マスタードラゴンが完全に力を取り戻す、その直前のことだった。
天空城の回廊は静まり返っていた。雲海の上に浮かぶ城は、まるで世界から切り離された別の場所のようで、足音さえも吸い込まれてしまう気がする。巨大な窓の外では、雲がゆっくりと流れ、夕陽の名残が空を淡く染めていた。
ボクは壁にもたれ、これから起こる戦いのことを考えていた。魔界。大魔王。マーサさん。失敗は許されない。取り返しのつかない戦いだ。
そんな時だった。
小さな足音が、こちらへ近づいてきた。
「ねぇ、ホイミン」
振り返ると、そこに立っていたのはテンだった。まだ幼い体。だが、その瞳は不思議なほど澄んでいて、揺らぎがない。
「困っているすべての人を助ける勇者に、僕はなれないかな?」
その言葉に、胸の奥がひりついた。
――来た。
いつか必ず、この問いは投げかけられると思っていた。
「……シューペリーでのことが、引っかかってるんだね?」
ボクはできるだけ穏やかに、そう返した。
「うん……」
テンは小さくうなずいた。
「おじいさまにも言われた。限界があるって。全部は救えないって。でも、それでも僕は……助けてあげたいんだ」
一瞬、言葉が途切れる。
「ううん……この世から、苦しんでいる人を、なくしたい」
その声は震えていなかった。幼子とは思えないほど、まっすぐで、覚悟に満ちていた。――ああ。これは、逃げ場のない問いだ。
「テン」
ボクはしゃがみ込み、目線を合わせた。
「それはね……大魔王を倒すことよりも、ずっと難しいことだよ」
事実だった。剣を振るえば倒せる敵とは違う。呪文を唱えれば消える苦しみでもない。
貧困。差別。孤独。絶望。
それらは形を持たず、何度倒しても、別の姿で現れる。
「テンは、きっと苦しむ」
だから、止めたかった。
「誰かを救うたびに、救えなかった誰かのことを思い出す。自分の力が足りないことに、何度も打ちのめされる。それでも――」
言葉を選びながら、続ける。
「それでも前に進む覚悟が、いる道なんだ」
だが、テンは一歩も引かなかった。
「それでも!」
小さな拳を、ぎゅっと握りしめる。
「僕は勇者なんだ! 今は子供だけど、いつか世界を救わなきゃいけない。そして世界を救うってことは……」
テンは一度、息を吸った。
「今、食べるものがなくて苦しんでいる人を助けることも、入ってると思うんだ」
胸が締め付けられた。
――なんて、重たい言葉だろう。
「テン……」
ボクは、助けを求めるように視線を逸らした。誰か、誰か止めてくれ。誰か、この子に別の答えを示してくれ。そう思って周囲を見ると、そこにいたのはソラだった。
彼女は静かに一歩前へ出て、テンの隣に並んだ。
「テンだけにさせないわ」
はっきりとした声だった。
「私も協力する。必ず……世界中の人を救いましょう」
テンの顔が、ぱっと明るくなる。
「……ありがとう、ソラ!」
――だめだ。
双子で挑むには、あまりにも大きすぎる問いだ。
止めなければ。
でも、応援してあげたい気持ちも、確かにある。
ボクの胸の中で、二つの感情が激しくぶつかり合う。
思わず、リュカの方を見た。
リュカは少しだけ苦しそうな顔をしていた。
だが、それでも……笑っていた。
父としての苦悩と、勇者の父としての理解。
その両方を抱えた、複雑な笑みだった。
「テン」
リュカが、静かに口を開く。
「それは、とてもつらい道だよ」
テンは黙って聞いている。
「もしかしたら……達成できないかもしれない。いや、恐らく、達成できないだろう」
現実を突きつける言葉。
それでも、リュカは続けた。
「それでも、やるのかい?」
テンは、少しだけ俯いた。
だが、すぐに顔を上げた。
「……うん」
その声は、揺れていなかった。
「僕には、ベッドもある。ふかふかのパンもある。明日も来るって、当たり前に思ってた」
一瞬、唇を噛む。
「でも、違った。そんな当たり前すら持てずに、生きている人がたくさんいる」
テンは、リュカを真っ直ぐ見つめた。
