まだ夢と現実の境目が曖昧な時間帯、窓の外から差し込む柔らかな陽光が、木の床に淡い光の帯を描いた。その光はゆっくりと部屋の奥まで伸び、眠っていたボクの意識を静かに引き上げていく。
その瞬間だった。
「おはよう、父さん! サンチョ! ホイミン!」
弾けるような声が、家中に響き渡る。寝起きの空気を一瞬で塗り替えるほどの元気さに、ボクは思わずくすりと笑ってしまった。胸の奥に残っていた微かな不安も、その声に押し流されていく。
ふわり、と宙に浮かびながらボクは応える。
「おはよう、リュカ。スラリンも。パパスさん、サンチョさんもおはよう!」
スラリンはすでにリュカの頭の上でぷるんと揺れ、眠そうにしながらも嬉しそうだった。
「ああ、おはよう」
パパスさんは短く答え、腕を組んでから大きく背伸びをする。その姿はどこか疲れを残しつつも、父親としての頼もしさを失っていない。
「サンチョ、朝食を頼む」
「畏まりました、旦那様!」
サンチョさんは張りのある声で答え、すぐに台所へと姿を消した。ほどなくして、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、温かいスープの湯気が部屋の空気をやさしく満たしていく。その匂いは、どこか安心感を伴っていて、旅の途中で感じてきた緊張を一時的に忘れさせてくれた。
ボクが食器を運ぼうとすると、リュカが目を輝かせて駆け寄ってくる。
「ボクも手伝うよ!」
「ありがとう。でも、落とさないようにね」
「大丈夫!」
そう言って、両手で皿を抱えるリュカの動きは少しぎこちない。それでも一生懸命で、誇らしげだった。その様子を見て、パパスさんがふっと口元を緩める。
家族の朝。それは短くても、確かに温かい時間だった。朝食は終始穏やかな空気の中で進み、誰もが言葉少なめながらも満たされた表情をしていた。
食後、パパスさんは背中に剣を帯びながら、リュカの前にしゃがみ込む。
「じゃあリュカ。父さんは少し出かけてくる」
「うん」
「お前はホイミンたちと一緒に遊んでいなさい」
「分かった!」
その返事と同時に、リュカの表情がぱっと明るくなる。まるで太陽が一段階、強く輝いたようだった。
「ホイミン! スラリン! 遊びに行こう!」
「行こうよ、リュカ!」
スラリンが弾むように跳ね、ぽんっとリュカの頭に乗る。ボクもくるりと宙で一回転しながら答えた。
「じゃあ行こうか」
三人は連れ立って家を飛び出した。朝の村は活気に満ちていた。
教会からは低く穏やかな祈りの声が漏れ聞こえ、酒場では昨夜の出来事を語り合う大人たちの笑い声が響いている。広場では、木の棒を剣に見立てた子どもたちが勇者ごっこに夢中になり、「必殺技だ!」などと叫びながら走り回っていた。
リュカはその間を縫うように駆け回り、スラリンは弾むように追いかける。ボクは少し高い位置から二人を見守っていた。
ふと立ち止まり、二人の顔を見下ろす。そこには、曇りひとつない笑顔があった。
(……良かった)
それが偽りのない、ボクの本心だった。しばらく遊んでいると、見慣れた二人の姿が目に入った。
「元気そうだね、リュカ!」
「楽しそうね」
ビアンカと、そのお母さんだった。
「おばさん、ビアンカ、こんにちは!」
リュカは胸を張って答える。
「うん、楽しいよ。ね、スラリン!」
「うん!」
「そうかいそうかい。男の子はそうじゃなくちゃねぇ」
そう笑ったあと、ビアンカのお母さんの表情が少し曇る。
「ところで、パパスがどこに行ったか知らないかい?」
「父さん? 出かけてくるって言ってたよ?」
「そうなのかい……」
話を聞けば、洞窟の奥まで薬を取りに行った人が戻らず、探しに行ける大人を探しているという。
「呼び止めて悪かったね。好きに遊んでおいで」
二人はそう言って去っていった。その背中を見送ったあと、ボクはすぐに気づいた。リュカの表情が、先ほどまでとは違っていたことに。唇をきゅっと結び、目の奥に強い光を宿している。
