【完結】夢見る癒して   作:万歳!

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第35話 勇者の使命

 マスタードラゴンが完全に力を取り戻す、その直前のことだった。

 

 天空城の回廊は静まり返っていた。雲海の上に浮かぶ城は、まるで世界から切り離された別の場所のようで、足音さえも吸い込まれてしまう気がする。巨大な窓の外では、雲がゆっくりと流れ、夕陽の名残が空を淡く染めていた。

 

 ボクは壁にもたれ、これから起こる戦いのことを考えていた。魔界。大魔王。マーサさん。失敗は許されない。取り返しのつかない戦いだ。

 

 そんな時だった。

 

 小さな足音が、こちらへ近づいてきた。

 

「ねぇ、ホイミン」

 

 振り返ると、そこに立っていたのはテンだった。まだ幼い体。だが、その瞳は不思議なほど澄んでいて、揺らぎがない。

 

「困っているすべての人を助ける勇者に、僕はなれないかな?」

 

 その言葉に、胸の奥がひりついた。

 

 ――来た。

 

 いつか必ず、この問いは投げかけられると思っていた。

 

「……シューペリーでのことが、引っかかってるんだね?」

 

 ボクはできるだけ穏やかに、そう返した。

 

「うん……」

 

 テンは小さくうなずいた。

 

「おじいさまにも言われた。限界があるって。全部は救えないって。でも、それでも僕は……助けてあげたいんだ」

 

 一瞬、言葉が途切れる。

 

「ううん……この世から、苦しんでいる人を、なくしたい」

 

 その声は震えていなかった。幼子とは思えないほど、まっすぐで、覚悟に満ちていた。――ああ。これは、逃げ場のない問いだ。

 

「テン」

 

 ボクはしゃがみ込み、目線を合わせた。

 

「それはね……大魔王を倒すことよりも、ずっと難しいことだよ」

 

 事実だった。剣を振るえば倒せる敵とは違う。呪文を唱えれば消える苦しみでもない。

 

 貧困。差別。孤独。絶望。

 

 それらは形を持たず、何度倒しても、別の姿で現れる。

 

「テンは、きっと苦しむ」

 

 だから、止めたかった。

 

「誰かを救うたびに、救えなかった誰かのことを思い出す。自分の力が足りないことに、何度も打ちのめされる。それでも――」

 

 言葉を選びながら、続ける。

 

「それでも前に進む覚悟が、いる道なんだ」

 

 だが、テンは一歩も引かなかった。

 

「それでも!」

 

 小さな拳を、ぎゅっと握りしめる。

 

「僕は勇者なんだ! 今は子供だけど、いつか世界を救わなきゃいけない。そして世界を救うってことは……」

 

 テンは一度、息を吸った。

 

「今、食べるものがなくて苦しんでいる人を助けることも、入ってると思うんだ」

 

 胸が締め付けられた。

 

 ――なんて、重たい言葉だろう。

 

「テン……」

 

 ボクは、助けを求めるように視線を逸らした。誰か、誰か止めてくれ。誰か、この子に別の答えを示してくれ。そう思って周囲を見ると、そこにいたのはソラだった。

 

 彼女は静かに一歩前へ出て、テンの隣に並んだ。

 

「テンだけにさせないわ」

 

 はっきりとした声だった。

 

「私も協力する。必ず……世界中の人を救いましょう」

 

 テンの顔が、ぱっと明るくなる。

 

「……ありがとう、ソラ!」

 

 ――だめだ。

 

 双子で挑むには、あまりにも大きすぎる問いだ。

 

 止めなければ。

 

 でも、応援してあげたい気持ちも、確かにある。

 

 ボクの胸の中で、二つの感情が激しくぶつかり合う。

 

 思わず、リュカの方を見た。

 

 リュカは少しだけ苦しそうな顔をしていた。

 

 だが、それでも……笑っていた。

 

 父としての苦悩と、勇者の父としての理解。

 

 その両方を抱えた、複雑な笑みだった。

 

「テン」

 

 リュカが、静かに口を開く。

 

「それは、とてもつらい道だよ」

 

 テンは黙って聞いている。

 

「もしかしたら……達成できないかもしれない。いや、恐らく、達成できないだろう」

 

 現実を突きつける言葉。

 

 それでも、リュカは続けた。

 

「それでも、やるのかい?」

 

 テンは、少しだけ俯いた。

 

 だが、すぐに顔を上げた。

 

「……うん」

 

 その声は、揺れていなかった。

 

「僕には、ベッドもある。ふかふかのパンもある。明日も来るって、当たり前に思ってた」

 

 一瞬、唇を噛む。

 

「でも、違った。そんな当たり前すら持てずに、生きている人がたくさんいる」

 

