカーである弟と違い、特に目立たないが――中略――』

 人気はあるようだ、と書かれた記事を握りつぶし、暖炉に放り投げた。ホグワーツ新聞■号は哀れ紅蓮の舌に咀嚼され、灰となる。同じ寮の誼で取材の申し込みに頷いたし、見本ももらっていたが、改めて読むとなんともいえない気分になるではないか。

 新聞部の主な構成員はレイブンクロー生だ。だから新聞部はレイブンクロー新聞部、とも呼ばれる。もちろんグリフィンドールやハッフルパフの生徒も所属しているらしいし、スリザリンはどうかな……なのだが。新聞部を興したのがレイブンクロー生で、構成員もレイブンクロー生が多ければ、自然と呼び名が固定されるものだ。フェンネルはレイブンクロー生なので、取材を断れるかと言えば……である。ただでさえ弟が「スリザリンの継承者」候補に挙がっているのだ。きっぱりはっきり「ハリー・ポッター継承者説」に否を唱える必要があった。

――成功したかは微妙だけれど

 なぜか後半からフェンネル・ポッター特集になっている。あまり似ていないって失礼な。ウィーズリーの双子は一卵性、ポッターの双子は二卵性なのだ。そもそも、工業製品だってばらけるのだから……これはバーノンが酔って愚痴っていたから知っている……一卵性だろうが、二卵性だろうが、だ。フレッドとジョージだって、外見はともかく性格は異なる。

「君、チェイサーにならないか」

 からかうような声。

「継承者の兄でも歓迎、と」

 皮肉気な口調になる。孤児の生き方には二通りある、とフェンネルは思っている。にこにこと笑顔ないい子となるか、その場はやり過ごして内心でこき下ろすか。ポッター兄弟は後者であった。たまにはいとこに皮肉を言うことはあったが――残念ながら彼は皮肉が通じない。すべてを拳で解決する類。シンプル・イズ・ベスト。考えなし。いわゆる金持ちのドラ息子。

「いやいや、人気者のフェン」

 謙遜しすぎじゃあないか。再び、声が飛んでくる。わざわざ振り返らなくてもわかる。ロジャー・デイビース。レイブンクロークィディッチチームのチェイサーだ。

「色物だから珍しがられているだけ」

 僕は穏和しいんだよ、と切って捨てる。は、と小さな吐息。軽い音とともに、隣のソファにロジャーがやってきた。

「真に穏和な者はそう口にしない」

 真に賢い者もひけらかさないものだけれどね。

「たとえば、ロックハートのような?」

「さあねえ。誰かさんの授業を蹴っているのもいるしね」

 ロジャーは歌うように言う。彼もまた「蹴っている」のだ。文才は認めよう、しかしあれは駄目だと見切りをつけた。フェンネルより二つ上の彼は、来年に普通魔法試験を控えている。そんな年にあれに当たるなんて、が理由だ。

 蹴ってどうしているかというと、空き教室を使って自習に勤しんでいる。寮も学年も異なる面々が、偶発的に集まって、なんとなしに学んでいる、というのが現状だった。防衛術自習の会である。一応、授業の出欠も成績に関わるので全部サボっているわけではない、と言っておこう。

「まあ、考えておいてよ」

 僕はきっと、来年キャプテンになるからね。

 検討するだけならね、と気のない返事をする。弟のように腕をへし折られるなんて嫌なのだが。どうしてあれは、わざわざトラブルに突っ込んでいくのか。

 思い出し玉事件だろ、シーカー選出だろ、真夜中に決闘がどうこう。ノルウェー・リッジバック……弟に「見においでよ」と誘われてハグリッドの小屋へ行ったら手遅れであった。フェンネルはハグリッドを説得しようとした「お前さんに懐くんだから、良い子に決まっちょる」以上終わり。

 確かに、ドラゴンの赤ん坊こと、ノーバートは穏和しかった。肉の切れ端をあげたら喜んだ。ふんふんとフェンネルの匂いを嗅いだし、鱗を掻いてやれば気持ちよさそうにしていたとも。だが、それとこれは別であった。どっちにしろハグリッドはドラゴンを手放すしかなかった。

 お陰で、弟と友達二人……と確かネビル・ロングボトムとドラコ・マルフォイが減点を食らい……。フェンネルは過ぎ去りし時を考えないようにした。終わったことだ。弟のトラブルまみれの一年生編、フェンネルの憂鬱な一年生編は。

 ああ、ニコラス・フラメルって誰と訊かれて「錬金術師だろう」と答えた愚よ。まさか賢者の石が城に持ち込まれているなんて誰が思う。

 みぞの鏡だとかいう危険物やら、賢者の石やら、ホグワーツは物騒だ。

――望みを映す鏡

 弟が変だなあ、しかし寮が違うしな、友達もいるしなで放置していたのだけど、鏡に魅入られていたなんて。お兄ちゃんびっくり。探しに行ったときには後の祭りで、件の鏡は別のところに移されていた。賢者の石の隠し場所として使われた……らしい。

「……で、決闘クラブが開催されるらしいぞ」

 過ぎ去りし時を終わったこととして処理したはずで、しかしそう簡単に割り切れるものでもなく。延々と「頭の痛い一年生編」を蒸し返していたフェンネルは、我に返った。

「決闘クラブ」

 杖十字会じゃなく? と聞き返す。「無能なロックハートの授業を蹴った反抗期どもあらため、賢明な者ども」の自発的な集まりはいつの間にか杖十字会と呼ばれていた。防衛術の自習では据わりが悪かった。自習、と呼んでもよかったのだけど、誰かが言った。そういえば、昔は決闘クラブというのがあったのだ、と。別の誰かが言った。その前身は……。

 秘密結社杖十字会。

 

 新生した秘密結社杖十字会……なんだろうか新生した秘密結社って……の会員あるいは構成員として……構成員のほうがカッコいいな……どこから怒るべきなのか。

 決闘クラブもどきを開催した、無能オブ無能ロックハートに怒るべきか。その昔、名うての決闘者、つまり杖十字会の流れを汲む決闘クラブに属していただろうフリットウィックが開催すべきだったのだ、と怒るべきか。

 決闘で蛇を出すように指示したスネイプに怒るべきか。余計なことをしたロックハートに怒るべきか。

「おもしろい余興ですね」

 フェンネルはかがみ込み、黒く艶やかな蛇をむんずと掴んだ。ぴょん、とニーズルが背に飛び乗ってくる。ロビン、と声をかけても無駄であった。背にニーズルをひっつけたまま、片手に蛇を掴むという珍妙な格好でいるしかない。念のため、杖を仕舞わずにおいた。柳に一角獣の毛。オリバンダー曰く「預かりもの」。誰かの、古い杖。

「生き残った男の子、ハリー・ポッターを怖がらせるためにしては……」

 ちゃちな玩具だ。

 なんてことない、という風に言う。水を打ったような大広間に、かすかな波が広がった。笑いの波。

 ポッター……弟のほうが蛇をけしかけたのなんて、見間違いかもしれない、と。

 だってスネイプはハリー・ポッターに当たりが強いのだ、と。

 ジャスティン・フィンチ=フレッチリーだけは首を振っている。青白い顔でフェンネルの弟、ハリー・ポッターを見ている。

 ヴォルデモートの魔手から逃れた「生き残った男の子」を。次の闇の帝王ではないか、と囁かれている者を。

 誰がちゃちな玩具だと、と蛇が抗議する。フェンネルは眉間に皺を立てた。動物園硝子消失事件の時に蛇の声を聞いていたけれど。やっぱり、フェンネルも聞こえるのか。

 眉間の皺は消えない。出口に足を向ければ、ハリー・ポッターの兄のために人垣が道を開けた。いいや、避けた。構わず進む。弟を置き去りにするのは気が咎めるけれど、今は蛇と弟を引き離すのが先決だ。混乱ひいては恐慌に陥るかもしれない。ただの余興、冗談だという空気に多少は傾いているが……どう転ぶかわからない。きっと、弟が継承者だと名指しされても、ロンとハーマイオニーが助けてくれるだろう。信じるしかない。

