枕元のスマートフォンが振動する。目覚ましの役割を与えられた端末は自己主張を強めていくと、直にも彼女は気だるげにそれを持ち上げて機能を停止した。
毛布や衣類、クッションや紙袋などが散らかるごちゃっとした室内。部屋の左右にそれぞれ配置されたベッドのひとつにて、紫色のロングキャミソールを着用したラミアが上体を起こしていく。可憐なドールフェイスも寝起きは冴えない表情をしており、彼女は小さな口を開けて欠伸する。それから背を伸ばしていくと、ラミアは部屋の反対にあるベッドの方へと言葉を投げ掛けた。
「メーさん、朝ですよー。起きてくださーい」
ラミアの呼び掛けに、頭まで布団を被っていた同居人が仕方なく顔を出してくる。その人物は身長165cmほどの現代的な女性であり、腰辺りまでの長さがあるウェーブがかかった
「ふゎ~あ……あー、だる」
「メーさん、おはよーございます」
「ラミアおはー。あーあ、仕事めんどいなぁ」
「しょーがないじゃないですか。そーしないとウチら生きていけないんですから」
「でもさ~、面倒なもんは面倒じゃん? 今日お休みしよっかな~」
「ハイハイ。イイから支度しますよー」
「あいあい。あー、だる」
それからというもの、彼女達はいつもの身支度を進めていった。朝食を食べ、歯磨きをして、洗面台で髪をとかしていく。ラミアは黒色のポンチョに白色のブラウス、黒色のフリルミニスカートに黒色のオーバーニーを身に着け、メーは髪を結ぶことでウェーブがかかったボリューム多めのツインテールを作り出し、膨らみのある大きなシルエットが特徴的である前開きの紺色ロングコートと、ノースリーブでへそ出しの白色キャミソールにアイボリーのワイドパンツを着用していく。
そのあと二人はリビングに移り、鏡を置いたローテーブルに張り付いてメイクに打ち込んだ。リップを塗り、マスカラを塗り、チークや諸々を施していく。ラミアのチャーミングな童顔も色気を帯び、メーの煌々とした化粧は小悪魔的なギャルを演出する。こうして二人は互いに時間ギリギリまで部屋に居座ると、用意ができた瞬間にも急ぎ玄関へ移動し、ラミアは猫耳がついた黒色キャスケットと黒色の厚底ブーツ、メーはベージュのハイヒールサンダルを着用して最寄り駅に駆け込んだ。
大都市『龍明』の景色が流れ往く電車の中、ラミアとメーは並んで席に座っていた。ガタンゴトンと揺られる日常の空間にて、二人はお互いにスマートフォンを見せ合いながら和気藹々と会話する。主にメーが話題を振り、ラミアがそれに反応するというやり取りだった。その最中にもラミアは、ふと目についたネット記事を皮切りにメーとそのような会話を行っていく。
「龍明で行方不明者が続出?? いなくなった人々に規則性は無く、目立った痕跡や前兆も見つからないコトから、警察もヒーロー協会も捜索に難儀している。あまりにも不可解な事件の様子から、世間では神隠しという声も挙がっており……」
「よく分かんないけど、どうせまたカガリビとかに入ってるんじゃないの? 前にラミアが担当した依頼みたいにさ~」
「結局、あの件は
「てかさ、カガリビに入ると運が良くなるみたいなデマが流れたりさ、黄泉百鬼の巣窟を崇拝する宗教も出てきたのがホントにだるすぎだっての。その影響でか、アタシらもカガリビの警備を手伝わされるの意味分からんし、それでカガリビに入ろうとするバカ共の相手をさせられるのもマジで意味分かんない」
「そーいう意味では、超人JUNOの影響力って大きいですよねー。あのヒトが関わった事件はどれも取り沙汰されてますし」
「てかさぁ! ラミア、その前の仕事で超人JUNOの人と仲良くなったんだよね!? いいなぁ~! ねぇアタシにも紹介してよー。気になるから会ってみたーい」
「連絡先は交換しましたけど、あのヒトとお会いするならウチじゃなくてカンキさんに取り次いでもらった方がイイと思いますよ??」
