「フォフォフォ! フォフォフォ~ウ!」
聞きなれた声と共に、腕に柔らかい何かが押し付けられた感触がする。
この感触と聞き馴染みのある声。触れているのはきっとフォウくんだ。
言葉は分からないが、言いたいことは分かる。フォウくんとはこれまで築いてきた長い付き合いがある。
まず間違いなく、『起きろ藤丸立香!』。
……まぁ、このタイミングで起床を促す以外の選択肢はないと思うが。
むにむにと押し付けられているフォウくんの感触は、マッサージみたいでちょっと気持ちがよい。
このまま寝返りをしてうつ伏せになったら、背中を踏むマッサージでもしてくれないだろうか。
「フォフォ! フォウフォウ!」
オレがマッサージを受けても、ではなかった、起床を促されても起きなかったものだから、フォウくんはオレをバシバシと強く叩き始めた。先程よりも三段階くらい力が増しているが、これでも加減してくれているのだろう。やや痛みを感じる強さだが、これはこれで悪くない。フォウくん、君は一流のマッサージ師になれる。
「フォフォ、フォッフォウ!」
『いい加減起きろ』とでも言っているようなので、流石に起きるかと思って、声に従い体を動そうとした……のだけれども、身体は鉛のように重く、全身には異様な倦怠感が覆って動けなかった。それに抗おうとすればするほど、睡という魔に引きずり込まれるような。
「許して……昨日は大変だったんだよ……」
こうなった理由は分かっている。
原因は前日に遡る。
*
『助けてくだされ!』
──昨夜、たまたま書斎に足を延ばした際に聞こえたのは、カルデアのどこかで助けを求める悲痛な声だった。
泣きたくなるようなその声の助けに応じて真っ先に向かう……ことはしなかった。
先程聞こえたのは世を絶望したかのような悲痛な声だが、この声の主は外敵などによる悲鳴ではないのは分かったからだ。
これは単なるシェイクスピアの呻き声だ。それも九十九パーセントが自業自得の場合の。
『誰か、いないのですかー!』
首を突っ込めば、明らかに面倒事に巻き込まれる。こういう場合はスルーが定石だ。
厄介事に巻き込まれた回数は、数えれば枚挙にいとまがない。この悲しみは聞かなかったことにして、自室に戻るのが正解だ。書斎に向かっていた足は踵を返して帰ることにする。
『助けてくだされ――!』
悲痛な声は続く。声に追いつかれないように、足を速める。スピードは徒歩というよりも競歩に達している。
ぐんぐんと現場から距離を離すのに比例して、聞こえる声は小さくなってくる。
『……誰か、助……て……』
……心なしか、距離を離す以上に音が聞こえなくなっているような。
スルーだ! スルーは定石中の定石だ。ここは頑としてスルーすべきだ。心を鬼にするのだ、藤丸立香。
でなければ、改めて翻したその踵の行先は悪夢しかない。
『…………』
やがて、声は完全に聞こえなくなった。
声が聞こえないくらい遠くに振り切ったというか、多分、シェイクスピアが先に力尽きてしまったのだろう。
何もかもが絶えてしまった世界のように、あたりはシンと静かになった。
何だろう。声が聞こえていた時よりもバツの悪さを感じる。
”言葉が役に立たないときには、純粋に真摯な沈黙がしばしば人を説得する”
そう述べたのは彼の著作だったか。まさしく沈黙が、彼の悲しい今を色濃く表して説得してくるようだ。
……オレの中にも何かを憐れむ情というものが存在しているのが憎らしい。
完全なる自業自得なのだろうけれども、放置するのも哀れになるくらい悲痛な声に後ろ髪を引かれてしまったオレは、死地へ赴くことにした。
ダッシュではなくゆっくりとした徒歩で。
精一杯の抵抗として、なるべく到着時刻が遅くなるように。
*
声の元があっただろう部屋には、残念だがすぐに辿り着いてしまった。
きっとこのドアの先には屍がある。が、死者の墓を暴くのはいかがなものか。ここはそっとアール、アイ、ピーを刻み込んで帰った方が……と、ここまで来て後ろ向きなことを言うのはいい加減やめにしよう。
開けるのだ。開けると決めたからここに来た。であればやらねばならぬ。
軽く息を吐いてから、軽く手を握って、開いて、もう一度握って、ドアに向かって控えめなノックを三回する。
「……」
返事は無い。少し待ってみる。
「…………」
返事は無い。少し待っても開かなかったので、力を強くしてもう三回扉を叩く。
「………………」
