僕は、ずっと幸せだと思っていた。
父さんは強くて、優しくて、どんな時でも僕の前に立ってくれた。ホイミンはいつも一緒にいて、回復魔法だけじゃなく、僕の話を聞いてくれた。常に守ってくれた。スラリンやドラきち、プックルも、気がつけば当たり前のように隣にいた。ビアンカと、ヘンリーもいた。笑って、喧嘩して、冒険して、それが世界のすべてだと思っていた。
グランバニアに着くまでは。
城の門が見えたとき、胸が高鳴った。ここが父さんの国で、僕の帰る場所なんだと思った。けれど、それは同時に「変わる場所」でもあったんだと、今なら分かる。
ヘンリーの父親が亡くなり、彼が王として戻っていった日。別れ際のヘンリーの顔を、僕は忘れられない。泣いてはいなかった。でも、笑ってもいなかった。あの日から、何かが少しずつ、ずれていった。
父さんは母さんを取り戻すために動き出した。それは当然だ。僕だって母さんに会いたい。ホイミンも一緒に行った。危険な旅になると分かっていて、それでも二人は迷わなかった。
分かっていた。分かっている、つもりだった。
でも、夜になると、胸の奥が冷たくなった。
広い城の自分の部屋。豪華な天蓋付きのベッドは、ひどく遠い場所にあるみたいで、僕はいつも端に座っていた。外では兵士たちの足音が規則正しく響いているのに、僕の周りだけが、ぽっかりと空洞みたいだった。
エルヘブンで守られているときもおんなじだった。部屋は狭くても、一人っきりだった。モンスターの友達が一緒にいてくれることが救いだった。
父さんがいない間、僕は王としての教育を受けていた。女官長の厳しい声、重たい本、難しい言葉。国を守るとは何か、民とは何か、王の責任とは何か。
――父さんみたいになりたい。
そう思っているはずなのに、教えを受けるたび、不安が増えていった。本当に、僕は父さんになれるんだろうか。
ふと気づくと、最近父さんもホイミンも、僕を見ていない気がした。正確には、見てくれている。でも「母さんを取り戻すための僕」を見ていて、「今ここにいる僕」を見ていない、そんな感じがした。
寂しい、なんて言ってはいけない。分かっていた。言えば、父さんはすべてを投げ出して戻ってくるかもしれない。ホイミンだって、きっと同じだ。
でもそれじゃ母さんが苦しいまま生きることになってしまう。そんなのはイヤだった。だから言えなかった。
僕は笑って、ちゃんと授業を受けて、いい子でいようとした。そんなある日、ビアンカが、何も言わずに僕の頭を撫でてくれた。
「……無理してる顔してるわよ、リュカ」
その一言で、胸の奥がきしんだ。
「してないよ」
「してる」
ビアンカは即答した。強い口調じゃない。でも、逃げ場をくれない声だった。
「寂しいんでしょう?」
僕は答えられなかった。ただ唇を噛んだ。するとビアンカは、少し困ったように笑って、僕を抱き寄せた。
「言わなくていい。でも、ひとりじゃないから」
その温もりが、怖いくらいに心地よかった。
スラリンはいつもそばで跳ねていたし、ドラきちは僕の足元をぐるぐる回っていた。プックルは夜になると、必ず僕の足元に丸くなった。みんな、僕の不安を分かっているみたいだった。
それから、僕たちは「大人になるための教育」を受けた。王として必要だと言われて。よく分からないまま、でも誰も止めなかった。
ビアンカは、最初は不安そうだった。
「……本当に、いいの?」
そう聞かれたとき、僕は必死にうなずいた。
「ビアンカがいいんだ」
それは嘘じゃなかった。
気づけば、僕はビアンカに心を預けきっていた。彼女は僕の不安を否定しなかった。弱さを笑わなかった。愛していると言ってくれた。
僕も、ビアンカを愛していた。
だから、思ってしまった。この繋がりが、永遠になればいいと。失われない証が欲しいと。その気持ちを口にしたとき、ビアンカは少し黙り込んだ。指先が震えていたのを、僕は見逃さなかった。
