修道士や文官がせわしなく訪れる執務室。
紙の擦れる音と、羽ペンを動かす音が絶え間なく続く。
火傷しないように気をつけながら、カップを手に取る。
濃い黒の液体にスプーン一匙分の砂糖を入れた。
ふうふうと息を吹きかけて、テフを一口飲む。
フロルがイヴァン公に初めに習ったのは自己分析だ。
スプーン一匙の砂糖が妙に甘く感じた時。
それ以上は正常な判断能力が落ち始める。
この国、何でもかんでも王に押し付け過ぎじゃないか?
王は奴隷じゃないんだぞ。
もちろん口に出すことはなく、ちょうど、新人の文官だけの時を狙う。
フロルがガタンと椅子を鳴らして、立ち上がった。
「休憩だ!」
文官がなにか粗相をしたかと驚いた隙に、フロルは窓から飛び出した。
マリアンヌの耳にドタドタと足音が聞こえて、バタンと厩舎の扉が開いた。
肩で息をするフロルがきょろきょろと辺りを見回してマリアンヌを見つけた。
「はぁ……はぁ……げほっ、げほっ」
「大丈夫ですか?フロルさん」
愛馬ドルテの毛づくろいをやっていた手を止める。
「ドルテも一緒か、ちょうど良かった」
フロルがずんずんとマリアンヌに近づくと、ひょいっと横抱きにした。
「きゃっ、ふ、フロルさん……!」
こうして強引に触れられたのは、フレンを救出した時以来だ。
なにがなんだかわからなくて、マリアンヌは身体を縮こまらせるしかない。
その間にフロルがドルテの引き手を外して、マリアンヌを抱いたまま器用に跨った。
ドルテが首を振って嫌がるが、腹を軽く蹴られて、仕方なく厩舎を飛び出した。
「へいかー!へいかー!」「また陛下が逃げ出されたぞ!」「追え!脱出されるぞ!」
修道士や文官が厩舎の角から顔を見せる。
そうしてようやくマリアンヌはなにが起こっているか気づいた。
またフロルが仕事を抜け出してきたのだろう。
ドルテは追いかけてくる者たちを尻目に加速し、正門へ向けて駆けた。
商人たちや、鍛冶屋の前を通る。
「陛下、またセテス様に怒られますよ」
「承知の上だ!」
呆れた表情を浮かべる門番の真横を抜けて、ついに大修道院から脱出を果たした。
そのまま止まることなく城下町を駆け下りていく。
「強引に連れ去って悪いな。
外に出るにも護衛が必要って言うからさ」
もちろん、護衛がいれば大修道院から抜け出していいという意味では絶対にない。
マリアンヌが伺うようにフロルの顔を見上げた。
「え、えっと……本当に、私でいいのでしょうか?」
「嫌だったか?」
マリアンヌは驚いたように目を瞬き、それから恥ずかしそうに視線を落とした。
二人の雰囲気に文句を言うようにドルテが首を振った。
「あっ、ドルテが、ヴァレリアが凄く怒ると……」
「ああー、頭から抜けていたな……」
すぐ真後ろから蹄の音が聞こえてきて、フロルが慌てて振り返る。
そこには脱柵してきた、怒り心頭のヴァレリアが追いかけてきていた。
「急げ、ドルテ!このままだとお前も巻き込まれるぞ!」
ドルテが無茶を言うなと嘶き、いっそう力を入れて城下町を抜け出した。
蹄の音が柔らかな土を踏み、草花の香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。
大修道院から少し離れた山裾に、波打つ鮮やかな草花が生い茂っていた。
白亜の城塞と山々が美しく景色を彩る中で、フロルがゴロゴロと転がる。
その背中にはしっかりと馬の蹄の跡が残されている。
当然逃げ切れるわけもなく、ヴァレリアから制裁を喰らったのだ。
フロルの背中にマリアンヌが手を当てて回復魔法の光を施した。
「……大丈夫ですか?」
「平気平気。
ヴァレリアも力加減はわかっているから」
フロルが仰向けになって、ゆっくりと上半身をあげた。
景色に魅入って、思わず感心した息が漏れる。
一陣の風が吹いて、髪を押さえたマリアンヌがフロルと同じ方向を向いた。
眼下に広がる緑の絨毯のような丘陵。
アミッド大河へと続く小川の流れが陽光を反射して煌めいていた。
二頭の馬がその間を駆けていく。
「きれい……」
ぽつりとマリアンヌが呟いた。
「私、こんな風に誰かと出かけるなんて、
想像もしていませんでした。
いつも、足元ばかり見て……俯いてばかりで、
景色を楽しむこともなかったんです」
フロルが立ち上がって、膝の汚れを払った。
「一人も悪くないが、
誰かと一緒に出掛けるのも良いものだろ?
