※ Ver.2.2 『穏やかな夜をよしとせず』のネタバレを含みます。
時系列的には原作開始前のお話です。
「──ト!!」
耳鳴りに紛れて、何かを必死に呼ぶ音だけが、やけに鮮明に届く。
「──クト! ──!!」
まぶたが重い。
無理やり持ち上げると、視界に誰かの影が落ち込んできた。逆光のせいか、輪郭が滲んでいて、うまく焦点が合わない。影は俺の顔を覗き込むようにして、必死な声で何度も何かを叫んでいる。
徐々に、身体の感覚が戻ってきた。
背中に硬い感触。冷たい地面。肺がうまく膨らまず、息を吸うたびに胸の奥が焼けるように痛む。
──どうやら俺は、どこかで仰向けに倒れているらしい。
「聞こえるか! アレクト!!」
その声に、少しだけ頷く。依然として視界は悪いままだが、朧気に翡翠色の髪が見える。
「ッ、オルフェウス!! アレクトが目を覚ました、応急処置の準備をしてくれ!」
何が起こっているのか、全く分からない。どうして俺はここにいるのか。どうして、こんなにも身体が重いのか。
「こ、こは……ッ、ゲホッ」
声を出そうとした途端、喉がひりつき、言葉が途中で崩れ落ちた。無理に息を吸い込んだせいで、激しく咳き込む。視界が白く弾け、頭の奥がぐらりと揺れた。
「っ、無理して喋るな。大丈夫だ、もうエーテリアスはいない。だから、今は落ち着いて息をしろ」
低く、切迫した声。
その声に導かれるように、俺は言われるがまま、浅く息を繰り返す。
ふと、違和感に気づいた。
視界が、妙に偏っている。彼女の姿が、片側だけやけに曖昧だ。目を動かしても、黒い染みのようなものが張り付いて離れない。
……なんだ、これ。
考えようとした瞬間、頭の奥で鈍い痛みが脈打ち、思考が霧散する。
代わりに、彼女が俺の身体に縋るように近づき、必死に何かをしているのが、ぼんやりと伝わってきた。
「アレクト、返事をしなくていい。聞こえているか」
コクリ、とかろうじて頷く。
同時に、彼女の手が忙しなく動くのが、ぼんやりと視界の端に映った。
俺の胸元、肩、腹部。何かを押さえ、何かを引き寄せ、何かを縛っている。たぶん、応急処置というやつだ。
「大丈夫だ。出血は……抑えられている。意識もある……」
落ち着け、と自分に言い聞かせているような調子だった。状態を何度も確認し、言葉を選び、震えを噛み殺している。
視界が、また暗くなる。
光と影の境目が溶けて、彼女の輪郭が滲んだ。
「……閉じるな。目を閉じるな、アレクト」
その様子を察知したのか、何度も声をかけられる。そうされる度、引き戻されるような気がした。
でも、身体が言うことを聞かない。重い。鉛みたいだ。
「すぐに後送する。だから、それまで――」
言葉が、途中で切れた。
俺の視界が、また一段暗くなる。音が遠ざかり、彼女の声も、水の底から聞いているみたいに歪んでいく。
ああ、まずい。
そう思ったはずなのに、焦りはなかった。ただ、重たい。まぶたが、どうしようもなく。
「アレクト」
名前を呼ばれる。
さっきよりも、ずっと近い声だ。彼女が顔を寄せているのが、ぼんやりと分かる。
「……聞こえているな。返事はいらない、だが……」
一瞬、言葉に詰まる気配。
それから、少しだけ声が低くなった。
「……目を、見てくれ」
見たい、と思った。
ちゃんと見て、答えたかった。だが、視界の半分はもう役に立たず、残った半分も、輪郭が溶け始めている。
それでも、必死に焦点を合わせようとする。
滲む視界の向こうで、彼女の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
いや、そう見えただけかもしれない。焦点が合っていないせいで、輪郭が崩れているだけなのだろう。
どうしてこんな状況になっているのか、まったく思い出せない。
それでも、何か取り返しのつかないことをしてしまった──そんな感覚だけが、妙に重く胸に残っていた。
「……すま、ない……」
掠れた声が、喉の奥から漏れる。
自分でも、何に対しての謝罪なのか分からない。ただ、そう言わずにはいられなかった。
