故事成語を言ってくる諸伏高明も、言葉巧みに追い詰めてくる諸伏高明も居ない。
なぜなら、作者のオツムが残念だから。
※少々性的暴行について扱っています。
作者は法律に詳しくありません。あしからず
轟々と荒ぶ雪が視界を覆い、瞬きの間だけピントがあった先に、樹はいつもいた。
地中海の温かく穏やかなシチリアの目を持ちながら、長野の湿気さえ凍てつく冬の嵐と雪を纏った人。
ホワイトアウトした視線が自分を穿つとき、僅かに血の匂いがした。
竹馬の友である大和敢助は、自分より僅かに血の香りに詳しかったように思う。
それが当時の自分と敢助の実力の差であった。
そう記憶している。
<頼むから、殺されるなよ。>
そう締め括られた手紙となるメモ用紙の、読みづらすぎる手書きの文字に、安堵と厄介さと懐かしさを感じ、
ほとほと困り果てている目の前の小さな客人は、その溜め息に怯えたものの、諸伏が微笑みを返すとホッとしたように似たような笑みを返した。
良かった。
反応を返せる程度には回復している。
見知った症状を羅列している手紙から、弟と自分を割いた事件を彷彿したが、頭を振って思考を戻した。
――――――――――
長野の春は寒い
春という名の冬である
長野に四季はない
冬夏冬冬が正しい。
温暖化が進んで諏訪湖のお御渡りが来てないやらなんやらあるのは分かるが、それはそうとして紫外線だけがやたら強くて、只々ずっと寒い。
そもそも山だけの標高が高い訳ではなく、地理的に全部の標高が高いので総じて寒い。
居住可能な地域は盆地のくせして、標高は高雄山の頂上に住んでるに等しく、回りは3000m級に囲われているせいで六甲おろしならぬ南北アルプスおろしが吹きすさぶ。
何が言いたいかというと
この日長野は春の良く晴れた日で、例年のごとく日中でも気温5度を前後し、乾燥した刺すような風が吹きすさみ、買い物帰りの諸伏高明と、アパートの扉前で諸伏が帰るのを待っていた小さな客人を、良く冷やした。
白い顔を更に青くして、毛糸の帽子やマフラーからはみ出た耳や鼻が真っ赤に染まって、唇の色は消え失せ、手袋越しでもわかる震え、普段子供と接しない諸伏にも分かってしまうぐらいには寒そうであった。
最近では浸透している危険行為、真夏の車内に子供を置いていくのとは真反対の、真冬の外に子供を置いていく所業をしている奴に怒りがわくも、取り敢えず人命を優先し、自分のコートを子供に掛け抱き上げ室内に駆け足で入れたのは長野では普通の判断だ。
決して誘拐ではない。
そこで子供に身分証明書と共にメモ用紙に書かれた手紙を渡され、エアコンと灯油ストーブ、ホットカーペットその他全ての暖房器具の電源をいれつつ読んだ内容は頭痛ものだった。
手紙曰く、
現在この子供の命が狙われており
諸伏に、一旦甥として、あまり子供の存在を公にせず預かってほしく
樹の用意が整ったら迎えに来る予定(時期未定)
子供は心因性の失声症があり、
発作と夜泣きもあったが、落ち着いてきてる状態。
現在の樹はひと所に留まれない生活をしていること。
命に関わることなので、あまり巻き込みたくなかったが、子供の身の上状況的に現在頼れるのが諸伏しかいなかった旨、
そして最後に
頼むから殺されるなよ。
諸伏は、もしかして可愛い弟の子供、の可能性がある事を示唆した内容を無理やり飲み込み
甥の緑川光と生活することになった。
――――――――――
まず、諸伏には子供は居ない。
認知や親権の話をしたいわけでもなく、事実として子供はいない筈である。
ここ数年ご無沙汰であるし、もしこの年齢の子供がいたとして、その当時は警察になったばかりで忙しくてそれ所では無かったと記憶している。
とすると弟の景光かと考えるが、その場合二十歳過ぎたあたりの子供となってしまう。
大学生の頃の弟がどのような遍歴をしていたかは知らないが、懐に入るのがうまい人間性であったため、無くはない……
無くはないが……
弟の知らぬうちに相手が産んでしまい、そのまま秘密裏に育てて何かの拍子にバレて……
「ありうるか……」
一人暮らしの長い諸伏は多くなった独り言を落とすが、小さな客人
いや、光が独り言にビクリと驚く様にまた微笑みをおとした。
懐かしい。
諸伏家の兄弟は似ているから、と自分の可能性を考えたが、やはりあまりに弟にそっくりだった。
所作も、顔色をうかがう目も、心因的な失声症も、似なくてもいい事まで何もかも。
やはり弟の子のように思えて仕方がない。
諸伏の知る過去の情報から考えるに、弟の景光は公安に所属している。
そして兄の諸伏からも行方をくらましたところを見るに、潜入捜査、それも結構大きい組織に入っているのだろう。
そう予測していたが、何をめぐったかまさか樹と繋がっているとは
……頼る先として最悪な選択に少し心配度を上げる必要がありそうである。
樹とは中高とクラスは一度も被らなかったが、竹馬の友である大和敢助とは6年間同じクラスだったはずだ。
己の甘酸っぱい初恋と共によく覚えている。
諸伏の初恋の人である小橋葵の所謂親友であった樹は、よく小橋の話に出てきていた。
小橋と中学から6年連続で同じクラスだった諸伏は、小橋に会いにクラスに来ていた樹を見ていたし、小橋に紹介もされていたし、なんやかんや敢助を含んでよく4人でつるんでいた。
高校の頃には勉強面で大和が勝負にならなくなっていた中、ずっとビタ付け2位で居続け、
しまいには高校3年次に、1位になったら何でもいうこと聞くから本気出せと、止める敢助を無視し啖呵を切った諸伏に、定期テストから模試から何から、テストと名がつくもの全てにおいて1位を取り続けた樹の顔はよく覚えてる。
そういえば夏以降見かけなくなり、そのまま約束を果たすことなく卒業し音信不通になったな、と諸伏は己が口約束を終えていないことに戦慄した。
あの時は東都に行く準備だったり人間関係だったりに色々忙しく、そのままになっていた。
卒業式はやたらと視線をうろつかせる敢助が記憶に残っていたが、もしかして卒業式さえ参加していなかった気もする。
当時小橋にフラレて心が死んでいた諸伏には苦しい記憶しかなく、今やっとその事実に行き着いた。
「光くん……。」
現実に戻った諸伏が、青い顔をしながら声をかける姿に少年はおろおろとするが、ただ可愛いだけであり、その姿は記憶にある在りし日の弟そっくりで、懐かしさに泣きたくなるだけだった。
「僕は君のお父さんの兄に当たる諸伏高明……と申します。
光くんが樹さんとどういう関係なのかは分かりませんが、樹さんが迎えに来るまでは僕の家に一緒に住むことになる。
もし、……」
もし、望むならこのまま引き取って良いのではと悪魔がささやくが、光の命を狙われてることを思いだし首を振った。
樹がどういう立場であるかは分からないが、さすがに樹一人ではないだろう。
何なら景光の所属しているであろう公安と共に動いている可能性の方が高い。
自分のところより、ちゃんと組織で動いてる樹と一緒の方が良いに決まっている。
「いえ、短い間ですが仲良くしてくれると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。」
そう言って手を差し出した諸伏に、光は恐る恐る小さな手を重ね、頭を下げた。
読唇術が無くてもよろしくと挨拶してるのが分かった。
――――――――――
光と生活することになり最初に困ったのは、諸伏が家にいない間どうするかだった。
書類を見るにまだ小学生には上がる年齢では無いようである。
景光の小学生頃の体格と同じだったため、勘違いしたが、もし行くなら保育園かと昨今のあまり良くない保育園事情を思い出した。
だが、そこはさすが公務員。
甥っ子を少しの間預かることになった旨を早々に上司に報告した所、数分で必要書類を一式用意され、有給のある数日で激戦の保育園枠を確保してきた。
何なら樹は予測していたのか、保育園に必要な書類が全て手紙(という名のメモ用紙)と一緒に渡されていたので手際の良さに舌を巻いた。
着替えは光が持ってきた鞄の中にあったもので数日すごし、その間に必要なものを買い足すだけで済みそうだった。
何れも新品だったことが気掛りだったが、命を狙われているなら着の身着のまま保護されたとて可笑しくは無いかと納得する。
布団は来客用が一組あったが、治まったといえ、心因性の発作等の心配があったので、すぐに分かるように共寝していた。
最初は恥ずかしがっていたが、数日で普通にベットを占拠する姿が見れるようになった。
しかし、保育園に通いだしてひと月を過ぎたあたりから夜中に光がベットから出ることが増えた。
最初はトイレかとそっとしてたが、段々と戻るまでが長くなったあたりで、様子をうかがうようになるが、どうやらリビングでただ、ぼうっとしているだけのようであった。
数日はそのままそっとして置いたが
後日保育園で何かあったのだろうかと探りを入れてみるも、園児同士の小さな諍いはあれど特に何とあるわけでもなく。
嫌がりもせず保育園に行く姿をみれば、嘘を付いている様子でもない。
