023
「士郎先生、少しいいかしら?」
修学旅行も終わって一日目のネギと士郎の授業。 ネギが古菲を呼び出した事で沸くクラスメイト達を縫って、千鶴は教室から出て行こうとする士郎へと話しかけた。
「千鶴か、どうかしたか?」
「士郎先生、今日の放課後はお暇ですか?」
「うん?」
「士郎先生についてきて欲しい所があるのです。よろしいですか?」
士郎は千鶴の言葉にそうだなと軽く考えるが、花粉症のエヴァが少し気になったものの首を縦に振った。 千鶴は士郎が頷いてくれた事に手を合わせてふふふと笑った。
「よかったですわ。放課後、そうですね……中等部の玄関でいいかしら?」
「ああ、わかった。それじゃあ後でな」
そう言って士郎は喧騒収まらない教室内に苦笑いを向けて、教室を後にした。
その日の放課後、千鶴はネギと古菲の様子を見に行ったあやか達を見送って、一人玄関で士郎を待っていた。 そしてしばらくすると、遠目でも目に付く赤いコートを靡かせて、士郎が駆け寄って来た。
「すまん、待たせたか?」
「うふふ、大丈夫ですよ士郎先生。あやか達を見送ってましたから」
「雪広達?」
「はい。ネギ先生が古菲さんに告白するかもしれないなって言って、追っていっちゃいましたから」
不思議そうに首を傾げる士郎に千鶴はくすりと笑って、あっちへとですと指を差した。 そしてそんな千鶴の様子に、士郎は思わず苦笑いを浮かべていた。
それから千鶴は立ち話もなんですからと言いながら、こちらですよと士郎を手招きして、二人揃って歩き始めた。
「士郎先生はネギ先生が古菲さんを呼んだ理由って分かります?」
特に答えを期待しないような千鶴の物言いだったが、士郎は少しだけ考えて口に出した。
「そう、だな。京都で色々あったからな。ネギ君は力を望んで……さしずめ弟子入りといったところかな」
士郎の言葉に千鶴はどこか感心したように「弟子入り」と呟いた。
「でも、ネギ先生ぐらいの年頃の男の子なら、そう可笑しくないんじゃないかしら。士郎先生もそうじゃありませんでした?」
「俺か、あの頃はがむしゃらだったなぁ。本当にがむしゃらだった……」
しみじみと、今ではない遠い昔を思い出すように虚空を見る士郎に、千鶴も自然と尋ねていた。
「士郎先生は何かになりたかったんですか?」
千鶴の言葉に士郎は一瞬言葉を詰まらせたが、少しだけ眉を顰めて口を開いた。
「あまり声に出して言う事でもないんだが……正義の味方になりたかった」
「正義の、味方?」
「……笑ってもいいんだぞ?」
士郎の言葉に千鶴はどこかぼんやりとして、いえと首を振った。
「子供なら不思議な事ではありませんよ。テレビとか、漫画の影響でしたか?」
「……いや、影響というなら親父だな」
お父さん、と首を捻る千鶴に、士郎は苦笑いをしながら口を開いた。
「親父に憧れて、親父になりたかった。そしてその思いを、な……」
「士郎先生は、今でも?」
「親父が言っていたんだが……ヒーローは期間限定で、大人になると名乗るのが難しくなるんだよ」
士郎は千鶴の質問に、どこか自嘲的な苦笑いを浮かべて、はいともいいえとも言わなかった。 それでも口をついて出た言葉を聞いて、千鶴は額面通りでは無く、そこに深い何かがあって、それは千鶴の胸を締め付ける何かだった。
「そういえばどこへ行くんだ?」
重くなりそうだった空気を感じて、士郎はことさら軽く千鶴に尋ねた。 そして千鶴は沈みかけようとしていた顔を上げて、士郎と同じように笑った。
「うふふ、着けば分かりますよ」
「それもそうだな」
それからは士郎と千鶴はお互いに一言も喋らず、ただ黙って歩いていた。 その沈黙は重い沈黙ではなく、散歩をするような、自然と心が休まるような空気へとなっていった。
