ベルギス王の喪が、静かに明けた。
城にかかっていた黒い布は外され、鐘の音も日常の調子を取り戻した。けれど、人々の胸に残った影までは、そう簡単に消えはしない。城の中庭を吹き抜ける風はいつもと同じはずなのに、どこか冷たく感じられた。
そして、ボクたちもついに旅立つ時が来た。目的地は、マーサさんの故郷。パパスさんにとっては、希望であり、恐れでもある場所だ。
港にはすでに大きな船が停泊していた。白い帆は丁寧に畳まれ、船底には十分すぎるほどの物資が積み込まれている。船長や船員たちが慌ただしく動く中、甲板には見慣れた顔が次々と集まっていた。
パパスさん、リュカ、ビアンカさん、サンチョさん、マグダレーナさん。それにスラリンたち仲間のモンスター。さらに、リュカの護衛として二個小隊の兵士と、王族としての教育を担う女性の教育係。
マーサさんの故郷ではリュカは帝王学を学ぶ必要がある。今まで教育を受けていなかったのだから遅いぐらい……レック様はどうだっただろう。あの方も記憶をなくして暫く村人として生活していたと聞いたが……うん。教育の遅いも早いもない。きっとリュカも立派な国王様になると信じる。
――まるで、旅というより行軍だ。
それだけ、この旅が重要で、そして危険だという証でもあった。ふと、パパスさんの横顔を見る。いつもなら堂々と胸を張って立っているはずの彼は、今日に限って少し背を丸めていた。喪が明けたというのに、その瞳の奥には、まだ深い悲しみが沈んでいる。
……親友を失うというのは、そういうものだ。
ボクは何度も見てきた。英雄たちが笑い、戦い、そして静かに去っていく姿を。
「友達、か……」
ふと、胸の奥に別の名前が浮かんだ。ベホイミン、ベホマン。かつて一緒に旅をした仲間たち。今もどこかで生きているだろうか。
それとも、もう――。
ボクは小さく首を横に振った。
今は過去に囚われる時じゃない。ボクには、今ここにいる大切な友達がいる。それでいい。過去を振り返るのは、マーサさんを助け出してからで十分だ。
「では、船長。出港してくれ」
パパスさんの声が、港に響いた。
「承知しました! 帆を挙げろ!」
合図とともに帆が上がり、船はゆっくりと岸を離れた。港が遠ざかり、城壁が小さくなっていく。マーサさんの故郷へ。
希望と不安を同時に乗せて、船は進み始めた。
甲板の上は、不思議なほど静かだった。前回の航海では、笑い声や冗談が絶えなかったのに、今日は誰もが言葉を控えている。
……人が亡くなると、こうなるんだよね。
ふと、別の旅の記憶がよみがえった。ハッサンさんやアモスさん。あの人たちは、葬儀の時ですら「騒いで見送ってくれ」と笑っていた。
――まったく、あの人たちらしい。
「ふふ……」
思わず、声が漏れた。
それに気づいたのだろう。リュカとビアンカ、それにスラリンたちが、少し不安そうな顔で近づいてきた。
「ホイミン、何で笑ってるの?」
「ちょっとね。昔の仲間の葬儀を思い出してたんだ。笑って、陽気に送り出してくれって言う人たちでね……」
リュカの顔が、少しだけ和らいだ。
「リュカ。ボクが言える立場じゃないけど……どこかで区切りは必要だよ。君が元気にならないと、ビアンカも、スラリンたちも、みんな悲しいままだ」
「うん……分かってる。それでも、人が亡くなるのは悲しいなって……」
しばらく黙った後、リュカは小さな声で続けた。
「ホイミンはさ……蘇生呪文で、亡くなる人をなくそうとは思わないの?」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「リュカ。それはね……ただの人間やモンスターが考えていいことじゃない」
ボクは、遠くの水平線を見つめながら続けた。
「それをやってしまったら、世界は歪む。マスタードラゴンなら、死ぬ人がいない世界を創れるかもしれない。でも、マスタードラゴンですらやらなかった。……寿命があるからこそ、輝けるものもあるんだ」