喋れない弊害はあれど、ひらがなを樹に習っていたのか、拙いながら保育園では文字でのコミュニケーションがおおよそ取れていた。
当時小学生だった景光より随分と自然に文章で会話するものだなと、光と園児のポテンシャルに驚いたのも記憶に新しい。
最初に健康診断に病院へ行った際、心因性の症状はトリガーが分からないからよく注意するよう言われていた。
発作と夜泣きは落ち着いたと手紙にあったが、樹は現状を把握してたのだろうか……
色々な考えがめぐる。
一度医者に相談もしてみたが、医者相手では警戒心が強いのか光の口は固かった。
また今日も中空を眺める光をドアの隙間から確認する。
今日はさすがに声をかけるかと思っていたところ、中空を眺めていた目が目蓋にしまわれ、そのまま寝息をたて始めた。
成る程、確かに寝ていたらベットに帰ってくるのは遅い。
そして心配させないようベットに戻るために、朝方もう一度起きてたのかと気付く。
諸伏は静かな寝息に近づくと、そっと光を抱き上げる。
声無き声が「寧蒙」と呼んだ姿をみて、樹が諸伏より遥かに光の信頼を得ていたことがうかがえた。
嫉妬心が沸き上がると同時に、もしかしての可能性に戦慄する。
母親が樹の可能性はゼロではない。
候補にも浮かばなかった名前に諸伏は、次に会った時どんな顔をすれば良いのか分からなくなりそうだった。
お前が良いなら良いんだけれども……
諸伏は弟の悪すぎる女の趣味に、少し心配になった。
――――――――――
「あの、相談したいことが……無いです。」
一応同じ捜査班である大和達には光を紹介したし、口止めしたうえで可愛い自慢も散々しているので、この目下の悩みも共有しようとしたが、ふと大和の相関図的にあんまりよろしく無いような気がした諸伏は、そっと口を閉じた。
連日相談と言う名の甥自慢に辟易していた大和班は様子の可笑しい諸伏を無かったことにした。
竹馬の友である大和敢助には幼馴染みに上原由衣がおり、上原の初恋で、今も思っている相手は大和なのは周知の事実だが
さすがに当時の大和の恋慕先が樹というのは周知ではない。
昔から大和と樹はこの話をするとお互いに嫌な顔をして否定してたが、当時樹の稀有な経歴という真相にたどり着いたのは大和だけであったし、その分二人の距離が近かったのを否定されたことはなかった。
卒業式に現れなかった樹を愁い溜め息を着いていた気もする。
最近傷心以外の記憶を取り戻した諸伏は冴えていた。(冴えてはいない)
上原は樹を知らなければ会ったこともないはずなので話をするのは憚られるし、そもそも大和の恋慕を知ってるのかさえ怪しい。
大和に関しては、恋慕相手の子供の話しとなればしんどすぎる。
ただ、どちらの事情も把握していて、誰にも相談できない自分が一番辛いのは確かである。
もし、母親が樹だった場合。
光が樹を寧蒙と呼ぶあたり、光には”母親が寧蒙"とは認識させずにきたと言う事実にめまいがした諸伏は早退を願い出た。
「敢助くん今日は……定時で帰ります。」
「目の前の書類の山みてから言ってくれ。」
山をみて、早退から定時に変更したのに……
優しさに気付かない大和はその日、ちゃんと山を片付け定時に帰った諸伏に置いていかれた。
※残された敢ちゃんはスタッフ(上原)に無事回収されました。
光はソファで意識をおとした筈がベットで目覚める事に最初不思議がっていたが、その姿をみて微笑む諸伏に、犯人を確信し、放置することにしたようだった。
相変わらず、夜中にベットから抜け出すが、その頻度は以前に比べて遥かに落ち着いたと感じた。
その矢先だった。
光が過呼吸を起こしたと保育園から連絡がきたのは。
事件の捜査中だった諸伏は、大和と上原に無理を言って現場を抜け、すぐさま保育園に向かった。
朝出たときは特に何も可笑しいところは感じなかった。保育園で過ごしてる内に何かトリガーがあったのだろうか。
運転しながら気を揉むしか出来ない時間は苦でしかない。
息急く勢いで園に着くと、別室に案内された。
お昼寝している間に呼吸がおかしくなり、周りを起こさないよう自分で這って教室の外に出てきたそうで
見廻りにきた先生が気付いて事が発覚した。
光は少しぐったりとした様子で窓の外を眺めていた。
その様子が家のソファで中空を眺める姿と重なり、諸伏は思わずぎゅっと抱き締めてしまう。
「お待たせしました。」
いつもはしないハグに驚きつつ、仕事は?とばかりにこの時間に諸伏が居ることが信じられない目に、諸伏は苦笑を返した。
「いっぱい息して疲れたでしょう。
病院に行ってからおうちに帰りましょう。」
そのまま抱き上げ、先生達に挨拶してから車に乗り込んだ。
ふた月ほど使っているチャイルドシートは、車社会の長野では使う頻度が多すぎて車から外された事は一度もなかった。
こんなに使うなら交通安全協会のレンタルではなく、買うべきだったかと思うほど馴染んでいた。
何れいなくなる事を前提に買わなかった物はいくつかあるが、同居ふた月でもう、それに別れを感じて泣けるぐらいには、弟そっくりの光に情が移っていた。
まるで、あの頃共に居れなかった時間をやり直しているようで……
光には悪いことをしているとは思いつつ、光と景光を重ねては懐かしさに浸っていた。
そのバチがあたったのかもしれない。
「心因性ですからねぇ……
寝ることにトラウマか何かあるのかなぁ……?
怖い夢みなかった?
そうか、見なかったか……
まあ、夢を見ても防衛反応から忘れている可能性もあるが……
今日はどんな場所でお昼寝した?
いつもの場所だった?
位置的な問題ではないな……
なにかいつもと違うことはあった?
先生が隣にいた……成る程
大人が怖かったかな?
そうでもない……うーん。」
光が看護師に連れられ別室に行ったあと、度々お世話になっている先生は優しい口調で話し始めた。
「もしかしたら、寝かしつけが得意ではないのかもしれませんね。
家ではどのように?」
「発作があったと聞いてるので、何かあったときのために共寝してます。
最近は以前相談した夜中に部屋を出てソファで寝直すことも少なくなってきていたのですが……
それが良くなかったんですかね……」
「うーん、何ともいえないですが
確かに急に変わった生活でストレスが溜まっていた中、その時間が必要であった可能性は無いことは無いでしょう。
が、諸伏さんが共寝をしても過呼吸が起きなかったのなら、寝かし付けをした先生は女性なので、シャンプー等の匂いや、雰囲気に反応した可能性の方が高い。
フラッシュバックや、トラウマ、発作というのは何がトリガーになるかを確認していくのが大事です。
一つ一つ可能性を潰していきましょう。」
そう言って過呼吸の薬を貰って診断は終わった。
家に帰り、一通り落ち着いたころ敢助から連絡が来た。
今日は早退とし、必要あれば明日も休めるように一課長に相談もしておいたと至れり尽くせりの対応だった。
娘2人とヤンチャ坊主一匹を育てた一課長は、何かと急遽できた家族に戸惑う諸伏を気に掛けてくれていた。
子供は良く熱出すし、妙なことで呼び出されるし、静かだと思ったらとんでもないことやらかしてるし……ま、フォロー体制バッチリだからと疲れた顔でサムズアップしてる姿が目に浮かぶ。
「……色々ありがとうございます。
事件の方はどうなりましたか?」
「そっちも解決。
上原が張り切って情報集めたおかげで今はまずいコーヒー飲みながら後処理だけだな。」
「そうですか。
此方は過呼吸事態は今のところ治まっているので、何もなければ明日には出勤できそうです。」
「まあ、そんな忙しくもないし気にすんなよ。
課長もいってたぜ、何か子供にあるとその後の予定はバカみたいに全て崩れるから希望を持っちゃいかんってね。」
いくつか共有をしたあと諸伏は電話を切り、件のソファでテレビを見ている光を廊下から眺めた。
可愛い
昼寝が中断されたせいで眠いのか、こくりと目蓋が閉じるのを必死で我慢している。
可愛いとしか言いようがない。
親戚という贔屓目を抜きにしても可愛い。
諸伏は比較的大きくなってから弟が産まれたからか、兄心が強く、可愛いと言うより守らなきゃという意識の方が強かった。
今ならあの時の親心が少し分かった気がした。
これは可愛い。
散々眺めていると、視線に気がついたのか光はトテトテと扉前まで来て、引戸を開けて出迎えた諸伏を見上げた。
手にはメモだ。
樹の雑な手紙と同じメモ用紙は、樹が光のために用意した物だったらしく、光はそれを大事に使っていた。
無くなる物だからかいくつか鞄にいれてあり、未だ終わる様子は見せない。
<きょうは おしごと じゃまして ごめんなさい。>
「いいえ、邪魔ではありません。
僕と光くんは家族なんですから、当たり前のことです。
なにか困った事があったり、辛いことがあったら僕に相談してください。
遠慮は不要です。」
気にしているな、とは迎えの時から気付いていたが、文字に起こすほどだったかと少し反省した。
光は諸伏の返答に少し困った顔をすると、メモに文字を書き始めた。
<おひるね しても いいですか?>
可愛すぎる遠慮だ。
光が恥ずかしそうにしてるのがまた庇護欲を誘う。
どこで覚えてきたんだこんな高等技術!
