チュー太の暮らしは一変した。
昼夜を気にせず、好きなときに起きて好きな時に眠る。
綺麗な水を飲むために、あちこちを探し回る必要はなくなった。壁に据えられた管を舐めるといつでも幾らでも水が溢れてくる。
暗がりを駆け抜けてゴキブリを狩る必要もなくなった。餌鉢にはいつでも美味しい物が入っている。チュー太は知らないでいるが、入れられているのはヒマワリの種。人間が食べても美味しいものなのだから、チュー太にとっては無上のご馳走である。ゴキブリを食べ続けたチュー太だから植物性の食べ物より動物性の方が好みとは言え、美味しいものは美味しい。
時々、甘くて爽やかな食べ物もやってくる。ネズミーの話を覚えていたから、これについては見当がついた。野菜だ。野菜と言うものは種類がたくさんあるらしく、毎回違った味をしている。
美味しい物がたくさん食べられ、好きなときに好きな事が出来る、とても贅沢な生活を送っていた。
乞食は三日やったら止められないと言う。
人間でさえそうなのだ。そこに3ビットのチュー太を置くと、今の生活を止めるなんてとても考えられるものではなかった。それに食べ物は今まで聞いたことしかなかったご馳走ばかり。
チュー太は野性を忘れ、心身ともに弛緩しきっていた。
ただし、チーズケーキはやってこない。
ご馳走に囲まれながら、時々夢に見る。
フォークの前にチーズケーキがやって来ているのではないか、と。
フォークを取り戻したかった。
それが出来ないにしても、一度くらい様子を見に行きたかった。
チュー太の心がスポイルされきる前に転機が訪れたのは、誰にとって幸運で誰にとって不幸だったのか。
待っていたとは言い切れないそれが訪れてしまった。
「人間に捕まったのかい!?」
懐かしい声。前に会った時と違って僅かに欠けた耳が、生きることの難しさを訴える。
チュー太に新たな扉を開いたネズミ。
ネズミーだ。
彼は人家を拠点とする家ネズミ。ましてこの家は、前にネズミーと出会った場所から近い位置にある。ここでこうして出会う可能性は、けしてゼロではなかった。
「待ってなよ。すぐに出してみせるさ」
チュー太は迷っていた。
ここにいれば贅沢な暮らしが出来る。走り回って大して美味しくないゴキブリを狩る必要はない。
でも、出てしまえば。
また戻って来られるのだろうか。
フォークを確認して、すぐに戻ってくれば大丈夫だろうか。
またゴキブリ狩人にならなければいけないのだろうか。
チュー太が声も出せずに悩んでいるのを他所に、ネズミーはハムスターケージを攻略していく。
チュー太が囚われているゲージは四方の壁の内二面が透明なアクリル製で、残る二面は細い鉄棒から成る格子となっている。
中と外とを隔てる出入り口は格子の面についていた。
造りは極々単純である。
壁と同じ格子状の扉がクリップで留められているだけなのだ。
もちろん、市販のハムスターケージがこんな単純な構造であるわけがない。
これはお爺さんの自作なのだ。
アクリル材はホームセンターでカットしてもらい、格子は知り合いの網戸職人に頼んで作ってもらった。
底部は木製で蓋部はやはり格子製。
老人は暇なのです。
チュー太は3ビットだが、人家暮らしが長く様々な罠を潜り抜けてきたネズミーの頭脳はそれをいくらか上回る。
ゲージの周りを二回三回と回り、壁を揺するうちに動く部分に気がついた。
さすがのネズミーだった。
あっさりとクリップを外してしまった。
「早く出るんだ。そこの君も一緒に行こう」
お爺さんは元から一匹のハムスターを飼っていた。そこにどういうわけかチュー太が加わり、二匹になってしまった。チュー太のためにわざわざ新しいケージを用意することは出来ない。
このケージには、チュー太ともう一匹のハムスターが暮らしていた。
千切れた新聞紙の中で眠る彼に、ネズミーは最初から気付いていた。
返事はなかった。
ネズミーの声に気付かないわけではない。きちんと聞こえている。
つまりは拒否。
チュー太と同族である彼は、やはり一匹でいることを好んだ。
お爺さんもハムスターの習性をきちんと知っていて、だから最初は彼一匹のケージだったのだ。
そこへ突然やってきたチュー太。
狭いケージに二匹のハムスターが入れられれば喧嘩が高じて流血沙汰になってもおかしくない。
そうならなかったのは、チュー太が彼を刺激せず静かに暮らしていたからだ。
圧倒的弱者として野に生きてきたチュー太は、わざわざ騒ぎになるようなことをけしてしない。
そのチュー太は、ネズミーに誘われるままにケージの外に出て行った。
それを横目で見つつ、彼はまた眠りについた。
「残りたかったのかい?」
畳の間をしのび足で進みながらチュー太はしきりに後ろを振り返っていた。
