短編   作:dolph

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ちゅーちゅー1

 洗剤のあぶくがあちこちで弾けて、中に詰まった汚れた空気を撒き散らしていた。

 元々が汚れきった空気しかないのだから、ある面では綺麗な空気を運んでいるとも言える。それに食べ物のカスや、得体の知れない粘塊が発する腐敗ガスに比べれば随分とマシなのかも知れない。

 洗剤のアブク以外に、動くものが一つ。

 小さな生き物が配管に駆け上って洗剤の流れを避けている。

 配管の内側は苔の一種なのか、ゴミが腐食して出来たものなのか、正体不明のぬかるみにびっしりと覆われている。それは幻想世界の忍者のように置いた足に体重がかかるよりも早く次の足を運び、ぬかるみに足をとられることなく走り続けている。

 仮に足をとられたとしても、小さな足から生える鋭い爪がぬかるみを切り裂いて配管の壁面に引っかかることだろう。

 小さな四足に、体よりも長い尾が続く。

 とんがった鼻先に、兎のようではないけれど大きな耳。

 色はまさにねずみ色。

 一匹のネズミがゴキブリを抱えて走っていた。

 

 泥と垢をたっぷり吸った洗剤でも、毛並みの脂を溶かしてしまう。だからチュー太は風呂場から流れる水が嫌いだった。

 ヘドロと腐敗物だらけの汚水の方が性に合っている。

 マンホールや側溝の蓋から差し込むわずかな光を頼りにして、今日も今日とてゴキブリを狩る。

 下水とどぶをホームグラウンドに、日々を慎ましく生きるドブネズミ。それがチュー太だ。

 

 ドブネズミにしては小さすぎるちゅーたの体は、仲間からハツカネズミと間違われるほど小さい。

 大きな仲間や野良猫に怯え暮らす毎日である。それでも小さい体も悪いことだらけじゃない。大きな奴らが入り込めない小さな隙間にだって入っていける。

 大きな仲間が頭をつかえさせる配管に潜っていき、奥に潜むゴキブリを狩るのだ。

 仲間達からは脅されるばかりでいつも一人でいるチュー太は、仲間を持つ頼もしさを、仲間がいない寂しさも感じることなく生きてきた。生きてこられた。ゴキブリがチュー太の命をつないだ。

 バイキンとゴキブリだけがチュー太の友だち。

 

 今日も狩ったゴキブリの足を順繰りに外していき、動けなくなったところで今度は翅を引きちぎる。

 それから翅の下に隠れた柔らかい肉に噛り付き、白と黄色が混じったぶよぶよした内臓を食べ始めるのだが今日はそこで前歯が止まった。

 お腹がいっぱいになるまで食べるのがチュー太の、と言うより野生のルールなのだが、今日のチュー太はそこから外れてしまった。

 先日、人家に通じる配管で出会った家ネズミのネズミーのことを思い出していた。

 

 家ネズミとドブネズミでは生活エリアが違う。狩場やねぐらなどの縄張りがかち合うことはない。つまり、敵になりようがないわけだ。

 体が小さいもの同士の気安さもあり、なによりチュー太はお腹一杯食べた直後だったのでのんびり世間話に興じてしまったのが間違いの始まり。

 

「君、チーズケーキを知ってるかい? チーズケーキはフォークを使って食べるんだぜ」

 

 ねぐらの事を話し合うまでは良かった。人家でも下水道でも、怖いものがいっぱいあるんだなぁと二人して感心し合ったものだ。それが食べ物の話になるといけない。

 人間の家には、ゴキブリとは比べ物にならないほどのご馳走がいっぱいあるというのだ。

 

 肉を食べたことくらいチュー太にだってある。下水管に迷い込んだ末に力尽きた動物の死骸は、ドブネズミにはまたとないご馳走なのだ。それに火?が通ったものとなると全く想像が出来ない。

 ネズミー曰く、味も歯ごたえも全く違うものになるらしい。ざくざくしたお肉がさくさくしたものになるとか何とか。

 

 野菜や穀物なら想像できる。

 ドブや下水であっても、どこからか植物の種が飛んでくる。それらをかじったことがある。美味しいものではなかったけれど。

 植物の種達が地上から差し込む僅かな光を糧にして、狭い下水管を更に狭いものにする事があった。時々、食べられる葉っぱをかじる事がある。苦い葉っぱがほとんどで、こちらも美味しいものではない。

 

 甘いものについてはさっぱりだ。

 ネズミーは舌がとろけるように、と言っていたが、舌がとろけたら困る。

 彼の緩んだ表情から美味しい物と言うのはよく伝わってきた。

 

