まわりの音がどんな音色を奏でようと、自分の中にある心が揺れ動くことはない。
そう信じ込んでミゼリアはこれまで生きてきた。
初めは彼以外の音を消して、あの優しい音だけを聞いていた。
それは心地よくミゼリアの心を癒やした。
そして世界と向かい合う余裕が生まれた。
次に少しだけ近くの音を聞いてみた。
そうして、新たな友人たちを得た。
権力や地位に縛られながらも、正直な少女たちだ。
それは月日が経っても変わることのない絆を作り出していた。
サフィレーヌとの依存に近い友情とはまた違った、別種の心の支えとなった。
さらに音を聞いてみた。それは王女となってから聞いていた範囲と同じくらいの広さだった。
しかし、以前とは聞こえ方が変わっていた。
もちろん自分をなじるようなひどいものもあったが、それを跳ね除ける精神的な力をミゼリアは得ていたのだ。
しかもその噂を利用する術まで手に入れていた。
派閥争いという名目で彼女は自分の権力を使う方法を覚えた。
自分の戦い方というものを学んだ。
そして、やっと自覚した。自覚できたはずだったのだ。
自分はこの国を背負うことのできる存在なのだと。
ミゼリア・『サルヴァリオン』。
その名前を名乗ることに躊躇することが無くなっていた。
誇示するように名乗っていた数年前までの自分とは違う。
今はその名前の重さは十分に理解した上で語っている。
自分は『王女』なのだと──。
だが、その
固定されたまま運ばれ、ミゼリアはただ暗い洞窟の天井を見るだけだった。
あの醜悪な女は去っていた。
またアレは絶望を振りまこうとしているのだろう。
あのグリムと呼ばれた女はなんの主義も持っていない。
ただの遊び人だ。
あの女はただミゼリアを苦しめるためだけにその真実を話したのだ。
そして、絶望の中でミゼリアが生きていくことを楽しんでいる。
その証拠に、反王軍の仲間である男たちには自分が『王子の妻』であったと話していないのだろう。
虚飾を維持すればミゼリアは生きるが、本当に大切な何かを失うのだ。
だが虚飾を捨てても、ミゼリアは今まで積み上げた全てを失う。
それらは彼に教えてもらったことも含まれている。
悲しいことに今のミゼリアを形成しているのは、その地位と出生だ。
友情も、生活も──恋すらも。
ミゼリアがサルヴァリオンだからこそ、それらは成立しているのだ。
ミゼリアは体の震えが止まらなかった。
その恐怖は虚無に落ちるような暗いもの。
自分自身の無意味さに押しつぶされるような息苦しいものだった。
そして、自分がそれらを手放したくないと思っていることも、浅ましくて嫌だった。
“他人の人生を乗っ取り、それを使って生きてきた馬鹿な女”。
それは事実なのに、そうなるのがどうしても嫌だった。
(いや……。いやよ……。そんなのいやよ……)
だからあの女の語ったことが嘘の可能性を必死に探し続けた。
無様に、だらしなく、みっともなく、恥ずかしげもなく。
だって、普通の女になってしまったら
もう、遊んでもらえない。
天気のいい中庭で子供みたいに二人で盛り上がって、笑い合うことができなくなる。
もう、話してもらえない。
二人で共通の過去について会話して、お茶菓子にかぶりつくことができなくなる。
もう、キスしてもらえない。
触れられる度に
(そんなのいやあぁ……)
子供の駄々のようにミゼリアは涙を流した。
昔の自分に戻ったようだった。
「……っ、……!」
「あん? 泣いてる? めっちゃかわいー……」
「え? どゆこと? 感想繋がってる?」
自動で追尾する台車の上で泣くミゼリアを見て、前を歩いていた男が反応した。
魔法の小さな光だけが照らすその暗い空間で、
「……ちょっといい?」
「えぇ……。今ぁ?」
汚らしい男の手がミゼリアに伸びようとしていた。
もしこれが舞台の上ならば、主役が駆けつけ助けに入り観客が喝采の拍手をするのだろう。
