トラブルまみれになるのは自分のはずだ。なんだかとてもおかしなことが起こっている。
九月一日の夜。髪もローブも湿らせ、水たまりに足をつっこんだせいでぐしょぬれの靴と靴下、泥が跳ねたズボンの裾……その一切にかまわずに、ハリーは椅子に腰掛け、寝台を見つめていた。双子の兄を。
瞼は閉じられ、顔色は死人のよう。時折低く唸っている。そろそろと額に触れ、兄がよくするように前髪を払ってやる。そうすると傷跡が現れる。ダドリーに石を投げられたときの跡。ハリーを庇ってできた跡を。
庇われなくたって避けれたのに。ハリーはむっとした。双子とはいえ兄。兄とはいえ双子。ウィーズリーの双子のように一心同体、兄も弟もないとは言えない。フェンネル・ポッターは双子というよりも、同じ日に生まれた兄……という感覚が強い。フェンネルのほうもそうだろう。ハリーのことを同じ日に生まれた弟と思っていて、だからこそ庇ったのだ。
痛みに顔をしかめながら、だけれども堂々と彼は言ったのだ。いいかハリー、あれが豚の振る舞いだ。石を投げるしか能がないのさ。
ダドリーをせせら笑い、ハリーの手を引っ張ってその場を離れた。頭の悪い一味は、石が当たれば誰かが怪我をするという法則も理解できなかったようで、血を流すフェンネルに恐れおののいていた。
兄の額から眼、眼から頬へと流れる赤いものをハリーは服の袖で拭った。ハンカチなんて上等なものは持っていなかった。ダーズリー夫妻は、厄介者の双子が「かわいいダドちゃん」より惨めでいることを望んだ。服はお古で、緩くて、袖や裾をまくり上げなければならなかった。ズボンにベルトは必須だった。靴だけは新しいのを買ってくれた。それでも、一番安い品だった……。
『あいつが余計なことをしゃべる前に』
さっさと行こう。
服を脱ぎながら兄が言った。お古のそれで額を押さえ、そのあたりを散歩しているかのように、平然としていた。授業は終わっていて、校舎の外には下校しようとする生徒がたくさんいた。半裸のフェンネルを、たくさんの眼が見ていた。けれど、誰もなにも言わなかった。なにやらひそひそ声は聞こえたが……ハリーの聞き間違いでなければ、ちょっと好意的な響きがあったが……学校において、ポッター兄弟に近づくなが暗黙の了解だった。ダドリー・ダーズリーに目を付けられるぞ、と。
それは先生も同じだった。ハリーが思うに、ダーズリー家のポッター兄弟への扱いが虐待じみたものであることは、彼らも察していただろう。自分たちが虐待されていたなんて、惨めだし屈辱的だし、あまり認めたくはないけれど、ロンやハーマイオニー、ほかの子たちの話を聞く限り、ポッター兄弟は健全な家庭で育てられなかった。かろうじて生存と最低限の教育だけは保証されていた。そんな感じだった。
とにかく、先生たちはポッター兄弟の状況をわかっていて、介入しようとはしなかった。ダーズリー夫妻に絡まれたくないから。どうせ学校に呼び出されたところで、ペチュニア叔母さんが涙ながらにこう言うに決まっているのだ。「姉の子どもたちを引き取って育てているというのに、その言いようはなんですか」と。決してポッター兄弟のことを可愛いとか、息子同然なんて言わず、苦労話を展開する。そしてバーノン叔父が先生に睨みを効かせるのだ。
帰る、と兄は言わなかった。行こう、それか戻ろうと言った。ポッター兄弟に家はない。他人の家に間借りしているだけで、ダーズリー夫妻曰く、金食い虫のろくでなしであった。
頼れるものはなにもなかった。兄はとっくに見切りを付けていた。大人に助けを求めても無駄だと悟っていた。
兄弟は、我が家ではない場所へ行った。ご近所――フィッグばあさんはたまたま兄弟を見つけ、半裸で、丸めた服で額を押さえている兄と、青ざめた弟に悲鳴を上げた。
フィッグばあさんが嫌な臭いのする軟膏を塗ってくれて、服に付いた血も綺麗にしてくれて、なにごともないふりをしてダーズリー家に戻ったのだった、と思い出す。魔法のようだ、とハリーは思ったものだった。ダーズリー夫妻に言ったところで怒鳴られるだけなので、口にはしなかったが。
「フィッグばあさんが魔女なんてこと、ないよね」
兄に問いかけてみる。額に触れた手は雨に濡れて冷たくなっていたはずだ。だが、じんわりとあたたかくなっている。兄は熱を出している。それも、けっこう高いようだ。
ハリーはこういう状況に慣れていない。物心付いたときから側にいた兄。階段下の物置で身を寄せ合った。暖房なんてなく、布団はぺらぺらで、底冷えした。狭い狭いその場所でひっついて眠るしかなかった。そうすれば少しはあたたかくて、気分がマシになったものだ。
いとこは明るい室で、蜘蛛の巣もなくて、暖房があって、きっと布団はふかふかなのに。自分たちはここに押し込められている……という気分を忘れることができた。いいや、忘れたふりができた。
マグルの学校で密かに人気を集めていたのも、運動ができるのも、成績が良いのも兄だった。ハリーも頭は悪くないし、運動はまあできたけれど、目立たないほうだった。兄に比べれば。劣等感や嫉妬のようなものは感じなかった。フェンネル・ポッターとハリー・ポッターは違う人間だった。見た目も似ていなかった。母譲りらしい、緑の眼を除いては。これが一卵性の双子でそっくりな見た目なら、なにか思ったかもしれないけれど。