諸伏は顔を覆ってにやにやしたくなるのを我慢して冷静を装って返答……
できたか怪しかったが、文言的には問題ない物を返したと思う。
「はい、大丈夫ですよ。
ご飯が出来たら起こすので、一旦休みましょうか。」
確定ではないのは、この時の記憶が可愛いで埋め尽くされているからである。
諸伏に倣ってか、光は敬語の文章を良く使う。
園児内では普通の話し言葉を書いているらしいが、先生や、敢助、上原等の大人に対しては基本敬語を使っているようだ。
身内なのだからせめて自分には敬語位抜いてほしいが、諸伏を倣ってしてるならば、それはそれで可愛いので拒否できない。
そして、光は名字でしか大人を呼ばないのでそれもまた諸伏の憂いでもあった。
病院で、<もろふしさんは とてもよくしてくれます>と書かれた時にはあの優しい医者に、叱咤激励を貰い慰められた位だ。
だから、
だから今、声のでない喉で寧蒙と必死に名を呼んで静かに泣く光を見て、何も出来ないでいた。
寝ながら泣いていたのか、赤く腫れた目を擦りながら声がでないなりに寧蒙と呼び、諸伏に置いてかないでとすがり付く姿は錯乱以外何でもなかった。
そうか、置いていかれたのか。
樹がどのように育てていたのか、どんな場所にいたのか、光は全く言わないが、多少なりとも幸せでいたとばかりに思っていたがそうではなかったのかもしれない。
光がずっと樹不在の不安を我慢していたのかと思うと、女性でも、親でも、寧蒙でも無い自分が、光を抱き締めてもいいものか分からなかった。
そうしてベットに腰かけて、中途半端に出した腕の中で光が泣きつかれて眠るまで、諸伏は何も出来ないでいた。
すうすうと寝息をたてる光の顔をふいてあげたり汗と涙とよだれと鼻水等体液でぐちゃぐちゃになったパジャマを変えたりして、落ち着いた頃には夜も更けていた。
弟の景光の時はどうしていただろうか
両親の事件の後直ぐの頃景光は、夜中気付かぬ内にポロポロと泣いていて良く一緒に寝ていたのを思い出した。
次の日には、なにとなく普通に起きてきた光は、錯乱したことを覚えて無いらしかった。
あまりひどい記憶が残ってても酷だと思った諸伏は黙することにする。
ただ、一つだけ確認することがあった。
「樹さんに会いたいですか?」
逡巡した後、光は静かに頷いた。
しかし、ペンとメモ用紙を手にすると
<ねもに あいたいけど あったら もろふしさんと おわかれになるのも いやです>
昨日ぶりにしっかり抱き締めた体は小さくともとても暖かかった。
熱を確信した諸伏はすぐさま体温計を指し、微熱を確認。
職場に連絡し、課長にやっぱそうなったかと言葉を頂く。
知恵熱だったため多少体温は上がっていたが微熱の内に収まるもので、連日で行く羽目になった病院から帰る頃には平熱に戻っていった。
光は特定の友人を作らないようで、保育園では静かに本を読んでいることが多いらしい。
そして園児からはその様子から『博士』と呼ばれていた。
そう呼ばれることに恥ずかしそうにしていたが、園内の小さな諍いを見事その知識から解明した時からそのあだ名は園児達の間ではマストとなった。
保育士から事の顛末を聞いたときは、思わず諸伏は頭と顔をぐちゃぐちゃになで回してしまった。
始終恥ずかしそうに俯いていたが、諸伏はその可愛さを心のアルバムに永久保存した。
光のお迎えついでに送ると言われ、園児を顔で怖がらせないため車内で待機していた敢助は
久しぶりに会った坊主が鳥ノ巣になっており、そういえば諸伏母も良く高明に同じことしていたなと親子の血を感じた。
ぐしゃぐしゃじゃねぇかと頭を手櫛で直してやり、敢助はチャイルドシートを付ける高明を眺めた。
ついこの間まで死にそうな顔してたのに、ウキウキとばかりに運転する姿に少し心配返せと思わんこともないが、言ったら言ったで五月蝿そうなので黙ることにした。
で、何があったんだと問う敢助、聞いてくれますか?!とばかりに話し出した諸伏の姿に、ほんとに黙ってた方が良かったか……と敢助は思った。
―――――――
光と諸伏が同居し始めて3ヶ月たった頃、その日は突然訪れた。
誰かのスニーカーが玄関に揃えて置いてあった。
自分の友人にこのタイプのスニーカーを履く人はいない
光の友人は園児のため知らぬ間に家に来る筈もない。
諸伏は、もしやと逸る気持ちを押さえてリビングの扉を開けると
ソファに樹がいて、膝で光が寝ていた
「久しぶり」
パンッっと乾いた音がなった。
そしてそれが自分の手元、樹の頬から響いた物だと後から分かる。
「さっきやっと寝たんだ」
しかし樹はそう言って何もなかったかのように光の頭を撫でる。
光は撫でられるごとに、音に驚きこもっていた力をゆるゆると抜いていった。
泣いた後なのか、涙の跡が痛々しい。
もう一度寝息を立てたころ、小声で、しかし鋭く声をあげたのは諸伏だった。
「あなたっ、今までどこに!」
「詳しくは言えない。
ただ、まだ準備が終わらないんだ。
思ったより長くなりそうだから
こいつの状態とか諸伏への説明に顔を出した。」
「っ、」
なにも言えなかった。
光の様子には諸伏も記憶があったから。
弟が幼い砌、自分と離れて東京へ行く事になった原因と同じだと思った。
光との生活で、当時の弟の様子が知れたような気がしていた
烏滸がましい話だ。
きっと光は景光の子供で
景光はもう亡くなっており
その事件をこの子供は見てしまったのでショックで失声してしまい、犯人に命を狙われていて
しかし、景光は公安所属の為、事件の全貌をただの刑事である諸伏に明かすなら、公安の協力者になる必要があり
そしたら諸伏まで命を狙われる可能性がある。
諸伏は全くそれで構わないのだが……
きっと光はそれを拒否し、止めたのだろう。
そんな光を慮り、事を成せる樹の手腕は優しさで出来ている。
諸伏へ、唯一の形見との平和な時間を。
光へ、無為の味方がいることの証明を。
諸伏もそのぐらいは察することは出来た。
だから口を開くものの、これ以上何も言えなかった。
結局言葉を発したのは樹だった。
「まず、光の母親は死んでる。
探しても無駄だ。」
「貴方の手癖が良くて安心しました。」
諸伏の悩みの一つが一発で解決した一言だった。
そして光のために人探しをするところだったのを止めたのもその一言だった。
暗に樹と景光の子供と邪推されていた事に樹は眉を寄せたが、諸伏の安堵と溜飲が少し下がった様子に、溜め息をついて続きを話す。
「こいつを回収したとき、錯乱してて
当初は落ち着かせるために若干依存させるよう振る舞ってた。
だが、そろそろ依存を解かないと後で苦しいのはこいつだし、私も動けなくて厳しいところがあったから、申し訳ないが諸伏に預ける事にした。
突然押し付けられて大変だったろ。
すまなかった。
そして、こいつに良くしてくれて助かった。
ありがとう。」
頭を下げる樹の肩に、諸伏は手を据えて声をかける。
「謝罪と感謝を受け取ります。
確かに突然すぎて大変でした。
でも同じぐらい、いえそれ以上に光くんと過ごせて幸せな所は否定できません。
預ける先に私を選んでくれてありがとうございます。」
先ほどまでの責める雰囲気から一転、諸伏の感謝の言葉に驚いたのか樹は顔を上げた。
そして顔をしかめて言葉を返す。
「お前の生活を邪魔しているようなら、回収するつもりだったが……
見た感じ大丈夫そうだし、このまま手筈が整うまで預けたいと思ってる。」
苦笑と共にどうだろう?と問いかける樹に、諸伏は大きな溜め息と共に答えた。
「頼まれなくても、こんな可愛い甥っ子を誰が手放すものですか。
この子の命が狙われて無かったら、このまま引き取りたい位ですよ。
貴方と偽装結婚位したら、どうにか引き取れたりしないんですか?」
諸伏の答えは決まっていた。
弟と離ればなれになった期間をもう一度やり直してるようで、しかし前に進んでいる今の生活を手放すのは惜しかった。
しかし
「まあ、可能っちゃ可能だけど、私は変わらず顔を出せんし、最終こっちの手続きが終われば手を離れることに変わり無いぞ」
暗に今狙われてる状態を脱するためには意味がないと言われ諸伏は再度溜め息をつく
「こんなに大切なのに、一緒に生きていくことが出来ないのは辛すぎる……」
眉を下げて、ふにふにと頬をつつく諸伏の指に光は眉を寄せる。
その姿にふっと笑うと樹が答える。
「こいつが望むなら、いずれお前と暮らせるようになるさ。
それまでの辛抱だ。」
嬉しい言葉を聞いた諸伏は、暮しと聞いて今の生活を思い出す。
「今の光くんの症状はどのように認知してますか?」
「さっき言った通り多少は依存してたし、夜泣きが再発してても可笑しくは無いとは思ってるが……何かあったのか?」
「過呼吸と錯乱が一度、病院の先生曰く寝かし付けの際の女性の保育士の香りかその場の雰囲気で起こしたんじゃないのかと……」
諸伏の言葉に樹は成る程なと呟き、腕を組んで考え込む。
「あまり詳しくは話せないが、こいつの声がでなくなった原因の現場に女性がいた部分もある。
だから医者の言う通り、もしかしたら同じメーカーの化粧品か香水、洗髪剤使ってたのかもな。
私といたときも結構な頻度で錯乱を起こしてた。
余りに酷いんで一旦立ち治るまではと、居れるときはほぼベッタリ体のどこかしらの部位を引っ付けてる程一緒にいたんだよ。」
その言葉になる程どおりで……と諸伏は声無き声で寧蒙と呼び、置いていかないでとすがる姿を思い出し納得する。
「因みに、夜中に起きるのは知ってますか?」
「夜中?
夜泣き以外はぐっすりだったけどな。」
「夜中に起きてこのソファーで眠るまで居るんです。
心配させないためか朝方もう一度起きてベットに戻るようですが……流石にどうかと思ったので私が回収するようになったら頻度は減りました。」
樹はんーっと腕組み、さらに悩むが答えがでないようで沈黙が続く。
やっと口を開いたかと思うと、諸伏の想像の斜め後ろを突き進んだ返答が帰ってきた。
「昼寝して夜寝れないんじゃないか?」
「は?
僕は真剣に聞いてるんですが?」
諸伏の只でさえ低い声を更に低くした声は迫力があり、膝の上の光はビクリと動いて樹の方へ寝返りをうった。
樹は光の背中を数度撫で付け、パタリパタリと手で拍をとる。
拍が進むほど光の怯えが溶けていくようだった。
樹はそんなひかるの様子を余所に肘掛けに頬杖をつき姿勢悪く思案する
「言うて、なぁ……私のとこにいた時は昼寝してなかったんだよ。
だから夜寝れなくなって暇だし諸伏起こすのも難だからソファーで暇潰してんだろ。
思い付くのはそれぐらい。」
まあ、分からなくもないが、そんな簡単な理由なのか?
