会議室を出て、長い回廊を進む。
石の床に靴音が反響し、その一つひとつが胸に響いた。パパスさんの歩幅はいつもより小さい。ダンカン夫妻も無言だ。誰もが、これから向き合うべきものの重さを分かっている。
扉の前に立ったとき、ボクは一度だけ深く息を吸った。ここは戦場じゃない。魔王も、剣も、呪文もない。でも、きっと今日一番、勇気が必要な場所だ。
「リュカ」
扉越しに、できるだけ柔らかく声をかける。
「パパスさんと、ダンカンさんたちが来たよ。大丈夫。もう全部、話はついてる。誰もリュカたちを責めない。だから……扉を開けて」
一瞬の沈黙。その向こうで、何かが動く気配がした。
ゆっくりと扉が開く。
顔を出したのはプックルだった。牙を少しだけ見せ、警戒を解いていない。まるで「これ以上近づいたら噛む」と言わんばかりだ。
ボクに対しては警戒を解いてくれている。だけどパパスさんたちに警戒を見せている。二人を引き離すのは絶対に許さないと言わんばかりに。
部屋の中は、静まり返っていた。窓から差し込む夕暮れの光が、床に長い影を落としている。中央には、リュカとビアンカがいた。
二人はしっかりと手を握り合い、その前にスラリン、ドラきち、プックルが並んで立っている。小さな体で、必死に壁になろうとしている姿が、胸を締めつけた。
リュカの顔は青白く、ビアンカの指先はわずかに震えている。離される。引き裂かれる。そんな未来を、二人とも疑っていない表情だった。
その空気を破ったのは、パパスさんだった。
何も言わず、一歩前に出る。
そして――
膝をついた。鈍い音が床に響き、リュカの目が大きく見開かれる。
「リュカ、すまなかった!!」
声は震えていた。
「私は……マーサとお前を早く会わせることしか考えていなかった。お前が、どれほど寂しい思いをしていたか……気づけなかった」
額が床につく。
「父親失格だ。本当に、すまない」
部屋の空気が、凍りついたように感じた。
「……父さん」
リュカの声は、かすれていた。怒りも、責めもない。ただ、泣きそうな声だった。次に動いたのは、マグダレーナさんだった。
ダンカンさんが言葉を探している間に、彼女は一歩前に出て、いつものように――でも少しだけ声を抑えて話し出した。
「ビアンカ」
その声に、ビアンカがびくりと肩を揺らす。
「ビアンカにも寂しい思い、させてたんだろうね。ごめんね……」
そして、はっきりと言った。
「私はね、ビアンカの絶対の味方だよ。昔も、今も、これからも」
ビアンカの目に、涙がにじむ。
「……私と、リュカを……離れ離れにしたり、しない?」
震える声だった。
「当たり前だよ!!」
マグダレーナさんは即答した。
「もうね、そこにいるパパスから言質は取ってるんだ。ビアンカ、あんたは未来の王妃様さ!」
その言葉に、リュカが息をのんだ。まるで、信じられないというように。
「……僕たち、本当に……離されないの?」
パパスさんは立ち上がり、真っ直ぐリュカを見た。
「当たり前だ。リュカ。お前が寂しさから選んだ道だということは分かっている。だが、それだけじゃないだろう?」
リュカは一瞬、視線を落とし、そしてビアンカを見た。
「……うん。僕は、ビアンカが好きだ。一生をかけて、守りたい」
その言葉に、ビアンカがぎゅっと手を握り返す。
「そうか」
パパスさんは小さく笑った。
「私もホイミンと話し合った。ビアンカが子どもを産むまでは、旅を止める」
「えっ……でも、それじゃ母さんが……」
「何」
パパスさんは、穏やかに言った。
「ここでマーサを優先したら、あいつに叱られる。不安な子どもを置いていくなんて、許されん」
そして、低く続ける。
「お前がビアンカを守れ。そのために、私とホイミンがお前を鍛える。私のように……妻を守れない男になるな」
「父さん……」
リュカの声が震え、涙が零れ落ちる。
「ふっ……それにしても、孫か」
