声を殺して泣く、その小さな生き物の熱を感じる。
真冬の午後。乏しい陽射しに、わずかに雪が解けている。シリウスは湿った草と土を褥にし、ただ黙っておすわりをしていた。泉に飛び込んだ名付け子を乾かしてやりたいのは山々だけれども、真冬に正気か、とできれば叱りたいのだけど、名付け子はシリウスから離れようとしない。両の腕を回し、ぎゅっとシリウスに抱きつき――毛並みを掴み、縋りついている。冷たい滴が闇色の毛を濡らし、凍みていく。
ひたすらに静かに、名付け子は泣いている。
――監獄に入れられた
囚人のように。
あの暗渠でシリウスは幾度も見てきた。堕とされた者たちが、壊れていく様を。最初は威勢がよかったのに、すすり泣き……やがて笑い始める。けして出られぬと悟り、自壊を選ぶ。そうして息絶える。
名付け子フェンネルの泣き方は、心に風穴が空いた者のそれだ。苦しくて苦しくて、傷口から血が噴き出している者の。
――まだ泣けるのならば
大丈夫だ、とシリウスは眼を瞑る。泣くだけの気力がまだある。感情がある。枯れ果ててはいない。朽ちてはいない。
ひたすらに待っているうちに、身体に重みがかかる。その呼吸が深いことを確かめ、そっと動物もどき形態を解いた。生徒か教師が禁断の森に踏み込んでいる恐れはないだろう。ここは森の深部だ。冬の、それも雪がちらつくような日に入ってくることはあるまい。慎重に耳を澄まし、気配を探りもした。問題はない、はずだ。
名付け子を地に横たえ、ベルトに挿してあった杖を拝借した。神経を研ぎ澄ませ、周囲を探りつつも仕事に取りかかる。木の枝やら葉をかき集める。ホグワーツは北方にある。降雪もある。だが、禁断の森の植生は不思議なもので、針葉樹もあれば広葉樹もある。ふらふらと歩いていたら泉が出現したり、花園が現れるような森なのだから気にするほうが馬鹿らしいのかもしれない。
せっせと材料を集める。東洋には葉っぱをガリオンに変える謎の生き物がいるらしいと言っていたのは誰だったか。ジェームズだったかもしれないし、リーマスだったかもしれない……。狸という犬に似た生き物がいてね、とかなんとか。狐だったかも。偽ガリオンをつくって人を化かす生き物はどこにでもいるのだな、と感心した覚えがある。
つらつらと過去のくだらない記憶を思い返しながら、仕事を続ける。もはや過ぎ去った時、永遠に戻らない場所。取り返せないもの。どこかがひりひりと痛んだが知らぬふりをする。杖を振って、魔法を行使する。木の枝やら葉は、二枚の毛布に姿を変えた。長い長い監獄生活ですり減っているものの、腕は鈍っていないようだ。安堵の息を吐き、敷いた毛布の上に名付け子――フェンネルを寝かせる。再び杖を振り、服を乾かしてやった。そうっと残った毛布をかけてやる。犬の姿に戻って添い寝してやるしかあるまい。冬の戸外のこと、できれば焚き火もあればよいのだが……そこまですると怪しまれるか。毛布ならば賢い犬がどこからともなく調達してきた、というかなり苦しい言い訳も立つだろう。
「……火を焚いておやりなさい」
さらに危険を冒すべきか、と葛藤するシリウスにかけられた声。なんの気配もなかったが、と恐る恐る振り向いた。金の髪に青い眼の男が樹木を縫ってやってくる。上半身は人間、下半身は月毛の馬――森の賢者と名高い、ケンタウルスの一人だ。
シリウスは息を詰め、彼を――確か名はフィレンツェ――を凝視する。片手は杖を握りしめて。
「なにもしません」
落ち着きなさい、天狼星。
フィレンツェの声は穏やかだった。青い青い眼には「死喰い人」に対する敵意はない。
「あなたの子羊が風邪を引いてしまう」
重ねて言われ、シリウスはのろのろと動いた。枝を集め、乾かし、組み上げて点火する。紅の色が燃え上がった。
泣き疲れて眠るフェンネルに、寄り添うように座る。
「あんたも火に当たったらどうだ」
話がしたい、という言外の意を汲み取ったのか、それとも本当に寒かったのか。月毛の賢者は側に寄ってきた。フェンネルを挟んで反対側で四肢を折り、腰を下ろした。金の髪が、その馬体が炎を返して燦然と輝いた。幻想的な光景を眼に映し、シリウスは問うた。