それが届いたのかどうかは、分からない。
だが、次の瞬間、彼女の頭が小さく、けれど何度も横に振られるのが見えた。
「違う……謝るな」
低い声。
抑え込もうとしているせいか、どこか引っかかるような響きだった。
「君は……君は、正しいことをした。私が、判断を誤った……それだけだ」
違う、と言いたかった。だが、それを言うだけの余力はもう俺には無くて。
視界が、さらに狭まる。
光が、糸みたいに細くなって、千切れていって────
「……っ、だめだ、アレクト。だめだ──」
■
「……まぁ、思い出そうとしても、やっぱりここまでが限界か……」
ぽつりと、彼女には聞こえないように呟く。
それに被さるように、カチャ、ガチャと食器の触れ合う音が、衛非地区にある俺の家のリビングに小さく響いた。今まさに、俺が彼女──イゾルデさんのためにお茶を用意している音だ。
イゾルデさん。
現在は、防衛軍の大佐。
俺が防衛軍の対エーテリアス戦闘部隊、アガメムノン小隊に所属していた頃、俺と彼女、そしてオルフェウスさんは同期だったらしい。
──らしい、というのは、俺にはその頃の記憶が一切ないからだ。
つまるところ、記憶喪失。
オルフェウスさんに聞いた話では、俺はイゾルデさんを庇って負傷したらしい。
エーテリアスに殴り飛ばされそうになった彼女を突き飛ばし、その直後、代わりに俺が殴り飛ばされたのだとか。
近くのコンクリートに全身を叩きつけられ、その後は先程思い出そうとしていた記憶通りだ。イゾルデさんが必死に応急処置をしてくれたお陰で、何とか生きて帰って来れている。
……まぁ、生きて帰ってこれた代わりに、その衝撃でその時以前の記憶は全部消えてしまったし、左目にも深刻な損傷が入ったおかげで、もう右目しか機能していないのだが。
なので、戦闘ができる状態なんかでは無い今の俺は防衛軍を引退……というわけではなく、長期休暇中という扱いになっている。当初は俺をオルフェウス同様、クローンに身体を移すかという話もあったようだが、記憶喪失の影響で、銃の正しい持ち方すら覚えていない俺が戦力になれるはずもなく、今の形に落ち着いている、という訳で。
ともあれ、その俺をホロウ内から運び出してくれたイゾルデさんが、今こうして俺の家にいる。
俺が退院して以来、だいたい月に一度ほどの頻度で、大佐としての仕事も忙しいだろうに、わざわざ仕事の合間を縫って俺の家を訪ねてくるようになった。
もっとも、訪ねてきたところで、何か特別なことをするわけでもない。
多少の世間話を交わすことはある。
だが、それも最初の数分だけで、あとは無言になる。
大抵の場合──今もそうだが──イゾルデさんは、リビングの窓際に置かれた椅子に腰を下ろし、差し込む日光を肩口に受けながら、身体は室内に残したまま、視線と上半身だけをわずかに外へ預けるようにして、静かに海の方を眺めている。
そうして、ある程度時間が経つと、イゾルデさんはまた仕事へと帰っていく──というのがここ最近の流れになっていた。
俺の家が海の近くにあるせいか、室内に俺と彼女の二人がいるというのに、この空間を支配しているのは人の気配ではなく、絶え間ないさざ波の音だった。
……正直に言えば、俺としてはかなり気まずい。
今の俺にとって、イゾルデさんは『昔からの戦友』などではなく、せいぜい『俺の事情を知る上官』でしかない。
だが、当のイゾルデさんはといえば、そんな空気など意に介していない様子で、ただ静かに、その時間を受け入れているように見えた。
「お茶です」
「……」
「……イゾルデさん?」
「……あぁ、すまない。ありがとう」
名を呼ばれて、ハッとしたようにこちらへ顔を向ける。
差し出したカップを受け取り、何口か口をつけると、イゾルデさんは静かに机の上へ置いた。
俺も向かいの椅子に腰を下ろし、彼女と俺の間にある机へ、自分のカップをそっと置く。
再び、部屋にはさざ波の音だけが満ちた。
……だいたい、いつもこうだ。
俺がお茶やら菓子やらを用意し、この椅子に座って、ただ二人で海の音を聞き流す。それだけの時間。