だがここは現実であり、この世界がそんなくだらない展開を許すはずがない。
そして、そんな悪事はこの世界のどこでも起こっていることであり、その演者がミゼリアになっただけのことだ。
つまりは平等に悪に穢される世界を。皆が共に苦しみ泣いて暮らす社会を。
全員が堕ちれば平和なのだ。
それが彼らにとっての平らかな世界だ。
だって、考えても見てほしい。
誰かが助けられるというのは、素晴らしいことだ。
他者を救うということは、素晴らしいことだ。
だが、それらの行為は
誰かが下にいるから救済は起こり、誰かが苦しむから援助は必要とされる。
教えるには知識に劣る者が必要である。
守るには力の劣る者が必要である。
助け合いとは、傷つけ合うことだ。
慈しみは上から下へ行われるものだ。
そうだ。平等とは、不幸すら均等に訪れる社会でなければならない。
「めっちゃ興奮する!」
「背徳感やばそう」
男の手がミゼリアの体へ触れる。──その直前に変化が起こった。
「あれ──?」
人間の中に平等は作れない。全員が同じにはなり得ない。
それはお互いに尊重し合うからこそ成立してしまう不平等だ。
それは何巡もした考えだ。
とっくの昔に議論を終えた話だ。
人間は平等を諦めた。今更それを求める者を笑うしかないのだ。
それでも、いつの世もそれを探し求める人が出てきてしまう。
いくら歴史を積み上げても、悲しい繰り返しが起こる。
だからこそ──
人間の手に負えない問題だからこそ──
「いってぇっ!!」
「ん?」
ミゼリアに触れようとしていた男の汚い手が消え去った。
正確には
「なん──」
状況を理解できぬまま、その男の喉元から炎が生えてきた。
それは刃の形をした炎だった。背中側から刺された炎の剣は男を絶命させ、男はそのまま地面に倒れた。
そしてその炎剣はすぐに消えた。
「おいおいおいおい、マジか。マジか!?」
もう一人の男は地面の石ころを散弾のように放ち、『見えぬ敵』を攻撃しようとした。
男に荷物を守る余裕はなかった。だからその攻撃はミゼリアにも被害が出るような範囲で放たれた。
しかし、その男が魔法を使ったときには、既にその胸は撃ち抜かれていた。
「か……は……」
なぜ
それは防御魔法を容易く貫通するからである。
穴から血を流しながらその男も倒れた。
「────」
驚くミゼリアの目の前には“透明な壁”があった。
その壁は男の放った土の散弾からミゼリアを庇っていた。
その壁が姿を現し、ミゼリアの方を振り向く。
そう──人々は祈ったのだ。
自分たちにけっして訪れぬ安らぎを。幸福だけを享受できる不平等な社会を。
『自分たちにはできなくとも、超常の存在ならできるはず』
そうやって人々は上位者に責任を押し付けたのだ。
自らを下に置き、『その女神』を上に押し立てた。
「すみません、出しゃばりました。結果は変わらないのでしょうけど、早いに越したことはないのです。効率的にいきましょう?」
白色の髪の毛が揺れる。
その髪の毛は所々が傷んでいて、状態は酷かった。
ミゼリアを見るその緑色の瞳は、少し輝きが鈍い。
そのまわりには疲れを表すような暗い隈が少しだけ見えた。
着用している衣服はボロボロで汚れていて、みすぼらしい出で立ちだった。
その手には剣と銃があった。
それは地上にはなかった技術で作られた貴重なものである。
そして、その胸元には女神のシンボルが光っていた。
「…………」
なぜかそんな汚い少女を見て、ミゼリアは涙を流した。
救われたという事実。
助けられたという感動。
そして、何故か感じる敬愛する心。
「なぜ……泣くのです? まあ、いいでしょう」
てきぱきとその少女はミゼリアの拘束を破壊した。ただの力技だった。
そして、台車から解放されたミゼリアを優しく抱え、洞窟の壁を背に寝かせた。
「ふむ、しかし、初期設定も行われていないとは。人間が作ったせいでしょうか。
