プリミティブ・プライメイツ ~暴君転生~   作:翠碧緑

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115話 どうか憐れで不憫な人生を

 

 生まれから死までを“幸福で塗装されている”。

 

 ハディアはそんなことを思いながら生きていた。

 

 欠けぬ家族。

 祝福された誕生。

 愛に溢れる団欒。

 困らぬ生活。

 

 それはとても幸福な人生なのだろう。文句の言いようがないほど完璧な幸せだった。

 

 助けられ、お礼をする。

 困っている者を助ける。

 

 間違ったら謝罪する。

 間違っていたら叱る。

 

 常に笑顔と愛を振りまき、相手に不快な思いをさせない。

 

 けっして自分だけの欲望を優先せずに、他人に配慮する。

 

 その家に生きるモノは全員が完璧だった。──完璧な“鉄の仮面”を被っていた。

 

 どこかで争いが起こったとき、皆、それを聞いて沈んだ顔をした。

 

 だが、それは争いに対して嘆きを抱いたわけではなく、『また関わることができなかった』という深い悲しみを得たからだ。

 

 誰もが血を求めた。戦いを求めた。苦しめることを快楽とした。

 だが同時にそれが許されないという社会的道徳をしっかりと持っていた。

 

 だから皆苦しんだ。

 全員が闘争に飢えながら、調和を必死に維持する怪物たちだった。

 

 それが『ハピフクス家』。原初の血を色濃く残した人々だ。

 

 それを、その家族の苦しみをハディアは見ていた。

 だから自分だけが本当の幸福を得てはいけないと思い、自分もまた、“鉄の仮面”を被った。

 

 古き名家に生まれ、完璧に教育され、女としても最上級の魅力を持つご令嬢の仮面。

 

 その仮面をつけるハディアを見たときに、家族は()()()微笑んだ。

 

 それは“自分の欲望を幼い娘に我慢させているという申し訳なさ”と、“もし欲望に忠実になってくれれば()()()()()()()()()という狂った落胆”が混ざったものだった。

 

 狂っていた。歪んでいた。

 でも、それでも愛情はあった。

 

 皆が完璧な仮面を付けているが故に完璧な家族だった。

 

 完璧な両親。

 完璧な兄弟。

 完璧な姉妹。

 完璧な親戚。

 

 ハピフクス家は最善の一族だった。

 

 他の人間とは作り方や目的が違うだけで、ちゃんと努力して幸福を作り上げていた。

 

 でもやっぱりハディアにとってそれは退屈だった。

 

 このままでは“幸福に殺される”と思った。

 

 だから──ずっと()()()()()()()()

 

 敵を作る理由。戦う理由。殺す理由。嗤う理由。

 

 『心優しいハディア様』が踊り狂うに値する理由がとても欲しかった。

 

 だが、幸せと愛でぐちゃぐちゃに塗りたくられた彼女の人生にそれが訪れることはなかった。

 

 暴走した領民が反乱を起こすこともなく、当主の跡目争いが行われることもなく、男を巡って女が嫉妬し合うこともなかった。

 突然天災に遭い家を失うこともなかった。

 

 皆が気持ち悪いくらい他人のために動いていた。

 なにも不快な思いはしなかった。──()()()()()()()()

 

 なにかを探してハディアは旅に出た。

 

 護衛などつけていては襲われないし、身分をかざしていては反抗されることもない。

 

 だからたった一人で旅に出た。

 

 でも、なにも起こらなかった。

 

 暴漢に襲われることも、差別に遭うことも、なにも困ることがなかった。

 

 出会う人々は皆優しく、見る景色は素晴らしいものばかりだった。

 

「じゃあ楽しんでいってくれよ! おすすめの宿屋はさっきのとこな!」

 

「ありがとうございます」

 

 優しい道案内にお礼を言って、ハディアは異国の地を歩き始めた。

 全ての巡り合わせが良かった。噛み合っていた。本当に退屈で暴れ出したかった。

 

 でも、幸福な世界に文句を言う権利はない。

 

 狂った落胆と常軌を逸した絶望がハディアを包んでいた。

 

 “不幸が来ないから嫌だ”、なんて論理が通用するはずがない。

 

 もう帰ろう。ただ幸福な時間を享受するだけの退屈な人生を謳歌しよう──。

 

「うおおああああああ!? お! アンタ! そこのお姉さん! ちょっといいか!?」

 

 そう思っていたハディアの耳に綺麗な男の声が降り掛かってきた。

 