ため息が漏れる。死んだように横たわる兄なんて縁起でもない。ポッター兄弟はけして虚弱ではない。劣悪な環境にもかかわらず、風邪一つ引いたことがなかった。体調を崩してもどうせ誰も世話をしてくれない、どころか文句を言われると悟っていたので、無意識に風邪を引かないようにしていたのか、それとも魔法族なので丈夫なのか、ハリーにはわからない。けして虚弱ではないポッター兄弟が同日に倒れたというならば、理由は一つだけ。吸魂鬼のせいだろう。
でも、症状に差がありすぎる。ハリーは眉を寄せながら、兄の鼻を摘んだ。三秒待っても起きない。入院確定だろう。ハリーはこうして起きているのに。マダム・ポンフリー曰く顔色は悪いようだが。兄のように昏倒し、担ぎ込まれ、熱まで出していない。
ぼんやりし、少しふらふらしながら特急を降り、嫌味なマルフォイによって「兄弟そろって倒れたって本当かい?」とかなんとか情報提供というからかいを受け、ハリーは医務室にすっ飛んでいった。マルフォイはなにかわめいていたが(どうせ無視するなポッターとかだろう)、知ったこっちゃなかった。薬臭い医務室に飛び込んでみれば、兄は眠っていた。マダム・ポンフリーはハリーの口にチョコを突っ込みながら言った。双子だからって同じ時に同じように症状が出るわけでもなし、と。
マダム・ポンフリーに言うことはもっともだ。それはわかっているのだが。なにかがおかしいぞ、とハリーのどこかが囁いていた。弟の勘というやつである。『秘密の部屋』事件の時、兄に「どうやって『秘密の部屋』の入口に当たりを付けたの?」と訊いたら「兄の勘」であしらわれたからよいのだ。「ああ、お前がリドルの日記を破壊したんだよ」と言っていたが……なんだか怪しい。そのあたりの記憶が曖昧なので、反論もできないのだけど。
横道に逸れかけた思考を戻す。兄の勘があるのなら、弟の勘があってもいいだろう。吸魂鬼のせいで倒れたとしても、実は兄弟が見たか聞いたかしたものは違うのではないか? 兄もハリーのように悲鳴を聞いたのだろうか。胸が痛くなるような、あの叫びを。
宴が始まりますよ。フェンネルのことが心配なのはわかりますがお行きなさい、と痺れを切らしたマクゴナガルが呼びにきた。女史の声は厳しかったが、ハリーを促すように背に触れた手つきは優しかった。
注目を浴びながらグリフィンドールの長テーブルに滑り込み、ロンとハーマイオニーに首を振った。置き去りにしてごめんねとも言った。親友二人のことが頭から吹き飛んでしまっていたのだ。
新学期の昂揚などどこにもなかった。マルフォイがバカバカしい真似をし「虚弱なポッター兄弟」と抜かしていたので一睨みし、黙らせたハリーは知らない。
兄の惨たらしい、血塗られた記憶を。
それはもしかして、赤ん坊が親の死に様を見るよりも、苦しみをもたらすものだということを。
気づけば声は掠れていて、身体は冷たく、けれど燃えるようで。
つまるところ、最悪だった。
ぐったりと横になり、眼だけを開けたまま、フェンネルは動けずにいた。気力という気力がどこかに流れてしまったかのようだった。
どこかで「まだ傷が疼くんだ」と声がした。震え声を装っていて、おおむね完成されていたが詰めが甘かった。わずかな喜びが滲んでいる。
――なんぞ
悪いことをしようとしているな、と思考を遊ばせる。あの声はドラコ・マルフォイのものだ。アブラクサス・マルフォイの孫。ルシウス・マルフォイの息子……まだまだ幼い。
あんまりにも彼の声が耳障りだったせいか、どうにか悪夢から抜け出せたのは感謝しよう。のらりくらりと兄の勧誘をかわしていた男の孫にしては、どうにも狡猾さが足りないようだが。アブラクサスが生きていれば、孫どころか息子の詰めの甘さも叱りそうである。ルシウス……たぶん、ロディアは彼に会ったことがある。ほんの幼い子どもだった。五つにはなっていなかったと思う。たどたどしくロディアと兄に挨拶をしていた。兄は「この子の将来が楽しみだ」と眼を光らせ、アブラクサスは頬をわずかに――そうと知って見なければ、わからないほどに――ひきつらせていた。
ロディアはやんわりと兄を制しアブラクサスに笑んだ。そして告げた。「ご子息は高貴な姫君をお迎えし、幸せな家庭を築くことでしょう」と。ぼんやりと見えるままに、歌い上げた。死喰い人のしの字も言わなかった。兄を引きずるようにその場を後にして、宴――踊りのパートナーを探した……。
高貴な姫君、と兄は鼻で笑っていた。純血マルフォイ家なのだから、高貴な純血を娶るだろうよとロディアは返した。
ロディアには時の神の恩寵が、少しだけあった。たいして役に立たないものが。
兄はロディアの異能を知っていた。だけれど、あてにならないと言っていた。それでも、物欲しそうな顔をしていた……。特別な何かを好んだ兄。
あのときも、とロディア――フェンネルは震えた。手で口を押さえた。こみ上げるものを飲み下す。
あのとき。あの夜。月のない、暗闇で……。
『未来を視る眼は』
この光景を映さなかったのか?