 大広間を抜ける。飼い主の背を踏破し、ロビンは肩にたどり着いた。金色の頭を撫でてやる。玄関ホールには冷えた空気がわだかまっている。ローブのポケットに蛇を入れてやった。

 地下へ足を向けたそのとき。

「フェン」

 張りつめた声が追いかけてきた。くるり、と振り向く。ローブの裾がふわりと翻った。

「セドリック」

 フレッチリーの面倒をみなくても? と問いかける。

 黒髪に灰色の眼の上級生――ロジャーと同学年、杖十字会の構成員。ハッフルパフ生。クィディッチチームのシーカー、これまたロジャーと同じく、来年にキャプテンになるであろう男は首を振った。

「アーニーがいるから」

 そうして、フェンネルの隣に並ぶ。どうしよう。レイブンクロー生、ハッフルパフ生の意図が読めず、の図。

「……何のご用で」

「わざと目立ったね」

「質問に質問で返すのってどうかな」

「派手に退場して、的になろうとしただろう」

「 僕は地味なフェンネル・ポッター」

 大広間中の視線を集めたのは認めよう。なにせ弟がトラブルまみれなのだ。多少の手助けはする。空飛ぶフォード・アングリア事件は弟とロンが悪いが。あれだけは擁護できない。その場にいたらフェンネルは止めただろう。後の祭りだけれども。

 うちの弟が申し訳なく……とウィーズリー家には手紙を送ったが……返ってきたのは「うちのロンが悪いのだから」というものであった。寛大すぎないか、ウィーズリー夫妻。

 馬鹿な弟、巻き込まれ体質な弟の所業に胃を痛めつつ、フェンネルは地下へと足を向ける。

「僕のファンなのか、セドリック」

「うちの寮生がいきり立っているから」

 風避けくらいにはなるよ、とセドリック。物好きな男である。きっと来年には監督生になるだろう。

 いきり立つハッフルパフ生に囲まれるのは御免だな、と歩を進める。セドリック曰く「監督生と首席がなだめていたから大丈夫だろう」であるが。

 グリフィンドールは弟の味方として……そりゃあ組分けのとき「ポッターを獲った」と大喜びしていたのだから、味方をしろよである。

 ハッフルパフはマグル生まれが多いらしいので、弟を敵視しつつある。

 レイブンクローにもマグル生まれが数人、たとえばペネロピー・クリアウォーターなど……がいるが、ハリー・ポッターの兄ことフェンネルが所属しているので、事態を静観している。

 スリザリン。わからない。ドラコ・マルフォイの機嫌が悪いことしかわからない。

 考え込みながら絵画の前に立つ。梨をくすぐって、するりと厨房に入った。なにかご用ですか、お坊ちゃまと妖精たちがやってきたので、ポケットから蛇を取り出した。

「寒いのに戸外に放り出したら死ぬだろうから、ここで保護してくれない? あたたかくなったら放してくれていいよ」

 厨房は暖気に満ちている。フェンネルに掴まれて、蛇はぐったりしていた。眠りかけているのだろう。最適な隠れ家だ。

「このためか……」

「寮で飼うわけにもいかないし」

 蛇を飼ってみろ。フェンネル・ポッターがスリザリンの継承者だった! と言われかねない。それかハリー・ポッターとフェンネル・ポッター、二人で継承者だったとか。そうすれば、コリン・クリービー襲撃も説明がついてしまう。片方が骨生え薬でのたうち回っていようと、片方の手は空いているのだから。

 冷えたでしょう、と妖精たちが気を利かせて紅茶を用意してくれた。さらに気の利く妖精が、こっそりと大広間方面の様子を探ってくれたようだ。

「皆様、寮にお帰りに……」

 ハリー・ポッター様は継承者なのでしょうか、と不安そうに訊かれる。

「君たちの英雄が、こんなことをすると思うかい?」

 紅茶をひとくち、ふたくち飲む。セドリックもちゃっかり相伴していた。別にいいけれど。

「で、セドリック。継承者の兄と一緒にいてもいいわけ?」

「君、無駄なことはしないだろうし、ハリーが継承者なら止めるだろう」

 信頼ととってもよいのか。無駄なことって。

「そこは「ハリー・ポッターの兄はとてもいいひとだから」とか……」

「この場合、いい人、悪い人なんてたいした問題じゃないだろう」

 ばっさり切られた。

「ゲラート・グリンデルバルドだって「いい人」に見えたそうだよ」

 随分と大物を、と返す。ゲラート・グリンデルバルド。ヴォルデモートの前の大悪。アルバス・ダンブルドアによって討たれたらしい。歴史書によると「詐欺師」「扇動者」。

 ひとまず、喜んでおけばいいのか。セドリック・ディゴリーはハッフルパフの顔である。本人は否定するだろうが、フェンネルはそう思っている。なにかの拍子にハッフルパフ生の暴動が起こりそうになっても、どうにか止めてくれると信じよう。

「迷惑なことだよ」

 考えあぐね、それだけ返す。セドリックが信じてくれたところで、状況がね、とか、うちの弟は妙な星の下に生まれたらしい、とか言っても仕方がないので。

「僕らが八つ裂きにされなければ、また会えることだろう」

「やめろよそういう、不吉な予言」

 渋面のセドリックを置き去りにして、厨房を抜ける。地下を歩き……耳障りな声を聞いた。

 ふ、と思う。ハリーも僕も蛇の声を聞くとして……実は『秘密の部屋』の怪物は蛇だったりしないかと。

「いや、でも石化能力なんてないよな……」

 ニュート・スキャマンダーの著作には視線が合えば死ぬとかなんとか書いてあったはずだ。だいたい、ポッター兄弟は人を石化させて喜ぶ趣味なんて持っていない。

 仮に弟がなんらかの理由で暴れ回っていたとしたら。

 足を止める。馬鹿馬鹿しい、万が一、荒唐無稽な妄想。

 もし『秘密の部屋』を開けた犯人を知ってしまったとしたら?

「……無理だな」

 セドリック・ディゴリーは見誤っている。フェンネルが犯人を知ったとして、止める方向に動くかどうか。

 状況証拠だけ。物的証拠なし。現場を押さえるのも難しければ。

 フェンネル・ポッターは沈黙を選ぶ。

 空言を真にするには、確たるなにかが必要だから。

 

 

「今度は」

 フレッチリーとほとんど首なしニックですか。

 囁いたのは魔女だ。淡い色の双眸を鋭く光らせ、誰に聞かせるともなしに呟いている。

「グリフィンドールが一人、いいえ二人……ハッフルパフが一人。猫が一匹」

 力なく呟いたのも魔女。少しふっくらとした顔を青ざめさせ、俯き加減に言う。

「残るはレイブンクロー」

 スリザリンは除外としておこう。

 魔法使いが言う。小さく鼻を鳴らし、扉を見やった。

 ミネルバ・マクゴナガル、ポモーナ・スプラウト、フィリウス・フリットウィック。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクローの寮監が集まっていながら……ただ、スリザリンの寮監だけがいない。

 そんな同僚――かつて机を並べた仲の友人に、ミネルバはため息を吐いた。これまた同僚かつ机を並べた仲の友人、寮生が襲われたばかりの魔女の背を優しくさする。彼ら三人の結束は固かった。