「あー、カンキ君ねー。でもアタシ、カンキ君とあんま話さないじゃん? 真面目なのは知ってるけどさー」
「メーさんほど人見知りしないヒトを、ウチは知りませんけど」
「人見知りじゃなくて、興味無いだけ~。もっと面白い男と仲良くなりた~い」
「あれだけ色んなオトコの攻略にハマってたメーさんが、カンキさんをノーマークですか?? 丸くなりましたねー」
「もう男の攻略は完了したの。あとはゴールに相応しい相手を見つけるだけだから、もう男漁りしな~い」
「とか言って、ヒーロー協会で活躍しているイケメン特集にはお熱じゃないですか」
「それはいちファンとして楽しんでるだけだし! あーあ、空から面白いイケメンでも降ってこないかな~」
「空から降ってくる時点で面白いとは思いますけどね」
「ウケる」
電車を降りた彼女達は、ビルに囲まれた歩行者天国を横断する。そして歩道を5分ほど歩き進めると、直にも見えてきたひとつの建物に入っていった。
総合便利屋事務所『ワールズアパート』。コンクリートで造られた三階建てのそれに進入したラミアとメーは二階に移動し、事務机が並べられたごく一般的なオフィスの空間に踏み入っていく。今も視界の中では私服姿の人々による業務の光景が映し出されており、忙しない様子で電話対応、訪問者との相談、事務作業などに打ち込んでいる。その中でも際立って目を引いたのが、部屋の奥にある大きなオフィスデスクと、そこで電話をしているのっぽの男性の存在感だった。
室内でもサングラスを掛け、トサカのような金髪を横に流した角刈りの面長。灰色のスーツに着崩した黄色のワイシャツという格好で脚を組み、回転椅子で左右に揺れながら会話をする彼の下へとラミアとメーは歩み寄っていく。間もなくして男性は通話を終えると、左指を立てながら陽気な調子で喋り掛けてきたものだ。
「よーぅ! ラミアちゃん! メーちゃん! 今日もお二人さんの美貌が一段と輝いていて、サングラス越しでも火傷するくらい眩しいぜ」
平常運転である荒巻の挨拶に対して、ラミアとメーはそれぞれ「どーもでーす」「あざーす」と受け流すように答えていく。彼女達の返事を聞いた荒巻は満足気な様子で背もたれにドカッと寄り掛かっていくと、次にも後頭部に両手を回しながらそれを話し始めた。
「来てもらって早々に悪いが、ちょうどお二人さんに頼みたい事があってよ」
「ナニか依頼ですか??」
「あァ、簡単に説明するとおとり捜査だな。ストーカー被害に悩んでいる一般女性からの依頼だ。日頃から付き纏ってくる男がいたんだが、どうやらそいつ、依頼主の自宅を特定したらしくてな。今も外で張り込んで待ち伏せしているから、依頼主が怯えて家から出られずにいるって相談を受けたトコだったんだ」
「それってさぁ、警察に通報すれば良くないすか? なんで便利屋のアタシ達がおとり捜査しなきゃいけないのか、よく分かんないんすけど」
「カガリビで起きた先日の一件で、多くの人員が黄泉百鬼の巣窟周辺に割り当てられてんだ。今や警察もヒーロー協会も人員不足。特に今は世論からの厳しい声が相次いでいるモンだからよ、体裁を保つためにも、カガリビの警備をはじめとした黄泉百鬼の対策にリソースを割いてんのさ。結果、民事事件まで手が回らなくなっているのが現状だな」
「うへぇ……なんか人類が追い詰められてきてるカンジがして萎えてくるんだけど……」
「そーいう時だからこそ、ウチら何でも屋の出番ってコトじゃないですか?? 要は、警察に代わってウチらが犯人を捕まえてくればイイんですよね。犯人も待ち伏せている関係でほぼ居場所が分かっているよーなモンですし、ならさっさと終わらせて依頼料を貰ってきましょー」
そう言って踵を返したラミア。メーも気だるげに天井を仰ぎながらラミアの後をついていこうとするが、二人に対して荒巻が早急に待ったをかけてくる。