弧を描く唇。ひとつ胞の弟を穢し、最大級の屈辱を与え、酔ったように、哀れむように呟いた。
『この先なにが起こるのか』
時の神は見せてくださらなかったのか? なあ弟?
分かるわけがなかった。いつからか見えていた闇と、紅の双つ星が……なぜだか酷く恐ろしいと思ったそれが……段々と鮮明になる紅が。
この夜に、この
人が時に『憂いの篩』の力を借りるのはなぜか。己のことだからこそ、分からなくなるものだから。
先視とて人だ。己の星は、宿命ははっきりとわからない。真向かうことなどできはしない。恐怖を覚えるそれを見ないようにしていた。ただの闇と双つ星だと。代わりに、様々なものを視た。
黒髪の男の子が「預かりもの」の杖を振っている光景。ロディアの、柳と一角獣の杖。彼が息絶えれば、ミネルバの元へ転移するだろう。手紙を付けたから、オリバンダーのところへ預けてくれるだろう……。
闇は月のない夜。紅い星は兄の眼であった。気づいたところでもう遅い。ロディアの未来は確定した。逃れようもなく。
終われるのだと、安堵した。もう兄に傷つけられることはないのだと思った。
記憶の欠片が突き刺さり、ロディアは身悶えした。耐えきれずに嘔吐した。
苦しんで、苦しんで、苦しんで。絶望して、ロディアは死んだのだ。殺されたのだ。
玩具のように、もてあそばれて。
ひゅう、と息を吐く。吐瀉物にまみれるのにもかまわずに、力なく眼を閉じた。つ、と澄んだ滴が眦から流れ、砕けた。
魂の疵が訴える。灼けつくような、痛みが叫ぶ。
ロディア・オミニス・マクファスティーの生とはなんだったのか。
死んで本当に終わったのか。
吸魂鬼によって引きずり出された記憶。魂の奥底、本来ならば思い出すこともなかったかもしれない、闇の記憶。絶望の夜。
ロディアはそっと魂に蓋をした。その疵を見ないようにした。
痛みや苦しみは、もうたくさんだった。
どこかが疼いても知らぬふりをした。
そうして、すすり泣いた。
粉々に砕けた記憶に苛まれ、わけのわからぬ恐怖に蝕まれ。
ただ死んで終わりではなかったのだ、という予感――あったはずの、空白の記憶を封印した。高笑いとともに告げられた、己が死んだあと、どうなるか……という記憶を、魂の海に沈めた。自覚せず、そうと知らず。
ロディア・オミニス・マクファスティーは。
かつての己など思い出したくなかった。
ただのフェンネル・エムリス・ポッターでありたかった。
弟を可愛がる、ただの兄でありたかった。
ありたかったのに。
時は巻き戻せず、事実は変えられない。
兄に殺されたという記憶を抱いたまま、フェンネルは生きていくしかないのだ。
一生分のチョコを食べた。そう思うほどにフェンネルはひたすらにチョコを食べさせられた。吸魂鬼によって消耗した者にはチョコを食べさせるのが一番、ということはマダム・ポンフリーならば当然知っている。フェンネルも知っている。地上で最も穢れたその生き物について、調べたことがあるから。ろくでもない兄が吸魂鬼を仲間に引き入れようと企んだものだから、反論材料を用意したのである。一体、二体ならともかく、何体も養うには無理がある。やつらが契約を守るとは思えない。お腹が空いたら死喰い人をぺろりかもしれない。吸魂鬼どもだって、実績がないただの魔法使いの言うことなど聞くものかよ……と。
その頃、クソッタレな兄は地道に仲間集め――恐喝など含む……をしつつ、暗躍する「ヴォルデモートと名乗る誰か」を危惧する者を丹念に潰していた、と思う。謎めいた、出自不明の魔法使い、あるいは魔女の影は存在していたが、名を轟かせるほどではなかったし『名前を言ってはいけない例のあの人』なんて呼ばれることもなかった。
ロディアが殺害されたのは、闇が姿を現し、時代の変化を告げる前夜であった……とまで考え、吐き気をこらえた。
得意げな顔をしていた兄。金の美しいカップを……銀の髪飾りを……。
ぷつ、と思考が途切れる。ちらと過ぎったそれが塗り替えられていく。真っ黒に。月のない夜に。ロディアの最期……。
耐えきれずに嘔吐した。マダム・ポンフリーは心得たもので、脇机に盥を置いていた。灼けるような痛みとともに、水だか胃液だかわからないものを吐く。チョコとハーブティー、薬とスープ、柔らかいパンくらいしか食べられないのだ。