ビアンカが、うつむいたリュカの代わりに声を上げた。
「それでも……皆と、ずっと一緒にいたいって思うのは、間違いなの?」
「間違いじゃないよ」
ボクは、はっきりと答えた。
「でもね、永遠がないからこそ、尊いものもある。まだ君たちには難しいかな」
少し間を置いて、ボクは笑った。
「よし、宿題だよ。リュカやビアンカに子どもが生まれるまで、あと十年はある。その間に、パパスさんやいろんな人に聞いて、自分の答えを見つけるんだ」
そして、冗談めかして言った。
「それが、ボクから君たちへの遺言だ」
「えっ!? 遺言!? ホイミン死んじゃうの!? いやだよ!!」
慌てるリュカに、ボクは思わず笑ってしまった。
「冗談だよ。ボクは死なない。でも、宿題は大事だからね。みんなで考えて」
「……分かった」
船は静かに進み続ける。潮風が帆を膨らませ、遠くでカモメが鳴いていた。この旅の先に、どんな運命が待っているのか。それはまだ、誰にも分からない。
けれど――ボクは、この子たちが答えを見つける日まで、そばにいると決めていた。
☆ ☆ ☆
そして船は、海に口を開けた巨大な洞窟へと吸い込まれていった。外の光は次第に細くなり、やがて岩肌に反射する淡い青だけが、船を照らすようになる。洞窟の天井から滴る水音が、やけに大きく響いた。まるで、この先へ進む者を試すかのように。
長い、長い闇を抜けたその先で――。
「……見えてきたな」
パパスさんの低い声と同時に、洞窟の出口から眩しい光が差し込んだ。船が外へ出ると、そこには切り立った山々に囲まれた静かな入り江が広がっていた。
その奥、山の中腹に――人の手によって築かれたとしか思えない建築物が見える。自然と溶け合うように石と木で組まれたそれは、城というより聖域に近かった。
「……あの山に建築物があるけど、あれが母さんの生まれ故郷?」
リュカの声は、少し緊張していた。
「そうだ。エルヘブンだ。何でも、マーサは巫女としての力が、歴代でも一番強く現れたらしい」
「そうなんだ……」
リュカは山を見つめたまま、言葉を失っていた。……なるほどね。なら、もしかしたら――パパスさんがマーサさんと出会い、結婚することも。彼女が攫われることさえも。
この地に生まれた時点で、ある程度定められていたのかもしれない。
ボクは、胸の奥が少しだけ冷たくなるのを感じた。運命という言葉は便利だけど、そこに縛られるのは、いつだって生きている者だ。
船を降り、護衛の兵士たちを含めて、全員で山道を進む。エルヘブンへ続く道は整備されているが、人の気配はほとんどない。風が木々を揺らし、葉擦れの音だけがやけに大きく聞こえた。
――歓迎されていない。それは、はっきり分かった。そして、エルヘブンの麓に辿り着いた、その瞬間。
「よくぞ来ました、マーサの子リュカ」
岩陰から現れたのは、古風な装束をまとった兵士だった。その視線は鋭く、歓迎よりも警戒が勝っている。
「そして……お前も来たか、パパス」
名を呼ぶ声に、感情は一切こもっていない。
「ああ」
パパスさんは、一歩前に出た。
「長老たちのもとへ案内してほしい。お前たちが私を憎んでいるのは当然だ。マーサと駆け落ちした以上、恨まれても仕方がない」
その言葉と同時に――パパスさんは、ゆっくりと頭を下げた。王としてではない。一人の男として。それに続いて、グランバニアの護衛兵たち、女官、サンチョさんまでもが一斉に頭を下げる。
風が吹き抜け、沈黙が落ちた。
「……いいだろう」
兵士は短く息を吐いた。
「ついてくるといい。ただし、リュカたちと関係のない者は宿屋で待機してもらう」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その声には迷いがあった。……行くのは、パパスさんとボクだけでいい。
リュカと目が合う。彼は何か言いたそうだったけれど、ボクは小さく首を振った。
「大丈夫。すぐ戻るよ」