「ねぇ、ホイミン」
リュカは真っ直ぐにボクを見上げた。
「僕たちが行っちゃダメかな? お願い!! 僕も父さんみたいに、頼られる人になりたいんだ!」
その声は震えていなかった。本気だった。すぐにスラリンが口を挟む。
「ホイミンがいれば怖いものなんてないでしょ? お願い、聞いてあげようよ!」
ボクは黙り込んだ。洞窟は危険だ。子どもが足を踏み入れていい場所じゃない。分かっている。何度も、何度も。冒険したのだから。
「……はぁ」
小さくため息をついてから、ボクは言った。
「分かった。でも、条件があるよ」
二人は息を呑む。
「絶対に、僕から離れないこと。約束できる?」
「うん!」
「約束する!」
その満面の笑みを見た瞬間、もう引き返す言葉は残っていなかった。
洞窟の入り口では、大人が子どもを入れないよう目を光らせている。スラリンがわざと大きく跳ね回り、視線を引きつけた。
「な、なんだ!? スライムが――」
その隙に、リュカとボクは素早く洞窟の中へ滑り込む。すぐにスラリンも合流した。
ひんやりとした空気。暗闇の奥から漂ってくる湿った匂い。ボクは胸の奥で、小さく覚悟を決めた。
(……これは遊びじゃない)
――冒険の、始まりだ。
☆ ☆ ☆
洞窟の中は、思っていた以上に薄暗かった。外の光は入口から少し進んだところで完全に途切れ、代わりに壁や天井から滲み出るような湿り気と、冷たい空気が肌にまとわりついてくる。足元の石はところどころ濡れていて、歩くたびに小さな水音が響いた。
それでも――。
「わぁ……なんか冒険って感じだね!」
リュカは目を輝かせ、まるで宝探しに来たかのように周囲を見回している。スラリンも負けじと、ぴょんぴょんと跳ねながら洞窟の天井を見上げていた。
「ひんやりしてるけど、気持ちいいね!」
……怯える様子は、まるでない。
(これは……あとでパパスさんに、相当怒られるかもしれないな)
ボクは内心で苦笑した。でも、リュカが自分の意志でここに来たいと望んだのも事実だ。無理やり連れてきたわけじゃない。そう思うことで、自分を納得させる。
それに――。
(リュカには、とてつもなく強い運命がある)
それは勘なんかじゃない。勇者レック様、勇者ソロ様、そしてその仲間たち。数多くの英雄を見てきたボクだからこそ、はっきりと分かる。リュカの中には、彼らと同じ……いや、それ以上の「流れ」がある。
だからこそ、その運命に押し潰されないように、今から少しずつ「選ぶ力」を身につけさせてあげたい。
(事後承諾になるけど……パパスさんには、それで納得してもらおう)
そう心の中で呟いた、そのときだった。洞窟の奥から、かすかな足音と羽音が聞こえた。
「……来るよ」
ボクが小さく告げると、リュカとスラリンはすぐに身構える。
闇の中から姿を現したのは、三匹のモンスターだった。角を構えたいっかくウサギ。重そうな棍棒を引きずるおおきづち。そして、天井近くをふわふわと飛ぶドラキー。
(気配を完全に消していたから、油断して出てきたみたいだね)
数は三。危険度も高くはない。
――なら、いい機会だ。
「リュカ! スラリン!」
二人に向かって声をかける。
「ボクがいなくても戦えるように、二人でやってみて! 大丈夫、ちゃんと後ろで見てるから!」
一瞬、二人はボクを見上げた。そしてリュカは、ぐっと拳を握りしめて大きく叫ぶ。
「分かった!」
最初に動いたのは、リュカだった。いっかくウサギにリュカはひのきの棒を握り、そっと近づく。
……そして。ひのきの棒で、撫でた。
(ああ……)
多分、モンスターでも友達になれると思っているんだろう。殴る、という選択肢が、最初から存在していない優しい。それはリュカの一番の長所だ。
だけど――戦いの場では、それが命取りになることもある。案の定、いっかくウサギは警戒心を剥き出しにし、角を低く構えた。
「リュカ、下が――」
言い切る前に、突進。ボクは即座に前に躍り出て、触手でいっかくウサギの角を掴み、そのまま地面へ叩きつける。鈍い音。
