テンの言う通り、精霊が横並びになる国、か。
その言葉は、あまりにも素朴で、あまりにも核心を突いていた。
精霊が上に立つでもなく、人が踏み台になるでもなく、誰かが犠牲になる前提でもない。ただ、横に並ぶ。手を伸ばせば届く距離で、同じ高さで、互いの温度を感じながら生きる世界。
もしそんな国が本当に成り立つなら――この世界は、いったい何を支えにして存在しているのだろう。
ボクは歩きながら、ぼんやりと天井のない空を思い浮かべた。
人間が横並びで立ち、精霊もまたその隣に立つ。そのすべてを、空のさらに上から、マスタードラゴンが静かに見守っている……そんな構図が、自然と浮かぶ。
だとすれば、マスタードラゴンは孤独だ。
誰よりも高く、誰よりも遠く、誰よりも多くを知っているがゆえに、誰とも同じ場所には立てない。だからこそ、人間を学ぼうとしたのかもしれない。人間の寿命、人間の弱さ、人間の愛し方を。
ソロ様の件は、ボクは許せない。
あれは決して赦される行いじゃない。多くを奪い、踏みにじり、歪めてしまった。
でも……人間として生きた時間だけは、ボクは否定したくなかった。孤独の中で、誰かと同じ目線に立ちたかった。その願いだけは、間違っていなかったと思うからだ。
そして、ボクに「一緒にいてほしい」と言った。それは支配でも命令でもなく、ただの願いだった。
孤独じゃなくなるために。
そう考えると、ボクは人間とマスタードラゴンの、ちょうど中間にいる存在なのかもしれない。もっと力を持てば、絶対者にもなれる。でも、力を使わなければ、友人として隣に立つこともできる。
パパスさんも、きっとその気になれば、絶対者の側に立てる人だ。でも、パパスさんは絶対にその道を選ばない。誰かの上に立つより、誰かの前に立つ人だからだ。
そんなことを考えながら、ボクたちは地下へと向かっていた。
石造りの階段は冷たく、足音がやけに大きく響く。空気は湿り、長い時間、人の気配がなかったことをはっきりと主張していた。
そして――そこに、ストロスの杖はあった。
見た瞬間、ぶわっと冷や汗が噴き出した。
これは……違う。普通の魔道具じゃない。
この杖は、持ち主を選ぶ。
それを、理屈じゃなく本能で理解した。隣を見ると、パパスさんも同じだった。表情は変わらないが、視線が一段、鋭くなっている。
ここまで来て、もしストロスの杖で石化を解除できなかったら――。その先に残される道は、一つしかない。
メガザル。
ボクの命と引き換えに、リュカとビアンカを戻す。静かに、誰にも聞こえないように、ボクはそう決めていた。
テンも、ピエールも、プックルも、みんなこの杖が放つ異様な気配に押されて、息を潜めていた。小さな体が、かすかに震えている。
その沈黙を破ったのは――ソラだった。
「あったかい」
その一言に、空気が変わった。
「あったかいの、これ……なに? ここにいたのね。あなたなのね」
ソラが、そっと杖に触れる。
恐れも、警戒もない。ただ、誰かに触れるような仕草だった。
ボクとパパスさんは、同時に視線を合わせた。
これは……。
天空の剣がテンを選んだように。
ストロスの杖は、ソラを選んだのかもしれない。
胸の奥で、何かがほどけた。張り詰めていた糸が、静かに切れて、涙が自然とこぼれてくる。終わった。いや――ようやく、ここまで来た。
あとは帰るだけだ。
グランバニアに戻り、ソラがストロスの杖を使って、リュカとビアンカの石化を解くだけ。
長かった。本当に、長い旅だった。
「じゃあパパスさん、スザヤさんを連れてグランバニアに帰りましょう!」
「そうだな。リュカとビアンカ……お前たちに、ようやくテンとソラを会わせることができる」
その声は、いつもより少しだけ震えていた。
帰還は、驚くほど静かだった。何事も起こらず、空は穏やかだった。ルーラを使いグランバニアへ帰還する。城に着くや否や、テンとソラは真っ先に駆け出した。待ちきれない、という背中だった。
