継ぐもの~クシノ理事の金継ぎ修繕録~   作:rairaibou(風)

1 / 5
1:英雄の繕い方

 カントー地方、ヤマブキシティ。

 連休の終日だからだろうか、ヤマブキシティの空は珍しく晴れ渡り、雲一つない快晴だった。ここにキマワリがいれば、いつもより早く動いたかもしれない。

 それでいて暑くもなく寒くもない、絶好の行楽日和であり、何より、趣味に没頭するには最高のコンディションと言えた。

 

 ドードーと共に自転車用スペースを走るバイシクルライダーを眺めた後に、カントー・ジョウトポケモンリーグ理事、クシノ=ヨウイチロウは、協会本部ビルの窓から広がるその青空を恨めしげに見上げた。

 

 もし今日が休日であれば、愛車の大型バイクを駆り、サイクリングロードの潮風を切り裂いてツーリングに出かけるのもよかっただろう。

 あるいはボードを積んで海岸へ向かえば、今日は最高の波に乗れるに違いない。

 インドアに徹するのも悪くない。自宅の防音室でヴィンテージ・ギターの弦を張り替え、心ゆくまで爪弾くのも一興だし、手製の果実酒の発酵具合を確かめ、新たなブレンドを試す時間も惜しい。

 足元で寝ているペルシアンの毛並みを、プロ顔負けの手際でトリミングしてやるのもいいだろう。

 

 

 バトル以外のことは大抵なんでもこなせるという自負が、皮肉にも彼の中に、今日できたはずの数多の豊かな時間の使い道を想起させ、現状の悲惨さを際立たせていた。

 

 クシノの視線が、窓の外からデスク上の端末へと戻る。

 

 

 彼の手は、スロットルでもピックでもトリミングシザーでもなく、無機質なキーボードを叩いていた。それも、優雅さとは程遠い、鬼のような形相で。

 

「あのバカタレがぁ」

 

 彼は奥歯を噛み締めながら、思い切りの悪態をついた。

 画面に映し出されているのは、珠玉の果実酒レシピなどではない。『ガラル地方ポケモンリーグ委員会宛 公式謝罪文』という、無味乾燥かつ屈辱的な文書だ。

 

 

 事の発端は、カントー・ジョウトリーグを代表してガラルへ派遣されていた、一人の所属トレーナー、モモナリにある。

 彼は今回、ガラル地方の現チャンピオン、ダンデとのエキシビションマッチという大役を任されていた。試合は素晴らしいものだったと聞いている。勝敗はともかく、観客を熱狂させた名勝負だったと。

 問題は、その数日後だ。

 すべての公務を終え、帰国する直前のオフ日。彼はシュートシティの市街地で警察沙汰を起こした。

 

『市街地における野生ポケモンとの過度な戦闘行為、ならびに危険な追走劇』。

 

 報告によれば、モモナリは野生のベロバーに持ち物をすられたと主張し、そのポケモンを追って繁華街を疾走。あろうことか、一般市民が行き交う大通りで手持ちポケモンを展開し、本気の捕獲劇を繰り広げたという。おかげでシュートシティの一角は、局地的な『すなあらし』に見舞われ、交通網が麻痺したらしい。

 

 だが、クシノは報告書には書かれていない真実を、痛いほど理解していた。

 

 

 モモナリの実力はクシノ自身が誰よりも評価している。あのダンデと渡り合える男が、たかがベロバー一匹の確保に手間取るはずがない。本気を出せば『すなあらし』など起こす前に一瞬で制圧できただろうし、そもそも持ち物をすられるような隙を見せるとも思えない。

 

 

 つまり、嘘だ。

 

 おそらく、そのベロバーが妙にバトル慣れしていたか、あるいは珍しい技を使ってみせたのだろう。

 モモナリの悪い癖だ。強そうな相手、面白そうな相手を見つけると、場所も状況もわきまえずに試してみたくなる。持ち物云々は、公衆の面前で全力のバトルを仕掛けるための、ただの口実に過ぎない。

 

 クシノは大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに体を預けた。

 三十路を過ぎてなお、バトルの衝動だけで生きられるその純粋さが、クシノにはどうしようもなく眩しく、そして少しだけ羨ましかった。

 かつては自分もそちら側にいた。だが、才能の限界を知り、こうして空調の効いた部屋で数字と文字を管理する道を選んだ。

 

 仮に真実を暴こうとしたところで、それは叶わないだろう。

 モモナリと自分との間には、トレーナーとしての圧倒的な武力の差がある。何より、あの男は現代では数少ない、武力と暴力を潜在的な交渉の手段として扱うことに躊躇のない人間なのだから。

 

 いざとなれば力でねじ伏せてくる相手を前に、正論など意味をなさない。ならば、あえてその稚拙な嘘に乗っかってやるのが、かつての戦友としての、そして今は管理する側としての生存戦略なのだ。

 友人の自由を、自身の不自由で買い支える。それが、クシノ=ヨウイチロウという男の選んだ生き方だった。

 

 始末書だけは絶対に書かせてやる。

 

 そう自分に言い聞かせ、少しだけ苦い感情と共にエンターキーを叩き、謝罪文の末尾を締めくくった。

 その時だった。

 デスクの隅に置かれた携帯端末が不吉な振動音を立てた。

 

 液晶画面に表示された『モモナリ』という名前を見て、クシノはこめかみの血管が脈打つのを自覚した。

 

 諸悪の根源であり、彼の平穏を脅かす台風の目だ。

 

 

 携帯端末をデスクの引き出しに放り込み、無視をしてしまいたい衝動に駆られる。だが、それはできない。

 

 

 モモナリという男は、季節の挨拶や世間話のために電話をかけてくるような殊勝な性格ではないからだ。彼からの着信は、常に緊急事態の発生か、あるいはこれから発生するトラブルへの予告のどちらかであると相場が決まっている。

 ここで無視をすれば、数時間後にニュース速報で彼の名前を聞く羽目になるかもしれない。

 

 クシノは数秒のためらいの末、世界の平和のために覚悟を決めて通話ボタンをスワイプした。

 

「もしもし」

『やあ、どうも。今暇か?』

 

 端末から響いてきたのは、先ほどまで彼が書いていた謝罪文の内容など露知らずといった様子の、爽やかでフラットな標準語だった。

 そのあまりの能天気さに、クシノの眉間に深い皺が刻まれる。

 

「暇やない」

 

 彼はあえて間を置き、精一杯の皮肉を込めて問い返した。

 

「なんでやと思う?」

 

 目の前の謝罪文が見えていないのかと言いたくなるのを堪え、少しは察しろと無言の圧をかける。

 だが、端末の向こうの友人は、そんなクシノの鬱屈になど興味がないようだった。

 

「ん? まあ、理事様は忙しいってことかな。でさ、ちょっと聞きたいんだけど」

 

 その言葉に、クシノは重い溜息を吐き出した。やはり、この男にデリカシーや察しを求めるだけ無駄だったようだ。こいつは本当に気づいていない。

 モモナリは悪びれる様子もなく、本題を切り出した。

 

「あれできたよな? ほら、割れたボングリを金で直すやつ」

「はあ?」

 

 あまりに雑な表現に、クシノは毒気を抜かれたような声を漏らす。

 

「ボングリて。もしかして、『金継ぎ』のこと言うてんのか」

「ああ、それそれ。キンツギ」

 

 まるで初めて聞く単語のように、モモナリが繰り返す。

 どうやら彼は、クシノの趣味について正確な知識など持ち合わせていないらしい。ただなんか直せる程度の認識なのだろう。もしかしたら、バトル以外は何でもできるという認識なのかもしれないが。

 

「それがどないしてん」

「実は友達がさ、ボールが壊れて困ってたんだよ。メーカーにも修理は無理だって断られたらしくてね。お前なら直せそうだなと思って」

「あのな」

 

 クシノは疲労を隠そうともせずに告げた。

 

「僕かて暇やない言うたやろ。今もこうして仕事が」

「わかってる。そう言うと思って、もう君のオフィスに向かわせたよ」

「はい?」

 

 クシノの思考が完全に停止した。部屋に重苦しい沈黙が落ち、彼は掠れた声で問い返すのが精一杯だった。

 今、こいつは何と言った。

 

「じゃ、今からバトルするから。後はよろしくね」

 

 プツン。

 こちらの返答はおろか、拒絶の隙さえ与えず、通話は一方的に遮断された。

 

「バトルて。お前、まだ戦い足りんのか」

 

 クシノは黒い画面になった携帯端末を呆然と見つめ、がっくりと項垂れた。

 ガラルでの騒動の直後だというのに、もう次の戦場へ向かっているのか。あの男の辞書に『反省』や『自粛』という文字は載っていないらしい。後は『疲労』もないだろう。

 クシノは冷めたコーヒーを飲み干し、深く息を吐いた。

 

「しゃあないか」

 

 誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟く。

 これは、彼自身が選んだ道であり、背負った十字架だ。

 初代担当理事が昇格した後の、その役目を引き継いだ『二代目モモナリ担当理事』としての、逃れられない宿命なのだから。

 

 モモナリの言う友人だ。

 どうせまた、どこかの地方で知り合ったバトル中毒の荒くれ者か、理屈っぽい偏屈なマニアを寄越したのだろう。あの男の周囲に、まともな人間がいた試しがない。

 適当に話を聞いて、在庫のハイパーボールでも一つ渡して帰ってもらおう。それが一番効率的だ。

 

 直後、デスクのインターホンが鳴った。

 

『理事、アポイントなしのお客様なんですが、どうしてもとおっしゃってまして』

 

 秘書の困惑した声に、クシノは、ああやっぱりかと諦めの境地で答える。

 

「ええよ。僕の友人の紹介やろ。通して」

 

 クシノは深々と椅子に座り直し、ネクタイを整えて理事の顔を作った。

 重厚な扉が開く。

 クシノは手元の書類から顔を上げ、事務的な愛想笑いを浮かべかけた。

 

「どうも、お待たせしまし──」

 

 言葉は、喉の奥で凍りついた。

 