あの優しい病院の先生にも口を割らなかったってことは何か大きな理由が有るのではないかとずっとやきもきしてた
あっけなさ過ぎる樹の結論に諸伏は、それなら遠回しに探らずもっと前から本人と真剣に話せば良かったと反省した。
とりあえず近日聞いてみますと、返した諸伏に樹は苦笑する。
「そんな全部真剣に捉えなくてもいいよ。
もしかしたらただの気分かもしれないんだし。
こいつ賢いし、困ったとき頼れるようしとけばちゃんと頼るよ。」
一通り光の現状を報告し終わると、樹は光の頭を持ち上げ席を立つ。
「どこ行くんです?」
「どこって、帰るんだよ。
これでも忙しい身なんでね。」
ゆっくりと光の頭の下にクッションをはさみ、さっさと荷物をまとめる樹に声をかけるが止まる様子が全く無い。
「泊まって行けば良いじゃないですか。」
「明日朝から東都で用事があるから。」
「せめて、光を起こしましょう
流石に起きたら居ないのは可愛そうです。」
「いい、いい。
起きたら起きたでダルいから、それにせっかく寝てるの起こすのは忍びないし、そのままにしといて。」
「しかし、」
「起きてるときに十分話したから大丈夫。
文句は今度迎えに来た時聞くよ。」
そう言って樹はあっさりと帰っていった。
夕方、ムクリと起き上がった光は寝ぼけ眼で何かを探すように回りを見渡したあと、諸伏の顔を見て、寂しそうに笑った。
ほら、だから言ったのに……
諸伏には、文句も言えず樹に連れて行かれる光が見えた気がした。
―――――――
夏が来た。
長野の夏は温暖化の影響で避暑地ではなくなったが、標高は地殻変動が起きなければ変わらず高いので、日向に出ればバカみたいな量の紫外線を浴びる事には違いない。
『下界の湿気に比べればましである』所しか避暑地の機能を残していない。
湿度が低くカラッとして紫外線が目茶苦茶強い夏、何て聞くと欧州の気候そのままだが、当社比なので欧州よりは湿気が有るとは思われる。
だが、雨の日でも洗濯物が乾く乾燥具合である。
推して知るべし。
諸伏家は代々紫外線に弱く、幼き頃両親と海に行った際は全員真っ赤になって帰ってきたりしていたため、光もそうであることは確定していた。
何なら光自身でウォータープルーフのでかい日焼け止めを、樹に持たされたカバンから出し保育園初日から頑張って塗っていた。
春の陽に 炙らる紅葉 日焼け止め
いとをかしくて いと悶える
「おかしい、僕から故事成語がでないだなんて……」
季語を全無視してバカみたいな一句読む程可愛かった。
そのドでかい日焼け止めが、夏真っ盛りにして無くなりそうになっていた。
塗る面積が少ないのに、よくこのドでかボトルで無くなる、なんてことになったなと思ったら、元々樹が使ってたものらしく、来た時点で1/3程使われていたらしい。
どおりで子供の細腕でドでかボトルが持ち上がるわけである。
おおよそ樹が荷物に入れてくれたであろう日焼け止めを検索したところ、赤ちゃんにも使える敏感肌用であり、そこそこちゃんとしたメーカーだったため、自分用も含めて即買いした。
諸伏は子供用のプッシュも序でに買おうとし、光に断固拒否されたが、あのドでかボトルが満杯のまま光が使えるかは怪しかったので光の見ていないところで再度買い直した。
そして今である。
届いたドでかボトルに悪戦苦闘する光をニヤニヤと眺める30代一般男性が誕生した。
事案である。
丁度諸伏家に泊まっていた大和は、事案過ぎて思わず諸伏の貴重な長所である頭を叩いた。
そして光からドでかボトルを回収すると、大人の見本のように光に日焼け止めを出してあげ、何なら塗り漏れが多くなる首や二の腕に塗ってあげていた。
あまりのスマートさに諸伏はハンカチを噛む。
今後の癒しになるはずが大和により阻止されて悔し……大和のスマートさに光が目を輝かせている事が許せない諸伏は、序でに自分にも塗ってる大和からボトルを取り上げたり、光のためにポンプヘッドをつけてあげたり、光のおでこに追い日焼け止めをしたり、まだ塗り終わって無い大和が諸伏に文句を言い、とわちゃわちゃしとしていたら予定時間を大幅にオーバーして出発することになった。
合流する予定だった馴染みである上原からお叱りを受けるのは当然である。
「そもそも勘助くんが悪いです。」「てめっコウメイが突っかかってくるからだろ!!」「僕はヘッドを付け替えてあげただけです。」「日焼け止め出してる途中でボトル取り上げんなよ!!」
「二人とも!!!!」
上原から二度目の雷が落ちるのは時間の問題であった。
本日海の日
海無し県という海に親しみのない長野県民である諸伏と大和、上原は、子供である光にかこつけて、久方ぶりの海を満喫しようとしていた。
そう、
事が起こったのは宿について、ひと呼吸置いた時だった。
上原と大和が一足先に宿の温泉に行き、移動に疲れお昼寝をしている光と、運転して疲れた諸伏が付き添っているときにそれは起こった。
最初は扉の向こうが騒がしいな位だったが、段々と声が大きくなっていき、「なんか事件だって」「ママ、血だらけのタオル見たよ」「風呂場で人が死んでいたらしい」と物騒な言葉が増えた所で大和達が帰ってきた。
「大衆浴場で何かあったんですか?」
極めて冷静に問う諸伏に上原は答える
「私たちの行ってた新館の大きい露天風呂じゃなくて、こっちの旧館の浴場で事件があったみたい、部屋に帰るのも一苦労だったの。」
「多分旧館にいた奴らは事情聴取されるだろうから光起こして準備しておけ。」
「なるほど、分かりました。」
今回泊まった宿は諸伏達が泊まる旧館以外に、新たに大きな新館を建てており、新館の浴場は大きい露天風呂をメインとした大衆用
比較して、諸伏達が泊まる旧館は子供連れの家族旅行がメインの客層だ。
家族連れメインなだけあって部屋は広いお座敷で、旧館付属の浴場も衝立などが少なく浴槽も浅く小さめの為目が届きやすく子供とゆったり楽しめる作りである。
諸伏は、殺人でなければ良いなと、トラウマを刺激しないことを光を起こしながら願う。
数分後警察がやって来て事情聴取が始まる。
事前に大和達が部屋に戻る序でに警察の身分を明かしていたらしく、事情聴取はスムーズに終わった。
「あまり誉められた事ではないのですが……今回の事件はどういった物だったんですか?」
同じ警察として手伝いが出来るやもと上原が声をかける。
大和はおいと肘で上原を止めるが、口から出た物は元には戻らない。
事情聴取にきた警察官、三苫警部は苦笑して「子供がいるので別の部屋で」と言われ、3人は隣の上原の部屋で話すため、まだ寝足りなさそうな光を寝かせ、移動した。
―――――――
「えっ脱衣室のゴミ箱に子供?!」
「はい、それも生まれたばかりの未熟児、へその緒と胎盤が一緒に……。」
「子供に息はあったのか?」
大和の問いに三苫警部は首を振って答えた。
少しよれたスーツから色々工面してくれた事がうかがえる。
「救急車に未熟児を入れる保育器もなければ、時間も経っていたようで……
我々が着いた頃には救急が到着し対応してくださっていたのですが、もう、どうしようもない状態でした。」
諸伏はこの場に光が居なくて良かったと心底思った。
きっと賢いあのこの事だ、どういう状況だったか鮮明に分かってしまい、発作を起こすのも時間の問題だったろう。
先日の苦しそうな様子を思い出して諸伏は眉を寄せる。
犯人の目星は付いてんのか?という大和の問いに三苫警部は答える。
「今鑑識が調べてますがあまり指紋が残ってないみたいで、赤ん坊からDNA取るにしても、検査結果が出るのも大分遅れるでしょう?
監視カメラも見てはいるのですが、そもそも旧館のほとんどがスタッフルームとなってますし、部屋数が少ない館なのであまり付けてなかったようで……」
確かにあまりカメラは見なかった……
家族連れ、それも小さい子供が居るため段差を少なくしたいのか1階以外はスタッフルームとなって防火戸で閉鎖されていた階段を思い出す。
「それに此方は家族連れが多いので、
流石に子供がいる場で事件の聴取するのも、子供だけ部屋に置いてくのも憚れて……
一旦此方で子供を見つつ親御さん一人ずつ別室でやってるんですけど、何せ人が足りず……」
そこまで三苫が話した所で、3人はどうしてこんなに詳しく事件内容を話したのか合点がいった。
こいつ他県の警部を顎で使おうとしてやがる……
だがしかし、最初に声をかけた上原は勿論、何故か諸伏まで前のめりで是非手伝わせてくれと声をかける。
光はどうするんだと大和が止めるが、光は今寝ており、起きても置き手紙があればちゃんと待ってられる子だと説き伏せられてしまう。
三苫警部は流石に子供一人置いて行くのはと止めたが、さっさと終わらせて光の旅行の憂いを払いたいと言われればそれまでだった。
斯くして、光に置き手紙を残して3人はちびっことそれに振り回される大人達から事情聴取を始めるのであった。
聴取をするに当たって現場検証したが、やはり指紋若しくはDNAに頼るしかない程に何もなかった。
産んで間もないのであればまだ出血が止まってないはず、体調面の心配もある為女性に関しては上原と現場の女性刑事に任されることとなる。
諸伏と大和は逃亡経路を追うことにした。
血痕がないかと壁や床を見るが旧館の中では見られなかった。
2階のスタッフルームも宿のスタッフ案内のもと一通り回るが特に異常もなく、あとは常時鍵がかかっている部屋位……となると新館の方に逃げたかと急なキャンセル等確認するが何もなく、万事休すかと旧館に戻ってきた二人。
一度光の様子を見ておきたいと諸伏の声に、そこそこ光を気にしていた大和は大きく頷いた。
しかし部屋に入る直前、二人は引戸になっている扉の黒いドアプル部分が妙な光沢を発していることに気づく。
一応と大和がハンカチで端を拭ったそれは赤褐色の血液だった。
「ひかるっ!!!
そこに居ますか光!」
光が人質にされて閉じ込められていると思った諸伏は大和の制止を振りほどいて部屋に突入する。
そこに犯人は、いた。
部屋は光のメモ用紙が散らばる中
中学生程の少女が泣きながら光を抱き締めて、まるで自分達から庇うように背を向けている。
少女の腰元の布、光にかけていたタオルケットは赤く斑に染まっていた。
ああ、そう言うことかと諸伏は悟った。
遅れて入ってきた大和も、すぐさま事態を把握したようだった。
腰を落とし、二人は少女を刺激しないように声をかけた。
「私たちは、その子の保護者です。
貴方に危害を加えません。
無理に貴方を連れていきません。
約束します。
だから」
だから、光を放してくれと声をかけようとした
それを止めたのは当人だった。
苦しそうな光が少女の向こうから顔を出し、諸伏のいる入り口方面まで飛び散った紙を指した。
<救急車を呼んで下さい。
大体1時間前から出血が止まらないので輸血必要かも
ゆかさん A型、14歳、40kg
脱水症状あり、ポカリ半分飲んだ
暴力の跡がいくつか見られる
腹部に大きな内出血、内臓が傷ついてる可能性あり>
急いで書かれた筆跡は滑らかで、光が今まで頑なに隠していた何かが剥がれていた。
いや、今は少女の命の方が大事だ。
諸伏達は思考を戻す。
大和は急いで部屋を出て、帰庫途中のはずの救急車を呼び戻すべく館内を走る。
諸伏は大和の間に合わなかった時のためのバックアップに119番へ電話をかけた。
幸い産後の女性を心配して、まだ待機してくれていた救急隊員の機転のお陰で、物の数分で少女は保護された。
女性の救急隊員になだめられ、ゆっくりと光を放した少女の顔は憔悴していてもあどけなく、警察として横にいた大人達は何も声をかけることが出来なかった。
最後離れ際に光が少女に何かを呟いて、二人とも意識を失った。
部屋に散乱したメモには、光と少女のたどたどしいやり取りが残っていた。
どのぐらい外にいたの?
いつから血が止まらないの?
誰も呼ばないからポカリを飲んでほしい
顔色悪いから僕の布団を使って
汚れても大丈夫だよ
僕が何とかするから
名前は?
血液型分かる?
大体の体重は?
どうしてこんな怪我で外にいたの?
大丈夫、僕のおじさんは怖い大人じゃないよ
ゆかさんを殴ったりしないよ
大丈夫だよ僕も怒られないよ
もし怒られても怖くないよ
おじさんが帰ってきたら救急車を呼ぼうね
救急車に乗る人はゆかさんを傷つけたりしないよ
お腹は誰にやられたの?
お父さんとお母さんは?
僕はゆかさんの事信じるよ
大変だったね
僕のおじさんも絶対信じてくれるよ!
