「――こちらは放送部です……これより学内は停電となります。学園生徒の皆さんは極力外出を控えるようにしてくださ……」
午後八時。ぎりぎりまで放送していたアナウンスが、学園都市内のメンテナンスのために止まり、全ての灯りが落ちた。
枷から解き放たれた黒いマントのエヴァと、赤い聖骸布のコートを纏った士郎は、薄暗い闇夜の下、麻帆良学園都市全域を見渡せる場所にいた。
「……それがエヴァの本当の力か?」
「そうだ。このメンテナンスによる大規模停電に乗じてな。私の魔力を封じていた学園結界への電力を遮断させ、魔力を復活させた」
詳しいことは分からんが、ハイテクというやつだ、とエヴァは不敵に笑う。
「本当の本番は奴のパートナーが来てからだ。それまではせいぜい遊んでやる。神楽坂明日菜が来なければそこで終わり、そこまでの話だったというわけだ」
フフフと楽しそうに笑うエヴァだったが、ふと真面目な顔で士郎に視線を向けた。
「士郎、昨日の話を忘れるなよ?」
「…………」
士郎の頑なな表情に、エヴァは肩の力を抜いてフッと笑う。
「安心しろ、昨日も言ったが殺しはせん」
「……そうか。がんばれとは応援できないけど、色々と気をつけてな」
士郎の言葉に、エヴァは不敵な笑みで返した。
そんなやり取りの中、茶々丸が空を飛んでこちらに向かってくるのが見えた。
「マスター、お待たせしました」
茶々丸は士郎にも会釈をして挨拶をする。
「茶々丸、行くぞ!」
もう時間だとばかりにエヴァは鋭い声を上げた。
茶々丸は無言で士郎へと会釈をし、エヴァは一目だけ彼に視線を向けて、二人はおぼろげな月の光のみが照らす夜空へと舞った。
「……マスター、士郎さんは?」
「昨日言っていただろう。奴はせいぜい傍観しているだけだ。直接的には何もしてこないはずだ」
ただ、間接的には分からんがな、という言葉は飲み込んだ。
「それよりも急げ、茶々丸!」
「はい、マスター」
二人は大浴場へと侵入し、少女四人の下僕を従えてネギを待つ。
「エヴァンジェリンさん、まき絵さんを放してください!」
「やっと来たか……パートナーはどうした。一人で来るとは見上げた勇気だな」
ネギが自分だと認識できていない様子に、エヴァは仕方なく幻術を解いた。
「満月の前で悪いが、今夜ここで決着をつけて、坊やの血を存分に吸わせてもらうよ」
「……わかりました。でも、そうはさせません。今日は僕が勝って、悪いことをするのはやめてもらいます!」
「それはどうかな……。やれ、わが下僕たちよ」
ネギに襲いかかる少女たちを横目に、エヴァは士郎が今何をしているだろうかと思いを馳せた。
士郎は、ネギが一人でエヴァに挑んだことに気づき、チャチャゼロと共に学生寮の前に来ていた。
「来ルト思ッテンノカヨ、家政夫」
「ああ」
遠く離れた夜空を駆ける二人を視界に捉えたまま、士郎は頷いた。
「きっとなんだかんだ言いながら、それでも来るさ」
「ナンダカヤケニ買ッテルヤガルナ。ソンナニ顔アワセテネーダロ」
チャチャゼロの言葉に、士郎は曖昧に頷きながら遠くを見据える。
「……ずっと昔に大喧嘩して袂を分かった人と、なんとなく似てるからかな。ネギ君みたいな子には、彼女みたいな人が付いていたほうがいい」
士郎は自嘲的に笑って、ぽつりと一言漏らした。
「魔法に関わり続けようとするかどうかも、最終的には本人が選ぶことだからな。……彼女がどうするのか、聞いてみたい」
「ケケケ、甘イ話シダナ」
愉快そうにチャチャゼロが笑う。
「……来たみたいだな」
明日菜が制服姿で寮から急いで出てくるのを感じ、士郎はそちらへと視線を向けた。
そして、ネギの元へと向かおうとする明日菜の前に立ちはだかった。
「そこをどきなさいよっ!」
「……どこに行く、神楽坂明日菜」
「ネギのところに決まってんでしょ!」
「あ、姐さん。コイツはまずいっスよ!」
「うっ、いいから黙りなさい、このエロオコジョ!」
