「ごめんね、ビアンカ……負けちゃって」
リュカの声は、いつもより少しだけ小さかった。さっきまで剣を振るい、必死に前を向いていた少年が、今は肩を落として立っている。その背中は、強くなったはずなのに、どこか幼く見えた。
「ううん」
ビアンカは、いつもの明るい笑顔で首を横に振る。けれどその声は、軽くはなかった。
「そんなことないわ。あなたたちが全力……ううん、それ以上を出し切ってくれたの、ちゃんと分かってるから」
その言葉に、リュカの肩がわずかに震えた。ボクはその様子を少し離れたところから見ていた。ヘンリーは、二人の様子を一目見てから、そっと外へ出ていった。何も言わずに、扉を閉めるその背中を見て、ボクは思う。
――人間って、やっぱりいいな。
空気を読むというか、踏み込まない優しさというか。モンスターのボクには、まだ完全には分からない感覚だけど。とにかく今は、リュカがビアンカに謝っている。一緒に冒険するという約束が、果たせなかったことに対して。
……さっき大人たちが話していた内容を、今ここで口にするのは良くない。それくらいの機微は、ボクにも分かる。
「ごめん……」
リュカが、もう一度だけ言った。
その横で、スラリンがぷるんと跳ねる。
「ぼくも……ごめんなさい」
ドラきちも、小さく羽をばたつかせて頭を下げる。
「オイラも……力不足で……」
プックルだけは言葉を発さず、ビアンカの足元にすりっと体を寄せて、尻尾を振っていた。まるで「謝罪」を伝えるみたいに。
「ふふ……」
ビアンカは思わず笑って、しゃがみ込む。
「もう、みんなして謝らないでよ」
そう言って、プックルの頭を撫でた。
「とにかく皆、無事でよかった! それが一番なんだから」
その声は、強がりじゃない。本心だと分かる。
「ほら! いつまでも立ってたらお腹すくでしょ? 夕食を食べに行きましょう!!」
「うん……そうだね!」
リュカが、少しだけ元気を取り戻した声で答えた。そうして、外で待っていたヘンリーと合流し、みんなで食堂へ向かう。宿屋の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静かで、ランプの灯りが木の床に長い影を落としていた。
食堂に入ると、温かい匂いが鼻をくすぐる。煮込み料理の香り、焼き立てのパン。それだけで、少しだけ心が緩んだ。
けれど――。
食事が始まっても、誰もがどこか落ち着かない。パパスさんは何度も言葉を飲み込み、リュカもフォークを動かす手が止まりがちだ。ビアンカは明るく振る舞っているけれど、視線が時々伏せられる。
このままじゃ、きっと何も言えないまま終わる。
「……ねえ」
ボクは、意を決して声を出した。
「パパスさんも、リュカも。何か言いたいなら、言葉にした方がいいよ」
一同の視線が、ボクに集まる。
「順番にね。年の順番で行こう! まずはパパスさんから!」
「……」
パパスさんは一瞬驚いた顔をしたが、やがて苦笑して頷いた。
「ああ……そうだな」
そう言って、リュカを真っ直ぐに見る。
「リュカ」
「……はい」
「強くなったな」
その一言に、リュカの目が見開かれる。
「私は……誇らしい。お前が私の息子であることが」
「父さん……」
「ヘンリーと一緒に考えた作戦も、スラリンたちとの連携も見事だった」
パパスさんは一度、言葉を切る。
「……正直に言う。私がホイミンに教えを乞うていなければ、危なかっただろう」
「えっ!?」
リュカが驚きの声を上げる。
「父さん、ホイミンに何か教えてもらってたの!?」
「ああ」
パパスさんは、あっさりと頷いた。
「体術と剣技を少しな。おかげで私も成長できた」
「……!」
「やはり、師匠がいるというのは大きい。独学とは違う」
リュカは呆然としながら、ボクを見る。
「ホイミン……父さんの師匠……?」
「え、えーっと……少しだけだよ?」
正直、照れくさい。
「ヘンリー王子も見事だった」
パパスさんは視線を移す。
「イオを直接当てるのではなく、目くらましに使う判断。あれは良かった」