「彼らが今、動く理由がありません」

 スリザリンは機知に富む。時流を読む。『例のあの人』が隠れているこの時に動いても仕方がない。狼煙を上げる理由がない。

「左様」

 円卓に一席を埋める大魔法使いが首肯した。ライトブルーの双眸でかつての教え子たちをぐるりと見回す。

「五十年前の犯人と同一人物か? 儂は違うと答えよう……」

 トム・マールヴォロ・リドルは隠れておる。

 囁きに『秘密の部屋』事件の当時ホグワーツに在籍していた三人、トム・マールヴォロ・リドルと同学年だった三人は身を強ばらせた。彼らは今でも信じられないでいる。学年首席だった彼が……彼らの代で最も優れていた彼が犯人だったなんて。後にヴォルデモートと名乗るだなんて。

 しかし、どこかで納得してもいる。ヴォルデモート。トム・マールヴォロ・リドル。戯れのような並び替え、あだ名……。

 戯れのような、石化事件。

 時折、本当に時折、トム・マールヴォロ・リドルという青年は冷たい眼をしていた、とミネルバは思い出す。ミネルバ、と親しげに呼ばわって。そんなに優秀なのにどうして。

 マクゴナガルなんて姓を名乗るのか、と。不思議そうに、いいやそう見せかけて蔑むように。柔らかく、どこか作った優しげな声で。

 今にして思えば、本能で察していたのだろう。無意識のうちに不信感を打ち消していたのだろう。トムが優秀だからではない。彼の片割れだったから。

 彼の兄が、ミネルバを蔑むわけがない。だって彼は優しい人だった。

「……彼は違います。私はそれを知っている。おそらく訊いても詮無きこと。本人も否定するでしょうが」

 ミネルバは俯く。なぜか、ダンブルドアの眼を見られなかった。

「私は、おそらく」

 トムの毒牙から逃れたのです。言って、ぶるりと震える。誰にも言ったことがない話。五十年前の秘密。黙っていてと言われたから。

「そっちに行くのはやめておけと。よくない卦が出ていると言われて」

 違う道を通ったんです。ただそれだけの記憶。

「その日、マグル生まれの子が石化しました……」

 張りつめていた彼の横顔を思い出す。行くんだ、とそっと彼女の肩を掴み、送り出した。ふわり、と涼やかな香りがした。ポケットに手を入れていた。きっと杖に手をかけていた。なにかを警戒していた。

「私が混ざり者だから」

 純血からすれば、半分「も」穢れた血が流れているから。いいえ、本当は。

「彼の友人だったから」

 声が震える。友人だった。けれど、どこかに消えてしまった。ミネルバに杖を託して。ある日、自宅の机の上にあった、彼の杖。手紙には素っ気なく「オリバンダーに託してほしい」とだけ書いてあった。誰かが僕の杖を手にするところを視たのだと……。

 杖を託されるほどの友であったのだ。友になったのだ。

「気に入らなかったのでしょう、トムは」

 声がかすれる。そこに、ミネルバのものよりさらにひび割れた声が被さった。

「私もだ……」

 ミネルバ、私もそうだった。両の手を震わせ、友人は眼を見開いていた。

「混ざり者。そうだとも。私の場合は……小鬼の血だが……」

 気に入らなかったのだろうね。私も、彼とは仲良くしていたから。

「トムは、片割れを」

 ロディを奪われたくなかったのかもしれない。

 

 

「遊べばいいよ」

 君はそうしたいんだろう、トム。どんな玩具を手に入れたか知らないが。なぜなのかも分からないが。

 ミネルバはこの場を離れた。彼はそっと息を吐く。まさか混血にまで手を出そうとは……。

「どうせ僕には止められない」

 なあ、スリザリンの継承者。

「僕には『秘密の部屋』の場所も分からない」

 嬉々として出自を明かされた時の気持ちをどう言い表せばいいか、彼は知らない。僕がスリザリンの継承者だと囁かれた時の気持ちも。『秘密の部屋』を開けたと言われた時の気持ちも。なにもかも。

「だってお前は裏切っただろう」

 歌うように、片割れは言う。ひとつ()の兄は、囁く。

 なあマクファスティー? 片割れ。ひとつ胞の弟。

「僕を置いて、養子になった」

 さっさと穢らわしい姓を捨てた。

 眼を血走らせ、かつて彼が贈ったノートを……上等なそれを抱えるようにして、兄は言う。

 彼は眼を光らせた。証拠もなく、現場を押さえるのは困難。告発は実質的に不可能。だから沈黙を選んだ。選ぶしかなかった。

 だけれども、譲れないものはあるのだ。

「懲りずにミネルバと……フィリウスに手を出してみろ」

 永遠に君のもとを去ってやる。

 自分そっくりな顔が、眼の色だけ違う顔がひく、と歪む。信じられない、と言わんばかりに。

「永遠に……?」

 ああ、と吐き捨てる。馬鹿げたことに、小さい頃を思い出してしまった。ロディ、お前がほしがっていたから、と差し出された玩具。ほかの孤児から奪ったもの。いらない、と突き返したら、なんで? と返された。

 なんで? ロディのためにしたのに、と。

「こんな遊びは、お仕舞いにしてくれ」

 兄さん、と囁いて踵を返した。

 ロディア・オミニス・マクファスティーは、トム・マールヴォロ・リドルに背を向けた。

 

 

 そうして数日後。

「お前のことをいやらしい眼で見ていた穢れた血を」

 排除してやったよ。

 にこにこ、にこにこと笑顔で言われ……己と同じ顔で囁かれ。

 燃えるような紅を向けられて。

 彼は悲鳴を上げた。

 なんてことを、という叫びは意味がない。時は巻き戻せない。

 人は死ねば終わりなのだ。

「だってお前が永遠に去るなんて言うから」

 空き教室。誰もいないそこ。黄昏の光が忍び寄り、影が伸びる。

「腹が立ってね」

 マートルだっけ。お優しいお前は気にかけていたね……。

「心配するな」

 もう終わりにする。潮時だから。

 額にくちづけて、ひとつ胞の兄が去っていく。優雅に、ゆるぎない足取りで。

 燃えるような黄昏のせいか。

 彼は血染めの足跡を幻視した。

 

 事件は幕を閉じた。犯人が捕まった。トム・マールヴォロ・リドルは英雄となった。

 英雄の弟は、髪の色を黒から白銀へと変じた。

 皆が囁いた。ああ、きっと『秘密の部屋』事件で神経をすり減らしていたんでしょう。ほっとして、なにかが変わってしまったんでしょう。魔法族では時たまあるのだもの……と。

 英雄の弟は知っている。この変化が、心的要因ではないことを。

 血に由来することを。

 偽物の英雄がスリザリンの血を顕したことによる。

 共鳴(ともなり)であると。

 

 

 

 ジャスティン・フィンチ=フレッチリーとほとんど首なしニックの襲撃を境に、スリザリンの継承者は鳴りをひそめた。季節が冬だったことが関係しているのか、それともほかの理由があるのか、確かなことはなにも言えない。

 ハリー・ポッターの双子の兄は、次の襲撃が起こらない理由など知る由もなかった。なにせ彼には雑事がまとわりついていた。それか、降りかかっていた。

 こびりついていた、と言ってもいい。

「蛇語使い、ほぼ継承者。生き残った男の子。次の闇の帝王か……が怖くて」

 僕はそうでない、と。

 赤に青に黄。白に黒に……とローブは酷い有様だ。一日二十四時間三百六十五日杖を構えているわけでなし。しかも、曲がり角に隠れての不意打ち。たとえば盾の呪文を展開するにしても、間に合わない。結果としてカラーボールだかインクだかまみれになってしまった。

