[chapter28: 写真 ]
心臓が口から出そうだと綾波は心の中で叫び声を上げた。
提督と触れ合っている部分が熱くなり、その熱が背筋を抜けて下腹部へ溜まっていくかのような錯覚に陥る。どうしたらいいのかわからなくなり、そしてこれから何をされるのかもわからず、必死で目と口をきゅっと結び、胸の前で拳を握った。
極度に緊張をする綾波をみて、何故だか提督は冷静になっていった。提督は綾波の反応を見ながら、睫毛が長いななどと思っていた。
ふわりと、綾波の髪から石鹸の香りがする。
なんの気はなしに指の甲で綾波の産毛を撫でるように頬をさらりと軽く撫でてみた。
綾波は予期していなかった刺激にふるふると小さく震える。
その反応に提督の嗜虐心が湧き上がる。
頬を撫でていた手は綾波の首筋を指の腹で撫でる。
「――ひぁ!」
綾波は小さな悲鳴を上げて、肩をすくめた。ぞくぞくとしたくすぐったさが触れられた首から全身へと電気のように流れる。
綾波の唇は空気を求めるかのように小さく動く。頬はほんのりと赤く色づいている。吐息は熱くなり、長い睫毛から見える瞳は波打つように潤んでいた。
提督の一つ一つの挙動につぶさに反応する綾波が提督を愉しませる。
首筋や肩、耳などを指の腹で優しくなぞってやる。綾波の肌は柔らかな感触を提督に提供すると共に、少しずつ湿り気を帯びていく。
提督に触れられる度に背筋が痺れる。手足の末端は綾波の意思に反してびくびくと動く。下腹部の熱のこもり方は今まで感じたことがないほどだった。
「しれいかん……」
綾波は提督を呼んでみた。その先に続く言葉はもう止めてほしいだったのか。もしくは。
提督は意地悪く、綾波の耳元で息がかかるように「何だ?」と囁く。提督の吐息と声が直接脳に届くかのようなぞくりとした刺激が走る。綾波は堪らず逃げるように提督の胸元に顔をうずめて、提督を抱きしめた。
提督はここまできて、しまったと後悔した。
いくら弱っているとは言え、艦娘に抱きしめられたのならば提督に逃げ場はない。綾波が自分の意思で提督を離さない限り、もはやその手から逃れる術はなかった。
「司令官……綾波、上手くできるかわかりませんけど……頑張ります……」
胸に顔をうずめたままで綾波は言う。綾波の体はわずかに震えていた。
もはや綾波は決心していた。提督から求められていると感じ、そして綾波自身も提督を求めていた。
綾波は自分の状況を分析する。体も三回洗ったし、下着も一番新しいのを履いている。大丈夫だと。
提督は綾波の柔らかい髪を撫でながら考えていた。ちょっといたずらするだけのつもりだったのに! と。
綾波に求められることが嫌なわけでもない。だが提督には思うところがあったため、行為に至るつもりは全くなかった。
「綾波、ちょっといいか?」
「はい」
綾波はいよいよかと不安と緊張を感じながら返事をした。
「お前に言わなくてはならないことがある……」
「……? えっ……?」
拒絶を恐れた綾波は提督の表情を確認しようと顔を上げる。綾波の心には先ほどよりも大きな不安が押し寄せる。
「言いにくいんだが……」
もったいぶった提督に綾波は焦れるが、同時に先を聞くのが恐ろしかった。
「みんな見ているぞ」
提督がそう言うと、部屋の扉がガタガタっと音を立てる。
「何してるんだ、業務にもどれー」
扉の向こうに向かって声をかける。
「健気だったね」「がんばるのかー」などと言いながら扉から離れていく音が聞こえた。
「ええええー!」
我に帰った綾波は今までの自分の行動に赤面する。
お茶を煎れに行った時は確かに誰もいなかったはずなのに、いつの間にいたのか。
「雰囲気なんてなくなったろう? というわけで離してくれないか?」
綾波は慌てて提督の胸に回していた手を離すと、