宿屋で別れた後、ボクたちは石段を上り、長老たちが住む屋敷へ案内された。屋敷の中は静まり返り、香の匂いが漂っている。
だが――その静けさは、怒りを押し殺したものだった。
「よくも、顔を出せたな。パパス」
長老の一人が、低い声で言い放つ。
「リュカに罪はない。だが、お前には罪がある!!」
視線が突き刺さる。それでもパパスさんは、顔を上げなかった。
「ああ……その通りだ。私はマーサを守れなかった」
声は震えていない。だが、その重さは痛いほど伝わってくる。
「だが、あと一歩で魔界に辿り着けるところまで来ている。どうか……協力してほしい」
「……何を根拠に、マーサ様を救えると言っている?」
その問いに、ボクは一歩前へ出た。パパスさんの隣に並び、長老たちを見据える。
「初めまして。ボクはホイミン。天空の勇者ソロの仲間だったモンスターです」
空気が、一瞬で変わった。
「……勇者ソロ、だと?」
「それは、真か?」
「信じてください」
ボクは静かに言った。
「証拠となる品は天空城に預けています。今ここで示すことはできません。でも……」
長老の目を、真っ直ぐに見る。沈黙。やがて、長老は深く息を吐いた。
「……確かに、その目は善だ。信じがたいが、信じよう」
そして問いを重ねる。
「だが、それがどうマーサ様を救うことになる?」
「ボクは、世界を救った報酬を受け取っていません」
静かな声で、けれどはっきりと告げる。
「だから、報酬として――魔界への扉を開くことを、マスタードラゴンに直訴します」
「……なるほど」
長老は目を閉じ、しばらく考え込んだ。
「確かに、筋は通っている。今の我々では魔界とこの世界を開く力はない。世界を繋ぐために必要なリングも一つは失われている。マスタードラゴンに直訴するのが確かに良いだろう。だが、それほど道が定まっているなら……なぜエルヘブンに来た?」
その問いに、今度はパパスさんが前に出た。
「リュカの護衛を頼みたい」
その声には、父としての切実さが滲んでいた。
「リュカには、マーサと同じ力が流れている。モンスターと心を通わせる力だ。すでに数百の魔物に襲われたこともある」
長老たちの表情が、わずかに変わる。
「その時は、ホイミンが守ってくれた。だが……それでも足りない」
「……分かりました」
長老の一人が、ゆっくりと頷いた。
「あなたの依頼、確かに受け取りました。ですから――」
その目に、強い願いが宿る。
「必ず、マーサ様をお救いください」
ボクは、深く頭を下げた。この地の祈りも、怒りも、後悔も――すべてを背負って、先へ進む。それが、ボクの役目だ。
☆ ☆ ☆
魔法のじゅうたんの上で、子どもたちははしゃいでいた。
高く舞い上がるたびに歓声が上がり、雲をかすめるたびに笑い声が弾む。風を切る感触が楽しくて仕方がないのだろう。リュカも、ビアンカも、スラリンも――ほんのひとときだけ、重い運命を忘れたような顔をしていた。
その光景を、ボクは少し離れたところから眺めていた。ああ、こういう時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思う一方で、それが叶わないことも、嫌というほど知っている。だからこそ、ボクはそのじゅうたんを借りる決断をした。
子どもたちに理由を告げると、少し不安そうな顔をされたけれど、パパスさんが一緒だと分かると、彼らは渋々ながらも頷いてくれた。
じゅうたんが空へと浮かび上がる。
下界がゆっくりと遠ざかり、山々が小さくなっていく。空気は澄み、冷たく、どこか張り詰めていた。向かう先は――天空への塔。
すべてに、決着をつけるときが近い。パパスさんも同じことを考えているのだろう。じゅうたんの上で、彼は黙したまま、前を見据えている。その横顔は厳しく、父として、王として、そして一人の男として、覚悟を固めた顔だった。
もう少しだ。もう少しで、リュカたちは安全に暮らせる。
必ず、そうさせる。