「でも……それでも、一矢も報いることはできなかったけどな」
ヘンリーは肩をすくめる。
「そんなことはない」
パパスさんは、きっぱりと言った。
「私がホイミンから習った技を使った時点で、お前たちは一矢報いている」
その言葉に、ヘンリーは目を丸くした。
「……本当か?」
「ああ」
パパスさんは、スラリンたちにも視線を向ける。
「スラリン、ドラきち、プックル。よくリュカに従ってくれた。ありがとう」
その言葉に、スラリンたちは照れたように体を揺らし、ドラきちは照れ隠しにそっぽを向いた。そして――。
「それでだ」
パパスさんは、静かに切り出した。
「冒険の旅だが……ビアンカも一緒に行こうということになった」
「――えっ!?」
リュカが思わず立ち上がる。
「でも! 僕たち、父さんに勝てなかったよ!?」
「マグダレーナがな」
パパスさんは、にやりと笑う。
「自分もついて行くと言ってな」
「その通りだよ!」
マグダレーナさんが、胸を張る。
「野営や冒険の仕方は学べても、文字や勉強までは難しいだろう?」
「だから、私とビアンカも一緒について行くことにするよ」
「ママ!!」
ビアンカが声を上げる。
「こんな時代だからね」
マグダレーナさんは、優しく微笑んだ。
「できれば安全なところにいたいし……ホイミンやパパスがいる場所なら、安全だろう?」
その言葉に、ボクは胸を張る。
「……任せて」
「とはいえだ」
パパスさんが締めくくる。
「船の準備が整うまで、半年はかかるだろう」
「それができてからの出発だ。もう一度、ベルギスのところへ顔を出しておこう」
食堂に、少しだけ明るい空気が戻った。負けた。でも、終わりじゃない。むしろ――ここからが、本当の旅の始まりなのかもしれない。
ボクはそう思いながら、湯気の立つ料理にナイフとフォークを伸ばした。
☆ ☆ ☆
そして半年という月日は、振り返ってみれば瞬きのように過ぎ去っていた。朝霧の中で剣を振る日々、泥だらけになって駆け回る子どもたちの笑顔、夜ごと焚き火を囲んで語られた未来の話――それらすべてが、つい昨日のことのように思える。
リュカは九歳になった。背は少し伸び、声変わりにはまだ早いが、その眼差しは確実に幼さを脱ぎ捨てつつある。剣を握る手には迷いが減り、仲間を見る視線には責任が宿り始めていた。
……マーサさんを、リュカが子どものうちに助け出せると良いな。ボクはそう願わずにはいられなかった。願いは祈りに変わり、祈りは決意へと変わる。この旅は、もう準備ではない。運命そのものだ。
港町の空は高く、潮の香りを含んだ風が穏やかに吹いていた。木造の船体が波に揺れ、帆がかすかに鳴る音が、これから始まる長い航路を予感させる。
「ベルギス、船を用意してくれたこと、感謝する」
パパスさんは王の前に立ち、深く頭を下げた。鎧の金属音がわずかに鳴る。その音は戦場ではなく、誓いの場にふさわしい静けさを帯びていた。
「なに、これもヘンリーの成長のためだ」
ベルギス王はそう言って、ゆっくりと首を振った。かつての威厳はそのままに、しかし肩や背には、確実に病の影が落ちている。
「何より、お前とホイミンがいれば、危険も少なかろう」
その言葉に、ボクは一瞬、驚いて目を瞬いた。王の視線がこちらに向く。
「……そう言えばホイミン。そなたは古代の呪文であるルーラを使えると聞いたが、真か?」
不思議そうでありながら、どこか確信めいた問いかけだった。ボクは軽く体を揺らし、正直にうなずく。
「はい。ボクは確かに、ルーラの呪文を使えます」
「そうか、そうか……」
ベルギス王は何度も頷き、ほっとしたように息を吐いた。
「ならば、リュカの生まれ故郷に着いたら、一度、ヘンリーをこちらに送ってくれないか。王の務めも、少しずつ学ばせたい」
「分かりました!」
ボクは即座に答え、それから一歩前に出た。
「……それと、ベホマ」
言葉と同時に、ボクの身体から柔らかな光が溢れ出す。白く、温かく、包み込むような回復の光。