「ちょい待ちな! オレちゃんからお二人さんに渡しておきてェモンがあるんだ」
「何ですか?? 臨時ボーナスですか??」
「ちゃっかりしてるねェ、ラミアちゃん。んまァ、オレちゃんとしてもそいつを渡してやりてェ気持ちは山々なんだがな。今日は“こいつ”を渡しておこうかと思ってよ」
荒巻がデスクの下をごそごそと漁り、二つの小さな玉を取り出して二人に見せていく。ラミアとメーがそれを不思議そうな目で眺め遣る最中、荒巻は二人それぞれひとつずつ配りながら神妙な面持ちで説明し始めた。
「こいつは、黄泉百鬼が苦手とする特殊な光を放つ閃光玉だ。投げ付けると破裂して、一瞬だけ強い光を発して消える使い切りタイプ。いざという時に目くらましの感覚で使うと、どんな黄泉百鬼でも足止めくらいはできる効力を持っている」
「どーも。ですけど所長、こーいった道具の類はそれこそ一般市民の方々が携帯しておくモノだと思いますけど??」
「アタシらにはヴィジョンがあるもんね~。戦える力があるのに、わざわざ道具なんて使う場面あるかなぁ?」
「まァ、用心するに越したことはねェからよ。特に最近は龍明内で行方不明者が続出しているときた。世間では神隠しなんて言われちゃいるが、口を揃えて話題に挙げている多くの連中は、こいつを他人事と捉えている節がある」
「もしかして、ウチらも神隠しされるかもしれないってコトですか??」
「でもさ~所長、これから仕事する場所って龍明の街中っすよ? 黄泉百鬼の巣窟ならまだ分かるけど、黄泉百鬼が出ない龍明の中でここまでするのはさすがに考え過ぎっていうか」
「いいから持っておけって! ラミアちゃんとメーちゃんの無事を祈るオレちゃんからのお守りだ! ここはひとつ、オレちゃんの自己満足に付き合ってくれねェか? な?」
「まー、タダで頂けるモノは頂いていきますよ。ありがとーございます」
「お守りもロマンチックでいいけどさぁ、今度は所長の奢りで焼き肉でも食べに行きたいなぁ~って思ったりもして」
「分かった分かった! 約束する! その約束のためにも、今日はこいつを持っておけって! 急に呼び止めちまってわりィな。じゃ、仕事の方は頼んだぜ」
複雑に入り組んだ広大な住宅街。上空から眺めると迷路のように角張った通路や敷地の中、単独で物陰に隠れるラミアが耳元にかざしたスマートフォンへと喋り掛けていく。
「コチラの用意はできました。メーさんの方はどーですか??」
『こっちもオッケー。準備万端~』
「じゃー、行きますよ。まずは犯人を割り出して、確証を持ち次第に取り押さえます」
『ゴーサインが出たら“デコイ”を歩かせるから、あとはラミアの方でよろしくね~』
ラミアは精神を集中し、異能力ヴィジョンを発現させた。
彼女の体を発射台とし、金箔混じりの漆黒となって上空へと飛翔した事象的な体表の大きな鳥。それはカラスに近しい形状を象り水平に飛行し始めると、直にもとある古いアパートの真上で旋回し、獲物を探るような鋭い眼差しで地上の様子を眺めたものだ。
塀の一角。正面のアパートからちょうど姿を隠せる通路沿いで、不審な男を発見する。彼は時折とアパートの敷地を覗き込み、人の気配や物音を察知すると塀に姿を隠してやり過ごすという挙動をしていた。あからさまに怪しく見える様子から、ラミアは確信を得ると共にメーへと報告した。
「対象の不審者を見つけました。カレはアパートの正面にある塀で、依頼主の住まいを見張ってます」
『こわ~……。そんなヤツに今から尾けられるのイヤなんだけど』
「直ぐに捕まえますから、だいじょーぶですよ。次はメーさんの出番です」
『あいあい、じゃあちょっくら一仕事しますか』
場面はメーの視点に切り替わり、彼女はアパートの裏手にある塀の傍で佇立しながら精神を集中させていく。