「なぜだ?」
「あなたの魔力は穢れていないから」
裏切りの腐臭もない。歌うように返され、シリウスは天を仰いだ。一体なにを、どこからどこまで知っているのか。星の叡智を授けられし者、森の賢者の双眸は謎めいていた。深い深い青。底知れぬ青。
「笑顔で人を殺せるやつだっているんだぞ」
いくら穢れていない……らしくとも、危険ではないか。シリウスはそこまで高潔な人間ではない。どうしたって俗世の汚濁にまみれているし、しくじりも多い。およそ十二年前、致命的な失敗の果てに親友夫妻を殺してしまった。監獄に堕とされた。狂うことは赦されなかった。己に赦さなかった。
「深い闇路を行き、耐え、戻ってきた」
己のためではなく。誰かのために。
「私にとってはそれで十分です」
天狼星、あなたの輝きは失せていない。
過分な評価だ。しかし、悪い気はしなかった。誰かとまともに話したのが久しぶりだったせいもある。それに、焚き火の光は心を落ち着かせる。
軽くフェンネルの背を叩いてやる。赤ん坊の頃にしてやったように。もう百年も前のことに思える昔の思い出。わずかな幸福。少しの安らぎ。ヴォルデモートを倒して、平和な世を贈ってやりたかった。ポッター家の双子のどちらかが「印される」ことがないように願っていた。
眼を伏せる。予言の一部は成就してしまった。ポッター家の双子、弟のハリーの額に稲妻が印された……過酷な運命を暗示するかのように。印されなかった片割れフェンネルも、健やかに育ったとは言い難いのだろう。
――私は
死にたくなかった。そうフェンネルは言った。死にたくないではなく。死にたくなかった。過去形である。死喰い人シリウス・ブラックに弟が狙われ、もしかして兄の自分も標的では、殺されるのではという恐怖に由来したものではない。
僕ではなく私。口調も異なっていた。元々大人びていたフェンネルだが、あの呟きには深い絶望が籠もっていた。苦しみ抜いた、疲れ切った、誰かの嘆きであった。
この子はいったいなんなのか、誰なのか。胸中に疑問が渦巻くも、眠る名付け子を眺めていれば、ただただ、惻隠の情がこみ上げる。血を吐くような叫びをシリウスは聞いてしまった。この子が相談すべき親を亡くしたのは、シリウスのせいだった……。不思議なところのある子であっても、シリウスが守るべき存在なことになんら変わりはないのだ。
「時が来れば自ずと明かされるでしょう」
森の賢者は予言する。青い青い眼が、雲の向こう、空の果てを見晴るかす。
「ハリー・ポッターは印されし者。禍つ星に対する絶対値」
ぽつ、とその呟きが落とされた。
「フェンネル・ポッターは印されなかったもの。その生は踏みにじられ」
堕とされ、穢された。
あまりに
いずこかにまします神が哀れまれたのだ。
これは決め打ちだな。
フェンネルは、ホグワーツの紋が透かし入れられた羊皮紙をくるくると丸めた。飾り紐で縛り、卓の上に置く。森番の小屋に響く呻きを極力無視し、戸棚に向かう。客人用の小さな――ルビウスにとっては人間用は小さいのだ――茶器を取り出す。そうして大きな大きな茶器も出し、簡易の台所に運んだ。やかんに水を入れ、竈に薪があることを確認する。
もちろん、フェンネルもといロディアは森番の小屋を熟知していた。何度も何度も森番の小屋に足を運んだものだし――当時、ルビウス・ハグリッドは森番見習いであったが――お茶を出したこともあった。空いている時間に勝手に訪ね、勝手に茶を淹れ、勝手に菓子を食べていたといったほうが正しい。前の森番は鷹揚な人だったのだ。森番、そして森番見習いと何度お茶をしたことか。
――自己満足だったのだ
罪悪感の埋め合わせ。罪滅ぼしの「つもり」。醜い保身だ。ルビウスをよく構えば、なにかがマシになる気がした。兄を告発もせず、沈黙を選んだことがなかったことになると思った。思いたかった……。