そんな空気の中、千鶴は士郎の半歩前を歩き、時々士郎の顔を見上げていた。 その視線の先に何を見ているのかしらと思いながら。
◆
「着きましたよ」
「ここは……」
「はい、私が保母のボランティアをしている保育園です」
士郎先生も知っていますよね、という千鶴の言葉に頷いて一緒に門をくぐった。
「ちづるおねーちゃんだ!」
黒髪のおかっぱの少女が千鶴の姿に気づいて、ぶつかる様に抱きついて来た。 だけど千鶴の後ろに士郎の姿を見つけると、びくっと震えてもじもじと千鶴の後ろに隠れてしまった。
「あらあら」
そんな少女の様子に千鶴は微笑み、士郎は苦笑いしながらも、その少女と同じ視点になるようにしゃがんだ。
「こんにちは」
「!? こ、こんにちはっ」
慌てながらも挨拶を返す少女に士郎は微笑み、頭を撫でながら再び立ち上がった。 そして、士郎と千鶴がやって来た事に他の園児たちも気づき、「レッドの兄ちゃんだ!」などと歓声を上げながら、わらわらと二人を囲むように園児達がやって来た。
「あらあら大人気ですね、先生」
「千鶴もだろ……」
千鶴の言葉に士郎は少し困ったような、曖昧に頷いて、千鶴もうふふと笑って済ませた。
「はいはい、ちょっと園長先生とお話しするから通してね」
とりあえず園長先生に挨拶をするために、千鶴が群がる子供達に手を叩いて落ち着かせる。 士郎と千鶴は子供達の声にこたえながらも、建物へと向かうが、子供達はぞろぞろと二人の後を付いて来た。
「子供達が騒いでると思ったら、まぁ、那波さんと衛宮さんでしたか」
園長室に入った時、初老の女性、園長先生の第一声がそんな言葉だった。
「……すいません」
「いえいえ、かまいませんわ。それにしてもお二人はお知り合いなのですか?」
肩を落として頭を下げる士郎に、園長先生が首を振って、ふと思いついたことを口にする。
「はい、士郎先生は私の学校の先生ですから」
うふふと笑いながら答える千鶴に、園長先生はまぁ、と少し驚いたような声を上げるが、直ぐに微笑へと戻る。
「衛宮さんは学校の先生でいらしたのねぇ。もうすでに親御さんが迎えにいらして、園児達はあまりいませんが、どうか遊んでやってください。那波さんもおねがいね」
優雅に頭を下げる園長先生に士郎も倣って頭を下げた。
「はい、ありがとうございます」
「ええ、大丈夫ですわ」
「さぁ、子供達が待ちきれないようですから、行って下さい」
園長先生に促されて後ろを振り向くと、何人かの園児が扉の隙間から中を窺っているのが見て取れた。 子供達は必死に隠れているようだったみたいだが、士郎や千鶴と目が合うと慌てて隠れてしまった。
その後、士郎と千鶴は園長先生に会釈をして園長室を出た。 そして集まっていた子供達をそのまま外へと連れ出した。 最初は士郎相手に多くの子供が群がって遊んでいたが、千鶴が士郎を休ませる意味も含めて、園児達に修学旅行での土産話をする事にした。特にシネマ村での事を。
「綺麗なお姫様と美少年剣士がいて――」
そんな千鶴の口上で始まった話は、千鶴が妙に詳しい子連れ狼の話をしたり、士郎が棒を持って簡単な殺陣をしたりと、緩急をつけて子供達だけでなく、迎えに来た大人たちも聞き入るほどの飽きさせないものだった。
「――最後にお姫様が絶体絶命のピンチを救って、めでたしめでたしでした」
話を終えて巻き起こる拍手に、千鶴と士郎は思わず顔をあわせて笑った。
「はい、みんなお話をしてくれた千鶴おねえちゃんと衛宮さんにありがとうは?」
『ありがとうございました』
「どういたしまして」
一人の保母さんが号令をかけて、子供らしい元気な挨拶をしてお開きとなった。 千鶴や他の保母さんは迎えに来た親子を見送り、士郎はまだ親が迎えに来ていないおかっぱの少女を膝に乗せて休んでいた。
「士郎先生――」
