俺たち三人は冬木に着くと直ぐにタクシーを拾い、衛宮の屋敷へと向かった。
何年かぶりに踏んだ冬木の土地は珍しくその名の通りに寒くて、深山町は俺がこの地を後にした時と変わらずそこに佇んでいた。
タクシーを降りて、目の前にした衛宮の屋敷もやっぱり何も変わることなくそこに在った。そう、俺がイリヤを置いて出て行った時から。
……吐く息が白い。
「シェロ?」
「…………」
踏み出す一歩が重い。
俺の迷いに気がついたのか、ルヴィアの心配そうな声、カティの気遣うような気配も、俺はまともに反応を返すことが出来なかった。
呼び鈴を押せばいいのか、そのまま入ればいいのか、そんな事すら迷うようになるなんて。俺は一体どのような顔をして入ればいいのだろうか……。
俺は俺の意思で出て行ったはずだ、それなのに今こうして佇んでいる。
……そう、迷う事なんて無い、無いはずなんだ。
「あ、あの、この家に何か用ですか?」
意を決して一歩踏み出そうとした時、背後から声をかけられた。
声がした方へと振り向くと、そこには買い物袋を持った髪の長い女性が。
彼女の誰何の問いに、俺は思わず自嘲的な苦笑いを浮かべていた。
少し大人っぽくなって、綺麗になったか。
「貴女こそ、誰なの?」
「え、あ、あの」
威圧するようなルヴィアの物言いに彼女は縮こまるが、俺はルヴィアをそっと止める。
「いや、いいんだルヴィア」
「シェロ?」
俺の言葉の真意が読めないのか、ルヴィアは怪訝そうな視線を向けてくる。
俺はルヴィアの一歩前、その彼女の正面へと立つ。
「……久しぶりだな、桜」
俺の一言に、目の前の彼女――間桐桜は一瞬だけ怪訝そうな色をその瞳に浮かべるが、俺が誰だか気がついたのか、瞳が驚愕に大きく開かれる。
「……え?」
桜の手から食材の入った買い物袋が落ちた。
「……嘘、先輩、ですか?」
「ああ、そうだ。気づかなかったのも仕方ないさ」
俺は苦笑いを浮かべて、桜に気にするなと首を振る。
色褪せた白髪の髪に褐色の肌。それはもう別人というより、別の人種と言ってもいいようなもの。
「俺はこんなになって――」
「――先輩!」
桜が俺の胸に飛び込んできて、最後まで言わせてくれなかった。
「ずっとあれから連絡も無くて、本当に心配したんですから! 先輩が居た所で事故があったって言うし、気が気じゃなかったんです!」
「……そうか」
桜の嗚咽に、俺はただ頷くしかできる事は無かった。
「イリヤさんは大丈夫って言ってましたけど、姉さんは『生きてはいる』としか言ってくれませんでした。姉さんはもっと他にも何か知っているみたいでしたけど、決して私には教えてくれませんでしたし……」
それは多分、エミヤという名が魔術師殺しという噂が流れ始めていた頃だろう。それに極めつけは協会による封印指定だ。だから遠坂は桜に言えなかったのだろう。
「シェロ、そろそろその方を私に紹介してくれてもいいんじゃなくて?」
「え!?」
どこか冷たいルヴィアの言葉に桜は周りの状況、見知らぬ人間が二人いる事を理解したのか、慌てて俺から離れた。
「あ、あの、先輩のお知り合いの方ですか?」
取り繕う桜に懐かしさを感じて思わず苦笑いを浮かべたが、背後のルヴィアから鋭い視線を感じて表情を引き締める。
「紹介するよ。彼女はルヴィアゼリッタ――」
俺は言葉を止めた。いや、止めざるを得なかった。
衛宮の門から出てきた女性。俺が知る記憶では両端で髪を纏めていたのに、今ではそのまま下ろして流している。
「桜、何しているの。遅かったじゃ――」
「あ、あの、姉さん! 先輩が帰ってきたんですよ!」
「え?」
門からは死角になって気がつかなかったのか、彼女はゆっくりとこちらへと振り向く。
親しい者に向ける柔らかい笑みが、瞬間凍りついた。いや、凍りついたのはほんの数瞬だけで、すぐさま人が殺せそうなほどの強い眼光を俺へと向けて来た。
「退きなさい、桜」
視線を真っ直ぐ俺に固定したまま、遠坂は俺と遠坂の間に立つ桜へと向けて冷たい言葉を放つ。
「姉さん?」
言われた方の桜も、どうしてこんな冷たい言葉を向けられるのか分からず、戸惑い、怪訝な表情を浮かべる事しか出来ないようだ。
「桜、いいから退きなさい」
「何でですか姉さん、どうして私が退かなくっちゃいけないんです! 先輩が冬木から出る時に何かあったのは知っています。それでも、先輩が今こうして戻ってきてくれてるんですからいいじゃないですか!」
感情を顕わにする桜とは違って、遠坂は涼しそうにするだけだった。
桜はまるで血を吐くように言葉を並べるが。
「桜、三度目は無いわよ?」
「ッ!」
桜はまるで血を吐くような思いで出した自分の言葉が、まったく届いてない事に愕然として悔しそうに震える。
「……な、んで」
「いいんだ桜、退いていてくれ」
「先輩……」
桜は渋々と離れて、俺と遠坂の間には誰もいなくなった。
「……遠坂」
「あら、衛宮君、久しぶりね」
もう直ぐ冬木を出て五年、遠坂と仲違いをして五年、最後に顔を合わせてから五年。
五年という歳月で、俺も遠坂も変わった。俺はこんなになって、遠坂は大人の女性になった。でも、遠坂の中身はきっと変わっていない。
バカだバカだと言っても何かと俺を気にしてくれた。
冬木を出る時にだって、俺みたいな未熟な魔術師を倫敦に誘ってくれた。
そんな遠坂を裏切って、俺は今こうしている。
遠坂はあいつを、アーチャーを通してその果てを見たのだろう。俺をそんな目に遭わせないようにと骨を折ってくれた。でも俺はそのことごとくを拒絶した。
遠坂凛は決して俺を許さないのだろう。
差し伸べた手を振り払ったからじゃない、俺が、俺自身が決して報われない道を行くからだ。
がんばった人は褒めなければならない。がんばったからには報われなければならない。遠坂は俺にそう言ってくれた。
俺は喜んで自分が不幸になる道を進んでいく。だから遠坂は俺を許さない。俺が知る遠坂凛という少女は絶対に許さない、そういう少女だった。
でも俺は、遠坂が俺の為に怒ってくれている、それだけで十分なんだ、遠坂。
思わず笑みが零れた。
「――ッ」
それは遠坂の逆鱗に触れる行為。
髪が逆立ったと思ったら、遠坂は拳を固め、一瞬で俺との間合いを詰める。
握り締められた遠坂の拳、俺はそれを避けるような事はしなかった。
遠坂の体重が乗った拳は正確に俺の頬を打ち抜いた。でも俺は倒れる事もふらつく事も出来なくて、遠坂はそのことが癪に障ったようで再び拳を握りこむ。
「リン!」
遠坂の行動が予想外だったのか、ルヴィアは遠坂の名を呼ぶが、呼ばれた遠坂は一瞬だけ視線を送りそのまま黙殺した。
「言ったわよね士郎、そのまま走り出したアンタの末路はどうなるかって事。だから私は倫敦へと行く時にアンタもって誘った。なのに、今のアンタは何? どこで手に入れたのか知らないけど、聖骸布のコートまで着込んじゃって。……今のアンタはまるで、アイツじゃない」
「…………」
遠坂はそのまま俯いて、悔いるように歯を噛み締め、ぎゅっと拳を握りこんだ。そして開かれる魔術回路。
遠坂のその行動に何を思ったのか、ルヴィアが遠坂の正面に立ちはだかり、カティも一歩俺の前へと出た。
「そこを退きなさいルヴィア! こいつには言ってやんないとダメな事があんのよ! 関係ないアンタは黙ってなさいっ!」
「関係ないですって!」
「ええ、そうよ。他人が口出ししないでもらえるかしら?」
ルヴィアの魔術刻印の光が漏れ、それに呼応するように遠坂の魔術刻印が輝く。
「他人?」
「他人じゃなくてなんなのよ。この馬鹿の末路がどうなるか分かってるっていうなら。手を貸そうだなんて思う筈ないわ」
「シェロの末路? それが何だって言うの」
笑顔を顔に張り付かせた薄ら寒い光景。ただただ二人の間の緊張が増して行き、それに比例するように込められていく指先への魔力。フィンの一撃もかくやというガンドが、いつその場で放たれてもおかしくは無かった。
ルヴィアと遠坂が睨みあい、一触即発の空気を作る中。俺が二人を止めるより早く、カティが二人の間へと割って入った。
「トオサカ様」
「何よアンタ、ルヴィアのメイド?」
言外に邪魔者は退いていなさいと、威嚇するようにガンドの指先を向ける。だが、俺と共にしてきたカティには威嚇にもならない行為だ。
――瞬間、場が動いた。
「――――ッ!?」
それは一瞬だった。
カティが遠坂の伸ばす腕に触れたかと思ったら、遠坂が宙を舞っていた。
カティの無表情の奥に見えるのは怒りか?