次にも背後に出現したのは、ステンドグラスの如き精巧で鮮やかな体表を持つ等身大の人型ヴィジョンだった。ガラス細工のように脆く透き通ったそれはマネキンを彷彿とさせ、ピンク色を主体としたパステルカラーの数々が自己主張を強めている。続けてメーはスマートフォンの画面に女性の写真を映し出していくと、彼女のヴィジョンはみるみるうちに画像の女性と瓜二つの外見になり、性別、身長、服装まで完全に模倣した。
メーのヴィジョンはそのまま浮き上がり、アパートの塀を越えて敷地の中に降り立つ。そして何食わぬ顔でアパートの正面へと移動すると、敷地を出て、面している道沿いを適当に歩き出した。
依頼主に模倣したメーのヴィジョンが姿を現すと、隠れていた男性がひょっこりと出てきて尾行し始めた。メーのヴィジョンから付かず離れずの距離を保ち、塀や電柱、自販機などに隠れながら女性の後を追い続ける。その様子を鳥のヴィジョン越しに上空から見張っていたラミアは、彼が依頼主のストーカーであることを確信すると同時に自身のヴィジョンを急降下させて男にけしかけた。
音も無く迫る高速の漆黒が、男の周囲をぐるぐると回り始める。ヴィジョンの尾からは一筆書きのような黒色の線が伸びており、それを男に巻き付けることでラミアは瞬く間に彼を拘束してみせた。何が起こったのか分からず、気が付いた時にはバランスを崩して路上に倒れ込んでいた男。驚きの声を上げながら周囲に助けを求めたが、歩み寄ってきたラミアの存在に焦りを覚えたのか顔を真っ青にして彼女を見上げていたものだ。
「便利屋事務所ワールズアパートのモノです。今回、あのアパートにお住まいの方から依頼を受けまして、ストーカー疑惑のあるアナタを確保させて頂きました」
「け、警察じゃないのにこんなことをしていいと思っているのか!? これは立派な暴行罪だぞ! 訴えてやる!!」
「生憎ですけど、カガリビの一件でウチらは警察から多大な信用を得るコトができてましてねー。民間企業にしては実力者揃いというのもあって、最近は懇意にやらせてもらってるんですよ。今のワールズアパートになら警察も耳を貸してくれますから、そこでアナタの疑惑も明確になるでしょーけど。今までコッソリと尾けていた依頼主“ご本人さん”の立ち会いの下で、アナタは自身の潔白を晴らせますか??」
男はふと顔を上げて、尾けていた女性のいた方角へ振り向いていく。だが、そこには一直線に続く無人の通路のみが広がっており、女性の姿は忽然と消え去っていた。
「は、嵌めたな!? 詐欺罪で訴えてやるぞ!!」
「ハイハイ、続きは警察署でお願いします。もしもしー、警察の方ですかー?? 便利屋事務所ワールズアパートのラミアというモノなんですけどー」
男が大声で喚き散らす中、ラミアは淡々と通報の電話をした。閑静な住宅街に響き渡る汚い罵声の数々が周囲の人々を何事かと集めていく光景の中、ラミアは淡泊な様子で通報を終えるとメーへの呼び掛けを行った。
「メーさん、ストーカーを捕まえましたよー。もー出てきてもらってもだいじょーぶなので、カレを連行するの手伝ってくださーい」
依然として、その空間には男の罵声が響き続ける。辺りの人々も男に不信な目を向けながらひそひそと言葉を交わしていく最中、ラミアは不意に巡ってきた違和感と共にもう一度呼び掛けを行っていく。
「メーさん?? もー終わりましたよー。ヴィジョンの能力も解いてイイですし、ウチひとりじゃカレを運ぶの大変なので手伝ってくださーい」
それでもメーからの反応は返ってこなかった。ラミアはすぐさまスマートフォンで電話をかけるが、プー、プーという音が鳴るだけで通じない。
ラミアはヴィジョンを上空に発出し、周辺を捜索した。囮として依頼主に変身していた彼女のヴィジョンはどこにも見当たらず、本体が待機していたはずのアパートの裏手にも彼女の姿はない。今までにない不可解な出来事に直面し、ラミアは半ば放心に近い困惑を浮かべて立ち尽くしていた。