嘘だったら僕を盾にしたら良い
僕も一緒に説得する
大丈夫だよ
怒らないよ
警察の人もゆかさんの事守ってくれるよ
今は信じられないかもしれないけど絶対助けてくれる
だから全部話して大丈夫だよ
病院の人もゆかさんの言うこと信じてくれるよ
大丈夫
僕がいる
救急車には一緒に乗れないけど、病院に会いに行くから
大丈夫だよ
父親から常に性を伴う暴力を受けていたこと
母親は自分を毛嫌いして見て見ぬふりをすること
優しい担任の先生に相談したら、父親の件を脅しのネタにされ、先生にも性的暴力をうけるようになったこと
生理が来なくなったこと
同時期に体調が優れないことが増えたこと
日に日に大きくなるお腹にどうしたら良いのか分からずずっと黙っていたこと
先生に無理矢理連れ出された旅行で、少し大きくなったお腹を指摘され、妊娠の可能性を告白したらお腹を何度も殴られトイレで産んでしまった事
トイレを出たら先生が居なくなっていたこと
未成熟児の遺体をどうにもできず、怖くなって人のいない旧館のゴミ箱に捨ててしまったこと
諸伏達の部屋の軒下まで逃げてきたこと
にわかに騒がしくなったことで追われている事に気付きどこにも行けなくなって踞ってたこと。
大和と上原と共に集めたメモには涙でよれてにじんだ跡がいくつも付いていた。
どちらの涙かは分からないが、二人で見つからないように静かにメモ用紙を使ってやり取りした様子が伺われた。
「こんなのっ」
やるせなさに上原が涙を流し崩れ、見てられなかった大和が静かに上原を部屋の外に連れ出す。
光を別室に移動させて数十分後
少女への暴行の容疑で男性を確保しにいった三苫が帰ってきて口を開いた。
「犯人確保にご協力いただきありがとうございました。
男性の方も無事確保しました。」
後日署で聴取があるために連絡先を交換した二人は重いため息を付くしかなかった。
難しい問題だ。
少女が未成年で相手が教員という信用がある職という所が問題を更に難しくさせてる。
沈黙を破ったのは三苫だった。
「この問題を正確に裁くのは難しいでしょうね。
いいとこ赤ん坊の殺人を犯したのは男性であっても、死体遺棄したのは少女側として裁かれてしまうのが悔しいところです……。」
三苫警部が重苦しい言葉を吐く
諸伏は三苫の言葉に情報を足す。
「赤ん坊がまだ下ろせる状態であった場合、男性側は殺人さえ付かない可能性があります。」
三苫は諸伏の言葉に眉間を揉んだ。
暴行の証言者が居ないのも厳しい。と三苫が苦々しく続けた言葉に、やはりと三苫と諸伏の二人は当たりを付ける。
お互い法学部出身だろう。
諸伏は話を一歩深める。
「性的暴行も赤ん坊のDNAで親が分かるとして一人だけですし、少女の父親だった場合、男性がしていないとしらばっくれたらそこまでです。
よしんば暴行を認めたとして
彼女に障害が残らなければ傷害罪に問えません。
逆もしかり……。」
「子宮は難しいですからね、後から生殖機能の問題が発覚する可能性もある。
先が長い彼女に障害が残らないのが一番ですが、今障害が残らなければ男性側への言及は難しい。」
嫌なジレンマだ。
もし、暴行も性的暴行も立証できなければ
ただ旅行に誘っただけとなり、懲戒免職だけで終わる可能性もある。
そうなれば現行の法律*1では懲戒免職後3年経てば復職でき、そのまま男性が野放しになれば、別の学校に就職し、また同じ様な犯罪を繰り返す可能性も十分ありえる。
同じ年頃の娘がいる三苫にとって、それはあまりに辛い事実だった。
こんなことがあって良いのだろうか
この大人達は、其が許されることだと思っているのだろうか
あまりにも身勝手な大人達の手垢がついた少女に三苫はこの先を憂いざる終えない。
「できることは少ないですがせめて、男性は勿論、彼女の両親まで裁けるように証拠集めに奮闘します。」
証拠だ、証拠さえ集まれば立証できる。
少女の衣服や、宿泊した室内、過去の性行為が行われた場所、スマホの中身、家宅捜査、出せるところは全てDNA鑑定をだそう。
三苫のやるせなさと悔しさの乗る声に、諸伏は束ねた紙を見つめる。
「……覆水盆に返らず。
こぼれてしまった小さな命は元に戻らず、
彼女の大人への信用もそう簡単に元には戻らない。
聴取には時間がかかると思われます。
有効活用してください。」
渡されたメモの束に、重苦しく返された感謝の言葉を背中で聞いた諸伏は、光の寝ている別室へと足を進めた。
当初光から血を遠ざける為に手を貸した捜査だったが完全に裏目に出てしまった。
発作を起こしていないであろうか。
パニックになってる可能性もある。
思えば思うほど足は急く。
息も切れ切れに部屋に入った諸伏を出迎えたのは布団から出て、窓辺の椅子でぼぉっとする光だった。
諸伏はとんだ旅行になってしまった事を詫びるべく光に近付くが、諸伏に気付いた光はメモ用紙を取り出して何かを書き始めた。
諸伏は光が書いていく文字をなぞるように視線を動かしていく。
<旅行に連れてきてくれてありがとうございます。
ゆかさんを助けられて良かったです。>
はにかむ光に諸伏は謝罪を飲み込んで苦笑を返す。
今までの拙いひらがなは何だったのか、綺麗な文字と、この年齢では知らない筈の漢字の数々に、諸伏は光の核心を突く。
「もう、隠さなくて大丈夫ですか?」
そう言ってメモ用紙を指差す諸伏に光はあっ、とばかりに文字を付け足す。
<皆には内緒にして>
きっとこれが本来の光なのだろう。
こんな状況でなければ歓迎すべき砕けた言葉に諸伏は再度苦笑を溢す。
「僕は構いませんが、敢助くんはもう気付いてますし、上原さんもいずれ気付きますよ。」
<じゃあ大和さんと上原さん以外には内緒でお願いします。>
もとに戻ってしまった口調を残念に思いながら諸伏は頷く。
「分かりました。
二人にはこの4人以外には話さないよう言いくるめておきます。
この事は樹さんも?」
樹の名前に光は頷き返す。
そうですか、と返した諸伏はしかし、と言葉を続けた。
「ギフテッドと言うのは、思ったより近くにいるものですね。
樹さんもそれに当たると昔敢助くんに聞いたことがあります。
類を以って集まるではありませんが、樹さんに引き寄せられている気がしなくもありません。」
ギフテッドの言葉を知らないのか目をしばたかせる光に諸伏は説明を加えるが、依然表情は変わらなかった。
不思議に思うも樹の事情を知らなかったのかと諸伏は言葉を続ける。
「斯く言う私も昔は才子などと言われてましたが、本物の天才を前に膝を折った凡人の一人です。
高校3年時の模試では、樹さんにボロ負けだったんです。
特に数学で。」
秘密を打ち明けるように光の小耳に話しかけると、光はくすぐったそうに笑った。
その姿に安堵の息を吐いて諸伏は話を続ける。
「ギフテッドであろうとなかろうと、光くんの事が大切で大好きなことは変わりありません。
今後私たちの前では、そのままの君で居て大丈夫です。
なので此れからはそう言う隠し事は無しでお願いしますね。」
そう言って諸伏は優しく光を抱き寄せる。
現実に戻ってきた光は、恥ずかしそうに諸伏の肩口へ額を押し付けた。
―――――――
散々な旅行に終わったが、当初の予定であった光と打ち解ける事は方向は違えど成功したので無問題として、一行はあまり海を満喫する事なく長野に帰る事となった。
後日事実確認の事情聴取と称し病室で再開した少女は、最後に見たときより大分顔色が良くなっていた。
まだ大人の男性が苦手らしく、光の付き添いで病室入り口まで来た諸伏は、数分二人の子供の小さな紙のやり取りを眺めて、そのまま部屋外のベンチソファまで待避する。
ベンチには案内をしてくれた三苫が待っていた。
三笘は諸伏の着席を確認するとおもむろに話し出す。
ずっと心に留めていた言葉を出すように、淡々とした言葉だった。
「少女の着用していた衣服と男性の手指から暴行の証拠が取れそうです。
お腹を殴る前にも性交渉があったらしく、当日の少女の膣からもDNAが取れました。
良いことなんですが、何だか……。」
三苫のやるせない言葉に諸伏は続きを促した。
「小児性犯罪者はトロフィーのように暴行した子供の写真を保存している事が多いと聞きます。
pcやスマホの方はどうでしたか?」
「スマホはデータがあったっぽいんですが、消されたあとでした。
今鑑識で復元できないか見てもらってます。
あとパソコンは男性教諭の親が警察の御上の人だったらしく、家宅捜査の礼状がまだ取れず……。」
まだ地域の新聞に載るぐらいの為、揉み消せるところは揉み消したいのだろう。
こうなっては自宅pcも怪しくなってきた。
証拠をもみ消す権力がなければこんなこともしなかっただろう事がうかがえ、常習の気配を感じる。
「厄介ですね……
聞く限り過去の学校でも、件の教員から猥褻行為を受けていた子供が結構いたらしいですね。」
「はい、ただ過去の事過ぎて立証には至れそうもないんです。
自宅pcに証拠があれば余罪を沢山つけれそうではあるのですが……」
御上がどれだけ介入してくるか、証拠をどれだけ揃えられるか、そこが味噌になりそうなことは、二人は重々承知だった。
諸伏は話を変える。
「……ご両親の方はどうなりましたか?」
「父親は容疑を否認。
一部認めた容疑もありましたが、同意の上だと主張しています。
母親は黙秘です。
赤ん坊のDNAは男性教員の方でした。」
三苫の淡々と事実を答える姿に諸伏は、きっとどう説明しようかととても悩んだんだ上で、事実を淡々と述べることにしたんだろう事が伺えた。
相当できる警部なのだろう。
「当初予想していた方向と別方向でややこしくなりそうですね……。」
「はい……
せめて母親が口を開いてくれれば良いんですが、だんまりです……。」
その後情報交換に、いくつか重苦しい話を数十分続けた後、光達の様子を見に行けば、別れの挨拶をしており、そのまま別れることとなった。
次の約束は、光と少女を取り巻く環境から考えて出来そうになかったので、そのあっさりとした別れに諸伏は複数確認を取るが光は首を降るだけだった。
車に戻り、徐に車内に置いてあった鞄からメモ用紙を取り出した光は言葉を綴る。
<寧蒙のメモ帳をあげました。
僕が渡せるのは其ぐらいしかなかったから。>
寧蒙のメモ帳とは樹が光の為にいくつか入れてくれたメモ用紙の事だろう。
先の事件で目減りしていたメモ用紙はもう、残りを2冊残すところになっていた。
と言うことは、今手元に残っているのは光が書いている1冊だけになる。
寂しそうにメモ用紙をめくる光の手を止めて諸伏は笑顔を作る。
「そしたら、これは使わず置いておいて、新しいのを買いましょうか。」
そう言って運転を始めた諸伏のシトロエンは近くの文房具屋にスルリと入っていき、諸伏は止める光の手を引いて新たなメモを選ばせた。
諸伏はあの、あほうとの思い出の品が光にあるのが許せなかったし、其に心を痛めるのはもっと許せなかったので、折衷案で新たな現物を与える事にしたのだ。
大量に買うことだけは阻止した光は、新たなメモ用紙へ最初にありがとうの文字を書き綴った。
―――――――
旅行から帰ってきてから光は、その頭脳を隠すことを止めてくれたようだった。
今までギフテッドゆえに同年代と馴染めなかった側面もあったのだろう、保育園では依然そのままではあったが、医者と諸伏、大和と上原の前では取り繕うのを辞め、メモ用紙には漢字が使われ、暇なときは諸伏の蔵書や新聞を読みふけるようになった。
諸伏は故事成語や中国史をお勧めしたが、あまりお気に召さないようで、依然自宅での故事成語は封印されることとなった。
ギフテッドを確信している大和の薦めで一度IQテストを受けてみようともしたが、光が尋常じゃなく拒否をしたので諦めることに。
何かテストに良い記憶がないのかもしれない。
諸伏の言葉に大和は、樹もそう言えばテストが嫌いだったな、と言葉をこぼした。
溢してから諸伏の機嫌が急降下した事を察知し大和は迂闊だったと後悔する。
旅行から帰る途中、諸伏から、樹より光を預けられていた旨と、事件に巻き込まれて命が狙われている子供と言う説明は聞いたところだ。
元々甥を預けられたことはあまり公にしないよう言われており、
光の顏から諸伏もとい高明か、弟の景光の子供と言うのは分かっているので、なにか退っ引きならない事情があるとは察していた。
しかし、此処のところ何故か諸伏が樹に対してやけに対抗するのである。
勘弁してくれとばかりに溜め息を吐くが、何に対しての嫉妬なのか分からない大和は口を閉じるぐらいしか出来ることはなかった。
「別に良いんですけどねっ、続きを話してくれても。」
良くない事は察せた。
めんどくさい彼女ムーブをハイハイと流し、小難しい小説を読んでる天才少年へ声をかける。
「そう言えばお前さん夜中に起きて何してたんだ?