俺が呆然とする間にも、場は止まらない。
「何すんの――」
背中をしたたかに打ちつけられた遠坂は、すぐさま反撃しようと体を起こそうとしたが、もうすでに詰んだ後だった。
「よろしいでしょうか、トオサカ様?」
何時になく怜悧な声色でカティは遠坂へと尋ねる。自身が持つ無骨な回転拳銃の銃口を遠坂の額に定めながら。
「な!? こ、こんな往来でそんなモノ出すなんて何考えてんのよ!」
「それはこちらの台詞です、トオサカ様。今、貴女様が何をしようとしていたかお気づきですか? お嬢様も冷静になって、気を落ち着かせてください」
遠坂もルヴィアも今、自分が何をしようとしていたのか気がつき、魔力回路を閉じて魔力を霧散させる。それに次いでカティも銃をしまった。
「お二人とも、今はそのような事で罵り合っている場合ですか」
「…………」
「…………」
カティの諌める言葉にルヴィアと遠坂はばつが悪そうにしながらも、自分を落ち着かせる為に息を吐いた。
場が落ち着いた事を確信してカティは、服についた埃を払いながら立ち上がった遠坂へと体を向ける。
「それでは改めまして、トオサカ様」
「……何?」
カティの言葉に遠坂は苦虫を潰したような顔で応える。
「私は貴女様との確執も、シロウ様の辿ろうとする末路も存じてございます。その上で申しましょう」
「……言ってみなさい」
遠坂の先を促す言葉にカティは一度目を瞑り、殊更感情を押し殺した表情で口を開いた。
「――シロウ様に、勝手な幻想を押し付けないでいただきたい。シロウ様は貴女のアーチャーではないのですから」
「ッ!」
それが図星だったかなんて俺には分からない。それでも遠坂はカティの言葉に二の句を継げなかった。
「私が言いたい事は一つだけ――他人が口を出すな」
「なっ」
それはついさっき遠坂がルヴィアに言った言葉。
遠坂はカティの言葉に口を開いたが、その口からは言葉は紡がれず、ただ悔しそうに唇を噛むしかなかった。
「カティ、そこまでだ」
「…………」
これ以上は禍根を残しかねないし、俺の事で言い争って欲しくない。
カティは俺の言葉に何を思ったのか、数瞬俺と視線を合わせ無言で会釈をし、再び遠坂へと視線を向ける。
「一つだけと言いましたが最後に、私の主はルヴィアお嬢様ではなく、シロウ様です」
お間違いないように、とカティは遠坂に恭しく一礼して、そのまま俺の一歩後ろに控えた。
「このような場所で何をなさっているのですか?」
凛とした声が門の方から俺達へと投げられた。
声がした方へと視線を向けると、何時からそこに居たのか、若干顔を顰めたセラが立っていた。
セラは順々に視線を巡らし、俺へと視線を定めた時肌がざわついた。セラから向けられたのは強い怒り、今までに無い程の強い静かな怒りの感情だった。
「エミヤ様、お嬢様がお待ちです」
「あ、ああ、分かった」
いや、怒るのも当然なのかもしれない。俺は一人で飛び出し、こうして勝手気ままに戻ってきているのだから。
セラの先導で門をくぐる。目に入るのは懐かしき玄関。俺が切嗣に拾われて、初めてくぐり、冬木で生きていく上で何度もくぐった。そしてイリヤに見送られ俺が出て行ったもの。
「…………」
皆の視線が、足を止めていた俺へと集まる。
俺は、やはり――。
「何、衛宮君はここまで来て足を止めるの? アンタは会わないといけないの、絶対に。何のためにアンタは帰ってきたのか思い出しなさい」
遠坂は鼻を鳴らした。
何の為に? それはイリヤの為だ。そう、イリヤの為で俺の為ではない。なら俺はこんな感傷に浸ることなんて許されない。そう、俺に迷う暇なんて無いはずなのに。
「……そうだな、すまない遠坂」
「ふんっ」
顔を若干赤らめてそっぽを向く遠坂に、俺は苦笑いを浮かべて玄関をくぐった。
懐かしい家の空気、これは正しく衛宮の家の匂いだ。
俺は靴を脱いで家に上がる。カティもルヴィアも俺に続いて家に上がり、ルヴィアは興味深そうに家の内装を眺めていた。
「先輩、私と姉さんは居間の方にいますね」
「ああ、分かった」
これを片付けないといけませんしと、桜は買い物袋を掲げて俺に言う。
「士郎」
「ん?」
俺の名を呼んだ遠坂は、視線を合わせたまま何も言わず、ただ瞳が揺れていた。
「……いえ、なんでもないわ。イリヤによろしくね」
「? あ、ああ」
イリヤはこの家の中にいるはずなのに、よろしくも何も無いような気がするのだが。
そんな遠坂の不思議な言葉に首を傾げると、こちらの出方を伺っていたセラが動いた。
「それでは、よろしいですか?」
「頼む、セラ」
俺の言葉にセラは一度頭を下げて、再び歩き出し、俺、ルヴィア、カティがその後ろに続いた。
イリヤが使い出した部屋は、奇しくも切嗣が使っていた部屋。いやそれは誤りで、本当はまったく普通の事だったのかもしれない。
襖を開けた先には、イリヤが布団から上半身だけ体を起こし、真っ直ぐと俺を見ていた。
その顔は微笑み、見た目相応の無邪気な笑顔じゃなくて、時折見せていた大人びた微笑み。
「……イリヤ」
イリヤは俺がここを出た五年前と同じ容姿で、まったく成長しないままそこに居た。
「お帰り、シロウ」
「……ああ、ただいまイリヤ」
それ以上何て声を掛ければいいか分からなかった。だからイリヤの枕元にゆっくりと近づいて無言のまま座る。
「……体は、大丈夫なのか?」
漸く口から出た言葉はそんな台詞。大丈夫な訳無いだろ、少し考えたなら分かるはずだ。ただ単に倒れただけなら、俺になんて連絡は来ない。いや、もしきたなら無論俺は会いに行くだろうけど。――そうじゃない、そうじゃないだろ俺。
「シロウ」
「…………っ」
イリヤは俺の名を呼んで、ただ優しく笑って、それだけで俺の心を落ち着かせてくれる。
「シロウ、わたしは大丈夫。こうしてシロウが来てくれたんだから、間に合ったから」
「間に、合った?」
「うん、大丈夫なんだよ。こうなる事は生まれた時から分かってた事。わたしの道はそう広くは無かったけど、ここまで来れた」
うん、とイリヤは頷いた。
イリヤの口に出す言葉の端々が意味深で、俺に嫌な妄想を抱かせる。そう俺の意志に関係なく、まるで勝手に肥大化する悪夢のように。
