短編   作:dolph

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蛍と蝶

「お父さん臭い」

 

「え?」

 

「お父さん臭い」

 

 聞き間違えたと思った。まさかうちの娘がそんな事を言うはずがないと、思わず呆けた声が口をついた。

 律儀にも全く同じ言葉が返ってきた。

 

「やっぱり臭うわよね。わたしもずっと前から思ってたの」

 

 妻まで同じことを言う。

 俺は出来る限り顔をしかめて、火をつけたばかりのタバコを灰皿で押しつぶした。

 今までは居間で吸っても何も言わなかったのに、突然こんなことを言い出したのは他所様の空気を知ったのが原因だろう。

 

 娘は昨日、学校の友だちの家に泊まりで遊びに行っていた。

 友だちの家にお泊りするのがよほど楽しみだったらしく、昨日は泊まりの準備に駆り出された。

 

 こんなパンツじゃ恥ずかしい。友だちはもっとおしゃれなのしてる。

 

 わざわざ車を出して買い物に行ったのだ。

 俺が友だちのとこに泊ったことを思い出すと、飲んだら帰るのが面倒になってそのまま雑魚寝。着てるものを気にするどころか着替えすらしない。

 大学生の頃の俺と、小学生の娘を比較しても意味ないが、女は小学生の時からお洒落なんて言葉を使うのかと感心したのが昨日のこと。

 明けた今日は「臭い」ときた。

 

 友だちの家族は、スモーカーが一人もいなかったらしい。

 生まれた時から暮らしてる我が家だけだったら、壁がタバコのヤニで黄ばんでいても、カーテンから鼻を引っかくような煙の臭いがしても、家とはこういうもの。学校や塾とは違って当たり前。そう思ってくれていた事だろう。

 しかし娘は、タバコの臭いがしない家を知ってしまった。

 

 我が家が建屋だったり、友達の家がそうだったならば何とか誤魔化せたかも知れない。

 どちらも同じ貸家住まいで同じ団地内なのだからどうしようもない。部屋の間取りすら一緒らしいから、臭いの有無がよほど印象に残ったらしかった。

 そもそも娘相手に誤魔化すとか考えるのは人の親としてどーなのか。

 

 一瞬だけ自問自答したが、指先に残る煙の残り香が喫煙欲を刺激し、それ以外の思考を押し流してしまった。

 

 中で吸えないなら外で吸うしかない。

 ここは集合住宅の五階。階段を降りて喫煙コーナーまで行くのは、馬鹿らしい上にみっともなくてとてもじゃないが出来そうにない。

 

 ならばどこで吸うかは決まっている。

 幾人ものお父さんが追いやられている狭苦しい最後の聖地。その名もベランダで吸うことにした。

 

 タバコと灰皿を持って、ベランダへ通じるアルミ戸をからからと開けた。

 開けた途端に生暖かい空気が吹き込んでくる。

 

「早く閉めてよ」

 

 後から投げかけられた言葉には舌打ちで応えた。アルミ戸は大きな音を立てて閉まった。

 妻がはいているつっかけは、俺には二周り小さい。履くというより足を乗せる感じで、つっかけを引きずりながら手すりに辿りついた。

 布団干しに使っている手すりは、いつも綺麗でいる。

 肘を突いてため息を吐いた。

 もう夜なのにあちこちが明るい。

 至るところに街灯が光り、いつか来るかも知れない客のために自動販売機が虫を集め、道路では車のヘッドライトが列をなして光の洪水を作っている。

 

 車になんか乗るなよ。排気ガスが出るだろ。

 

 家族の仕打ちを八つ当たりで晴らし、ぼんやりとタバコを銜えてポケットに手をいれた。何も入ってなかった。もう一つのポケットにも手をいれた。こちらも空だった。

 あわててズボンとシャツについてるポケットを全て確認したが、どのポケットもぺったんこ。ライターを忘れてしまった。

 

 娘の苦言に妻の文句、一家の大黒柱であるにもかかわらずベランダに追いやられ、ひっそりとタバコを吸おうと思ったらライターがない。

 憎たらしい上司の顔がわけもなく脳裏をよぎり、いらつきがむかつきへレベルアップを果たしたそのとき、お隣のベランダからからからと涼しい音が聞こえてきた。

 誰かがベランダに出てきたようだ。

 

 なんとなく居づらくなり、息を殺してじっとしていると、カチカチと馴染み深い音が聞こえてきた。

 これは電子ライターの着火音だ。

 案の定、少しするとタバコの匂いが漂ってきた。

 

 タバコを吸わない人間はタバコの臭いに敏感だと言う。俺はそれは違うと思う。タバコ吸いだってタバコの匂いには敏感だ。

 気分や体調によっては、タバコを吸わない人間と同じように臭いと思うし、同じ銘柄の煙だったら同じの吸ってやがると思う。

 タバコを吸いたい時にタバコの匂いを嗅がせられると、どうしようもなく舌を刺激させられる。

 まさに今がそれだ。

 