マリアンヌにはそれを知って欲しくて……」
初めて父と外に出掛けた日を、今でもフロルは思い出せる。
馬車の車輪が深く抉って、雪と泥の混じった、教会までの短い道。
吐く息は白くて、かじかむ手に息を当てるとほんのり熱がこもる。
見上げた父の顔は険しく、周囲をきょろきょろと警戒していた。
なんだかその様子がおかしくて、思わず笑ってしまったのを覚えている。
今考えると父には悪いことをした。
フロルの昔話を聞いていたマリアンヌは、やがて小さく頷いた。
「また、今日のように、私を連れ出してくれますか?」
「もちろん。
君のためなら俺はいくらでも仕事を放りだそう」
フロルが指笛を吹くと、ヴァレリアたちが止まって顔を上げた。
二人の穏やかな逃避行は鬼の形相をしたセテスに見つかるまで続いた。
★
訓練場で、ロナート卿に見守られながらフロルが剣を握る。
樫と革でできた、オリーブの葉の銀細工が施された鞘。
逆手で柄を握り、剣をゆっくりと抜いた。
日光に反射して厚みのある剣身が黒真珠のように艶めかしく輝く。
根元のリカッソに指をかけ、重心を確かめる。
鋼でもミスリルでもない魔道の合金。
闇に蠢く者の技術が手に入ったので、試作品を作らせてみた。
フロルが腰をわずかに落として、剣と地が水平になるよう構えた。
見えざる敵に向かって、突き、払い、捻る。
敵の剣を素早く跳ね上げ、半歩踏み込んで袈裟斬りへ。
幻影の槍を払うと、円を描くように加速し始めた。
銀の軌跡が空気の面を切り裂き、鋭い風切り音が連続して響く。
実戦には向かない美しく魅せるためだけの剣舞。
動と静の連続は、人離れした怪力だからこそなせる技だ。
ロナートは思わず息を呑み、目を細めて見入った。
動きを止めたフロルが一呼吸おいた。
「うん、振り回されず、軽すぎない。重心と長さも良い。
もう少しバネが欲しいが、これは素材の問題だな」
「お見事です、陛下。
剣舞で陛下の右に出る者はおりませんな」
「言い過ぎだ」
フロルは照れくさそうに首の後ろを掻いた。
白鷺杯優勝者の面目躍如だ。
格好良く見せることに、フロルは人一倍気を使っている。
兵を従わせる有効な手段になるからだ。
「アリアンロッドの職人はまた腕を上げたな」
「近頃は武器ばかり作らされていると嘆いておりましたぞ」
「なんだ。次は鍋でも注文するか」
「はっはっはっ!陛下に相応しい鍋を作らせるとしましょう」
フロルが手元で剣をくるりと回し、魔力を流していく。
すると剣身が仄かに紫色の輝きを放ちだした。
魔力によって形成される刃は重装の鎧を貫いて殺す。
「奴らの所業は許せるものではないが、技術だけは素晴らしいな。
ミスリル並みの剛性と、魔法水晶以上の変換効率を誇るとは」
剣の腹を手の甲で叩くと、鋼鉄とは違う、重い反応が返ってくる。
「ただ、研石はどうするんだ?」
「初めはミスリルを使うことになるでしょうな。
仕上げは油砥石を使うとよろしいかと。
ああそれと、柔軟性は乏しいため、
刃は厚く強めに、鋭さを求めると折れるそうです」
「わかった。
ではありがたく貰うとしよう」
フロルは嬉しそうに剣を鞘に収め、腰に帯びた。
「さて、本命を見せて貰おうか」
わくわくした様子を隠しきれないフロルに、ロナートが頷いた。
白い布で覆われた長物を膝の上に置くと、丁寧に布を外していく。