残りたかったのか、どうなのか自分でもわからない。
ただフォークが気になるだけなのだ。フォークを確認すれば戻るつもりでいた。
3ビットのチュー太でも、ネズミーが囚われていた自分を助けてくれたのはよくわかっている。
だからフォークのことは話せても、戻るつもりでいることは話せなかった。
数日のこととは言え縦横に駆け巡った伊豆家については、今日初めて侵入したネズミーより詳しいチュー太だった。
立て付けの悪い襖の隙間を潜り、昇りやすい壁と電気のコードを伝って見つけておいた壁の穴を通り抜ける。
後をついていくネズミーは感心していた。
下水で暮らすドブネズミだったチュー太が、こうも堂々と人家を駆け回るとは思ってもみないことだった。それでもやはり年季が違う。
「食べちゃダメだ!」
チュー太の行く末に見慣れぬお団子があったのだ。
とても美味しそうな匂いをさせていて、食べればきっと甘くてとろけるに違いない。
ふらふらと近付き、噛り付こうとしたところをネズミーが厳しい声で止めた。
「これは石見銀山だ。食べると死ぬ」
別名猫いらず、又はねづみとり。
ネズミーは、家ネズミの同胞が石見銀山によって死ぬところを何度も見てきた。
食べるととても苦しい思いをして死んでしまう。
チュー太はネズミーの話を震えながら聞き、注意深く台所に侵入した。
石見銀山のお団子が幾つも置かれていた。
お婆さんの仕業である。
お爺さんが「まあまあ」と宥めてくるのだが、お婆さんは本気だった。
ネズミが我が家に侵入して大人しくしている人ではないのだ。
ネズミが通りそうな要所要所に石見銀山のお団子を仕掛けておいた。
お婆さんの狙いはどんぴしゃりで、事実、チュー太はあと一歩でお団子を食べてしまうところだった。
設備業者と戦うことに決めたお婆さんにとって、ネズミなんてなんのそのである。
一方のお爺さんは気が気でない。愛ハムスターの星介(先住ハム)と星太郎(チュー太のこと。どちらもお爺さん命名)が間違って食べてしまわないかと心配し通しで夜も眠れない。
お婆さんの思惑とお爺さんの心配を他所に、ネズミーの警戒とチュー太の先導により、二匹はなんの問題もなく台所の食器棚にのぼっていた。この一番奥にフォークが隠してあるのだ。
もしかしたらチーズケーキがやってきているのではないかと思うと、チュー太は胸がドキドキしてきた。
奥を覗いてみると、チュー太の夢があった。
黄色くて甘い匂いをさせている。
ふかふかしてとても柔らかそう。
ネズミーが話してくれた通り。
チュー太の目にはどう見てもチーズケーキで、ネズミーが判断してもそれはチーズケーキだった。
「待つんだチュー太!」
目に入ったと同時にチュー太は駆け出していた。
ネズミーの制止の声は聞こえなかった。
夢にまで見た愛しいチーズケーキが目の前にある。チュー太にはチーズケーキしか見えていない。
頭からチーズケーキに突っ込み、重しが動いたことによって僅かな振動が仕掛けに伝わり、留めていた強力なバネを解放した。
バチン、と静かな夜に大きな音が響いた。
ネズミ捕りが正常に作動した。
お婆さんは、本気だった。
ネズミが我が家にやって来たことを知ると、手が届くところ全てを掃除してネズミの痕跡を探し回った。その結果、食器棚の奥にネズミの毛と千切れてなくなった炊飯器のプラグを発見。そこがネズミのねぐらと中りをつけ、取って置きのトラップ、板バネ式のネズミ捕りを仕掛けておいた。
俊敏なネズミを相手にする罠なのだからネズミ捕りに使われるバネは強力で、これに掛かったネズミは、特にチュー太のように小さいネズミは先ず即死する。
「ぶじかい? ちゅーた……」
チュー太は生きていた。
即死トラップは彼を傷つけることなく、正常に作動した。
チュー太がチーズケーキに頭を突っ込む寸前に、ネズミーが彼を突き飛ばしたのだ。
結果、チュー太の代わりにネズミーが挟まれてしまった。
頭や胴体ではなく、尻尾の根元だったのは不幸中の幸いと言っていいのかどうか。
ネズミを即死させるバネ仕掛けは、ネズミーの尻尾の骨を容赦なく砕いた。引っ張っても抜ける気配はない。
じわじわとにじむ血が、死を予感させた。
チュー太はチーズケーキを忘れ、一歩も動けなくなった。
ネズミが死ぬところは何度も見てきた。チュー太が原因で死ぬネズミだっていた。だけど友だちが死ぬのは初めてだった。
ネズミーは孤独なチュー太にとって初めての友だちだった。
それが死ぬ。
チュー太の食い意地の所為で死ぬ。
ネズミーが苦しそうに鳴いた。
「ちゅー……たに……たのみたい……」
震えるチュー太の心にネズミーの言葉が沁み込んできた。