 もうこのまま授業に行ってしまおう、とフェンネルは堂々と廊下を行く。神がいかなる非道、いかなる試練を下そうが、受けて立とうではないか。いやもう、殴り倒したいなどこかの神。ふざけているのか。

 いとことお仲間に石を投げられたときよりはマシ、弟がうっかり妙なことをして、ご飯抜きになったときよりもマシ、妖精のドビーがやらかしたせいで監禁されたときよりマシ。弟の手を引いて「家出」しようとして連れ戻されたときよりマシ。学校の先生に助けを求めても「育ての親なのでしょう?」と取り合ってもらえなかったときの絶望よりもマシ。

 フェンネル・ポッターは自分がいかに無力か知っている。大人がいかに残酷かも知っている。双子の弟という片割れがいなければもしかして、心が折れていたかもしれない。そう思うほどに。

――少なくとも

 ひとりぼっちではなかった。弟は「不思議なこと」をよくしでかして、フェンネルもよく巻き込まれていたが……わずらわしいと思ったことはあまりない。困ったな、と思ったことはあった。弟はよくものを壊していた。なにかの拍子に花瓶が割れたりとか。フェンネルが慌てているうちに花瓶は元通りになった。今にして思えばレパロを無意識に使っていたのだろう。時たま、間に合わなくて弟が給水塔の上に登っていたりもしたが。お兄ちゃん絶句したよ。

 弟がやらかして兄が収拾する。よって、ダーズリー夫妻のポッター兄弟への評価は「厄介者」「まのつく感じ」の弟「穏和しく」「まともな感じ」の兄であった。ポッター兄弟の兄のほうは弟に比べて辛く当たられずに済んでいた。どっちみち弟の巻き添えを食うことが何度もあったので、誤差の範囲でしかなかったけれど。

 成人したらダーズリー家を出るんだからと指折り数えて、祈るように耐えていた日々に比べれば『秘密の部屋』事件がなにほどのものか。

 フェンネルは唇を引き結ぶ。ささ、と人が避けていく。どうせなら真っ赤な塗料でもかけてくれればよかったものを。きっとド迫力であろう。

 呪文学の教室に飛び込めば、フリットウィックがため息を吐いた。杖の一振りでローブを綺麗にしてくれる。下手人は、と訊かれたので首を振った。下手人。なかなか古風な言い方だけれど、意味は分かった。犯人のことだ。

「イースター休暇に帰省してはどうかな?」

 授業の後、フリットウィックに残るように言われたら案の定だ。フェンネルは首を振った。

「嫌がらせをする連中と仲良くできそうな、大変優しい叔母夫婦ですので」

 フリットウィックが目玉をぐるりと回した。ああ、なぜダンブルドアはそんなところに……という、小さな小さな呟きを、フェンネルの耳は拾い上げた。それはフェンネルだって思っていた。魔女だったという母の妹がなぜああなのか。一応、それなりに外面はいい。なにせ「まとも」であることに全力を尽くしている。かなしいかな、彼らの一人息子はドラ息子街道を驀進中。どうか変なクスリをやらないことを祈ろう。あと借金の連帯保証人にされないように気をつけなければ。

 フェンネル・ポッターの憩いの場所は図書館であった。本は孤児にも知識を授けてくれた。それはマグルの学校の、小さな図書室でも変わらない。青少年にあらゆる危険を説くパンフレットだろうが、歴史書だろうが、小説だろうがなんだって読んだ。なにかに没頭していれば現実を忘れられた。

「学校に残してあげられればよいのだが……」

 はあ、とフリットウィックが――レイブンクローの寮監がため息を吐く。そうしてやりたいのはやまやまだが、という憂い顔。フェンネルは瞬き……過ぎったなにかが、自覚しないままに消えていく。

「仕方ないですよ」

 ぽつんと返す。気持ちだけでありがたい。フリットウィックは教師で、フェンネルは生徒だ。フェンネルを、ひいてはポッター兄弟だけを特別扱いはできないのだ。

 軽く会釈して、彼の元を離れる。

「……誰かとともに行動しなさい」

 レイブンクローは叡智を尊ぶ寮である。しかし、血の通っていない叡智など、空虚なものだと仰せだ。

「検討しておきます」

 いい加減な返事を背後に投げる。フェンネル・ポッターは一匹狼の傾向がある、とは誰が囁きはじめたことなのか。元々レイブンクローは個人主義の集まりである。べたべたと仲良くするのは主義に反する。

 巻き込んで恨まれるのも面倒だ、と教室の扉を開ける。外へ滑り出て。

 ぽん、と肩を叩かれた。

「やあ色男」

「ねえ一匹狼」

 さすがに水臭いだろう、と左右から叱責される。

「なんのことかな」

 ゴールドスタイン、パチル、と返す。再度、肩を叩かれた。いやどつかれた。

「待っていてくれたんだ、ありがとう。アンソニー、パドマ」

 礼儀正しく言ってみた。不満そうなため息が二つ。じろりと睨まれたが、ひとまず合格らしい。

 彼らは無言で歩を進める。いいから黙ってついてこい、と圧をかけられ、フェンネルはやむなく従った。レイブンクローには意外とお節介が多いのである。個人主義のくせに。

 彼らの主張はこんな感じだ。

 レイブンクロー二年生の誉れたる、フェンネル・ポッターがどこぞの誰か、もっといえばよその寮に害されるなんて腹立たしい、と。そういう理屈をくっつけるのである。

 顔色が悪いだのなんだの言われながら、そして「友人たち」の眼がないところで嫌がらせを受けながら、フェンネルのホグワーツ二年生編は過ぎていった。

 彼は双子の弟が「犯人探し」に動いていることも知らなかったし、去る十二月にポリジュース薬を完成させ、スリザリン寮に潜入したことも知らなかった。

 なぜかハーマイオニーが入院したのは噂で知った。お見舞いに行ったら拒否された。僕は嫌われるようなことをしたっけ? とさすがに衝撃を受けたと言っておこう。弟が気まずそうな顔で「変身術に失敗して……猫っぽくなったんだ」と補足を入れた。好奇心にかられ「尻尾は生えたの?」と訊けば呪いが飛び……なんて一幕もあった。

 まさか弟がポリジュース薬を作って探偵ごっこをしているなんて思いもよらなかったのである。ハーマイオニー、かわいそうに……ですべてを片づけた。

 双子の兄は、弟が奇妙な濡れてもなんともならない、傷つきもしない日記帳を手に入れたことも知らなかった。

 双子の兄はそれどころではなかったのだ。なにせ蛇語使いではないと思われていたし、穏和しいと思われていたし、双子の弟のように目立たなかったので。百年ぶりの最年少シーカーに選ばれたわけでもなく、賢者の石を守ったわけでもなかったので。

 格好の嫌がらせの的であったのだ。

 まったく望んでいなかったものの、いとこのせいで色々と鍛えられていたフェンネルは、日々の嫌がらせ……生卵をぶつけられる、ケチャップ、血糊のようななにか、虫がどっさり。蜥蜴はかわいそうなので回収して逃がし……しているうちに日々は過ぎていった。

 悪夢のようなバレンタイン。小人に追いかけ回され、へとへとになった兄は知らなかった。

 弟が、グリフィンドール寮でとある日記帳に、そこに宿る思念に「過去」を見せられていることなんて。

 その日記帳にT・M・リドルと記されていることなんて。

 知ったところで、フェンネル・ポッターは「そんなわけのわからないものは捨てるんだ」とぴしゃりと言っていただろう。

 なにせフェンネル・ポッターはT・M・リドルが誰なのか、知らないのだから。

 すべては兄の知らぬままに進行していく。春頃、弟――生き残った男の子、ハリー・ポッターの手から日記帳が消え失せた。

 