ドラゴンを連れてきてその背に乗せてやったのも、なにもかもが自己満足だった。ルビウスの奪われた人生の対価にはとても足りないと分かっていた。
やがて、湯が沸く。紅茶を用意しながら自嘲する。フェンネルは――ロディアは、呆れるくらい変わっていない。今だってそうだ。朝早く、ルビウスの小屋を訪ねたのは気持ちを落ち着かせたかったからだ。彼ならば歓迎してくれると知っていた。彼は子どもが好きなのである。彼の「ぎゅっと抱きしめる」は人間にとっては「万力の力で締め上げられる」のだということを理解していないのは残念だけれども。基本的に善良で、表裏のある性格ではない。フェンネルにとってもロディアにとっても、共にいて心地の良い相手であった。
フェンネルは己が吸魂鬼のせいで安定を欠いていることを知っていた。昨日なんて、パッドフットに縋って泣いてしまった。起きたらフィレンツェがいて、凍り付いた。焚き火が赤々と燃え上がっているわ、即席の寝床が作られているわ、パッドフットが添い寝しているわ……混乱していた思考が一気に覚めた。フィレンツェの青い眼は、泣いて眠ってしまった少年を見てはいなかった。もっと深いところを捉えていた。
頭痛を覚えながら、皿にクッキーを出す。目の前のことに集中したいのに、昨日の失態で頭がいっぱいになる。泣き疲れて眠るって子どもか。身体は子どもだが。いやそれでも。フィレンツェに見られるなんて。
先視のロディア・オミニス・マクファスティーと森の賢者フィレンツェは知己であった。星は人の子の些細な軌跡など示さない、と言いつつも、彼の星読みは極めて正確であった。つまるところ、あの男はフェンネルが誰なのか察しているだろう。そして黙っているわけだ。気まずいったらない。彼がなにも言わないのだから、フェンネルのほうもなにも打ち明けまい。
いかにも初対面です、という風を装って挨拶し、介抱してくれた礼を言ってその場から逃げた。礼を失した態度であったと反省しきりだが、森に戻る気になれない。
――パッドフットの世話があるから
そのうち、森に行かなければならないが。彼にも悪いことをした。いくら毛皮があるとはいえ、真冬に泉へと飛び込んだ馬鹿に縋られて、さぞ寒かったことだろう。
きりきりと歯を食いしばり、追い払い呪文を行使する。茶器一式とクッキーの乗った皿は、滑るように卓に着地した。
「ひとまず」
危険生物処理委員会に顔は出さないといけないと思う。
フェンネルは丸めた羊皮紙に眼をやる。ルビウスの眼は真っ赤だった。お前さんに支度させるだなんて、と大きな身体を縮めていたが、フェンネルは首を振った。友人の家に突然押し掛けて、勝手に茶を淹れただけだ。
「バックビークの」
かちり、と音がする。室の隅に当事者こと彼はいた。ヒッポグリフのバックビークはルビウスの寝床を占拠している。鮮やかな橙色がフェンネルに向けられる。
後で散歩に連れ出してやるよと言って、フェンネルは続けた。
「処遇は決定じゃないわけだし」
ほぼ決定。危険生物処理委員会にはルシウス・マルフォイの息がかかっていそう。つまり決め打ち。バックビークは死刑かもなんて、とはいわない。あくまでも裁判前の事情聴取だものと結んだが、ルビウスは鼻を鳴らした。
「あの処理屋どもめ」
生き物の首をずばずばと切るのが仕事だ。俺の可愛いバックビークのことだって、と震え声で口にして、ハンカチで鼻をかんだ。フェンネルは天井から吊り下がる薬草や一角獣の毛の束をひたすら数えた。
やあ、昔から色々と問題を起こしていたが、悪化していないか。ヒッポグリフは美しいし乗用としてもなかなかのものだが……可愛いに分類されるだろうか。禁断の森の仔狼を寮に連れて帰ったりだとか、ご機嫌で禁断の森に行って一角獣の仔に角砂糖を与えたりだとか……ルビウスは奔放なところがあったが。でも自分だってドラゴンは可愛いと思っている。美しい鱗。身体を洗ってやれば、気持ちよさそうに眼を閉じていた。望めば空に連れて行ってくれたし、あちらから誘ってくることもあった。