意識を取り戻したはいいがぐったりしていて、弟がお見舞いに来てくれてもろくな反応ができず、なぜかドラコ・マルフォイが入院している不思議も考えられなかった。ついでに「臆病者のポッター兄」とマルフォイが囃し立て「嘘つきマルフォイめ!」と弟が怒って喧嘩になっても仲裁できなかった。弟が復讐に笑わせ呪文を使い、かわいそうなことにミネルバから罰則を食らったようだ。ミネルバは昔から公明正大であったし、罰則と言っても軽いだろう……とフェンネルは眼を瞑った。そんなお忙しい彼女は、驚いたことにフェンネルの様子を見に来てくれた。「あなたが倒れてからポッター……ハリーが不安定で」とのことだ。うちの弟が申し訳ない、ミネルバと内心で思いつつ「聞き分けのよい、いい子だったら『秘密の部屋』に突入しませんからね」と返した。ミネルバはたいそう、それはもうたいそう嫌そうな顔をした。学生時代、純血主義の馬鹿者に絡まれたマグル生まれの子を庇っていた時の顔である。お前なんて半分も穢れているじゃないか、と言われた時の顔である。怒りやら悔しさやら、苦々しさやらが混ざったそれ。
変わっていないなと思ったので、軽い弾指を受け入れて「あなたもですよフェンネル」と説教されても素直に頷いた。そうして、できる限り心を閉じた。過去を懐かしむ気持ちを。ミネルバに絡んだ馬鹿者は、後日スラグホーンから罰則を申し渡された……と思う。余罪多数。証拠も多数で、トム・マールヴォロ・リドルの弟が言うのだからと彼は取り合ってくれたのである。もちろん密告者の名は伏せてくれた。さすがトムの弟だ、とスラグホーンは鼻が高い様子であった。今思えば余計なことをしたかもしれない。兄弟揃って優等生という思いこみを加速させ、結果として完璧な「偽物の英雄」の虚像を作り上げることに貢献してしまったのだろう。その当時『秘密の部屋』の存在も知らなければ、事件が起きるなんて思ってもみなかったので仕方がないけれど。
ミネルバだけでなく、寮監のフリットウィック――フィリウス……も様子を見に来て、少し話してなどしているうちに、マダム・ポンフリーから退院の許可が出た。
知らぬことであるが、ドラコ・マルフォイが退院する前日のことであった。
フェンネルは全快とはいかず、いささかふらつきながら遙か遠く、レイブンクロー塔を目指そうとしていた。しかし、その目論見は医務室を出て数歩で崩れ去った。廊下をやってくる、魔女によって。
すっと背筋を伸ばしている。綺麗にまとめた白金の髪と、身に纏う黒衣の調和が見事であった。眼の色は物憂げな、あるいは冷たい灰色。冬の湖を思わせた。
フェンネルはそっと廊下の端に寄る。彼女が誰なのか、見当がついていた。黒衣に挿されているのは『双狼』と竜――『咆哮する竜』であったから。
そのまま、すれ違おうとした。フェンネルと彼女が接触することはなく、関わることもない。
――そのはずだった
灰色の眼が、フェンネルを捉えるまではそう思っていた。
「あら」
濁りのない声がして、彼女はフェンネルを認識した。少し首を傾げる様は優雅そのもの。なにも言わないのも奇妙、無礼であろうと「こんにちは」と当たり障りのない挨拶をした。対して彼女は「ごきげんよう」と貴族らしい挨拶を返し、雲の上を歩いているかのように軽やかに、俗世の塵芥とは無縁といわんばかりに、一歩、二歩……と流れるように歩を進めた。
気づけば、柔らかな香りが鼻をくすぐり、灰の眼が間近にあった。貴人がその繊手に持つのは閉じた扇子。黒いそれでフェンネルの顎をそっと上げさせた。
「――
「感心だこと」
ルシウス・マルフォイの妻、マルフォイ夫人。その出自はブラック家――高貴なる純血の姫君はころころと笑った。フェンネルは今すぐ気を失いたかった。ロディアだった時分は、ずばり言い当てたわけだ。本当に小さかったルシウス・マルフォイの未来の妻を。ブラック家の娘ならば「高貴な姫君」であろう。
「どこかの赤毛のように、礼儀を知らないわけではないと」
私が誰か知り、道を譲ったのだもの。
「ポッターの」
噂の兄のほうね、坊や。
珍しい生き物を見るように、夫人の眼はフェンネルの顔に注がれる。さらりとした黒髪から眉、緑の眼。頬……輪郭……すべてを、順繰りにその眼に映す。
夫人は「坊や」の顎を扇子で上げさせることも、じっくりと鑑賞することも当然のこととしている。それが許される身で、なにが悪いのか分からない。貴族の――それも上流、極みに近い者の、無邪気な振る舞いである。ロディアだった時も散々味わったものだ。「綺麗な顔」に興味津々だった淑女、貴婦人たちの多かったこと。美しい、謎めいた双子……。