「……怖くないって言ったら、嘘になるわ」
彼女はそう言って、僕を見た。
「でもね、リュカ。あなたがひとりで壊れていくのを見る方が、もっと怖い」
そして、静かに微笑んだ。
「私が、支えるわ」
スラリンたちも、何も言わずに周囲を固めてくれた。ドラきちは誰かが近づくたびに唸り、プックルは扉の前に座り込んだ。みんな、僕たちの覚悟を理解していた。
間違っているのかもしれない。早すぎるのかもしれない。それでも、僕はビアンカを失いたくなかった。
もし彼女が少しでも嫌がっていたら、僕はやめていただろう。でも、ビアンカは逃げなかった。迷いながらも、僕を受け入れてくれた。
だから、決めた。
父さんが何と言おうと、ホイミンが反対しようと、僕はビアンカを守る。彼女と、そして生まれてくる命を。ホイミンが協力してくれたら、どんなに心強いだろう。でも、もしそうでなくても。
僕は、生きる。ビアンカのために。お腹の中の小さな命のために。
――それが、王としてじゃなく、ひとりの人間としての、僕の誓いだった。
☆ ☆ ☆
そして、ボクは聞いてしまった。いや、正確には「聞いた」のではない。「触れてしまった」のだと思う。リュカの言葉は、震えながら、それでも必死に形を保とうとしていて、まるで今にも崩れ落ちそうな塔のようだった。
王子としての自分、父を信じる息子としての自分、そしてまだ幼い一人の少年としての自分。そのすべてが、同時に助けを求めていた。
静かな部屋だった。厚い石壁は外の喧騒を遮り、窓から差し込む夕暮れの光が床に長い影を落としている。暖炉の火は弱く、ぱちりと木が弾ける音だけが、やけに大きく響いていた。
リュカは、ずっと一人で耐えてきたのだ。
ボクとパパスさんが、マーサさんを優先しすぎた結果だ。パパスさんはリュカの母を取り戻すことが、リュカの幸せにつながると、疑いもしなかった。ボクもマーサさんが揃えば、きっとこの家族はもっと良くなると思っていた。いや、疑おうとしなかった。
――でも違った。
リュカは「未来」ではなく、「今」を生きていた。今、そばにいてほしかった。今、見てほしかった。今、手を伸ばしてほしかった。そしてそれがビアンカとの早熟な関係を作らせるに至った……。
気が付けば、ボクはリュカを抱きしめていた。細い肩は驚くほど軽く、抱き寄せた瞬間、彼の体がびくりと跳ねた。その反応が、胸を締めつける。
「ごめんね、リュカ」
ボクの声が、少し震えた。
「ボクはリュカの最初の友達なのに……一番近くにいたはずなのに、リュカの寂しさに気づけなかった」
言葉にした瞬間、ようやく自分の過ちを認められた気がした。回復魔法は使えても、心の傷は見えなければ癒せない。そんな当たり前のことを、ボクは忘れていた。
リュカはしばらく黙っていた。やがて、かすれた声で言った。
「……ホイミンは、反対しない?」
その問いは、剣のように鋭かった。
「僕から、ビアンカを……赤ちゃんを、取り上げたりしない?」
恐怖だ。拒絶されることへの恐怖。
再び、ひとりになることへの恐怖。
「当たり前だよ」
ボクは即答した。迷いはなかった。
「リュカ、よく聞いて。ボクはね、マーサさんを取り戻すことが、リュカの幸せにつながると信じてた。でも……それに囚われすぎた」
腕の中のリュカは、息を潜めて聞いている。
「ボクもパパスさんも、今ここにいるリュカを見ていなかった。過去と未来ばかり見て、『今』を置き去りにしてたんだ」
そう言って、ボクは一度リュカから離れ、深く頭を下げた。
「本当に、ごめんね。リュカ……ビアンカ」
顔を上げると、ビアンカがそこにいた。ずっと強張っていた彼女の表情が、ほんの少しだけ、溶けていた。目に浮かぶ不安は消えていない。でも、拒絶ではなかった。