 そこに立っていたのは、場末のチンピラトレーナーでも、偏屈なマニアでもなかった。

 燃えるような赤い髪。鋭い眼光。

 かつて同じリーグで競い合い、そして遥か高みへと登り詰めた男。

 

「すまない。急に押しかけてしまって。クシノ君の執務室はここで間違いないだろうか」

 

 黒のフォーマルなスーツに身を包み、まるでサイズの合わない鎧でも着ているかのような、ひどく窮屈そうな姿の男が立っていた。

 その体から滲み出る、隠しきれない威圧感と、場違いなほどの緊張感。

 カントー・ジョウトの誰もが知る、生ける伝説。

 

 殿堂入りトレーナー、ワタルだ。

 

 クシノの思考が一瞬で白く染まる。

 かつては同僚だったかもしれない。式典やパーティですれ違い、言葉を交わしたこともある。だが今の自分はただの協会理事で、相手は歴史に名を刻む英雄だ。住む世界が違いすぎる。

 

 モモナリめ、お前の言う友人の基準はどうなっているんだ。

 

 クシノは裏返りそうな声を必死に押し殺し、椅子から立ち上がった。

 

「い、いらっしゃいませ」

 

 

 最高級の茶葉で淹れた紅茶も、この場においては気休めにもならないようだった。

 革張りのソファに浅く腰掛けたワタルは、借りてきた猫のように背筋を伸ばし、しきりにネクタイの結び目を気にしている。

 クシノは向かいの席で、脂汗を拭いながら内心で頭を抱えていた。

 なぜ、殿堂入りトレーナーであるワタルがここにいるのか。そしてなぜ、こんなにもガチガチに緊張しているのか。

 

「久しぶりだな、クシノ君。リーグの総会以来だろうか」

「はい。ご無沙汰しております。今日はどのようなご用件で」

 

 恐る恐る尋ねると、ワタルは意を決したように懐から何かを取り出し、テーブルの上に置いた。

 ゴトリ、と重く、それでいて乾いた音が響く。

 それは、一個のハイパーボールだった。

 

 否、モンスターボールがポケモンを携帯するものだと仮定するのであれば、それは『ハイパーボールだったもの』だろう。

 

 その状態は惨憺たるものだった。黒と黄色のコーティングは加水分解でベタつき、あるいは剥げ落ち、表面には無数の細かい亀裂が走っている。辛うじて形を保っているのが不思議なほどだ。

 

「これは」

 

 クシノは言葉を失った。

 

「カイリューを戻そうとした時だ。何の前触れもなく、手の中で砕けた」

 

 ワタルが苦渋の表情で語る。

 

 

 相手の攻撃を受けたわけでも、落としたわけでもない。ただ、長年の使用に耐えてきた素材が、ついに限界を迎えて崩れ落ちたのだ。いわば、寿命。

 クシノはボールを手に取り、職業人としての目で観察した。

 酷いものだ。外殻の強度は完全に死んでいる。

 彼はボールをテーブルに戻し、静かに告げた。

 

「ワタルさん、はっきり言わせてもらいます。これはもう、限界を超えています」

 

 クシノは淡々と、しかし厳格に事実を並べた。

 

「ガワの素材が劣化しきっています。噛み合わせも歪んでいる。仮に表面を直したとしても、強度は戻りません。いつまた砕けるか分からないし、最悪の場合、何が起きてもおかしくない。ポケモンのためにも、新しいものに買い換えるべきです。今なら最新の特注品をすぐに手配できますよ」

 

 それが正論だった。トレーナーとして、管理職として、それ以外の答えはない。

 だが、ワタルは首を横に振った。

 

「分かっている。だが、それはできない」

「なぜです? 危険ですよ」

「このボールは」

 

 ワタルは何かを言いかけて口をつぐんだ。視線が宙を彷徨い、またテーブルの上の残骸へと戻る。

 沈黙が落ち、秒針の音だけが部屋に響く。

 

「いや、なんでもない。だが、これでないといけないんだ」

 

 理由は語らない。

 

 しかし、その瞳には、理屈では説明できない執着と、切実さが宿っていた。

 単なる愛着ではない。もっと重く、深い何かがそこにあることを、元トレーナーであるクシノは直感する。道具はただの道具ではない。共に戦い、共に歩んだ時間の証人なのだ。

 

 クシノは重い息を吐き出し、天井を仰いだ。

 こうなれば、もう理事としての正論など通じない。

 そういうものだ、ポケモントレーナーというものは、強いということは。

 

「しゃあないなぁ」

 

 クシノは地元の言葉を漏らし、ボールを手に取り直した。

 

「分かりました。お引き受けします」

「本当か!?」

 

 ワタルの顔がぱっと輝く。

 

「ただし、条件があります」

 

 クシノは人差し指を立てて、少しだけ悪戯っぽく笑った。

 

「一つ、一切の保証はしません。直した直後に壊れても文句は言わないでください。あくまで延命措置です」

「ああ、構わない」

「二つ、作業は見せられません。終わるまで連絡もしないでください」

「なぜだ?」

「私は本職の職人やないんです。あくまで趣味。そんな手際を英雄に見られるのは、恥ずかしいですし、急かされても困る」

 

 そう言って肩をすくめる。

 

「そして三つ目。数ヶ月はかかりますよ。金継ぎというのは、そういうもんです」

 

 数ヶ月。

 それはトレーナーにとって、決して短くない時間だ。だがワタルは迷わず頷いた。

 

「構わない。恩に着る、クシノ君」

「よろしい。では、お預かりします」

 

 こうして、クシノとワタルの、奇妙で長い秘密の契約が結ばれた。

 

 

 すべての残務処理を終え、ヤマブキシティの高級マンションに帰り着いた頃には、日付はとうに変わっていた。

 エレベーターの鏡に映る自分は、まるでゴーストタイプに精気を吸い取られたかのような顔色をしている。

 モモナリという災害の後始末は、いつだって精神をやすりで削られるような作業だ。各方面への根回し、広報との擦り合わせ、そしてモモナリに書かせる始末書の作成。

 クシノは重い足取りで玄関のロックを解除し、自室へと滑り込んだ。

 

「ただいま」

 

 返事を期待せずに呟いた言葉だったが、リビングの明かりはついていた。

 ソファに体を沈めようとした瞬間、背後から伸びてきたしなやかな腕が、彼の首に柔らかく、しかし力強く巻きつく。

 

「おかえりなさい。大変だったみたいね」

 

 耳元で囁かれた声に、クシノは全身の力を抜いてその温もりに身を預ける。

 

 妻のアヤカだ。

 

 

 カントー・ジョウトリーグに所属する現役のAリーガーであり、今シーズンも好成績を維持している実力者である。

 深夜だというのに、彼女はまだ起きていたらしい。あるいは、対戦相手の研究か、トレーニングのビデオチェックでもしていたのだろう。

 クシノは首に回された腕を軽く叩き、苦笑交じりに答える。

 

「耳が早いわ。またニュースになっとったか」

「トレーナー界隈の噂なんて、光の速さよ。特にあの人のことはね。良くも悪くも、みんなが注目してる人だから」

 

 アヤカはクシノを解放すると、キッチンへ向かい、手際よくミネラルウォーターをグラスに注いで渡してくれた。

 クシノはそれを一息に飲み干し、人心地つく。

 プロのトレーナーである彼女にとって、協会理事である夫の苦労は、裏側の事情として痛いほど理解できるのだろう。その無言の労りが、ささくれ立ったクシノの神経を少しだけ鎮めてくれた。

 

 ふと、クシノの脳裏に、昼間のワタルとの会話が蘇る。

 彼はグラスをテーブルに置き、キッチンに立つ妻の背中に問いかけた。

 

「なぁ、アヤカ。ちょっと聞きたいんやけど」

「なに?」

「君は、ボールをどれくらいの頻度で変える?」

 

 アヤカは振り返り、きょとんとした顔で即答した。

 

「一年ごとよ。シーズンオフに手持ちの分は全部新品に入れ替えるわ」

 

 迷いのない答えだった。

 

「やっぱり、そうか」

「当たり前じゃない。もし試合中にボールの経年劣化でトラブルが起きて、正常にポケモンが出せなかったりしたらどうするの? それが原因で負けたら、対戦相手にも、何より戦ってくれたポケモンにも失礼でしょう。道具の管理を含めて、万全の準備をするのがプロよ」

 

 正論だ。

 管理者としても、元リーグトレーナーとしても、彼女の意見はあまりに健全で、ぐうの音も出ないほど正しい。

 現代のポケモンリーグは、厳格なルールとスポーツマンシップで成り立っている。道具への過度な執着が、競技の公平性や安全性を損なうことは許されない。

 

「せやな。それが正しいわ」

「どうしたの? 急に」

「いや、だとしたら、いつまでも同じボールを使い続ける理由は、なんやと思う?」

 

 クシノの問いに、アヤカは少し考え込むように視線を天井に向けた。

 

「さあね。普通に、思い入れがあるとかじゃない?」

 

 彼女はそう軽く答えてから、苦笑混じりに肩をすくめた。

 

「でも、いるわよね。そういう人。いわゆる『チャンピオンロード世代』の人たちって、そういうところあるじゃない。道具に魂が宿るとか、馴染んだものじゃないと力が出ないとか。私たちとは、見ている景色が少し違うのかもしれないわね」

 

 チャンピオンロード世代。

 リーグのシステムが今ほど整備される前、過酷な野山を越え、己の身一つで道を切り拓いてきた荒々しい時代のトレーナーたち。

 クシノは納得したように頷いた。

 ワタルは、まさにその象徴だ。

 

「ありがとう。参考になったわ」

「どういたしまして。仕事?」

「いや、趣味や。少し、書斎に籠るわ」

 

 クシノが立ち上がると、アヤカは「ほどほどにね」と、呆れたような、それでいて愛おしむような視線で彼を送り出した。

 

 

 書斎兼工房として使っている防音室に入ると、クシノは重い空気を纏ったスーツを脱ぎ捨て、使い古した作務衣に袖を通した。

 理事・クシノヨウイチロウから、ただの職人へとスイッチを切り替える儀式だ。

 作業机のライトを点け、ルーペを装着する。

 机上には、預かったハイパーボールの残骸が並べられていた。

 