士郎は喋るオコジョを見て一瞬眉を動かしたが、二人のやり取りにフンと冷ややかに笑った。
「な、何よ」
「君は一般人のはずだ。なぜわざわざ魔法の世界になんて関わろうとする。非日常に身を置くということは、それだけ危険が付きまとうということでもあるんだぞ。たとえ君の同居人が魔法使いだったとしても、付き合う義理はないはずだ」
士郎の感情の無い冷たい視線に射すくめられ、一瞬怯む明日菜。
だが、自分を鼓舞するように一歩力強く踏み出した。
「わ、私は難しいことなんて分からないけど。それでも、うちの居候を泣かすヤツは許さない!」
「自分が傷を負ってもか?」
「きっと、多分大丈夫!」
明日菜はきっぱりと言い切り、ぐっと親指を突き出した。
士郎は、彼女ならそんな答えを出すだろうと感じていた。
明日菜の言葉に、彼女が拍子抜けするほどあっさりと緊張を解き、自嘲的にふっと笑う。
「えっと……通っていいんだよね?」
あまりの落差に、明日菜はおずおずと聞いてくる。
「ああ、もちろんだ。だが、エヴァたちの居場所は分かるのか?」
「カモ!?」
「ちょっと待ってくれ姐さん」
カモが位置を特定しようとする前に、士郎が口を開いた。
「ネギ君は逃げているのか誘っているのか、学園都市の外れの橋へと向かっている」
その言葉に、明日菜はえっと振り返った。
「士郎さんって、エヴァンジェリンの味方じゃないの?」
「別にエヴァだけの味方ではないさ。ただ今回は、できればネギ君に勝ってもらいたいからな」
「それって、エヴァンジェリンがネギの命を狙っているから?」
「いや、もうエヴァはネギ君の命は狙っていない」
士郎の口から漏れた事実に、明日菜は驚愕して掴みかかった。
「ホントなの?」
「ああ。エヴァが勝ったらネギ君の血を死なない程度に吸う。ネギ君が勝ったらエヴァは授業に出る……少なくともエヴァはそう思っているよ」
「でも、ネギは大丈夫なの?」
「ケケケ、マダマダ御主人ハ全然ホンキヲダシテイネーカラナ」
「エヴァは明日菜が来てからが本当の本番だと思っているからな」
「それって……」
「そうだ、明日菜が来なければ、まず勝負にもならない」
「じゃあ、早く行かなきゃダメじゃない!」
「待て。俺がネギ君の元まで連れて行く」
士郎の提案に、明日菜とカモは驚き、一瞬見つめ合ってから頷いた。
「お願い、連れて行って!」
「なら決まりだな。チャチャゼロ!」
「オウヨ」
士郎の掛け声で、ナイフを弄っていたチャチャゼロは定位置である士郎の頭へと跳躍した。
そして士郎は明日菜を問答無用で横抱きに抱き上げた。
「え、あ、ちょっと、士郎さん!?」
「俺が運んだほうが早いからな」
「旦那、姐さんをお姫様抱っことか良くやるっすね。まるでシンデレラみたいじゃないっすか」
「シ、シンデレラ!?」
明日菜が赤面するのも構わず、カモは続ける。
「そうっすよ。ネギの王子を悪い継母たちから奪うために向かうんすから!」
「悪い継母ね……」
士郎はエヴァと茶々丸を思い浮かべ、乾いた笑みを浮かべた。
「それじゃあ、俺は魔法使い兼かぼちゃの馬車か?」
「ケケケ、俺様ハ鼠ノ従者カヨ」
「じゃあ、俺っちは……」
「あんたなんか私の付属物で十分よ!」
ガックリとうなだれるカモ。
士郎は一転して真剣な表情になった。
「飛ばして行くからな。舌を噛むなよ」
「はい!」
「任せたぜ、旦那」
「行くぞ!」
士郎は足腰を強化し、闇夜の学園都市を疾走し始める。
「うわぁぁ……っ」
空を飛ぶかと思っていた明日菜は、地を這うようにして風を切って進む士郎の速度に感心していた。
自分も足には自信があったが、士郎の速さは圧倒的だった。
「もしかして、士郎さんもネギと同じ魔法使いなの?」
問いかけに一瞬虚を突かれた顔をした士郎だったが、苦笑いを浮かべて否定した。
「俺はちょっと違う。魔法使いではないさ」
そう話しているうちに視界が開け、学園都市外へと続く橋が見えてきた。