あの程度の人間に捕まるなど、嘆かわしいです。しっかりして下さい。私の技術が馬鹿にされます」
何故かミゼリアはその少女に怒られていた。
「その口の拘束は私では傷つけてしまいそうです。他の者に頼みなさい」
轡も無理矢理引きちぎろうとして、少女は諦めた。
それを聞いてミゼリアは必死に頷いた。痛いのは嫌だった。
「……さっきからなぜ無言なのです? 私に感謝しなさい。もっと褒めなさい。風声があるでしょう」
そしてまたミゼリアは怒られた。しかも注文付きであった。
『……えっと、聞こえるの?』
「馬鹿にしています? ほら早く褒めなさい」
『あ、ありがとう。すごいわね?』
「最高です。よろしいです」
読めない表情であるが、その少女は嬉しがっているようだった。
先ほどまでの恐怖が嘘のように、少しだけ空気が緩んだ。
それによりミゼリアが多少は落ち着いたことを感じたのか、少女は服のポケットから何かを取り出した。
『──! それは……』
「……貴方
それはミゼリアがトーリアから受け取っていた首飾りだった。
それを証明するように、シンボルに彼女の血がついたままだ。
「……またこれを受け取ってくれますか?」
何故か遠慮がちに少女は言った。
『もちろんよ! 大事なものなの! 拾ってくれてありがとう!』
「…………!」
少し安心したような笑みを浮かべながら、少女はその『
それを受け取ったミゼリアは大事そうに両手で抱え込んだ。
そんな姿を見て、少女の目が少し緩んだ。
しかし、それは一瞬のことであり、ミゼリアには見えなかった。
「さて、貴方にはどんなことから言えばいいのかわかりません。時間もありません。だから手短に言います」
「…………?」
少女の目が怪しく光り、ミゼリアを見つめる。
少し戸惑いながらも、その純真さ故にミゼリアは少女の観測を受け入れた。
それはかつてトーリアが聞いた女神からの託宣と同じだった。
“女神の口”から放たれる声だった。
「貴方の正体は、貴方の予想する通り偽物です」
「…………っ!」
それを聞いてミゼリアの体がこわばった。
それでもシンボルを強く握りしめ、その続きの言葉を聞いた。
「そして、貴方は我が人形でもあります」
『人形……?』
「人間たちが“ネトス・ヴァルキュリア”と呼ぶ者です」
『……え?』
衝撃がミゼリアの中を駆け巡るが、同時に何かに納得した。
だが、涙が流れた。全てが無になる感覚がした。
「…………責めるなら私を責めて下さい。貴方の運命を捻じ曲げたのは、他ならぬ女神なのです」
『……そうなのね。アンタが……』
少女がミゼリアの頭を優しく撫でた。
そこまで言われて、ミゼリアも目の前のボロボロの少女がどんな存在なのか理解した。
だが、ミゼリアが少女を責めることはなかった。
事情がまだ掴みきれていなかったのもあるが、単純にその少女が弱っているように思えたからだ。
これ以上傷つけば消えてしまうような儚さがあった。
『……私はどうすればいいの? それを教えてくれれば許してあげるわ』
「……ふふ。私にそんな口を利くのは貴方だけ……いえ、あと一人はいましたね」
冗談めかしたミゼリアの口調に彼女は笑うと、真剣な顔でミゼリアに告げた。
「
「…………」
それは残酷な宣告だった。
ミゼリアの望みと一致するものではあるものの、とても容認されるものではないだろう。
「……そして貴方はしばらくは身を潜めなさい。それこそハピフクス家に。貴方のその偽りが本物となるその時まで」
『偽りが……本物に……?』
わかりにくいことを言って少女ははぐらかしたが、それはミゼリアの理解を信用してのことだった。
今はわからなくとも、その言葉をいずれミゼリアは理解できるようになる。
なぜならミゼリアは“女神の最高傑作”に等しいのだから。
『でも……それはどこかにいる本物を……。私は……本当になんてことを……』
当然の罪悪感に押し潰され俯くミゼリアを少女は笑った。