 改めて見ると、その損傷具合に息を呑む。

 クシノはピンセットでヒンジの金具部分を摘まみ上げ、ライトの光にかざした。そこには、製造時に刻印された極小のシリアルナンバーが残っている。

 彼は手元の端末を操作し、その番号をデータベースと照合した。

 表示された製造年は、クシノの予想を遥かに超えていた。

 

「嘘やろ。この型番、まだ現役やったんか」

 

 具体的な数字を見て、クシノは絶句した。

 アヤカは一年で変えると言った。それが現代の常識だ。

 だが、このボールは違う。

 ポケモンリーグの歴史の教科書に載るような、遥か昔の年代。まだカントーとジョウトのリーグが統合される前か、あるいはその直後か。

 ワタルは、アヤカが言う失礼になるリスクを背負ってでも、何十年もの間、一度も買い換えず、激戦の最前線でこのボールを使い続けてきたのだ。

 

 クシノは破片の一つ一つを、まるで宝石でも扱うかのように慎重に検分した。

 内側からの衝撃傷は少ない。

 代わりに目立つのは、外側から内部へと向かう、微細な圧力による歪みだ。

 握りしめられた痕跡。

 尤も、人間が握った程度で破損するほどハイパーボールは脆くはない。

 勝利の歓喜に震える手で、あるいは敗北の悔しさに爪を立てる手で、幾度となく握りしめられたことによる、金属疲労の蓄積。

 

「よう保ったな、お前」

 

 それは単なる工業製品への感想ではなく、戦場を生き抜いた老兵への敬意に近い呟きだった。

 新品に変えれば済む話だ。性能も安全性も、そのほうが遥かに高い。何より、もはやインフラの一部となっているモンスターボールだ。コストパフォーマンスの観点からもそれが一番いいに決まってる。

 だが、この傷だらけの破片には、新品には決して宿らない時間が染み付いている。

 ワタルがこれでないといけないと言った意味が、理屈ではなく、肌感覚として理解できた気がした。

 

 クシノは小さく息を吐き、棚から道具を取り出す。

 穀物を挽いた粉と、ガラス瓶に入った粘りのある茶褐色の樹液。

 

 

 最新の化学合成接着剤なら一瞬で終わる作業だ。だが、ガチガチに固まるだけの化学糊では、激しいバトルの衝撃や、使用時のわずかな歪みに耐えられず、すぐにまた悲鳴を上げるだろう。

 対して、穀物のデンプンと樹液を練り合わせたこの天然の接着剤は、乾燥してもなお、木の呼吸のような『柔軟な粘り』を持ち続ける。

 使い続けるには、この方法こそが合理的であることを、クシノはモンスターボール職人であるガンテツから耳にタコができるほど聞いていた。

 老朽化したボールの素材と馴染み、衝撃を逃がすには、太古から続くこの原始的で有機的な手順こそが、工学的にも最も理に適っているのだ。

 

 小皿の上で、ヘラを使って粉と樹液を練り合わせる。

 ねっとりとした感触と共に、樹液特有の、甘く、どこか森の土のような香りが部屋に満ちていく。

 静かな夜だ。

 モモナリの騒動も、協会の喧騒も、今は遠い。

 クシノはただ、目の前の傷と向き合い、時間を繋ぎ合わせる作業に没頭していった。

 

 

 クシノは練り上げた茶褐色のペーストをヘラの先に少量取り、割れたハイパーボールの断面へと乗せた。

 

 塗りすぎれば接合面が浮き、少なければ強度が落ちる。コンマ数ミリの厚みで均一に伸ばしていく作業は、理事としてのデスクワークで使う脳の部位とは全く異なる場所を酷使するようだった。

 

 すべての断面に樹液の糊を塗り終えると、彼は破片同士を慎重に噛み合わせた。

 カチリという硬質な音ではなく、ヌフという湿った感触と共に、ボールが元の球体へと戻っていく。

 はみ出した糊を綿棒で拭い取り、マスキングテープできつく縛り上げる。

 その姿は、包帯を巻かれた重傷患者のようにも見えた。だが、今のボールに必要なのは、見た目の美しさではなく、傷口を塞ぐための絶対的な安静だ。

 

 クシノは作業台の脇に用意していた木箱の蓋を開けた。

 室と呼ばれるその箱の中には、濡らした布が敷かれており、湿度計の針は八十パーセント近くを指している。乾燥させるために湿気を与えるという矛盾こそが、樹液を硬化させるための要だ。

 

 クシノはテープでぐるぐる巻きにされたボールを、湿った箱の中へと恭しく安置した。

 

「おやすみ」

 

 彼は箱の中の小さな球体に、子供に言い聞かせるような優しい声色で語りかけた。

 

「久しぶりの、いや、初めての休みや、しばらくゆっくりしぃや」

 

 製造から数十年。ワタルの腰で揺れ、幾多の戦場を駆け抜け、最強のポケモンの家として張り詰め続けてきたこのボールにとって、これほど長く、何の役目も負わずに眠れる時間は初めてのことだろう。

 

 クシノはボールが安らかな眠りについたのを見届けてから、静かに木箱の蓋を閉じた。

 これから数週間、樹液が芯まで固まるのを待つ日々が始まる。

 

 作業を終えたクシノは、心地よい疲労感と共に椅子に沈み込んだ。

 肩の関節がパキリと鳴る。

 彼は一息つくと、部屋の隅にある小型冷蔵庫を開け、ラベルのない透明なボトルを取り出した。

 中に入っているのは、彼が経営する農園で開発を進めている、自社ブランド製の果実酒の試作品だ。特定の木の実を漬け込み、長期熟成させることで、芳醇な香りと深い味わいを引き出しつつ、ポケモンの体力や状態の回復を両立させることを目標としている。

 

 彼はグラスに少量の液体を注ぎ、光にかざして色味を確認してから、口に含んだ。

 舌の上で転がし、鼻に抜ける香りを吟味する。

 

「酸味がまだ尖っとるな」

 

 彼は独りごちて、苦笑した。

 香りは悪くないが、後味に未熟な角がある。まろやかさが足りない。

 熟成不足だ。

 この酒が完成するには、まだ樽の中で眠る時間が必要なのだろう。

 

 クシノはグラスを持ったまま工房を出て、リビングへと向かった。

 部屋は静まり返り、明かりは消されている。

 寝室のドアは閉ざされている。プロのアスリートであるアヤカにとって、睡眠もまた重要なトレーニングの一環だ。明日の練習に備え、すでに深い眠りについているのだろう。

 起こさないように忍び足で歩きながら、クシノは窓の外に視線を投げた。

 

 雨に煙るヤマブキシティの夜景は、ぼんやりと滲んで見える。

 

 木箱の中で眠るボールと、ボトルの中で眠る果実酒。そして、寝室で眠る妻。

 どれも、今の自分にできることはもう何もない。ただ時間を信じ、待つことだけだ。

 だが、その焦れったいほどの非効率さが、効率化の波に揉まれる現代の生活においては、贅沢な時間のように思えた。

 彼ら、もしくは彼女らにとっては、立ち止まることは停滞ではないのだ、自分とは違って。

 

「さて、気長に待つとするか」

 

 クシノはグラスに残った未熟な酒を飲み干し、静かに目を閉じた。

 暗闇の中に、樹液の甘く湿った香りが、かすかに残っていた。

 

 

 カントー・ジョウトポケモンリーグ協会本部、理事執務室。

 重厚な防音扉は内側から施錠され、窓のブラインドはすべて下ろされている。

 密室と化したその部屋に、カリカリカリ、というペンの走る音だけが空虚に響いていた。

 

「なあ、そろそろ許してくれよ。僕の権利を人質に取るなんて、駄文だけど、良くないやつだよこれ」

 

 執務机に向かわされている男、モモナリが、不器用にペンを回しながら甘えたような声を上げた。

 全く持って、普通の男だ。その実態が、各地で災害級のトラブルを巻き起こす生ける台風だとは、誰も思うまい。

 

「お前が帰ってきてすぐに素直に出頭してれば済んだ話や」

 

 クシノは腕組みをして、デスクの前で仁王立ちになっていた。

 

 今回、彼は伝家の宝刀を抜いた。

 

 

 公式戦出場権の無期限凍結、およびトレーナーライセンスの一時停止。

 理事としての行政権限をフル活用し、物理的にではなく社会的に彼を拘束したのだ。バトル中毒のモモナリにとって、ライセンスの停止は酸素を止められるに等しい。

 

 

 もちろん、モモナリの実力と手持ちポケモンの破壊力をもってすれば、こんな執務室の壁など紙細工のように破れるし、警備員など準備運動にもならないだろう。

 だが、彼はそれをしない。

 指名手配犯になってまで逃げ回る手続きの煩雑さを嫌ったか、あるいは、これ以上クシノの堪忍袋の緒を引きちぎることへの懸念か。

 意外にも彼は、殊勝におとなしく座っていた。

 

「書き終わるまで一歩も出さんし、水の一滴もやらんぞ」

「鬼だねえ。せめてコーヒーくらいは淹れてくれてもいいじゃないか」

 

 モモナリはふう、と芝居がかった溜息をつき、書き損じた始末書を丸めてゴミ箱へ投げ入れた。

 そして、ふと思い出したように視線を上げた。

 

「そういえば、進んでる? 僕が回したワタルさんの件」

「ああ、難航しとるわ」

 

 クシノは眉間を揉んだ。

 

「ほんま、厄介な案件を回してくれたもんや」

「ははは。でも、お前なら断らないと思ったよ」

 

 モモナリは椅子に背を預け、天井を仰ぎながら独り言のように続けた。

 

「汲んでやってよ、あの人の歴史を」

「歴史?」

「そう。あんな人だけど、ワタルさんは『伝統にうるさいドラゴン使いの一族』の中では、かなり近代的な人なんだ」

 

