マスタードラゴンは、「プサン」という名を名乗り、いったんグランバニアに滞在することになった。
天空城の主が人の姿で地上に降りる――それ自体が異例中の異例だ。けれど、今はそれを咎める者はいない。世界は静かに、しかし確実に次の局面へ進みつつあった。
ビアンカが出産するまでは、パパスさんもボクも、すべてをリュカたち優先にする。魔界突入も、大魔王討伐も、今は一歩引く。命が生まれようとしているのだ。それ以上に優先すべきものなんて、あるはずがない。
グランバニアの城内では、時間の流れが少し変わったように感じられた。
朝になれば、城の中庭に剣の打ち合う音が響く。リュカはパパスさんと向かい合い、汗を流しながら剣を振るっていた。以前よりも姿勢が安定し、無駄な動きが減っている。
「力に頼るな、リュカ。剣は流れだ」
「はい、父さん!」
剣の稽古が終われば、今度は政務の時間だ。
玉座の横に座り、書類の読み方、民の声の聞き方、王として決断するとはどういうことか――パパスさんは一つ一つ、噛み砕くように教えていた。
そして、そのすぐ近くには必ずビアンカがいた。
お腹はまだ目立たないが、彼女は柔らかな表情でリュカを見守っている。時折、体調を気遣ってマグダレーナさんが声をかける。
仲間のモンスターたちも自然と集まり、プックルはビアンカの足元で丸くなり、スラリンは頭の上でぷるぷると揺れていた。
――平和だ。
あまりにも、穏やかで、温かい。
でも、それだけじゃ駄目だ。幸せな時間の中だからこそ、向き合わなければならない真実がある。ビアンカの血統のこと。
それを、ダンカンさんたちは話す決断をした。
話を聞くのは、パパスさんとボク、リュカ、そしてその仲間たちだけ。この事実を知る人間は、少ない方がいい。何より――ビアンカのために。
その日、いつもの談笑はなかった。
城の一室に集まった空気は、どこか張り詰めていて、仲間のモンスターたちでさえ、異変を察したのか静かにしていた。
「それで、どうしたのパパ?」
ビアンカが首を傾げる。
「改まって、こんなふうにみんなを集めちゃって」
軽い調子だった。いつも通りの、明るいビアンカ。
「ああ……実はな」
ダンカンさんは言いかけて、言葉を詰まらせた。
「お前に聞いてほしい話があるんだ」
「なにそれ、ただ話すために集めたの?」
ビアンカはくすりと笑った。けれど――その笑顔は、すぐに消えた。
ダンカン夫妻も、パパスさんも、そしてボクも。誰一人、笑っていなかったからだ。
「……何なの?」
部屋の空気が、ぴんと張りつめる。
「実は……私の口からは、やっぱり言えない!」
ダンカンさんは頭を抱えるようにして言った。
「マグダレーナ、頼む!」
「……はぁ」
大きなため息。
「こういうのは、男親の務めだろうに……まったく」
そう言いながら、マグダレーナさんは一歩前に出た。その背中は、どこか覚悟を決めた人のそれだった。
「まずね、ビアンカ」
優しい声。
「私たちは、あんたのことを心から愛している。それだけは、絶対に分かっておくれ」
「そんなの、分かってるわ、ママ」
即答だった。
「ビアンカ……あんたは、養子なんだ」
「――えっ」
時間が、止まったように感じた。ビアンカの目が大きく見開かれ、息を呑む音が聞こえる。
「ほら、驚かない」
マグダレーナさんは、すぐに続けた。
「私たちはあんたを愛している。血のつながりなんてなくても、家族さ」
一瞬、青ざめかけたビアンカの顔に、少しずつ色が戻っていく。マグダレーナさんは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あれは、私たちがまだ行商をしていたころ……雨宿りをしていた時のことさ。樹の陰から、かすかな泣き声が聞こえてきた。それが――あんただった」