ベルギス王の表情が、みるみるうちに和らいでいくのが分かった。病そのものを消すことはできない。けれど、体に宿る疲労や痛みを和らげることはできる。
「これは……いや、すまん」
王は胸に手を当て、驚いたように息を吸った。
「体が……楽になった。ヘンリーが大人になって、王位を継ぐまで……何とか、生きねばな」
「ボクも協力します!」
胸が少し熱くなって、思わず声が弾む。
「また、ベホマをかけに来ますね!!」
「ああ……感謝している、ホイミン」
ベルギス王はそう言って、視線を遠くへ向けた。
「それにしても……ヘンリーも、楽しそうにしているな……」
ボクもそちらを見る。港の端、陽の当たる場所で、リュカ、ヘンリー、ビアンカ、そして仲間のモンスターたちが走り回っていた。笑い声が風に乗って届く。剣も魔法も関係ない、ただの子どもたちの時間。
「……いつか、この光景が当たり前になればいいのにな」
ベルギス王の呟きは、願いだった。
「そうだな、ベルギス」
パパスさんが静かに応える。
「いや……必ず、その未来を掴み取ろう。お前はラインハットで、私はグランバニアで」
「ああ!」
二人の王の声が重なった。それは盟約だった。戦わぬ誓いではない。守るために、戦い続けるという誓いだ。その時、船内から足音が響き、屈強な船長が姿を現した。
「船の準備が整いました! いつでも出航できます!」
その声に、空気が一変する。別れと旅立ちの境界線が、はっきりと引かれた瞬間だった。
「リュカ! ビアンカ! ヘンリー王子!」
パパスさんが声を張る。
「準備ができた。集まるんだ!」
駆け回っていた子どもたちが、一斉にこちらを向き、笑顔のまま駆け寄ってくる。仲間のモンスターたちも後に続き、そしてマグダレーナさんも、船長と短く言葉を交わしてから合流した。
港に集まった全員が、それぞれの思いを胸に抱いているのが、ボクにははっきりと分かった。
「ではな、ベルギス」
パパスさんが最後に言う。
「また会おう」
「ああ……ヘンリーを、頼むぞ」
ベルギス王の声は震えていたが、確かだった。ボクはその光景を胸に刻みながら、そっと空を見上げた。高く、澄んだ青空。この空の下で、どれほどの別れと出会いが繰り返されてきたのだろう。
――行こう。守るために。そして、必ず取り戻すために。
船が、静かに港を離れ始めた。
☆ ☆ ☆
船の上でも、リュカたちは相変わらず元気だった。甲板に差し込む陽光を跳ね返すように、笑い声が絶えず響いている。
スラリンは、ぴょん、ぴょんと皆の頭の上を飛び跳ねている。透明な体が光を受けて七色にきらめくたび、ビアンカが楽しそうに声を上げる。ドラきちは、帆柱の周りを大きく旋回しながら空を舞い、時折、風を切る音とともに急降下しては、リュカの肩すれすれを通り過ぎていく。そしてプックルは――足元を駆け回っていた。
いや、駆け回るというより、じゃれついていると言ったほうが正しいかもしれない。リュカの靴に鼻先を押し当て、しっぽを揺らし、時折ごろりと甲板に転がる。その姿は、どう見てもネコそのものだった。
……もっとも、体つきはもう、ネコと言うには大きすぎる。筋肉のつき方、牙の長さ、爪の鋭さ。このまま成長すれば、誰が見てもキラーパンサーだと認識するだろう。
とはいえ、もう彼を危険視する人はいない。この船の中では、プックルは完全に「仲間」であり、「家族」だった。
本当に、不思議なものだ。魔物と人間が、こうして自然に同じ甲板を走り回っている光景を、誰が想像できただろう。いや過去にはあった。レック様や、ソロ様。伝説の勇者たちの仲間として、その一員として。
パパスさんは船首に立ち、常に海を睨んでいた。波間に怪しい影がないか、遠くに異様な雲が出ていないか。王としてではなく、父として、戦士としての眼差しだった。
とはいえ――ボクは船の中で、一切力を隠していなかった。魔力を抑えず、常に全開に近い状態で周囲を感知している。
さすがに、この人数で海の魔物に襲われるのは危険すぎる。リュカたちは強くなったとはいえ、船の上では足場が悪い。万が一の事態を許容するつもりは、ボクにはなかった。