誰もが、平和に生きられる世の中を作る。……勇者なんて、必要ない。
勇者は血筋で決まるものじゃない。ダーマ神殿で教えられた、あの言葉。
「人は己の選択によって、己を定める」
もう、その教えを正しく覚えている者は、ほとんど残っていない。今、それを胸に刻んでいるのは――ボクだけだ。
だからこそ、もし世界が「勇者」を必要とするのなら。もし「勇者」という名の生贄が必要なら。一番長く生きてきた者が、引き受ければいい。
年老いた、ボクが。
(レック様、ソロ様……みんな)
じゅうたんの上で、ボクは静かに目を閉じた。
祈る。
マスタードラゴンにではない。かつて肩を並べ、血を流し、世界を救おうとした仲間たちに。
(ボクに、力を貸してください)
願いが届くように、心の奥底から祈る。風の音だけが、耳を打つ。やがて、じゅうたんが高度を下げた。目を開くと――そこには、天空への塔がそびえ立っていた。
雲を突き抜けるほど高く、かつては白く輝いていたはずの塔。だが今、その外壁は黒ずみ、ところどころ崩れ、蔦が絡みついている。
違和感が、背中を這い上がる。
「行こう、パパスさん」
ボクは声をかけた。
「真実……って言っていいのか分からないけど、答えはもうすぐそばにある」
「ああ」
パパスさんは短く頷いた。
「必ず、マーサを救おう」
「うん。そして――リュカたちの未来を切り開こう」
そこから先は、無言だった。
塔の中へ足を踏み入れると、さらに異変は明らかになった。床にはひびが入り、壁には深い爪痕のような傷が残されている。
……おかしい。
天空への塔は、こんなに荒れていただろうか?
かつて、マスタードラゴンへ至る道は清らかで、モンスターがいたとしても、秩序が保たれていたはずだ。それが今は、まるで長い戦乱の後の遺跡のようだ。
嫌な予感が、胸を締めつける。
それでも、ボクは記憶を頼りに進んだ。一段、一段、階段を上り、最上階へ。
そこには――天空人の老人が、ぽつりと立っていた。
「なんと……この荒れた塔を、ここまで登ってくる者がおるとは!!」
驚きに満ちた声。面識はある。直接言葉を交わしたことはないが、ソロ様が話していた姿を、何度も見てきた。
「お久しぶりです」
ボクは一礼した。
「ソロ様の仲間だった、ホイミンです」
老人は顎に手を当て、しばらく考え込むような仕草をした。そして――目を見開く。
「なんと!! あの時の……ホイムスライムか!?」
「はい」
間を置かず、問いかける。
「一体、何があったんですか!? なぜ、この天空城へ続く道が、こんなことに!?」
「すまぬ……」
老人は首を振った。
「儂にも、分からぬのじゃ。ただ一つ言えるのは……天空城は、すでに湖の底に沈んでおる」
「そんな。なんてことだ……」
胸の奥が、冷たくなる。
「ボクたちは、ゴールドオーブを持っています! それを使えば、天空城を復活させることができるのではないでしょうか!?」
「……確かに、城は戻せるじゃろう」
老人は静かに答えた。
「じゃが、マスタードラゴンに何かが起きている可能性が高い以上……それだけでは足りぬ」
そして、杖を示す。
「とにかく、天空城へ行きたいのであれば……そこにある、マグマの杖を持っていくがよい。それがあれば、湖の底の天空城へも辿り着ける。エルヘブンの近くの湖じゃ」
ボクは深く頷いた。
「……分かりました。お借りします」
杖を手に取ると、ずしりと重みが伝わる。それは責任の重さそのものだった。
「行こう、パパスさん」
「ああ」
すべては、この先にある。マーサさんの運命も。リュカたちの未来も。そして――ボク自身の終着点も。
天空は、もう逃げ場を与えてはくれない。
ルドマンさんはトルネコの
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子孫
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子孫じゃない