ボクも慌てて追いかける。
シャナクを覚えなきゃいけない。絶対に覚える。
リュカも、ビアンカも、二人とも石化から解除する。それがボクの役目だ。パパスさんも、それを分かっているのだろう。一緒に付いてきている。ピエールも、プックルも、カデシュも。スザヤさんまでカデシュに連れられて、息を切らして走っている。ストロスの杖が使われる瞬間を見たいのだろう。
そして――。
「ねぇテン! お父さんとお母さん、どっちから石化を解除しようか!!」
「そうだね、ソラ!! じゃんけんで決めよう! ボクが勝ったらお父さん、ソラが勝ったらお母さん!」
「分かった! じゃんけんね! それじゃあ――」
子どもたちの元気な声が、城に響いた。
その音は、長い沈黙を破る、未来の音だった。
☆ ☆ ☆
そして――ストロスの杖を行使する時が、ついに訪れた。
グランバニアの別塔の間は、昼だというのに妙に静かだった。高い天井から差し込む光は、石造りの床に長い影を落とし、まるで時そのものが息をひそめているかのようだった。誰もが声を出すのをためらい、足音すら抑えている。空気は張り詰め、冷たく、そして重い。
じゃんけんはテンが勝った。
子どもらしい無邪気な勝負で決まったというのに、その結果が背負う意味は、あまりにも大きい。テンは拳を握ったまま、少しだけ不安そうにリュカを見上げていた。ソラはその横で、ストロスの杖を両手で抱え、胸に引き寄せている。その小さな指が、白くなるほど力を込めているのが分かった。
だから――最初に石化を解くのは、リュカ。
玉座の脇、石像となったままのリュカは、相変わらず穏やかな表情をしていた。石でできたその顔は、眠っているだけのようにも見える。けれどボクは知っている。彼はそこにいて、聞いていて、見ていた。動けないだけで、生きていた。
ソラが一歩前に出る。
その瞬間、ストロスの杖が淡く光った。
――いや、違う。
光ったのではない。呼応したのだ。ソラの心に。
杖の先から、白とも金ともつかない柔らかな光が溢れ出し、玉座の間全体を包み込んだ。冷え切っていた空気が、ゆっくりと温度を取り戻していく。まるで春の日差しが、長い冬を溶かすみたいに。
神々しい、という言葉では足りない。
それは奇跡の光だった。
光はリュカを中心に渦を巻き、石の表面をなぞるように流れていく。ぱきり、と小さな音がした。ひび割れではない。殻が剥がれる音だ。
石の色が、少しずつ失われていく。
……戻ってきている。
生命が。
リュカの指先が、かすかに動いた。
次の瞬間、石像だったはずの身体が、確かな肉体へと変わった。呼吸が戻り、血が巡り、温度が宿る。リュカはゆっくりと目を開き、まるで長い夢から覚めた人のように、ぼんやりと天井を見上げた。
――その瞬間だった。
……覚えた。
シャナク……。
ストロスの杖が放った力、その流れ、その構造、その「ほどき方」。すべてが、ボクの中に刻み込まれていく。これは知識じゃない。理解だ。体が、魂が、覚えてしまった。
ストロスの杖に、心から感謝する。
これでボクは――約束を果たせる。
「……テン、ソラ?」
かすれた声。
でも、確かにリュカの声だった。
「お父さん?」
一拍遅れて、テンの声が震える。
「お父さん!!」
「お父さん!!」
二人は一斉に駆け出し、リュカに抱きついた。勢いそのままに胸へ、腕へ、顔へ。泣きながら、叫びながら、何度も名前を呼ぶ。その小さな体が、必死に確かめるように触れている。
リュカは一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに優しく笑って、二人を抱きしめ返した。
その光景を、パパスさんが少し離れたところから見ていた。
彼は何も言わなかった。ただ、静かに涙を流していた。王としてではなく、父として、祖父として。その背中が、少しだけ小さく見えた。