「ちょ……ちょっとお手洗いに行ってきます……!」
と言って顔を隠しながらばたばたと部屋を出て行った。
手洗いの個室に入ると、腰をかけて激しく拍動する心臓を落ち着ける。
「下着……こんなになってる……恥ずかしい……」
紙でふきとってから個室を後にする。頬を両手でパシパシと叩いて、気持ちを切り替えてから部屋に向かった。
部屋に戻った綾波の目に最初に入ったものは写真立てを持った提督だった。
提督の様子がいつもと違って見える。何か驚いているような、戸惑っているような。
「綾波。この写真は……? 覚えているのか?」
提督がじっと写真を見ながら言う。
「綾波の私物です。昔の写真みたいなんですけど、記憶がなくて。何故か捨てられなくてずっと持っているんです」
綾波がそう答えると、提督は落ち込んだ風に「そうか」と呟いた。
すぐに提督は何時も通りの表情に戻って、
「さて、何をしようか。と言っても部屋でできることになるが」
と、相談してきた。
「お話をしましょう」
綾波はふわりと笑って、そう答えた。
先ほどの騒ぎのおかげで、もはや緊張などはなくなっていた。二人は他愛のない話ばかりをして、夜には提督は自室に戻っていった。
それでも綾波には幸せな休暇となった。
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[chapter29: 間宮 ]
休暇から十日ほどが経過していた。
綾波も何とか警備任務などに出られるほどに体調を戻していた。
提督は多少包帯が少なくなった程度で、まだ回復には時間がかかるようだった。それでも相変わらず提督業を無理してやっていた。
「技開の間宮さんが来ていたクマね」
昼食から戻ってきた球磨が提督に言う。
「ああ、技術開発局から敵艦の鹵獲に成功した謝礼として間宮を送ってきた。到着はしているようだがまだ挨拶には来ていないな」
先の作戦で大破炎上した軽巡ヘ級が近くの島に座礁しているのが発見され、中央の技術開発局が鹵獲していた。
「クマ? 食堂に行った時に見かけたクマ」
食堂に行っていたクマは間宮とすれ違っていた。その為、間宮が来たことに気づいていたのだった。
「何をやっているんだ? 技開の奴らに彷徨かれるのはあまりいい気がしないな……そもそも間宮など必要ではないというのに。すれ違いに間宮が来たら待たせておけ。艦娘用食堂を見てくる」
やれやれと言いながら提督は席を立った。
その頃、食堂には任務から帰ってきた綾波たち駆逐艦三人がいた。
まだ完全とは言えない状況での任務は綾波にとってやや辛いものだった。
「早く体を戻さないと、ちょっと辛いですねぇ……」
綾波が体の倦怠感にボヤいた。
「今はたくさん食べるしかないよ」
あははと白露は元気に笑う。
「間宮さんでもおったらなぁ」
黒潮は作戦以来、綾波への当たりが少し弱くなっていた。
「間宮さん?」
綾波は聞いたことのない名前だった。
「補助付きは知らんのか。給糧艦の艦娘の間宮さんや。間宮さんの出す給糧はすごいで。なんて言うかもう…なんて言えばええんやろ」
かつて一度だけ味わった間宮の給糧を思い出し、黒潮の顔は緩みきっている。
「あれ? あそこにいるのって……」
白露が驚いた様子で食堂の入口を指差している。
その先には、割烹着と赤い髪紐でまとめた長髪が特徴的な、優しげな女性が立っていた。にっこりと笑顔を返して、小さく手を振っている。
「間宮さんや!」
先ほど噂をしていた矢先の間宮の登場に、黒潮や白露は驚きと共に喜びを隠せない。
「どうしたんですか? 丁度噂をしてたんですよ!」
「間宮さんのアイス食べられるん? 最中は?」
黒潮と白露は間宮の元に駆け寄り、囲むようにはしゃいでいる。