「これで」

 フェンが犯人じゃないってわかっただろう。

 ハッフルパフ対グリフィンドール戦――が開催されるはずだった日の翌朝。大広間。

 レイブンクロークィディッチチームのチェイサー、新生した秘密結社杖十字会の一員、ロジャー・デイビースは言い放った。ハッフルパフの長テーブルに向かって。すっくと立ち、腕を組み、眼をぎらつかせ、まさしく「怒れるレイブンクロー生」と化していた。

 その言葉の一つ一つが鋭く、重い。普段ちゃらちゃらしている浮き草野郎ことロジャー・デイビースだって怒ることはあるのである。

 普段は面倒だから――なにせ時間の無駄だし――怒らないだけで。

「もちろん、僕はフェンやハリーが犯人だとは思っていないよ」

 射かけられた矢、もしくは投擲された槍を受け止めたのはセドリック・ディゴリーであった。あくまでも、穏やかに、辛抱強く説得を試みる。

「君はな? 僕は君のことは信用しているともセドリック」

 ほかの、無駄に数が多いやつらと違って。

 ちくちくと放たれた嫌味に、ハッフルパフの何人かが俯いた。セドリックは天を仰ぐ。

「ごめんね、無駄に数が多くって」

「いいともセドリック」

 は、とロジャーは笑う。彼に舌戦もとい抗議を任せよう、と着座したままの一同――首席、監督生は「まああいつ、フェンに眼をかけていたしな」と事態を静観していた――は黙したまま。しかし、彼らの双眸には冷ややかな光が躍っていた。鷲に睥睨される穴熊の図。

「いいか、君たちにも何割かの責任があるんだぞ」

 ロジャーは吼えた。そりゃあ面白くなかった。フェンネル・ポッターに目を付けたのは自分だという自負があった。つまるところ、来年のクィディッチチームにチェイサーとして放り込むと決めていた。ついでに言えばフェンネルは性格がよかった。仕事ができる性格の悪い者より、多少仕事ができなかろうが性格がよいほうがいいだろう、がロジャーの考えであった。クィディッチチームには穏やかな気質の彼が必要である。なにせ浮き世離れしたルーナ・ラブグッドの「失せもの捜し」を手伝っているところをロジャーは見た。しかも、飛手の才能もあると見込んでいた。彼の双子の弟があまりにも目立っているだけのことだ。

 ポッター家はよい飛び手を輩出するのは調べがついている。彼らの父ジェームズ・ポッターはチェイサーであったらしい。ほかにもトロフィールームの優勝杯には、ポッターの姓を持つものが散見された。後で教えてやろうと思って、すっかり忘れていた。たしかその代の首席としてジェームズ・ポッターとリリー・エヴァンズ……ポッター夫人の旧姓だ――が卒業したことも教えてやろうと思っていたのに。

 全部継承者のせいである、とロジャーは鼻を鳴らした。そして、恐怖に我を忘れた愚かな穴熊、いいや羊どものせいだ。

「今後一切」

「フェン……とハリーに手を出させるんじゃないぞセドリック」

 一語一語、叩き込むように言った。セドリックはロジャーと同学年。四年生なのだが関係ない。なにせ求心力があり、ハッフルパフの顔役のようになっている。ひとまず大広間という公衆の面前で釘を刺しておけば多少の歯止めにはなるだろう。朝食の席の騒ぎだというのに、教師たちは動かないことだし。

 ちらりとレイブンクローの寮監を見やれば、片眼を瞑られた。許可してくださると。さすがはフリットウィック。

「ただでさえ気が休まらないのに」

 とどめにペネロピーとグレンジャーが襲われたんだ。

「倒れてもおかしくないだろう」

 ぴしっと言い、ロジャーは着席した。よくぞ言った、と肩を叩かれる。暴走したハッフルパフ、被害者のレイブンクローの図が完成した。これでまだ嫌がらせをするなら、正々堂々受けて立てるというものだ。

「かわいそうに」

 二年生――フェンと同学年のパドマ・パチルが呟く。

「フェンってば平気だって言って強がって」

 熱を出して寝込んでいるなんて。

 穴熊ども、ただじゃおかないんだから。

「気持ちは分かるけどね」

 ロジャーは軽く言った。

「穴熊は愚かだったけれど……僕らまで暴走しちゃあいけない」

 本当に悪いのは継承者だ。

 いったい、どこにいるのやら。

 ロジャー・デイビースは気づかなかった。グリフィンドールの長テーブルに、顔色の悪い女の子がいることなんて。その赤毛の女の子が歯を鳴らしていることなんて。

 大広間での「舌戦」に気をとられて、誰一人、気づかなかったのだ。

 誰一人、思いもしなかったのだ。

 『秘密の部屋』事件の犯人が、一年生の女の子だなんて。

 

 

「気持ちは分かる」

 だが、どうしようもないのだ。

 ホグワーツ――校長室。

 彼は卓の向かいに眼をやった。正確にはディペット校長へと。弱々しいと思うのは、彼の思いこみだろうか。それとも、窓から差し込む、禍々しいまでに赤い夕日が、校長の顔を食らっているように見えるからか。『秘密の部屋』事件が校長から生気を奪い取ってしまったからか。

「……でも、」

 言い掛け「けれど」と直す。子どもの、感情任せの談判だと思われたくなかった。たたでさえ校長は疲れていた。安堵して、気が抜けてもいた。感情的にまくし立て、不興を買うのは避けたかった。

「ルビウスが犯人だなんて」

 無理があるのでは。

 ぽつ、と落とした呟きが茶器に吸い込まれていく。揺らめく紅茶色に映るのは、険しい顔をした朧な影。銀の髪に緑の眼の魔法使い。

 レイブンクローの女の子が殺されて、犯人が捕まった……と噂が流れた後。いいやあれはただの事故だった、と噂が流れた後。にっこり笑った、ひとつ胞の兄に「犯人」の名が囁かれた後。彼は衝撃のあまり倒れ、臥せったのだ。ちらほらと見える真っ黒いなにか……点々と散るくすんだなにか。ぼうと浮かぶ二つの赤い火。掴み所のない夢に魘され、起きてみれば髪の色が変わってしまっていた……。

「まだ三年生ですよ」

「君の兄が現行犯逮捕したのだ」

 校長は宥めるように言う。彼は頭を振った。

「たしかにルビウスは問題を起こす子ですが……」

 なんにせよ、不自然です。

 彼女に外傷はなかったと聞いています。ただ心臓が止まったと。身体が活動を停止したと。本人も気づかぬうちに死神に攫われたかのように。

「一連の騒動は止んだ。犯人は捕まった」

 不幸な事故だった、という形になった。

 誰あろうトムが、あの子が――。

「ルビウス・ハグリッドに悪気はなかったのだ。孤児で、ものを知らなくて。だからアズカバン行きまでは、どうかと」

 そう願ったのだ。

 心の震えが伝播したかのように、校長の声は波打っていた。老人は疑ってもいない。それどころかトム・マールヴォロ・リドルを賞賛している。なんと出来た子か、と。なんと出来た生徒か。特別功労賞にふさわしい、と。

「ルビウス・ハグリッドは成績不良による退学」

 そう決定した。

 温情だ、と言わんばかりの声。校長は劣等生の三年生などどうでもよいと仰せだ。すべてを伏せる。『秘密の部屋』は闇に葬り去る。ルビウス・ハグリッドの「犯行」を公にしない。レイブンクローの女の子は事故死であった。トム・マールヴォロ・リドルの口を特別功労賞でふさぐ……。