「僕は、そんな人たちを救いたいんだ。父さん」
長い沈黙が落ちた。雲の流れる音だけが、遠くで聞こえる。やがて、リュカは深く息を吐いた。
「……まったく」
そして、少し困ったように笑った。
「息子が、こんなにも本気で頑張ろうとしてるのに、父親が邪魔をするわけにはいかないな。協力するよ、テン」
ボクは思わず声を上げた。
「……リュカ!?」
否定すると思っていた。
止めると思っていた。
だが、ビアンカはその隣で、何も言わず、優しく微笑んでいる。
――そうか。
彼女は最初から、分かっていたんだ。
最後の希望を求めて、ボクはパパスさんを見た。
パパスさんは腕を組み、しばらく黙っていたが――やがて、低く言った。
「息子と孫が、命を懸ける覚悟を持つというなら……」
一度、目を閉じる。
「私が、何もしないわけにはいかないな」
「本当!?」
テンが目を輝かせ、勢いよくパパスさんに抱きついた。
「おじいちゃん、大好き!!」
その様子に、思わず笑ってしまう。
方向性は、レック様やソロ様とは少し違う。
剣で世界を救う勇者ではないかもしれない。
でも――。
間違いない。
テンは、勇者だ。
人の痛みを知り、背負おうとする勇者だ。苦しむのではないかと不安に思う。それでも進み続けるのだろう。テンは。
(ふふ……)
ボクは、胸の奥で静かに笑った。
(勇者様と三人も一緒に冒険したんだ)
レック様。
ソロ様。
そして――テン。
(いつか、テンのことも、本にしないとね)
その時、きっと世界は、今よりほんの少しだけ、優しくなっているはずだから。
☆ ☆ ☆
そして――ついにその時が来た。
長きにわたり封じられていた天空城が、ゆっくりと大地を離れ、雲海を割って空へと浮かび上がった瞬間だった。
巨大な城がきしむような音を立て、空気そのものが震える。風が渦を巻き、雲が引き裂かれるように流れていく。その中心に、悠然とした存在感で身を横たえていたのが、マスタードラゴンの力だった。
圧倒的な生命の力。
これが――世界を支える存在。
ボクはピエール、プックル、そしてカデシュを伴い、ボブルの塔へと足を踏み入れていた。
そびえ立つ塔は、まるで空を突き刺す槍のように聳え、長い年月放置されたせいか、壁はひび割れ、ところどころ苔に覆われている。冷たい風が内部から吹き出し、異界の気配を運んでくる。
「……静かすぎる」
ボクは小さく呟いた。
モンスターの気配も、罠の気配もない。
それが逆に、不安を掻き立てる。
プックルが低く唸り、ピエールは剣の柄に手をかけたまま周囲を警戒している。カデシュもまた、鋭い眼差しで闇の奥を見据えていた。
「何もないのは……嵐の前の静けさか」
ガデシュがぼそりと呟く。
「たぶんね。大魔王はきっと、全部を揃えさせた上で叩くつもりだ。魔界で」
あまりに露骨だ。
だが、それでも進むしかない。
パパスさんたちは今、天空の盾と天空の兜を得るために別行動をしている。そして天空の兜はテルパトールにあるという。そっちも入手してくるのだろう。
天空の鎧の所在は不明――だが、それがなくても構わない。
テンには戦わせない。
リュカにもビアンカにもだ。
戦うのは――ボクたち四人。
ボク。
パパスさん。
マーサさんの騎士を目指していたピエール。
そして、亡国の王子カデシュ。復讐かもしれない。
たが、ドリスさんともいい感じになっているようだ。
なら、その想いだけで十分だった。
やがて、天空城へと戻ったボクたちを、マスタードラゴンは静かに迎えた。
その巨体が動くたび、城全体が揺れる。
「……天空の勇者とその一族、その仲間たち、そしてホイミン」
低く、だがよく通る声が空気を震わせる。
「よくぞ私の力を取り戻してくれた」
その声には、長い孤独と重責が滲んでいた。
ボクは一歩前へ出る。
「マスタードラゴン。約束を果たしてもらう時です。マーサさんを取り戻すため、魔界への道を」
「分かっている」