直にも、彼女の脳裏に“ある言葉”が
理解に至った直後、ラミアは激しい動揺を覚えながらも最善の手段を考えた。そして、真っ先に思い浮かんだ“存在”と共に、彼女は一刻を争うと言わんばかりにスマートフォンの通話画面を開いてSOSの発信を飛ばした。
――神隠し。近頃の龍明で噂される、正体不明の異常現象。
現在、歪な異空間の中でメーはその真相と対峙していた。
全長2mほどの球体であり、剥き出しになった全身の筋肉と梅干しのような隆々とした凹凸の
異形もさることながら、自身が囚われた異空間にも彼女は意識を向けた。それはサイケデリックな色合いに満ちた世界であり、冥界や地獄とはまた異なる歪な狂気で構成されていた。先程まで居た外界とは孤立した、全く異なる次元。無限に広がる異常な領域に彼女は叫び上げそうな程の恐怖に苛まれる。
だが、幸いにも理性は保てていた。メーは即座に人型ヴィジョンを出現させると、今にも捕食せんと迫る異形に対して渾身の右ストレートを繰り出した。
「オラァッ!!!!」
手応えは十分。異形の頬に殴り付けた拳を皮切りに、メーのヴィジョンは両拳のラッシュを叩き込む。
だが、分厚い筋肉を持つ異形は次第にも打撃に耐性を持ち、反撃の噛み付き攻撃を行ってきた。腕を引っ込めて咄嗟に回避したメーのヴィジョンは再び右腕を振り被るが、その腕が意図せず動きを止めたことで彼女は速やかに視線を投げ掛けていく。
歪に漂う狂気の異空間。どこからともなく突如と生えてきた蒼白の人間の手が、ヴィジョンの右腕を掴み上げている。メーはすぐさまヴィジョンの左拳で殴り付けようとしたが、ヴィジョンの拳は蒼白の手をすり抜けたことで虚しくも空を切る。
次の時にも、異空間から次々と伸びてきた蒼白の手がメーのヴィジョンと本体に掴み掛かってきた。ヴィジョンはあっという間に全身を拘束され、メーも頭、肩、胸、腹、腰、両脚と掴まれて身動きが取れなくなる。
後退することもままならず、前方からは異形の巨大な口が迫ってきた。これにメーは涙混じりの悲鳴を上げる他なかったが、ふと巡ってきた判断と同時に彼女は無我夢中で右腕を振るい、“それ”を異形へと投げ込むことでなんとか首の皮一枚を繋いでみせる。
それは、黄泉百鬼が苦手とする小型の閃光玉だった。目の前で炸裂した強烈な光を受けて、異形は怨念のこもったおどろおどろしい絶叫を上げながら退散する。
閃光の眩い明かりが視界を覆った瞬間、メーは宙に投げ出される感覚を伴った後に地面へと落下した。縦にゴロゴロと転がる彼女は、急いで顔を上げて状況を確認していく。
狭い通路に周囲の塀、眩い日差しに燦々と輝く太陽。見慣れた青空の下で、未だ強く打ち付ける心臓の鼓動。彼女は抱え込んだ感情のまま地面を殴り付け、冷や汗と涙を流しながら必死の形相でそれを叫んだ。
「クソッ!!! クソッ!!!! ざっけんじゃねぇ!!! なんで、なんでアタシがこんな目に遭わないといけないんだよ……ッ!!! てか、龍明の街ん中に黄泉百鬼がいるなんて聞いてないんだけど……!? ホントに最悪……! これだったら、マジで今日休めば良かった……!!!」
やり様のない感情が彼女を支配する。だが、メーはすぐにも自身の言葉に対して首を横に振りながらそれを呟いた。
「……バカじゃないの、アタシ。これで今日休んでこの仕事をラミア一人にやらせてたら、それこそマジでヤバかったじゃんか……ッ。とにかく、今はあいつから逃げないと……! 所長に連絡? ラミアに電話? いや、そんなことしてる暇がない。あいつはまだ近くにいるだろうから、今はここから離れないと」
龍明の住宅地に現れた蒼白の手。透明な時空の裂け目から伸びるそれは高所から地上を見下ろすと、間もなくして住宅地を駆け抜けるメーの姿を捉えた。