嫌な思考に囚われようとする俺とは違って、イリヤは何処までも穏やかだった。
「ねぇシロウ、何時になったら後ろの二人を紹介してくれるの?」
「……ああ」
今、考えるべき事は一杯あった。それでも今すべき事はイリヤの望む事を叶える事。
思考を切り替えて、思い出すはこの二人との出会い。
「……冬木を出て一年と半、投影の反動で麻痺を負った俺を、ルヴィアが助けてくれたのが始まり。そして、倫敦を後にする時について来てくれたのがカティだ」
二人との初めての出会いは、もうずっと昔の事のように感じる。ルヴィアだけしか助ける事の出来なかったあの夜。無邪気に正義の味方を語る事の出来なくなった俺に、主と慕い続けてくれるカティ。どちらも無二な、俺にとってかけがいの無い人だ。
「そう」
俺の感情を汲み取ってくれたのか、イリヤはそっと頷き二人へと視線を向ける。視線を向けられたルヴィアとカティは一歩、イリヤの側へと寄った。
「私が助けた、というよりも私がシェロに助けられたのですけれどね。私はルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。シェロの……友人、ですわ」
「シロウ様に仕えさせていただいています、カティ・リリエと申します。私の主は生涯シロウ様一人です」
ルヴィアとカティの自己紹介を聞いてイリヤは微笑み、優美に一礼する。
「このようなお見苦しい姿で申し訳ありません。わたしはシロウの姉、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと申します。このような体ですが、歓迎いたします」
格式ばったイリヤの挨拶。でもその台詞の中には俺には理解できない単語が有った。
「姉?」
俺の口から思わず突いて出た疑問に、イリヤは微笑む。
「そう、シロウにはずっと黙ってたんだけど。本当は私の方が年上なんだよ」
えへへ、と無邪気に笑うイリヤ。この場で冗談なんて口にしないはずだ。どういうことかとイリヤの側に控えていたセラへと視線を送る。
「本当のことでございます。イリヤスフィール様はエミヤ様よりも生まれは先」
「…………」
「どう? 驚いた、シロウ?」
「……本当に?」
「む、その顔は信じてないでしょ」
未だに怪訝そうな表情の俺に、頬を膨らませて怒るイリヤ。だからそんな行動が見た目相応で説得力なんて――。
「え?」
見た目、相応? それはおかしい、おかしいだろ衛宮士郎。俺より年上というのが冗談だったとしても、イリヤは十六年前の切嗣の聖杯戦争よりも前に生まれてなければならないはず。そう、イリヤは最低でも16歳で無ければおかしいんだ。
なのにイリヤの外見は、イリヤはずっとこのままだった。初めて出会った聖杯戦争の時も、俺が冬木を出る時も、そして五年の時を置いてイリヤの下に帰ってきたこの今もずっと。
それが意味する事は一つだけ、イリヤは成長していないというのか?
一緒の生活をしている時には違和感は無かった。それなのに……。
「ねぇ、ルヴィアゼリッタ――」
「ルヴィアでかまいませんわ、イリヤスフィール」
「そう? ならわたしもイリヤでいいわ」
「それで何を聞きたいんですの、イリヤ」
俺は二人の会話にそっと耳を欹てる。それはきっと俺に聞かせるための話で、俺が聞かなければならない類のもののはず。
「エーデルフェルト、第三回聖杯戦争に参加した家よね。ルヴィアはアインツベルンの事、何処まで知ってる?」
「魔の領域を突破した怪物たちの家系、ホムンクルスの、錬金の大家。そして聖杯戦争で聖杯を用意する家系、ぐらいかしら?」
ルヴィアの言葉を認めるようにイリヤは軽く頷いて、すっとルヴィアを見上げる。
「ならルヴィア、ルヴィアから見てわたしは何だと思う?」
イリヤの問いにルヴィアは一瞬息を飲んだ。
ルヴィアはいきなりのイリヤの質問に戸惑ったが、数秒もすると人としての顔が潜み、浮かび上がるのは魔術師としての顔。
「――ホムンクルス、最初はそう思ったわ。貴女はそのままの形で生まれてきて、ずっとそのままだと。でも違うのでしょうね」
「それで?」
「シェロは言ってましたわ。貴女はシェロのお父様、衛宮切嗣の実子だって。なら、信じられない事ですが、事実は一つ」
「どういうことだルヴィア?」
イリヤが切嗣とアイリスフィールさんの娘である事がそんなにおかしいのか?
怪訝な表情を浮かべる俺に、ルヴィアはどこか悲しむように、深く息を吐いた。
「当たり前すぎて気がつかなかったのね、シェロもリンも。いえ、シェロはその事実が持つ意味が分からなかったのかもしれませんけど……」
言葉を濁すルヴィアを俺はどんな顔で見ていたのだろうか。これからルヴィアが口にする言葉は絶対に聞き逃せない話し、ただそれだけのみを認識できていた。
「人間とホムンクルスの合いの子、それは奇跡の子と言ってもおかしくありませんわ。そんな存在だからこそ――」
「ルヴィア?」
決定的な核心の言葉、ルヴィアはそれを口にしなかった。俺の怪訝な視線へも、ただ苦虫を潰したような顔をするのみ。
「いいの、ルヴィア」
「イリヤ?」
二人の間のみに繋がる言葉。俺は未だに確信に至る事が出来ない。いや、もしかしたら俺はもう分かっているのかもしれない。ただ認められないだけなのか……それすらも俺には分かることが出来ない。
ルヴィアはイリヤの言葉を受けてか、俺の迷いを見てか、意を決した。
「シェロ、よくお聞きなさい。先ほど私が言ったように、人とホムンクルスの子供は奇跡の産物、それは言葉を変えれば不自然な現象。故に、人として、生物としての機能が欠損していてもおかしくはありませんの」
「……それが成長できないって事なのか?」
「…………」
ルヴィアに投げかけた問いへの返答は沈黙。俺の言葉は正解で、きっとはずれ。
言葉を返さないルヴィアに、イリヤが継いで口を開いた。
「ううん、それだけじゃないの。わたしは『生きるよう』に出来ていないんだ」
「――なん、だって?」
生きるように出来ていない?
何が、誰が?
イリヤが、か?
