フー……。フー……。
隣でひかりが湯気の立ち昇るココアに吐息を吹きかける。それでも熱かったのか、一口だけ付けてすぐに彼女は顔をコップから離した。それでも彼女は幸せそうに唸った。
「うーん。美味しい」
ひかりがお気に入りにしているクリーム色のダウンジャケットが衣擦れの音を出すと共に、体重を預けた彼女の椅子が耐えるように鳴った。静かな冬のキャンプ場、それも真夜中となると、その音は澄んだ空気に乗っかってとても大きく聞こえた。
「舌火傷してない?」
「大丈夫だよー」
ほんのり頬を赤くしたひかりの声は少し高く、機嫌が良いのが伺えた。緩みまくった彼女の顔に俺の頬も自然と緩む。俺は彼女がそうしたように、温めたコーンスープを息で冷まして、湯気を吸いこんでから俺も口を付けた。お互いの漏れた吐息が白く染まって、湯気と共に消えていく。
「悪いねー
ひかりの声に返事を返すみたいに、目の前で揺らめく焚き火が薪をパチパチと弾けさせた。小さな火の粉達が宙をふらふらと舞って夜空へと昇っていく。焚き火用のトングで薪を一つくべてやると、焚き火もご馳走がやってきたと喜ぶようにまた少しその勢いを増して、トングを持つ手と俺の顔を優しく熱した。
「リハビリ初回くらいはな。でも、問題なくコップも持てているみたいだし、次回からは交代な」
「わー、突然義手の調子がー」
手に持ったコップを俺との間に置いた小さなテーブルにひかりは置いた。なるほど、本当にもうほとんど支障は無さそうだ。
「あー久しぶりのキャンプ楽しいー。私が事故ってからもう一年以上経っちゃったからね」
右手の義手に左手で触れながら、ひかりがそうぽつりと溢した。自然と俺の目も義手へと向いた。目立ちにくいが、体温の通った生身ではないとそれは本能的に分かってしまう。感覚的に気持ち悪いのか、未だにひかりは義手に俺が触れるのを避けていた。
「今だから気軽に話せるけど、あの時は本当に笑い事じゃなかったからな」
「その節は大変ご心配をお掛けしまして。他に障害が残らなかったのがせめてもの救いかな。おかげでこの子に集中できたし」
ひかりが義手で再びコップに手を伸ばし、掴む。それを持ち上げて、また自分の口へと運んだ。
「リハビリ、よく頑張ってたよな」
「当たり前じゃん。またキャンプ来たかったもん。それに、誓矢にも迷惑かけたくなかったし」
笑っていたが、明らかにひかりの顔に影が落ちた。俺は嘆息混じりに言った。
「おい、前も言ったけど、迷惑だなんて思わないし、迷惑くらいかけてくれよ」
「……うん、そうだね。ごめん、ありがとう」
ひかりはそう言って冬の夜空を見上げた。俺もそれに従うと、東京では絶対に見られない天然のプラネタリウム、いや、本当の星空が視界一杯に広がった。色取り取りの星々によって隠され、見慣れたオリオン座すらどこにあるのか分からなかった。白い感嘆の息を漏らすと、吸い込まれるように星々の中へ溶けていった。
「いつ来てもさ、この景色は格別だね。また来れるようになってよかった」
「……初めて会った時も、ひかりはこうしていたよな」
一度またひかりの方に顔を向けた。空を見上げたままの彼女が、もう随分と過去になった記憶と重なる。初めてのキャンプで見かけた彼女の真似をして、この空と出会って、感動の声が出てしまった俺に彼女が声を掛けてきた。「綺麗ですよね」っと。焚き火に照らされた笑顔は、見上げた星空以上に明るかったのを覚えている。素直に一目惚れであった。
再び俺は星空を見上げた。初めて会った日よりもずっと近くでまた彼女の声が聞こえた。
「誓矢のキャンプスキルも最初より上達したもんだ」
「当たり前だろ。もう何回目だと思ってるんだよ」
「十回から先は数えるの止めた。誓矢はまだ数えてるの?」
「いや、四回目で止めた」
理由はその時から俺達の関係が変わったからだ。ずっとこうしていたいという願掛けも込めて、俺は数えるのを止めたのだ。
「何それ? 私より早いじゃん」
「数えてもしょうがないと思ったからさ。……数えると言えば、流星群は見えるかな」
今日はふたご座流星群が極大になる日だった。それを狙って、今日のキャンプを企画していた。
「こうしていればいつか見えると思うよ。誓矢は何かお願い事でもするの?」
「お願い事というか、願掛けが正しいかな?」
「へー。……なんの願掛け?」
なんとなく、ひかりの声はどこか期待するように聞こえた。
すると、星空の真ん中から一筋、一際強い光が流れていった。流れたと思うやすぐに消えてしまったけれど、俺の背中を押すには十分だった。
「ひかり」
そう呼んで彼女の方に顔を向ける。ひかりもゆっくりとこちらを向いた。紅潮した頬で柔らかく微笑んでいた彼女は、今まで二人で見た星空の全てを合わせても、釣り合えないくらい綺麗だった。
「結婚してください」
さっきの流れ星が現れて消えるのと同じくらい、それくらい一瞬の静寂は、ひかりの微笑みが深まった事で終わった。時間が動き出して心臓の高鳴りがよく分かった。隣ではパチパチとやかましく焚き火が鳴っている。
「……よろしくお願いします」
ゆったりと首だけでひかりはお辞儀をした。俺達を祝福するように、パチリと焚き火が一際大きく薪を弾けさせた。
また沈黙が流れてしまう。プロポーズを終えてからの流れは何も考えていなかったし、嬉しさとか幸せとかそういうもので胸が一杯の俺に回る頭は残っていなかった。
「えっと……、そうだ、指輪」
しどろもどろになりながら、ポケットに忍ばせていた指輪の箱を右手で掴んだ。すると、ひかりが突然立ち上がった。
「どうした?」
「いいから、そのままにしてて」
そう言うとひかりは俺の前まで来ると、今度は背を向けた。
「よいしょ!」
「うわ!」
突然、ひかりが俺の膝に思い切り腰かけてきた。身長差があるからなんとか受け止めるが、俺の椅子は辛いのかギギギと軋む音を出した。
「えへへ。やっぱり温かいな、誓矢は」
照れたような声でひかりが言った。もこもこのダウンジャケットを通して、彼女の小さな温かい体を感じた。
「ひかり、どうしたんだよ」
「今日はこうさせて。一番温かい場所で、好きな人と同じ星空を見ていたいの」
そう言うとひかりはまた夜空を見上げた。少しばかり遅れて、俺も彼女と同じ空を見る。今にも降ってきそうな満天の星空が、静かに俺達を出迎えた。溶けていく白い吐息が俺のすぐ隣からも昇っていく。また一筋、流れ星が俺達の上で輝いた。
「ひかり。ずっと、愛してる」
「うん。誓矢、私も愛してる。大好き」
いつの間にか指輪の箱を掴んでいた手は、反対の手と一緒にひかりの体を強く抱き寄せていて、彼女の体温をより強く感じた。すると俺の手にひかりの両手も上から重なった。
「誓矢。痛くない? 冷たくない?」
不安そうなひかりの声が聞こえた。それでようやく分かった。彼女が義手に触れさせなかったのは、これを気にしていたのだ。間違っても俺に嫌な思いをさせたくなかったのだ。
「大丈夫。温かい。ひかりの手なんだから」
焚き火のおかげだろうか、重ねられたひかりの義手は、彼女の左手と同じくらい温かかった。俺が答えると、ひかりの安心したような白い息がまた立ち昇った。