こいつ相当悩んでやきもきしてたぞ。」
あっとばかりに諸伏は大和を止めようとするが、時既に遅し。
言葉は全て出たあとだった。
諸伏は居心地が悪い視線を感じていたが、もういっそ開き直って聞くことにした。
「来て間もない頃は、夜中に起きてソファで寝てましたよね?
ああっ攻めてる訳じゃないんですっ
ただ、何か辛い理由があるのかと……」
大和と諸伏の疑問にごめんなさいと頭を下げようとする光を止めて、話を聞けばあっけないものだった。
<寧蒙と居た時はお昼寝してなかったから夜寝れませんでした。
あと、夜中に起きるのが楽しくて……
もうしません。>
しゅんとした光に大和は大笑いし、諸伏は大和の数少ない長所をはたいた。
「話してくれてありがとうございます。
保育園でもそろそろお昼寝がなくなる頃との事なので、気にしなくても良いですよ。」
「ほんとに気にしなくて良いぞ。こいつお前をベットへ運ぶことに生き甲斐を感じる変態だから。」
その日大和は頭を二回叩かれた。
8月に入り、保育園でのお昼寝が無くなってからは、確かに光がソファでぼぅっとする姿を見なくなった。
それと同じぐらいに、光が少しうとうとする事も増えた。
ここ数ヶ月の生活リズムが崩れたので眠いことは想像に容易い。
諸伏はその度に可愛さメーターが天元突破するのでギュッと抱き締めるのだが、最近はなれてきたのか諸伏の肩口に額をグリグリと押し付けるようになった。
甘えてるのか恥ずかしいのか分からないが、諸伏は信頼されて来たのだなと思うことにした。
お盆には諸伏の両親の墓参りを二人でし、
光に話すことは憚られる事が多かったが、弟の、いや光の父親の活躍まで話してあげたかったので、言葉を選んで両親の事件について話した。
光は真剣に聞いてくれ、その日は珍しくハグをして寝た。
いつも行儀良く寝ている姿を見ているので、日に日に諸伏に慣れて来た事を感じられるのが嬉しく、ハグの回数は増えるばかりである。
―――――――
再会は早かった。
光と諸伏の二人の生活が始まって半年経ったころ、突然インターホンが鳴る。
ホールのインターホンの映像には、秋の装いをした寒そうな樹寧蒙がいた。
長野の秋は束の間、もう冬の足音がすぐそこまで迫っていた。
諸伏はすぐにホールを通して、玄関迄迎えに行くと、珍しい様子に光も着いていく。
玄関から聞こえたエレベーターの到着音と、響く足音に諸伏は待ちきれずに扉を開けた。
「うわっ、え、何?」
丁度玄関前にたどり着いた樹は、目を大きくして今押さんとしていたインターホンの手を止める。
そして諸伏の後ろから現れた小さい影が、樹を襲った。
「えっ?!何?!いたっ、痛いんだけど!!!
弁慶の泣き所ばっかり攻撃しないでよっ!!!
いだいっ!!!いたいって!!!」
ポカポカと元気良く振り上げられる拳には先程まで読んでた文庫本があり、器用に角を使って脛をおもいっきり打ち付けていた。
流石に樹の脛を可哀想に思った諸伏は光の手を取り止めるが、光の様子がおかしいことに気付く。
「なっ泣いてるし……
人の脛アザだらけにして泣いてるし……」
泣きたいのは此方だとばかりに脛を擦って痛みを逃した樹は、そのまま光の頬を流れる涙を手でぬぐってやり、慣れたように抱き上げた。
「悪かったよ、勝手に帰って。」
そうじゃないとばかりにぎゅっと首にしがみつき、肩口に額を擦り合わせる姿はやっと最近諸伏にするようになった仕草だ。
ぽっと出の女狐に寝取られた気分ってこう言うことを言うんだろうなと、諸伏は遠い目をした。
諸伏は、自分が半年かけて築いた信頼を、意図も容易く飛び越えてくる樹に嫉妬をしていた。
「取り敢えず中入ったらどうですか?」
「えぇっ何で諸伏まで怒ってんの?! うっ」
樹の大きい声にビックリした光の膝蹴りが、樹に決まった。
理不尽(のように見えて全て樹の自業自得)な暴力をいなした樹は一旦諸伏の家に入ることに。
泣き止んだ光の案内によりリビングのソファへ行く樹。
諸伏は飲み物を入れようとするが樹は断り、明朝、光を連れて安全な場所に移動するとのたもう。
荷物が、と急ぐ諸伏に持っていけるのは一つだけだと、樹は止めた。
身につけるもの、一つだけ。
なるべく小さく、見えにくいもの。
そんな丁度良いものがあるはずもなく、最終的に諸伏は父の形見の腕時計を渡す。
「まだ大きいけれど、いずれ丁度良いサイズになるでしょう。
それまでは、キーホルダーにでもして持っていてください。」
首を降って時計を固辞する光の手を取り、その小さな紅葉に時計を預ける。
「僕の父がきっと貴方を守ってくれます。
其でも気になるようであれば、次に会えたとき、時計を返してくれれば良いですよ。」
そこまで言われれば受け取るしかなかった。
光は時計をギュット握ると諸伏に頭を下げる。
そして樹へ振り替えるとパクパクと何かを伝えた。
「いや、其ぐらい自分で言えよ。」
ナチュラルな樹の読唇術に諸伏は驚くが、そう言えば学生時はトンツーや手話を使って小橋と内緒話していた位だし、延長線上で会得していても可笑しくないかと思い直す。
樹がテーブルに置いてあった新しいメモ帳を光に投げてよこした。
乱雑な扱いに諸伏は口を開くが、なんなく受けとり文字を綴り出した光の方を優先した。
光と共にいられるのはあと少しなのだ。
<諸伏さんに絶対返しに来ます。
だから待っていて下さい。>
諸伏はこの約束を守っても守られなくてもどちらでも良かった。
ただ、光が時計を返すために”生きて”いてくれることが大事だった。
「生きて返せないのであれば僕は受けとりません。
あなたが万が一亡くなれば、僕は親の形見と弟の忘れ形見を同時に喪うことになります。
だから、その手で必ず僕に返してください。」
諸伏の言葉に光が神妙に頷く姿が愛おしく、ついた膝をそのままに光を腕に閉じ込める。
グリグリと肩に額を押し付ける姿を堪能した後に、少し鼻高く樹を振り帰るが、樹は爪の甘皮を弄っており此方の様子に毛ほども興味がない様子だった。
そうだ、こういう奴だった……
人の機敏に疎い癖フォローがうまく、しかしその先の結論に毛ほども興味がない。
小橋と付き合った報告も「へぇ。」の一言で終わった事を諸伏は今さら思い出す。
勘助くんでさえ「良かったな。」の一言があったのに……!!
望郷の念に緩んだ諸伏の腕から抜けた光は、ピャッと樹の足の影に隠れてしまった。
樹に見られていることが相当恥ずかしかったらしく、爪から意識を戻した樹が掴まれた足の肉に、痛い痛いと悲鳴をあげている。
「出発は明朝との事ですが、今回こそ泊まる予定で良いんですよね?」
トゲトゲした諸伏の言葉に樹は何でこいつ怒ってるのとまた怪訝な顔をした。
トゲトゲを泊まるなと認識した樹によってひと悶着あったが、「どうせ徹夜で仕事をするので、電源がありpcが開ければどこでも良いです。」と言質を取り、本日の樹の寝床は諸伏家のソファとなった。
諸伏は久しぶりの再会に大和を呼ぶか一瞬考えたが、それは早速pcを開いて仕事を始めた樹によって静止される。
「呼ばなくて良いからな。
昔から妙な勘違いしてるが、私と大和はそう言うんじゃない。
友人以上も以下もない。」
「じゃあ再会を喜んで友人を呼ぶのは良いですよね?