「…………?」

 

 それこそ、それまでの彼女の人生を木っ端微塵にした男との出会いだった。

 

「ちょっと話を合わせてくれ!」

 

 金髪の目立つ髪。高貴な印象を抱かせる金色の瞳。

 

 ハットリューク。それが彼の名前だった。

 

「っつーわけで、俺には恋人がもうすでにいんのよ? だから諦めて?」

 

「……本当に?」

 

「な、なあ? そうだよねぇ? ハニー!」

 

 冷や汗を大量に流しながら、ハットリュークがハディアに問いかけてきた。

 

 彼の話によると、彼は旅の途中にこの地に住む女性と仲良くなり、一晩彼女の実家で過ごさせてもらえることになった。

 しかし、この地の風習では一緒の家で一晩を明かす者は家族となる。

 

 つまり、痴情のもつれであり、その文化を知らされていなかった彼はその女性に騙されたようなものだった。

 

 その言い逃れの方法が、すでに恋人がいること。この地では結婚は一度のみしか許されないからだ。

 

 彼は『実は恋人と待ち合わせしてたんだ』と嘘をついて、その相手に選ばれたのがハディアだった。

 

 困っている彼を見ているのはとても楽しく、もっと苦しめたかったが、ハディアは事情を察して助けることにした。

 

「ええ、そうですね。早く会いたかったですわ、()()()()

 

「…………」

 

「?」

 

 そう言われて、固まるハットリューク。

 

「あ、あー、というわけで、君の入る余地はないんだ!」

 

 もちろんそれだけで収まるわけはなく、相手の女との家族ぐるみのトラブルに発展し、結局、無理矢理その町から脱走するしかなかった。

 

「マアァジで、すいませんっした!!」

 

 意図せず二人で野宿となってしまったため、ハットリュークはハディアに深く謝罪していた。

 

 荒野の洞窟に二人きりで過ごすことになってしまった。

 

「ふふふふ……頭を上げてください。楽しかったですから」

 

 一方、ハディアはこういう騒動を初めて味わってとてもご機嫌だった。

 望んだものよりは平和的なものだったが、いい刺激になって満足していた。

 

「ええ……? 思ったよりやべえ女なの……?」

 

 まっすぐに見つめられ、その困惑した彼の表情は、ハディアの“ツボ”だった。

 

「! ……ふふふふ」

 

「笑っとる……。えー、次の町までは俺が全部費用を負担……あれ?」

 

 必死に荷物を漁る彼の行動を見れば、次に出てくる言葉も予想できた。

 

「あのー、お金の方持ってます……? 盗まれちゃった……。絶対返すから……!」

 

 本当にハディアが初めて見るタイプの人間だった。

 

 彼女の周囲には絶対にいない、雑で横暴な行動だった。

 他人の迷惑だとわかっていても、要求を続ける彼はハディアの興味をすごく引いた。

 

「ふふ……あはははははは!!」

 

「ひえっ……。怖いよこの子……。君、()()()()()()()()()()()……?」

 

「────」

 

「突然の真顔やめて」

 

 それはなんとなくで言い当てていいものではなかった。

 それはハディアの仮面を外しにかかる一言だったのだ。

 

 別に金になど困っていないハディアは了承し、そのまま二人は一緒に行動するようになった。

 

 まともな道を歩かない旅路だった。

 

 彼は興味を引くものを見ると、ふらふらと近づいてしまう。

 

 そのせいで、予定通りなどありえないし、野生動物に襲われるし、犯罪集団を成敗することもあるし、古代の遺跡で歴史の名残を見つけることもあった。

 

「ごめん、ハディア! 今日ここで野宿!」

 

 砂に埋もれる壁画を見て、彼はまったく反省していない微笑みを浮かべながら宣言した。

 

「はいはい、そうですね」

 

 それにもう慣れたようにハディアは返した。

 

 彼と巻き起こす数々の出来事は、ハディア一人では絶対に体験できない素晴らしいものばかりだった。

 一度もなにかの被害に遭うということがなかった彼女の人生に彩りが与えられたのだ。

 

 彼曰く、“ハディアと一緒だとトラブルのレベルが下がる”、とのことだ。

 

 おそらく、ハディアの幸運と彼の不運がうまく中和されているのだろう。

 

 この奇妙な同行はすでに十日以上続いていた。

 

 お互いに姓も、出身も明かさずに、ただ名前と外見だけを知っている。

 もう二人の荷物は一緒に管理されていた。資産も共有になっていた。

 