パパスさんは照れたように頭を掻いた。
「男の子でも女の子でもいい。元気な子どもを産んでくれ、ビアンカ」
「……はい!」
力強い返事だった。ここまで黙っていたダンカンさんが、肩をすくめて言った。
「やれやれ……これじゃ、私が怒る余地もないな」
そして、パパスさんを見る。
「なあパパス。私もビアンカの近くにいたい。グランバニアに引っ越したいんだが……準備、任せていいか?」
「もちろんだ」
パパスさんは即答した。
「王宮暮らしだがな」
一瞬の間のあと、部屋に笑いが広がった。
「それと、スラリン、ドラきち、プックル、お前たちがリュカたちを心から守ってくれたのは分かっている。本当にありがとう」
「スラリン、ドラきち、プックル、ボクからもありがとう。本当なら3人の立ち位置にはボクもいないといけないのに……ありがとう」
スラリンがぷるんと跳ね、ドラきちが羽をばたつかせ、プックルが誇らしげに胸を張る。良かった。本当に、良かった。
誰も、リュカたちを否定しなかった。誰も、引き裂こうとしなかった。ボクは胸の奥で、静かに誓った。この家族を、今度こそ守ると。
今度は、置いていかない。
☆ ☆ ☆
その後は、自然と交流会のような空気になっていた。誰かが「始めよう」と言い出したわけでもないのに、気づけば輪ができ、笑い声や鳴き声が重なって、城の一室は久しぶりに生きている音で満たされていた。
新しく仲間になった魔物たちは、ボクのところへ次々とやって来て、遠慮のない質問を投げかけてくる。
「ホイミってどうやるんだ?」とか、「人間の赤ちゃんってどんな匂いがするんだ?」とか、真剣なのか冗談なのか分からないものまで様々だった。
ボクは一つひとつに答えながら、ふと気づく。
――ああ、日常が戻ってきている。
ほんの少し前まで、命のやり取りをしていたはずなのに。剣を振るい、呪文が飛び交い、誰かが倒れ、誰かが立ち上がる。そんな時間が嘘だったみたいに、今はただ、穏やかで、あたたかい。
スラリンはいつもの定位置――リュカの頭の上に戻っていた。ぷるん、と小さく揺れながら、満足そうにそこに収まっている。
ドラきちは、リュカとビアンカの間を行ったり来たりしながら、羽音を弾ませていた。二人の笑顔が嬉しくてたまらない、そんな飛び方だ。
プックルはというと、静かに、でも確かに二人の足元を守るように横になっている。
半分眠っているようにも見えるけれど、耳は常に動いていて、何かあればすぐに立ち上がれる。その姿に、長い旅の時間と、積み重ねてきた信頼を感じて、胸の奥がじんわりと熱くなった。
他の仲間たちも、皆、自然とリュカの方を見ていた。彼が笑うと、空気が柔らぐ。彼が頷くと、皆が安心する。それはもう、王子だからとか、勇者だからとか、そういう理由じゃない。
――この人と一緒なら大丈夫だ。
そんな想いが、言葉にされずに共有されている。ボクも、同じだった。リュカが笑顔でいる。それだけで、ボクは嬉しかった。
「赤ちゃん、早く見たい」
楽しそうにそう言ったのは、ガントフと名乗ったビッグアイだった。その大きな目を、さらに輝かせている。周囲の魔物たちも、同じ気持ちらしく、ざわざわと期待の気配が広がった。
それに応えるように、ビアンカが一歩前に出て、朗らかに笑う。
「まだ、暫く先だけどね。でも……子育て、みんな手伝ってね!」
その言葉に、部屋中が一斉に鳴いた。喜びの声、吠える声、骨が鳴る音まで混じっている。腐った死体のスミスなんて、感極まったように、じっとビアンカを見つめている。
その表情は、少し怖いけれど――本当に、心から喜んでいるのが分かった。
――うん。
リュカは、本当にいい仲間に恵まれた。そのことが誇らしくて、同時に、ほんの少しだけ胸がきゅっとなる。ボクがいなくても、きっと大丈夫だ。そう思えることが、嬉しくて、寂しい。