「あらあら。ちょっとこの鎮守府にお礼をしてこいって言われまして。あら? あそこにいるのは新しい娘?」
綾波に気づいた間宮は綾波にも笑顔を贈る。綾波はお辞儀を間宮に返した。
「あら?」
何かに気づいた間宮は綾波の近くまで来て、顔をよく観察する。
「だいぶ疲れているみたいですね……そうだ! 新製品のこちらを差し上げます。提督には秘密ですよ?」
間宮は艤装から涼しげな硝子の器に入った乳氷菓を取り出した。甘い香り放つ雪のように白いそれは、魔力でもあるのかというほどに魅力的に思えた。
「い、良いんですか?」
綾波の目はもはや目の前の乳氷菓に釘付けになっていた。
「ええ。感想、聞かせてくださいね」
柔らかい笑顔の間宮は綾波にとってまさに天使に見えた。
菓子食用の小さな金属の匙を右手に持って、乳氷菓を口に運ぼうとしたとき。
「こんなところにいたのか!」
提督が現れた。
食堂内を見回して状況を把握すると、つかつかと綾波たちの元へ歩き進む。その顔には怒りが見える。
「提督……?」
綾波の前まで来て綾波の手にあった匙を奪い香りを嗅ぐと、乳氷菓を手で払い床にぶちまけた。
硝子容器は音を立てて砕け、乳氷菓は床にべちゃりと無残に落ちた。
駆逐艦たち三人は何が起こったのか分からず、声も出ない。
「私の許可なしで勝手に給糧を与えるとはどういうことだ!」
提督が間宮に対して怒鳴りつけた。間宮は驚いた様子もなく、柔らかい笑顔のままで答える。
「お疲れだったようなので、疲れを癒してあげようかと」
「“疲れを癒す”だと? “疲れを感じなくなる”の間違いだろう……!?」
提督は間宮を威圧するように睨みつける。対して、間宮は変わらず笑顔のままである。
「この件は報告させてもらうぞ。どうせ貴様ら技開の目的は伊58だろう。吹雪に案内させる。付いて来い。床は綾波。お前が片付けろ。俺の許可なしで見知らぬ糧食を摂るんじゃない!」
怒りの収まらぬ提督の後ろを間宮が「あらー」などと言いながらついていった。
三人はその光景を呆然を見守るしかなかった。
間宮はその日の夜には帰っていった。
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[chapter30: 質問 ]
綾波が泣きながら大きな家の外門を叩いている。
空気の冷たさで頬は赤くなっている。服は何度も繕われたもので、寒さなどにはほとんど耐えられないように見える。
「助けてください! お兄ちゃんに会わせてください!」
綾波は何度も叫び続けた。
叫び続け、声が枯れそうになったところで、くぐり門からやや太った中年の女性が現れた。
中年の女性は綾波の風体をつまらない物でも見るかのように見回す。
「お、お兄ちゃんに会わせてください。弟が……」
綾波は中年の女性に必死ですがりつく。
「五月蝿いね! 坊ちゃんに妹なんていないよ!」
「そんな……あの、会わせてもらえれば……!」
「いい加減にしな! あんたみたいな汚い物乞いが増えて困ってるんだよ!」
中年の女性は言うなり、綾波を強かに箒の柄で幾度も殴りつけた。
「はっ……うぅ……ぐ」
寒さと殴られた痛みで綾波は道に倒れ、縮こまる。固く冷たい地面に、切れた唇の血が数滴落ちた。
「さっさとどっかへ消えな! もう来るんじゃないよ!」
そう吐き捨てて、中年の女性はくぐり門へ消えていった。
綾波はじんじんと痛む体を必死に起こして、歩き始めた。
どうすればいいのだろう、どうしたら助けられるのか。もうお金もない。そう考えながら体を引きずるように来た道を戻っていった。
「――はっ!」
綾波は目を覚ました。そこは寒さなどは微塵もない、暖かく柔らかいベッドの上だ。
「……怖い夢」
夢を見ながら泣いていたのか、綾波の頬は濡れていた。妙な現実感がある夢だったと綾波は思った。