 そうすれば、すべて元通りだと。

「兄曰く、物を知らない孤児ですよ」

 放り出して、その後は。

 殺人が起こって数日。目覚めた彼は、病み上がりの身体を引きずるようにして、校長室に向かったのだ。「退学する予定」で、どこかの室に軟禁されているらしい子を救うために。

 兄によって罪を着せられた生贄を救うために。

「退学する者だ」

 ホグワーツが関知する問題ではない。

「……もしトムが犯人で、退学したとしても同じことをおっしゃいますか」

 校長先生。

 丁寧に言う。同じ孤児とはいえ、トム・マールヴォロ・リドルは優秀だ。容姿に秀で、性格もよい。そしてルビウス・ハグリッドは劣等生で問題児。

 後者などどうでもよい、と校長は言っている。

「馬鹿な。トムが犯人なわけがないだろう」

 校長はくすくすと笑った。どこか箍が外れた、高く耳障りな声であった。トム・マールヴォロ・リドルのことを気に入っているのだ、校長は。長期休暇の間も学校に残れるように検討したくらいには、気に入っている。彼は「そうしてやりたいのはやまやまだがね、トム」と校長が言ったのを聞いていた。だって彼もその場にいたので。お前は孤児院に戻らなくていいんだ。多少、助力してくれてもいいだろう、と校長室に引っ張っていかれたから。『秘密の部屋』が開かれる前。平和だった頃の話だ。

「ああ、まあ……ロディア。君のお兄さんは優秀すぎる。犯人まで捕まえるほどだ」

 慰めるように、校長は言う。笑いの名残を張り付かせたまま。兄に思うところがあるのでは、かわいそうにとロディアを哀れむ。双子で、容姿はそっくりで、監督生。成績優秀でも兄には一歩及ばない。気に病むことはない、と。

 彼は眼を瞑った。ふつふつと、腹の底からなにかが噴き上がる。校長はなにも見ていない。両の眼は飾りだ。すっかり騙されている。真実を口にしても聞かないに決まっている。『秘密の部屋』事件。石化した被害者と、殺された女の子。ルビウス・ハグリッドがなにかを飼っていて事故になったと? マンドレイク薬でやっと解けるような石化の力を持つ怪物が、三年生の手に負えるものではないだろうに。

 おかしいと訴えてもどうしようもない。ルビウス・ハグリッドは追放される……。

 冤罪で。なにも悪くないのに。孤児で、後ろ盾もなく、劣等生だから。

 彼はいい子なのだ。少なくとも、禁断の森は彼を受け入れている。生き物に好かれている。

 いいものを見せてやると言われ、森についていったことがある。赤ん坊の一角獣を見せてくれた……。なんだか沈んだ顔をしている、と。殺人が起こった翌日。兄に真相を明かされたあと。混乱し、校庭をさまよっていたら、心配してくれたのだ。

 ほんの、数日前に。

 そうしてルビウス・ハグリッドは犯人に仕立て上げられた。

――もしかして

 自分と出かけたばっかりに。兄の目に付いてしまったのかもしれない。

『あんな穢れた半巨人』

 お前にふさわしくない、と兄は吐き捨てた……。

 嫌な予感がした。兄の犯行は終わったはずだった。最後の仕上げで女の子を殺し……おしまいにしたはずだった。祝祭は、生贄の死で幕を閉じたと思っていたのに。

『後始末まで』

 きっちりしないとね。

 そう言って、兄は眼を細めた。

 完全犯罪を成し遂げた喜びに頬を紅潮させ。

 お前にはなにもできやしないとせせら笑っていた。

――たしかに

 彼はなにもできなかった。犯人を知っていても告発すらできていない。しても意味がないからだ。兄は逃げおおせる。双子の弟がなにを言ったところで取り合ってもらえない。優秀な兄に嫉妬した、おかしくなったと皆が噂するだろう。

 『秘密の部屋』は閉じられただろう。怪物は封じられただろう。もう手遅れだ。

 この件は、だが。

「……森番は老いているはず」

「ロディア?」

 不意に言った彼に、校長が眼を眇める。知らない誰かを見るように。

「ルビウス・ハグリッドは生き物の扱いに長けています」

 さすがに、ドラゴンは手に余るでしょうけれど。

「なにを」

「禁断の森にも踏み込める。それに、彼はとても頑丈ですし……」

 不安じゃないですか。先生。

 そうっと矢を放つ。

「退学させた生徒が。『秘密の部屋』を開けたらしい犯人が」

 なにを口走るのか。

「なるほど、兄は優秀です」

 ですが、甘いところがある。

「リドル……」

 それは、と校長が呟く。彼は唇に人差し指を添えた。内緒ですよ、秘密ですよ、と言うように。

 囁く。

「リドルは兄。僕はマクファスティー家のロディアです」

 ドラゴン使い一族の養子、ロディア・オミニス・マクファスティーが申し上げます。

「ルビウス・ハグリッドを」

 手元に置かれるとよろしいでしょう。きっと役に立つはずです。

 ね? と小さく笑う。

 兄と同じ顔で、兄と同じように笑ってみせる。誰もが引き込まれる、魅力的な笑顔をつくる。

 彼はトム・マールヴォロ・リドルの弟。ひとつ胞の弟。

 英雄の弟となった身だ。ならば、利用させてもらうまで。

「そう……だな」

 ロディア。

 校長の眼が泳ぐ。彼は手に取るように校長の考えが分かった。

 三年生が事件を起こせるか? しかし、現行犯逮捕であった。事態は終息した。すべては終わった。いや、終わらせたい。ホグワーツの閉鎖を避けられたのだから。己の代で汚名を残したくない。

 引っかかりはある。疑問はある。だが……ルビウス・ハグリッドが「怪物」を飼っていたのはおそらく事実。

 退学にして……それで片づくか。

 森番にして、ホグワーツに押し込めて。

 監視すべきだ。ああ、そうだ。そうしよう。

「――に彼はいる」

 校長は湿った吐息を漏らす。

「もしよければ、」

 君が迎えに行ってやりなさい。

 彼は立ち上がり、一礼する。

「校長先生ならば」

 賢明なご判断をなさると思っていました。

 では、と踵を返す。ふわりとローブが翻る。茶器から上る湯気が、偽の英雄の弟に別れを告げるようにゆらめいた。

「ロディア」

 螺旋階段を駆け下りる途中、柔らかな声に呼び止められた。

「ダンブルドア先生」

「随分と慌てているようだが」

 立ち止まる。ライトブルーの眼を見返した。どこか憂いを帯びた双眸。変身術教授。ホグワーツ副校長。いずれ校長になるであろう人。

 きっと、そう遠くないうちになにかを――偉大なことを成すひとだ、と彼は予感している。

「ルビウスを迎えに行くんです」

 校長先生にお願いして、森番に……と囁く。ライトブルーの眼から束の間、憂いが晴れた。

「ああ……儂もそう進言しようと思っておったが」

 よくやった、ロディア。優しく言われ、小さく頷く。お行き、と促され、彼は螺旋階段を駆け下りる。ぽん、と最後の数段を飛び降りた拍子に、青とブロンズのネクタイが揺れ、監督生バッジがちかりと光った。

 そして、ロディア・オミニス・マクファスティーは。

 偽善と分かっていながらも、ルビウス・ハグリッドを老森番のもとへ連れて行った。

 泣きじゃくる彼にこう言った。

 祈りと予感を込めて。

 ねえルビウス。

 いつかきっと、君は悪くなかったんだと明らかにされるから。

 僕は、君が怪物を使ってなにかをしたなんて思っていないから。

 なんにもできなくて、ごめんね。

 