それに勘助くんと上原さんには光くんの事で色々お世話になりました。
せめて光くんもお別れはしたいでしょう。」
光は話が急に自分に向いてキョトンとしたが、内容に首をしかと縦に降った
しかし樹に慈悲は無い。
「こちとら、こいつのせいで色々仕事が間に合ってないんだ。
私は誰が来てもキーボードを叩く以外のことはせんぞ。」
本当にそうなった場合空気は最悪だろう。
樹に気を使って声をかける上原、上原を無視する樹、キレる大和……
樹ならやりかねない……
諸伏は家に呼ぶのは諦めるしかなかった。
代わりと言っては難だがビデオ通話で二人とお別れをすることにした。
大和と上原はやはり
お互いのために甥を預かったのはあまり口外しないよう、樹の手紙に書かれていたので、あんなに自慢話をしてても警察内で知っているのは大和班と課長だけである。
保育園も理解があるところで、情報漏洩に厳しい所なので相当なことがなければ外に漏れることは無いだろうと、諸伏と大和は結論を出す。
大和は何か言いたそうに諸伏と光の背後でラップトップを叩く樹を見つめることはあれど、結局何も伝えることなく別れの通話は終わった。
夜中、すすり泣く声で諸伏は目を覚ます。
ひゅうひゅうと苦しそうな音も混じると同時に諸伏は飛び起きる。
発作だ。
だが、探した姿は隣におらず、良く見れば部屋の扉が僅かに開いていた。
同時に扉の外から声が聞こえる
「大丈夫だ。
怖くない。
私がいる。
諸伏もいる。
大丈夫、お前は生きてる。
もとに戻れる。
無理でも私がどうにかする。
お前は安心して匿われときなさい。
大丈夫だから。」
樹の声は、どこかあの部屋に散らばったメモを彷彿させる言葉で
樹が光を真似てるようで……
きっと光が樹にかけられてきた言葉を真似たのだろう。
そう思う程、その”大丈夫”には見覚えがあった。
淡々とした樹の声と共に、光の過呼吸は落ち着いたようで、最後にはそれは寝息に変わった。
数分後パタリパタリと来客用のスリッパの音が聞こえる。
部屋の扉がノックされるが、諸伏はそれに答えることが出来なかった。
いつかの、中途半端に出した腕へすがる光を思い出す。
諸伏には、樹ほどの安心を光に授ける事は出来ない。
其をまざまざと見せつけられたように思った。
しかし樹は待ってはくれない。
ノックに答えない諸伏、腕には布団に入れたい光、仕事を終わらせたい樹が扉を開けるのも時間の問題だ。
中途半端に開いた扉がゆっくりと開かれ
扉の隙間から覗いた樹が、ベットの端に腰かける諸伏を見て驚いたように体を動かす。
諸伏は光達を見れずにいた。
「やはり、私では力不足だったんでしょうか……」
諦めの強い諸伏の言葉に何を思ったか、樹はずかずかと部屋に入り、ノスタルジーに浸る諸伏の稀少な長所をはたき、そのまま横にどすっと腰を掛け、腕に抱えられた光を揺すって無理矢理起こした。
あんまりな所業に諸伏は樹を止めようとするが、それより前に、光は起きてしまう。
涙で溶けそうな目を擦る光に、樹は容赦なく言葉を掛けた。
「おまえ、諸伏と一緒に寝たくないの?」
諸伏は、ド直球に聞く樹にぎょっとするも、光もド直球で返す。
伸びた手がおろおろとさ迷ったのち、ぎゅっと諸伏の襟元をつかむ
なみだを流しすぎて溶け出しそうな目がジッと諸伏を見つめた。
「どうせ諸伏と一緒に寝ることなんて当分無いからさっさと寝なさい。」
無慈悲に告げる樹に光は更に涙を流して何事かパクパクと訴えるが、その訴えは退けられる。
「私が一緒に寝るわけ無かろうて。
つか、明日早いんだから、さっさと二人で寝ろ。
ついでに別れの挨拶もしといて。」
樹には慈悲もなければ情緒もなかった。
唖然とする二人を置いて、樹は光を諸伏に預け寝室を出ようとするが、その腕を一回り大きい手がつかんだ。
「なに?」
不機嫌に返された返答に諸伏が唖然と返す。
「泣き止ませ方が分かりません。」
純粋なSOSに樹は呆れた顔を隠しもしない。
樹がいつもはどうしているのかと聞くと諸伏は、錯乱があった1回しか泣いたことがなく、その時も何もできることがなく泣き疲れて眠るまで待つしかなかったと答える
その答えに大きなため息が出ると樹は部屋を出て行ってしまった。
どうしようとボロボロ涙を流す光を見るが、光は諸伏の襟元をギュッと掴んでうつ向くばかりで涙は未だ止まらず。
ガタガタと扉の外で音がした。
スリッパの足音がいくつか鳴った後、扉は再度開かれる。
驚きに止まる二人に樹は怪訝な顔を返す。
コンセントを探し、手元のノートパソコンと繋げ、樹はベットを背に床へ座り込んだ。
「さっさと寝ろよ。」
そう言って樹は画面に文字を打ち込み始める。
最初に正気に戻ったのは光だった。
よたよたと腕を伸ばした光に、諸伏が支えていた腕を離せばベットの側面に寄りかかる樹に近付き、背を向けて丸まった。
樹は其に構う暇もない位に忙しくキーボードを叩いては思案し、鞄から出した資料をめくり画面と見比べてる。
それは先程の、
光は、樹の答えに満足したのか、スンスンと鼻を鳴らし落ち着いて来ているようだった。
まんじりとした時が流れる。
パチパチと言うキーボードの音と、樹の気配、光の寝息。
諸伏は安堵と共に眠気に襲われ、そのまま光を布団に抱き込んで眠りに落ちることとなった。
―――――――
朝方、諸伏は樹の腰を上げる動きで目が覚める、そのまま腕の中の光を眺めてぼぅっとしていると、トイレから帰ってきた樹と目があった。
「んだよ」
そう言って眠そうにあくびをすると樹は元の位置に戻ってpcを開く。
夜明前のぼんやりとした光がカーテンを包み諸伏は夢の中にまだ居るようだった。
この時間が続けば良いのに。と樹が居る安堵に小さなため息をつく。
樹は突然来たと思ったら、嵐のようにすぐ去ってしまう。
刑事の感は、"余計な詮索をされないようにしている"と言う。
だが、諸伏は其を問うていいのかの線引きが分からなかった。
諸伏の視線に気付いたのか樹が首もとを擦る。
「聞きたいことがあるなら言え、鬱陶しい。
私に察するなんて高度な事させんな。
答えられないのはそう言うから。」
ぶっきらぼうで優しい言葉だった。
しかし、鬱陶しいという言葉が事実だろう事は察せた諸伏はさっさと質問することにした。
樹は短気なのだ。
中2の頃、小橋の誕生日プレゼントに悩む諸伏を秒で見切り、大和とゲーセンに消えた恨みは忘れない。
「何時に出発するんですか?
送ります。」
「松本から関空に飛ぶ。
8時にはここを出るし、レンタカーしてるから玄関でお別れしてくれ。
あまり人目に付きたくない。」
光が追われているのは知っていたが、そこまでだったかと今更ながら諸伏は実感する。
光と居れるのもあと数時間、腕の中を再度眺めた。
昨日の過呼吸が利いたのかまだぐっすりだ。
「光君とはもう会えないんですか?」
「名前は変わるが何れ会えるようになる。」
関空と聞いてもしやと思っていたが、海外の証人保護プログラムの利用が計画に織り込まれていると考えるのが妥当だろう……。
会えるのは何年後になるだろうか……
海外に行くとしたら光は英語を話せるのだろうか……賢い子供だとは分かっているが今更ながら心配になって光の頬を撫でて心を落ち着ける。
「そういえば、光くんもあなたと同じギフテッドなんですか?」
「さあ?
そもそもギフテッドの定義がわからないからなんとも言えない。」
確かにそうだが、と思ったところで追加で、そもそも私がギフテッドかどうかも分からないしな、と言われ困惑する。
「敢助君からあなたは小学生で大学を卒業してると聞いてます。
ギフテッドでは?」
「何度も言うが、ギフテッドの定義が不明だ。
確かに私は他人より数学やIT関連での造詣が深いが、それまでだ。
料理は上手とは言えない腕だし、歴史、特に漢詩や中国史はお前の方が詳しい。
人間関係もご存じのとおりだしな。」
そういえば、知識の偏りが酷かったなと学生時代家庭科で大和と必ず同じ班に入れられ、ずっと横でフォローされていたことを思い出す。
樹のお世話を押し付けられた大和に、何かすると大和の横やりが必ず入る樹……お互いに嫌な顔で料理するので、出来上がった料理は普通の味なのに不味そうに見えると評判だった。
樹と光が共にいたときの食生活が気になるところだが、話が長くなりそうだったので別の方へ思考を飛ばす事にする。
「……小橋葵さんが、昨年亡くなられたのは知っていますか?」
「知ってる。墓参りは行った。」
小橋は、1年程前に心臓発作で亡くなった。
小橋の葬式に姿は見えなかったので、存知を確認したが認識はあったようで安堵する。
小橋とは高校を卒業してからいくつか連絡を取っており、その内結構な頻度で樹からの連絡がないか確認されていた。
「何故連絡も寄越さず高校3年生の夏から登校しなくなったんですか?
葵さんも、勘助くんもとても心配してました。」
思わず責める口調になってしまうが、実際せめてしかるべき事項である。
小橋にフラれた関係で高3の記憶が飛んでいた為、あまりあやこや言えないが
諸伏は弟と連絡を取れなくなってから、これは心配になると小橋の心労を察してはいた。
樹は少し悩んだ後返答する。
「家業が忙しくなって出席が出来なくなった。
退学も考えたが、学校側の全国模試1位を手放すのが惜しい心理を利用して、テストの出席で話をつけた。
だから登校してないわけでは無い。
時々学校にいた。
連絡が取れなくなったのは携帯がインド洋に水没してデータが全部吹っ飛んで、新たに買えたのもだいぶ後だったから。」
それでも、小橋は連絡がほしかっただろうと諸伏は思っている。
両親が亡くなっても、結婚して実家から出ても、樹の知る小橋の実家を手放さなかったし、遺言にも可能な限り遺してほしいと有ったと聞く。
もしかしたら、親友が訪ねて来るかもしれないからと。
諸伏は、大和と小橋と同窓会もどきを3人でしたことがあった。
小橋が本を出版すると言うのでそのお祝いも含めていた。
全員の誕生日が二十を越えた春だった。
そこでなんとなしに将来の話となり、小橋の目標が児童小説家と知った。
いつかコウメイくんの話書かせてねと言われ勿論ですと笑顔で頷いたのを覚えている。
どうして、小説家何ですか?
と問うたのは小橋なら他にも表現方法は有りそうだと思っていたから。それに諸伏達の成績争いに一歩劣るがしっかりついてきた小橋なら、もっと道は広がっていた筈だ。
何か思ってそうしていると諸伏は考えていたし
あわよくば、その理由に自分がいないかとも思っていた。
しかし、諸伏の希望はかなわず、恥ずかしそうに『内緒ね』と話された理由は何て事のない話だった。
『昔ね、寧蒙ちゃんが誉めてくれて……
ただのメモ書きのショートストーリーだったのに、凄く気に入ってくれたみたいで……それが嬉しかったの。
だから、寧蒙ちゃんにまた読んで欲しくて……
読んで、誉めてくれたらいいなって。
凄く自己中心的な話でごめんね!