ロディアはドラゴン使い一族の養子となった身だ。なぜかといえば、なりゆきでたまたまだったのだが。当時、魔法生物飼育学の臨時講師としてやってきた、マクファスティー家の魔女に、才を見い出されたのである。後の養母だ。彼女はウェールズ・グリーン普通種の仔を連れてきていて、獰猛なドラゴンの仔はロディアに懐いた……。
養子になるかと訊かれ、頷いた。将来ドラゴン使いになることが決定した。まさかマクファスティー家もとい一族の次期当主、諸島を治めるもの……島主として目を付けられたとは思いもしなかったが。
何事もなければ、ロディアは島主になったろう。古び、形骸化した竜騎士の称号を背負ったろう。古の昔、竜と心を通わせ、その背に乗った繰り手は確かにいたという。竜に命じ、火炎にして敵対する氏族を焼き尽くしたとも。昔々の物語。竜の繰り手がおとぎ話となって久しい。竜騎士の称号は優れたドラゴン使いに与えられるものとなった。ロディアは古の竜騎士の再来だと言われた。
竜騎士だ、再来だと言われてもすべきことは変わらず。ロディアは島に籠もり、そのうちにマクファスティー一族の娘を娶って、穏やかに生きて死んでいただろうに。
――歯車が
狂わなければ。いいや、歪みから眼を逸らしていただけだ。そのツケを払わされたのだ。
ぶるっと震えた。ここはルビウスの小屋だと言い聞かせる。安全な場所で、友人が泣いているのだ。慰めが必要なのはルビウスである。
彼の茶器が空なのを見て取って、新しい茶を注いだ。よい香りが小屋に漂う。
「僕がなるべく判例を調べるよ」
意外と魔法生物絡みの裁判は多い。脱走したドラゴンがよそのお宅を壊したとか……脱走というか脱空というか。漁師の舟を壊したとか……。ドラゴン絡みはたいてい、マクファスティー家なのだけど。ついうっかり逃がしてしまい、必死で追いかけたことがかなりある。諸島は広く、滅多によそのご迷惑をかけはしないが、あるときはある。ごたごたが起きたときのための資金も貯めていた。ドラゴンは血も鱗も皮も、牙も爪も有用であった。それと、心臓の琴線も。その名の通り心臓の一部位である。何本かある太い繊維。ドラゴンの生命力は並ではなく、眠らせて胸を開いて少し採取しても問題がない。再生するのである。ロディアはよく呼ばれてはドラゴンを宥め、寝かしつけていた。竜騎士というよりはドラゴンの子守なのでは、と思うことがしばしばであった。ちなみに心臓の琴線は杖の芯となる。杖つくりに売ってガリオンに換えていた。
「お前さんは子どもだ」
ぐずぐずと鼻をすすり、ルビウスは言う。フェンネルはドラゴン使い一族のあれこれを頭の隅に押しやった。
「どうせ休みで手が空いている。課題のついでに調べてみるだけだよ」
ちら、と室の隅にいるバックビークを見やる。まるで王のようにふんぞり返っていた。
誇り高いヒッポグリフを怒らせたのだから、ひっかき傷の一本や二本、覚悟すべきだったのだマルフォイは。
お前さんはいい子じゃ、フェンとルビウスが泣く。フェンネルはいたたまれなくなって立ち上がった。じゃあね、と手を振って小屋を後にしようとして、用事を思い出した。
バックビークの元へ行き「お供しますよ」とおどけてみせる。誇り高い彼は、かち、と嘴を鳴らした。よかろうということだ。手綱を引いて「バックビークを散歩させてくる」と断った。
小屋の周りの柵に腰を下ろし、バックビークを自由にしてやった。賢い彼は堂々と歩いたり、駆けたりした。ただし自分のせいでルビウスが困っているらしいと察しているのか、飛翔はせず、せいぜい羽ばたくだけであった。生き物は人間が思っているより聡いものだ。
鈍い陽射しを浴びるバックビークを眺める。
――ルシウスのやつ
息子の怪我を口実にして、ダンブルドアの資質の欠如を問い、彼を引きずり下ろすつもりだったのだろう。理事解任の件を根に持っているに違いない。まったくくだらない。ルシウスが失脚したのは自業自得だ。闇の品を……とまで考え、意識が逸れる。
