ツレ猫を読み本話を忘れていたのを思い出し投稿
書いたのは2012年08月02日であるらしい
忍猫のクロは、陰に身を潜めて標的が現れるのを待った。
先ほど、赤いイノシシが道を昇っていった。目指す仇が現れるのは、近い。
その時こそ、釈尊の入滅以来、二千年余りにわたる争いに終止符が打たれる。
否、二千年どころではない。彼の一族とは有史から不倶戴天の敵同士。争いにではなく、歴史に終止符を打つ。
クロの瞳が、炎を映して黄色く光った。
クロであっても我が身を襲う興奮に、敵を前にして瞳の光を消すことを忘れていた。
処は隧道(ずいどう)。
壁面が作る微細な凹凸にクロは隠れている。
入り口は見えない。はるか遠く、下界へ通じている。
出口は見えない。かなた離れた天へ、至っている。
天と地を結ぶそこはまさに天道。
太陽が穿(うが)ち、月が冷やして掘られた巨大な洞穴だ。
十二年に二度は、天すら飲み込まんとした黄龍が行き来する。世界中の様々な不思議を見てきたクロにしても、これほど巨大な空間は、悠久の空以外に見たことがなかった。
壁には伝統と歴史と、神話が塗りこまれている。
転がる石の一つ一つが並々ならぬ霊力を宿し、クロの魂を苛める。クロは身じろぎもせずに只管(ひたすら)待つ。
無論、クロと言えど天に至る隧道へ足を運ぶことは出来ない。
そもそも、クロを始めとした猫族は隧道を渡ることを許されていなかった。
ここへは先導されてやってきたのだ。
水先案内は、犬。
人に飼われる愛玩物同士の情が、猫と犬には交わされていた。
ワンダードッグ・ボビーがクロをここまで連れてきたのだ。
彼は生前、単身で五〇〇〇キロを走破した実績を持つ。死ですらその歩みを止める事が出来ず、偉霊となったボビーは今やあらゆる場所へ到達する事が出来た。
しかし、ボビーであっても肉持つ体で隧道に入る事が出来なかった。
出来たのは案内まで。
クロがボビーの霊が立てる幽かな足音を頼りに、道を切り開いたのだ。
時は大晦日。
下界では、除夜の鐘が一〇七回突かれた。
ある剣術において、太刀の速さを計るのに呼吸の間が使われる。
一呼吸を「分」と呼ぶ。分の八分の一が「秒」、秒の十分の一が「糸(し)」、糸の十分の一を「忽(こつ)」、忽の十分の一を「毫(ごう)」、毫のさらに十分の一を「雲耀(うんよう)」と呼ぶ。
雲耀とはまさに稲妻の速さ。
天に生じた|怒つ霊(ミカツチ)が地に突き刺さるまでの刹那の時。
それを断ち切るクロの刃よりも速い一塵の時。
年が明け、一〇八番目の鐘が突かれるまで、もはや微塵の時もない。
天地を結ぶここでは、時が止まっている。
イノシシが昇ってからどれだけ待ったろう。
やがて、遠くに小さな影が見えた。
クロの目にも塵のように小さな影にしか見えない。
猫族の悲願を晴らすのだ。
クロを隧道へ送り込むために、猫族がどれだけの犠牲を払ったのか。クロは知らない。
忍猫とは言え、クロは猫族の猫。猫族の虎や獅子も名が上がったが、選ばれたのはクロ。虎と獅子の合いの子であるライガーすら差し置いて、クロが選ばれた。
クロは長い修行の末、猫を越えた。
親を切り、師を食い殺した。
忍びの里を飛び出して、あらゆる惨禍にその身を投じた。
妻の皮を剥ぎ、我が子の首を刎ねた。
殺しに愉悦を感じたのでは、けしてない。
全ては己の修行のため。
心を殺し、修羅となる。修羅を殺し、高みに至る。
屠った神は八百柱。
殺しに殺した二百年で、クロの身は猫又と化していた。
そして今まさに、天に刃を刺す機を得た。
影が形を成してきた。
古びてはいるが、天の光に清められた法衣を着ている。
二本足で歩き、法衣の裾から長い帯を引きずっている。いや、帯ではない。尾だ。
現れたのは子牛ほどもある大ネズミ。
釈尊の入滅後、牛と一番を争った時に己が身の小ささを訴え、釈尊の高弟であった上人(しょうにん)に法術でもって大きな体を与えられた。
伝説はそう伝えている。
伝説が真実であろうと、クロの成すことは変わらない。
失敗も成功も、クロの頭にない。無念無想の境地に至り、徒(ただ)、事を成す。
下界ではクロの成功を信じて疑わず、年が明けると同時に異境チバラギ国の最奥、不思議の国への侵攻が行われる。
不思議の国は磐石の守りを固め、今までは手を出す事が出来なかった。
守りの要である超重戦車『マウス』八千台をどうしても抜く事が出来ない。最大装甲厚二百四十ミリ。総重量百八十八トンの化け物戦車。
主砲の五五口径十二.八ミリKwK四四戦車砲は、たった一度の砲撃で一〇〇〇体の猫をミンチへ変える。
クロであっても同時に相手どれるのは四台が限度。
それが八千台なのだから、猫族が百万の兵(つわもの)を動員しても破れるものではない。
