いきてきたるIF   作:かに3

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□□□□□

 

 そろそろ夏雄が帰ってくる時間だ。壁の時計を見て、そんなことを考える。父さんの性格を思えば、俺が意識を取り戻したって連絡が来ていても、どうせ「帰ってから言うか」とか何とか理由をつけて、まだみんなには伝えていないだろう。あの人は、面倒なことほど後回しにする。悪い知らせならなおさらだ。

 だったら、俺から連絡した方が早い。そう思って、病室の片隅でスマホを取り出し、見慣れた番号をタップした。

 二回、三回。

 呼び出し音がやけに長く感じられたあと、ようやく通話が繋がる。

 

「……は、はい。と、とどろ、き、です」

 

 一瞬、耳を疑った。噛んだ、だけか? そう思おうとしたが、声がやけに硬い。息が浅くて、言葉の端が引っかかっている。

 

「夏雄?」

 

 俺が名前を呼んだ、その瞬間だった。

 受話器の向こうで、何かが崩れる音がした。息を吸い込む音がひっくり返って、次の瞬間、堰を切ったみたいに泣き声が溢れ出す。

 

「……っ、う、あ……ああ……」

「夏雄、落ち着いて。俺だ。陽火にいだよ」

 

 そう言った途端、声がさらに大きくなった。

 

 「お、おかしく……な、なっちゃ……っ」

 

 言葉が途中で千切れる。

 

「お、おれ、こわれ……ちゃ……っ、しゃ、しゃべ……るの、へ、へんに……なっ……」

 

 息を吸おうとして、うまく吸えないみたいに、ひゅっと音が混じる。

 

「だ、だめ……だめに……なっちゃ……っ、わ、わる……いこと、し、した……か、から……」

 

 何を言っているのか分かるのに、追いつけない。

 

「ち、ちが……っ、ちが……う……」

 

 俺が遮ろうとするより先に、向こうの言葉が洪水みたいに流れ込んでくる。

 

「……だ、だから……っ、だ、だめ……に……なっ……」

 

 泣き声で、ほとんど聞き取れない。

 

「陽火にい……っ、た、たす……け……て……! ふ、ふゆ……ちゃん……も……っ……しょ、しょう……とも……お、おか……しく……なっ……ちゃ……っ」

 

 一人ずつ、必死に確認するみたいに名前を並べていく。

 

「こ、こわ……い……」

 

 嗚咽がひどくなって、言葉と泣き声の境目がなくなる。

 

「む、むか……え……に……き、きて……」

 

 震える息の合間に、かろうじて意味だけが浮かぶ。

 

「お、おれ……っま、まも……れ……な……っ……」

 

 声が裏返る。夏雄が何を言っているのか、一言も聴き逃さないように耳をすましながら通話録音を確認していた。

 

「や、やく……そく……っ、ま、まも……れ……な……い……!こわ……い……ぃ……っ」

 

 泣きじゃくる音だけが、延々と耳に残る。言葉が溶けて、ただ恐怖だけが滲み出してくる。最初は、少し噛んだだけに聞こえた声が、今は原型を留めていない。スマホを握る手に、知らないうちに力が入っていた。爪が食い込んで、痛い。

 

「夏雄」

 

 できるだけ、低く、ゆっくり呼ぶ。

 

「聞いて。俺はここにいる。ちゃんと生きてる。今、話せてる」

 

 向こうの泣き声は、すぐには止まらない。それでも、名前を呼び続けるしかなかった。電話越しに、崩れていく弟を、繋ぎ止めるために。

 

「すぐに兄ちゃんが助けに行ってやるからな、いつもの場所で、冬美と焦凍と一緒に待ってて」

 

 しゃくり上げる泣き声が短い肯定の繰り返しになったので、何度も何度も「兄ちゃんすぐ行くからな、大丈夫だからな、夏雄はいっぱい頑張ったの、ちゃんとわかってるから」と念押しして、一旦通話を切った。

 

 

「……お医者さん!!」

 

 声が裏返るのも構わずに呼びかけながら、俺はナースステーションに駆け込んだ。

 