それだけで、いっかくウサギは完全に戦意を失い、洞窟の奥へと逃げ去っていった。
「……ごめん」
リュカが視線を下げながら小さく呟く。
その間に、スラリンはおおきづちとドラキーを相手に、縦横無尽に動き回っていた。
体当たりで距離を詰めては跳ね退き、攻撃を誘ってはかわす。単純だけど、効果的な動きだ。
「リュカ!」
ボクははっきりと声をかけた。
「君がモンスターを友達にしたいのは分かってる!! でもね、戦わなきゃいけない時もあるんだ!!」
リュカはびくっと肩を震わせる。
「もし戦えないなら、それでもいい。ボクやスラリンが代わりに戦う! 殺す必要はないんだ!!」
一拍置いて、続ける。
「だから……選んで!」
リュカは自分の手と、ひのきの棒をじっと見つめた。そして、顔を上げる。
「……やってみる!」
今度は迷いはなかった。リュカは今度は真っ直ぐドラキーへと走り、ひのきの棒を振り下ろした。
――鈍い音。
脳天に直撃し、ドラキーはそのまま地面に落ち、ぴくりとも動かなくなる。
「やった……!」
一方、おおきづちはスラリンに翻弄され続けていた。そこへ横からリュカが駆け寄り、ひのきの棒で一撃。
スラリンの体当たりが追い打ちとなり、おおきづちは悲鳴を上げて逃げ出した。洞窟に残ったのは――倒れたドラキーだけ。
(……いや)
微かに、羽が動いた。
(気絶したふり、か)
そのとき、リュカが思いもよらないことを言い出した。
「ねぇホイミン。僕、ホイミが使えるようになった気がするんだ」
ボクは思わず目を見開く。
「このドラキーに、かけてあげてもいい?」
……参ったな。まじまじとリュカを見つめて、ボクは思わず笑顔になってしまった。
「リュカの、やりたいようにすればいいよ」
「うん!」
リュカは集中し、両手をドラキーに向ける。
「ホイミ!」
柔らかな光が広がり、ドラキーの傷が癒えていく。
「急に押しかけてごめんね。僕たちは人を探したら、すぐに出ていくから」
しばらく沈黙が続きリュカが進もうとした瞬間――。
「……待つにゃっ」
ドラキーがゆっくりと目を開いた。
「なんで、ホイミをかけたにゃっ?」
リュカは少し困ったように笑う。
「傷つけたのに、こんなこと言える立場じゃないけど……それでも、傷つけたままなのは嫌だったんだ」
「……へんな人間にゃっ」
ドラキーは小さく息を吐いた。
「お礼にゃ。岩に押しつぶされてる人の場所、案内するにゃっ」
「本当!? ありがとう! 君、名前は?」
「……ドラきちにゃっ」
その瞬間、ボクは思わず苦笑してしまった。
(ああ……これはもう、決まりだな)
多分このドラキー、ドラきちも、リュカの仲間になる。そんな予感が、確信に近い形で胸に残っていた。
☆ ☆ ☆
そうして、ボクたちはグータフさんを無事に助け出すことができた。洞窟の奥で崩れた岩に足を挟まれ、身動きが取れなくなっていた彼を救ったのは、リュカの機転だった。
最初に状況を見たとき、正直に言えば、ボクが力を使えば一瞬で済む話だった。岩を浮かせ触手を使って、そっとどかすだけでいい。でも、それは最後の手段だ。リュカが自分の力で誰かを助けようとする、その大切な一歩を奪ってはいけない。
リュカの成長をボクは見守る必要がある。
「待ってて! 今ロープを岩に巻き付けるから!」
洞窟に響くリュカの声は、震えていながらもまっすぐだった。スラリンとドラきちは周囲を警戒し、ボクは天井付近から全体を見渡す。万が一、魔物が近づけばすぐに対応できる位置だ。
ロープを岩に巻きつけ、リュカとスラリン、ドラきちの三人がかりで引く。掛け声に合わせ、少しずつ岩が動いた。
「よし……今だ!」
最後の一押しで、岩は音を立てて転がり落ちた。グータフさんは大きく息をつき、その場に座り込んだ。
「た、助かった……! 坊主、あんた……」
「よかったぁ……!」