そんな気持ちを抱えたまま、しばらくは皆でリュカたちの旅の話を聞いていた。笑い話もあれば、危なかった話もある。命を落としかけた瞬間の話では、空気が一瞬静まり、でも最後は必ず、笑顔で締めくくられる。
その時、扉が開いた。パパスさんたちが戻ってきたのだ。
「リュカ。ビアンカが子どもを産むまでの間、政務にも参加してもらうぞ」
堂々とした声に、場の空気が少し引き締まる。
「ビアンカも、調子が良ければぜひ参加してくれ。外ではな、リュカが子どもを持つことに、皆大歓声を上げている。……リュカ、お前から一言、民たちに言ってくれ」
一瞬、リュカは驚いたように目を瞬かせ、それから、深く頷いた。
「……分かった!」
その横で、ビアンカが楽しそうに笑う。
「私も一緒に行きます! まだお腹も膨らんでいないし、お姫様の気分を味わわなくちゃ!」
その言葉に、パパスさんは思わず苦笑した。
「そうだな……ただし、体に負担にならない程度に、だぞ」
そんなやり取りをしていると、今度はダンカン夫妻が部屋に入ってきた。マグダレーナさんは、もうすっかり魔物たちにも慣れた様子で微笑んでいる。
けれどダンカンさんは、やっぱり少しだけ驚いた顔をしていた。
――まあ、分かる。
腐った死体に歓迎されるのは、なかなかの体験だ。
実際、スミスは大喜びで近づき、キスをしそうな距離まで詰め寄っていた。
(……うん、さすがにそれはイヤかも)
ボクはそっと、パパスさんのそばへ行き、小声で話しかける。
「それでパパスさん。リュカとビアンカの子どもが、天空の勇者であること……伝える?」
パパスさんは少し考えてから、静かに答えた。
「そうだな……隠し事は無しだ。ビアンカが養子ということもある。一度、ダンカンたちとも話し合う必要はあるが……伝えるべきだろう。ソロ様の話も、な」
その名前に、胸がざわつく。
「……無いとは思うが。同じことが起きる可能性は、ゼロじゃない。その心構えは、必要だ」
「……そうだね」
ボクは頷きながら、言葉を続ける。
「だけど、ボクとパパスさんがいれば……」
そこで、言葉を止めた。胸の奥に、はっきりとした違和感が生まれたからだ。
「……違うね。それは慢心だ。戒めないと」
そう言って、部屋の中心にいるリュカたちへ視線を送る。笑い合う二人と、仲間たち。守りたいものが、こんなにも、はっきりしている。
(今度こそ――)
ボクは、そっと心の中で誓った。
(今度こそ、心ごと守るよ、リュカ)
剣だけじゃない。呪文だけでもない。悲しみも、迷いも、弱さも含めて。このあたたかな時間を、必ず――。
☆ ☆ ☆
そしてボクは、いったんリュカたちと離れた。
別れ際、リュカは何か言いたそうにこちらを見ていたけれど、ボクはあえて微笑んで手を振った。今はまだ、全部を話す時じゃない。だけど――もう隠すつもりもない。
城の外に出ると、そこには既に準備が整えられていた。精鋭と呼ぶに相応しい兵士たちが規律正しく並び、磨き上げられた鎧が朝の光を反射している。その背後には、年季の入った道具を背負った腕利きの大工たち。木材や石材、金属部品まで、必要になりそうな資材はすべて揃っていた。
――パパスさんらしい。
言葉少なでも、やるべきことは先回りして整えてくれる。
ビアンカが出産して、母子ともに落ち着いたら、ボクとパパスさんピエールで魔界へ突入し、大魔王を討つ。
その計画に変更はない。リュカたちは連れて行かない。もう、あの少年は一人で戦う存在じゃない。守るべき家族ができる。生まれてくる子どもを、世界より先に守らなくちゃいけない。
(……それをちゃんと、本人に伝えないと)
その役目は、パパスさんに任せるつもりだ。でも、ボクもその場に立ち会いたい。今度こそ、隠し事は無しだ。悲しみも、覚悟も、全部共有する。それが大人ってことだと思うから。
準備を確認したあと、ボクはルーラを唱えた。視界が歪み、風が巻き上がり、次の瞬間には――天空城。