だがマスタードラゴンは、ふとボクの姿を見下ろした。
「しかしホイミン……お前は装備を忘れているぞ」
「……」
「勇者が授けた装備を持って行かぬつもりか?」
一瞬、空気が張り詰める。
ボクは小さく息を吐いた。
「ええ。あの力は……ボクには過ぎたものです。本来は大魔王との戦い以外で使うつもりはなかった」
パパスさんが眉をひそめる。
「ホイミン。この中で一番の戦力はお前だ。勇者様から託された装備なら、使うべきだろう。それに今回は大魔王との戦いだ。ならお前が決めた条件にも当てはまっているはずだ」
「……そうだね」
ボクは少しだけ笑った。
「勇者様も、きっと許してくれる」
そう言って、ボクは預けていた装備を取りに走った。
奇跡の剣。
力の盾。
そして山彦の帽子。
それらを手にした瞬間、懐かしいぬくもりが伝わってくる。
勇者ソロ様の想い。
勇者レック様の意志。
すべてが、この装備に宿っている。チャモロさんやミレーユさんバーバラさんの思いもこの山彦の帽子には宿ってると信じている。
だが――。
ボクは奇跡の剣と力の盾を、自分ではなくパパスさんへと差し出した。パパスさんも装備を新しくしているが、この装備には劣る。
他のみんなも手に入る中で最善の装備を選んでいる。パパスさん以外。
「パパスさん。この剣と盾を使って」
「……なに?」
「パパスさんが前衛なんだ。大魔王と真正面から戦い引き付ける役目は、あなたしかいない」
パパスさんの瞳が揺れる。
「だがこれは……」
「ボクのものだよ」
はっきりと言った。
「だからこそ、ボクが使い道を決める。パパスさんが前で抑えてくれれば、ボクは後ろから全力で支援できる」
沈黙。
風が城を吹き抜ける音だけが響く。
やがて、パパスさんの肩が小さく震えた。
「……本当にいいのか」
「うん。ただし条件がある」
「条件?」
「生きて、必ず返してください」
一瞬の後、パパスさんは力強く頷いた。
「……分かった。マーサを取り戻したら、これまでの恩、一生かけて返す」
「じゃあその時はね」
ボクは明るく言った。
「最高級の羊皮紙とインクを用意してほしいな! 勇者様たちの物語を書くんだ!」
その場がどよめいた。テンとソラが思わずと言ったように声を出した。
「え……ホイミンが書くの?」
「勇者ソロ様の話も?」
「レック様の話も!?」
「もちろん!」
ボクは笑った。
「テンの先代の勇者様も、もっと昔の勇者様も全部書くよ!」
そしてテンを見て言った。
「だから文字の勉強、サボっちゃダメだからね! テン!」
「……うっ、分かったよホイミン」
テンが苦笑する。
ソラは目を輝かせて叫んだ。
「私、読みたいです! ホイミン先生!!」
リュカとビアンカはそんな二人を、優しい目で見つめていた。
ああ……。
この平和な光景を、絶対に守る。
そのために戦うんだ。
ボクはマスタードラゴンを見上げる。
「約束通り、魔界への道を開いて」
マスタードラゴンは大きく翼を広げた。
「よかろう。人の世界の未来のために」
天空城が光に包まれ、空間が裂けるように歪む。
底知れぬ闇がその向こうに広がっていた。
――魔界への門。
冷たい風が吹き抜ける。
だがボクの胸には、恐怖よりも覚悟があった。
「行こう」
ボクは静かに言った。
「マーサさんを迎えに」
パパスさんが剣を構え、ピエールが深く息を吸い、ガデシュが目を細める。
こうして――。
最後の戦いへの扉が、開かれた。
☆ ☆ ☆
――そして、ボクたちは魔界へと足を踏み入れた。
空気が、違った。
重い。冷たい。だが、ただの瘴気ではない。皮膚にまとわりつくような、感情の残滓――恐怖、憎悪、諦め、そして……かすかな祈り。
足元の大地は黒く、ところどころ脈打つように赤い光を放っている。空は常に夕暮れのようで、太陽も月も見えない。時間の概念が曖昧になり、どれほど歩いたのかすら分からなくなっていく。
テンはソラの手を握り、リュカとビアンカはその後ろに続いている。