俺の思考は一瞬にして停止して、俺が到底認める事が出来ない言葉を発した張本人のイリヤは、ただ微かに微笑むだけ。
「わたしは生きるように出来てないんだよ、シロウ」
それは確認。俺に念を押す為の、嘘でも冗談でもなく、真実であるという事を伝えるための言葉。決して自分自身を納得させるような言葉ではなかった。それはイリヤにとってもうその段階すら通り過ぎてしまったという事実。
「ねぇシロウ、わたしの、お姉ちゃんの話し、聞いてくれる?」
「は、なし?」
「うん、そうだよ。だからシロウ、今はゆっくりと気を落ち着かせて」
「あ、ああ」
イリヤの言葉に俺は漠然と頷く。
「……シロウ様」
心配そうなカティの言葉。直ぐ隣で心配そうに俺を見るルヴィア。
「あ、え。カティに、ルヴィア?」
何時の間に……いや、違うだろ衛宮士郎。二人は一緒に冬木に来て、一緒に案内されてイリヤの元にきただろう。
「シェロ、お気持ちは分かるなんて言わないですわ。ですが、今は……」
そうだ、何をしている衛宮士郎。
心に余裕を持てなくて、ただ目の前の状況に流されるばかり。
今はイリヤが話してくれる事を受け止めるだけだ。
「大丈夫、大丈夫だカティ、ルヴィア」
いつの間にか身を乗り出していた体を引いて、腰を落ち着かせる。
俺は大丈夫、大丈夫だ。
一度大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐く。
そう、本当に辛いのは俺ではなく、布団に臥しているイリヤなのだから。
「もう大丈夫、シロウ?」
「ああ、大丈夫だ。心配かけてすまなかったな」
「ううん、いいんだよシロウ」
小さなその頭を振ってイリヤは微笑む。
「じゃあ話すね」
イリヤから語られる話を、俺はただじっと聞いていた。
生まれた時から、いや生まれる以前から聖杯に成るべく調整されてきたイリヤ。そう調整だ。アイリスフィールさんの胎内にいる時から。それはイリヤの全身に走る令呪、莫大な魔術回路。聖杯戦争の時遠坂は言った、聖杯戦争に勝つ為だけに生まれた存在だと。それは正しくその通りだった。
切嗣が聖杯を破壊して終わった第四次聖杯戦争。50年周期で起こっていたはずの聖杯戦争が10年後、再び開始されるとアインツベルンは予見していた。
その10年、聖杯として機能する、ただそれだけの為に生まれて、ただそれだけの為に生きた。イリヤは事も無げに言う。
「四回目の聖杯戦争が終わって10年。わたしは聖杯としての機能を、聖杯戦争に勝つ事だけを望まれた。そしてわたしはキリツグを殺す事だけを望んだ」
「……イリヤ」
「それからはシロウの知っている通りだよ」
第五次聖杯戦争。偶然か必然か俺がセイバーを召喚して、同じくバーサーカーを召喚していたイリヤと出会った。
「6年。聖杯戦争でわたしが英霊の魂をこの身に受け入れて6年。言ったよね、わたしは生きるように出来ていないって、もともとわたしはそんなに生きれなかったんだ。聖杯として機能するために、人としての代謝を切り捨てて負担を減らしても、それでももうわたしの時間は残ってないの。まだこうして動けているのは奇跡みたいなものなんだよ?」
「――っ!」
今更、本当に今更かもしれないけど、聖杯戦争の終局でアーチャーがイリヤの事を頼む、そう言っていた。それはきっとイリヤが短命だった事を知っていたからなのだろうか。いや、それも全て今更だ。
「これでわたしに関係する事は全部」
「それは……本当の事、なんだな」
「うん、本当、本当の話」
イリヤは俺に近づいて小さく微笑んだ。
震える俺の手を、小さくて温かい手が包む。
「ごめんね、シロウ。お姉ちゃんはもう、シロウのこと守って上げられない」
ごめんね、イリヤはもう一度そう呟いた。
「ねぇシロウ、今日はシロウのご飯が食べたいな」
俺が何かを呟く前にイリヤはそう口にした。
「……分かった、イリヤ。腕によりをかけて作るよ」
少し疲れたから寝るね、そう言ったイリヤ。俺たちは直ぐにセラに追い立てられるようにイリヤの部屋から出た。
俺の思考は酷く渦巻いていたけど体は動いていた。
ルヴィアとカティを離れの部屋に案内しようとし、カティに装備をどうするか尋ねられ。カティは出来るだけ俺の近くにという希望から、装備の管理を含め、以前セイバーが使っていた俺の部屋の隣へと案内した。
カティに直ぐに出かけるからと声をかけて俺は居間へと向かった。そこには桜が一人。
「先輩、お帰りなさい」
「あ、ああ。……ただいま、桜」
改めてのやり取りだけで、衛宮の家に帰ってきたって実感が湧く。
直ぐ後ろに桜の気配を感じながら台所を見回す。この家を出て5年。少しだけ食器が増えたぐらいで全くそのままだった。
「シロウ様」
声をかけられて振り向くとメイド服姿のカティ。ルヴィアの元を出てから、着る機会なんてほとんど無かったけど、それでも手放す事は無かった。カティの矜持なのかもしれない。
「カティか、ルヴィアは?」
「ルヴィアお嬢様は少し部屋で休まれるとの事です」
「そうか……。桜」
「はい? 何でしょう先輩」
カティの事が気になるのか、彼女へと向けられていた視線を俺へと向ける桜。
「イリヤが俺のご飯、食べたいって、だからさ、今日は俺が腕によりをかけて作るよ」
「……そうですか。イリヤさんもきっと喜ぶと思います」
いってらっしゃいと桜に見送られて、俺とカティは家を出た。
久々に見る商店街すらもどこか色褪せて見えた。
人数分の食材を買い、家に戻ったときには藤ねぇがいた。藤ねぇも桜と同じで何も聞かず、ただ少しだけ悲しそうに、お帰りなさいと言ってくれた。
大人数での騒がしくも楽しい夕食。それは何時以来の光景なのだろうか? 俺の大切な家族、俺の大切な友人達との食事。
イリヤは俺の作った夕食を美味しいと言って食べてくれた。
皆が寝静まった深夜、俺は一人土蔵にて魔術回路の調子を確かめていた。幾多の投影の設計図を自分の内に引き、次々と破棄していく。それは何時如何なる時にも欠かすことの無い俺の鍛練。だけど今日の俺は明らかに精彩に欠けていた。
最後とばかりに干将莫耶を投影し、さほど広くない土蔵の中で刀身を振るった。
「俺は…………」
――こんなに弱かったのか?
何時如何なる時も――それは人を救えなかった時も、この手で人を殺した時も含めて、だ。俺の鍛錬は、感情とは別な部分でしていたはず。それなのに今の俺は……。
暗澹たる思いのまま土蔵を出、見上げた夜空は酷く濁っていた。
「誰だ?」
俺の誰何の言葉で相手は一瞬驚いたような気配を発したが、ゆっくりと俺に近づいてきた。
「遠坂?」
濁った月明かりの下、見えてきた輪郭は遠坂凛のものだった。
「士郎、鍛錬でもしていたの?」
「ああ」
「…………」
「…………」
暗闇の中、視線だけを交わし、お互いに口を突いて出る言葉は無かった。
それでもぽつりと言葉を漏らしたのは遠坂だった。
「あんたも封印指定、なのね……」
「も?」
まさか遠坂の知り合いにも封印指定の魔術師が? そう聞こうとした時、遠坂は首を振って違うと答えた。
「――衛宮矩賢」
「エミヤ、ノリカタ?」
誰だそれは?
「ちょっとあんたの父親の事を調べた事があったのよ。衛宮矩賢、衛宮切嗣の父親……あんたの祖父、になるのかな?」
遠坂の口から出た言葉は、俺には思っても見なかった言葉。切嗣の父親が封印指定だったって?