園児達を送り終わって、ふと士郎へと視線を向けた時、千鶴は思わず息を飲んだ。
別に悲壮感を漂わせているわけでもない、ただ口元にうっすらと笑みを浮かべながら、何度か見た、眩しそうなものを見るような、少しだけ細めて見ているその瞳。 初めて会ったその時から、その胸にあった、すっきりしないもやもやの正体が分かった気がした。
「そっかぁ」
千鶴は士郎を気にしていた理由がわかった気がした。
「そうだったんだ」
千鶴には士郎が世界に取り残されて、まるで一人ぼっちに思えた。 それは千鶴にとって、もっとも看過することなんて出来ない事。 千鶴には士郎にどんな過去あるのか見当がつかないし、もっと深い何かがあるのかもしれない。
千鶴は思う。士郎先生が眩しそうに私たちを見ている目。遠くを見ている時に感じる空気。 そこにどういう理由があるのかは分からない。でも、その時の、士郎先生の心は何時も一人。 一人である事が当たり前のようで、一人でいる事を決めてしまったようで。 そのことが私の胸を締め付ける。
「……女の勘、だったのかしら?」
士郎先生が着任して来たその日のお昼、一人でいる士郎先生を見て誘わなければいけないと思ったのは。
「…………」
千鶴は一度だけ空を仰いで、士郎へとゆっくり歩み寄っていった。
「どうかしたのか千鶴?」
「士郎先生、握手しませんか?」
どこかさっきまでの雰囲気とは違う千鶴に、士郎は首を傾げながら問いかける。 でも千鶴から帰って来たのは、一つの提案とその細い腕だった。
「ああ、いいが……」
士郎は戸惑いながらも、千鶴の手を握る。 千鶴は士郎のごつごつして、硬くて大きな手を握り、そしてもう片方の手で包む。その感触を覚えこむように。
「士郎先生は一人じゃないですからね」
「? ああ」
士郎は千鶴が何をしているのか全然理解していなかったが、満足そうにしている千鶴を見て、まぁいいかと思い直した。
「あっ、パパー」
きゃっきゃっと二人の周りではしゃいでいたおかっぱの少女が、門へと走り出して、それに続いて士郎と千鶴も手を解いて歩き出した。 そして少女は小太りで、スーツを着た父親と思われる人にくっついていた。
「あらあら、今日は弐集院先生がお迎えですか?」
「うん、今日は私がね。……えっと」
千鶴の隣にいる面識の無い士郎に、弐集院は首を傾げた。
「私のクラスの副担任の衛宮士郎先生です。ここではレッドのお兄ちゃんって親しまれているんですよ」
「衛宮士郎です」
千鶴に先に紹介されてしまって、士郎は苦笑いしながらも、軽く会釈をして自己紹介をした。
「私は弐集院光です。……そうですか、あなたが」
意味ありげな弐集院の言葉に士郎は首をかしげ、そんな士郎に弐集院は苦笑いしながらも訳を話した。
「いえ、この子があなたのことばかり話すものでね」
「パ、パパっ!」
「ああ、ごめんごめん」
顔を真っ赤にして、ぽかぽかと弐集院の足を叩く娘を、弐集院はよしよしと慰めた。 そんな微笑ましい親子の光景に、士郎と千鶴は思わず顔を綻ばせていた。
「ほら、もう帰るからあいさつして」
「うん。さ、さようなら」
弐集院に促されて、まだ赤みが残る顔のまま小さく手を振った。
「ああ、さようなら」
「またね」
「うん」
士郎と千鶴も微笑みながら手を振って弐集院親子を見送った。 後ろ髪を引かれるのか、何度も振り返っては手を振る様子に、二人は思わず苦笑いをしてしまった。
「好かれてますね、士郎先生」
「子供にはよく好かれるからな」
「それはきっと士郎先生がヒーローに見えるからですよ」
「……ヒーロー、か」
「はい」
どこか考えるような士郎の言葉だったが、それでも千鶴は微笑み、ただ頷いた。 門で佇んでいる二人に一人の保母がやってきて、もうほとんどの子供が帰ってしまったから今日はここまででいいよと伝えた。 士郎はまだ片づけがと言い出すが、千鶴がその言葉に甘えて挨拶をすると、士郎を強引に引っ張って保育園を後にした。