弟ならば夫人の扇子を振り払ったかもしれない。だが、フェンネルはそうはしなかった。夫人から悪意や害意は窺えなかった。困った人だなと思うが、怒るほどではなかった。マルフォイ夫人に「無礼を働いて」なにやら不利益を被るほうが面倒であった。
よって、フェンネルは口を開いた。
「フェンネル・ポッターと申します。夫人」
そうして、おずおずと問いかけた。
「僕はシリウス・ブラックに似ていますか? ええと」
言葉を詰まらせる。あなたのお名前を存じ上げません、という無言の問いを夫人は的確に掬い取った。
「私はナルシッサ。ナルシッサ・マルフォイ」
旧姓をブラック。あの馬鹿者の従姉よ。フェンネル・ポッター。
「安心なさい、私の内に流れる黒い血と同じものを感じさせるけれど……」
扇子が離れる。労働とは無縁な、美しい指がフェンネルの前髪を払った。完璧な形の眉が寄せられる。玉に瑕だわ、と夫人の紅い唇が呟いた。人のことを鑑賞用のお人形とお思いらしい。さすがブラック家である。
「あれやレギュラスに生き写しではないわね」
ポッターの血で夜闇の黒も褪せたのでしょう。
「一代飛んでいるにしては、濃く現れたものだけど」
ブラック家の子を名乗っても、違和感がないほどにね。
夫人――ナルシッサはさらりと言う。扇子を開き、閉じた。ぱちり、と鋭い音がする。
「坊や、あれの息子だの言われたら」
こう返しておやり。
「マルフォイ夫人が、星の一族の者がお笑いになられる、と」
静かに、静かにナルシッサが囁いた。冷ややかに星の眼が輝いた。声は柔らかであったが、その芯には熱いものが秘められていた。
フェンネルは悟った。
噂で聞いていたよりもずっと。
監獄に血族が放り込まれ、脱獄し、隠し子がいるなんていう醜聞が巻き起こったことを。
吸魂鬼によって倒れ、ナルシッサと邂逅し……と思わぬ出来事はあったものの、フェンネルは日常に戻った。占い学でシビル・トレローニーが「いつものように」死の予言をしたことは日常の範囲に含まれる。弟からの手紙で事の次第を知り――まさか弟がトレローニーの標的になるとは思わない――さっさと否定した。あれは大嘘吐きだ。レイブンクローでは常識だ。レイブンクローで占い学を受けている者がいるとすれば、よほど噂に疎いか、美味しい紅茶を飲みたいかだ。それか、十二科目制覇を目指す剛の者だ、と。
死神犬? あれは見たら数日以内に死ぬ類。マグルが見たら即死だったかな。お前がマグノリア・クレセント通りで死神犬を見たなら、とっくに死んでいる。僕も一緒に見たのを忘れてないか。二人揃ってお陀仏だよ。ポッター家は滅亡さ。
つらつらと書いて返信した。返事の返事には「でもフェンは夜の騎士バスに殺されそうになったじゃないか」と書かれていた。それに「ハーマイオニーは十二科目全部受けるって。時間割がおかしいんだ」とも書いていた。
さすがハーマイオニーだ。フェンネルにはとても真似できない。ロディアの時代だって、そこまでのやる気は出さなかった。兄が十二科目制覇を目指す類だったので、自分はそこまで頑張りたくないと思ったのだ。たしか似非優等生の兄は、特別に時間割を組んでもらって授業を受けていたようだ。夜間学習という形で。現在、どのようなやり方をしているのかは不明だが……同じ時間にいくつも授業を受けるということは、逆転時計だろう。さてはミネルバが骨を折ったか。魔法省に入り、魔法法執行部に入ったあたりまではフェンネル――ロディアは手紙のやりとりで知っている。伝手を使って借り受けたのだろう。
「オナイ先生がいればなあ……」
小さく小さく呟く。戸外、ルビウス・ハグリッドの小屋の前でレタスをちぎりながら。幸い、レイブンクロー生たちは聞いていない。吸魂鬼のせいでけして暖かくない、むしろ寒い場所で、無為な授業を受けているせいで周りに注意を払っていない。退屈は人を殺すものだ。アンソニーもパドマも虚ろな眼をしていた。
オナイ先生――ムディワ・オナイは高名な占者であった。ロディアは彼女の授業を受けていた。高齢ゆえに『秘密の部屋』事件が起こる前年にホグワーツから去った……。けしてトレローニーのように性質の悪い振る舞いをしなかったし、力をひけらかすようなこともしなかった。ロディアは彼女を尊敬していた。ゆえに、トレローニーの占い学を受ける気にならなかった。ダンブルドアが採用したくらいだから、まるきり無能ではないだろうが……時の神の恩寵を冒涜する痴れ者である。まったく好かない。認めない。