 モモナリの口から語られたのは、意外な評だった。

 フスベシティのドラゴン使い一族。

 独自の修行法と伝統を守り、頑なに閉鎖的なコミュニティを維持する彼らは、道具においても保守的だ。現代の量産品よりも、職人が手作業で作るボングリの実から作られたボールに至上の価値を置く者が多い。

 

「一族の反対を押し切ってポケモンリーグに参戦したり、普通はボングリのボールに拘るところを、彼はさっさとハイパーボールを使ったり。そういう新しいもの好きなところがあるんだ」

 

 モモナリは、あくまで事実としてそれを口にした。

 意外だね、と笑うその表情には、そこにあるはずの深い矛盾や、ワタルの内面にある葛藤への興味は薄いようだった。彼にとってそれは単なる世間話の一つに過ぎない。

 だが、クシノにとっては、それは暗闇に差す一条の光だった。

 

 ドラゴン使いの一族でありながら、近代的なポケモンリーグという競技の世界へ身を投じた男。

 伝統の象徴であるボングリを捨て、科学の結晶であるハイパーボールを手に取った改革者。

 

 変革の証。

 ならばなおさら、疑問は深まる。

 過去を捨て、未来を選んだはずの男が、なぜ今になって、ボロボロになった過去の残骸に縋り付いているのか。

 

 

 ヤマブキシティは本格的な梅雨に入っていた。

 連日降り続く雨は、都市の喧騒を湿った幕で覆い隠す。一般人にとっては鬱陶しい季節だが、漆を扱う職人にとっては恵みの雨だ。適度な湿度は漆の硬化を助け、その艶を深めるからだ。

 

 クシノは帰宅後の短い時間を、地味で根気のいる作業に費やしていた。

 

 

 工程は『中塗り』へと進んでいる。

 

 

 接着した継ぎ目の段差を埋めるため、砥の粉と樹液を混ぜたパテ――錆漆を塗り、乾かし、それを水で濡らした炭や耐水ペーパーで研ぐ。

 平滑な面が出るまで、塗っては研ぎ、塗っては研ぐ。

 派手な金粉を蒔くのは最後の最後だ。今はただ、黒く濁った樹液を重ね、傷跡を埋めていく時間に過ぎない。

 

 作業台の上のハイパーボールは今、継ぎ目が黒く浮き上がり、まるでつぎはぎだらけの無骨な泥団子のような姿をしている。

 クシノは耐水ペーパーを動かしながら、昼間のモモナリの言葉を反芻していた。

 

『ワタルさんは、かなり近代的な人なんだ』

 

 伝統あるドラゴン使いの一族において、あえて最新鋭の工業製品を選んだ男。

 ならば、このボールは彼にとって「過去の遺物」ではなく、かつて彼が未来を切り開くために選んだ「革新の武器」だったはずだ。

 だが、革新とは常に更新されていくものだ。

 最新が旧式になり、より優れた技術が現れれば、合理的な人間は迷わずそちらを選ぶ。それが「近代的」であるということだ。

 なのに、なぜ彼はこの「旧式」を捨てないのか。

 

 指先の感覚だけでミクロン単位の段差を探りながら、クシノは漆黒の傷跡を見つめた。

 答えはまだ、黒い樹液の下に沈んでいる。

 

 

 その矛盾が決定的な形となってクシノの前に現れたのは、それから数日後のことだった。

 協会本部の職員休憩室。

 昼食を摂っていたクシノの耳に、テレビから興奮した実況アナウンサーの声が飛び込んできた。

 

『強い、強い! 今日もワタル選手、圧倒的な制圧力です! これで公式戦、危なげなく三連勝!』

 

 クシノは箸を止め、壁に掛けられたモニターを見上げた。

 スポーツニュースの特集だ。画面の中では、ワタルがカイリューと共に相手ポケモンを薙ぎ払うシーンがハイライトで流されている。

 その動きは、以前見た時よりも明らかに鋭かった。

 指示出しのタイミング、ポケモンの反応速度、そして技の連携。全てにおいて迷いがない。全盛期、あるいはそれ以上の完成度だと言ってもいい。

 

 そして、クシノの目は逃さなかった。

 指示を飛ばすワタルの腰、そのベルトホルダーに装着されているものを。

 スタジオの照明を反射してピカピカに輝く、卸したての新品のハイパーボール。

 

『解説のシバさん、今期のワタル選手の好調の要因はどこにあると思われますか?』

『うむ!!』

 

 画面の中の四天王シバが、岩のような筋肉を誇示するように腕を組み、力強く頷いた。

 

『気合だ!! 己の軟弱な精神を捨て去り、筋肉と魂が宇宙と一つになったのだ! それ以外にない!!』

『は、はあ……なるほど、気合ですか』

 

 アナウンサーが困惑した笑みを浮かべている。

 クシノは冷めたコーヒーを一口啜り、呆れたように息を吐いた。相変わらず解説になっていない解説だが、ワタルの強さが本物であることだけは伝わってくる。

 

「やっぱり、新しい方が強いやんか」

 

 クシノは独りごちた。

 結果が全てを証明している。

 新品のハイパーボールには、ヒンジのガタつきも、ロック機構の摩耗による不安もない。道具としての信頼性が高まれば、トレーナーが競技に集中できるのは当然だ。

 あのボロボロのボールは、今の彼にとってプラスになるどころか、明確な枷になっていたのだ。

 

 合理性を重んじる『近代的』な彼なら、この結果を見て満足するはずだ。修理が終わったとしても、それを棚に飾り、このまま新品を使い続けるのが正解だと判断するだろう。

 

 だが、クシノの長年の勘が告げている。

 あの男は、そうしない。

 新品で勝てることを証明してもなお、彼はあの黒塗りのボールの帰還を待っている。

 

 なぜだ。

 勝つために最新を選んだ男が、なぜ勝てる最新を捨ててまで、負けのリスクを背負う。

 モニターの中で歓声に応える英雄の笑顔は、一点の曇りもなく晴れやかで、だからこそ、クシノにはその輝きが、どこか不可解なものに映った。

 

 

 ヤマブキシティの裏路地、雑居ビルの地下一階。

 看板すら出ていない重厚なオーク材の扉を押し開けると、紫煙と紫檀の香りが混じり合った大人の空気が漂ってくる。

 バー『ナイト・シェイド』。

 クシノが個人的に出資し、オーナー権を持っているこの隠れ家は、彼の農園で開発された「きのみ」を用いた果実酒やカクテルを、市場に出す前に試験的に提供する実験場でもあった。

 

 カウンターの隅で、クシノは赤黒い粘度のある液体が入ったロックグラスを静かに揺らしていた。

 試作品の『イバン・ブランデー』。

 ピンチの時に瞬発力を早めるという希少な「イバンのみ」を贅沢に使い、長期熟成させたスピリッツだ。

 

「……甘すぎるな。後味が重いわ」

 

 クシノは顔をしかめ、グラスを置いた。

 口に含んだ瞬間に広がるのは、熟れすぎた果実が腐り落ちる寸前のような、退廃的で濃厚な甘みだ。それは舌にべっとりと絡みつき、いつまでも消えない。

 クシノが何より嫌ったのは、その甘さが持つ「安易な優しさ」だった。

 飲む者の苦悩も、痛みも、全てを砂糖で塗り固めて誤魔化してしまうような、逃避のための味。酒には人生と同じく、喉を焼くような苦味や、鼻に抜ける厳しさがあってこそだと考える彼にとって、この酒は「媚び」の塊でしかなかった。

 

「左様ですか。ですがオーナー、このイバン特有のカスタードのような濃厚な甘みこそが、四十度を超えるアルコールの刺激を完全に消してくれているんですよ。こいつをベースに少し工夫すれば、女性でもジュース感覚で飲めてしまう、極上の『レディ・キラー』になりますが」

 

 グラスを磨いていた初老のバーテンダーは、悪戯っぽい笑みを浮かべて提案する。

 口当たりが良く、気づいた時には手遅れになる酒。夜の街では需要の高いアイテムだ。

 だが、クシノは鼻を鳴らしてそれを否定する。

 

「却下や」

「おや、売れると思いますがね」

「うちは慈善事業やっとるわけやない。シラフの女一人くどき落とせんような、腰抜けの手助けをするつもりはないで」

 

 クシノが言い放つと、バーテンダーは肩をすくめて「……手厳しいですねえ」と笑った。

 安易な小細工で本質を誤魔化すのは、クシノの美学に反する。酒も、人間も、熟成された味わいで勝負すべきだというのが彼の持論だった。

 

 尤も、自分の本質が勝負できるものだとはあまり思っていないが。

 

 その時、カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。

 地下の店内に、雨の匂いが入り込む。

 入口に立っていたのは、濡れたコートを羽織った長身の男だった。

 帽子を目深に被っているわけでも、サングラスで顔を隠しているわけでもない。だが、その男が足を踏み入れた瞬間、店内の空気がさざ波のように変わった。

 常連客たちが、本能的に会話のボリュームを落とす。誰も声をかけられない、圧倒的な「格」のようなものが、その男にはあった。

 

 男は迷うことなくカウンターへと進み、クシノの隣の席に腰を下ろした。

 

「やあ。いい店だと聞いてね」

 

 男、ワタルは、コートの雨粒を払いながら、あくまで偶然を装って微笑んだ。

 

「……奇遇だな、クシノ君」

「……ええ、ほんまに奇遇ですね」

 

 クシノは表情筋を動かさずに応じた。

 白々しいにも程がある。ここは会員制に近い店だ。一見客がふらりと入ってくるような場所ではない。明らかにクシノの居場所を調べ上げ、狙って来ている。

 だが、それを指摘するのは野暮というものだ。

 

「マスター、彼と同じものを」

 

 ワタルがメニューも見ずに注文しようとした瞬間、クシノが片手でそれを制した。

 

「やめておかれた方がええです」

「む?」

「こいつはまだ調整中のシロップみたいなもんです。今のワタルさんが飲まれたら、甘すぎて歯が浮いてしまいますわ」

 

 クシノは自身のグラスを遠ざけると、バーテンダーに向き直り、指先でカウンターを軽く叩いた。

 