そこでは、エヴァの魔法で棘のような氷柱が生じ、ネギが吹き飛ばされるところだった。
「……ネギ君が劣勢だな」
「ケケケ、当然ダロ」
「えっ、嘘、ここから見えるなんてどんな視力してんのよ! それで、どうなってるの!?」
「ネギ君が追い詰められ……なっ!」
「え、ナニ、私にも教えてよっ!」
士郎が絶句し、腕の中で明日菜が暴れる。
「捕縛結界か……ネギ君の罠にエヴァがかかった」
「じゃ、じゃあ!」
明日菜の表情が明るくなる。その光景が、彼女の視界にもようやくおぼろげに見えてきた。
「……ネギの勝ち?」
「ソンナワケネーダロ」
チャチャゼロが断言した瞬間、捕縛結界が砕け散った。
「ちょっ、どういうことよ!」
「御主人ハ罠ノ対策グライシテルッテナ」
ケケケと笑う先で、とうとうネギがエヴァに捕まった。
「俺が運んでやれるのは橋の入り口までだ。そこからは自分で行け」
「は、はい! ありがとうございました。カモ、行くわよ!」
橋の入り口に差し掛かった瞬間、明日菜は士郎の腕から飛び出していった。
「十五年の苦汁をなめた私が、この類の罠に何の対処もしていなかったと思うか?」
エヴァが茶々丸に指示を出し、科学の力を用いた結界解除プログラムを発動させたのだ。
「えっ、そ、そんなウソ、ずるい!」
「私も詳しくは知らないが、科学の力ってやつさ」
「ううっ、ラス・テル――」
詠唱を始めようとするネギから、茶々丸が素早く杖を奪い、エヴァへと渡した。
「フン、奴の杖か」
エヴァは一瞥しただけで興味を失ったように、杖を橋の欄干の外へと投げ捨てた。
「ああっ、うわーん、ひどい! あれは僕の何よりも大切な杖……」
半泣きでエヴァに食ってかかるネギ。
「ひどいです、エヴァさん! 本当なら僕が勝っていたのに、ズルいです! 一対一でもう一回勝負してください!」
じたばたと泣き言を漏らすネギに、エヴァは腹を立ててその頬を無言で張り飛ばした。
「一度戦いを挑んだ男がキャンキャン泣き喚くんじゃない! この程度でもう負けを認めるのか。お前の親父なら、この程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ!!」
頬を押さえて震えるネギ。エヴァはそっと近づく。
「結局お遊びのまま終わったわけか。一人で来たのは無謀だったな」
「…………」
「さて、血を吸わせてもらおうか」
「あの、マスター……」
「心配するな、士郎との約束は覚えている。奴としては坊やに勝ってほしかったのだろうがな」
「コラーッ! 待ちなさーい!」
「フン、来たか。坊やのパートナー、神楽坂明日菜」
「マスター、あれは士郎さんではないでしょうか?」
明日菜の向こうに、ゆっくりと歩み寄る士郎とチャチャゼロの姿があった。
「士郎が連れて来たのか……まあいい、やることは同じだ。茶々丸」
「ハイ」
茶々丸が迎撃態勢をとる。
「カモ!」
「合点姐さん!」
「オコジョフラーッシュ!」
「ごめん、茶々丸さん!」
カモの放った閃光が辺りを包む。その隙に明日菜は茶々丸をかわして突っ切り、一直線にエヴァへと向かう。
「フン、たかが人間が。私に触れることすらできんぞ」
エヴァは魔法障壁を展開したが、明日菜の飛び蹴りはそれを突き破り、エヴァを吹き飛ばした。
「私の魔法障壁を突き破るだと、貴様一体!」
エヴァは体勢を立て直したが、明日菜とネギはすでに移動していた。
「くっ、どこだ!?」
「申し訳ありません、マスター」
そこに士郎とチャチャゼロが近づいてくる。
「大丈夫か、エヴァ?」
「ヨクトンダナ、御主人」
「ええい、うるさいぞ貴様ら!」
「貴様が神楽坂明日菜を連れてきたのか?」
士郎は頷き、エヴァの鼻から流れる血を指で拭い取った。
「……これで両方に肩入れしたからな。それにこれからが本番だろう。次に俺が介入するのは、勝負が決まるときだけだ」