三人はしばらく話していた。石化していた間のこと、子どもたちのこと、旅のこと。言葉は少なくても、そこに流れる時間は、確かに失われた年月を埋めていた。
やがて、リュカがこちらへ歩いてきた。
「父さん。子どもたちをありがとうございました。ホイミンもありがとう……でも」
一度、言葉を切る。
そして、まっすぐにボクを見た。
「石化してても、声は聞こえていた。目も、見えていました」
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「ホイミン。二度と、メガザルを使わないって誓ってくれ」
「……リュカ」
「あの塔で、ボクはスラリン、ドラきち、スミスを失った……これ以上、友人を失うのは嫌だ」
その言葉は、責める声じゃなかった。
願いだった。
「……分かったよ、リュカ。絶対に使わない。約束する」
ボクは、逃げずに答えた。
テンとソラが、またリュカに抱きつく。
リュカはその小さな命を、何よりも大切なものを見るような目で見つめていた。
「お父さんお父さん!! 僕ね! おじいちゃんが持っていた天空の剣に選ばれたんだ!」
「お父様! 私はストロスの杖に選ばれたの! 石化を解ける。これでお母さんも!!」
ソラが、ふと首をかしげた。
「あれ……ストロスの杖が、無い」
その一言で、空気が変わった。
テンも、ピエールも、プックルも、ガデシュも、慌てて周囲を見回す。けれど――慌てていない者が、二人いた。
ボクと、パパスさんだ。
「シャナクは、覚えられたか?」
静かな声。
皆が、パパスさんを見る。
ボクは、頷いた。
「うん。ストロスの杖が、どう作用したかは分かった。シャナク、使えるよ」
「シャナクって?」
リュカが尋ねる。
「あらゆる呪いを解く魔法だよ……もっとも、ボクのは石化くらいしか解除できない劣化版だけどね」
「……えっ」
「……なら、お母さんも?」
「そうだよ。テン、ソラ。ビアンカの呪いも解ける」
ボクは、ビアンカの前に立った。
石像の彼女は、今にも動き出しそうなほど自然な姿だった。胸に手を当て、静かに目を閉じる。
「――シャナク」
言葉が、世界に溶ける。
光が、再び満ちる。
同じ現象。違う対象。
そして――ビアンカは、目を開いた。
「……ビアンカ、ビアンカ!」
リュカが、強く彼女を抱きしめる。
子どもたちも、そこに飛び込んだ。
泣き声と、笑い声と、嗚咽が入り混じる。
ボクとパパスさんは、そっと目を合わせ、何も言わずに部屋を出た。ピエールも、プックルも、スザヤさんも、カデシュも、同じように続いた。
残されたのは、家族の声だけ。
……パパスさんも、泣いていた。
「……今日は、宴会だね」
「そうだな。そして明日、マスタードラゴンの力の封印を解き、魔界に突入する」
その声は、もう迷っていなかった。
「メンバーは、私、ホイミン、ピエール、カデシュだ」
呼ばれた全員が、静かに頷いた。
マーサさんを救うために。
この世界の、未来のために。
☆ ☆ ☆
城内は、これまでに聞いたことのないほどのざわめきに満ちていた。
兵士たちの鎧が触れ合う金属音、文官たちが走り回る足音、そして――抑えきれずに漏れ出す嗚咽。誰もが同じ言葉を繰り返していた。
「殿下が……殿下が戻られた……!」
その声は、叫びというより祈りに近かった。
四年だ。四年もの間、王太子不在の城を支えてきた人たちの想いが、今この瞬間に一気に溢れ出している。泣いているのに、誰の顔にも悲壮感はない。ただ、安堵と喜びが、子どものように無防備に表れているだけだ。
ボクは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
ああ……戻ってきたんだ。ようやく、日常が。
今日は特別だ。見張りに就く最低限の兵士を除いて、城中が宴の準備に追われていた。長机が並べられ、焼きたての肉の匂いと、香草を煮込んだスープの湯気が廊下にまで流れてくる。音楽隊が即席で集められ、調子外れながらも明るい旋律を奏でていた。
