港に潮の匂いが満ちていた。長い船旅を終え、船はゆっくりと岸壁に横付けされる。木製の船体がきしむ音が、やけに名残惜しく響いた。
甲板から見下ろすと、荷揚げの準備をする人々が忙しなく動いている。半年という時間を、同じ船で過ごしたからだろうか。この船が、ただの移動手段ではなく、一つの居場所だったように感じられた。
「船長、ここまでの道中感謝している。半年後にまた会おう」
パパスさんが深く頭を下げる。その姿は王族のそれではなく、旅人としての誠実な別れだった。
「分かりやした! 皆さんもお気をつけて!」
船長は歯を見せて笑い、帽子を軽く持ち上げた。この人もまた、短い間ではあったが、確かに仲間だった。こうして、一先ず船旅は終わった。
船は一旦ラインハットへ戻るという。再会の約束があるからこそ、別れはそれほど重くならない。
だが、旅は終わりではない。ここからが本当の意味での旅だ。
これから山を越え、森を抜け、リュカの生まれ故郷へと向かわなければならない。その前に――やるべきことが一つある。
ルーラの目印を定めるため、一度ラインハットへ戻ること。そして、ヘンリー王子を城へ送り届けること。
「パパスさん! それじゃ一旦、ヘンリー王子をラインハットに連れて行ってくるね!」
ボクがそう言うと、パパスさんは短くうなずいた。
「頼んだ」
余計な言葉はない。それだけでボクとパパスさんの間は十分だった。
「頼むぞ、ホイミン! 父上に成長した姿を見せなきゃな」
ヘンリーは胸を張って言う。その表情には、もう不安よりも期待の方が強く表れていた。
――大丈夫だ。この子は、確実に変わった。ボクは静かに呪文を紡ぐ。
「ルーラ」
視界が一瞬、光に包まれ、次の瞬間――懐かしい石畳と、城壁の影が目に入った。ラインハット城だ。突然現れたボクたちに、周囲の兵士たちは一瞬身構えたが、ヘンリーの姿を認めると、すぐに表情が和らいだ。
「ヘンリー王子だ!」
「ご無事で……!」
城内は、まるで空気が一段明るくなったようだった。王子が帰ってきた。それだけで、人々の心は安堵する。
ボクはその後ろを、ふよふよと浮かびながらついて行く。誰もボクを止めない。それどころか、軽く頭を下げる兵士さえいる。
どうやら、ボクの存在は完全に周知されているらしい。ラインハット城での出来事は、それほど大きな噂になっているのだろう。
……勲章を持っているのも、多少は効果があるのかもしれない。王の間に通されると、そこにはベルギス王と、デール王子の姿があった。
「ヘンリー! よく無事に帰ってきた!」
「お帰りなさい、兄さん」
二人の声には、心からの安堵が滲んでいる。
「ただいま帰りました、父上! それにデールも! 元気だったか!?」
ヘンリーは、以前よりもずっと堂々とした声で答えた。
「ええ、元気ですよ、兄さん!」
「ふっ、ヘンリー。わしが元気かは気にならないのか?」
ベルギス王がわざと不満そうに言う。
「ええ。見れば元気であることぐらい、わかりますよ!」
一瞬、間が空いた。そして――
「……そうか、そうか。立派になったな、ヘンリー」
ベルギス王は、静かに笑った。その目には、誇りと安堵がはっきりと宿っていた。
「パパス殿と、ホイミンのおかげです」
ヘンリーは迷いなく言った。
「ホイミン、パパスにも言わなければならないが……ヘンリーをよくここまで育ててくれた。本当なら、儂がやらなければならないことなのだがな……」
その言葉に、ボクは少し照れてしまう。
「ヘンリーはリュカの友達です! リュカの友達なら、ボクの友達です! それに……人間と関われるのは、ボクも嬉しいですし……」
偽りのない本音だった。
「そうか。もう、ヘンリーが王座を継ぐのを反対する者はいない。ラインハットは一つにまとまれそうだ」
ベルギス王はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「それでだ、ヘンリー。お前の旅はグランバニアまでだ。本当なら、もう少し自由にさせてやりたかったが……大臣たちからも、城で王の務めを教えるべきだとの声が上がってな」
「……そうですね」
ヘンリーは一瞬だけ目を伏せ、それから前を向いた。