エヴァはむうと唸りながらも、納得して頷いた。
「どうした坊や。お姉ちゃんが助けに来てくれてホッと一息か?」
「何言ってるのよ! これで二対二の、正々堂々、互角の勝負でしょ!?」
「そうだな、ようやく正当な決闘というわけだ。だが互角かな? 坊やは杖なし、貴様もまったくの素人だろう」
「あ、あの……士郎さんは?」
「安心しろこいつは審判みたいなものだ。士郎の判定には私も口を挟まん。お前もそう誓え」
「……む」
「大丈夫よネギ、士郎さんは私をここに連れてきてくれたしね」
「……わかりました。士郎さん、お願いします」
ネギの言葉に、士郎はしっかりと頷いた。
「さて、無駄話もここまでだ。私が生徒だということは忘れ、本気で来るがいい、ネギ・スプリングフィールド」
「はい!」
エヴァはニヤリと笑い、士郎へと視線を向けた。
「士郎、合図を上げろ!」
「――始め!」
士郎の声と共に、再び戦いの幕が切って落とされた。
明日菜と茶々丸が激しく火花を散らす中、エヴァとネギも高度な魔術の打ち合いを開始する。
「ハハハ、何だその可愛い杖は! 喰らえ、魔法の射手・氷の十七矢!!」
「ううっ、魔法の射手・連弾・雷の十七矢!!」
ネギは何とか迎撃に成功するが、エヴァはさらに畳み掛ける。
「リク・ラク ラ・ラック ライラック、闇の精霊二十九柱!!」
「ラス・テル マ・スキル マギステル、光の精霊二十九柱!!」
同数の矢が相殺され、猛烈な余波が吹き荒れる。
「ネギ!」
「マスター」
「……これが魔法か」
「旦那?」
士郎の呟きにカモが不思議そうに見上げる。
「アハハ、いいぞ。よくついてきたな!」
ネギは先行して最大魔法の詠唱に入った。エヴァもまた同種の魔法で応じる。
「雷の暴風《ヨピテール・テンペスタース》!!!」
「闇の吹雪《ニヴァリス・カースス》!!!」
轟音と共に両者の魔法がぶつかり、拮抗する。だが、徐々にネギが押され始めた。
「ま、まだだ……僕はもう、逃げない!」
最後にネギがくしゃみと共に放った魔法が、均衡を打ち破った。
「なっ、何!?」
爆音と閃光が収まった後、そこには怒りで頬を引きつらせ、服の弾け飛んだ裸のエヴァが立っていた。
「やりおったな、小僧……。フフッ、期待通りだよ。さすが奴の息子だ……」
「あ、あわわ……ごめんなさい!」
「や、やったぜ兄貴。あのエヴァンジェリンに打ち勝ったぜ。信じられねー!」
「だが坊や、まだ決着はついていないぞ。士郎、手を出すなよ!」
再び詠唱に入ろうとするエヴァ。その時、茶々丸が叫んだ。
「いけないマスター、戻って!」
停止していたはずの照明が次々と点灯し始める。予定より七分以上も早い復旧だった。
「な、何!?」
「予定より七分二十七秒も停電の復旧が早いっ、マスター!」
「エヴァ、戻れ!」
「ちっ、ええい、いい加減な仕事をしおって!」
学園結界が再始動し、魔力を封じられたエヴァは雷に撃たれたかのように仰け反り、橋から落下した。
「きゃんっ」
「停電の復旧でマスターへの封印が復活したのです。魔力がなくなればマスターはただの子供、このままでは湖へ……」
「エヴァンジェリンさん!」
誰よりも早く、地を駆ける影があった。
エヴァを片腕で抱き上げ、もう片方の腕から伸びた鎖を欄干に絡めて固定する。士郎だった。
「なっ、空を飛べやしないお前が……っ」
怒鳴りつけようとしたエヴァだったが、士郎の顔を見て言葉を失った。
「……よかった。本当によかった」
万感の思いを込めた、泣き笑いのような呟き。
エヴァはその表情の奥に、彼自身が救われたような色を見た気がした。
「……士郎、痛いぞ。もう少し力を弱めろ」
「あ、ああ、悪い」
「マスターよかった……。士郎さんありがとうございます」
「……士郎さん、よかったぁ」
茶々丸とネギが安堵の声を上げる。
「……なあ士郎、なぜ私を助けた?」