静かな語り。
「そしてね……今はもう無くなっているけど」
少し間を置いて。
「あんたの背中には、翼があった。
そう……天空人のような翼が」
「天空人……?」
ビアンカの声が震えた。
「勘違いしないでおくれ」
マグダレーナさんは、すぐに抱き寄せるような視線を向ける。
「驚いたかもしれない。でも、私たちは本当に心からビアンカを愛してる。マスタードラゴンに誓ってもいい」
そして、少しだけ苦笑して言った。
「ただね……リュカとパパスのすれ違いを見てたら、私たちも思っちゃったのさ。――隠し事は、もうやめようって」
マグダレーナさんは、妊娠しているビアンカをそっと抱きしめた。
「ごめんね……こんな時に」
遅れて、ダンカンさんもその輪に加わる。ビアンカは、何も言わなかった。ただ、二人に身を預けていた。
――間違いなく、家族だ。
リュカは驚いていた。でも、拒絶はなかった。彼は静かにビアンカの手を握り、その温もりを確かめるようにしていた。
ボクは、その光景を見ながら、胸の奥でそっと息を吐いた。
(よかった……)
心配は、していなかった。それでも――この瞬間を、ちゃんと見届けられてよかった。
秘密は明かされた。でも、絆は壊れなかった。むしろ、前よりも、強く、深く結ばれているように見えた。
――この子たちなら、大丈夫だ。
☆ ☆ ☆
部屋の空気は、すでに涙の匂いを含んでいた。リュカも、ビアンカも、そして仲間のモンスターたちも、言葉を失ったまま、ダンカン夫妻の話を聞いていた。誰も声を出さない。けれど、誰も目を逸らさなかった。
本当は――こんな話、したくなかった。
ビアンカの出生の秘密も、天空人の血も、知らないまま幸せに生きることだってできただろう。でも、それは「今」だけの幸せだ。
(守るためには、知っていなきゃいけない)
リュカとビアンカ、そしてお腹の中の小さな命を守るために。避けては通れない話が、まだ残っている。
「……さてと」
ボクはわざと少しだけ軽い声を出した。沈黙に押し潰されそうな空気を、ほんのわずかでも和らげるために。
「ビアンカたちの話は、一応ここまでだね……」
視線をパパスさんに向ける。
「それで、パパスさん。ボクが話す? それとも、パパスさんから?」
パパスさんは、ほんの一瞬だけ目を閉じ、それから静かに首を振った。
「ホイミン……その時代を知っているのは、お前だ。任せる」
「……分かった」
ボクは小さく頷いた。一度、深く息を吸う。胸の奥に溜まった重たい空気を、ゆっくりと吐き出す。みんなの視線が、一斉にボクに集まる。
――まだ、終わりじゃない。そんな予感を、誰もが感じ取っているようだった。
「リュカ」
名前を呼ぶと、リュカはすぐに顔を上げた。
「ボク、勇者レック様の話はよくしてたよね」
「うん……うん」
「でも、勇者ソロ様の話は、あまりしてこなかった」
リュカは少し考え込むように視線を落とす。
「そう、だね……それが、今日の話と関係あるの?」
「あるんだ」
ボクは、はっきりと言った。
「天空人と人間の間に生まれた子どもは……天空の勇者に選ばれる」
空気が、凍りついた。
「魔王を打倒する存在として、ね」
「……えっ」
ビアンカの声が、かすかに震えた。
「そして――」
ボクは、できるだけ淡々と、でも誤魔化さずに続けた。
「昔、マスタードラゴンは天空人と人間の婚姻を許さなかった。生まれた子どもは人間の手に預けられ、父親は天罰を受けて命を落とし、母親とも引き離された」
言葉が、刃のように突き刺さるのが分かった。
リュカとビアンカの顔色が、みるみるうちに失われていく。――自分たちも、同じ運命を辿るのではないか。その恐怖が、はっきりと表情に浮かんでいた。