でも、小説を書いて出版したら、いつか寧蒙ちゃんの手に届くかもしれないって思ったらいてもたってもいられなくて……』
恥ずかしそうに俯く小橋を大和は笑って大層な理由じゃねぇかと励ました。
諸伏は未だに小橋に巣くう形亡き樹に嫉妬を覚えながら、素敵な理由ですねと思っても無いことを答えた記憶がある。
―――――――
「葵さんの作品は読みましたか……?」
記憶が沸々と沸くように弾ける。
思えば、小橋と付き合う前から樹に嫉妬をしていたなと思い出す。
小橋の一番はいつも樹だった。
自分との恋は綺麗に昇華したのに、樹との思い出はいつまでも居続けるのが許せなかった。
「いいや。
時間がなくて読んでないが、買ってはいる。
本棚のどこかに有る筈……捨てられてなければ。」
誰か別の人の気配がする返答だった。
小橋にあんなに心配をかけ、思われていたのに
隣にいるのはお互い違う人。
目頭が熱かった。
やるせなさにじわじわと涙が沸いてくる。
思えば二人は昔から相思相愛だったのだろう。
だから平気な顔して小橋の手を離した樹が許せなくて、いつまでも小橋の心に居座れる樹が憎かった。
自分も、それ程小橋に思われる人になりたかった。
とんだわがままだと言うことは諸伏はずっと気付いていた。それでも、諸伏と同様に両親を亡くした樹に寄り添う小橋が、そんな小橋を大事に思う樹が、羨ましかった。
諸伏と付き合っていても変わらないそれが羨ましく、諸伏との別れをちゃんと昇華してしまう小橋が憎らしく、悔しかった。
『高明くんとは友達がちょうどいいと思うの。
私、多分このまま付き合っても高明くんに、同じ気持ちを返すことが出来ないわ。
そして、返すことが出来なくて、辛くなって……私高明くんを嫌いになりたくない。
だから、友達に戻ろう?』
優しい拒絶だった。
お互いに若かった。
今ならうまく行くかと言われても頷けないが、あの時は経験がないから起こった別れだった。
高三の冬休み最終日に紡がれた言葉は、諸伏の重りとなってずっと心の底にいる。
体が重い。
光を抱えているからではなく、そこには小橋の心が、ついぞ樹に届かなかった無力感があった。
あふれでる涙を拭くこともできず、諸伏はシーツを濡らして、つっかえながら言葉を返す。
「そ、うですか……是非読んでください。
感想を……葵さんに、伝えてあげてください。」
「えっ?! 何で泣いてんの?!」
様子のおかしい声に驚いて振り返った樹。諸伏は答を求めるよう、じっと見つめた。
樹は苦い顔をしてティッシュを数枚取ると諸伏の顔に押し付ける。
「時間ができたらな。」
返答は冷たい言葉だった。
―――――――
話し声が五月蝿かったのか光が目を覚ます。
目元を擦って眠そうにしている。
諸伏は己の涙を押し付けられたティッシュで拭い、鼻声を誤魔化すかのように咳払いをし偽装工作をする。
「すみません、五月蝿かったですね。」
光は諸伏の声にゆるゆると目線をあげてから、朝の寒さに耐えきれずか、再び諸伏の懐に潜り込んだ。
諸伏は、ぱやぱやした髪の毛を撫で付ける。
樹が言葉を添えた。
「まだ寝れる。」
樹のアルトの言葉に安堵したのか光はまた夢の世界に帰っていく。
すうすうと寝息が聞こえる頃には諸伏の涙も落ち着いていた。
話を変えよう。
これ以上小橋の話をすれば傷つくのは自分だけだ。
「景光は生きてますか?」
「答えられない。」
想定通りだ。
生きていても死んでいても答えられないのは公安の特性上仕方のない事だ。
景光が公安の潜入調査に関わっていることは以前から匂わせていた。
「光くんの父親は景光ですか?」
「答えられない。」
これも想定どおり。
さりとて答えられないことが、公安の景光の影を濃くする。
時間は6時を回っていた。
一応と諸伏は樹にシャワーをすすめるが、数秒考えた後、いやいいと言われる。
諸伏の何故?という視線に樹は苦い顔で答えた。
「私は今、仕事から逃げ、温泉地を観光している事になってる。
香りによっては整合性が取れない。」
成る程、確かに温泉施設のシャンプーは独特のキツイ香りがする。
樹の髪から以前と違う香りがするのも頷けた。
だが、仕事から逃げているとはどう言うことだろうか?
昨日から必死にpcに打ち込んでいるのは仕事ではないのだろうか……?
「……これ以上は答え無いからな。」
諸伏の目ほどではないが、樹の背中は雄弁で、
宿題を複数抱えて首が回らなくなっている事は諸伏にもわかった。
夏休みの宿題に全く手を着けておらず、大和宅で3人から詰められている姿を思い出す……。
たしかその時は、中三の夏休みの最終週に久しぶりに樹と会った大和が、樹の宿題が何一つ終わっていない事に気付き、慌てて大和家に引きずっていき、集合した3人で樹を詰めて、大和宅へ泊まり掛けで終わらせたはずだ。
「お前、ほんっといっっっっっっ生俺らに感謝しろよ!」
「毎回3日でやってたんだから今更なんですけどね……態々どうも。」
大和に文句を言われつつ垂れつつ、自由研究の合間時間に指定のドリルと白文帳への書き取りをアイスを咥えながら片付けてる姿は今の背中と酷似していた。
因みにこの行事は春夏冬合わせて高二まで続いており。
3人が分からなかった問題をなんの引っ掛かりもなく解いた樹の手を無理矢理止めて解説させたり、休暇中に起きた謎や事件を宿題中の樹の手を無理矢理止めて話し合ったりと
悉く樹の邪魔をし3日を5日に伸ばして、樹を使う丁度いい機会と言って憚らなかったのは大和と諸伏だ。
幸いなことに復習になるのか、休み明けテストの点数は、3人だけ異様に良かった。
3人とも長期休暇の最終週に予定をいれなくなったのは多少なりともその時間が楽しかった事の証左であり、樹が居なくなった高三の夏と冬が物足りなく感じたのも、自明の理である。
「あれ程課題は早めに計画性をもってやれと言ったのに!?」
「うるさいな!
何度も言うけどこいつのせいで計画狂ったんだよ!」
「どうせそれも3日で終わるものなのに先延ばしにしたんでしょう!」
「……だから今やってんじゃん!
お前は私の親か?!」
小さくを意識してはいるが全然小さくない言い争いに、もう一度光は起きる羽目になった。
着替えたいと寧蒙を部屋から追い出したり、お腹空いたと諸伏に訴えたりするが、止まること無くそれは続き、諦めた光はその喧騒の中出掛ける準備を進めることになる。
光は些か『この二人、性格の不一致が過ぎないか?』と思わないでも無かったが、
諸伏と樹の性格の不一致は、中高6年の付き合いの中で大和と小橋がとても手を焼いており、一向に改善することはなく、むしろ6年でお互いの理解が進み衝突が増えた事を考えると、光の『些か』は『大いに』へ変わるだろう。
それと同時に大和と小橋は、諸伏と樹が手を組んだときの厄介さにも手を焼いていたので、そもそも同じ空間に入れてはならない二人であることは確かで
二人が現状を見れば、良く今まで持ったなぁと感心をこぼす程である。
諸伏の後ろでpcをいじる樹にそわそわするわけである。
そして当然それは、現在のお別れの時になっても止む事はなく、
「大体何度言ったら貴方はその先延ばし癖を辞めるんですか。
貴女が終わらないせいで作業が進まなかった事がいくつあるとお思いで?」
「うるさいな、期限内には終わってただろうが、期限過ぎてるならまだしも何で終わってんのに文句言われなきゃなんないんだよ。
なんのための期限だよ!」
「期限より早く終わらせられる方が後の人も早くステップ踏めて、何処かでアクシデント起きても期限内終わるでしょうが!」
「じゃあ最初からそういう期限に決めとけよ!
その認識もないのにそんなこと出来るかよ!
察する事を全員に求めんな!」
バンッと言う音と共に閉められた玄関に諸伏は、樹はともかく光の別れとして流石に良くなかったかと気付くが時既に遅し、樹の靴音が去っていったあとだった。
しかし、玄関で頭を抱えた諸伏の耳にインターホンの音が届く。
驚いたまま恐る恐る玄関を開けると光がいた。
この家に来た時と同じように毛糸の帽子とマフラーと手袋。
今は来た時より暖かそうにクスクスと笑っている。
光は、手にしていたメモを諸伏に渡す。
<半年間ありがとうございました。
命が狙われてる子供を、危険を承知で保護して下さり、何とお礼を言ったら良いのか……
言葉が見つかりません。
ですが、諸伏さんと過ごした半年は、とても楽しくって、嬉しい半年でした。
このご恩は一生忘れません。
怒って行っちゃったけど寧蒙もとても感謝してます。
本当にありがとう。
大好きです。>
最後まで読んだ諸伏が目を向けると、光はモジモジとした後、両手を広げた。
ハグの合図だ。
一体、その小さな体に、首に、どれだけの値がついているのだろう。
命が狙われている子供がする気遣いではない感謝に、諸伏は涙が止まらなかった。
諸伏も腰を落とし手を伸ばし、腕にその小さな体をぎゅっとおさめた。
「僕も、貴女といた半年はとても楽しく、幸せでした。
今、貴女の手を放す事の苦しさを痛感してます。」
諸伏の肩口に額を押し付けた光が、苦しそうに肩を叩くので諸伏は一度ハグの手を離す。
光は諸伏の手にあったメモを受け取り文字を書き始めた。
<このメモ帳は諸伏さんにあげます。
諸伏さんが察してくれたように、Nemoがくれた僕の大事な、最後のメモ帳です。
後日僕の荷物を引き取りに人が来ますが
メモは渡しても渡さなくてもどっちでもいいです。
お元気で。>
「勿論、大事にさせていただきます。
絶対生きて帰って来なさい。
僕はここでずっと待ってますから。」
もう一度ハグをして別れを惜しんでいると、マンションの下で小さくクラクションが鳴った。
樹が車を持ってきたのだろう。
諸伏はここまでしか見送れないのが悔しかった。
小さい背中がエレベーターに乗ると手を振るので、諸伏も手を振り返す。
そのまま消える姿を眺めた諸伏は、玄関を閉めてベランダに向かい、階下を眺める。
数分後小さな影が白いレンタカーに乗った。
車の扉を閉める前に何かを言われたのか頭が上を向く。
ベランダから諸伏はもう一度手を振ると、小さな腕をめいいっぱい使ったバイバイをして光は車の扉を閉めた。
車が見えなくなるまで諸伏は見送ってふと息を吐き、部屋を振り返る。
持ち主がいなくなった荷物が残っている。
まだ少し温度のあるソファ
先程までお茶を入れていたマグカップ
朝着替えたパジャマ
小さいサイズのカトラリー
買い足したドでかボトルの日焼け止め
後日二人で食べようとしていた果汁100%のお高いジャム
寒くなるからと買ってまだ着てない冬服
ああ、車のチャイルドシートと保育園用具はクリーニングに出さなければいけない……
今はそのどれも、片付けれそうになかった。