継ぐもの~クシノ理事の金継ぎ修繕録~   作:rairaibou(風)

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2:理想の檻、現実の窓

 休日の昼下がり。

 外部の騒音を完全にシャットアウトした書斎は、真空のような静寂に包まれていた。

 

 その部屋の主であるクシノはデスクに向かい、姿勢を正して座っていた。

 目の前には、淡い青色が美しい青磁の香炉。彼は左手で香炉を包み込むように持ち、右手をその上に覆い被せ、親指と人差指の間からわずかに空気が通る隙間を作る。

 

 趣味の『聞香』である。

 

 香炉の中、温められた灰の上には、雲母の板に乗せられた数ミリ四方の木片が鎮座している。ただの木切れではない。グラム単価で言えば金よりも高い、最高級の香木『伽羅』だ。

 文献にはこうあった。

『伽羅の香りを聞けば、精神は透き通り、幽玄なる景色が脳裏に浮かぶ。古の将軍たちは、これで戦の疲れを癒やし、天と地を感じた』と。

 

 彼は期待に胸を膨らませ、鼻腔を広げて神経を研ぎ澄まし、その数万円の景色を肺の奥まで吸い込んだ。

 

 鼻孔をくすぐったのは、確かに雑味のない繊細な芳香だった。

 古い寺院の柱のような枯れた木質の匂いの中に、蜜のような甘みと、舌先が痺れるような僅かな辛みが混在している。複雑で、奥深く、安物の線香とは明らかに一線を画す香りだ。

 

 

 しかし、それだけだった。

 

 

 クシノは息を止めて奇跡の訪れを待ったが、精神が透き通るような感覚も、脳裏に浮かぶ幽玄な景色も訪れない。目の前にあるのは変わらず防音材の壁であり、鼻腔に残るのは少しばかり上等な、焦げた木の匂いという現実だけだ。

 

 長い沈黙の後、クシノの眉間に深い皺が刻まれる。

 

「なんやこれ。ただの焦げ臭い木の匂いやないか」

 

 微細な香りの粒子は捉えているはずだ。だが、文献に謳われるような圧倒的な体験には程遠い。高い金を出して買った木片が、期待値というハードルを超えられぬまま燃え尽きていく事実に、癒やされるどころかストレスが堆積していく。

 別に金額が憎いわけではないが、楽しみ方がわからないのは癪だ。

 

 香炉をデスクに置き、忌々しげに睨みつける。

 もちろん、自分の感性が鈍い可能性はあるが。いったん、システムとハードウェアを疑ってみる。

 

「香炉の通気設計が悪いんか? 吸気口の径が足りてへんのとちゃうか」

 

 彼はピンセットで灰を突っつきながら、不満を漏らす。

 

「それとも、灰のグレードか? 安もんの灰が湿気てて、熱伝導率が落ちとるんか? やっぱり、ネット通販で済ませたのがアカンかったか。エンジュの老舗まで足運んで、専用の炭団仕入れんとスペックが出えへんのか」

 

 道具の性能不足。

 そう結論付け、クシノは不満げに腕を組んだ。

 所詮、香木といえども燃焼反応だ。適切な酸素供給と熱管理ができていなければ、本来のパフォーマンスなど出るはずがないのだ。

 

「また無駄遣いしてもうたか」

 

 不満を噛み殺そうとしたその時、書斎の分厚いドアが何の前触れもなく開かれた。

 

「あら、いい香り」

 

 静寂が支配していた空間に、嵐のような熱気がなだれ込んでくる。

 

「荷物よ。ロビーで受け取ってきたわ」

 

 現れたのは妻のアヤカだった。

 どうやら自宅でのトレーニングの最中だったらしい。身に着けているのは極彩色のスポーツブラと、脚のラインが露わになるタイトなレギンスのみ。首にはタオルを巻き、露出した健康的な肌には玉のような汗が浮いている。

 パンプアップした筋肉が放つ熱で、室内の空調が一気に狂わされるようだった。

 クシノは香炉から視線を外し、妻の無防備すぎる姿に呆れた声を出す。

 

「お前、その格好でロビーまで出たんか? Aリーガーとしての自覚はどうなっとる」

 

 マンションのロビーとはいえ、公共の場だ。リーグトレーナーとして顔が売れている自覚が足りない。

 