「すいません救急車派遣って出来ますか!? ……無理ですよね!! じゃあタクシー呼んでください!! 家が!! 家が大変なんです!!」

 

 自分でも驚くほど大きな声が出た。廊下の向こう、ナースステーションの奥で、例の医者が看護師を相手にド詰めしているのが見える。頭の後ろにはトゲトゲの吹き出しが乱舞していて、『報連相』『報連相』『報連相』と、もはや文字が飛び散っている状態だ。ああ、絶対今は機嫌がいいタイミングじゃない。でも関係ない。

 

 駆け寄った瞬間、医者の背後の吹き出しがピタッと切り替わる。

 『走る‪✕‬』

 『ご安全に』

 あ、これ、叱られる流れだ。

 そう察知したので、言われる前に行動した。ポケットからスマホを取り出して、途中から録音していた通話を再生する。スピーカー越しに、さっきまで耳を塞ぎたくなるほどだった声が、その場に流れ出した。

 吃音で千切れた言葉。意味にならない音。泣き声と恐怖だけが剥き出しになった声。

 ナースステーションの空気が、目に見えて変わる。

医者の表情が、すっと消える。吹き出しは『!?』だけが文字となって浮かぶ。

 ほんの数秒、無音。

「……車、出します」

 それだけ言って、白衣の裾を翻した。

「自家用になりますが、構いませんね」

「構いません!!」

 即答だった。

 

「医者の目線から見ても、やばいですよねこれ!? 吃音ですよね!? 夏雄、俺がこうなるまでは、こんな症状なかったんですよ!!?」

 

 半分泣きそうになりながら言うと、医者の背後に、また吹き出しが浮かぶ。

 今度は、不穏極まりない文字だった。

 

『誘拐』

『やむ無し』

 

 それでも、医者は足を止めずに言った。

 

「責任は、私が取ります。ちょうど当直と交代の時間ですので、心配しないでください」

 

 ああ、この人……父さんと話したことがあるからこそ、「まずは保護者に連絡を」という段階を、迷わずすっ飛ばしたんだ。今この瞬間に必要なのが“連絡”じゃなくて“保護”だと、分かってる。

 何かあったら絶対弁護に回るからな……まともな、『子供を守ろうとする大人』、今の人生に足りてないから……。

 

 

 

 夏雄たちは、空き部屋の押し入れの中にいた。

隠れる、というより、身を畳んで世界から消えようとしていた、と言った方が近い。引き戸の奥、薄暗い空間の中で、三人が体を小さく丸めて、ぎゅっと抱き合っている。

 真ん中には、俺が前に「きらきらだぞ」と言って作ってやった、ちっぽけな“灯火”。弱く、頼りなく光っているそれを、まるで命綱みたいに囲んでいた。

 

「ふゆ、なつ、しょうと、兄ちゃん帰ってきたぞ」

 

 名前を呼んだ瞬間、三人の肩がびくりと跳ねた。夏雄が顔を上げて、焦凍がその腕を掴んだまま離さず、冬美は声も出さずに泣いていた。泣き声を出すのが怖かったんだろう。息を殺して、光だけを見て、時間が過ぎるのを待っていたんだろう。こんな、ちっちゃい子供が。一生懸命耐えて。

 

「……父さんは?」

 そう聞くと、夏雄が首を横に振る。

「……い、いな……い、二日、前から……」

 

 二日前。

 俺が血を吐いて運ばれた、あの日からだ。

 どうやら、でかめの事件が起きたらしく、父さんはその対応で家に戻っていないらしい。

 

「なんか……い、いま……東京……」

 

 夏雄の言葉が、力なく途切れる。

 通いのお手伝いさんは、少し前から孫の里帰り出産で休んでいる。つまりこの家には、子供しかいなかった。メンタルが限界の子供だけが、でかい家に取り残されていた。理解した瞬間、頭の中で何かがぶちっと切れた。

 

 く、く、くそ親父~~!!

 メンタルケアが必要なタイミングだって分かってただろうが!! 放置してやがったなあいつ!! いつもは良いよ! 俺が面倒みてたから! でも今はダメだろ何やってんだ!? 何もやってなかったな!!?