「レシピ変更や。イバン・ブランデーをベースに、同量のドライ・ジン。そこにノメルのみを限界まで絞って、シェイクして出せ。ジンの揮発性でベタつく甘みを殺して、ノメルの強烈な酸味で全体を引き締めるんや」

「なるほど、イバン・ギムレット、といったところですか。承知しました」

 

 バーテンダーは嬉しそうにシェイカーを取り出し、氷を詰めた。

 シャカシャカシャカ、と小気味良い音が店内に響く。

 やがてワタルの前に差し出されたカクテルグラスには、氷の破片を纏った鮮やかな紅色の液体が注がれていた。

 ワタルはそれを手に取り、一口含む。

 

「……美味い。甘いのに、鋭いな」

「それがイバンの本来の味です」

 

 クシノは自身の甘ったるいブランデーを揺らしながら、隣の英雄を横目で見た。

 テレビの中で見た、あの自信に満ち溢れた表情。

 だが、近くで見れば見るほど、その隙のなさが、どこか張り詰めた糸のようにも感じられた。

 

 

 ワタルがカクテルを半分ほど空けた頃合いを見計らい、クシノは内ポケットから携帯端末を取り出した。

 彼がここへ来た本当の目的は、酒の味見などではない。クシノはそれを痛いほど理解していた。

 画面を操作し、作業台の上で撮影した一枚の写真を表示してワタルに見せる。

 

「経過報告です」

 

 そこには、継ぎ目が黒い漆で覆われた、修復途中のハイパーボールが映し出されていた。

 金粉を蒔く前の『中塗り』の状態だ。かつての輝きはなく、黒い傷跡が浮き上がったその姿は、事情を知らない者が見ればただの薄汚れたジャンク品にしか見えないだろう。

 だが、ワタルは目を細め、まるで愛しい我が子の写真を見るかのように、画面の中のボールを凝視した。

 

「黒いな。だが、悪くない。生きているように見える」

「まだ下地の段階です。ここからさらに研いで、漆を重ねて、最後に金を入れます」

 

 クシノは端末をテーブルに置き、自身のグラスに残った甘すぎるブランデーを揺らした。

 本題はここからだ。

 彼は努めて何気ない口調を装いながら、鋭いナイフのような事実を切り出した。

 

「お預かりした際、ヒンジの裏にある製造番号を確認させていただきました」

「ほう」

「データベースと照合しましたよ。あれは、貴方がマサラタウンの少年と戦った年の製造ロットだ」

 

 ワタルの指先が一瞬だけ止まった。

 彼はグラスの縁を指でなぞりながら、静かにクシノを見返した。その瞳に、僅かな驚きと、どこか諦めにも似た色が浮かぶ。自分の過去を暴かれたことへの不快感ではなく、共有者が現れたことへの安堵に近いかもしれない。

 

「よく調べたな。ああ、そうだ。あのシーズンに合わせて卸した新品だった」

「意外でしたわ。貴方はもっと、伝統を重んじる方やと思っていましたから」

 

 クシノは、モモナリから仕入れた情報をカードとして切った。

 

「フスベのドラゴン使いといえば、頑固なまでのボングリ信奉者だ。その中で、貴方は一族の反対を押し切ってまで、勝利のために最新鋭のハイパーボールを選んだ改革者やったと聞いています」

 

 ワタルは苦笑した。

 

「古い話だ。若かったんだよ。力こそ正義だと信じていたし、勝つためには最高の道具を使うべきだと考えていた」

「ええ、その考えは正しい。そして貴方はその最新を使って、あの少年に敗れた」

 

 クシノはワタルの目を真っ直ぐに見据えた。

 ここからは、職人としてではなく、一人の人間としての問いだ。

 

「つまり、そのボールは貴方にとって、改革の証であると同時に、決定的な敗北と挫折の象徴でもあるはずです。今の貴方は、新品のボールを使って絶好調だ。過去など切り離した方が強いことは、結果が証明している」

 

 クシノは一息に告げた。

 

「なんでわざわざ、そんな負けの味しかしないような古道具を、リスクを背負ってまで直して使おうとするんですか」

 

 店内に流れるジャズの旋律だけが、二人の間に落ちた沈黙を埋めた。

 ワタルはカクテルの残りを飲み干すと、氷のカランという音と共にグラスを置いた。

 そして、クシノの方を向き、完璧に計算された爽やかな笑みを浮かべた。

 

「人生の分岐点になった年の道具だ。忘れないための、いい記念品になるだろ」

 

 それは、あまりに模範的な回答だった。

 初心を忘れないためのコレクション。敗北を糧にする英雄の美談。

 誰もが納得し、感動さえするであろうロマンチックな理由。

 

(嘘やな)

 

 クシノは直感した。

 記念品なら、直して棚に飾っておけばいい。

 彼が求めているのは観賞用ではなく、再び戦場で使うための完全な修復だ。

 彼は過去を懐かしんでいるのではない。あの敗北を、現在進行系で背負い続け、未だに自分の中で決着をつけていないのだ。

 新品のボールでいくら勝とうとも、あのボールで勝たなければ意味がないと考えているのか、あるいは、あのボールを使っている間だけは、自分が挑戦者に戻れるとでも思っているのか。

 

 だが、クシノはそれを暴かなかった。

 依頼人のついた優しい嘘を、黙って飲み込むのもまた、大人の流儀だ。

 

「なるほど。確かに、ええ記念になりますわ」

 

 クシノは口元を緩め、自身のグラスを持ち上げた。

 

「では、最高に美しい記念品に仕上げさせていただきます」

「ああ。楽しみに待っているよ」

 

 ワタルも空のグラスを軽く持ち上げる。

 二つのグラスが触れ合い、カチン、という硬質で小さな音が響いた。

 その音は、雨音の中に溶け、イバンの甘く重い香りと共に夜の闇へと消えていった。

 

 

 カントー・ジョウトポケモンリーグ協会本部、最上階。

 広大な窓からヤマブキシティの緑豊かな街並みを一望できる会長室は、空調の微かな稼働音だけが響く静謐な空間だ。

 

 巨木を削り出した重厚な執務机を挟んで、クシノは直立していた。

 彼の目の前で、決裁書類に次々と朱印を押していく初老の男がいる。

 

 ポケモンリーグ協会会長、ノナミ。

 

 

 白髪交じりの髪を整え、仕立ての良いスーツを着こなすその姿は、温厚な紳士そのものだ。刻まれた皺には年輪のような深みがあるが、その背筋は若者よりもピンと伸びており、実年齢を特定することを拒んでいるようにも見える。

 

 

 クシノは知っている。

 この男が時折見せる瞳の奥の光が、決してただの好々爺のものではないことを。それは、かつて命のやり取りにも等しい激戦を潜り抜けてきたトレーナーだけが持つ、飢えた獣のような光だ。

 

 ノナミは最後の一枚にハンコを押し終えると、はい、これで全部だね、と書類の束をクシノの方へ押しやった。

 

「迅速なご対応、感謝します」

「なに、現場が動きやすいようにするのが私の仕事だからね。君のような優秀な理事がいてくれて助かるよ」

 

 ノナミは眼鏡の位置を直しながら、ふっと表情を緩めた。

 業務の話は終わりだ、という合図だ。

 クシノが一礼して退出しようとしたその時、ノナミが何気ない世間話のように声をかけた。

 

「そういえば、風の噂で聞いたよ。君、ワタルのハイパーボールを直しているそうじゃないか」

 

 クシノは足を止め、振り返った。

 表情には出さなかったが、内心では舌を巻いていた。どこから漏れたのか。モモナリか、あるいはワタルか。いずれにせよ、この組織のトップの耳は地獄耳だ。

 クシノは一瞬の沈黙で肯定の意思を示し、言葉を紡ぐ。

 

「ええ。個人的な依頼で、修理を請け負っています」

「そうか、やはり本当だったか」

 

 ノナミは革張りの椅子に深く背を預け、天井を仰いだ。

 その口元に、微かな、しかし明らかな親愛の情を含んだ笑みが浮かぶ。

 

「へえ、あの『クソガキ』も、随分とデカくなったもんだ」

 

 クシノは眉をピクリと動かした。

 殿堂入りトレーナーにして特捜官、正義の象徴として崇められるワタルをクソガキ呼ばわりできる人間は、この業界広しと言えども片手で数えるほどしかいない。

 かつて在野に埋もれていたワタルの才能を見出し、リーグへスカウトしたのがこのノナミだという噂は本当らしい。

 

 クシノはこの機を逃さなかった。

 彼なら、あの矛盾の答えを知っているかもしれない。

 

「会長。ご存知なら教えていただけませんか」

「ん?」

「なぜ彼は、あのボールにそこまで拘るんでしょうか。製造番号を調べましたが、あれは彼が敗北したあの年に作られたものです。普通なら捨て去りたい過去のはずなのに」

 

 クシノの問いに、ノナミは目を細めた。

 その視線はクシノを通り越し、窓の外、遠くカントーの空を見つめているようだった。

 

「敗北、か」

 

 そう繰り返すと、ノナミは試すような視線をクシノに向けた。

 

「クシノ君、君はあいつを何だと思っている? 欠点のない、完全無欠の英雄。正義の化身。そう思っているね?」

 

 図星だった。

 世間も、そしてクシノ自身も、ワタルという男を一種の完成された概念として見ていた節がある。

 ノナミは椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。

 

「だがな、あれは『人間であることの証』なんだよ」

「人間であることの、証、ですか」

 

 意図を測りかねて、クシノはオウム返しに問うた。

 

「ああ。傷があったほうが、あいつは人間らしくいられるのさ」

 

 ノナミは振り返り、悪戯っぽく、しかしどこか寂しげに微笑んだ。

 

「完璧すぎる偶像なんてものは、脆くて息苦しいだけだ。これ以上は、私の口から言うことじゃないな」

 

 彼は人差し指を口元に当て、これ以上の追求を封じた。

 だが、その瞳の奥の鋭い光は、クシノに自分で答えを見つけろと無言の圧をかけていた。

 