そして帰り道、片付けの事を引きずっていた士郎だが、ある事を思い出して足を止めると、千鶴に向き直った。
「千鶴、今日はありがとうな」
「私にもとても有意義でしたから」
千鶴は士郎の言葉に、気づけた事がありますしと小さく漏らした。
「手を出してくれ」
千鶴は首を傾げながらも、士郎に言われた通りに両手を差し出す。 そして士郎はその手にコートから取り出したあるものを乗せた。
「これは、櫛、ですか?」
千鶴の手の上に乗せられた櫛は、桜の花が散り、小梅や百合が配された蒔絵の櫛だった。
「修学旅行で世話をかけてしまったからさ、その御礼だ。京都で買ったんだが渡すタイミングが無くてな」
「士郎先生……」
苦笑いする士郎に、千鶴は受け取った櫛を胸に抱いて、そっと握り締めた。
「……ありがとうございます。大事に使いますから」
「そうか」
「はい」
二人はどちらからともなく笑いあって、ほのぼのと暖かい空気に包まれたまま。 千鶴は貰った櫛を日に透かすように眺め、士郎はそんな千鶴を眺め、再び歩きだした。
◆
二人は学園都市内を歩き、学生寮へと向かう途中、ふと士郎が足を止めた。
「士郎先生、どうかしました?」
「あれは、茶々丸」
「茶々丸さん?」
日課の餌やりの時間だったみたいで、士郎の視線の先には猫に囲まれた茶々丸がいた。 そして視線に気がついたみたいで、茶々丸が振り向いてぺこりと頭を下げた。
「茶々丸さん、精が出ますね」
「いえ……。それにしても士郎さんと那波さんは何を?」
茶々丸は無表情のまま不思議そうに首を傾げた。
「千鶴が保母のボランティアをしている保育園にな。以前猫を助けた時の保育園でさ」
「そうでしたか」
茶々丸は士郎の言葉に頷いて、千鶴と視線を合わせた。
「茶々丸さん?」
「いえ、なんでもありません。……士郎さんはいつ頃帰られますか?」
「千鶴を寮まで送ってから帰るからな……」
茶々丸の質問に時計を見ながら答えようとした時、ふと小首を傾げながら千鶴が会話に入ってきた。
「帰るって、士郎先生と茶々丸さんは一緒に住んでるのかしら?」
「はい、そうです」
「少し事情があってな。俺はエヴァの家に厄介になってるんだ」
即答する茶々丸に次いで、捕捉するように士郎が苦笑いしながらそう答えた。
「別に隠しているわけでもないんだが、だからといって声を大にして言う事でもないしな」
士郎の言葉に、千鶴もそうですねと頷いて、ならと口を開いた。
「それでしたら士郎先生は茶々丸さんと一緒に帰ってください」
「千鶴?」
「那波さん?」
その千鶴の唐突な言葉に、士郎と茶々丸が揃って怪訝そうな顔をする。
「私を送ってからだと遠回りですし、私なら大丈夫ですから」
うふふと笑う千鶴に、士郎は食い下がろうとするが、ぴしゃりと拒否されてしまった。
「茶々丸さん、士郎先生をお願いね」
どこか真剣なその物言いに、茶々丸はその意を汲んで確りと頷いた。
「……わかりました」
千鶴はこれで士郎は一人じゃないと、ほっと安堵のため息をついた。
「そんなに信用無いのか、俺は……」
どこか愕然とする士郎に、千鶴と茶々丸はふと顔を見合わせた。
「どちらかというと士郎先生の方が心配かしら?」
「……ええ、そうかもしれません」
二人の言葉に士郎は思いっきり肩を落とした。 そしてそんな士郎に二人はふっと笑う。
「では士郎先生、今日は楽しかったですよ」
「ああ俺もだ、ありがとな」
「いえいえ、それではさようなら」
「ああ、また明日な」
「それでは、那波さん」
軽く手を振ってそれぞれの帰路へと歩き出そうとした時、士郎は腕に抵抗を感じて足を止めた。 そして士郎が腕を見ると、袖下には千鶴の手があった。