 お隣であるし、ベランダに追いやられた者同士と言う気安さと、なによりタバコを吸いたい気持ちが後押しをして、俺はお隣さんに声を掛けた。

 

「あの~、503号室の者なんですがライターを忘れちゃって。もしよろしかったら貸していただけませんか?」

 

 お隣と言っても顔が見えるわけじゃない。

 ベランダでお隣とは、下から上までが板に区切られていて、互いのプライバシーを侵さないように作られている。ただし水はけの関係か、板は床から五センチほど浮いたところから据えつけられている。

 少し待つと、その隙間からライターが滑り込んできた。

 

「ありがとうございます」

 

 礼への返事はなかった。

 それでもライターを貸してくれたことに違いはない。

 早速タバコを銜えなおして火を点けた。

 紫煙を胸いっぱい吸い込むと、体に必要な栄養素が満ちていくのが実感できる。まさにニコチン中毒の体現なんだろうが、タバコの美味さを知らないやつに言っても始まらない。

 

「ありがとうございます。おかげさまで助かりました」

 

 借りた手前、お隣さんと同じようにライターを滑らせて返すわけにはいかない。

 区切り下部の隙間に、そっと置いた。

 置いたライターをなんとなく眺めていると、ふと消えた。

 今気付いたが、お隣は部屋の明かりをつけていない。だからライターを拾った指が見えなかった。

 考えてみれば、この時期に余計な明かりをつけておくと虫が寄って来てうっとうしい。次にベランダでタバコを吸う時は、俺も部屋の明かりは消しておくことにしよう。

 

「いつもは中で吸ってるんですけど、今日は娘に追い出されちゃいまして……。これからは俺も蛍族なのかな」

 

 隣に誰かいるのに無言でいるのがなんだか苦痛で、気付いたらそんなことを話し始めていた。

 

「タバコはどんどん高くなっていきますね。俺が吸い始めた頃なんて一箱二百二十円だったんですよ。今はもう倍近くになっちゃって」

 

 何か応えてくれるかなと思ったが、無言が続く。

 しかし、またもカチカチとライターで火を点ける音が聞こえてきた。

 話相手になるつもりはなくても、ベランダから離れる様子はなさそうだ。

 独り言めいたことを話しかけていると、俺のタバコも短くなっていた。吸殻を灰皿で押しつぶし、新しいタバコを銜えてライターを探す。

 持ってなかったんだ。

 さっきのタバコを灰皿に捨てないで、種火に使えばよかった。

 

「すいません。もう一度ライターを貸してもらえますか?」

 

 ライターがまたも滑り込んできた。

 

「ありがとうございます」

 

 さっきと同じように礼を言う。

 二本目に火を点けて、煙を吐き出す。

 俺が立て続けにタバコに火を点けるのは珍しい。娘の苦言が意外に大きなストレスになっていたのかもしれない。

 ライターを返しながら思ったことを話すと、やはり返事はこない。

 

 つまらない変わり映えのしない景色を眺めながら煙を吸い続けると、またも隣からカチカチ鳴りだした。

 ベランダの境目に置いたライターはそのまま。別のライターで火を点けているらしい。

 そこでようやく、借りていたライターがキラキラしていることに気付いた。

 そう言えば触った感じもなんだかでこぼこしていたような気がする。

 二本目を吸い終えた俺は、三度目は「借ります」と一言言ってライターを拾い上げた。

 三本目に火をつけてライターを観察すると、やはりキラキラしている。ラメ、とでも言うのだろうか。モノは百円ライターに違いないんだが、マニキュアのようなもので模様が描いてあった。

 

「そのライターあげる」

 

 初めて掛けられた言葉に、タバコの煙を吸うのも忘れてぎょっとしてしまった。

 

「それ、わたしがデコったんだ。可愛いでしょ?」

 

「おじさんってあまり会ったことないけど三十歳くらい?デコライターって知ってた?」

 

「わたしってマニキュアもペディキュアもするから余ったのでやってるんだ。あ、マニキュアは学校でばれるとヤバイから付け爪にしてるんだけど」

 

「わたしがタバコ吸ってるの内緒にしてね。多分お母さんにはばれてないから。妹は知ってるんだけど、あいつは告げ口するようなことしないし」

 

「娘さんがタバコ嫌いでよかったじゃん。わたしみたいになったらおじさんショックでしょ?」

 

「今度一緒したらまた何か話してよ。じゃね」

 

 アルミ戸が開く音が小さく響いて、お隣は無音になった。

 一人残った俺は、手の中にある蝶の絵が描かれたライターを呆然と眺めていた。

 気がつけば、三本目のタバコは一吸いもしていないのに根元まで灰になっていた。

 

 俺は、四本目のタバコに火をつけた。




色々書いてきましたが、これが一番面白いと思う
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