 

 隣に立つ医者の背中を見ると、吹き出しがもはやウニみたいになっていた。『ハァ?』『怒』が分裂しては増え、増えては消え、無限ループを起こしている。発電できる勢い。

 

 うおおおお!! 児相!! 助けてくれ!!! 法律! 守ってくれ! 心の中で叫んだ、その直後だった。

 

「全員、保護に切り替えます。病院で一緒に過ごしましょう」

 

 即断。一瞬の間もない。

 

「その意味は?!」

 

 思わず聞き返すと、医者は一拍置いてから、急にしゃがみ込み、声のトーンをがらりと変えた。

 

「みんなでね、陽火お兄ちゃんと、お母さんのいる病院にお泊まりしよう!」

 

 夏雄たちの目線に合わせて、にこっと笑う。

 

「元気になるまで、同じお部屋でお泊まり会だ。ずっと一緒だよ」

 

 その瞬間だった。

 夏雄の肩から、明らかに力が抜けた。冬美が息を吸って、ようやく声を出して泣いた。焦凍が、凍りついていた表情をきょとんとしたものに変えて医者を見上げてから、ゆっくり頷く。

 三人の表情が、ほんの少しだけ、明るくなる。

 俺は、押し入れの中でまだ小さく光っている“灯火”を見ながら、ようやく、胸の奥に溜まっていた息を吐いた。眩暈がするが、ここで倒れたら色々とやばい。一番手前にいる夏雄を抱き上げて「お前らに会えなくて、兄ちゃん寂しかった」という。「お、お、れ、俺も! 俺もっ、さ、寂しかっ、た!」と、強く抱きついてきた。順番に、会いたかった、寂しかったと伝えては強く抱きしめる。一緒に行こうな、こんな地獄の家、さっさと出よう。グッバイ地獄の轟くん家! いや、帰るけどな! 燈矢が帰ってくるまでに絶対ある程度まともにしてやるから覚悟しとけよ! まずは全員のメンタル、治療します! あばよ! 父さんはあとで児相とお話しててくれ!!




弟妹たちの二日間の症状

冬美➡表情が乏しくなり、感情を外に出さなくなった。声を出すと何かが起きる気がして、泣き声も飲み込む。家事をしようとするが手が震えて上手く出来ず、「私がしっかりしなきゃ」という思考だけが空回りし、夜になると過呼吸気味になり眠りが浅くブツ切り状態。

夏雄➡罪悪感と恐怖が直結し、「自分が悪いから皆が壊れた」という思考に囚われた。言葉が詰まり、吃音が出現。呼吸が浅く、パニック発作に近い状態を繰り返す。悪夢を見ては陽火の部屋に行き、居ないことにまたパニックを重ねる。

焦凍➡状況理解が追いつかず、感情が一時的に凍結。音や刺激に過敏になり、人に触れられるのを嫌がる。夜間に悪夢で覚醒し、無意識に個性が出現して布団を燃やし、“炎の個性”が出たことでまた精神が不安定になる。兄がいない状況を「現実」として処理できず、救急車が家の前を通ると飛び出して追いかける。


東京に行ってる父➡通いのお手伝いさんが休みという情報を得ていない(陽火がそこら辺確認していた)。自分の事務所の若手に様子を見るように頼んだが、何の詳細も言わなかったため、頼まれた若手も「なるほど! 警備だな!」と夜間見回りだけやってた。言ってくださいよ、子供たちの生活の様子をみて欲しいって……………。不審者の警戒の方だけしてた。


医者
言見 直(ことみ すなお)
三十代男性医師。精神科を主とする総合診療医で、救急当直にも頻繁に入る現場型の医師。口数は少なく、説明は簡潔で、感情を表に出さないタイプに見えるが、患者の変化には異様なほど敏感で、危険の兆候を見逃さない。

個性は《可視言語》本人の無意識下の感情や判断が、吹き出し状の文字として視認できてしまうというもの。感情と職業倫理のズレに長年悩まされてきたが、「言葉に出る前の本音」を自制の指標にすることで医師としてのバランスを保っている。ちなみに、彼の目には他人の“吹き出し”が見えている。
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