提督執務室では提督と秘書艦である球磨が書類作業をしていた。
「そういえばふと気になったクマ。“艦娘”って女の子だけだからクマ? どうして男の子はいないクマ?」
球磨が書類から目を離さずに言った。
「んー? そんなことも知らなかったのか?」
提督も書類に署名をしながら答える。
「球磨は兵学校時代は座学は苦手だったクマー。実技で一番だったクマ」
「そうだろうな。女の子だからっていうのは逆だな。艦娘って呼び方の方が先だ」
「クマ? 艦娘がいないのに艦娘だったクマ?」
「元は艦MUSだったんだ。深海棲艦が出現した時に艦隊用新式海兵単位方式が提唱されてな。つまり、深海棲艦と同じように一つの意識によって艦を動かすって概念なんだが。それがNew Marine Unit System for Fleets。色々略されているうちにNewが消えて艦隊用 Marine Unit Systemになって艦MUSだ。新式海兵には女性しか適性がなかったから転じて艦娘と呼ばれるようになったってことだ」
「じゃあ男の子でも艦娘クマ?」
「……考えたことはなかったがそうなるな。まぁ現在のところ不思議と転換処置に適正を持った男はいないからな。とはいえ研究が進めばわからない」
「提督が艦娘になっちゃったりクマ?」
球磨が冗談めかして言う。
「ああ、そうだな。それが一番いい。俺がなれたらと思うよ」
提督は冗談のように言ったが、本心が半ば以上入っていた。
とその時、執務室の扉がコンコンと叩かれた。
「失礼します。吹雪です」
提督が「入れ」と促すと、吹雪が入室した。
「司令官、ちょっとよろしいですか?」
「ん? この書類に署名したら……よし。なんだ?」
提督は顔を上げて吹雪に目をやった。
「お話があります」
吹雪はまっすぐに提督を見据える。
「……わかった。指導室の方が良いか?」
提督は何かを察して他の者がいないところに移動した。
「話というのはなんだ?」
提督が話を切り出した。
「綾波さんのことで。いえ、司令官がなぜ綾波さんを気にかけるのか。気になって調べさせてもらいました」
佐官以上であれば、艦娘が人であったころの経歴にも接触する権限を有する。艦娘になる前がどうだったのかなど瑣末なことなので、普段は使われない権限である。
「……なにかわかったか?」
提督は確信はしていないが可能性は予想をしていたという表情だ。
「ええ。何故かはわかりました。綾波さんと司令官の関係。でもわからないこともできました」
「何がだ?」
「どうして綾波さんを艦娘としてここに置いておくのかということです。提督の権限なら解体して帰すこともできるでしょう?」
吹雪の質問に提督の表情がすっと消える。
「一つは綾波は既に軍の所有物だ。個人的な理由などで解体などできるわけがない。もう一つは、綾波は既に帰る場所がなくなっている。解体されても施設に送られる。そこまでは調べてなかったか」
「……! 施設……そう……ですか……」
吹雪は辛い顔をしている。まるで自分のことのように。
「では、提督が預かるということも……」
「ははっそれこそ無理だな。個人的に気になる艦娘がいたので提督権限で解体して家に連れて来ましたと? 職権濫用だ。下手すれば軍の大切な装備を私的に使えなくする人類の敵であり思想犯だ」
「……」
吹雪は言葉を継げなくなっていた。
「この話は終わりだ。片付けなければならない書類がある」
執務室に戻ろうとした提督を、吹雪は「待ってください」と引き止めた。
「綾波さんに閉鎖された船渠を見せてもいいですか?」
吹雪はなにかを決意をした表情だ。
「……艦娘の教育はお前に任せている。好きにしろ」
提督は振り向かずにそう答えて、指導室を後にした。