「では、その間に少しでも多く、パパス殿やホイミンから学んでまいります!」
「そうじゃな! 期待している!」
「では父上、私はパパス殿の元に戻ろうと思います」
「うむ! しっかり学んでくるのだぞ!」
そうして、ヘンリーは城を後にした。
「行くぞ、ホイミン!」
ボクは王たちに一礼し、ベルギス王にそっとベホマの呪文をかける。完全には治らない病でも、今を楽にすることはできる。
そして、城門を出ると――
「父上も元気そうでよかった。この旅で、俺はもっと成長するぞ! それで父上に褒めてもらって、子分を守るんだ!」
その言葉を聞きながら、ボクは自然と笑顔になっていた。――きっと、この子はいい王になる。弱さを知り、仲間を知り、守ることを知った王に。そう確信しながら、ボクは再び空を見上げた。
ただベルギス王が病であることを隠している。このことがどのように影響するか。それだけが心配だった
☆ ☆ ☆
そして、ボクとヘンリーは再びパパスさんたちと合流した。
パパスさんのその背中は、変わらず大きく、どっしりとしていた。剣を背負い、山を見上げる横顔は、まるでこの先にどんな困難が待っていようとも、必ず道を切り拓くとでも言うようだ。パパスさんの隣にはビアンカの母のマグダレーナさんがいて、二人は短く言葉を交わしながら、進むべき道を確かめている。
――ここからが本番だ。
山を越える。
言葉にすればそれだけだが、実際に目の前に広がる光景は、想像を遥かに超えていた。切り立った岩肌。曲がりくねる細い山道。足元には大小さまざまな石が転がり、少し気を抜けば簡単に足を取られてしまいそうだ。
(……これは、なかなかだね)
ボクは空を飛べるとはいえ、みんなと同じ速度で進むため、地面すれすれをふよふよと浮かびながら移動している。見上げるほど高い山は、空気がひんやりとしていて、息を吸い込むたびに肺の奥が少し痛む。
途中、何度も休憩を挟みながら、日数を分けて登っていくことになった。
それでも、リュカとヘンリーは案外元気だった。
「はぁ……はぁ……でもさ、冒険って感じがして楽しいよね!」
額に汗を浮かべながらも、リュカは笑顔を崩さない。その隣でヘンリーも、少し強がるように胸を張っている。
「これくらいでへばってたら、王様なんて務まらないからな!」
二人の足取りは軽く、多少の疲れは感じているものの、それ以上に好奇心と期待が勝っているようだった。
一方で――。
ビアンカとマグダレーナさんは、さすがに疲れが見えていた。息は荒く、足取りも慎重で、岩に手をつきながら一歩一歩進んでいる。
(まぁ……この山道は想定外だよね)
こんな急な山を越えることになるなんて、誰も事前には考えていなかったはずだ。無理もない。ボクはさりげなく二人のそばに寄り、転びそうになったらすぐ支えられるよう気を配る。
スラリンたちはというと、相変わらず元気いっぱいだった。ぴょんぴょんと跳ねるスラリン。岩の間を縫うように駆け回るプックル。……そしてドラきち。
空を飛べるドラきちが一番元気かと思いきや、意外にもそうではなかった。高度が上がるにつれて空気が薄くなっていくのか、羽ばたきが重くなり、時折ふらついている。
(飛べるからって、楽とは限らないんだね)
そんな中、リュカがこちらを振り返り、目を輝かせて声をかけてきた。
「ふぅー。凄いね、この山! それにしてもホイミンは平気そうだね! やっぱりレック様と冒険してたときも、こんな山を登ったりしてたの?」
昔話をねだるようなその声に、ボクは思わず笑ってしまう。気づけば、リュカだけじゃない。ヘンリーも、ビアンカも、マグダレーナさんも、そして少し前を行くパパスさんまで、さりげなくこちらに耳を傾けていた。
――みんな、勇者様の過去に興味があるんだ。
「うん。ボクはレック様のお供としてね、こんな山もたくさん登ったよ。雪山も、火山もね。それに……海の中を旅したことだってあるんだ」
「えっ!? 海中を!?」
リュカの声が裏返る。
「ねぇねぇ! じゃあさ! 僕たちも海の中を冒険できないかな?」
期待に満ちた目で見つめられると、胸がちくりとする。正直に答えなきゃいけない。