「何を言っているのです? すでに
『……? え……?』
「まだ気づいていないのです? ああ、もうすぐですね」
冗談ではなく本気でそう言っているような少女の態度にミゼリアは混乱する。
少女は立ち上がり、ミゼリアに背を向ける。
彼女にも時間は無いのだ。
しかしそれでもここに来たのは、彼女の罪滅ぼしだった。
「──
優しい笑顔を浮かべ、少女は姿を消しながら去っていった。
『…………』
戸惑ったミゼリアは少し言葉に詰まった。
“すでに許されている”。
“まだ気づいていないのか”。
“同じように孤児として育った”。
“声の聞き方を教わった”。
そんなことが許されていいのだろうか。
そんな出来すぎな運命を受け入れてしまっていいのだろうか。
ミゼリアは、安堵にも似た幸福の涙を流した。
大地を振動させる音が響いてくる。
それは何かを削る音だったが、そんなことはどうでもいい。
今は何かがミゼリアに近づいてきていることが重要だった。
何かとは、何か。
その答えは決まっている。
ミゼリアの愛する者に決まっている。
「…………っ」
ミゼリアは叫びたかった。
それは人間の感情が全て混じったような、溢れ出るような慟哭だった。
でも、今の塞がれた彼女の口では言えない。愛しい彼の名を。
ならばあるではないか。もう一つの、
『……スっ。……クス。ルクス……ッ!! ルクスッ!!』
それは同時に確認だった。
もし、これが聞き届けられるのなら、ミゼリアはこの世界に感謝してもいいと思った。
女神を許してやってもいいと上から目線で思った。
──暗い空間に光が満ちた。
それは場の空気を破壊するように輝いていた。
『おっしゃああああああああああっ!! すまんッ!! 迷ったッ!!』
愛しい彼の声がミゼリアの耳に届く。
それはつまり彼の特別な耳が彼女の特別な声を聞いたということ。
これで証明された。
本当の王。それが誰なのか。
そして、彼こそがミゼリアが傅くべき相手なのだ。
『……ッ! ……さっさとしなさいよ! もう、この、馬鹿……』
彼は──ルクスはまた意味のわからない乗り物に乗っていた。
洞窟を掘り進むための回転する
ガタゴトと車輪が音を鳴らし、それの前方には強い光が付けられている。
『ご立腹!? 嘘だろ!?』
『っていうかその音うるさい!』
『ええええっ!? めっちゃ自信作のグラウンドファイター君1号なのに!!』
『……はあ?』
『ガチで冷たいやん……』
ミゼリアは涙を流しながら、彼との会話を楽しんだ。
やめればいいのに、素直になればいいのに、ミゼリアは強気な態度を続けてしまった。
やがて、彼の車がミゼリアの手前で止まる。
そこから車が倒れるのも気にせず、彼が駆け寄ってくる。
先ほどの言葉の応酬からは考えられないほど、彼の目は彼女に対しての心配で満ちていた。
『ルクス……!』
「ミゼリア……ッ!!」
あえて動かずに、ミゼリアは手を広げた。
もう子供っぽくて自分でも嫌になる行動だった。
ミゼリアの愛する顔が愛する声を発し、愛する手が伸びてくる。
先ほどまで色々考えて、張り裂けそうになっていたのに、彼の温もりを感じただけで全て消え去ってしまった。
強く抱きしめた。とても強く。全部をぶつけた。
赤く潤んだ目でミゼリアがルクスを見る。
彼もその熱い視線に答え、見つめ返した。
そして彼の手がやさしくミゼリアの頬に添えられる。
「ありゃ? なにこれ? ガードのつもり?」
それはミゼリアの口に付けられた轡のことを言っているのだろう。
ルクスは魔法で簡単にそれを消した。そしていたずらっぽく微笑んだ。
「残念でした。何も防げないよ?」
「……本当に、馬鹿」
そのまま二人は口付けを交わした。長く、強く。
ミゼリアはそのキスで精一杯、彼に伝えた。
それは“ちょっとのごめんなさい”。
そして“いっぱいのありがとう”。
それをいとも簡単に受け入れたルクスは優しく微笑んだ。