 チーズの話に至っては、チュー太の乏しい想像力を殊更に刺激して、涎が止まらなくなった。

 

 そして止めがチーズケーキだった。

 ネズミーが褒めて止まない甘いものを、チュー太の心を貫いたチーズで作ったものらしいのだ。

 

 それ以来、狩りに熱が入らない。

 いつもは腹十二分目まで食べるチュー太だが、ネズミーの話を聞いてから八分目で止めてしまう。

 寝ても冷めてもチーズケーキのことばかり。

 死ぬまでに一度は食べてみたい。

 それには人間の家に行かなければならない。

 そこが難しい。

 

 人間の家は、けして近付いてはいけない。

 誰かに言われたわけではなかったが、それはチュー太の中で掟となるほど大きく膨らんでいた。

 だれそれが人間に捕まった、殺された、なんて話は噂話でよく聞くし、家ネズミのネズミーも人間の家は危険だと言っていた。今までに何匹もの仲間が死んでいったと悔しそうに話していた。

 

 チーズケーキは確かに魅力的だ。

 生きることは即ち食べることであるチュー太にとって、美味しいと言うだけで危険を冒す価値がある。

 一日中走り回っても良いし、半日くらいだったら何も食べずにいてもいい。

 チュー太にとっての危険とは精々その程度であって、けして命を懸けるものではないのだ。

 なにせ、死んだらそれまでなのだから。

 

 食べたいけれど食べれない。

 それがチュー太の心に影を落とし、ため息となって外に出て行く。

 第一、チーズケーキを食べるためのフォークですらよくわかっていないのだから、人間の家に行ったところで途方にくれてしまうような気がする。

 

 食べ切れなかったゴキブリを抱えて、とぼとぼと歩く。長く引く尾は、どことなく元気がない。

 

 チュー太の巣は汚水が流れ続ける下水道ではなく、使われなくなったドブの一角にある。

 水が流れないドブや下水は人間にとっての平地と似たようなもので、ネズミやカエルにムカデなど等、暗がりに潜む生き物達がこぞって巣を作りたがる。

 ロンリーチュー太も例に漏れず、汚泥が乾いて土になったところに枯れ枝を運び込み、中に枯葉や自分の抜け毛を敷き詰めて寝床としていた。

 

 突然、足が止まった。

 なんでだかはわからない。ネズミの直感が逃げろと言ってくる。

 

 ネズミは沈みゆく船から逃げ出すと言う。

 火山や地震を予知して逃げ出すと言う。

 

 もちろん、ネズミに未来の事がわかるわけがない。彼らは違いがわかるのだ。

 それは人間には聞き取れない高音であったり低音である。

 人間には感じ取れない微かな臭いであったり、空気の流れである。

 地面から伝わる振動も、空気が教える大気の震えも、敏感に感じ取る。

 チュー太は、何かを視て、何かを聴いて、何かを嗅いで、全身で感じ取った。

 それをもたらしたのが光なのか音なのか振動なのか、チュー太にはわからない。

 わかったのは、おかしいと言うことだけ。

 

 チュー太は獲物のゴキブリを投げ捨てて、全力で来た道を駆け戻った。

 

 その数分後、轟々と凄まじい勢いで押し寄せた濁流が、チュー太のねぐらを押し流してしまった。

 

 チュー太は知らない。

 ある家が下水工事を完了させ、汚水層に溜まったものをドブに流したということを。

 事が知れれば工事をした業者は厳重注意を受けるのだろうが、それはチュー太と関わる事がない世界であるため割愛する。

 

 

 濁流の危険から逃れると、チュー太は駆ける足を緩めた。

 ねぐらがなくなった怒りよりも、生き延びた喜びが大きかった。苦労して作ったものが一瞬でなくなったのだから悲しいことは悲しい。けれど何時もの事だと割り切っている。

 チュー太の体は小さい。

 小さい利点はあるけれど、小さいゆえの危険も多かった。外敵から逃れるため、ねぐらを変えることは日常茶飯事である。

 今回のねぐらは一ヶ月もった。今までの最短は十分。最長では一ヶ月半だったので、チュー太の視点から考えれば十分長持ちした方だ。

 これがお嫁さんをもらい、子供を育てるための巣となれば話は全く別のものになるが、チュー太は幸いにも独り身でいる。

 

 ねぐらをきちんと作らなくても、少しだけ休める場所があればいい。

 今度はカエルがいない場所がいいな。

 

 下水道にはゴキブリがたくさんいるので、飢えて死ぬ心配だけはない。

 チュー太は新しいねぐらを想像しながら、下水道の奥深くへと歩いていった。

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