イゾルデさんは「それで構わない」と言うが、やはり俺の方は落ち着かない。
……が、この日は、少しだけ違った。
「……そうだった。敬語は使わなくてもいいと言っただろう」
ふいに、そんなことを言われる。
「あぁ、そういえば前会った時にそんなこと言ってましたね……無理ですよ。今さらやめるのは、さすがに違和感が凄いです」
これは本当にどうにもならない。
いくら同期だったとしても、イゾルデさんは、どう足掻いてもイゾルデさんだ。立場や年齢の問題だけでなく、雰囲気から話し方まで、何もかもがこう……人間として格が違う気がする。
そんな風に思っていると、不意にイゾルデさんが笑う。俺が怪訝な表情をすると、イゾルデさんは口を開いた。
「……ふふ。君が敬語を使っているのを見ると、どうにも可笑しくてな。私と初めて会った時から、ずっとタメ語だった君がだ」
「可笑しくなりそうじゃなくて、もう笑ってるじゃないですか……」
ため息混じりに返すと、イゾルデさんはまた小さく笑った。
……俺、そんなにヤバい奴だったのだろうか。防衛軍という厳粛な場で、初対面でタメ口。
まあ、記憶喪失以前の俺については、いくら考えても仕方がない。思い出せない以上、推察するだけ無駄だ。
ひとしきり笑いが落ち着いた後、ふっと空気が変わった。
イゾルデさんの視線が、窓の外から、ゆっくりとこちらへ戻ってくる。
「……君は」
静かな声で、問いかけられる。
「アガメムノン小隊に入ったことを、後悔しているか?」
その言葉は、唐突ではあったが、不思議と違和感はなかった。
むしろ、平時のイゾルデさんのどこか憚るような様子を見て、いつか聞かれるだろうと思っていた問いだ。
「もし君が、アガメムノン小隊に入っていなければ……私を庇って記憶を失うことも、その片目を失うことも、無かったんだ」
「……後悔はしてませんよ」
少し考えてから、そう答えた。
「むしろ、生きてるだけ有難いと思ってます。聞く限り、相当な死闘だったみたいですし。オルフェウスさん──鬼火さんからも聞きました」
口に出してみると、思った以上に素直な言葉だった。
少なくとも、嘘ではない。
実感があるかと聞かれれば、正直よく分からない。
だが、こうしてここに座り、海の音を聞きながら茶を飲めている。その事実だけで、生き延びたのだという認識は、確かにあった。
もっとも──俺の中にある記憶の確かさには、いくつも穴が空いている。
記憶喪失とは言ったが、この世界がゲームの『ゼンレスゾーンゼロ』である、ということだけは覚えている。それも、まるで知識として残っているだけのような、奇妙な形で。
なぜか、それ以前の前世の記憶は一切ない。
自分がどんな人間だったのか、何をして生きてきたのか。そこだけが、すっぽりと抜け落ちている。
ただ、少なくとも初対面で年上相手にタメ口を使うような性格ではなかったはずだ。そう思う程度の感覚だけは、どこかに残っている。
だから俺は、考えてしまう。
アレクトという人物は本当はあの時に死んでいて、その抜け殻の中に、何かしらの形で今の自分が入り込んでいるのではないか、そんな仮説を。
もちろん、確証はない。
結局のところ、俺が記憶を取り戻すか何かしら進展がないと、真相はまだ何一つ分からないままだろう。
「そうか……」
俺の言葉を受けて、イゾルデさんはわずかに視線を落とした。
ほんの一瞬のことだったが、その目元に、薄く影が差したように見えた。
俺の持っている『ゼンレスゾーンゼロ』の記憶が正しければ──あの戦いは、アガメムノン小隊にとって「市民を救うため」の任務だった。少なくとも、アガメムノン小隊にとっては。
列車に取り残された市民を、エーテリアスから一人でも多く逃がす。司令官であるロレンツ少将は、確かにそう告げていた。そして小隊の全員が、その言葉を疑うことなく信じ、命を懸けて戦った。
……だが。
実際に、必死で守り抜いた列車の中に、市民は一人もなかった。そこに積まれていたのは、TOPSが取り残してしまった財産──ただそれだけだけだ。