僕はもう動けない。だからチュー太に頼みたい。今日あったことをたくさんの家ネズミ達に伝えて欲しいんだ。囚われているネズミのこと。石見銀山のこと。ネズミ捕りのこと。人間の恐ろしさを一匹でも多くの家ネズミに広めて欲しい。どうすれば人間の家で暮らせるのか。どうすれば人間に捕まらないでいられるのか。たった一匹で生きてきたチュー太ならもう全部わかるよね。僕は最後にどじを踏んだけど、チュー太はそうならないでくれ。生きて生き抜けばいつかチーズケーキにだって出会えるさ。僕だってまだ食べた事ないんだ。いつかチーズケーキの美味しさを教えてくれよ。チーズケーキを食べるまで僕のところに来るんじゃないぞ。
ネズミーの言葉は終わる気配がなかった。
ネズミーが今までに得た知識の全てをチュー太に伝えようとしているのだ。
安全な家。安全な侵入経路。毒の見分け方。気付かれない眠り方。
チュー太も3ビットの脳みそをフル稼働させて、ネズミーの言葉を一語一句刻んでいく。
けれど何事も終わりがある。
ズシリ、ミシリと音が響いてきたのだ。
人間だ。
まだ暗い時間なのに人間が起きだした。
人間がやってくればネズミーは死ぬ。
チュー太は逃げなければいけない。
チュー太はネズミ捕りに掛かったネズミーを置いて、
「ちゅー」
万感の思いを込めた鳴き声を残した。
翌々年の伊豆家では、毎日きちんと自宅のお風呂が使えるるようになっていた。
設備業者との裁判には勝ったものの、肝心の倍賞能力が皆無でそもそも社長が夜逃げしてしまったのだからどうにもならない。
下水とお風呂の工事はストップしたままだった。
町が指定した業者なのだから町が保障するのが筋ではないかと思うのだが、それはそれ。これはこれである。誰だって余計な出費は一銭だってしたくないのだ。
そこをどうにかしてしまったのが御年九十を超えいまだかくしゃくとしているお爺さん。
老人というのは怖いもので、誰某の若いころはこうだった。あいつの親父はこんなことをしでかした。あそこの工事はこれこれこういう訳で始まった。恐ろしいことにみんな知っている。
世が世なら長老と呼ばれておかしくない。その影響は町長だろうと町議会だろうとけして逃れられない。田舎の良いところでもあり悪いところでもあった。
結局、町長が町の不手際を認め、残りの工事は町が全額保障して完遂したのだった。
ネズミーは生きていた。
伊豆家の押入れにあるハムスターケージで今や老いさらばえた体を横たえている。そろそろ三歳になろうというネズミーは、残る寿命が秒読み段階となっていた。
あのとき現れた人間はお爺さんだった。
真夜中に響いた物音を聞いて、もしやと探し回ったら傷ついたネズミーを見つけたのだ。すぐさま老人ネットワークの影響下にある獣医を呼び出し、治療に当たってもらった。
特別往診料を含めて(夜間診察をやってない獣医さんだった)、治療費は七千円掛かった。もちろんお爺さんはネズミーがハムスターでないことくらい承知していた。
野良ネズミを獣医に見せて治療してもらうなんて、常人ならばバカじゃないかと笑うところだがおじいさんは耄碌していたわけではない。
お爺さんはねずみ年だった。そしてシベリア抑留組。極北の大地でネズミを食べて命を繋いできた。
ねずみ年なのにネズミを殺してきた。その事実に長の年月悩み、傷ついたネズミーを見つけた時はこれぞ天啓と受け取ったらしい。
お婆さんは大反対していたが、お爺さんもこれは譲らない。ネズミーがネズミに似合わずとても賢かったのも手伝って、ネズミーは名を小太郎と改めて伊豆家の一員となったのだ。
星介は先日他界した。
小柄なハムスターの常で寿命が短い。
もうチュー太も生きてはいないだろう。
ネズミーは思い出す。
人家を駆け回ったこと。次の家を目指すのに下水を通ったこと。猫に追われて耳をかじられたこと。
一番の思い出はやはりチュー太。
ドブネズミなのに家ネズミをやり、人間に囚われてしまったハムスター。
人間に囚われて、こんなに穏やかな生活を送れるとは思ってもみなかった。チュー太には、もしかしたら余計なお節介をしてしまったのかも知れない。
謝ろうにもあれからチュー太には会えていない。
もう夢の中でしか会えない。
そしてネズミーは夢の中だけで生きる存在になった。
夢の中のチュー太は、ネズミーが良く知る姿で元気に駆け回っている。
駆ける先にはチーズケーキの山。
チュー太は夢を果たしたのだ。ネズミーも一緒になって動けなくなるまでチーズケーキを食べ続けた。
幸せな夢を見続けるネズミーのケージの前。
そこに小さな小さなかけらが落ちていた。
耳掻きですくったような小さなかけら。
かけらは白くて黄色くて、しっとりと甘い匂いをさせている。
レアチーズケーキの欠片が落ちていた。