パパスさんの背中は、いつもより大きく見えた。
その時だった。
――どこからともなく、声が聞こえてきた。
風に乗ったわけでもない。
空から降り注いだわけでもない。
直接、胸の奥に響く声だった。
「……パパス。リュカ」
その瞬間、全員が足を止めた。
「来てしまったのですね……」
ボクの背筋が、ぞくりと震えた。
「リュカ。あなたは、この母が想像していた以上に……たくましく成長したようです」
パパスさんが、息を呑む。
「マーサ!!」
声が、震えていた。
あの剛剣の王が、初めて見せるほどの揺らぎだった。
「遅くなってすまなかった! リュカも……孫たちも一緒だ! 必ず迎えに来ると誓った!」
拳を握りしめ、空を睨みつける。
「待っていてくれ!!」
しばしの沈黙の後、声はやさしく応えた。
「ああ……パパス……」
その声は、確かに愛に満ちていた。
「どれほど、あなたに会いたかったでしょう。ですが、私は信じています。あなた達の力を。あなた達の心を」
そして、少しだけ、声が震えた。
「私は……待っています」
声は、そこで途切れた。
だが、確かにあった。確かに、ここに、マーサさんは生きている。パパスさんの表情が、変わった。怒りでも悲しみでもない。
――覚悟だ。
リュカも、同じ顔をしている。テンもソラも、何かを感じ取ったように、口を結んで前を見ていた。
あと少しだ。
あと一歩で、この家族は完成する。
そう思った瞬間――。
視界が、急に開けた。
「……え?」
そこにあったのは、魔界とは思えない光景だった。
村……いや、街だろうか。
粗末ではあるが、家が立ち並び、人の――人間の姿をした者たちが行き交っている。
笑い声。
子どものはしゃぐ声。
「わーい! わーい!」
駆け寄ってきた少年が、無邪気に叫んだ。
「僕、人間になれたよ!! お友達のスラタロウ君も、もうすぐなれるって言ってた!!」
――人間に、なれた?
頭が、追いつかなかった。
周囲を見渡す。
確かに人間だ。
街の人たちから話を聞いて、ようやく理解した。
マーサさんが――
魔物たちを、改心させ、人間に変えている。
「良かったね、ホイミン!!」
テンが、満面の笑みで言った。
「ホイミン先生! おばあ様に会えば、人間になれるね!!」
ソラも、無邪気に続く。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
まさか。
まさか――。
ボクは、ずっと夢見てきた。
人間になりたい。
人間と同じ場所に立ちたい。
人間と同じ時間を、生きたい。
それが叶える人が――
リュカのお母さんだったなんて。
「……リュカ」
声が、震える。
「やっぱり……君と友達になったら、人間になれると思ったのは……間違いじゃなかったね」
リュカは、少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「そうだね、ホイミン」
ボクの頭にリュカは手を置く。
「君の長年の夢が叶う。……僕も、嬉しいよ」
胸の奥で、何かが弾けた。
――ああ。
ずっと欲しかった答えが、ここにある。
だが。
その瞬間、ボクは自分を叱った。
「……っと、いけない」
深く息を吸う。
「まずは、大魔王を倒してからだ。人間になるのは、その後」
皆を見渡す。
「浮かれてる場合じゃない。ここは魔界だ。罠がないわけがない」
自分に言い聞かせるように、続けた。
「皆、早く進もう」
それでも――。
心の奥は、どうしようもなく浮かれていた。
人間になれる。
夢が叶う。
マーサさんがいる。
家族が、揃う。
すべてが、うまくいくように思えた。
だが――。
(……本当に、そうなのか?)
ほんの一瞬、胸の奥に、言葉にできない違和感がよぎった。
魔物を、人間に変えること。
それは、本当に救いなのか?
その問いを、ボクはまだ、言葉にできなかった。
だからこそ、歩き続ける。
この先に待つ、真実を知るために。
――浮かれた心のまま。