「何の魔術が封印指定に指定されたのかは分からないけど、顛末は小さな島が住民ごと処理された、らしいわ」
遠坂は詳細を語る。住民が死徒化したのが発覚した始まりだったと。魔術協会と聖堂教会が動き、封印指定執行者と代行者が矩賢氏の身柄を求めた。片方は身柄を拘束する為に、片方は抹殺する為に。結果、協会が矩賢氏の身柄を捕えて、魔術刻印の一部を切嗣が受け継いだ。
「それからは、多分あんたが知っている通り」
力を求め、フリーランスの魔術師となり、何時しか魔術師殺しと呼ばれるようになった、か。
「あんたの事も耳にしてるわ」
「…………」
「魔術師殺し、二代目、剣製の魔術師……。エミヤって名は魔術師にとって忌み名と言っても言いすぎじゃ無くなってる。まったくあのへっぽこ三流魔術師の士郎がねぇ」
俺の事を知っても、変わらずにそこにいてくれる遠坂。ルヴィアやカティもそうだが、本当に得がたい友人だよ。
「……遠坂は」
「ん?」
「遠坂は知っていたのか? イリヤの事」
「あ、うん。知ったのは一年ぐらい前、たまたまこっちに帰ってきてた時にイリヤが倒れてね、近くにいた私が診たの、それが初めてよ」
「そっか。……遠坂、イリヤの事を教えてくれてありがとう。この事はいくら感謝してもし足りない」
本当なら出会った時に直ぐ言わなければいけなかった事、だから俺は遠坂に深く頭を下げる。礼を言われた遠坂は、頬を赤らめてそっぽを向いてしまう。遠坂は大人の女性になったけどこういう所はまるで変わっていない。ただそんな所が嬉しく思った。
「あんたのメイド、カティだっけ? 彼女に言われた言葉、正直痛かった」
「…………」
遠坂は視線をずらして、少しだけ気まずそうに口を開いた。
「『シロウ様は貴女のアーチャーではないのです』。うん、そうなのよね。士郎は、アイツとは違う、……そうなんだけど私はずっと重ねてきた。アイツの断片的な記憶、それはどれも私にとって許せないものばかりで、だからこそ――」
「遠坂?」
言葉を濁して俯く遠坂。気丈な彼女とは違った少女のような顔。俺は不思議そうにし、ただ次の言葉を待つ。
しばしの後、遠坂の口から漏れた言葉は俺には思ってもみなかったものだった。
「私はエミヤシロウが好きだった」
「――――っ」
それは俺にではない、座に着く英霊エミヤに向けての言葉、6年越しの告白。
「もう士郎の行く道にとやかく言わない。私とあんたの道は別れた」
寂しそうな、悲しそうな、ずっと大切に仕舞っていた物をなくしてしまった顔で遠坂は断言する。
遠坂の顔を見て俺は思う、彼女にそんな表情をさせてはいけないと。……でも、その願いは俺の我侭なのだろうか。
「……でも、俺は遠坂の事は大切な友人だと思ってる」
俺の口を突いて出た言葉、遠坂は一瞬だけ目を丸くして、不敵に笑った。
「ええ、それは当たり前よ。もし何か困った事があったら私に声をかけなさい。少しだけなら手を貸してあげるわ」
「俺も遠坂が困っているなら、いつでも力を貸すさ」
お互い笑いあった。遠坂は、俺が学生だった頃に憧れたままの遠坂で、それが少し嬉しかった。
「遠坂」
「ん?」
「ありがとな」
遠坂は俺の再度の感謝に一瞬驚いたような表情を浮かべたけど、直ぐに苦笑いを浮かべた。
「士郎、今はイリヤの事だけを考えていなさい。イリヤの体はもう手遅れかも知れないけど、今のイリヤの心を救えるのは間違いなくあんただけなんだから」
「分かった」
遠坂はよろしいとばかりに頷いて、そのまま俺に背を向けて自分の部屋へと戻っていった。俺は遠坂の背を見て、もう一度だけ、心からの感謝と共に頭を下げた。
翌朝、朝食をとった後、イリヤに一緒に出掛けようと誘われた。
「お嬢様」
「二人は着いて来なくていいわ」
お供しますと言わんばかりのセラの言葉に、イリヤは凛とした言葉で拒絶する。
「…………」
「セラ」
「分かっているわ、リーゼリット。……お気をつけてお嬢様。エミヤ、くれぐれもお嬢様を頼みましたよ」
「シロウ、イリヤの事、頼んだ」
「ああ、何があってもイリヤを守るさ」
セラは複雑そうな顔をして、リズは無表情の中にもどこか嬉しそうにして一礼した。
「それではシロウ様、私もここで待っております」
「ごめんな、カティ」
「ありがとね、カティ」
カティは俺の言葉とイリヤの礼に一瞬だけ微笑み、なんでもありませんと首を振った。
「いい従者を持ったものね、シロウ」
「俺にはもったいない従者だよ」
カティとセラ、リズに見送られて俺とイリヤは衛宮の門を出た。
衛宮の家を出てからイリヤは何も喋らず、踊るようにして深山町を歩いていく。
その姿はまるで羽の生えた妖精。一瞬でも視線を外すと、次の瞬間消えてしまうんじゃないかという危うさがあった。
イリヤが足を止めた先。両脇を林に囲まれた長い階段。
「柳洞寺?」
「うん、そうだよ」
ゆっくりと一歩ずつ、長い長い階段を上がる。
長い長い階段を上り終わった時、イリヤは息を整えるように、一つ大きく息を吐いた。
この小さな体では柳洞寺の階段はきつかったはずだ、ましてや今のイリヤの体は正常ではないのだから。
「イリヤ、大丈夫か?」
「……うん、大丈夫。それにもう直ぐだしね」
イリヤを抱えて、イリヤが望む場所に連れて行く事だって出来る。でもそんな事はイリヤは望まない。気丈、とはまた違った、何かを心に決めた瞳。だから俺はそっと手を差し出した。
「イリヤ、手を繋ごう」
「うん!」
ぎゅっと握られる手。俺の手とは比べるまでも無いぐらい小さくて、でもその温もりだけは失いたくなかった。
「シロウ、こっちだよ」
イリヤが進もうとするのは本堂じゃなくて、その裏へと続く道。
この先は……。
柳洞寺に来た時、なんとなく予感はしたんだ。
イリヤに話した事はあったけど、イリヤは俺が冬木にいた時には結局一度も訪れる事の無かった場所。そして多分俺が冬木を後にしてからも訪れなかった場所。
俺たちは山へと足を踏み入れ、規則的に並ぶ墓石の柱の間を歩く。一つの墓石の前でイリヤと俺は足を止めた。
俺の養父、イリヤの実父、衛宮切嗣の墓だった。
「……イリヤ」
「うん、近くには来た事はあったんだけどね。きちんと来たのは初めてだよ」
イリヤは切嗣の墓前でゆっくりとしゃがみ、そっと触れる。
俺はそんなイリヤの背から視線を外して、切嗣の墓を見る。
吹き曝しの屋外にあるのに、切嗣の墓はあまり汚れていなかった。きっと藤ねぇが掃除をしていたんだろう。
……俺もここに来たのは何時以来だろうか。
「シロウもあんまり来なかったってタイガが言ってた」
「ああ。俺は……俺はさ、親父に言える事が出来るまではって思って」
「そうなんだ」
「…………」
「…………」
俺とイリヤは切嗣の墓前に自然と手を合わせ、静かに目を瞑った。
今の俺は切嗣に、親父に何を言えるのだろうか。
ずいぶん長く目を閉じていたと思ったが、俺が目を開いた時でもまだイリヤは静かに祈るように目を閉じていた。
「――シロウ」
どれくらい手を合わせていたのだろうか、イリヤはいつの間にか目を開けてぽつりと俺の名を呼ぶ。
「イリヤ?」
「ねぇシロウ、キリツグはわたしの事見捨てたんじゃなかったんだよ」
「え?」
「聞いたのは、ほんの最近。セラが教えてくれた」
「…………」
「キリツグはね、何度も何度もアインツベルンの領地に来ていたんだよ?」
イリヤの言葉は俺にとっても寝耳に水。初めて聞く言葉だった。
「どういう事、なんだ?」
「でも、キリツグは一度もわたしの所へは来れなかった。アインツベルンの森の結界がキリツグを通そうとはしなかった。キリツグに出来たのはただ、吹雪の中を彷徨い歩くだけ」