ダンブルドアを引きずり下ろす作戦が失敗し、引っ込みがつかなくなって腹いせにルビウスを標的にしたのだろう。裁判まで起こすとは。馬鹿ではないのかみっともない。アブラクサスが見たらどう思うかなと考える。のらりくらりのアブラクサスですら、最終的には兄の軍門に下ったのだろうな……と暗い気持ちになった。妻子を人質に取られたのかもしれない。
兄は王族たるブラック家には手出しを控えたようだけど、息子の世代で死喰い人を輩出したわけだ。闇の帝王の配下にマルフォイとブラックが揃った形になる。
ろくでなしめ。呟けば、息が白く凍った。頭の内がぞわぞわする。ちらりと過ぎる過去を振り払う。兄は死喰い人を拷問していた。お前の目の前で妻子を犯……て……と嗤っていた。
歯が鳴る。ただの脅し。半ば本気のそれ。ロディアは割って入った。あれはどこの一族から出た死喰い人だったか。
――あのときは
後年、自身の身に災いが降りかかるとは思っていなかった。兄がひとつ胞の弟に、死喰い人を脅したような責め苦を負わせた。挙げ句に……。
目眩がして、柵を掴む。耐えきれず落ちそうになり、あたたかい羽毛を掴んだ。
「ありがとう」
バックビークと囁いて、彼の首に縋るようにして下りる。と、と足を着けば、雪が舞った。
「そろそろ戻りましょうか」
陛下、と少し笑う。笑えることに安堵し、バックビークの手綱を持ったとき、遠くから影がやってくることに気が付いた。
雪をかき分けるようにして進む三人。
黒髪と、赤毛と、栗毛であった。
[newpage]
「秘密の守り人」
柵にもたれ、バックビークの嘴を撫でながら、フェンネルは呟く。隣にもたれかかっている弟が、うんと頷いた。
「シリウス・ブラックは父さんの親友で、僕らの名付け親で……」
ハリーって名前を付けたのはブラックで。
弟は拳を握りしめている。爪が食い込んで、跡になりそうだ……と横目で見ながらも、フェンネルは止めなかった。物を壊すよりはいいだろう。それかマージョーリー・ダーズリーを膨らませるよりも? あれは何度だってしてもいいだろうよ。
「つまり、仇だ」
うん、とだけ返した。同じ緑の眼がフェンネルを睨む。
「それだけ?」
「実感が湧かなくて」
遠い国の話を聞いているような心地であった。直接的な危害度で言えばダーズリー家が上回る。ヴォルデモートとかいうどこかの兄も鬱陶しいが、ポッター家の兄弟が現在進行形でよろしくない家庭環境に身を置いているのはダーズリー家の方針に起因する。シリウス・ブラックが降ってわいたところでそれが? であった。
ロディアだったときに裏切りは多々見てきた。兄を恐れ、陣営を抜け出そうとして殺された者もいた。ロディア自身が裏切りにあった。今世の両親があっさりとやられたのには理由があったか、とむしろ得心が行く。
弟の額を指で弾く。
「仇、元凶はヴォルデモートだぞ」
脱獄した死喰い人なんぞに構っていても仕方なし。
眉間に皺を立てる。さっさと帰ろうと思えばこれだ。話があると言われ耳を傾けたら、ポッター夫妻殺害の全容が明らかになった。弟はこっそりとホグズミードに行って聞いてしまったのだ。
ホグズミードくらいいくらでもこっそり行けばいいが、間が悪いことである。どうやって抜け道を知ったかは不明だが――どうせ双子のウィーズリーにでも教えてもらったのだろう。当たらずともいえども遠からず。『忍びの地図』なんて道具があるなんて、フェンネルは知る由もなかった。弟が妙に後ろめたそうな顔をしているな、と首を傾げていた。
「やつは父さんたちを裏切ったんだ」
「……ハグリッドたちが待ってるよ」
弟にバックビークの手綱を押しつける。柵から手を離した。
「彼は落ち込んでいるから、話を聞いてやれよ」
大事なのは今なんだ。どこかの死喰い人への復讐じゃなくて。
弟が爆発寸前の顔をしているのを見なかったことにして、その場を去った。
「破れぬ誓いじゃないのがな」
父さんはそっちを選んだわけか。ぶつぶつと呟きながら、フェンネルは雪の校庭を歩く。戯れに蹴って、白い煙を上げながら。
「絶対裏切らないと思ってたわけだ」
