南から強く吹く風に黒雲が押し流されて、空を覆っていた。
湿った風が土の匂いを運び、遠くで雷が低く唸る。
一年前、帝国が攻め寄せたようにパルミラの軍勢は山道を登る。
ふと一筋の光が山の峰に差し込んだ。
そこに現れた騎馬を照らし出す。
輝く白銀の鎧、風に靡く蒼き外套。
パルミラの軍勢は進軍を停止し、一斉に槍を向けた。
一年前、フロルが行った奇襲攻撃は対策済みだ。
だが、騎馬に後続が現れないことで、兵は拍子抜けした。
パルミラの兵たちは、嘲笑い、槍の柄で盾を打ち鳴らした。
喧騒の中、その一騎が常歩でゆっくりと山を下りていく。
飛竜に乗るクロードは全軍に停止を命じ、相対するように前に出た。
クロードが軽く片手を挙げて、悪戯っぽく片目を閉じる。
「よう、待たせたな、フロル。
歓迎の用意はできているか?」
「……相変わらず自分勝手な男だ。
招待状を送った覚えはないんだがな」
パルミラの王子と、ファーガスの王が向かい合った。
差し込む光が途絶え、遠く雷鳴が轟き始める。
フロルが凝り固まった首を、こきりと鳴らした。
軍を置いて蜻蛉返りしてきたのだ。
「もう少し、手段を選んだ方が良い」
「誠意って奴だ。
腹を割って話し合うには必要だろ?」
昨日までの晴天に反して、馬の蹄が深く沈み込んだ。
それを確認して、フロルが小さく吐息を漏らす。
「ディミトリをけしかけたのは惜しかったな」
「ああ。
上手くいきゃ俺の野望も随分近づいたはずなんだがな」
事も無げに言い切る様に、フロルが目を細める。
これだからこの男は信用ならないのだ。
表面的な明るさの奥に、数多の策謀を隠している。
「それで失敗してこれか。
節操がないな」
クロードが首の後ろに手をやって、笑みを浮かべた。
「俺はお前のことを見誤っていたよ。
驚いたね。
緒戦でディミトリを追い詰め、
エーデルガルトの侵攻を跳ね返した。
その後も負け知らず。
そして今や、たった一年で帝国を打倒しかけている。
俺の計算をここまで狂わされるとは思わなかった」
その称賛はクロードの心からの本音だった。
皮肉な話だ。
五年半の戦乱が続き、フォドラが疲弊し荒廃していれば。
パルミラの介入は救いの手として機能したかもしれない。
だが、今のフォドラには余力がある。
燻り続けた侵略者への憎悪もだ。
そしてシャハドと闇に蠢く者の予想外の動き。
クロードは野望のため、やり方を変えざるを得なかった。
「正直まいったぜ。
ディミトリやエーデルガルトなら、
まだやりようがあったんだが……」
「だからこれで手打ちにしようって?
殺そうとしておいて、虫のいい話だな」
「そうさ。
手を組むことはできないが、
利用し合うことは出来るんじゃないかってな。
お前がパルミラに侵攻するつもりだってことはわかってる。
俺からしてみりゃそいつは困るんだ」
二人の間に強く風が吹きつけた。
互いに思考を読み解いたからこそ、此処に至った。
フロルが重く口を開く。
「……パルミラの領土も民も欲しくなどない。
ただ、二度と軍を率いて、
このフォドラの地を踏むことは許さない。
それが民の守護者たる王の責務だ」
「お前らしい割り切り方だ。
けど、それじゃあ何も変わらないままだ」
小さな雨の雫が、馬の足元に落ちて黒い染みを作る。
次第に、染みの数はぽつりぽつりと増え始めた。
フロルがゆっくりと瞬きをした。
「クロード、お前の理想は正しいよ。
……だが、正しいだけだ」
民族や信仰の違いを乗り越え、誰もが平等に生きる世界。
壁をなくし、フォドラとパルミラでさえ手を取り合う。
それは理想的な正解だ。
だが信仰が、文化が、言語が、人種が違う。
そして二百年以上、侵略と略奪を受け続けた歴史がある。
「誰もが報いを受けるものだ。
それはお前が一番よく知っているだろう」
クロードの表情が一瞬、わずかに凍りついた。
「それでもだ。時間をくれ。
俺がパルミラを内側から変える。
お前のやり方じゃ全部台無しになっちまう」
二人の視線が交差する。
雨がクロードの隈を隠した化粧を洗い流していく。
「……お前ならパルミラを変えられるだろうよ。
だけどな、俺やレアを殺そうとしたように。
人は個人としては手を取り合えても、
異なる枠組み同士では軋轢を生み出し続ける。
そういう生き物なんだよ」
クロードは光だ。その分影は深く濃くなる。
歴史を紐解く限り、クロードが死ねば、遅からず揺り戻しが来る。
二百年以上のパルミラの侵略者体質と、フォドラの憎悪は根深い。
フロルはクロード個人を信じても、侵略者を信じない。
やがて、フロルが諦めたように首を小さく横に振った。
わかっていたことだ。
視点が違うのだ。
言葉を交わしても、価値観の押し付け合いにしかならない。
「今だけは話に乗ろう。
別に今すぐどうこうって話でもないしな。
それで、良いんだな?」
「ああ、過激派の士族も、闇も。