久しぶりに戻ってきたその城は、やはりどこか痛々しかった。かつて神々が住んだ城。空を支配する象徴。
それなのに、壁には大きな穴が穿たれ、床には亀裂が走っている。静まり返った空気は、まるで深い眠りについた巨人のようだった。
ボクは大工たちを、その穴の前まで案内した。
「これは……凄い建造物だ」
思わず漏れた感嘆の声。石の積み方、柱の構造、魔力を流すための紋様。どれをとっても、今の時代の技術を遥かに超えている。
「まぁ、この世界の神が住むお城だからね」
ボクは軽く言いながらも、城の壁にそっと触れた。
「とりあえず、空いている穴を塞ぐだけでいい。でも、そのあとで城全体を見て、傷んでいるところを全部報告してほしいんだ」
親方格の大工が顎を撫でながら、じっと穴を見上げる。
「穴自体は、二、三日で塞げやす。ただ、城全体の点検となると……半年ほどはかかるかと」
「うん、それでいい」
ボクは頷いた。
「食料は持ってきているはずだし、必要なら追加で運ぶ。この城が復活すれば……マーサさんを救いに行ける」
その名前を出した瞬間、大工たちの空気が変わった。
「王妃様を……!」
「そのお役に立てるなんて、非常に光栄です!!」
彼らは胸を張り、深く頭を下げた。
「任せてください! 命に代えても、この城を蘇らせます!」
「そこまでしなくていいから……でも、よろしくね」
兵士たちにも声をかける。
「しばらくはここを任せる。時々、様子を見に来るから」
「はっ!!」
その返事を背に受けながら、ボクは城の奥へと向かった。会わなければならない存在がいる。マスタードラゴン。天空城の主にして、この世界の均衡を見守る存在。
玉座の間に入ると、彼は既にそこにいた。巨大な体を玉座に預け、静かに目を閉じていたが、ボクの気配にすぐに気づいたようだ。
「これはホイミン……あなたもパパスも、急にいなくなるから驚きました」
低く、重い声。
「叫びの内容から、何があったかは把握していますが……一応、説明していただけますか?」
――そうだった。彼には、報告義務がある。そして……ボクには、受け取るべき報酬がある。
「パパスの息子、リュカが」
ボクは、はっきりと言葉を選んだ。
「天空人のビアンカと結婚して、子どもを身ごもりました」
一瞬、玉座の間が静まり返る。
「――なんと!!」
マスタードラゴンの目が見開かれ、わずかに息を呑む気配が伝わってきた。
「マスタードラゴン」
ボクは一歩、前に出る。
「あなたは言った。ボクへの報酬とは別払いで、大魔王への道を開いてくれると」
「……確かに、そう言いました」
「だから、今、報酬をもらい受けたい」
胸の奥が、少しだけ震えた。それでも、言わなきゃいけない。
「リュカたちに、天罰を下さないでください。お願いします」
頭を深く下げる。その言葉に、マスタードラゴンはゆっくりと視線を下げた。長い沈黙。世界そのものが、判断を待っているような時間。
「……もう、そんなことをするつもりはありません」
重く、しかしはっきりとした声。
「あなたが納得できないのも分かります。ですので――その報酬は、マスタードラゴンの名にかけて支払いましょう」
ボクは、思わず息を吐いた。
(……良かった)
これで、マスタードラゴンからの天罰はない。後は――。
(ソロ様と、同じことが起きないように)
過去は、繰り返させない。子どもたちの未来は、奪わせない。天空城の静寂の中で、ボクはそっと触手を握った。戦いは、まだ終わっていない。
でも、守る理由は、前よりもずっと、はっきりしていた。
ルドマンさんはトルネコの
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子孫
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子孫じゃない