 テンは、リュカを真っ直ぐ見つめた。

 

「僕は、そんな人たちを救いたいんだ。父さん」

 

 長い沈黙が落ちた。雲の流れる音だけが、遠くで聞こえる。やがて、リュカは深く息を吐いた。

 

「……まったく」

 

 そして、少し困ったように笑った。

 

「息子が、こんなにも本気で頑張ろうとしてるのに、父親が邪魔をするわけにはいかないな。協力するよ、テン」

 

 ボクは思わず声を上げた。

 

「……リュカ!?」

 

 否定すると思っていた。

 

 止めると思っていた。

 

 だが、ビアンカはその隣で、何も言わず、優しく微笑んでいる。

 

 ――そうか。

 

 彼女は最初から、分かっていたんだ。

 

 最後の希望を求めて、ボクはパパスさんを見た。

 

 パパスさんは腕を組み、しばらく黙っていたが――やがて、低く言った。

 

「息子と孫が、命を懸ける覚悟を持つというなら……」

 

 一度、目を閉じる。

 

「私が、何もしないわけにはいかないな」

 

「本当!?」

 

 テンが目を輝かせ、勢いよくパパスさんに抱きついた。

 

「おじいちゃん、大好き!!」

 

 その様子に、思わず笑ってしまう。

 

 方向性は、レック様やソロ様とは少し違う。

 

 剣で世界を救う勇者ではないかもしれない。

 

 でも――。

 

 間違いない。

 

 テンは、勇者だ。

 

 人の痛みを知り、背負おうとする勇者だ。苦しむのではないかと不安に思う。それでも進み続けるのだろう。テンは。

 

(ふふ……)

 

 ボクは、胸の奥で静かに笑った。

 

(勇者様と三人も一緒に冒険したんだ)

 

 レック様。

 

 ソロ様。

 

 そして――テン。

 

(いつか、テンのことも、本にしないとね)

 

 その時、きっと世界は、今よりほんの少しだけ、優しくなっているはずだから。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 そして――ついにその時が来た。

 

 長きにわたり封じられていた天空城が、ゆっくりと大地を離れ、雲海を割って空へと浮かび上がった瞬間だった。

 

 巨大な城がきしむような音を立て、空気そのものが震える。風が渦を巻き、雲が引き裂かれるように流れていく。その中心に、悠然とした存在感で身を横たえていたのが、マスタードラゴンの力だった。

 

 圧倒的な生命の力。

 

 これが――世界を支える存在。

 

 ボクはピエール、プックル、そしてカデシュを伴い、ボブルの塔へと足を踏み入れていた。

 

 そびえ立つ塔は、まるで空を突き刺す槍のように聳え、長い年月放置されたせいか、壁はひび割れ、ところどころ苔に覆われている。冷たい風が内部から吹き出し、異界の気配を運んでくる。

 

「……静かすぎる」

 

 ボクは小さく呟いた。

 

 モンスターの気配も、罠の気配もない。

 

 それが逆に、不安を掻き立てる。

 

 プックルが低く唸り、ピエールは剣の柄に手をかけたまま周囲を警戒している。カデシュもまた、鋭い眼差しで闇の奥を見据えていた。

 

「何もないのは……嵐の前の静けさか」

 

 ガデシュがぼそりと呟く。

 

「たぶんね。大魔王はきっと、全部を揃えさせた上で叩くつもりだ。魔界で」

 

 あまりに露骨だ。

 

 だが、それでも進むしかない。

 

 パパスさんたちは今、天空の盾と天空の兜を得るために別行動をしている。そして天空の兜はテルパトールにあるという。そっちも入手してくるのだろう。

 

 天空の鎧の所在は不明――だが、それがなくても構わない。

 

 テンには戦わせない。

 

 リュカにもビアンカにもだ。

 

 戦うのは――ボクたち四人。

 

 ボク。

 

 パパスさん。

 

 マーサさんの騎士を目指していたピエール。

 

 そして、亡国の王子カデシュ。復讐かもしれない。

 

 たが、ドリスさんともいい感じになっているようだ。

 

 なら、その想いだけで十分だった。

 

 やがて、天空城へと戻ったボクたちを、マスタードラゴンは静かに迎えた。

 

 その巨体が動くたび、城全体が揺れる。

 

「……天空の勇者とその一族、その仲間たち、そしてホイミン」

 

 低く、だがよく通る声が空気を震わせる。

 

「よくぞ私の力を取り戻してくれた」

 

 その声には、長い孤独と重責が滲んでいた。

 

 ボクは一歩前へ出る。

 

「マスタードラゴン。約束を果たしてもらう時です。マーサさんを取り戻すため、魔界への道を」

 

「分かっている」

 