不思議の国攻略を買って出たのは猫を自称する青狸。彼の未来技術によって製造された頭頂高八十メートルのジャイアントカッティを前線へ投入する。
ジャイアントカッティを先頭に猫族の戦士が続き、その後には兎が控えている。
不思議の国に囚われているアリスの身柄を条件に、チェシャ猫がホワイトラビットを窓口にして兎族を引き込んだのだ。
彼らには月兎がいる。
月兎によるムーンアタックは、地上のいかなる戦力をも無力化する。
黄泉坂に棲む黄色い電撃ネズミには、洋上の小島に生きるピカニャー一族が当たる。
法衣を着た大ネズミが、クロの前をゆっくりと通り過ぎていく。
クロは忍刀を抜き、音もなく地を蹴った。
元々、猫には猫足がある。猫足は無音歩行を許す。クロはこの猫足を極めた。
水面を走っても波紋一つ立てない。
大ネズミはクロの跳躍に気付かない。
大きく飛んだクロは、隧道の天井を蹴った。
獣は心臓が貫かれた程度ではとてもとても死にきらない。体に空いた大穴を微塵も気にせず反撃してくる。
首を刎ねても油断できない。刎ねた首が宙を舞い、襲い掛かってくるのをクロは何度も経験していた。
狙いは脊髄。
頚椎から刃を差込み、背骨を切り裂き脊髄を抜く。
殺(や)った、と。クロでさえ思った。
大ネズミは、忍刀が首筋の毛に触れるまで、自分以外の存在がこの場にいるとは微塵も思っていなかったのだ。
が、事はならなかった。
「何奴!?」
横道の一。十二支の筆頭を担う大ネズミの毛皮は、クロの刃を通さなかった。
鉄をも切り裂くクロの刀は、毛ほどの傷さえつけられず刃こぼれした。
クロは知らない。
十二支の子(ね)は天において玉を飲み、その毛皮は玉石の固さを誇る。
「我を十二支が一と知っての所業か!? いや、知らいでか、ここは天地を結ぶ聖なる胎道。至れるのは我らを除いて日輪のみ!」
言うや、法衣が風船のように膨らんだ。大ネズミは口を開き、轟々と息を吸い込んでいる。
対するクロは揺るがない。事を成す。そのためだけに存在し、このためだけに生きてきた。
「天に刃向かう狼藉、許すわけにはいかん」
猛烈な吸気が止んだ。
呼気となって生じたのは、紅蓮の炎。
大ネズミは火鼠の一種だった。
熱気に空気が爆発した。
爆風よりも速い炎がクロに迫る。逃げ場はない。
穴を掘って隠れようにも隧道の岩は固く、腕一本隠す間に全身が黒焦げになる。下が駄目なら上も不可。逃げ場のない宙では炎の向きを変えられた瞬間に詰む。左右にあった微かな望みは、大ネズミが足を溜めているのを見て外した。体勢を崩せば彼の巨体がクロの体を砕くだろう。
クロは忍刀を口に銜え、印を結ぶ。
火に水を当てるのは下の下。炎に焼かれた水は蒸気となり、体の芯まで染み込んで来る。
ならば呼び出すのは同じく炎しかない。
火遁の術をもって、クロは漆黒の体を火に包んだ。
「不尽木(ふじんぼく)を燃やした炎だ」
周囲に血が焦げる汚臭が漂った。
「それを耐えるか」
果たしてクロは、生きていた。
小火は業火に飲み込まれた。
しかし業火の道を僅かに逸らし、地に伏せたクロを焼き尽くすまでは至らなかった。
生きていたは無傷と同義ではない。
全身の毛を炙られ、二本の長い尾がその中ほどから炭化していた。
クロは、口に銜えた忍刀を構えなおし、焦げた尾を根元から切り落とした。
滴る血が地に落ちて、たちまち蒸発する。
「まだやるか」
あらゆる強鼠を殺してきたクロが、ネズミを前にして諦めることをけしてしない。
ただの一息で満身創痍のクロに無傷の大ネズミ。クロは今の攻防で、勝機を見た。
「今度こそ燃え尽き、犯した罪を浄化せよ」
大ネズミが口を開く機に、クロは再び地を蹴った。
狙うのは口。外が駄目なら中から通す。
音を立てて吸い込まれる空気に、クロの忍刀が混じった。
大ネズミに相対して、初めてクロの瞳に光が現れた。
光の名は驚き。
渾身の力を込めた一突きが、ネズミの長い出っ歯に阻まれた。
澄んだ音を立てて、クロの忍刀が、父と、師と、妻子と、夥しいネズミと荒ぶる神々の血で鍛えられた忍刀が、欠けた。
銀色の刃は千の光となって、クロに最後の別れを告げる。
「もう手はなかろう」
大ネズミも、今の一撃はさすがに肝を冷やしたらしい。
クロの最後を断ずる声に安堵が混じっていた。
クロは、音もなく着地した。
猫らしく四つ足を着いて。
一歩、前に出る。
ジャリ……、とクロが足音を立てた。
「む」
明らかに空気が変わった。
大ネズミが一歩引いた。
猫が鼠を狩るのに刀は要らぬ。
クロの前足には、仕舞われていた爪が光った。
二百年の生で倦むことなく研ぎ続け、一度も振るった事がない猫の爪。
「斬る」
クロは口を開かない。
猫の爪が鼠の魂に宣言した。
そうしてクロは三度地を蹴った。