俺の野望にとっても、お前にとっても邪魔な連中だ。
ここでまとめて潰しておかないと後々面倒だからな。
賭け金には十分だろ?」
返答の代わりにフロルが合図のため、光の魔法を打ち上げる。
隠蔽されていた、山の斜面に空いた穴から炎が噴き出した。
綿密に計算された坑道の支柱が焼け落ち、空洞が生まれる。
重い振動がパルミラ兵の足元から伝わり始めた。
長い時間をかけて水が染み込んだ土砂。
巨大な土の塊が、まるで生き物のように跳ね上がった。
木々が折れ、巻き込まれた岩石が激しい衝突音を響かせる。
山崩れがパルミラ軍の先端に襲い掛かる直前。
フロルとクロードの姿は消え去った。
★
クロードは頬に当る水滴で目覚めた。
耳鳴りが止まず、こめかみがずきずきと痛む。
雨が血と混じって、泥の中に流れ落ちた。
遅れて、転移先でレアに盾で殴られたことに気付く。
徐々に世界に音が戻ってきて、剣戟の音に気付いた。
顔を上げた先には、ラルヴァと剣を交わすベレスとレアがいた。
「はあああっ!」
ラルヴァは赤く輝く魔獣の角を顕現させていた。
赤い剣閃が地を抉り、泥を跳ね上げる。
レアが聖剣を斜めに払い上げて右剣を弾き飛ばす。
だが次の瞬間にはラルヴァの手元に剣が戻っている。
独楽のように双剣が回転した。
ベレスが体を捻り、斬撃を紙一重で躱す。
剣先が外套の端を切り裂き、雨に濡れた布切れが舞った。
クロードのすぐ隣。
バシャリと水溜まりの上に蹄が踏み込んだ。
フロルはクロードを一瞥することもなく、独りごちる。
「俺じゃあ近づくだけで死にそうだ」
無間の瞬動は強力だが、転移技術は闇に蠢く者と同じだ。
一年半前には封じる方法が確立し、改良を重ねた。
ラルヴァは詰んでいる。
それでも、なにか手を打ってこないか不安が募る。
クロードが土塊を握り、上半身を引き起こした。
濡れて額に張り付いた前髪をかき上げる。
「いててっ……初めて話した時は、
治療する優しさがお前にもあったんだがな」
「自業自得だ。殺されなかっただけ十分だろう。
それにしても、よくわかったな。
隠蔽には気をつけていたはずなんだが……」
山崩れはモニカに頼んで作り上げた渾身の策だった。
「グロンダーズで有耶無耶になったが、
帝国の侵攻を防ぐなら考えられる策は三つ、四つだ。
それに、恭順した旧国王派は今どこにいるんだ?」
「……」
これだからまともに相手しなかったのだ。
帝国と戦いながらでは荷が勝ちすぎる。
沈黙は肯定とばかりに、クロードは続けた。
「あとはお前がきっちり始末してくれりゃ、
俺の名が出ることもなく、
馬鹿な将が突っ走って奥深くまで切り込んだ挙句、
全滅したっていう……パルミラじゃよくある話で済む。
ま、危ない賭けにゃ変わりはないけどな」
フロルとクロードが話し合う間も、三人の戦いは佳境に入りつつあった。
レアが盾を叩きつける。
ラルヴァは双剣を交差させて受け止めるが、衝撃で膝がわずかに沈んだ。
対処が間に合わず、蛇のようにしなる天帝の剣が肩口を削り取る。
「ぐっ……!まだだ!
ヒトの未来のため、僕は!」
次の瞬間、目にも止まらぬ斬撃の嵐が二人を襲った。
切り裂かれる雨が無数の水飛沫となって爆ぜる。
火花と金属同士が衝突する硬質な音が絶え間なく響いた。
「なっ……まさか」
ラルヴァの瞳が初めて驚愕に揺れた。
死の連撃の中に、ベレスが躊躇なく踏み込んだ。
まるでラルヴァの動きを、技の癖を、呼吸の間合いを、全て知り尽くしているかのように。
雷が間近に落ち、閃光が三人の姿を白く照らし出す。
「……手強い相手だったね」
ラルヴァを、懐に飛び込んだベレスが貫いていた。
血を纏いながら天帝の剣が引き抜かれる。
鮮血が噴き出し、雨に薄められて泥の地面に広がった。
どさりとラルヴァが両膝を泥の中に落とした。
「……これだけの犠牲を払っても、届かないか。
……すまない……約束……果たせなかった……」
輝く角が、硝子細工のように音を立てて砕け散る。
雨が降り注ぐ中、項垂れたままゆっくりと瞼を閉じた。
それを見届けて、クロードはふっと肩から力を抜く。
雨天を見上げ、顔を濡らして祈るように目を瞑る。
見開いた時には、いつもの人を食ったような薄い笑みを浮かべていた。
「じゃあな、フロル。
これで随分と身軽になった。
借りはいつか返すぜ」
魔弓『フェイルノート』を放り渡して、クロードが軽く片手を挙げて去っていく。
その妙に様になっている背中を見つめながら、フロルは拳を握った。
「……そう長くは待てないぞ」
統率を失い混乱に陥ったパルミラ軍を、到着した王国軍と同盟軍が掃討する。
クロードは、首飾りを突破された責任を負い、盟主の座と爵位を返還した。
これに伴い、レスター諸侯同盟は解散。
同盟の貴族たちはファーガス神聖王国へと、次々と臣下の礼を取った。
次回投稿予定2026/05/20