「安心して」
ボクは、少しだけ声を強くした。
「マスタードラゴンには、もう話をつけてある」
二人の視線が、ボクに戻る。
「ボクが勇者様と一緒に世界を救った、その報酬として……リュカとビアンカ、そして生まれてくる子どもに、天罰は下さないって、約束させた」
「……そっか」
リュカの肩から、力が抜けた。
「ありがとう……ホイミン」
「うん」
微笑み返しながら、ボクは胸の奥で小さくため息をついた。
「本当はね、ここで話を終えられたら良かった」
でも、と続ける。
「もう一つ……どうしても伝えなきゃいけないことがある」
リュカも、ビアンカも、そして仲間のモンスターたちも、目を見開いた。スラリンが、無意識にリュカの頭の上でぷるりと震える。
「勇者ソロ様は……」
記憶が、胸の奥で痛んだ。
「勇者としての力が完全に覚醒する前に、魔王に襲撃された」
誰かが、息を呑む音がした。
「ソロ様を守るために、多くの人が動いた。隠し、逃がし、時間を稼いで……その結果、多くの人が犠牲になった」
ボクは、触手を握りしめた。
「ボクはね……その悲劇が、また繰り返されるんじゃないかって、不安なんだ」
この場にいる全員の表情に、はっきりとした恐怖が浮かぶ。想像してしまったのだ。魔物に追われ、狙われ、逃げ続ける未来を。
「マーサさんが攫われたのも……」
声が、わずかに低くなる。
「もしかしたら、リュカを――勇者の可能性を持つ存在を狙ってだったのかもしれない」
「……そんな……」
ビアンカの手が、無意識にお腹へ伸びた。
「でもね」
ボクは、はっきりと前を向いた。
「安心して、リュカ。たとえ魔王が数千、数万で攻めてきても、必ずボクとパパスさんで撃退する」
パパスさんが、力強く頷く。
「だから」
ボクは仲間たちに視線を向けた。
「スラリン、ドラきち、プックル……他のみんなも、リュカとビアンカを守ることを最優先にして」
仲間たちは、迷いなく頷いた。それが当たり前だと言わんばかりに。
「まぁ……」
ボクは、少しだけ肩をすくめた。
「何も起きない可能性も、もちろんある。ただ……頭の片隅に、入れておいてほしい」
「分かった」
リュカが、まっすぐに言った。
「父さん……何かあった時のために、ボクも鍛えて」
「もちろんだ、リュカ」
パパスさんの声は、静かで、そして強かった。
「私のように、妻を攫わせはしない。そのためには、お前自身も強くなっておく必要がある」
リュカは、はっきりと頷いた。その姿を見ながら、ボクは胸の奥で静かに誓った。
(今度こそ……誰も失わない)
この家族も、この命も、この未来も。――全部、守り抜く。
☆ ☆ ☆
話が終わったあと、ボクは一人で外壁に立っていた。
グランバニア城の高い城壁。石積みの冷たさが、触手越しにも伝わってくる。夜風が吹き抜け、触手が僅かに揺れた。
眼下には王都の灯りが広がっている。城内に城下町を作った。魔物から国民を守るために。凄い選択だと思う。もしマーサさんが誘拐されずパパスさんが王として残っていたなら、より発展した国を見ることができたかもしれない。
人々の営み。眠りにつく家々。酒場の名残の笑い声。すべてが平和で、何事もない夜に見える。まるで今は何もありませんよというかの如く。
――だからこそ、目を離すわけにはいかない。
ボクは外を見張っていた。空を。街道を。森の影を。
何一つ、見落とすつもりはなかった。もし勇者ソロ様の時と同じなら……魔王たちは必ず仕掛けてくる。油断はできない。
(守るんだ)
リュカを。ビアンカを。そして――まだ名もない、お腹の中の小さな命を。
この城は強固だ。兵もいる。城壁で敵を抑えられる。だが仮にイオナズンの直撃を数回受けたらどうなるだろうか?