 だがマスタードラゴンは、ふとボクの姿を見下ろした。

 

「しかしホイミン……お前は装備を忘れているぞ」

 

「……」

 

「勇者が授けた装備を持って行かぬつもりか?」

 

 一瞬、空気が張り詰める。

 

 ボクは小さく息を吐いた。

 

「ええ。あの力は……ボクには過ぎたものです。本来は大魔王との戦い以外で使うつもりはなかった」

 

 パパスさんが眉をひそめる。

 

「ホイミン。この中で一番の戦力はお前だ。勇者様から託された装備なら、使うべきだろう。それに今回は大魔王との戦いだ。ならお前が決めた条件にも当てはまっているはずだ」

 

「……そうだね」

 

 ボクは少しだけ笑った。

 

「勇者様も、きっと許してくれる」

 

 そう言って、ボクは預けていた装備を取りに走った。

 

 奇跡の剣。

 

 力の盾。

 

 そして山彦の帽子。

 

 それらを手にした瞬間、懐かしいぬくもりが伝わってくる。

 

 勇者ソロ様の想い。

 

 勇者レック様の意志。

 

 すべてが、この装備に宿っている。チャモロさんやミレーユさんバーバラさんの思いもこの山彦の帽子には宿ってると信じている。

 

 だが――。

 

 ボクは奇跡の剣と力の盾を、自分ではなくパパスさんへと差し出した。パパスさんも装備を新しくしているが、この装備には劣る。

 

 他のみんなも手に入る中で最善の装備を選んでいる。パパスさん以外。

 

「パパスさん。この剣と盾を使って」

 

「……なに?」

 

「パパスさんが前衛なんだ。大魔王と真正面から戦い引き付ける役目は、あなたしかいない」

 

 パパスさんの瞳が揺れる。

 

「だがこれは……」

 

「ボクのものだよ」

 

 はっきりと言った。

 

「だからこそ、ボクが使い道を決める。パパスさんが前で抑えてくれれば、ボクは後ろから全力で支援できる」

 

 沈黙。

 

 風が城を吹き抜ける音だけが響く。

 

 やがて、パパスさんの肩が小さく震えた。

 

「……本当にいいのか」

 

「うん。ただし条件がある」

 

「条件?」

 

「生きて、必ず返してください」

 

 一瞬の後、パパスさんは力強く頷いた。

 

「……分かった。マーサを取り戻したら、これまでの恩、一生かけて返す」

 

「じゃあその時はね」

 

 ボクは明るく言った。

 

「最高級の羊皮紙とインクを用意してほしいな! 勇者様たちの物語を書くんだ!」

 

 その場がどよめいた。テンとソラが思わずと言ったように声を出した。

 

「え……ホイミンが書くの?」

 

「勇者ソロ様の話も?」

 

「レック様の話も!?」

 

「もちろん!」

 

 ボクは笑った。

 

「テンの先代の勇者様も、もっと昔の勇者様も全部書くよ!」

 

 そしてテンを見て言った。

 

「だから文字の勉強、サボっちゃダメだからね! テン!」

 

「……うっ、分かったよホイミン」

 

 テンが苦笑する。

 

 ソラは目を輝かせて叫んだ。

 

「私、読みたいです! ホイミン先生!!」

 

 リュカとビアンカはそんな二人を、優しい目で見つめていた。

 

 ああ……。

 

 この平和な光景を、絶対に守る。

 

 そのために戦うんだ。

 

 ボクはマスタードラゴンを見上げる。

 

「約束通り、魔界への道を開いて」

 

 マスタードラゴンは大きく翼を広げた。

 

「よかろう。人の世界の未来のために」

 

 天空城が光に包まれ、空間が裂けるように歪む。

 

 底知れぬ闇がその向こうに広がっていた。

 

 ――魔界への門。

 

 冷たい風が吹き抜ける。

 

 だがボクの胸には、恐怖よりも覚悟があった。

 

「行こう」

 

 ボクは静かに言った。

 

「マーサさんを迎えに」

 

 パパスさんが剣を構え、ピエールが深く息を吸い、ガデシュが目を細める。

 

 こうして――。

 

 最後の戦いへの扉が、開かれた。

 

☆ ☆ ☆

 

 ――そして、ボクたちは魔界へと足を踏み入れた。

 

 空気が、違った。

 重い。冷たい。だが、ただの瘴気ではない。皮膚にまとわりつくような、感情の残滓――恐怖、憎悪、諦め、そして……かすかな祈り。

 

 足元の大地は黒く、ところどころ脈打つように赤い光を放っている。空は常に夕暮れのようで、太陽も月も見えない。時間の概念が曖昧になり、どれほど歩いたのかすら分からなくなっていく。