「貴重なお話、ありがとうございました」

 

 クシノは深く頭を下げ、会長室を後にする。

 

 

 人間であることの証。

 

 

 その言葉が、重い鉛のように胸の奥に沈んでいた。

 

 

 ノナミの言葉が放った余韻を振り払うように、クシノはエレベーターの最下層ボタンを押した。

 行き先は地下三階、重要資料保管室。

 最新のデジタルアーカイブ化が進む協会において、ここだけは時が止まったかのように紙とインクの匂いが充満している場所だ。デジタル化すら許されない、あるいはその価値がないと判断された古い記録が眠る墓場でもある。

 

 入室ログを記録し、重い鉄扉を開ける。

 ひんやりとした空気が肌を刺す。

 

 クシノは迷うことなく奥の棚へと進む。目当ては、ポケモンリーグが設立される以前、まだポケモンが魔獣や怪異と呼ばれていた時代の地方史だ。

 

 

 彼は棚から背表紙の革が擦り切れた一冊の分厚いファイルを抜き出した。

 表紙には金文字で『フスベシティ・ドラゴン使い一族に関する調査報告書』と記されている。

 おそらくは、国のものだろう。

 

 ページを捲る指が、微かな粉塵を巻き上げる。

 そこに記されていたのは、スポーツとしてのポケモンバトルが確立された現代とはかけ離れた、荒々しく、そして畏怖と無理解に満ちた歴史だった。

 

 かつて、ドラゴンタイプという強大な力を持つ生物は、人々にとって明確な脅威であり、災害そのものだった。

 

 山を崩し、天候を荒れさせ、人里を壊滅させる絶対的な力。

 

 

 フスベの一族は、その災害を力で捻じ伏せ、鎮めることを生業としていた。

 

 

 彼らは単なるトレーナーではない。

 

 

 荒ぶる神を御するための神官であり、同時に、暴走すれば自らの命を差し出してでも止める人柱でもあった。

 

 クシノの目が、ある一節に吸い寄せられる。

 

『彼らは人であってはならない。災害を御する者は、慈悲も、恐怖も、心の揺らぎも持たぬ、完全なる機構でなければならない』

 

 機構。システム。

 

 それは人間に対する形容ではない。

 人々は彼らを英雄として称えると同時に、自分たちとは異なる生き物として恐れ、遠ざけていたのだ。

 その血を引き、一族の中でも稀代の天才と謳われたワタル。幼い頃の彼に向けられた期待と重圧は、想像を絶するものだったに違いない。

 彼は少年として育ったのではない。最強の力を管理するための、感情を持たない完璧な器として作り上げられたのだ。

 

 クシノの脳裏に、モモナリの言葉が蘇った。

 ワタルは伝統のボングリを捨て、ハイパーボールを選んだ異端児だったという話。

 

 クシノの中で、点と線が繋がり、ひとつの仮説が組み上がっていく。

 ボングリの実で作られたボールは、自然への祈りや感謝を込めて作られる、ある意味では、それは神事の道具だ。一族がそれを使い続けるのは、彼らが『神官』であるからに他ならない。

 

 だが、ハイパーボールは違う。

 科学の力でポケモンを捕獲し、管理する、人間のための工業製品。

 

 ワタルがボングリを捨て、ハイパーボールを手に取った理由。

 それは勝利への執着などという単純なものではない。

 

 

 彼は、人間になりたかったのではないか。

 

 

 神官としての役割、システムとしての完璧さ。そうした呪縛じみた宿命を拒絶し、一人の人間として、ただのトレーナーとして世界と向き合うために、彼はあえて俗世の象徴であるハイパーボールを選んだ。

 

 そして、彼は敗れた。

 マサラタウンの少年に敗北し、膝をついた。

 

 クシノはファイルを閉じた。

 重厚な音が、静寂な室内に響く。

 あの敗北は、彼にとって絶望ではなかったはずだ。

 絶対的なシステムなら、敗北など許されない。だが、人間なら負けることもある。

 あの時、傷ついたハイパーボールの中で、彼と、そして彼が使役していたドラゴンは、初めて『災害』でも『神』でもなく、痛みを知る『人間』と『生き物』になれたのだ。

 

 あれは、彼が人間として生まれ落ちた証。

 ノナミの言葉の真意を、クシノはようやく理解した気がした。

 

 答え合わせが必要だ。

 クシノはポケットから端末を取り出し、スケジュールを確認した。

 明日は非番だ。スケジュールを調整すれば、他の仕事も抑えられるだろう。

 彼はある男に会いに行く決意を固めていた。敗北というものの意味を、もっとフラットな視点から語れる男に。

 

 

 翌日、クシノは上空からハナダシティを見下ろしていた。

 鋼鉄の翼を持つエアームドの背に跨り、雲を裂いて飛ぶ。眼下には豊かな水路が張り巡らされた美しい街並みが広がっているが、クシノが目指すのはその中心部ではない。

 

 

 街外れの北西、鬱蒼とした木々に覆われた山裾。

 

 

 かつて最強のポケモンが潜んでいたとされる伝説の地『ハナダのどうくつ』

 その入り口に最も近い、一般人が立ち入ることを躊躇うような辺境の地に、モモナリの自宅はあった。

 あの危険極まりない洞窟の管理と監視。それが、この地に居を構える彼に課せられた裏の役割でもある。

 

 エアームドが旋回し、広い庭へと着地する。

 金属の足が地面を捉えると、庭の植え込みから触手がうねりと伸びてきた。

 いわつぼポケモン、ユレイドル。

 岩場に根を張るような姿勢で鎮座するその異形のポケモンは、侵入者を排除するのではなく、挨拶代わりに触手を差し出している。

 クシノはそのぬらりとした感触の先端をしっかりと握り返した。

 

「久しぶりやな。相変わらず元気そうや」

 

 ユレイドルは満足げに触手を引っ込め、再び日向ぼっこに戻る。庭の番人は彼女らしい。

 

「やあクシノ。いらっしゃい」

 

 縁側から、あくび混じりの声が飛んでくる。

 モモナリが寝起きのようなボサボサの髪で手を振っていた。

 クシノが靴を脱いで上がろうとすると、部屋の中からズシン、という重い足音が響き、巨大な影がヌッと姿を現した。

 

 

 ガブリアスだ。

 

 

 流線型の頭部、両腕に備わった巨大な鎌。シンオウ地方のチャンピオン、シロナが切り札にしていることでも知られる、正真正銘の最強クラスのドラゴンポケモン。

 その威容は、間近で見れば生物というよりは、殺戮のために洗練された兵器のようですらある。それが部屋の中に鎮座している光景は、シュールを通り越して恐怖すら覚えるミスマッチだ。

 

 だが、彼女はクシノの姿を認めると、喉を鳴らして親しげに鼻先を寄せてきた。顔馴染みの客人を歓迎しているらしい。

 クシノは持参した紙袋からピンク色の果実を取り出した。

 モモンのみだ。

 

「お土産や。食うか」

 

 クシノが放り投げると、ガブリアスは空中でそれを器用にパクリと咥え取った。

 シャク、シャク、と果汁を滴らせながら咀嚼する。

 先ほどまでの凶悪な捕食者の眼光はどこへやら、その細い瞳を三日月のように細め、喜悦の表情を浮かべている。

 

「あいかわらず。見た目は厳ついが、中身は甘いもん好きの嬢ちゃんやな」

 

 クシノが首筋を撫でてやると、彼女は甘えるように身体を擦り寄せる。

 

「よく懐いてるね」

「餌付けしとるだけや。ほら、これ、新作の果実酒。味見に付き合え」

 

 クシノがボトルを取り出すと、モモナリは嬉しそうにグラスを用意した。

 トクトクと琥珀色の液体が注がれる。

 昼間から飲む酒の背徳感と共に、二人は軽くグラスを合わせた。

 

 クシノは液体を口に含み、舌の上で転がしてから、ゆっくりと喉へ流し込んだ。

 芳醇な果実の香りと、熟成されたスピリッツの深み。以前の試作品で感じたようなベタつく甘さは消え、酸味と渋みが絶妙なバランスで全体を引き締めている。余韻は長く、しかしキレがいい。

 

「……うん。これなら、店に出せるな」

 

 クシノは小さく頷いた。先日の甘ったるい失敗作とは違う、納得のいく仕上がりだ。

 部屋の中で甘い実を貪る最強のドラゴンと、庭で根を張る古代の触手。昨日、地下資料室で読んだ重苦しい歴史とは無縁の、奇妙だが平和な日常がここにある。

 

「モモナリ。お前にとって、敗北とはなんや」

 

 クシノは酒の肴にするような軽さで、しかし核心を突く問いを投げた。

 モモナリはグラスの中の氷をカランと鳴らし、きょとんとして瞬きを繰り返した。

 そして、傍らで満足げに寝転がったガブリアスの背中を撫でながら、至極あっさりと答えた。

 

「特別なことじゃないよ。誰かが勝てば、誰かが負ける。ただの結果さ」

「ただの結果、か」

「うん。むしろ、ご褒美みたいなものかな」

 

 モモナリはうっとりとした表情で天井を仰いだ。

 

「だってそうだろう? 負けるってことは、自分より強いトレーナーに出会えたってことだ。自分の戦術が通じない、想像を超える強敵。そんな相手と巡り会えるなんて、最高にワクワクするじゃないか」

 

 クシノは呆気にとられた。

 普通のトレーナーにとって、敗北は屈辱であり、トラウマにすらなり得る汚点だ。

 だが、この男は違う。

 限りなく最強に近い実力を持ちながら、いや、最強に近いからこそ、自分を打ち負かしてくれる存在を渇望している。

 強い相手と戦いたい、というトレーナーなら誰もが口にする建前を、この男は一点の曇りもない本音として生きているのだ。

 

 強者の理屈やな。

 

 クシノは内心で苦笑した。

 それは、持たざる者が聞けば憤慨しかねない、圧倒的な強者のみが許される傲慢なほどの余裕だ。敗北すらも糧にし、娯楽として消費できるほどの絶対的な自信と実力があるからこそ言える台詞。