油断はできない。勇者ソロ様の時代を、ボクは知っている。「安全」だと思われた場所ほど、狙われる。
月明かりに照らされた雲が、ゆっくりと流れていく。
その静けさの中で、足音が近づいてきた。
「ホイミン」
振り返ると、そこにパパスさんが立っていた。鎧は着ていない。だが、その佇まいには王としての重みがある。
「どうしたの、パパスさん?」
「……お前に相談したいことがあってな」
声は低く、周囲を警戒するように抑えられていた。
「なら、場所を変える?」
「いや、ここがいい。ここなら話が漏れることもないはずだからな」
その一言で、ボクは察した。これは世間話じゃない。――何か、決定的におかしい。夜風が一段と冷たくなった気がした。
「大臣の一人が……裏切り者の可能性がある」
「っ!?」
一瞬、頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「具体的には?」
「ビアンカの出産に合わせて、子守役を増やそうと進言してきた」
「それ自体は、不自然じゃないよね……」
「だがな」
パパスさんは一歩、城壁に近づいた。
「オジロンに命じて裏を探らせた。その大臣の身元保証人とされている者が……その話を知らなかった」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「……確かに、それは怪しい」
「だろう」
「生まれてくる赤ちゃんが、勇者の可能性を持つことは……知っている?」
「いや。あの場にいた時、あの男はいなかった。大臣としても、なり立てだ」
夜空を見上げながら、パパスさんは続ける。
「功績を上げようとしているだけの可能性もある。だが……勇者ソロの件を思えば、油断はできん」
「現時点で……逮捕できるほどの証拠は?」
「無い」
短く、はっきりとした答えだった。
ボクは目を閉じ、思考を巡らせる。
「……なら」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ビアンカの出産のタイミングで、魔王の手勢が動く可能性は高いね」
「そうだ」
パパスさんは即座に肯定した。
「私は国王だ。民を、街を、犠牲にするわけにはいかない」
その声には、父としての苦悩と、王としての覚悟が混じっていた。
「出産の日は、警戒を最大限に引き上げる。だが……」
パパスさんはボクを見る。
「ホイミン。お前は呪文を使える。城内より、城外で戦った方が力を発揮できるはずだ」
その言葉に、ボクは静かに頷いた。城の中で本気の戦闘をすれば、守るべき人たちまで巻き込んでしまう。
「城外を任せてもいいか?」
「もちろん」
即答だった。
「城内の安全が確認でき次第、私も必ず救援に向かう」
ボクは、パパスさんを見つめて言った。
「任せて。例え数千、数万の敵が襲って来ようとも、必ず撃退してみせる」
そして、胸の奥で誓いを立てる。
「マスタードラゴンにじゃない。世界を救った勇者レック様、勇者ソロ様、そしてその仲間たちに誓うよ」
一瞬、パパスさんの目が揺れた。
「パパスさんも、無理はしないで。皆で生きよう」
そうして、少しだけ微笑む。
「それに……パパスさんは、マーサさんとも再会しなくちゃ」
「……ああ」
低く、しかし確かな返事だった。
「私は配下に命じて、その大臣の動きを探らせる。もし、致命的なことをしようとしていた場合――」
言葉が、夜に沈む。
「未遂でも……斬る」
王の決断だった。ボクとパパスさんは、互いに視線を合わせ、無言で頷いた。言葉はいらない。そして、それぞれの役割へと戻る。
――ここからは、ボクとパパスさんの戦いだ。
絶対に、リュカたちを参戦させない。子どもに剣を握らせる戦いにはしない。ボクたちだけで終わらせる。それが、大人の責任だ。
空を見上げると、満月が高く昇っていた。
あまりにも明るく、あまりにも静かで――
まるで「何をしても無駄だ」と嘲笑っているかのように。
ボクはその視線を、意識的に振り払う。
(違う)
例え運命がどうであれ、例え神が何を定めていようと。ボクは守る。リュカを。ビアンカを。そして――生まれてくる、未来を。
何が起きようとも。
次回、宿命の時二回目。
ルドマンさんはトルネコの
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子孫
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子孫じゃない