 

 テンはソラの手を握り、リュカとビアンカはその後ろに続いている。

 パパスさんの背中は、いつもより大きく見えた。

 

 その時だった。

 

 ――どこからともなく、声が聞こえてきた。

 

 風に乗ったわけでもない。

 空から降り注いだわけでもない。

 直接、胸の奥に響く声だった。

 

「……パパス。リュカ」

 

 その瞬間、全員が足を止めた。

 

「来てしまったのですね……」

 

 ボクの背筋が、ぞくりと震えた。

 

「リュカ。あなたは、この母が想像していた以上に……たくましく成長したようです」

 

 パパスさんが、息を呑む。

 

「マーサ!!」

 

 声が、震えていた。

 

 あの剛剣の王が、初めて見せるほどの揺らぎだった。

 

「遅くなってすまなかった! リュカも……孫たちも一緒だ! 必ず迎えに来ると誓った!」

 

 拳を握りしめ、空を睨みつける。

 

「待っていてくれ!!」

 

 しばしの沈黙の後、声はやさしく応えた。

 

「ああ……パパス……」

 

 その声は、確かに愛に満ちていた。

 

「どれほど、あなたに会いたかったでしょう。ですが、私は信じています。あなた達の力を。あなた達の心を」

 

 そして、少しだけ、声が震えた。

 

「私は……待っています」

 

 声は、そこで途切れた。

 

 だが、確かにあった。確かに、ここに、マーサさんは生きている。パパスさんの表情が、変わった。怒りでも悲しみでもない。

 

 ――覚悟だ。

 

 リュカも、同じ顔をしている。テンもソラも、何かを感じ取ったように、口を結んで前を見ていた。

 

 あと少しだ。

 

 あと一歩で、この家族は完成する。

 

 そう思った瞬間――。

 

 視界が、急に開けた。

 

「……え?」

 

 そこにあったのは、魔界とは思えない光景だった。

 

 村……いや、街だろうか。

 粗末ではあるが、家が立ち並び、人の――人間の姿をした者たちが行き交っている。

 

 笑い声。

 子どものはしゃぐ声。

 

「わーい! わーい!」

 

 駆け寄ってきた少年が、無邪気に叫んだ。

 

「僕、人間になれたよ!! お友達のスラタロウ君も、もうすぐなれるって言ってた!!」

 

 ――人間に、なれた?

 

 頭が、追いつかなかった。

 

 周囲を見渡す。

 

 確かに人間だ。

 

 街の人たちから話を聞いて、ようやく理解した。

 

 マーサさんが――

 

 魔物たちを、改心させ、人間に変えている。

 

「良かったね、ホイミン!!」

 

 テンが、満面の笑みで言った。

 

「ホイミン先生! おばあ様に会えば、人間になれるね!!」

 

 ソラも、無邪気に続く。

 

 胸が、ぎゅっと締め付けられた。

 

 まさか。

 

 まさか――。

 

 ボクは、ずっと夢見てきた。

 

 人間になりたい。

 

 人間と同じ場所に立ちたい。

 

 人間と同じ時間を、生きたい。

 

 それが叶える人が――

 

 リュカのお母さんだったなんて。

 

「……リュカ」

 

 声が、震える。

 

「やっぱり……君と友達になったら、人間になれると思ったのは……間違いじゃなかったね」

 

 リュカは、少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。

 

「そうだね、ホイミン」

 

 ボクの頭にリュカは手を置く。

 

「君の長年の夢が叶う。……僕も、嬉しいよ」

 

 胸の奥で、何かが弾けた。

 

 ――ああ。

 

 ずっと欲しかった答えが、ここにある。

 

 だが。

 

 その瞬間、ボクは自分を叱った。

 

「……っと、いけない」

 

 深く息を吸う。

 

「まずは、大魔王を倒してからだ。人間になるのは、その後」

 

 皆を見渡す。

 

「浮かれてる場合じゃない。ここは魔界だ。罠がないわけがない」

 

 自分に言い聞かせるように、続けた。

 

「皆、早く進もう」

 

 それでも――。

 

 心の奥は、どうしようもなく浮かれていた。

 

 人間になれる。

 

 夢が叶う。

 

 マーサさんがいる。

 

 家族が、揃う。

 

 すべてが、うまくいくように思えた。

 

 だが――。

 

(……本当に、そうなのか?)

 

 ほんの一瞬、胸の奥に、言葉にできない違和感がよぎった。

 

 魔物を、人間に変えること。

 

 それは、本当に救いなのか?

 

 その問いを、ボクはまだ、言葉にできなかった。

 

 だからこそ、歩き続ける。

 

 この先に待つ、真実を知るために。

 

 ――浮かれた心のまま。

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