「これ多分魔族の描いたやつだぜ」

 

「なるほど?」

 

「それも人間が生まれる──」

 

 子供のように笑顔でなにかを話す彼。

 絶対に何かをやらかして申し訳なさそうに謝ってくる彼。

 各地で起こる人々の悲しみを真剣に受け止める彼。

 

 その横顔を見ながら、ハディアは熱に浮かされたような感覚になっていた。

 

「ん? どうした、ハディア?」

 

「いえ。火を起こしますね」

 

「ありがと! マイハニー!」

 

「はいはい、ダーリン様」

 

 彼は各地で女に絡まれる。その度に彼はハディアがいるからと言って断った。

 それでもどうしようもないときは逃亡した。

 

 それはもちろん彼の美貌と、思わせぶりな態度が大いに関係しているが、本質的には彼に宿る血によるものだった。

 

 結局は本能に基づいた行動だ。

 

 そして、ハディアも彼に惹かれていることを自覚していた。

 

 脳の錯覚。誤認。

 偶々近くにいる家族以外の男というだけで、ハディアの心は感情に流されてしまった。

 

 しかし、ハディアがその気持ちを伝えることはなかった。

 

 それは自分というものが彼を傷つけると簡単に予測がついたからだ。

 

「…………」

 

 人の住む気配のない洞窟で火を起こす。ボロボロのマントに包まって、少し横になる。

 

 ハディアはもうドレスの着方も忘れてしまったような感覚すらあった。

 

 それくらい彼と歩く道程が好きだった。

 どこに行こうかと彼と相談して、知っている事前知識を話し合い、結局トラブルに巻き込まれる日常が好きだった。

 

 彼の顔と声と体と匂いと心が好きだった。

 

 でも、それと同じくらい彼が苦しんで、痛がって、悲しんでいる姿が大好きだった。

 

「なんだ? もうおねむですか、ハディアちゃんは」

 

 そんなことを思いながらハディアもまた苦しんでいると、遺跡探検を終えた彼が呑気な声とともにやってきた。

 

「ふふふ……。ええ、今夜の雑談は無しですね」

 

「えー、とっておきの話題があったのになあ」

 

 夜はゆっくりと話す時間になっていた。

 火の回りに集まって会話をする。あまりにも原始的な行為だった。

 

 でも、それが心地よかった。

 

「それではそのとっておきをどうぞ? それを子守唄にさせていただきます」

 

 微笑みながら目を開けたハディアが彼を見ると、彼はまっすぐに彼女を見つめていた。

 

 それも、ハディアの直ぐ側に座っていた。

 

 それを聞いたわけではなかったが、彼は女性がおそらく苦手だ。

 だから毎晩二人は遠く離れた対角線上に寝ていた。

 

 彼は女性に接触することを極度に嫌っているフシがあった。

 

 でもその彼がハディアの枕元に座っていた。

 

「あ、あら? どうされました? 今日はずいぶんと近いのですね」

 

 驚きと彼の匂いを近くで感じてハディアは少し固まってしまった。

 

「聞きたいんだろ? 子守唄」

 

「……え? は、はい……」

 

 彼の視線は動かなかった。

 その黄金が自分を見ているだけで、ハディアは狂いそうだった。

 

 “女性が苦手な彼を無理矢理押さえつけたら、どうなるのだろうか。旅で出会う女たちと同列に扱われても、追いかけ続けて苦しめたい”。

 

 そんな考えが浮かぶほどだった。

 

 でも、その視線から目を逸らすことはできなかった。

 なぜか逸らした瞬間に全てが終わる気がしたのだ。

 

「俺……もうわからないんだ。でも、自分だけで考えてもどうにもならないって思って……いや、言い訳はいいや。

 ぶっちゃけ、もうスッキリしたくてさ!」

 

 聞く人が聞けば、最低な台詞だっただろう。

 

 しかし、熱に惑うハディアはそんな感想を抱かない。むしろ早く続きを聞きたかった。

 

「俺、お前のこと好きなんだよ。多分……」

 

 すぐに彼を傷つけたくなる衝動を抑えて、ハディアはなんとか冷静に返事をした。

 

「多分ですか……?」

 

「わりぃ。こんな感情持ったことなかったからさ。あー……これから話すことは、感じのいいもんじゃねえから嫌だったら言ってくれ」

 

「はい」

 

 彼が自分に何かを伝えようとしている。

 それだけでハディアは嬉しかった。その感情を抑えるので精一杯だった。

 