現れたのは馬上槍のように、穂が長めに作られた黒い槍だ。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「これが、インドラの矢か」
「技師曰く、現状では作れない代物だそうです」
「だろうな」
停滞していた地上と、闇に蠢く者が潜んでいた地下では埋めがたい技術格差がある。
早速フロルが柄を握って魔力を流し込むと、槍の穂にバチバチと雷が迸り始めた。
だがインドラの矢の真価はこれだけではない。
大きく息を吸って肺を膨らませ、右足を引く。
銛のように構えたインドラの矢を全力で矢用の的に投げつけた。
空気が焼ける匂いが漂い、耳をつんざく雷鳴と共に的が砕け散る。
そして、次の瞬間──バシュッ!と特徴的な音と共に手元に槍が出現した。
空気を掴むように開いた手に、重みが一瞬で戻る。
「おお!本当に手元に戻ってきた。
転移とはまた違うんだよな?」
「はっ、再構築のようなものかと」
「ほー……良いなあ」
原理的にはシェズとラルヴァの剣の原型なのだろう。
あれと違い、意志で自由に出現と消失を繰り返せるわけではない。
しかし、これはこれで良い物だとフロルはにんまり笑った。
「本当に貰って良いんだな!?」
「もちろんです。
再現は難しいですが、製法自体は判明しておりますので。
それに……」
ロナートが言葉を濁した。
むっとなったフロルが問い詰めると素直に白状する。
「ベレス殿から陛下が近接戦をしないような、
好みそうな武器はないかと問われまして」
「なっ!?」
フロルが衝撃のあまり、とり落としそうになったインドラの矢を慌てて掴み直した。
「これは返す。
そりゃあ、ヴァレリアに乗ってひたすら手槍を投げつけるのは強いだろうよ。
でも、そんな戦い方じゃあ王国の兵はついてこないし、臆病者と誹りを受ける」
押し付けるように槍をつき返す。
ロナートは慌てて両手を軽く広げ、どうどうと宥めるように言った。
「陛下をそう呼ぶ者などおりませんぞ。
異名を固辞した事が広まり、
その謙虚さはまさに、帝国の地位を全て捨て、
聖地へと帰還したセイロスのようだと、
いっそう名が広まるくらいですからな」
「ば、ばかな!?」
頭を抱えるフロルをロナートが微笑ましく見守った。
時折こうして子供っぽいところが顔を見せる。
リュファス様が子離れできない理由も、よくわかる。
研ぎ方を教わるうちに、フロルの機嫌は直っていた。
格好良い武器に憧れているのは確かなのだ。
一通りを終えると、ロナートが少し遠慮がちに尋ねた。
「陛下、アッシュは良く仕えられておりますか?」
「ああ、俺には勿体ないくらいにな。
だが急にそんなことを尋ねてどうしたんだ?」
ロナートは眉を寄せ、悩まし気に唸る。
「実は……。
アッシュに領地を継がせるのか悩んでいるのです。
馬が天馬を育てたようなもの。
ガスパール領は田舎の小領に過ぎませぬ。
陛下より領地を賜る方が良いのではないかと」
「本人には聞いたんだな?」
「もちろんです。
むしろ、叶うならばわしの領地を継ぎたいと、
そう返されてしまいまして……」
「ならアッシュの好きにさせてやれ。
そりゃあ、俺だってずっと手元に置いておきたいさ。
でもアッシュにとってガスパール領は大事な故郷なんだ。
アッシュにそう思わせた、卿と領民を誇ると良い」
「……ありがたきお言葉です」
戦後になれば、それぞれの道を歩みだすことになる。
少し寂しくなるなと、フロルは天を見上げた。