テンとソラはというと、リュカとビアンカから一歩も離れようとしなかった。
大人たちの輪から少し外れた場所で、四人は床に座り込み、頭を寄せ合って何かを話している。時折、テンが大げさに身振り手振りを交え、ソラがくすくす笑う。リュカとビアンカは、それを目を細めて聞いていた。
――取り戻した時間を、必死に埋めている。
そう見えた。
ボクはその光景に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、パパスさんの隣に腰を下ろした。ダンカンさんとマグダレーナさんも一緒だ。卓上には酒瓶が並び、料理は山のように積まれている。
「いい、マグダレーナさん? 本当にそれだけだからね?」
ボクが念を押すと、マグダレーナさんは肩をすくめ、大げさにため息をついた。
「何だい、めでたい日に! 今日は無礼講だろう!」
「そうだけど……ダメ。もしマグダレーナさんに何かあったら、リュカもビアンカも、テンもソラも、きっと悲しむ」
ボクの言葉に、マグダレーナさんは一瞬だけ目を伏せ、それから苦笑した。
「……はぁ。残念だけど、お酒は我慢しないといけないかねぇ」
「なに、私も付き合うさ」
そう言って、ダンカンさんが料理の皿を引き寄せる。
「飲めなくとも、食べる楽しみはある。今日はそれで十分だ」
「さすが、私の旦那様! 分かってるじゃないの!」
二人のやり取りに、自然と笑みがこぼれた。
ああ……これだ。これが、当たり前の光景だ。
ボクとパパスさんは、杯を一つずつ交わした。それ以上は飲まない。
戦いは、まだ終わっていないから。
視線を巡らせると、カデシュがドリスと話し込んでいるのが見えた。二人の距離は、以前よりも少し近い。カデシュが不器用に笑い、ドリスが呆れたように肩を叩く。
――もしかしたら、未来は変えられるのかもしれない。
そう思わせる光景だった。
だけど、その未来を守るためにも、やるべきことは一つ。
不幸の源――大魔王を倒す。それは、ボクとパパスさんが、言葉にせずとも交わした誓いだった。しばらくして、リュカたちがこちらに近づいてきた。テンとソラは、手を繋いだままだ。
「父さん」
リュカはまっすぐにパパスさんを見た。
「母さんを助けに行く。その戦いには、ボクもビアンカも、テンとソラも参加する」
その言葉に、空気が一瞬張り詰める。
「何だと?」
パパスさんの声は低く、しかし怒気はなかった。
「お前たちが戦う必要はない」
「その通りだよ、リュカ」
ボクも続ける。
「戦うのはボクとパパスさん。それにピエールとカデシュで十分だ」
その時だった。
「……僕たちを置いていくの?」
テンの声は小さかったけれど、はっきりと響いた。
「父さん?」
その一言に、パパスさんの表情が歪む。苦虫を噛み潰したような、どうしようもない顔だった。
「……リュカとビアンカはまだいい。だが、テンとソラは、まだ五歳にもなっていないんだぞ?」
「それでもだ」
リュカは一歩も引かなかった。
「置いていかれる辛さを、ボクは知ってる。もう、あの思いはさせたくない」
沈黙。宴の喧騒が、遠くに感じられる。やがて、パパスさんは静かに息を吐いた。
「……分かった」
「パパスさん!?」
思わず声が出た。
けれど、パパスさんは手を挙げて、ボクを制した。
「四人の気持ちも、分かる。私たちが前に立てばいい。それで問題ないだろう」
ボクは、少しだけ頭を抱えた。
「……作戦、考え直さないといけないね……天空の盾をルドマンさんからもらわないと」
そして、わざと軽い調子で言った。
「でも、絶対に自分の身を優先してよ? じゃないと――メガザル使うからね!」
一瞬の静寂の後、皆が笑った。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
ああ……もう少しだ。
マーサさん。あと少しだよ。
この城に、本当の意味で春が来るその日まで――ボクは、絶対に諦めない。