リュカは安堵のあまり、その場にへたり込んだ。ボクは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じる。――ちゃんと、助けたんだ。自分の力で。
洞窟を出るころには、ドラきちが当たり前のようにリュカの後ろを歩いていた。逃げるでもなく、威嚇するでもなく、まるで昔からの仲間のように。
「……ついてくるの?」
リュカが振り返って聞くと、ドラきちは小さく鳴いた。
「いいよ! 一緒に帰ろう!」
その言葉に、ドラきちは嬉しそうに羽を震わせた。ボクは思わず苦笑する。――やっぱり、ついてきた。家に戻る道すがら、ボクの胸には小さな不安が芽生えていた。……パパスさん、怒るかな。
その不安はすぐに現実になった。事情を聞き終えたパパスさんは、深く息を吐き、リュカの頭を軽く――本当に軽く――叩いた。
「まったく……」
リュカの肩がびくりと震える。
「よくやったな。さすが私の息子だ」
「……!」
「だがな。ホイミンがいるから大丈夫だと思ったんだろうが、次からは私にも一言、言いなさい」
「……ごめんなさい、父さん」
リュカは視線を落とし、唇を噛みしめていた。その姿を見て、胸がちくりと痛む。悪いのは、止めなかったボクだ。
「パパスさん、ボクが――」
そう言いかけた瞬間、パパスさんは視線だけでボクを制した。その目は怒りではなく、何かを考え込むような色をしていた。
その夜、新しく仲間になったドラきちとスラリンは、サンチョさんの料理を夢中で食べていた。
「ぼっちゃん! そして坊ちゃんのお友達!! たくさんお食べください!」
リュカはそんな二人――いや、二匹を眺めながら、嬉しそうに笑っている。その笑顔を見て、ボクは思う。……よかった。本当に。
お風呂の後、リュカはあっという間に眠ってしまった。今日一日、気を張り続けていたのだろう。パパスさんのいない、初めての冒険。その疲れが一気に出たに違いない。
静かになった家の中で、ボクはパパスさんとサンチョさんと向き合った。
「ありがとう、ホイミン。リュカを見守ってくれて」
「ううん……勝手なことをして、ごめんなさい」
「いや……リュカには、重い運命があるんだろう」
「……そうだね。ボクは今まで勇者様やその仲間たちを見てきたけど、リュカには間違いなく、その流れがある」
パパスさんはボクの言葉にしばらく黙り込み、やがて静かに語り始めた。
「リュカの母さん、マーサはな……不思議な力を持っていた。リュカのように、魔物と心を通わせることができたんだ……そしてその力は、魔界にも通じるらしい」
胸がざわりとする。それが事実なら……。
「リュカにも……その力が?」
「分からない。だが、ホイミンと友達になれた。それだけでも、何かを持っている証だ」
その言葉にボクは思い出す。ダーマ神殿の記憶。魔物マスターという職業。そのことをパパスさんに話す。パパスさんの視線が変わった。
「……もしかしたら、生まれつきその素質を持っているのかも」
「そうか……」
パパスさんは目を閉じ、深く息を吸った。
「私はマーサを必ず助ける。マスタードラゴンに会いに行く間は、サンチョにリュカを任せる。その後は、リュカを――サンチョと、ホイミン。お前に任せたい。……いいか? ホイミンがリュカを見ていてくれれば、私は自由に動ける」
サンチョさんは力強くうなずいた。そしてボクは、迷いなく答えた。
「任せて。たとえリュカの命を狙う存在が、数千……数万現れたとしても――」
胸の奥から、言葉が溢れ出す。
「ボクが、必ず守り抜いてみせる」
眠るリュカの方を見やる。小さな寝息が、静かに部屋に響いていた。
――この子の未来のために。ボクは、癒しの呪文だけじゃない力を、リュカを守るために使うと、ここで誓った。
ルドマンさんはトルネコの
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子孫
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子孫じゃない