「うーん……人魚さんに会えたら、マーメイドハーブをもう一度もらえるかもしれないけど……今は、どこにいるのか分からないんだ」
「そっか……」
その一言で、空気が少し沈んだ。リュカだけじゃない。子どもたち全員が、肩を落としている。
(……いけない、空気を変えないと)
ボクは少し声を弾ませた。
「でもね! レック様と旅してたときは、ファルシオンっていうペガサスがいてね。馬車ごと空を飛んでたんだ! それに、天空城に行けば……きっと、みんなで空を飛べるよ!」
一瞬の静寂のあと、子どもたちの目が一斉に輝いた。
「それ、本当!?」
「ちぇっ、俺の冒険はここまでなのに……空を飛ぶときは呼んでくれよ!」
「私も一緒に連れて行って!」
口々に願いを叫ぶ子どもたち。その様子を、パパスさんとマグダレーナさんは、言葉もなく、ただ優しい眼差しで見守っている。
(……親の顔だ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
――こんな当たり前で、かけがえのない時間。それをまだ体験できていないマーサさんのことが、ふと頭をよぎる。
(……待っててね、マーサさん)
いつか必ず、みんなで助けに行く。そう、心の中で誓った。気がつけば、子どもたちとスラリンたちが、誰が一番早く山頂に近づけるか競争を始めていた。笑い声が山に反響し、冷たい空気を和らげていく。
ボクも遅れないよう、少し速度を上げる。後ろを見ると、パパスさんはマグダレーナさんに歩調を合わせ、ゆっくりと登ってきていた。
(なら、前はボクがしっかり見ないとね)
そう思った矢先、スラリンがぴょこんとボクの前に飛び出してきた。
「ねぇホイミン! 僕もホイミンみたいに、スライムから進化できるかな?」
真剣な瞳。
「ホイミンみたいに触手がたくさんあったら、リュカをもっと守れる気がするんだ!」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
「進化か……」
ボクは少し考えてから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「進化はね、心から願っていると、いつかできるものなんだ。ボクは……空を飛びたいって、ずっと願ってたから」
スラリンの目をまっすぐ見つめる。
「でもね、スラリンはまだ若い。焦らなくていいよ。君が進化するまで……ボクがリュカを守るから」
しばらく黙っていたスラリンは、やがて小さくうなずいた。
「……うん!」
そして、また元気よく跳ねて、仲間たちのもとへ戻っていった。その背中を見送りながら、ボクは空を見上げる。
(守るんだ)
この旅も、この笑顔も、この未来も。山道はまだ続く。でも、みんなと一緒なら――きっと、どこまでも進める。
☆ ☆ ☆
そして、長い長い山越えの旅の末――ボクたちは、ようやく山頂へと辿り着いた。
体感では、二カ月ほどかかっただろうか。正確な日数はもう分からない。ただ、季節の移ろいと、何度も繰り返した夜営の数が、その長さを物語っていた。朝露に濡れた岩場を登り、昼には強い日差しを避けるように木陰で休み、夜は焚き火を囲んで肩を寄せ合う。そんな日々の積み重ねの果てに、視界がふっと開けた。
「……え?」
誰かが、息を呑む音を立てた。そこには――信じられない光景が広がっていた。山の頂に、村があったのだ。
切り立った岩山の中央に、まるでそこだけが別の世界であるかのように、穏やかな土地が広がっている。石と木で組まれた家々。煙突から細く立ち上る白い煙。風に揺れる洗濯物。遠くには畑らしき区画も見える。
「……村、だよね?」
ビアンカが、半信半疑で呟いた。
「うん……間違いない。人が暮らしてる」
リュカも、思わず声を落として村を見ている。ヘンリーは絶句している。こんなところに村があることに。
山頂の村――チゾット。
名前は聞いていたけれど、実際に目にするまで、正直、こんな場所だとは思っていなかった。吹き下ろす風は冷たく、空気は澄みきっている。雲がすぐ下を流れていくのが見えるほど高い場所なのに、そこには人の営みが、確かに根を張っていた。
(……どうやって、生活してるんだろう)
水は? 食料は? 冬はどうする?