こちらに背を向け、ひたすらにダッシュする彼女。瞬間にもメーの足元から蒼白の手が現れ、無数のそれらが彼女の脚を掴んでいく。
これに対してメーは、動揺を見せるどころか蒼白の手を無視して前進しようとした。だが、蒼白の手に掴まれた脚は微塵にも動かせず、敢え無くその場に固定されてしまう。
何もない空間から、次々と現れる蒼白の手。それらがメーの全身を掴んで異空間に引き摺り込もうとした時、彼女の違和感に蒼白の手は遅れて気が付いた。
彼女の掴まれた部位からは、ステンドグラスの体表が覗き込んでいた。脆く鮮やかな装飾が日差しを反射する中、ふとメーの体は浮き上がり、まるで朧の如くフッと彼女は消失する。
「よし! 時間は稼げた!」
ヴィジョンとは真逆の方向へ走る本体のメーは、自身の下に戻ってきた異能力に手応えを感じていた。
自身の姿に変身させたヴィジョンを囮にする事で、本体が逃走する時間を稼ぐ誘導作戦。彼女の異能力ならではの用途にメーは希望を抱き始めたものだが、次なる分身を作ろうとヴィジョンを繰り出した直後にも再び絶望を味わわされた。
既に、本体の脚に蒼白の手が絡みついていた。
空間を無制限に移動できる行動範囲を前に、実体を持つ生物の逃走など決して許されない。メーは必死の形相を浮かべながらヴィジョンで攻撃を行うが、やはり蒼白の手はすり抜けてしまい彼女の抵抗が通用しない。
すぐにも空間のあちこちから蒼白の手が現れ、メーとヴィジョンに掴み掛かった。
全身を拘束され、完全に身動きを封じられる。そして沈み込む感覚と共に足元が異空間に呑まれ始めると、メーは前方に広がる外界の景色を見つめながら無念の涙を流した。
やだ……! やだ……! 死にたくない……!!
縋る希望も無い恐怖の深淵。人知れず消え往く儚さに、彼女はせめてもの救いを求めて叫び上げた。
「誰か……! 誰か助けてぇぇぇ!!!!」
真横を突き抜ける疾風。強靭な蹴りによる黒き一閃が迸ると同時にして、虚空すら消し炭にする重厚な衝撃波が無数の魔の手を悉く穿つ。
途端に軽くなった全身は、メーの脱力と共に天を仰いで倒れ込む。それを優しく受け止めたのは、分厚く束ねた乳白色のポニーテールを揺らめかせる長身の美麗な女性だった。
「素直で華やかな人」
「へ……?」
「安心して頂戴。貴女の未来を、私が紡いでみせましょう」
二人の周囲を、鳥を模したラミアのヴィジョンが羽ばたいていく。ポカンとするメーは未だ事態を呑み込めずにいたものだが、そんな彼女をユノはゆっくり立たせていくと、間もなくして前方から迫り来る蒼白の手へと悠然な足取りで向かっていった。
ユノが右手を振り上げる。そうして一瞬だけ“神の視点”を遮ると、次にも彼女は深紅のロングコートに身を包む仮面の人物へと変貌を遂げていく。
掴み掛かるべく真正面から襲い掛かってくる蒼白の手。実体を貫通する虚空の性質を持つそれらだが、JUNOが両腕に装着したガントレットを振るうと蒼白の手は
一切もの手段が通用しない規格外の存在を前にして、蒼白の手は恐れをなすように引っ込み始めた。それらは手前から奥に向かって順番に消えていくのだが、予感か直感か、JUNOは駆け出すと共に撤退する蒼白の手らを追い抜き、何もない虚無の空間へと右手を振り被ると同時に“何か”を掴み上げていく。
そして次の瞬間にも、JUNOが鷲掴みにして引き抜いた何もない空間から、メーを食らおうとした球体の巨大な異形が引っ張り出されたのだ。
梅干しのような隆々とした凹凸の皺を掴み上げ、それを高らかに掲げていくJUNO。掴まれた異形は思わぬ出来事に焦りを見せながらも急ぎ彼女を食らおうとする。だが、その刹那にも開かれた口内へ怒涛のラッシュが叩き込まれた。
