夏目の隠れ家である海食洞に、安堵の空気が戻っていた。
「……峠は越えたようだね」
洞窟の奥、簡易ベッドに横たわる葛車を見下ろし、菅原憂太が汗を拭った。
葛車の体には包帯が巻かれ、点滴と医療用チャクラが流し込まれている。
「里の医療テントへ運ばなくてよかったのか?」
与幸一が心配そうに尋ねる。
設備で言えば、半壊しているとはいえ里の医療施設の方が整っているはずだ。
菅原は首を振った。
「今の里に戻れば、上層部への状況説明や尋問で時間を取られる。葛車さんは『其真』復活の儀式に関わらされていたから、最悪の場合、拘束されかねない。夏目さんたちの説明も難しい。……ここで診るのが一番だよ」
「なるほど……」
与は納得し、破壊された「阿修羅」の修復に戻った。
焚き火のそばでは、夏目傑がコーヒーを淹れている。
「葛車さんはともかく、君たち現役の忍者がここに長くいて怪しまれないかい? 里は非常事態だろう」
「問題ないわ」
答えたのは、岩場に優雅に腰掛けた冥々だった。
「今、動ける忍者は殆ど里に残っていないもの。民間人の護衛で船に乗ったか、他里への連絡や周辺警戒に出払っているわ」
彼女はカラスから視覚共有、上空からの偵察映像を眺めながら、冷笑を浮かべた。
「今、里に残っているのは、自分の身を守ることしか考えていない上層部の
皮肉な話だが、その混乱こそが今の彼らにとっては好都合だった。
◆
一通りの休息を終えた昼下がり。
一行は隠れ家の外、波の音が響く開けた砂浜へと出た。
廻仟の手には、古びた銅鏡──『
この小さな銅鏡の中に、最強の忍が閉じ込められているとは、にわかには信じがたい。
「……廻仟、壊せそうか?」
由良恵が尋ねる。
廻仟は銅鏡を握りしめ、チャクラを吸引してみるが、眉をひそめて首を振った。
「いや……なんか吸えてる感触はあるんだけど、壊れるまではいかない。すっげー頑固って感じだ」
六道仙人の宝具に匹敵する特級忍具。
外部からの干渉を拒絶するその強度は、廻仟の吸収能力をもってしてもこじ開けることは困難だった。
「私も見てみよう」
夏目が歩み寄り、獄門鏡を受け取った。
じっと観察する。
確かに、廻仟の餓鬼道による吸引で、封印の術に多少の「揺らぎ」が生じている。
だが、決定的な亀裂には至っていない。
「……廻仟君が全力でチャクラを吸った『瞬間』なら、僕がなんとかできるかもしれない」
「え、マジか?」
夏目は静かに頷き、獄門鏡を廻仟に手渡す。
夏目傑は『
畜生道は、口寄せの術に深く関わる六道の力。
口寄せの術とは、別の場所にある物体を、時空を超えて術者のもとへ転送する時空間忍術である。
忍の世界では、主に戦闘や諜報に秀でた動物と忍者が、「契約」や「信頼」といった過程を経て、両者の間に『因果の繋がり』を作る。
その因果の繋がりを利用して離れた相手を手繰り寄せ、時空間を超えた転送を可能にするのが口寄せの原理だ。
『因果の繋がり』を多く維持することには才を要する。普通の忍者では、口寄せ契約を維持するのは3~4体の生き物が限度だろう。
たとえ維持できたとしても、『因果の繋がり』を引っ張り寄せる力がなければ、その多くは呼び出しに応じない。
──よし、と廻仟が肩を回して意気込む。もう一度、全力で獄門鏡のチャクラを吸うつもりだ。
夏目傑は『口寄せの術』に長けている。それは畜生道の因子の助けもあり、時空間忍術への高度な素養を持ち、『因果の繋がり』を辿り、手繰り寄せる能力を持つことを意味する。
廻仟が大きく足を開き、両の手で銅鏡を握りしめる。
ズズズッ!
廻仟が獄門鏡のチャクラを強引に吸い上げる。
銅鏡が激しく振動し、その封印がわずかに揺らぐ。強度が落ちる。強固な封印に僅かな隙間が開く。
夏目傑が手を伸ばした。
────。
夏目の意識が、銅鏡の中の無限の闇へと沈む錯覚を覚える。
その深淵の底に、微かに、しかし確かに残っている「繋がり」を感じ取った。
細い。だが、まだ切れていない。
かつて同じ道を志し、袂を分かち、それでもなお、断ち切れなかった因縁。
その黄金の糸は、強靭だ。掴み、手繰り寄せる。
今度は手放さない。
(──戻って来い、悟!)
そして。
「──お帰り、悟」
「──……ただいま、傑」
最強が戻ってきた。
見上げた空の青は、澄んでいた。