 だからこそ、彼は現役のトレーナーの中で誰よりも、敗北という事実に対して強靭な耐性を持っている。

 

「変態やな、お前は」

「褒め言葉として受け取っておくよ。でも、どうしてそんなことを?」

「ワタルさんのことや。彼がレッドに負けたあの戦いは、歴史を変えたと言われるほどの一戦や。あれは、お前の言うような『ただの結果』とは訳が違うんとちゃうかと思ってな」

 

 クシノの言葉に、モモナリは少しだけ考える仕草をして、首を傾げた。

 

「そうかな。確かに歴史は変わったし、最強神話は崩れたかもしれない。でもさ」

 

 彼はクシノの方を向き、純粋無垢な瞳で言った。

 

「ワタルさんは、今も戦い続けているだろ?」

 

 その言葉は、クシノの胸にすとんと落ちた。

 

「負けて、心が折れて、引退してしまったなら、それは絶望かもしれない。でも、彼は負けてもなお、殿堂入りトレーナーとして、特捜官として、最前線に立っている。僕と同じで、彼も戦うことが好きなんだよ、きっと」

 

 モモナリは楽しそうに笑う。

 

「なら、あの敗北は彼の終わりじゃない。ただの経歴の一つだ。彼が人間として歩んできた、長い道のりの通過点に過ぎないよ」

 

 クシノは部屋の中で寝息を立てるガブリアスに目をやった。

 かつて人々が恐れ、神格化し、災害として遠ざけたドラゴン。

 だが、こうして接すれば、彼女もまた甘い実を喜び、陽だまりでまどろむ、愛すべき一つの命に過ぎない。

 

 ワタルも同じだ。

 一族の因習によって神格化され、システムとして生きることを強いられた男。

 だが、あのハイパーボールを選び、敗北を知ったことで、彼は神の座から降りることができた。

 モモナリの言う「強者の理屈」かもしれない。だが、ワタルもまた、敗北を糧にして立ち上がれる側の人間、強者なのだ。

 あの敗北こそが、彼を災害の管理者ではなく、一人のチャレンジャーにしてくれた救いだったのだ。

 

 人間であることの証。

 ノナミが言った言葉の意味が、変人である友人の言葉を通じて、ようやく鮮明な輪郭を結んだ。

 敗北は恥ではない。彼が人間として生きた、何よりの証明なのだ。

 

「ありがとな。目が覚めたわ」

「え? 僕、何かいいこと言った?」

 

 不思議そうな顔をしてグラスを傾ける友人に、クシノは苦笑して自身のグラスを飲み干した。

 迷いは消えた。

 あの傷だらけのボールに、どんな色を乗せればいいのか。その答えはもう、決まっていた。

 

 

 ヤマブキシティの夜は更け、雨上がりの湿った空気が街を包み込んでいた。

 クシノの工房は、外界の喧騒から切り離された静寂に満ちている。

 作業台の上には、黒い樹液、漆で下地を整えられたハイパーボールが鎮座していた。

 つぎはぎだらけの無骨な姿。だが、クシノの目には、それがこれから纏うべき衣装の輪郭がはっきりと見えていた。

 

 いよいよ、最後の工程だ。

 金粉を蒔く。

 

 クシノは小皿に少量の漆を出し、そこに赤色の顔料である弁柄(べんがら)を混ぜ合わせた。

 

 弁柄漆。

 

 

 これが金粉を定着させるための接着剤となる。

 極細の筆に赤い漆を含ませ、息を止める。

 黒い地肌に浮き上がった傷のラインを、筆先で慎重になぞっていく。手元が狂えば全てが台無しになる緊張感の中、クシノの手は精密機械のように正確に動いた。

 黒い球体の上に、鮮血のような赤いラインが描かれていく。それはまるで、無機物だった工業製品に血管が通り、命が宿っていく様にも見えた。

 

 全ての傷をなぞり終えると、クシノは筆を置き、じっと待った。

 ここでの見極めが最も重要だ。

 

 

 漆が乾きすぎれば金粉は付着しない。逆に乾きが甘ければ、粉が漆の中に沈んで輝きを失ってしまう。

 指先で軽く触れずとも、表面の艶の変化だけで乾き具合を判断する。

 半乾き。その一瞬のタイミングを逃さぬよう、クシノは神経を研ぎ澄ませた。

 

 今だ。

 

 クシノは柔らかな繊維を丸めた束を取り出し、そこにたっぷりと金粉を含ませた。

 選んだのは、粒子の細かい『消し粉』ではなく、より粒子が大きく、重厚な輝きを放つ『丸粉(まるふん)』だ。

 消し粉は上品だが摩擦に弱く、観賞用に向いている。

 だが、丸粉は違う。

 固まった後は金属そのものとなり、激しい摩耗にも耐えうる強靭さを持つ。

 

 

 ワタルがこれを「記念品」として棚に飾るつもりなら、前者が正解だ。だが、クシノは迷わず後者を選んだ。

 

 

 あの男は、戦う。

 

 

 このボールを握りしめ、再び戦場に立つのだ。ならば、その手に馴染み、泥に塗れても輝きを失わない強さが必要だ。

 

 クシノは金粉を含んだ繊維の束を、赤いラインの上に優しく、しかし大胆に払い落とした。

 ぱらぱらと、黄金の粒子が舞う。

 赤い漆が、金の粉を貪欲に吸着していく。

 鮮血の色だった傷跡が、見る見るうちに黄金の輝きへと変貌を遂げていく。

 

 それは単なる修復作業ではなかった。

 醜い傷を隠すのでも、元通りに戻すのでもない。

 傷そのものを肯定し、歴史という価値あるものへと昇華させる儀式。

 

 彼は作業を続けながら、心の中で依頼人に語りかけた。

 

 あんたは、この傷が恥ずかしかったわけやない。

 むしろ愛おしかったんやな。

 最強のシステムとして作られた自分が、初めて人間として敗北し、痛みを知ったあの瞬間が。

 

 

 だからこそ、新品のボールでは満足できなかった。

 あれはただの優れた道具に過ぎない。

 だが、この傷だらけのボールには、あんたが人間になった証が刻まれている。

 

 最後のラインに粉を蒔き終え、余分な金を払う。

 作業台のライトの下に現れたのは、かつての量産品とは似ても似つかない、唯一無二の存在感を放つ球体だった。

 黒い艶やかな肌に走る、力強い黄金の稲妻。

 それは新品の時よりも遥かに美しく、そして凄みがあった。

 

「よう似合うで。新品なんかより、ずっとええ」

 

 クシノは満足げに息を吐き、ボールを慎重に持ち上げた。

 まだ完成ではない。

 ここから再び漆を乾かし、固め、そして最後に表面を磨き上げることで、金は真の輝きを放つ。

 ボールを室の中へ納め、扉を閉める。

 湿った暗闇の中で、黄金の傷は静かに硬化の時を待つ。

 

「もう少しや。焦ったらあかんで」

 

 クシノは工房の明かりを落とした。

 暗闇に残る漆の匂いは、不思議と心地よかった。

 もうすぐ、英雄と竜が帰るべき場所が完成する。

 

 

 数日後、クシノの工房は張り詰めた静寂に包まれていた。

 作業台の上には、ハイパーボールが置かれている。

 

 

 金粉を蒔き、室の中でじっくりと時間をかけて硬化させたそれは、まだ完成形ではない。表面の金は艶消しの砂のような質感を残しており、光を鈍く吸い込んでいる。

 ここからが、金継ぎにおける最後の、そして最も劇的な工程だ。

 

 クシノは道具箱から一本のヘラを取り出した。

 先端には、白く硬質な素材が取り付けられている。

 それは、硬い鱗を持つ大型の水棲ポケモンの牙を加工したものだ。

 金属よりも適度な弾力があり、木材よりも遥かに硬いこの牙こそが、金に命を吹き込む鍵となる。

 

 クシノはボールを左手でしっかりと固定し、右手の牙を金粉のラインに当てた。

 力を込める。

 ギュッ、ギュッ、と鈍い音が指先に伝わってくる。

 金粉磨き。

 表面に乗っている微細な金の粒子を、牙の硬度で物理的に押し潰し、平らに均していく作業だ。粒子と粒子が隙間なく結びつき、滑らかな金属の平面が形成されていく。

 

 地味だが、強烈な負荷のかかる作業だ。

 少しでも手元が狂えば、黒い漆の肌を傷つけてしまう。クシノは呼吸を整え、一定のリズムと圧力で、執拗に、祈るように牙を動かし続けた。

 

 やがて、変化は訪れた。

 牙が通り過ぎた跡から、ザラザラとした鈍い色が消え、濡れたような鋭い光沢が生まれ始めたのだ。

 それはまるで、泥の中から砂金が洗い出された瞬間のような鮮烈さだった。

 黒い漆黒のボディに走る、力強い黄金の稲妻。

 かつてそこにあった亀裂は、隠すべき傷跡ではなく、このボールだけが持つ固有の景色へと昇華されている。

 新品の工業製品には決して宿らない、年月と物語を経た者だけが纏うことのできる、凄みのある美しさ。

 

 全てのラインを磨き終えると、クシノは白い手袋をはめ、最後の動作確認に移った。

 ヒンジの開閉。

 ロック機構の噛み合わせ。

 伸縮システムの反応速度。

 カチリ、カチリ。

 指先の操作に対し、ボールはまるでクシノの思考を先読みしたかのように滑らかに応答する。漆の塗膜が計算された厚みで噛み合わせを調整し、ガタつきなど微塵もない。

 

 彼は安堵したように一つ息を吐いた。

 

「ええ顔になったな」

 

 それはもはや、ジャンク品でもなければ、単なる美術品でもない。

 戦場へ還るための、最強の武器だった。

 クシノは木箱ではなく、耐衝撃材が敷き詰められた実用的なジュラルミンケースを用意し、完成したハイパーボールをその中へと収めた。

 

 

 飾るためではない。使うために直したのだから。

 

 ケースを閉じ、ロックを掛ける。

 準備は整った。

 今日はAリーグの公式戦がある。英雄と竜が待つ場所へ、これを届けに行かねばならない。

 