列車は外へと運び出されたその一方で、アガメムノン小隊は大量のエーテリアスによって壊滅し、生き残ったのはイゾルデさんと、全身が満身創痍になったオルフェウスさんの二人。唯一原作と違うことといえば、俺の存在ぐらいだ。
もっとも、今のイゾルデさんも、列車に市民が乗っていなかったこと自体は、すでに突き止めている。
だが、その裏で糸を引いていたのが、ロレンツ少将とポーセルメックスのCEO──ルクローであることまでは、まだ辿り着いていないらしい。
そして、それを俺の口から明かすわけにはいかなかった。
もし告げてしまえば、確実に、イゾルデさんの内側で、かろうじて押さえ込まれている復讐の気持ちが、一気に燃え上がる。
そうなれば、原作と同じだ。ロレンツ少将とルクローを迷いなく殺し、そしてイゾルデさん自身も、どこかへ消えてしまうだろう。
そもそも、今の彼女を突き動かしているものは、ただ一つ。アガメムノン小隊を壊滅させた何者かへの復讐。
それ以外に、彼女を繋ぎ止めているものは、きっともう残っていない。
それだけは、避けなければならない。できることならイゾルデさんには、生きていてほしい。ただ、このまま俺が何もしなければ、イゾルデさんは原作通りの道を辿るだろう。
……もっとも、どうすればその歩みを止められるのかは、まだ分かっていないのだが。
現時点で俺にできるのは、せいぜい時間を稼ぐことぐらいだろうが、その方法すら、未だ手探りだ。
そんな風に俺の胸の奥には、微かに焦りと後悔がくすぶってるのにも関わらず、対照的にリビングには、波の音と窓から差し込む光だけが、静かに満ちていて。
「……あの後、君は一ヶ月も目を覚まさなかった」
その言葉が耳に届いた瞬間、反射的に肩がこわばった。
穏やかな声音だった。責める響きも、悲嘆を強調する抑揚もない。けれど、淡々としているからこそ、その事実の重さが、遅れて胸に沈み込んでくる。
目の前のイゾルデさんは、柔らかな表情を崩さないまま、こちらを見ている。
その穏やかさと、語られた内容との落差が、かえって俺の呼吸を浅くした。
「だから、こうして君と居るだけでも私にとっては喜ばしいことなんだ」
イゾルデさんは柔らかく微笑んだ。
その微笑みに、背筋をひんやりと刺すような罪悪感が走る。……この笑顔はたぶん、今の俺に向けられるべきものではない。そう感じた。
「……その言葉は、記憶を取り戻した俺に言ってあげてください」
少しだけ間を置き、俺はカップに視線を落とした。
立ち上る湯気の向こうに、ぼんやりと反射する自分の顔がある。どこか他人事のようで、実感が伴わない。言葉を選ぶふりをしながら、実際には覚悟を決めきれないまま、続きを口にする。
「今の俺は……イゾルデさんにとっては、何者でもないですから」
自嘲とも、言い訳ともつかない声だった。
言い終えた直後、胸の奥がきゅっと縮む。やってしまった、と思う。──この言葉が、イゾルデさんの望んでいるものではないと分かっていたからだ。
一瞬、空気が止まったように感じた。
イゾルデさんはすぐには言葉を返さなかった。
視線がわずかに揺れ、カップの縁に落ちる。その表情から柔らかさが消えたわけではない。だが、ほんの一瞬だけ、影のようなものが差し込んだのが分かった。
直後、イゾルデさんは小さく息を吸い、背筋を伸ばす。
感情が表に出る前に、内側で整え直すかのように。そうしてから、ようやく口を開き。
「……君がそう考えていたとしても」
視線は逸らされない。だが、真正面から射抜くわけでもなく、ただ静かに、そこに留められている。
「私は今、ここに君が居るだけでも充分なんだ、アレクト」
その言葉は強くもなく、押しつけがましくもなかった。
ただ、揺るがない事実を、そのまま置くような響きだった。
俺は何も言えず、ただ息を吸う。
湯気はいつの間にか薄れ、カップの表面は静かに冷え始めている。
その言葉に、どう反応すればいいのか。俺には分からない。
ただ、それでもさざ波の音は部屋に響き続けていた。
次回はオルフェウス回。