返事は無い。扉も開きそうになかった。聞こえてないとは思うのだが。もしかしてドアノブを開けないくらい衰弱しているのだろうか。
申し訳ないが返事を待たずに開けてみることにした。
いつもより冷たく感じるドアノブを握って、ゆっくりと開いた扉は、音を立てずにすんなりと開いた。
開いた部屋の奥には人影が見えた。人影は二つ。
机に突っ伏している作家、シェイクスピアと、それから──、
「先生! 休憩するにはまだ早いわよ! 休憩はあと五分してからなんだから!」
──己を解放した編集者、ビーストモードのクロエがその後ろで仁王立ちしていた。
うん。なるほどなるほど──、来て損した。
密室。それから作家と編集者が一人ずつ。
となれば答えは一つしかない。そこにはミステリーも何もない。空から落ちたリンゴが地面に激突するように、一を二回足せば二になるのが自然なように。
なんてことはない。これは単なる執筆作業の缶詰である。
「はい! 二十五分終了! 五分休憩大丈夫です! 先生! お水をどうぞ!」
眺めている間に丁度一区切りついたらしい。二十五分と五分というのはポモドーロ法という奴だろうか。集中と休憩を繰り返すと効率がよくなる作業方法だと言っていた。先程の沈黙は死んだのではなく、ポモドーロ法によって管理された集中の時間だったのだろう。集中するためなら無駄口は厳禁だ。
生気の抜けたシェイクスピアにクロエは、シェイクスピアにペットボトルの水を渡した。セコンドが甲斐甲斐しく選手のサポートへ入るみたいに。
シェイクスピアの弱々しい手元にペットボトルを握らされたが、しかし、その腕は口元に向かうことなく力なく揺れていた。貰った水を飲む体力すら無いようだ。
「また飲めないんですか? 駄目ですよ! これで丸一日水分を摂取できてません。例え執筆がインドアなお仕事であっても、適切な水分補給は必要です」
クロエは水分補給の重要性を訴えかけるが、シェイクスピアの腕はうなだれたまま動かない。健康だとかを気遣うような気力は、とうの昔に切れてしまっているみたいだ。今の彼は喉の渇きに留まらない。精神力その他諸々まで真の髄まで全てを出力し終えたカラカラの出涸らしだ。
完全に燃え尽きたシェイクスピアを見て、このままではにっちもさっちもいかないことが分かったのだろう。クロエは渡したペットボトルを取り上げてキャップを開けると。
「クロエ、行っきまーす!」
そのまま飲み口を思い切りシェイクスピアの口の中に突っ込んだ。
「ゴッ!?」
シェイクスピアは出していいのか分からない声を出した。口元にいきなり突っ込まれたシェイクスピアが、ピクピクと小刻みに震えている。
オレは恐怖に慄いて声を出しそうになった。
脱水は良くないので、これも救命行為の一環かもしれない。が、水を飲まない人へのアプローチなら、まず飲みやすいストローを付けるとかではないのか。なんだその奥の手を持っているなら何故使わないのか、みたいな流れるような速攻奥義は。
しかしながら、人道無視的な行いに対し、ペットボトルを突っ込まれた体は水分不足を取り戻そうと、見る見るうちに水を減らしていった。結構がっつり突っ込んでいるのだが、水は一滴も零れていない。
絵面が非人道的過ぎるが、飲ませ方が上手だなぁと思い始めてきた。これを飲んでいるというのかは不明だが。
そうこうしている内に中身は空になる。クロエは口元に差されたペットボトルを取り出してゴミ箱に捨てた。
水が与えられたので、シェイクスピアからは干からびた感じだけは無くなっていた。
ただ心の方は全く回復していないようで、椅子に座ったまま燃え尽きたままであった。当たり前である。
「よし、水分補給はこれでばっちり! ゆっくり休んでくださいね。五分後、もう残り三分か。少し休憩したらまた再開するんですから」
再開という言葉を聞いたシェイクスピアは、最期残っていた魂さえ抜かれてしまったのだろう。辛うじて支えられていた自分の体を保ち切れずに、床へと倒れこんだ。ズシャッと嫌な音を響かせながら。
絶対に痛い音がしたが、痛みに悶えるような反応もなかった。もはや痛みすら感じていないのかもしれない。
「シェイクスピア先生。こんな床で寝ると風邪ひきますよ。せめてソファーに、って、聞こえてないみたいね……。全く、本当にしょうがない先生ですね」
異音を立てながら倒れ落ちたシェイクスピアに対し、クロエはいそいそと毛布を掛けている。