「そっか。親父が旅に出るって言って出掛けていたのはイリヤを助けるためだったんだな……。この世全ての悪の呪いに侵されていた頃にか?」
「うん、そう。全盛期のキリツグだったらなんとかなったのかも知れない。でも、きっとあの頃のキリツグは酷い状態だったから……」
全盛期の切嗣の実力というのは、正確なところ俺にも分からない。でも魔術師殺しと呼ばれ、幾多の魔術師の工房を踏破してきたはずだ。今の俺はその言葉の意味が、凄さがよく分かる。
でも呪いに感染した切嗣は、俺が爺さんと呼ぶほどに憔悴していたはずだ。それでもイリヤの事を求めて……。
「大聖杯も弄られていた」
「大聖杯?」
「うん、マスターの選択とか英霊召喚とか、聖杯戦争を司るシステムみたいなものなんだけどね。一度リンの協力で調べたんだ」
「大聖杯を、か?」
「うん。その時はっきり分かったんだ、大聖杯はあと20年もしないうちに完全に停止するって。もう、この地で聖杯戦争が起こることは無いんだよ。これも全部キリツグの仕業」
切嗣はイリヤが聖杯になる事は分かっていた。だから大聖杯を弄った。でも10年で再び聖杯戦争が起こるなんてきっと予想だにしてなかったんだろう。
「結局キリツグはそのまま死んじゃった。キリツグはわたしとの約束を破ったけど、でもね、今ならその事は許せちゃう。だからわたしは今こうしてここにいるんだよ、シロウ?」
「そっか」
俺はイリヤの背から視線を外して切嗣が眠っている墓を見る。
親父、親父は許されたんだよ。10年の時を置いて切嗣を殺しにやってきた少女は、6年の時を加えて今ここに。
だからさ、だから、親父。イリヤを、せめて最後に望む願いを叶えてやってくれ――頼む。
「帰ろっか、シロウ」
「ああ、そうだな」
どれだけ俺たちは切嗣の墓を見ていたのか。固まる体を解すように体を伸ばす。
イリヤも立ち上がろうとして、そして体が揺らいだ。それはゆっくりと、まるで時が止まるかのようにゆっくりと地面に崩れ――。
「イリヤ!」
俺はイリヤの名を呼び、強く、強くイリヤの体を抱きとめていた。
この時、俺は初めて時間が無い、その事を重く実感したんだ。
「ごめんね、シロウ」
「いや、このぐらいなんでもないさ」
柳洞寺の長い階段を、イリヤを肩車しながらゆっくりと降りていく。
担ぎ上げたイリヤの体はとても軽かった。そう、涙が流れそうになるほどに……。
「ねぇ、シロウ」
「ん? なんだイリヤ」
「大好きだよ、シロウ」
「ありがと、イリヤ」
「むぅ、シロウはどうなの?」
俺の口にする言葉は決まっていた。
「ああ、俺も好きだよイリヤ」
俺の言葉にイリヤは満面の笑みを浮かべて、俺の頬に触れるだけのキスをした。
その日からイリヤの症状は悪化の一途を辿った。
人としての機能を少しずつ減らしていった。それはあの聖杯戦争時のイリヤのように。
セラは言った。エミヤがお嬢様を優先してお嬢様を救おうとしたのなら、もしかしたら道が在ったのかもしれません。でもお嬢様は決してそれを望まなかった、と。
俺に出来る事は唯一つ、一緒に居てやる事だけ、そんな事しか出来なかった……。
それでも終わりはやって来る。
イリヤの枕元で船を漕いでいた俺。冷たい風が俺の頬を撫で、目が覚めた。
反射的に目の前の布団へと視線を向けるが、そこにはイリヤの姿は無かった。
「……イリヤ?」
布団の温もりはほとんど失われて、少なくない時間、イリヤがここにいなかった事を俺に知らせる。
不意に顔を上げた時、俺の肩にかけられた毛布が床へと落ちた。
これはイリヤがかけてくれたのだろうか……。
部屋には俺一人で、ただ障子戸が開いてそこから冷たい風が流れ込んできていた。
俺は直ぐ脇に畳まれていたコートを掴み、誘われるように障子戸の向こうへと。
「あ――」
予感はした。朝から深々と降る雪。庭を、街を埋め尽くす白。
その中で一人立ち尽くす、イリヤ。
動く事も出来なかったイリヤが、確かにそこに立っていた。
「シロウ、雪だよ?」
「そう、だな」
振り返る事も無く、降りてくる雪を見上げながらイリヤは俺の名を呼ぶ。
俺はコートを纏い、サンダルを履いてイリヤへと近づいていった。
イリヤは直ぐ後ろに俺が来た事に気づくと、ゆっくりと寄りかかり、俺はイリヤをコートの中に入れた。
「えへへ、シロウは温かいね」
「イリヤも温かいぞ」
「そう?」
コートから顔だけ出して、無邪気に笑うイリヤ。イリヤは温かい、それはあきらかに体温以上の熱さ。
「…………」
「…………」
二人して無言で、ただ白い息を吐く。
深い雪が世界を隔絶して、全ての音を吸い込み、この白い世界に俺とイリヤだけがいた。
「ねぇ、シロウ」
「ん?」
イリヤは顔を上げて弱々しく笑いかける。
「ちょっと聞いてもいい?」
「ん? 俺に答えられることだったら何でも答えるよ」
大丈夫という俺の言葉に、イリヤは少しだけ逡巡してぽつりと口を開いた。
「キリツグが逝った日って、どんな日だったの?」
「――――ッ」
今この時に――いや、こんな時だからこそ聞きたいのか、今まで一度も聞かれた事の無いキリツグが逝った日、その日の情景を尋ねたイリヤ。
俺は目を瞑る。思い出すは11年前の冬の夜。俺にとって色褪せる事の無い情景の一つ。
「……月が、月がさ、本当に綺麗な夜だったんだ」
月、月かぁと、口の中で転がしてキリツグらしいね、とイリヤは呟いた。
「ねぇ、今日はどんな感じ?」
「今日、かぁ……」
俺は今のこの場の空気に身を任せて、ただ深々と舞い降りてくる雪を見上げた。
「冬木って名前なのにさ、この街はそんなに寒くならないんだ。それなのに今日は深い雪が降っている」
「そっか、じゃあ今日は特別な日なんだね。雪の世界にいるとね、まるでアインツベルンの森にいるみたい」
イリヤは空へと、雪へと手を伸ばそうとしたのか、少しだけ腕が上がったのに、力尽きて俺の腿を小さく打つ。
腕は上がらず、掴もうとした雪を掴めなかったのに、イリヤはそれでも楽しそうに舞い降りてくる雪を見続けている。
俺はイリヤのサーヴァント、聖杯戦争の時に交わした契約。イリヤを助けるのは俺の役目。……いや、理由なんてどうでもいい。俺は我慢ならなかっただけだ。
「あっ」
俺は膝をついて、抱くようにイリヤの腕を取った。
少しだけ痙攣しているイリヤの腕、だけど俺は気がつかなかったように舞い降りてくる雪の下へと導く。イリヤの笑みの輝きが増した。
「ありがとっ、シロウ」
えへへと笑うイリヤ。
「大丈夫だね。こんな綺麗な雪の日ならきっとシロウは忘れない。わたしのことも忘れられないんだから」
それは何て――。
「イリヤの事忘れる事なんて、できる訳ないだろ」
「そっか、そっか、うん。ありがとうシロウ」
そう言ってイリヤは満面の笑みを浮かべる。でもその笑みとは裏腹に、イリヤの体から徐々に力が抜けて俺の体へともたれかかって。だから、俺は強くイリヤを抱いた。
「シロウ、少し痛い」
「あっ、すまん」
「ううん、でもシロウを強く感じられたから許してあげる」
俺は慌てて腕から力を抜き、それでもイリヤが倒れないようにイリヤのお腹へと腕を回す。俺の顔の直ぐ横に来るイリヤの小さな顔。イリヤはこの体勢が気に入ったのか、頬を赤らめて笑っていた。
「わたしはねシロウ? キリツグのこと許したけど、嫌いなんだよ?」
「イリヤ?」
ぽつりと漏らしたイリヤの言葉に、どういう意味だと視線で問う。
切嗣の墓前で許すと言ったはずなのに、それなのに嫌い?