その背後で、スラリンが小さく跳ね、ドラきちが胸を張り、プックルが尻尾を揺らした。
「スラリン、ドラきち、プックル……二人を支えてくれて、ありがとう」
三匹はそれぞれ、短く、けれど誇らしげに鳴いた。まるで「当然のことをしただけだ」と言わんばかりに。
胸が痛んだ。守るべき立場にあるはずのボクよりも、彼らの方がよほど「仲間」だった。ああ、ボクはまだまだだ。
マスタードラゴンに説教じみたことを言った自分が、恥ずかしい。
「……ビアンカ」
ボクは、声の調子を柔らかくした。
「触診してもいいかな。赤ちゃんが無事か、確認したい」
一瞬の沈黙。ビアンカはお腹に手を当て、深く息を吸ってから、うなずいた。
「ええ。ホイミンなら……絶対に、私も赤ちゃんも守ってくれるって、信じてる」
その言葉に、責任の重さを感じた。
「ありがとう」
ボクは触手を伸ばし、慎重に彼女のお腹に触れた。魔力を抑え、生命の気配だけを探る。
――いた。
確かに、そこに小さな命があった。まだ弱く、けれど確かな鼓動。未来へ向かって、必死に生きようとする光。胸が熱くなる。
ボクは、決めた。
この二人を、守る。結婚を助ける。そして、パパスさんに真実を伝える。
パパスさんは、きっと自分を責めるだろう。それでも、話さなければならない。逃げるわけにはいかない。
天空城のことは……しばらく忘れよう。一年。たった一年でもいい。リュカとビアンカが不安なく過ごせる時間を作る。その後で、電撃的にマーサさんを救いに行く。
天空城には、ボクが精鋭を率いて向かう。指揮はサンチョさんに任せればいい。ボクとパパスさんがグランバニアに残れば、リュカたちの心は揺れない。
マグダレーナさんとダンカンさんにも、頭を下げよう。大人として。
外交や政治の細かいことは、正直、ボクには分からない。でも、今一番大切なことだけは分かる。家族を、孤独にしないことだ。
「それじゃあ……リュカ、ビアンカ」
ボクが言うと、二人は不安そうに顔を見合わせた。
「パパスさんたちに、話してくるね」
その表情を見て、ボクは微笑んだ。
「大丈夫。ボクは絶対に、二人の味方だよ」
何があっても。どんな選択を迫られても。ボクは、最初の友達として――今度こそ、離れない。
☆ ☆ ☆
重い扉が閉じられた瞬間、会議室の空気が一段、沈んだ。
石造りの広間は広く、天井は高い。その威圧感が、集められた人々の肩にのしかかっているようだった。長机の周囲には、グランバニアを支える首脳陣――大臣、騎士団長、財務官、外交官――が居並び、その中央にパパスさん、そしてダンカン夫妻、オジロンさんがいた。
ボクはその場に立ち、深く息を吸う。ここで語るのは「結果」ではない。リュカが、なぜそこまで追い詰められたのか――その「過程」だ。
ボクは、リュカが抱えていた孤独、不安、置いていかれる恐怖を、一つひとつ言葉にして伝えた。パパスさんを責めるつもりはなかった。だが、事実から目を逸らすこともできない。
話し終えた後、しばらく誰も口を開かなかった。ただ、石の床に落ちる松明の火の音だけが、ぱちぱちと乾いた音を立てている。
「……リュカ……」
最初に声を発したのは、パパスさんだった。その声は、王のものではなかった。ただの、父親の声だ。
「そうか……私が、あの子を追い詰めていたのか」
深く、重い沈黙。パパスさんの肩が、ほんのわずかに落ちる。その通りだ。
これはボクとパパスさんの罪だ。マーサさんを取り戻すことに心を奪われ、目の前にいるリュカを見失った。その代償が、今、こうして形になった。
ダンカン夫妻の表情は硬かった。
怒りというより、苦さを噛みしめるような渋い顔だ。リュカの気持ちは理解した。だが、結婚前の妊娠――親として、簡単に受け入れられる話ではないのだろう。
一方で、グランバニアの首脳陣は困惑しながらも、どこか安堵した色を浮かべていた。この出来事でパパスさんがしばらく国を離れない。さらに世継ぎを得られる。その事実が、政治的には大きな意味を持つのだろう。