前者と後者を並べられれば、たいていは前者を選ぶ。破れぬ誓いは破った瞬間に死ぬのだ。翻せば、死を覚悟すれば裏切れるわけである。言葉巧みに近づいて、破れぬ誓いを結んで安心させ、ここぞという時に裏切るなんていうことはよくある。忠誠の術と破れぬ誓い、どちらが破られるかと言えば――魔法史にある限りでいえば、後者のほうが脆かったと思う。
忠誠の術は守り人が「自ら望んで」秘密を開示しない限り破られない。今世の父親の目がそれほど節穴だったのか? ダンブルドアを選ばずに、ブラックを選んだというのに。
忠誠遊戯は守り人が鍵である。単に秘密を封じ込めればいいというものではない。ポッター家は闇の陣営に狙われていたのだ。守り人も危険にさらされる。脅迫や拷問で口を割らせても無駄とはいえ、守り人を消せば忠誠の術の保護が弱まる。秘密を知る者たちが新たな守り人になる。ポッター家の場合だとポッター夫妻か。守り人が多ければ多いほど脆くなる。
守り人の選出には実力も考慮しなければならない。闇の陣営から逃げ切り、あるいは迎撃できるだけの力が必要だ。シリウス・ブラックは守り人に打ってつけだったろうことは想像に難くない。
無二の親友で実力者なのだ。ジェームズ・ポッターはシリウス・ブラックに秘密を託しただろう。
――それが
一週間も経たないうちに裏切った? 守り人になるくらい信を寄せられていたのなら、忠誠の術の話が出る前に赤ん坊を始末すればよかった話だ。それか、兄はなぜか赤ん坊を直接始末したいらしかったので、攫って献上すればよかったのだ。
「ブラック家からグリフィンドールに入った男だぞ」
せっせとジェームズの信頼を得て、ここぞという時に裏切るような器用な真似ができるだろうか。グリフィンドールは勇猛果敢な騎士の寮。策謀の匂いは薄い傾向にある。どちらかというとスリザリンとレイブンクローの領域だ。
寮の「性格診断」に惑わされているだけか。
状況証拠は黒だが、勘は白だと言っている。誰もが彼を守り人だと思った……。きっと兄だって承知していただろう。ポッター家の交友関係は把握していたろうし、守り人になるのならシリウス・ブラックだと当たりを付けていたに違いあるまい。忠誠の術が守り人が自ら暴露しない限り破られない、と知っていたかどうか不明だ。兄は信頼だの絆などを鼻で嗤う類であった。嗤って踏みにじったのが兄である。弟たるロディアとて善だの信頼だの絆だのはあまり好まないが。
――絶対
ポッター家の友人の一人くらい取り込んでいそうなものなのだけど。ブラック家は易々と従わない。手間がかかりそうな男を懐柔し、陥落させるくらいならば……。
――脆い一点を突く
フェンネル――ロディアならそうするし、前世のろくでなしの兄もそうするであろう。駒をひとつ、盤上からかすめ取る。
思考は回転を続ける。自分が守り人を打診されたら? ハリー・ポッターがフェンネル・ポッターを頼ったら?
引き受けず、しかるべき誰かに託す。ポッター家の双子の兄が守り人になると誰もがみなしている。己は的になる。血眼になって追いかけてくる闇の陣営を相手にし、時間を稼ぐ。海外へ逃げてもいい。敵の眼がフェンネルに向く限り、ハリーは安全だ。それか守り人候補の名を幾人も「漏らさせる」。噂を流す……本当の守り人は誰だ、と闇の陣営は手を割かれる。
楽しい楽しい忠誠遊戯。お宝を、命を守り抜くための遊戯。
「輝ける天狼星」
生家を棄てた男。鎖を引きちぎった男。
「……裏切り者は、いずこ」
戯れに問い、肩をすくめる。私は穢れた者なのだ。いずこかにまします神が聞こし召すものか……。
ひきつれた、壊れた笑いがこぼれ落ちる。鼻をすすり、先視にして竜騎士、ひとつ胞の兄に殺された者は、とぼとぼと、叱られるのが怖い子どものように身をすくめ、城へと向かった。振り向きもせずに。
――もし
振り向いていたのなら。
見えざる者の手が示したものを見られただろうに。
指で描いたような、鼠の絵を。
やがて、風が吹いた。
誰かのため息を思わせるそれは、瞬く間にすべての痕跡をこの世から運び去ってしまった。