ガトリング砲の如く絶え間ない拳の雨が襲い掛かる。そのひとつひとつに破壊的な質量が込められており、固体を、実体を、存在を確実に破滅させる意志が感じられた。四つに枝分かれした舌が波打ち、敷き詰められた歯は中央から端々まで砕け、破片が飛び散る口内と共に打撃の衝撃で持ち上がった異形の体は、最後に振り抜かれた右ストレートの一撃を受けると時が止まったかのように暫し空中に滞在し、硬直する。
殴り抜けた姿勢のJUNOは、そのまま踵を返すように異形へと背中を向けていく。同時に持ち上げていた右腕を勢いよく下げると、瞬間にも背後の異形は爆発するように四散した。
轟音を立て、破裂した巨体から邪悪な靄が溢れ出す。そうして立ち込めた禍々しい邪気と降り注ぐ太陽光による対比、何よりも逆光で陰りを帯びたことで圧巻の神々しき風格を醸し出すJUNOという光景を間近で目撃したメーは、ただただその場で立ち尽くし、脳と胸に熱いものを覚えながらその“英雄”をまじまじと見つめたものだった。
住宅街の狭い通路に、数台のパトカーが停められている。そして今もストーカーの男がパトカーに乗せられて連行されていく光景の傍ら、ふとラミアは自身の名を呼ぶ声へと振り返ると共に駆け寄ってきた親友を快く懐に迎え入れた。
飛び込むように抱き付いたメーと、それを両腕で受け止めるラミア。勢いのあまり横に一回転しながら抱擁した彼女達は、再会の喜びを心から分かち合っていた。そんな二人の水を差さないようユノは静かに歩み寄ると、直にも気配に気付いたラミアは顔を上げながら感謝の言葉を口にしてくる。
「どーも、ユノさん。前回といい今回といい、ありがとーございました。連絡先を交換してあったコトを思い出しまして、急なお電話にも関わらず対応して頂けてホントに助かりました」
「気にしないで頂戴。友人を失うという経験は、何にも代え難い苦痛を伴うものだから。貴女の助けになれたのならば幸いよ。取り返しのつかない最悪の未来を防ぐことができて、本当に良かったわ」
二人の会話を耳にして顔を上げたメーは、ユノに感激の眼差しを向けていく。それから興奮のあまり言葉を詰まらせながらも、たどたどしい様子で彼女は喋り出してきた。
「あ、あの! ありがとう、ございました! その、やっぱり勘違いとかそうじゃなくて! えっと、超人JUNOご本人様、だったりするんですか?」
「あの姿に関しては、貴女の言う名称で活動しているものよ。私の名はユノ、よろしく」
「マジの本物ですか!? うはー、やば! カッコいい……! あ、アタシはメーって言います! よ、よろしくお願いします!!」
メーはユノから差し出された手を即座に取ると、感極まった調子で上下にぶんぶん振りまくった。その目は憧れというフィルターを介しているのか希望の輝きに満ちており、湧き上がる彼女の高揚はもう誰にも止められない。
メーのキャッキャとはしゃぐ様子に、ラミアはある意味で慣れている淡泊な視線を向けながらユノにそれを告げたものだ。
「あーあ、もーユノさんにぞっこんですねー。メーさんは推しができるとこんな風になっちゃうんです。基本的にイケメンをスキになる面食いなんですけど、ユノさんに助けて頂いたコトで脳を焼かれちゃったんでしょーねー」
「私は彼女からの応援を心から歓迎するわ。研ぎ澄まされた煌めきは彼女の魅力であり、彼女そのものでもある。私には再現できない、人々を輝きで惹き付ける華やかな人柄。そんな素敵な女性とこうしてお近付きになれた縁を、私は大切にいたしましょう」
「え、なになに!? 何言ってんのか全然分かんないけど、もしかして褒められてる!? だったらチョー嬉しいんだけど!! ねぇねぇユノさん、連絡先交換しないですか!? それと都合の良い日には一緒に映画館やデパートにも行って遊びたいんですけど――!」
ユノの手を取り、持ち前の明るさでぐいぐいと迫るメー。ユノも満更ではない様子で理想の救世主を演じていく最中、ラミアは呆れ気味に息をつきながらも安堵した面持ちで二人のやり取りを眺めていたものだった。