――もがくようにして眼を開けた

 まざまざしい夢を振り払うようにして瞬く。薬の匂い。つんとしたそれが、覚醒を促す。

 記憶という海の奥底から、過去という泡沫を浮かび上がらせる。

 ゆうらりゆらりと頼りなく漂っていたそれは、あまりに儚く、脆かった。もしかしたら、すぐさま弾けて消えて、海の底に還ってしまうほどに。

「フェン」

 緑の眼が、彼を――フェンネル・エムリス・ポッターを射抜いた。心配をいっぱいに讃えた双眸が、彼をつなぎ止めた。

「君、倒れて……」

 熱まで出して、と額に手を当ててくる。弟の好きにさせながら、フェンネルは呟いた。

「ペネロピーとハーマイオニーが襲われて……」

 うん、と弟は頷く。

「僕、君が酷い目に遭っているだなんて」

「ダーズリー家に育てられたものの宿命だ、弟よ」

 ぼんやりと言う。遠い遠い夢、けれどもまざまざしいそれに引きずられているフェンネルに、生き残った男の子は楔を打ち込んだ。

「昨日、ハグリッドがアズカバンってとこに連れて行かれて」

 ダンブルドアは停職に。

 フェンネルは眼を見開く。ハグリッド。『秘密の部屋』。怪物。石化。死んでしまった女の子。事故。いや殺人。

 次々と浮かび上がる泡沫。眠っていた記憶。

 頭が痛い、と言って首を振る。お大事にと言って弟が去っていく。

 布団を被り、身を丸める。痛みと熱が襲い来る。過去の傷が開かれる。欠けた記憶が一片、また一片と突き刺さり。

「……ああ」

 彼は思い出した。

 今世の名をフェンネル・エムリス・ポッター。ハリー・ジェームズ・ポッターの双子の兄。ふたつ胞の兄。

 前世の名をロディア・オミニス・リドル……後にマクファスティー。

 トム・マールヴォロ・リドルの双子の弟。ひとつ胞の弟。

 そうして、前世があり、今世があるということは。

 かつての己は死んだのだということを。

 確信だけがある。

「そうか」

 君は、いいやお前は。私を殺したのだろう。

 トム・マールヴォロ・リドル。

 戯れに私が贈った名を。

 ヴォルデモート、という。

 

 

 ぴしゃん、と音がする。

 巨大な、古びた像。同じく古びた天井。したたり落ちる水滴。

 ひび割れた石床。あちこちにある蛇の装飾。

 サラザール・スリザリンの力を誇示するような。

「違うんだよな」

 レイブンクロー寮の一室に、尖った声が響く。寝台の上に胡座をかき、フェンネルはマグカップを――澄んだ水面を睨みつけた。問い方が悪いのか、それともフェンネルという器が未熟だからか。それとも「前世」を思い出したことによる影響か。

 ハグリッドが投獄され、ダンブルドアが停職となり。季節は春から夏へと移り変わっていた。

 そして、とフェンネルは顔をしかめる。

――未だ

 『秘密の部屋』がどこにあるのか明らかになっていない。

 相応の広さが必要だ。地下にあると考えるのが自然。しかし、そこで行き詰まる。ひとつ胞の兄は、スリザリンの継承者と名乗った者は、いかにして『秘密の部屋』を見つけたのか。

 そもそも、ろくでなしの兄は肉体を失ったなにかと化していて、アルバニアに潜伏中……のはず。ホグワーツに乗り込むはずがない。事件を起こしているのは別の誰か。現在ホグワーツにいる蛇語使いは二人。ハリー・ポッターとフェンネル・ポッター。今世の双子の弟に、ひいてはポッター家に蛇語を発現させるほどの濃い血が流れているとは思えない。弟が蛇語を話せる理由は謎だ。ひとまず、本題ではないのでおいておく。

 フェンネル・ポッター、前世をロディア・マクファスティーはもちろん事件に関与していない。消去法で考えれば犯人に該当する者はいない、ということになる。

 なるのだが、現に事件が起きてしまっている。

 闇の帝王、ヴォルデモート。『名前を言ってはいけない例のあの人』ならば。

「……闇の品を用意して、仕込んでいても……」

 おかしくはない。たとえば、たとえば……。

 宙に眼を泳がせる。時の神の、わずかな恩寵を受けし者の呟きを聞く者は誰もいない。十八時以降、寮の外に出ることは禁止されている。行き場のない寮生たちは談話室に集まる。つまり、わざわざ寝室に行く生徒はいない。

「記憶を、封じ込めて」

 頭が痛い。胸が痛い。心臓のあたりが、灼けるように。

 たぶん、正解なのだろう。励まされるように言葉を紡ぐ。

「誰かを操る……」

 『秘密の部屋』の怪物はバジリスク。蛇の王。サラザール・スリザリンの遺した素晴らしいものだ、といつかどこかで、兄は言っていた。赤い眼を爛々と光らせて……。

 迎えに来た、と言っていた。

『なあ、ひとつ胞の弟よ』

 バジリスクをひそかに連れ出し……お前の大切な……を。

 まとめて殺してやろうか?

 できなくはない。俺様はヴォルデモート。

 闇の時代の幕開けを告げる者。

 誰もが俺様を畏れるであろう。

 眼を瞑る。かつての、曖昧模糊とした記憶を振り払う。過去に振り回されてはならない。大切なのは再び開かれた『秘密の部屋』を封じること。二度と事件が起こらないようにすること。

 穢らわしい()り手を滅ぼすことだ。

 厳戒体制下のホグワーツで、単独行動をするのは容易ではない。透明マントは弟に渡している。透明呪文を使えなくもないが、ふらふらと出歩いても仕方がない。

 授業を受け、引率され、授業を受け、引率され……を繰り返し、夜に寝室で占いをする。いずこかにまします神に問う。

 そんな日々を過ごした果てに。

 思いあまって血を数滴捧げ、考え抜いて正しい問いに行き着いた。

「『秘密の部屋』の」

 入口は、いずこ。

 マグカップではなく硝子の水盆。満たされた水が揺らめき、答えを示す。

「蛇口、蛇」

 女子トイレ。

 示された手がかりを組み立てる。五十年前も今も、主な被害は石化。バジリスクと眼が合ったものは死ぬというのに。いわゆる邪眼。強力な呪いである。

 水たまり。ゴースト。鏡。直にバジリスクの眼を見なければ、もたらされるのは疑似的な死。停滞だ。だから、誰も死ななかった。

「……そして彼女だけが」

 レイブンクローの女の子だけが……マートルだけが死んだ、と呟いた時。

 生徒は絶対に寮から出ないように、という悲鳴のような声が響いた。

 何事か、と瞬くうちに、続けて声がした。音響呪文によって増幅された叫びが。

 『秘密の部屋』に生徒が攫われました。皆さん、寮から出ないよう……。

 フェンネルが寝台から滑り下り、杖を握りしめたそのとき。

 彼の双子の弟と赤毛の友人は答えに辿り着いていた。『秘密の部屋』の入口は女子トイレだと。マートルが根城にしている場所である、と。そうして職員室に走り……攫われたのがジニー・ウィーズリーだと盗み聞きし、ギルデロイ・ロックハートを捕まえ、女子トイレへ。