疑問は次々と浮かんでくる。けれど今は、それを考える余裕もなかった。
全員、疲れ切っていたのだ。
山を越えた達成感と同時に、体の奥からどっと疲労が押し寄せてくる。足は重く、肩は痛み、瞼も自然と落ちてきそうになる。
相談の結果、ボクたちはこの村に一か月ほど滞在することになった。怪我や疲れを癒し、次の旅に備えるためだ。村人たちは突然現れた旅人たちを驚きながらも、快く受け入れてくれた。
――ありがたいことだ。
そして、ここでボクには一つ、役目があった。サンチョさんを迎えに行くこと。グランバニアへ向かうなら、ぜひ自分も同行したい。そう言っていたサンチョさんとは、チゾットの村に到着したら呼びに行く約束になっていたのだ。
パパスさんとリュカたちが休んでいる間、ボクは一度ルーラで村を離れる。
「じゃあ、行ってくるね。すぐ戻るから」
そう言って、空へ舞い上がる。そして――。
「サンチョさん! 迎えに来たよ!!」
元気よく声をかけると、家の中から慌ただしい足音がして、勢いよく扉が開いた。
「おお! ホイミン殿!!」
相変わらず大きな体と、よく通る声。サンチョさんは、ボクを見るなり満面の笑みを浮かべた。
「もう、チゾットの村に着きましたか!! 旦那様と坊ちゃんは元気ですか!?」
「うん、元気だよ! でもね……それは、サンチョさんの目で確認しないと!」
「それはそうですな!」
サンチョさんは豪快に笑い、拳を打ち鳴らす。
「では、まず村長代理の方にご挨拶をしてきますので、少々お待ちを!」
そう言って、足早に家を出ていく背中を、ボクは家の前で見送った。……静かになった。
サンチョさんが出て行った家は、がらんとしている。普段なら、台所から聞こえる物音や、鼻歌があるはずなのに、それがないだけで、随分と寂しく感じる。
(しばらく、この家も留守になるんだよね)
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
いや……もしかしたら。
パパスさんの故郷のことを考えると、ここに戻ってくること自体が、これから減るかもしれない。そう思うと、理由の分からない寂しさが、じわじわと湧いてくる。
(旅って……そういうものだよね)
出会いと別れの繰り返し。どれだけ大切な場所でも、ずっと留まることはできない。それでも――。
(マーサさんを見つけたら……)
パパスさんが、マーサさんを無事に助け出せたら。もしかしたら、この村に腰を落ち着ける未来も、あるかもしれない。
その時は……また、ここに戻ってこられる。
「……待っててね」
誰にともなく、そんな言葉が口をついて出た。しばらくして、足音が戻ってくる。
「お待たせしました、ホイミン殿!」
サンチョさんは、すっかり準備を整えた様子で立っていた。旅装束に身を包み、表情は晴れやかだ。
「じゃあ、行こうか!」
ボクはにっこり笑って、呪文を唱える。
「――ルーラ!」
光に包まれ、景色が一気に反転する。そして、再びチゾットの村。サンチョさんは、到着するなり、真っ先にパパスさんとリュカのもとへ向かった。
「旦那様!! 坊ちゃん!!」
その声には、長年仕えてきた者だけが持つ、揺るぎない敬意と愛情が込められていた。
(……やっぱり、あの二人は別格なんだよね)
ボクは少し後ろで、その様子を見守る。
再会の喜びも束の間、サンチョさんは先触れとして、一足先にグランバニアへ向かうことになった。王城の準備や、国の者たちへの連絡――やるべきことは山ほどある。
去っていく背中を見送りながら、ボクはふと思う。
(……パパスさんが王様だって、気づく人はいるかな?)
山奥の村で、剣を携えた旅人として過ごしている姿からは、とても一国の王には見えないかもしれない。
でも、あの立ち姿。あの眼差し。きっと、分かる人には分かる。そんなことを考えながら、ボクはひそかに――ほんの少しだけ、いたずら心を抱いていた。
初見でパパスさんが王様と分かった人だけがホイミンに石を投げなさい
ルドマンさんはトルネコの
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子孫
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