今世でとっているのは古代語と魔法生物飼育学である。特に魔法生物飼育学には期待していた。癒しの時間になると思っていた。思っていたのに、ドラコ・マルフォイのせいですべてが終わった。
フェンネルだってヒッポグリフと触れあいたかったのに。マルフォイの入院、怪我の真相を知ると同時に、ハグリッドのとっておきの授業がヒッポグリフだったと知ったときの悲しみよ。フェンネルが入院している間に事が終わっていたときの落胆よ。ナルシッサがわざわざ息子のお見舞い名目でホグワーツを訪ねたのは、ダンブルドアに釘を刺すためだったのだろう。息子が怪我をしたのだから、手ぬるい措置は許さないとか。ルシウスの代理だ。彼は先学期に理事を解任された……とまで考えて、頭痛に顔をしかめた。
授業が終わり、落ち込んでいるハグリッドの肩を叩き、繋がれているバックビークのくちばしを触り、フェンネルは森に踏み入った。とことことついてくるのはロビンである。入院中、レイブンクロー生たちに世話をしてもらい、可愛がってもらったせいで、金色の毛並みは輝くようであった。
喧噪が消えていく。フェンネルは勘が囁くままに、歩を進めた。方向感覚などあてにならない。禁断の森は気ままなのである。
やがて、泉にたどり着いた。ほうっと息を吐く。消失していなかった。フェンネルの前に姿を現してくれた。占いをするときに、よく使っていた泉だ。
別になにも占うつもりはない。ここは、憩いの場であった。あんまりにもいろんなことが起こりすぎて――魂の疵を抉られて、フェンネルは疲れ果てていた。
俗世からしばしの間、己を切り離したかったのだ。
しかし、その願いは裏切られた。
泉の傍らに黒い塊があったのだ。
よくよく見てみればそれは黒い毛皮で。そろそろと近づけば――。
大きな、黒い犬だった。
見開かれた眼は、今にも翡翠の雨を降らせそうであった。彼は柔らかく、小さな小さな背中をそっと叩いてやる。頼りない生き物は、しゃくりあげながら彼に身を預けた。ぎゅっと彼の服を掴む手は震えていて、丸くなった身も同じく。俯いた頭を撫でてやり、彼はため息を吐いた。
「……なにが怖いんだ?」
フェン、と問いかける。抱っこして、居間をぐるり一巡り。彼の親友は双子の片割れをあやしている。彼の親友の妻であり、彼の学友――同寮であった――は寝室で一休みしている。一人だけでも大変なのに、双子なのだ。休めるときに休ませてやりたかったし、彼はポッター家の人間ではないけれど、双子の世話を喜んで引き受けた。
今はポッター家の双子の兄、フェンネルを抱っこしてあやしているところであった。赤ん坊というものは取り扱い注意なものだが、フェンネルは特に注意を要する、というのがポッター家および関係者の見解であった。虚弱というわけではなく、健やかに育っている。だが、繊細なところがあるのだ。暗いところを怖がるし、よく泣くし……赤ん坊とはそういうものかもしれないが。
双子の弟、彼が名前を付けたハリーがよく食べてよく寝て、さして夜泣きもしないから、差が目立つだけなのかもしれない。
それにしても、と彼は赤ん坊を抱え直す。壊さないようにそうっと。このちっちゃな生き物をどう扱えばいいものやら、彼ははかりかねていた。癇癪持ちというわけではないが――どちらかといえばハリーにその傾向がある――なにかに怯えている。今のように。
どうしたものか。延々と歩き回る。寝てくれればよいのだが。犬の姿になって寝かしつけようか。双子は彼の毛皮がお気に入りである。黒髪に緑の眼の双子は、彼を枕にしてよく眠る。
見た目はあまり似てないが。ハリーは明らかにジェームズ似で、フェンネルは恐らく……困ったことだが……彼の系統、もっと言えば夜闇の血が濃く出たようだ。ジェームズは「僕の予想ではリリーの赤毛でリリー似の子だと思っていたんだ」と述べ、リリーは「血の悪戯ねえ。でもチュニーは金髪で私は赤毛だし、姉妹で似ていないし」とさらりと言った。当の親友夫妻があまり気にしていないようだったので、彼はほっとした。よかったよ、妙な疑いをかけられなくて。親友と殺し合うなんて冗談じゃない。
血の不思議よ。呟いて、立ち止まる。今日は満月だ。リーマスは今頃『脱狼薬』を飲んで引きこもっているだろう。
元となる薬はその昔ポッター家がつくったらしいが、よりよい研究開発ができる環境のほうがよかろう、とのことで他家に金銭と引き換えに譲渡した。『脱狼薬』は改善を重ねている。段々と工程が簡素化され、薬価も抑えられている。それでも、気軽に買える薬ではない。今はジェームズと彼が『脱狼薬』を煎じて渡している。