 

 その日のヤマブキシティ・スタジアムは、Aリーグ公式戦の熱気に包まれていた。

 数万人の観衆が発する地鳴りのような歓声は、分厚いコンクリートの壁を隔てた選手エリアの通路にまで響いてくる。

 

 

 関係者パスを首から下げたクシノは、対戦者専用の控室の前で足を止めた。

 試合開始まで、もう時間がない。

 ノックをする。

 短い応答があり、重い扉を開けた。

 

 室内の空気は張り詰めていた。

 ワタルは既にコスチュームに着替え、鏡の前でマントの留め具を確認しているところだった。

 その腰には、まだ新品のピカピカなハイパーボールが装着されている。

 

「こんな時間にすみません。集中したい時やのに」

 

 クシノは頭を下げた。トレーナーにとって、試合直前の時間は神聖なものだ。部外者が立ち入っていいタイミングではない。

 

「ですが、一秒でも早く、あなたにこれを届けたかったんです」

 

 クシノの言葉に、ワタルは振り返り、微かに笑みを浮かべた。

 

「謝ることはない。むしろ、これ以上ないタイミングだ。待っていたよ」

 

 ワタルはそう言って、クシノを招き入れた。

 クシノは作業台の上にジュラルミンケースを置き、ロックを外す。

 プシュ、という気密音が漏れ、蓋が開く。

 緩衝材の中央に、それは鎮座していた。

 

 ワタルが息を呑む気配がした。

 黒い漆黒の球体に、荒々しくも繊細に走る黄金の亀裂。

 新品の均一な美しさとは対極にある、破壊と再生の歴史をそのまま焼き付けたような姿。

 ワタルは恐る恐る手を伸ばし、その冷たく重厚な感触を指先で確かめた。

 

「……美しいな」

 

 その言葉は、飾り気のない本心からの吐露だった。

 

「金粉をたっぷりと使い、牙で極限まで磨き上げました。多少の衝撃では剥げませんし、強度は新品と同等か、それ以上です」

 

 クシノは職人としてのスペックを淡々と説明したが、すぐに声のトーンを落とし、あえて冷徹な事実を告げた。

 

「ですが、保証はしません。所詮は一度壊れたもんです。また激しいバトルで砕けるかもしれない」

 

 ワタルが顔を上げ、クシノを見る。

 

「その時は、それもまた歴史やと諦めてください。形あるもんは、いつか壊れる」

 

 クシノはワタルの目を真っ直ぐに見つめた。

 彼は知っている。この男が、あのボールに自らの敗北と再生の歴史を重ね、縋るように大切に思っていることを。だが、だからこそクシノは言わねばならなかった。

 

「歴史いうんは、このボールそのものやなく、あなたのこころの中に宿るもんです。だから、もしまたこれが壊れても、あなたが積み上げてきたもんは消えません。……壊れることを恐れんといてください」

 

 それは、あえて『壊れてもいい』と突き放すことで、ワタルを物質への執着から解き放つためのメッセージだった。

 その言葉の意図を汲み取ったのか、ワタルは穏やかに微笑み「そうだな」と、深く頷く。

 

「だが、今でもこれを見て、自分が、いや、『私たち』が救われたことを思い返したいんだ」

「私たち、ですか」

「ああ。私は、まだまだ弱いからな」

 

 ワタルは愛おしそうに黄金の傷を撫でた。

 その言葉で、クシノは全てを理解した。

 あの敗北によって『人間』になれたのは、ワタル一人ではなかったのだ。

 災害を鎮めるシステムとして生きることを強いられ、完璧であることを義務付けられていたカントーの、あるいは他地方を含める『ドラゴン使いの一族』。

 その最高傑作であるワタルが敗北し、それでもなお立ち上がったことで、彼ら一族全員が『負けてもいい』『人間であっていい』と許されたのだ。

 このボールの傷は、ワタル個人の敗北の記録であると同時に、一族が呪縛から解き放たれ、人間として再生した記念碑でもあった。

 

「行きましょう、ワタルさん。相棒が待ちくたびれています」

 

 クシノが促すと、ワタルは頷き、腰のベルトから新品のボールを取り外した。

 ボタンを押し、カイリューを実体化させる。

 オレンジ色の巨体が、狭い控室に現れた。

 ワタルは金継ぎされたハイパーボールを構え、カイリューの目の前に差し出した。

 

「戻るぞ。俺たちの家に」

 

 カイリューは大きな瞳を瞬かせ、黄金のラインに鼻先を近づけた。

 フン、フン、と匂いを嗅ぐ。

 そこには、漆の香りと、共に戦った日々の泥の匂い、そして敗北の苦い記憶と、それを乗り越えた黄金の輝きが混在している。

 カイリューは嬉しそうに短く鳴くと、自ら進んで赤い光の中へと吸い込まれていった。

 

 カチリ。

 

 ロックが掛かる音が、重厚に、そして確かに室内に響いた。

 それは、ただの機械音ではない。

 英雄と竜が、あるべき場所へ帰還した音だった。

 

 ワタルはボールを強く握りしめ、ベルトホルダーに装着した。

 マントを翻す。

 その背中からは、かつての悲壮なまでの完璧さは消えていた。

 代わりにあったのは、傷を誇り、泥に塗れることを恐れない、一人の人間としての力強さだった。

 

「行ってくる」

 

 短く言い残し、ワタルは歓声と光の溢れるゲートへと向かっていく。

 クシノはその背中を、無言で見送った。

 

 

 試合から数日が過ぎた夜、クシノは自宅のリビングでソファに深く沈み込んでいた。

 視線の先にあるモニターには、録画しておいたAリーグ公式戦の映像が流れている。

 

 

 対戦カードは『ワタルVSモモナリ』

 

 

 解説者が声を裏返して絶叫するほどの激戦だった。

 

 

 対戦相手であるモモナリという男は、敗北すら娯楽として消費する生粋の戦闘狂だ。

 

 彼は新生したワタルの泥臭く、しかし気迫に満ちた猛攻を全身で受け止め、最後は恍惚の表情でフィールドに沈んでいた。

 勝者となったワタルが、天に向かって拳を突き上げる。

 その手には、黄金の筋が走るハイパーボールが握りしめられていた。

 汗に塗れ、肩で息をするその表情は、かつての氷像のように美しい完璧な英雄のものではなく、苦しみ、あがき、そして勝利をもぎ取った一人の人間の顔だった。

 

「ええ顔や」と、クシノが呟く。

 

 浴室のドアが開き、風呂上がりの湯気を纏ったアヤカが入ってきた。

 彼女もAリーグに所属する現役のトレーナーだ。

 彼女はサイドボードからグラスを取り出し、ボトルに入ったとろりとした赤黒い液体を注いだ。

 照明を吸い込むような、毒々しくも美しい色。

 彼女はそのグラスを唇に運ぶと、躊躇なくグイと煽った。

 喉が焼けるような度数のはずだが、表情一つ変えずに飲み干し、ふぅ、と熱い息を吐く。

 それから、空になったグラスに再び液体を注ぎ足し、クシノの隣、ソファの窪みに身体を預けた。

 

「憑き物が落ちたみたい」

 

 画面の中のワタルを見やり、彼女はぽつりと感想を漏らした。

 それは、効率や勝敗を超えた、同じ戦場に立つトレーナーとしての直感的な評価だった。

 

 

 クシノは手元の缶ビールを煽り、頷く。

 

「人間は機械やないからな。完璧すぎると息が詰まる」

 

 画面の中、傷だらけのボールを握りしめ、歓声に応えるワタルを見つめる。

 かつては隠すべき恥だった傷が、今は黄金の輝きとなって彼を支えている。

 

「壊れて、直して、継ぎ目ができて。そうやって強くなっていくんやろ」

 

 それこそが、彼が施した金継ぎの本質であり、この仕事の答えだった。

 クシノの言葉を聞いて、アヤカはグラスを傾けた。氷がカランと涼やかな音を立てる。

 

 

 彼女は悪戯っぽく、しかしとろんとした熱っぽい瞳でクシノを覗き込んだ。

 

「ねえ。じゃあ、私がボロボロに負けて帰ってきたら、私も直してくれる?」

 

 その言葉に含まれた甘さと重さに、クシノは思わず言葉を詰まらせた。

 

 

 職人への依頼ではない。それは、妻としての甘えであり、戦士としての覚悟を預けようとする問いかけだ。

 ふと、鼻腔を突く強烈な甘い香りと、揮発するアルコールの刺激臭にクシノは眉を寄せた。

 

「お前、酔ってんのか」

 

 彼女の手にあるグラスを見る。あの赤黒い液体。

 

 

 イバンのブランデーだ。

 

 

 それは、あまりの出来に売り物にならず、クシノが自宅消費用に持ち帰ったものだった。

 アルコール度数は高いが、あまりに甘く、ロックでも飲めてしまうような代物。

 それをいきなりストレートで呷れば、どうなるかは火を見るより明らかだ。

 

「飲みすぎや。それ、失敗作やぞ。口当たりは甘いけど、中身は劇薬みたいなもんや。ソーダで割れ」

 

 クシノは酒のせいにして、彼女の問いから逃げようとした。

 真正面から答えるには、少々気恥ずかしすぎたのだ。

 

「そんな強い酒飲んでたら、戦う前に身体が壊れるで。修理以前の問題や」

 

 照れ隠しでまくし立てるクシノに、アヤカはふふっと笑った。

 彼女はグラスを傾け、妖艶に、しかし核心を突くように鋭く言い放った。

 

「腰抜け」

 

 図星を突かれたクシノは、何も言い返せずに頭を掻いた。

 

 彼は観念したように息を吐くと、アヤカの手からグラスを奪い取り、その甘く危険な猛毒を呷った。

 




感想、評価、批評、お気軽にどうぞ、質問等も出来る限り答えようと思っています。
誤字脱字メッセージいつもありがとうございます。
ぜひとも評価の方よろしくおねがいします。
ここすき機能もご利用ください!

Twitter
マシュマロ
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。