そのときだった。パパスさんが、ゆっくりと立ち上がったかと思うと、床に膝をついた。一瞬、時間が止まったように感じた。
国王が、一介の宿屋の夫妻に向かって土下座をする。あってはならない光景だ。
「陛下っ!!」
「おやめください!!」
大臣たちが一斉に立ち上がり、慌てて止めようとする。しかし、その前に、パパスさんが低く、しかしはっきりとした声で言った。
「ダンカン、マグダレーナ。すまん」
頭は下げられたまま。
「リュカとビアンカのことは、すべて私の責任だ。許されるとは思っていない。だが……リュカを、許してやってくれないか」
その姿を見て、胸が締めつけられた。王としての威厳も、誇りも、すべて捨てて、父として頭を下げている。
ダンカンさんは、しばらく黙っていた。やがて、深く息を吐き、重い口を開いた。
「……パパス。リュカがどれだけいい子かは、私たちだって分かってる」
視線は鋭い。
「それを追い詰めたのは、間違いなくあんただ。あんたがもう少し、リュカを優先していれば……ビアンカが妊娠することも、なかっただろう」
痛いほど、真っ直ぐな言葉だった。だが、とダンカンさんは続ける。
「……ビアンカも合意して、望んで妊娠した以上、私もそれをこれ以上責めるつもりはない。ただ……なぜ相談してくれなかったのか。それだけが、少し寂しい」
その言葉に、マグダレーナさんは静かに目を伏せた。ボクは、その場で一歩前に出た。そして、パパスさんと同じように、膝をついた。
「ダンカンさん、マグダレーナさん」
声が、自然と低くなる。
「ボクは……リュカの一番最初の友達なのに、リュカがこんなにも寂しい思いをしていることに、気づけなかった」
床に額が近づく。
「責めるなら、どうかボクとパパスさんだけにしてください」
そして、顔を上げて続けた。
「ビアンカも……強く見えて、きっと心細いはずだ。だから、マグダレーナさん。どうか、傍にいてあげてほしい」
しばらくの沈黙の後、マグダレーナさんが、小さく笑った。
「……まったく。命の恩人に、そんなこと言われちゃ、怒るに怒れないじゃないか」
そして、鋭い視線をパパスさんに向ける。
「一つだけ、確認させて頂戴。これからのビアンカの扱いはどうするつもりだい?」
空気が張り詰める。
「……側室にするつもりかい?」
パパスさんは、即座に答えた。
「いや。ビアンカは正室だ。次の王妃にする」
その瞬間、会議室がざわめいた。
「陛下、それは……!」
「貴族たちが黙っておりません!」
「リュカ殿下の正室を狙っていた家も……!」
反対の声が次々に上がる。ボクは、一瞬、迷った。――ここで話すべきか。
「パパスさん」
小さく声をかける。
「ここにいる人たちは……信頼できる?」
その問いに、パパスさんは一瞬で理解したようだった。ゆっくりと全員を見渡し、うなずく。
「ああ。私が不在の間、グランバニアを守ってくれた者たちだ」
「そっか」
ボクは一歩前に出た。
「それなら……大臣さんたちに、伝えておくね」
一拍置いて、はっきりと言う。
「リュカとビアンカの間に生まれる子どもは……伝説の勇者だよ」
会議室が、完全に騒然となった。
「な……!」
「勇者……!?」
「本当なのか!?」
ざわめきの中で、ボクは続ける。
「伝説の勇者の母親なら……十分、王妃にふさわしいと思うけど?」
小さく首を傾げる。
「どう?」
その問いに、反論できる者は、もう誰もいなかった。
ルドマンさんはトルネコの
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子孫
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子孫じゃない