私は人でいたいんだよ、とリーマスは笑っていた。後ろめたそうな、恥じているような笑みであった。人狼は迫害されるのだ。昔々は――ポッター家が「狼に変身しても理性を保てるようにする」という発想のもとに『脱狼薬』の元をつくる前は――『狼殺薬』があったとされる。人狼は恥であり、存在してはならなかった。よければ幽閉、悪ければ消されたとされる。速やかに、安らかに人狼を処分するために『殺狼薬』は求められた。月に狂わされていない時、人の姿の時に始末するのは躊躇われる。獣ならば殺せる。毒を撃ち込んで、あるいは拘束して飲ませて……霧状にして吸わせ……彼らは処分された、と。
完全治療薬ができればよいだが。憂いながら、月を見上げる。狼を狂わせるそれを。美しい――赤を帯びた乙女を。
「フェン」
とん、と背を叩く。抱え直し、窓のほうへ、空へと顔を向けさせた。
「綺麗だぞ」
彼にしてみればちょっと珍しいものを見せてやろう、くらいのもの。そこにはなんの悪意もなかった。なにに怯えているかはわからないが、なんでもいいから気を逸らしてやりたかった。
だというのに。
赤ん坊は、フェンネルは凍り付いた、ように見えた。呼吸を忘れたように停止して、潤んだ眼を見開いて。小さな小さな唇が声なき声をほとばしらせて。
尋常ではない。彼は素早くフェンネルの両眼を片手で覆った。悪かった。怖かったな……と囁いて、宥めた。何度目か抱き直して、彼の身に顔を埋めるようにした、小さな小さな子の瘧のような震えを感じる。
この子は月が怖いのだろう、とひとまず留意する。しかし、三日月でも満月でも怖がっていなかったのだが。
ソファに腰掛けた時、親友がやってきた。ハリーの寝かしつけに成功したようだ。
「どうした?」
ジェームズは問いかけ、彼の隣に腰を下ろす。父親にフェンネルを渡し、彼は息を吐いた。まったく馬鹿馬鹿しいと思うんだが、と慎重に前置きする。
「フェンは月が怖いのかもしれない」
三日月だろうが半月だろうが、満月だろうが特段、反応していなかったぞ、と即座に返ってくる。そうだよなと彼も頷いた。しかし、フェンネルの尋常ではない怯えようが気にかかった。この子はずっとなにかに怯えている。かわいそうなほどに……。
「強いて言えば少し赤いか」
「我らがグリフィンドールの色彩。そしてどこぞのヴォルデモートの……おいおい、坊や」
泣き声が響く。お腹が減った、眠い……そんな欲求とは別種の、悲痛な声である。
「『例のあの人』の」
ジェームズがフェンネルをあやしつつ、言い換えた。その様を横目で見ながら、彼は唸った。
「フェンのやつ、月乙女に愛されているのかもしれないぞ」
ジェームズが舌打ちした。ものすごく嫌そうな顔であった。常はなんだって茶化す類の男だというのに、珍しいこともあったものだ。
「月に見初められるのは女。女は異能を授かりやすい……癒し手か、はたまた先視か」
まったく嬉しくなさそうにジェームズが言う。ただの俗説とも言い難い。女の癒し手は多く、高名な予言者はたいていが女である。が、男でも異能は授かる。
澄んだ月には怯えず、赤味を帯びたそれを見て震えたのは……なにかしら感じ取ったからか。うっすらと血を被ったような色に、不吉を覚えたのか……。
「先視のほうが」
可能性は高そうだな。彼は呟く。父親の腕の中にいる赤ん坊を見やり、眉間に皺を立てた。
「……朔の夜にも」
月のない暗闇、星も息を潜めた夜。清かな輝きが失せた暗黒に。
赤ん坊は怯えていた。
彼らには見えぬものを恐れていた。
天狼星の名を冠する者は、闇を、赤い月を恐れる赤ん坊を見やった。
この子に異能があるのか否か、しかとは分からない。未来は霧で覆われている。
それでも、予感があった。
特別な能力、異能を持つことは幸福を意味しない。
この子は
――もはや
この子たちについて、話し合うことはできない。
ジェームズともリリーとも、永遠に語らうことはできない。
その一室に足を踏み入れる。リリーが倒れていても、もはや驚かない。せめても、と粉塵を浴びてしまったその身を綺麗にしてやり、聖骸布で包んでやった。階下にいる親友にそうしてやったように。
陽は暮れて、割れた窓から歪んだ月が覗いている。にぃっと、彼を嗤う。
お前は間違ってしまったのだと。