「シロウのこと大好きだから、嫌いなんだ」
「それは――」
「わたしはキリツグを許した。けどそれはわたしのことだけ。でもこれは違うんだ。シロウをね、こんなに頑固にしちゃったから大嫌いなんだよ。シロウは誰か困っている人がいるとそっちに行っちゃう、私が泣いててもね、誰かが危なかったらそっちに行っちゃうんだ」
「……………」
俺はイリヤの言葉に何も言う事が出来なかった。事実、俺はイリヤが今言った通りの人間だ……。
「だから、だからね、シロウは私が死んじゃうときにしか来てくれないの」
そんな事はない、そう口に出したかった。でも結局俺の口から突いて出る事は無かった。
イリヤは分かってるとばかりに俺に笑顔を向けてくれた。
「シロウはね、大切な物を持てないって、持つ事は許されないって思ってる。ただ人のために他人のために自分を切り捨てちゃって、自分の幸せも捨てちゃうシロウ。それは全部キリツグの呪い、こんなシロウにしちゃったキリツグの呪いなんだよ?」
俺はあの切嗣との約束を呪いだなんて思ってない。全ての人を救う、その事に辛かったり苦しいと思った事は何度もあった、それでも諦めようと思った事なんて一度も無かった。
「シロウはきっと呪いだなんて思わないかもしれないね。他人を助けちゃだめなんて言わない、でもねシロウ、そこにはシロウの幸せは無いんだよ? シロウを好きになった人の幸せもね。だから、おねえちゃんが呪いをかけてあげる」
「イリヤの、呪い?」
うん、となんでもない事のようにイリヤは頷いて、歌うように言葉を紡ぐ。
「わたしが逝った後、もしシロウの心に大きな穴が空いたなら、それはシロウの中のわたしがいた場所。もしそれがね、シロウの中で大きかったらシロウはいつかきっと必ず幸せになれるよ。シロウは知らないだけ、気づかないだけ、でもそれは全部シロウの中にあるんだよ? だからね、そこにわたしじゃない誰かを入れて、シロウに幸せになって欲しいんだ」
イリヤはずっとずっと溜め込んでいた思いを、やっと吐露できたからか、安らいだ表情を浮かべて笑った。
「これがわたしの呪い、シロウが生きておねえちゃんのことを覚えててくれるなら絶対に忘れることの出来ない呪い、シロウが幸せになれる呪い、わたしの命がけの呪いなんだからね」
イリヤの思いを、助かったかもしれない道をそんな事のために捨てたという事実に、俺は堪らず叫んでいた。
「イリヤは俺の為に、俺の幸せの為に命を投げ出すって言うのか!? 俺はイリヤが無事にいてくれる方が何倍もいいんだ! だから――」
逝かないでくれ、俺は叫びたかった。例えもう既に時間が無いとしても、俺なんかよりもイリヤの方が比べる事も無く大切だ。俺の命を対価にイリヤが救えるというのなら幾らでも差し出してやる。
……だっていうのにイリヤは大人びた、いや大人の顔で、俺の姉としての顔で俺の思いを否定する。
「我侭だねシロウ。でもそういうこと。わたしはシロウが幸せになって欲しいから、このたった一つの命を賭けるんだ」
諦念でもなんでもない、ただ純粋で真摯なイリヤの願い。
でも、そんなのは、そんなのは間違ってるんだッ!
「俺自身なんて幸せにならなくていい! 俺は幸せなんて望めないんだ! 俺はそんな資格なんて無いんだよ!」
いつしか俺の頬をつたう雫が、イリヤの頬へと落ちていた。
「……シロウは泣けるんだね。シロウはどんな辛くても、苦しくても、全部受け止めちゃうから。だからいっぱい泣いちゃっていいんだよ」
イリヤは小さく頷いてよかったと、安堵の表情で、また一つ肩の荷が下りた様子で息を吐く。
「シロウは幸せになっていいんだよ? あのときいっぱいいっぱい死んじゃって、シロウだけしか残らなかったけど、それでもシロウは幸せになっていいんだよ? シロウはキリツグのあとを継いで正義の味方になったけど、自分を助けてくれたキリツグの笑みをみて憧れたのかもしれないけど。でもね、そんなキリツグのせいでおねえちゃんもね、いっぱいいっぱい泣いてたんだよ? だからそんな正義の味方なんて駄目だからね、おねえちゃん許さないんだから」
少しだけ怒ったようなイリヤの顔、少しだけ寂しそうなイリヤの顔。
「だから、だからね、シロウだけの大切な人を見つけて」
「大切な、人?」
「そう、一番大事な人、わたしじゃないだれかだよ。その人はサクラでもリンでもタイガでもいいんだよ? ルヴィアでもカティでもセラでもいいし、私の知らない誰かでもいいよ。もし見つけられなかったらおねえちゃん怒るんだからね」
「…………」
「シロウは大切な人を見つけてもね。困っている人がいたら助けてもいいよ、泣いている人がいたら笑わせてもいいよ。でもねシロウ、大切な人が出来たら目の前で困ってる人がいても、大切な人が泣いてたら、笑わせるためにその人のところに行かないと駄目だよ? もし、もしねその人が世界の敵になっちゃったとしても、シロウだけはその人の味方じゃないと駄目なんだよ?」
「…………」
「シロウ、返事は?」
「………わかった」
イリヤの純粋で真摯な問いかけ。それはイリヤの命を賭した問い。
俺は、俺は頷くしかないじゃないか。
「頷いちゃったんだからね、シロウは絶対に幸せになんないと駄目なんだからね。おねえちゃんはもう生きられないけど、シロウが幸せになってくれるならいい。少なくともわたしと一緒にいてくれなかった分の私の幸せと、もしシロウと一緒に生きれた分の幸せぐらいには幸せにならないと駄目なんだからね?」
「……できるかどうかはわかんないけど、それでも幸せになれるようにがんばってみるよイリヤ。イリヤの分まできっと」
「そっか、よかった」
俺が幸せになれるよう努力してみると言った事に、イリヤは心底ほっとしたように肩を撫で下ろした。
「……これで、おねえちゃんがシロウにしてあげられることは全部。もう全部しちゃった」
未練は無いと言うイリヤの台詞。……けど、少しだけ涙目になって俺を見つめる。
「……でもね、でもね、ホントはおねえちゃんだけの味方になって欲しかったんだよ?」
「――ッ!」
ぽつりと漏らしたその一言。
それはイリヤが本当に願った想い。
もう俺はイリヤを、この腕の中に納まる小さな少女を正視する事はできなくなっていた。ただ涙が流れ、俺の視界は歪み……でも俺は最後まで見届けなければいけない。イリヤにここまでしてもらって、イリヤの本当の願いを叶えてやれなかった俺の務めなんだから。