 フェンネル・ポッターが女子トイレに辿り着いた時には、洗面台がずれ、床にぽっかりと穴が空いていた。

 一歩遅かった、と臍を噛む。ホグワーツは広く、女子トイレまでは遠かった。廊下にはゴーストもうようよいて、慎重に動かざるを得なかった。その結果がこれである。

「……兄は女子トイレに入る変態」

 弟は勢いで動くお馬鹿。

 前世も今世も、星の巡り合わせが悪いのではないか、とフェンネル――かつてのロディアは天を仰いだ。いやいや、兄だって好きで女子トイレに入ったわけではあるまい。大悪であり、ろくでもない男であるが……女子トイレに入って喜ぶような癖はないはず。ないだろう。ないと言ってくれ。元は別の場所にあったが、移設されたと考えたほうが妥当だ。たしか、どこかの時代に配管設備、つまり水洗トイレ等が導入されたと『ホグワーツの歴史』に書いてあった。大規模工事のせいで入口が露見することを恐れたゴーントの誰かが手を打ったのだろう。

 あちこちにバジリスクが現れたのも、配管を通ったから。これで筋が通る。

 納得のいく理屈を構築したフェンネルは、あらあポッター兄じゃない、と言う前世の同寮生を無視した。ちょこんと座っているロビンに「一時間くらい経って戻ってこなかったら、フリットウィックのところに行くんだよ」と言って聞かせる。忠実で賢い金色のニーズルは、青い眼を瞬かせ、ごろごろと喉を鳴らした。

 マートルにひらひらと手を振って、フェンネルは怪物の口に飛び込んだ。

 長い長い道を通り、途中、ロンといかれたロックハートに遭遇し。崩落などものともせず瓦礫をぶち抜き、フェンネルは足早に進んだ。音もなく、どこか優雅に。己を遮るものなどない、と言わんばかりに。

 蛇語で扉を開き、突破。『秘密の部屋』に踏み入った。

 緑の眼を細める。弟が倒れている。なぜか落ちている組分け帽子に負けず劣らずボロボロだが無事。バジリスクは両の眼をくり抜かれ、痙攣している。

 転がっている剣の仕業か。弟が使ったのだろう。ああなるほど、攫われたのはジニーだったか。繰り手に翻弄されてかわいそうに。

 ただの一瞥で状況を読みとり、フェンネルは息を吐いた。寄り添うように舞うのは不死鳥だ。そうだ、ダンブルドアは不死鳥をともだちにしていた。

 ちらりと見れば、黒真珠の双眸が瞬く。麗しい歌が響く。おかえりなさい、と言うように。

 すっくと立つ影に――亡霊に向かって口端を吊り上げた。

「楽しかったか」

 お遊びは?

「誰だ、お前は……」

 ひく、と亡霊が頬をひきつらせる。フェンネルはかつての片割れの名残、残滓、記憶に爪先を向けた。

 ああ、なんて。

 なんて脆弱に見えることか。五年生。『秘密の部屋』を開いたときの兄は。

 気に入らないからという理由でマグル生まれたちを石化させ、目障りだという理由で一人を殺し。穢らわしいという理由で一人に罪を着せた。

「トム・マールヴォロ・リドル」

 囁く。その名で呼ぶな、と兄の名残が吼える。フェンネルはくつくつと笑った。あまりに滑稽であった。あの時の兄のまま。ヴォルデモートという名を喜んでいた彼のまま。

 スリザリンの継承者を名乗り、力を誇示せんと暴れ回った、幼い彼のまま。

 こんなものを、フェンネルは――ロディアは恐れていたのか。どこかで見限っていたのか。異常だと思いながらも、どうしようもないと放置した。証拠がなかったから。どうせ言っても聞かないから。学生時代の「お遊び」だけで済めばよいと思いながら。

「僕は選択肢を与えたんだ」

 一緒にマクファスティー家の養子になるか、と。

 落ちた声は波紋を起こし、名残をからめ取り、停止させた。たった数歩を隔て、彼が息を呑む。紅の眼がちろちろと燃えた。

「お前は……」

「ハリー・ポッターの双子の兄」

 歌うように言う。しゅっと音がする。襲え、という蛇語。ずる、と湿った音がする。両の眼を失いながら、喉を貫かれながら、繰り手に逆らえず、その意に従おうとする蛇の王が立てるそれ。

 フェンネルは振り向きもしなかった。ただ、告げた。

お眠り

 ぴたり、と音が止む。どん、と重い衝撃。じわじわと広がる血が靴底を濡らす。濃い鉄錆の香がした。

「まさか、そんな」

 僕の命令を上書きできるなんて! 名残が、未来の大悪が悲鳴を上げる。フェンネルは小首を傾げた。

「忘れたのかい」

 兄さん。

 口を開いたかつての兄に、フェンネル――ロディアは告げた。

 生き残った男の子の兄、稲妻を印されなかった者。偽物の英雄の弟、大悪のひとつ胞の弟は囁いた。

「僕は……いいや、私は」

 ドラゴン使い一族、マクファスティー家の養子。

 竜の繰り手。

竜騎士(ドラグナー)だ」

 蛇は地を這い。竜は天を舞う。

 蛇は見上げ。竜は睥睨する。

 すなわち、蛇の繰り手は竜の繰り手に勝てはしない。

「お前は、まさか」

 ロディ、と呻いた名残を銀色が貫いた。美しい槍。輝けるもの。

「『天高く(グローリア)』」

 かつてマクファスティー家から贈られた槍を軽々と操り、フェンネルは、ロディアはにぃっと笑った。

「灼き尽くせ」

 穂先は名残の心臓のある場所を貫き、青に――やがて白へと燃え上がる。

 『天高く』は竜の炎によって鍛えられた槍。

 敵なるものを、灼き尽くす。

 あぁあぁああ! と悲鳴を上げる名残から、槍を引き抜く。逝きて還っても、槍は主を覚えていた。死とともに失せたと思っていたそれは、主の呼びかけに応え、顕現した。してくれた。

 竜騎士は、少々の仕返しだけでは満足しなかった。

 不死鳥が放った日記帳を見やる。かつての己が贈ったものを。名残の器であろうものを。

「お前はね」

 ろくでもない兄さん。

「私を殺し」

 今世の両親を殺し。

「弟を傷つけ」

 巻き込んだ。

「さようならだ」

 銀の穂先は、過たず邪悪なる器を貫いた。

 幾重にも悲鳴が木霊する。断末魔、それと恨み言を柳に風と受け流す。瞬く間にすべてが終わった。

「面倒がってないで」

 何度も言って聞かせればよかったのかな。どう思う?

 不死鳥に問いかけても、綺麗な黒真珠の眼で見返すばかり。今更だな、と肩をすくめた。

「私は死んで」

 どうやら生まれ変わって。

 兄は大悪で。

 弟は生き残った男の子。

「なかなか複雑な関係図だ」

 ダンブルドアには内緒で、と不死鳥に頼む。かち、と嘴を鳴らしたので、これは是ということだろう。

 仕事は終わった。後は帰るだけだ。

 折れたバジリスクの牙を、防護を施したハンカチで包んでポケットへ。証拠となるであろう日記も回収。

 弟に気付けを施し、軽く蹴る。ジニーのことは優しく揺り起こした。

 え、なんでフェンが! と叫ぶ弟の腹を軽く殴る。

「さっさと帰るよ」

 そうして竜騎士は大悪の名残を倒し、地下世界から帰還した。

 そうしてハリー・ポッターの双子の兄は、ホグワーツ特別功労賞を授与され。

 そうして後日、とある偽物の英雄の栄誉の証を――。

――銀の槍で打ち砕いた。

 容赦なく、躊躇せず。

 塵ひとつ、残さずに。

 この世から消滅させた。




秘密の部屋編終了
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