ざりざりと音を立てる床を進む。閉鎖空間。姿くらまし防止領域でポッター家は包まれてしまい……ジェームズが時間を稼いだものの……逃げる手段はなかった。窓は塞がれ、壁も、天井もそうであったろう。ポッター家は檻と化してしまった。都合よくポート・キーがあったとは思えない。よしんばあったとして、それすらも見越されていた可能性が高い。
そもそも、ポッター家には絶対の守りが敷かれているはずであった。逃亡は選択肢から外していた。
凍り付いたような思惟は、軋みながらも動く。現状を分析する。ベビーベッドは無事。リリーは近くに倒れていて、ヴォルデモートはいない。室の左右の壁が半壊している。
「中心が――」
ここかと呟き、立つ。奥の壁に添うようにして据えられた、ベビーベッドの前。おそらくヴォルデモートが立っていた……そして双子に杖を向けた。向けて、消えた。放たれたのは死の呪文のはず。ヴォルデモートを基点として崩壊が起こった。さながら弧を描くようにして。
ジェームズとリリーは死んだ。にもかかわらず、ヴォルデモートは仕事をやり遂げられなかった。影も形もない。入ってきた形跡はある。しかし出て行った形跡はない。
リリーをちらと見る。ありえるとすれば……まったくもって前例はないが……。古い魔法。犠牲によるそれ。死の呪文が撥ね返されたとしたら……。現に双子は生きている。
「印されるであろう」
ベビーベッドを、双子を見やる。片方には稲妻形の傷があった。
ハリー・ポッターは選ばれてしまった。呪われてしまった。印されてしまった。
胸が張り裂けそうな叫びを上げて、潤んだ眼で彼を見ている。
印されなかった片割れは、フェンネル・ポッターはただただ、ぽろぽろと涙をこぼしていた。その眸には恐怖が色濃くあった。
「俺のせいだ……」
震える手を双子に伸ばす。
彼が、この子たちの両親を殺してしまったのだ。
シリウス・ブラックのせいで。
ジェームズ・ポッターとリリー・ポッターは死んだのだ。
永遠に、去ってしまったのだ。
すん、と鼻を鳴らした拍子に眼が覚めた。悪夢の名残が痛みとともにシリウスの胸内に突き刺さる。
息を吸って、吐いて、眼を瞑り、開き。尻尾を軽く振る。知覚が明瞭になり、視界が澄んでいく。
ちらり、と己に乗っている重みを見る。黒髪の少年が、彼を枕にして眠っている。青とブロンズのネクタイは解かれ、放り出されている。樹々を透かして差し込む陽が、泉も少年も淡い緑に染めていた。
なぜこんなことになっているのだろうか。ただいま逃亡中の凶悪犯。実は冤罪――シリウス・ブラックは息を吐いた。少年を起こさないように控えめに。少年と出会ったのはしばらく前のことである。彼は動物が好きらしく、大喜びでシリウスを綺麗にし、厨房からもらってきたらしいチキンやらをシリウスにくれた。シリウスは親愛なる賢い犬のふりをするしかなかった。内心、大混乱であった。
禁断の森にのこのこと生徒がやってくるとして――よくはないが――ありえることで。シリウスだって何度も何度も禁断の森に踏み入ったものである。
だが、それがよりにもよって、親友の忘れ形見とは思わないではないか。
シリウスは撫でられるがまま、されるがままであった。成長したフェンネルが、シリウスの願いも虚しくブラック家の血を濃く現してしまったことに衝撃を受けていたせいもある。シリウスの甥、それかいとこの子で通りそうな具合であった。
フェンネルと犬の奇妙な交流は続き……シリウスは枕になっている。フェンネルが箒カタログを読みながら寝てしまったのである。無防備である。いいんだろうか。友達はいないのか? あれやこれやと心配はあったが、どうしようもない。人間の姿に戻るわけにもいかないのだから。
シリウスはゆるゆると尻尾を振った。どうしたものか。ワームテールを狩らないといけないのに……最悪、城から叩き出さないといけないのに。幸い、猫の手を借りることができた。飼い主と同じくシリウスを枕にしている金色のニーズル。それに「妙な鼠がいる」と察した賢いニーズルと猫の混ざりもの。
巧く鼠狩りをしてくれれば上々。しかし、あまり期待してもいけない。
――乗り込んだほうがいいか
フェンネルの話では、今は十月下旬。すなわち、十月三十一日が近い。ジェームズたちの命日が。
宴の隙に乗じて、鼠を狩るのにはふさわしい日であろう。
シリウスは喉を鳴らした。かつての、崩壊の日を夢に見てしまったのも、なにかの導きであろう。
ワームテールに、卑しい裏切り者に。
報いを受けさせるべきなのだ。