朝廷へ袁軍が押し入った日。そう宦官が皆殺しにされた日のことである。
腐食しきった宦官が粛清されるのは、老臣である王允も望んだことであった。
ーーが。
その日、王允に仕事はなく邸にて書を読んでいた。
そんな折、血相を変えた従者が、自室へ駆け込んできた。
「旦那様!? 袁軍が朝廷へ乗り込み虐殺を始めたそうです!」
「なっ、はあ!?」
王允は驚きを禁じ得ず立ち上がった。
「つきまして、先ほどから宦官の一人が王允様にお目通りを求めております」
宦官。王允はピタリと身体を止めた。
王允と宦官連中とは、仲が良いとは言えない。
なんといっても殺し合うほどの仲の悪さなのだから。
どうしようか悩んでいると、門の方から叫び声が聞こえてきた。例の宦官のようだ。
「張温様が! 張温様をお助けください!」
宦官の話を聞いて、おおよその事がわかった。
『袁軍が宦官を一掃しようとした。その際に大臣の張温が、宦官を逃がしてくれた。そして、張温はまだ朝廷で逃げ遅れた宦官を探している』
「あいつバカか!?」
宦官は泣きながら訴える。
「張温様は自分は宦官じゃないから安全だと。でもすでに宦官と勘違いされた大臣が殺されたと聞きます。私心配で……」
性根の腐った宦官連中と言っても、全ての宦官が悪いわけではない。王允も宦官暗殺自体は企てていたが、そういった者は残すつもりでいた。
儂が暗殺を成功しておけば……いや、今はそれどころではない。
私兵を出すわけには行かない。袁軍とやり合うことになるからだ。
王允は息を飲み込むと従者へ指示を出す。
「剣を出せ、儂が行く!」
朝廷へ忍び込み、辺りを見渡す。袁軍はあちらこちらにいたが、王允の顔を一瞥すると避けていった。
長く蓄えた白い髭は、宦官ではないことの証だった。
宦官から聞いた脱出経路の近辺を探したが、張温は見つからない。宦官の遺体がそこら中に転がり、鉄の臭いが充満している。様子から見ても、脱出経路を変えたと考えていいだろう。
王允は、張温を探しながら悪態をつく。
あいつは、いい者か悪い者かの区別がつかぬからのぅ
結局張温にとってみれば、味方の陣営であれば、それは味方なのだ。だから宦官連中を助けようとする。
邸に来た宦官の言葉を信じれば、助けられた宦官は数十人ほど居たはずだ。しかし張温の身を案じ、救おうと動いたのはたったの一人だけ。
つまりは、そういうことなのだ。
王允はため息をついた。その時、ガタンと近くの戸棚から音がした。
「誰かおるのか?」
王允はその戸棚をそっと開けた。
中には、ガタガタと震える宦官の姿。
「ヒィッお、王允殿……!? ゆ、許してくれ」
「お主、趙忠……!?」
宦官の筆頭、諸悪の根源の一人。
王允は、腰に携えた剣を抜いた。
その頃、張温は朝廷を一人歩き回っていた。
他の大臣から隠れるように助言されるも、それを断って逃げ遅れた宦官を探す。
ふと、人影が張温を覆ったかと思うと、血しぶきを頭にかぶった。
「え?」
ドサッという音とともに、張温の足元で兵が首を切られて倒れこんだ。その後ろには、倒れた兵へ血にまみれた剣を構えた王允がいる。
「王允殿!? うわっ血まみれじゃないですか!? ……大丈夫ですか?」
張温がしゃがみこんで心配する相手は、王允に切られた兵だった。事切れているのを確認すると張温は悲しそうに見つめている。呆れた王允は少ししょげる。
「いやお前、今その男に殺されそうになっておったのだが……」
「なんで私が殺されるんですか?」
そう言って、張温は手巾を取り出し、王允の顔についた血をぬぐう。
「狙われているのは宦官だけですよ」
張温が主張していることは、至極まっとうではあったが。
「自分が宦官と間違われるとは思わぬのか?」
「私のどこが宦官なんですか!?」
張温の姿。一つに結ばれた長い髪や、はねた短い髪はともかく。髭を完全に剃り落としたつるりとした顎に、整えた眉。産毛も剃り落としているあまり日の焼けていない白い肌。
歳は40前後のはずだが、童顔のためか20代にも見える。
それに、香を好んでいるのかいつも甘い香りがした。
「宦官ではない要素が1つもないが」
張温は目に見えて落ち込み、震え始めた。
ああこいつ、宦官と仲が良いから知らず知らずの内に見た目が似てしまったのか。
「で、ですがさっきから兵士にあっても全然殺されてなかったんですよ……」
「お前あれだけ堂々としておればの、確認はするであろうが。運が良かっただけだ、逃げるぞ」
王允は、張温の肩を引っ張り、門へと誘導する。
「お、王允殿! 先に行かないでください。後ろから切られたらどうするんですか」
それもそうかと王允は頷く。
「では前にいなさい」
「前から切られたら?」
「では横にいなさい」
「横から切られたら?」
「お前な、さっきまで堂々と歩いておったではないか!」
王允の腰元にひっついて震えている張温を見て、1つ考えが浮かぶ。
「張温、お前が宦官に似ておらぬところを見つけたぞ」
二人は門へと歩いていった。張温は前を歩き、王允はその後ろを歩いた。
その様子を見た兵は、後退りして道を開ける。
「ほれ、張温。もっと背筋を伸ばしなさい」
「……王允殿酷い……」
張温の両手には、着物の裾が握られている。
下着を脱ぎ捨て股間を晒しながら歩いた。
去勢されていない、つまり宦官ではないとの証明である。
「折角助けに来てやったのだ。酷いとは何だ!」
血まみれの剣を持ちながら、王允は後ろから怒鳴る。
朝廷は殺気立った兵達と、宦官の死体と血で溢れかえっている。そんな中で頭を血で濡らして股間をさらしながら歩く大臣はあまりにも異質で、張温が文句を言うのも仕方がなかった。
門から出て、張温は即座に膝から崩れ去った。
「王允殿、ありがとうございます……」
「ああ、ようやく礼を言うたな」
放心状態の張温を見て、王允は助けることができたことに安堵した。
でなければ、あの床に転がっていたのは兵ではなく張温だった。
「儂のところにお前が逃がした宦官が来ての、その者にも礼を言っておきなさい」
張温は立っている王允を見上げて、笑顔を見せた。
「助けて、良かったんですね。王允殿は、怒ると……思って……いたので」
「そのまま、少し休んでおきなさい」
この子は、儂の良心だ。
張温がいなくなったら、儂は。きっと。