「ねぇ……シロウ、そこにいる?」
「ああ、側にいるさ」
イリヤの瞳が悲しそうに揺れている。俺は気づいてしまった、イリヤの瞳から徐々に光が失われていってしまうんだと。それでもイリヤは、俺に見えない何かを見ていた。
イリヤの震えた手、俺は堪らずその手を握っていた。小さな小さなイリヤの手。俺の行動は正解だったのか、イリヤは儚い笑みを俺に向けてくれた。
「一緒にね、クルミを探しに行こ……」
「……ああ」
「それで、それで、キリツグより、いっぱい、いっぱい見つけるんだ……」
「そう……だな」
「しかたないから、キリツグは、お母さまといっしょでも、許してあげる」
「…………」
「わたし、たちは……ずっと、ずっと……いっしょ――」
「……イリヤ?」
イリヤは俺に笑みを向けて、逝った。
切嗣を殺しにやって来た少女は、ここに。
俺達の聖杯戦争でラインを繋ぎ、この六年間ずっと感じていたイリヤの気配が、片時も忘れる事の無かった気配が消えた。体のうちをいくら探しても見つからない。
当たり前だ、イリヤは逝ったのだから。
「イリヤっ!」
俺は泣いた、恥も外聞も無く泣いた。ここまで泣いたのは記憶の中に唯一つ、切嗣が逝った時だけ。
だから気づけた、いや本当はこうなる前に衛宮士郎は気がつかなければならなかったんだ。
そう、イリヤスフィールという少女は、衛宮士郎にとって一番大切な人だったと言う事に。
「エミヤ様、イリヤスフィール様を……」
「……セ、ラ?」
もう体温を感じさせる事の無いイリヤを抱いたまま顔を上げると、いつの間に来ていたのだろうか、皆が、皆が、この場にいた。
「エミヤ様」
「あ、ああ」
何時までも寒空の下、イリヤをこのままにしておけない。
「イリヤを、頼む」
「畏まりました」
セラは俺に恭しく傅くと、そっとイリヤの亡骸を抱くように受け取った。
「シロウ」
目を腫らした俺は、側に立っていたリズに名を呼ばれて緩慢に体を起こそうとする。視界の端に移ったのは腕を振り上げるリズの姿。
「――ッ!」
人外の膂力を俺は殺す事も出来ず、俺は宙を飛び無様に塀に叩きつけられた。
「シロウ様!」
カティが悲鳴じみた声を上げて俺へと駆け寄ってこようとしたが、俺は視線で制した。
「――――ッ」
リズの拳を受けた右腕は骨こそ折れていないものの、痺れと痛みでろくに動かす事も出来ない。だけど俺の体の状態なんてどうでもいい。俺は飛びそうになる意識を繋ぎとめ、近づいてきたリズと正面から視線を交わす。
「…………リズ」
リズは何時もの無表情のまま、その赤い瞳から涙を流していた。
「イリヤ、シロウが居なくなって、泣いてた」
「…………」
「イリヤ、シロウ好きだった。私も好きだった。でも、イリヤ泣かすシロウは嫌い」
「…………」
「イリヤ、言った。シロウは幸せにならないとダメだって。私も同じ。だから、私も言う。シロウ、ここで止まる私の分も幸せになれ」
「――――あ」
そこで気づけた。
イリヤが以前話してくれた。リズは自分の一部だって。イリヤが逝ったなら――。
俺が結論に至る前にリズの体が揺らいだ。
「リズ!」
崩れ落ちそうになるリズを、直ぐ近くに来ていた遠坂が確りと支えた。遠坂に支えられたリズはセラへと視線を向ける。
「セラ、ゴメン」
「……いいんです」
それは何に対する謝罪だったのか、それは二人の間だけに伝わる言葉。
「……トオサカ様、リズをお願いしていいでしょうか?」
「分かったわ。……士郎は、どうする?」
「……いや、俺はまだ少しここにいるよ」
遠坂の言葉に首を振って俺は雪降る空を見上げた。
皆が俺を置いて戻っていく、カティも俺の事を思ってか一人にしてくれた。
俺は一人イリヤが逝ったこの場所に立ち尽くす。
血の色をした紅い聖骸布のコートすら白く染めるように、ただただ雪が全てを白に染め上げていく。
凍てつく冷気が俺の意思を凍らせるまでずっと、ずっと……。
それからの記憶は本当にあやふやだった。
分かっている事は断片的な事だけ。
イリヤの葬儀をして、切嗣と同じ墓に入った。
荒らされないように皆で魔術的に封印を施した。
――そして誰にも何も告げず、俺はただ一人冬木から姿を消した。
「……分からない」
俺は誰一人として動く事の無い場所で、死に瀕して喘いでいた。
俺は呼ばれたのか自分で赴いたのか戦場にいた。
人を救った、逃げ遅れようとした人を。
殺した、人をなんとも思わない人外を。
そして壊れた世界に残ったのは、俺一人。
「……分からないよ、イリヤ」
ひゅーひゅーと自分の呼吸がうるさい。
分からなかった。
分からないまま、俺は止まる事無く……いや、止まれないまま、ただ救うが為に動いた。
ラティーファは言った、俺は何処にいるかと。
そう、エミヤシロウは何処にいる?
きっと答えはイリヤの元に、以前の俺はそれが答えだったはずだ。
でも、気づいた時には遅く、俺は居場所を無くした。
エミヤシロウは何処にいる?
きっと、今の俺は、何処にもいない。
衛宮切嗣にもなれない、アーチャーにもなれない。
俺の側にいる人すら不幸にさせる俺の業。
俺は一体何処へと行くというのか?
「……分からない、分からないよ、イリヤ」
「貴様が剣製の魔術師か?」
「――ッ!?」
動くモノなど居なかったはずだ。それなのにまるで虚空から出現したかのように何かがいた。
俺の意思とは無関係に体は動こうとする、現れた人ではない気配に対応する為に。俺の体は跳ね起きて間合いを取ろうとしたが、死に体の俺は為すすべなく、無様に頭を掴まれた。
「そう騒ぐな、貴様を殺そうなどとは思っとらん。ただ興味があったから来たまでだ。――お主、これはできるか?」
何がと言う前に、目の前に一本の剣を、まるで鈍器のような形状だったが、確かに剣を見せられた。
「――がっ」
それは拙い。圧倒的に拙い。
あの英雄王のエアは足がかりすらなかった、だがこれは――。
確りと掴まれた頭は動かす事を許されず、無理やりそれを解析させられる。
それは人が手にするには余る業。
俺の頭が、精神が侵される。
それでも俺は抗い続け、至った……。
「ふむ、まぁ良かろう。今からお主は――」
手に生まれた重みは次の瞬間泡と消えて、閉じていく意識の中、そんな言葉だけが耳に残った。