そのせいか、船旅は驚くほど安全だった。魔物の気配は遠ざかり、時折見かけるのは、群れをなして泳ぐイルカや、空を横切る海鳥くらいだ。
昼間になると、パパスさんは子どもたちを集めて、簡単な講義を始める。剣の構え、魔法を使う際の姿勢、戦場での判断――それだけではない。
「国を治める者はな、剣だけでは足りない」
そんな言葉とともに、帝王学まで教え始めていた。歴史の話、民を守るという意味、力を持つ者の責任。……正直、ビアンカには必要なさそうな内容だ。
彼女は王族ではないし、国を治める立場でもない。
それでもパパスさんは、ビアンカにも同じように語りかける。まるで「聞く権利がある」とでも言うかのように。
――もしかして。
パパスさんは、本気でリュカをグランバニアの王にするつもりなのかもしれない。ヘンリーに帝王学が必要なのは、当然だ。彼はラインハットの王子なのだから。
けれど、リュカにも同じように教えている。それは期待であり、覚悟でもあるのだろう。船旅は順調だった。あまりにも順調で、時間の感覚が曖昧になるほどに。
ビアンカに教えているのは仲間外れにしないためだろう。
太陽が昇り、沈み、また昇る。星を見て眠り、波の音で目を覚ます。気づけば、半年ほどが経っていた気がする。リュカも、もうすぐ十一歳だ。
……何か、プレゼントを用意してやれればよかった。だが、船の上では難しい。ボクにできるのは、これから先、生き延びるための力を与えることだけだ。
その点では、成果は十分すぎるほど出ていた。模擬戦を何度も繰り返すうちに、リュカも、ビアンカも、ヘンリーも、目に見えて強くなっている。もう、ボクがそばにいなくても、魔王クラスでなければある程度は戦えるだろう。
スラリンも、ドラきちも、プックルも同様だ。連携の動きが洗練され、無駄が減っている。あとは――リュカが、彼らをどれだけうまく指揮できるか。
もしグランバニアからエルヘブンに着いたら。一度、リュカたちだけで冒険に出させるのも、悪くないかもしれない。
それはきっと、成長につながる。
……分かっている。分かっているけれど。
リュカの幼いころを、ほんの少しだけ知っているボクにとって、それはやっぱり寂しいことだった。背中を押す役目だと理解していても、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
それでも。リュカには、幸せになってほしい。それが、ボクの偽りない本音だった。今は、甲板の端で、パパスさんと模擬戦をしている。考え事をしながらでも、体は自然と動く。長い年月で沁みついた戦い方だ。
だが――もう、油断はできない。
パパスさんとの距離は、確実に縮まっていた。彼は間違いなく、バトルマスターへの入り口に立っている。
リュカたちは鍛えているとはいえ、まだ下級職にも到達していない。それに比べて、パパスさんは――剣と共に生きてきた年月が違う。
一太刀ごとに、重みがある。
……本当に、すごい人だ。
尊敬できる。ここにマーサさんがいれば、きっと完璧だったのに。そんなことを思いながら、ボクはパパスさんの剣を弾き飛ばした。金属音が高く響き、剣が甲板を転がる。
「いや、参った!」
パパスさんは豪快に笑い、両手を上げる。
「ふふん。さすがに、まだ負けるわけにはいかないからね」
ボクは胸を張って答えた。けれど心のどこかで、こうも思っている。――いつか。いつか、この人に本気で追い抜かれる日が来るのかもしれない。
その時、ボクはどんな顔をしているだろうか。甲板の上で、潮風が吹き抜けていった。
時間経過に関して雰囲気で('ω')
ルドマンさんはトルネコの
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子孫
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子孫じゃない