「俺って王国の王子なんだよ。今更バレバレかもしれないけど」

 

「そうですよね」

 

「ですよね? バレバレですよね? ……ってそうじゃなくて、ハディアも想像はつくと思うんだけど、国王の条件って実績とか、武術とか、誠実さとかそういうもんじゃねえんだよ」

 

 彼が話そうとしているのは、ロルカニア王国の、いや、この人間領域の闇についてだった。

 

「『()()()()()()()()()』が国王。それってあんまりな話じゃないかって俺は思うんだよ」

 

 それは生物としての特徴だけしか見ていないということ。

 黄金の因子さえ持っていれば誰でもいいのだ。

 

 それがシーハルンの支配の結果だった。

 

「それは誰でも王の親になれるかもしれないってことなんだ。

 だから、王族じゃないやつは狂ったように体を触ってくるんだよ。使用人も、貴族も、……親戚も」

 

 ハディアの大好きな顔をハットリュークは浮かべた。

 その苦しむ顔は本当に心臓に悪いからやめて欲しかった。

 

「それでもいいやつはそれでいいんだろうさ。……でも俺は気持ち悪くて、無理だった。女の匂いを嗅ぐ度に吐き気がしちまって、苦しかった」

 

 泣きそうな彼の顔を見て、ハディアは息が苦しくなった。

 情欲に体が支配されていた。

 

 だから少しだけ彼を苦しめるような質問をしてしまった。

 

「……私も『女』ですよ?」

 

「……それなんだよなぁ。胸も、ケツも、肌の綺麗さとか声の感じとか、ハディアって女らしすぎて、最初見たときは気持ちわりいって思ってたんだけど、なんでだろうな?」

 

「…………」

 

 だがそんな質問に返ってきたのは想像を絶するほどのデリカシーのない答えだった。

 

「さすがに怒りましょうか?」

 

「ごめん……」

 

 困りながら笑う彼の顔は本当に愛しいものだった。

 もう自分も楽になろうとハディアは起き上がり、彼の告白の返事をしようと思った。

 

「なんかさ……ハディアって優しすぎるじゃん? そんなに優しくする? ってくらい丁寧に物に触るし、言葉もめっちゃ選んで会話するじゃん?

 ……だから、この女ももしかして俺と似たようなものなのかなーって勝手に思い始めてさ」

 

「…………」

 

 彼は本当にハディアをよく見ていた。

 過剰なほどに調和にこだわる一族の悪い癖が出ていた。

 

「そうやって興味を持って、話して、見つめるのを繰り返してたら、こうなっちまった……。

 お前の顔、なんかまともに見れなくなっちまって……。声とか聞くだけで興奮しちまって……。匂いとか嗅ぐと──」

「もう少し言葉を選びましょう?」

 

 その先の言葉は、はしたなかったのでハディアは止めた。 

 

「ハディア、俺は……。クソ……。なんで、女に……。こんな……」

 

 さらに魅力的な顔を彼はした。

 自らの嫌悪と愛情でぐちゃぐちゃになった彼の苦痛に歪む顔は本当に愛しいものだった。

 

 彼も自分の特性と生物としての本能に苦悩する一体だった。

 

 そんなどろどろに濁った濃い獣性を受け止められるのは、同じ苦しみを知るハディアしかいないのだ。

 

「リューク、そんなに苦しまないで」

 ──もっと苦しんで。

 

「大丈夫ですから、安心して下さい」

 ──もっともっと不安になって。

 

「私も貴方を愛しています」

 ──本当に大好き。

 

 ハディアは初めて仮面と心の表情が一致した。

 

 そして、誓った。

 

 彼とともにある限り、“()()()()()()()()()()()()”と──。

 

 彼こそがハディア・ハピフクスが見つけた、この息苦しく素晴らしい世界で生きる理由だった。

 

 だからこそ、彼の死と、羽虫のような憐れな女の襲撃を受けたことで、ハディアは仮面を外す権利を得た。

 

 彼の死に際をハディアは知らない。しかしそれを見ていたならば、ハディアは笑顔で見送っていただろう。

 

 そういう愛だった。

 世の範疇には収まらない、定義できないもの。

 

 しかし、情を抱いた女の紛れもない恋だった。

 

 

 

 

(ああ……とても楽しかったですわ)

 

 崩壊した宮殿を悠々と歩く女の姿。

 

 彼女はハディアだ。

 黄金の鎧を纏って息子と殺し合っていた彼女は無傷で歩いていた。

 