「先生。サポートは私に任せてください。私は先生の手の支えになります。先生がそのペンをずっと持ち続けられるように。二十四時間、三百六十五日、ね」
そう言うとクロエは机の上に投げ出されていたペンをそっと手に取り、倒れ込んでいたシェイクスピアの右手に優しく持たせた。
……大の大人が小学生に管理されているのは、非常にグロテスクな光景である。
助けに来たが、流石にこの状況を打破するには、オレの身には余り過ぎる。
オレの他に
一時撤退しよう。
このまま気付かれないまま帰るのが得策だと判断したオレは、「失礼しました」と囁くように言いながら、何も見なかったことにして開けた扉をそそくさと閉めた。
しかし、足早に立ち去ろうとしたのが裏目に出た。
扉を引くのが早すぎたのだろう。扉を閉める時にうっかりと音をキィと鳴らしてしまった。
まずい! そう思ったのも束の間。深淵のような暗い双眸に怪しい光が宿るのを見た。床に伏していたシェイクスピアが、即座にオレの方を見ている。
後退りして、扉を閉めて急いでこの場を離れようとするも、時は既に遅かった。
「マスター! 激励に来てくださったのですね!」
瞬きの間にこちらへ辿り着いたシェイクスピアは、オレが閉じようとしたドアノブの裏側を強く握りしめていた。
寝そべっていた筈なのに一瞬だった。先程までいた場所には毛布だけが取り残されている。今ここにビーチフラッグがあれば、アキレウスにすら匹敵するではないかと思わせる気迫があった。
シェイクスピアは、死んだ顔でオレに微笑みかけている。表情こそ救世主が現れたという顔だが、土気色となっている顔が繰り出す満面の笑みは万人に怖気を感じさせるだろう。ホラーハウスならよくできた演出だ。
「お疲れ様。執筆頑張ってね」
だが、生憎とホラーは間に合っている。
笑顔の激励と共にドアノブを閉めてこの場から退去ようとするオレと、一方でオレを絶対に逃がすまいとするシェイクスピア。熾烈なバトルが水面下で繰り広げられる。
ドアなど開け放したまま逃げればいいじゃないか、と言うのは甘い。今のこのシェイクスピアのスピードから逃れられる訳がない。しかし、この部屋を
双方から引っ張られた扉はガタガタと音が激しく鳴っている。壊れる可能性があるが、自分が壊れるよりマシだ。
攻防が続くも、相手は体力が切れかけのシェイクスピアだ。如何に彼が亡霊のごとき執念を持つとは言え、徐々に
この勝負、勝ったな!
勝利を確信。
した瞬間。
シェイクスピアの後方から声がした。
「あら、マスターじゃない。どうしたの?」
背筋に、鳥肌が立った。この声は。
そうだ。何故忘れていたのだろう。目の前の戦いに明け暮れていたが、本当の
圧倒的な眼光を前に、蛇に睨まれたカエルのように、オレは固まってしまった。
その動揺で扉を持つ力が抜けたのを見抜いたのだろう。一気にシェイクスピアは扉を開け、オレはそのまま強制的に
「はぁっ、はっはっ! よ、うこそ! はぁっ、はぁ! 待ちわびておりました。協力に来ていただきっ、ありがとう、ございます」
息も絶え絶えに、
「なんだかよくわからないけど、もしかして手伝いに来てくれたの?」
クロエは状況を飲み込めていないようだが、協力という部分を聞き取ってオレをシェイクスピアの
「そう、そうです! 吾輩のお呼びした助っ人ですぞ!」
「呼ばれてない! 呼ばれてないから!」
強く否定する。ただちょっとこのホラーハウスから後ろ髪を掴まれて、そのまま引きずり込まれてしまっただけ。引きずり込むことは呼んだと言わないのである。
「マスターも手伝ってくれるってこと? やりぃ! これで二馬力の編集者で執筆パワーも二倍! 先生の締め切りも二分の一ね」
クロエはオレの手をがっしりと両手で包み込み、強い握手で上下にブンブンと手を揺らした。
オレの話など聞こえていないようだ。ケモノと化したビーストは人の話を聞いてくれない。力強く握られた手は、振りほどけそうにもなかった。
もしオレがノーと言えばどうなるのか。多分否定の言葉はここでは許されていない。
「そうだね……」
腹から絞りだして肯定すると、クロエは、うんうんと嬉しそうに頷いている。
「マスターには何をやって貰おうかしら~」
何かしらの
特異点に行くまでに、カルデアのくだらない話がぼちぼち続きます。
筆が非常に遅いので更新は遅くなりますが、正気に戻って作品を消さない限りは絶対に完結する予定です。
よろしくお願いいたします。