「千鶴?」
「あっ……」
いつでもマイペースな千鶴には珍しく、少し慌てたように士郎の袖からぱっと手を離して、誤魔化すように咳払いをした。
「えっと、し、士郎先生、また明日ですからね」
「ああ」
今度こそ千鶴は軽く手を振って士郎と茶々丸を見送った。 そして、二人が見えなくなると、ほっと溜息を一つついた。
「……大丈夫、士郎先生は一人じゃないから」
千鶴はそう呟いて、士郎の袖を掴んだ右手に視線を落とした。
「すこし臆病になったのかしら?」
千鶴は士郎の孤独に気づいて……。 でも、と思い直し、士郎から貰った櫛を取り出してそっと撫でる。
「大丈夫、うん大丈夫よね」
そして千鶴は櫛をぎゅっと握って、今度こそ帰路についた。
◆
日もすっかりと落ち、学生寮の665号室。 あやかと入れ替わるようにしてお風呂から出てきた夏美は、鼻歌を歌いながらその長い髪を櫛で丁寧に梳かしている千鶴の側に腰を下ろした。
「ちづ姉が鼻歌なんて、何かいいことでもあったの? ネギ君と皆でボーリングしてたけど、ちづ姉いなかったし……」
「士郎先生を連れて保育園にね。ほらレッドのお兄ちゃんの話したでしょ?」
千鶴の言葉に夏美はそういえばそうだったねと漏らす。
「士郎先生かぁ……。士郎先生といえば、修学旅行でちづ姉が言った一言にはびっくりしたよ?」
「うん?」
「ほら、二日目の夜、朝倉さんがやった……」
「ああ、あれね」
「いきなりちづ姉が『士郎先生は駄目なのかしら?』なんて言うんだもん。でもその後、ちづ姉ゲームには参加しなかったね。どーして?」
「うら若い乙女が、ネギ先生みたいな子供ならまだいいけど、士郎さんみたいな大人な人にキスなんて恥ずかしくて出来ないわ。それにね、士郎さんも絶対に拒否すると思ったからよ」
「でも、綾瀬さんが優勝しちゃったね」
「うふふふ、その事には事情があったみたいよ。士郎さんに聞いたらほんとに事故だったみたいだから」
うふふと笑って千鶴はヘッドバットよ、と言って、夏美もヘッドバットかぁと妙な納得をした。
「でも好きになっちゃった、とかじゃないよね?」
千鶴は誤魔化すように笑って、ほんの少しだけ遠くを見るような目で千鶴は口を開いた。
「士郎さんは、ふっと気がつくとね、一人なの」
「え? でも、ほら、ネギ君とかといたりするよ?」
「ううん、距離の問題じゃなくて、心。心の問題なのよ。士郎さんは私たちの事を、どこか遠くの世界を見るように視線を向けてるの。眩しそうに、笑みを浮かべながらね。夏美、私が一人で孤独になっているのが嫌いなの知っているでしょ?」
夏美は千鶴の言葉を聞いて、ふむふむと考え込んだ。そしてぽつりと口を開いた。
「……士郎先生、千鶴ねぇに捕まっちゃったんだね……なむなむ」
夏美は側にいる千鶴にも聞こえないような小さな声で呟いて、ここにはいない士郎に向けて手を合わせた。
「どうしたの夏美、手なんか合わせて?」
「あっ、ううん、なんでもないよ」
慌てる夏美に、千鶴は変な子ねと漏らした。
「夏美、私はもう寝るわね」
「えっ、今日はなんだか早いね。何か用事でもあるの?」
千鶴の言葉に、夏美は目を丸くして驚いた。
「いいえ、そういうわけではないわ。ただちょっと明日は早く学校に行きたい気分なのよ」
「へー、そっか、ならいいんちょには私から言っておくね。おやすみー」
「ええ、おやすみなさい夏美」
千鶴は夏美に挨拶して、リビングを後にした。 そして、枕元に士郎から貰った櫛を置き、床へとついた。
「また明日ですね。おやすみなさい、士郎先生」
千鶴はそう櫛に語りかけ、ゆっくり目を閉じて、そして眠りへと落ちた。
明日も何事も無く、士郎先生に会えるようにと思いながら。