 その姿は、動きやすい体のラインが出るようなものだった。

 それを見れば彼女があの鎧に入っていたのは事実だったと思える。

 

 しかし、この脱出こそが彼女の真骨頂だった。

 

 戦う前に兜を脱いでわざわざ顔があることを確認させるのも、中身を意識させるため。

 

 鎧が途中で空洞になっていても気づかせないようにするためだ。

 

(次は何をしましょう……)

 

 しかし、ハディアがそう意識させたように、相手も鎧を着る姿を丁寧に見せることで同じように意識させたのだ。

 

「────? あら……?」

 

 ハディアの足が止まった。

 

 なにか“透明の壁”が彼女の目の前にあるようだった。

 

 ハディアは途中から入れ替わった。あの土煙を出したときに。

 

 しかし、相手は──()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぅ……がふっ……ごほ……っ」

 

 彼女の急所を貫く透明な何か。それはどこかの武具屋で売られていそうな安物だ。

 

「…………ッ!?」

 

 それを通じて、彼女の肉体の中身が電子の振動によって焼かれていく。

 

 途轍もない苦痛が彼女を包む。

 一切の容赦もない攻撃だった。

 

「あ……っ。……ぅ」

 

 後ずさったことによりその刺さっていたものは抜けた。

 

 しかし、溢れる血液と内蔵の焼かれた匂いが彼女の最期を宣告した。

 

「────」

 

 口から血と煙を吐くハディアが見たのは、大好きな金色の髪と瞳を宿したもう一つの愛した存在。

 

 もう少し見ていたいと、彼女は後ろの柵に掴まって、体を支える。

 

 暗殺者がその全身を現した。

 

 彼とハディアの愛の結晶。愛しい、愛しい彼を半分を受け継ぐ我が子。

 

 ──その表情は()()()()()()()()()()()だった。

 

「くくく……すごいですね。こ……こまで準備されていたとは……嬉しいです」

 

「黙って死ねよ。往生際がわりぃな」

 

 本当に容赦のない。嫌われたものだ。

 

 しかし、嫌う人間にあそこまで涙を見せるものだろうか。

 

 愛しい顔が、愛しい涙を浮かべている。

 

「……一つだけ助言を……よろしい……でしょうか?」

 

「…………」

 

 慈悲深い子は剣を鞘に収めた。

 

「我慢はおやめなさい。……清純を気取ってはいけません。所詮私たちは、血に塗れる存在なのです……」

 

「やだ」

 

「……くくく。ふ、ははははははっ! ……馬鹿ですね……本当……に」

 

 散り際の一言すら聞いてもらえなかった。気分が良かった。

 

 ハディアはその愛しい我が子に手を伸ばす。

 

 思い出すのは、十二年前のあの日、襲撃犯と護衛を瞬殺して脱出した後のこと。

 

 彼女はしばらく地下で暮らしていた。そして、そこで出産したのだ。

 初めての痛みと苦しみと孤独でどうにかなりそうだった。

 

 彼が死んだことは明白だった。もはや死に方などどうでも良かった。

 

 “理由”を得た彼女は行動を開始しようとして、迷った。

 それは手に抱く小さな存在のことだ。

 

 それはとても邪魔だった。愛しいとは思っても、いらなかった。

 

 そして、あのような判断をした。

 

 その子はハディアの手が伸びてきても、離れることはしなかった。

 むしろ、表情がさらにハディア好みになった。

 

「…………ぁ」

 

 その愛しい黄金の髪に触れる直前、ハディアはその手が自分の血で染まっていたことに気づいた。

 

 自分の大嫌いな、必死に我慢を続ける憐れな一族の血。

 本能に縛られ続ける、愚かな証。

 

 ──だから、その手を引っ込めた。

 

 ハディアの体がその瞬間、力が抜けたように崩れた。人形を操る糸が切れたようだった。

 

 そして運命なのか、その場所はあの日、彼女の愛する夫が生を諦めた階段の柵だった。

 

 目の光が消えた。呼吸が止まった。

 

 それを見届け、愛しい小さな子が彼女の体を抱きかかえた。

 そして、いろいろな感情のこもった涙を流し続けた。

 

 その中には相手を蔑むようなものはなく、楽しんでいるようなものもなかった。

 

 だからこそ、最期にハディアは思った。

 

 “ああ、捨てて良かった”────と。

 

 穏やかな表情で彼女の意識は闇へと落ちていった。

 

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