「助けるのに理由なんて要らない。エヴァが死ぬかもしれないのに、助けるのは当たり前だ」
「……何を言っているんだ?」
湖に落ちるだけだぞ、と怪訝そうなエヴァに、士郎は問い返す。
「……もしかしてエヴァは流水、大丈夫なのか?」
「…………なるほどな、そういう事か。ああ、私は流水も大丈夫だ、ただ泳げはせんがな」
そこまで言って、エヴァはふと気付いた。
「おい、お前、一緒に暮らしていて今までそんなことにも気付かなかったのか?」
士郎はあっと声を上げ、何でもないふりをして視線を逸らした。
「ちょっ、おい、貴様こっちを向け!」
吠えるエヴァに苦笑いしながら、士郎は橋の上へと戻っていった。
その様子を見て、明日菜は溜息と共に肩の力を抜く。
「十二時の鐘じゃないけど魔法が解けて……結局シンデレラはエヴァちゃんで、士郎さんが王子様?」
「姐さんそのまんまっすね?」
「……とりあえず、勝負はネギ君の勝ちだな」
「……仕方ない、そういう約束だったからな」
赤いコートにくるまったエヴァが渋々と認める。
「やったー! これで僕の勝ちですね。授業にしっかり出てもらいますからね!」
「確かに今日のは一つ借りだな……」
「安心してくださいエヴァンジェリンさん。呪いのことなら僕がうーんと勉強して、マギステル・マギになれたら解いてあげますから」
甘ったれるな、とエヴァはネギの頬を引っ張った。
「じゃ、まき絵さん達を治しにいかなきゃいけないので、また明日学校で会いましょうね?」
「ああ、安心しろ明日は確実に出てやる」
「あ、ちょっとネギ待ちなさいよ!」
「士郎さん今日はありがとうございました」
「じゃあな二人ともまた明日な」
「ハイッ!」
「おやすみなさい」
二人は駆け出したが、明日菜は不思議そうに振り返っていた。
「やれやれ、やっと騒がしいのが居なくなったか」
「ケケケ、御主人モヤキガマワッタナ」
「うるさいぞ、チャチャゼロ!」
「俺たちも家に帰るか」
「……そうですね」
「そうだな」
「で、エヴァ、歩きにくいんだけど……」
「気にするな」
エヴァのきっぱりとした言葉に、士郎は苦笑した。
「なぁ、エヴァ……」
「ん、どうした?」
「ありがとな」
「……何だ唐突に、お前に礼を言われる事なんてしてないぞ」
エヴァは怪訝そうにするが、士郎はわかっていた。
彼女が自分の意志を汲んで、一線を越えなかったことを。
「もしこの一年でエヴァの呪いが解けなかったらさ、その時は俺も全力で手伝うよ。この一年、楽しんでみないか?」
士郎は優しく微笑んで、エヴァの頭をそっと撫でた。エヴァはその掌を案じて受けながらも、フンとどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。
「お前もあの坊やみたいな事を言うんだな。期待はしてやらんが、その時は今以上にこき使ってやる。覚悟しろ」
「ああ、分かったよ」
士郎は二つ返事で頷いた。
エヴァの視界の外、彼女の背に回した士郎の掌の中で、歪な形状をした一振りの短刀が音もなく霧散した。
先ほど、落下した彼女を縛る結界の拒絶反応があまりに激しければ、たとえ命の危険があろうとも、迷わずその胸に突き立てるつもりだった。
呪いの理そのものを、強制的に断ち切るために。
だが、今はもう必要ない。
舞い散る光の塵は、誰にも知られることなく夜の風に溶けて消えた。
「……なあ士郎」
「ん、どうしたエヴァ?」
吸血鬼だと正しく認識して、それでも躊躇なく自分を助けた男を、エヴァはしばし見つめ――。
「いや、なんでもない。今日はもう帰って寝るぞ」
エヴァは曖昧に笑って、催促するように士郎の赤いコートの裾をぐいと引っ張った。張った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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