「失礼ね。ちゃんと一枚羽織ったわよ」

 

 アヤカは肩に掛けたパーカーを指差して悪びれもせず言い返すと、抱えていた無骨な段ボール箱をクシノのデスクにドンと置いた。

 

「それより、ヒワダタウンからよ。ガンテツさんから」

 

 その名を聞いた瞬間、クシノの頬がピクリと引きつった。

 ヒワダのガンテツ。

 偏屈を絵に描いたようなあの老職人から、わざわざ荷物が届く。それは間違いなく、平穏な休日の終わりを告げる凶兆だった。

 

 

 クシノはカッターナイフでテープを切り、無骨な段ボール箱を開封した。

 中から現れたのは、クッション材代わりに丸められた古新聞と、その中心に雑に放り込まれた『残骸』そして、殴り書きのメモが一枚だけ。

 

『腰やった。座っとるのも辛い。これ、お前がやれ。ワシには無理や』

 

 挨拶もなければ、依頼料の話もない。あるのは一方的な業務命令と、自身の老化に対する愚痴のみ。これぞヒワダの頑固職人、ガンテツの流儀だ。

 クシノはため息をつきながら、古新聞の海から『残骸』をつまみ上げた。

 

 それは、かつてモンスターボールだったものだ。

 赤と白の球体は、まるで踏み潰された『ザロクのみ』のように無惨な姿を晒している。

 致命的なのは、ボールの心臓部である開閉スイッチとヒンジの周辺だ。

 そこにあるはずの精緻な機械部品は跡形もなく欠損し、赤と白のシェルが、歪んだ金属フレームで辛うじて皮一枚繋がっているに過ぎない。

 もはや道具として死んでいる。ただの無惨な人工物の破片に過ぎない。

 

「なんやこれ。スクラップやないか」

 

 クシノは呆れ果て、箱の底に残っていたもう一通の封筒を手に取った。

 ガンテツのメモとは対照的な、上質な和紙の封筒。差出人の名前を見て、クシノの目が少し細められる。

 

 エンジュシティジムリーダー・マツバ。

 

 封を切り、クシノは中身をざっと斜め読みした。

 

『突然の依頼で申し訳ありません。これは私の不注意で壊れてしまったものです』

『私にとって替えのきかない大切なものですので、どうか修復をお願いいたします』

 

 達筆な文字で綴られた、丁寧すぎる言葉の羅列。

 だが、なぜジムリーダーほどの使い手が、量産品のモンスターボールごときにここまで固執するのか、その本心はインクの滲み一つからも見えてこない。

 文面は冷たく整いすぎている。まるで、熱いものを無理やり氷漬けにして封じ込めたような、奇妙な違和感が漂っていた。

 

 

『おう、着いたか。早かったな』

 

 数回の呼び出し音の後、スピーカーから鼓膜をヤスリで擦るようなしゃがれた声が響いた。

 クシノはスマホを耳に押し当てたまま、眉間を指で揉みほぐす。相手の顔が見えずとも、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているのが手に取るように分かった。

 

「着いたか、やありません。なんですかこれは。僕はボール職人やないんですよ」

 

 クシノは努めて冷静なトーンで抗議する。

 彼はサンデーメカニックではあるが、ボールという特殊なデバイスを一から造形する職人ではない。専門領域が違う。

 

『うるさい、腰が痛いんじゃ。それに、そのボール見ただろ? 派手に中からイッとる。あんな人工物の量産品、ワシの専門外じゃ。ボングリならともかく』

 

 ガンテツは悪びれる様子もなく、自身の不調と専門外であることを盾にする。

 確かに、彼の領分は天然素材のボングリを削り出す伝統工芸だ。工場でプレス成形された樹脂と金属の塊は、彼に言わせれば魂のないガラクタなのだろう。

 

「なら断ってください。メーカー修理も不可、これじゃゴミです」

 

 クシノはデスク上の残骸を見下ろしながら、冷徹に告げる。

 だが、ガンテツの返答は頑固だ。

 

『断れん。その若造、良い目をしておった。切羽詰まった、どうしようもない目だ』

 

 受話器の向こうで、ガンテツの声色がふっと低いものに変わった。

 偏屈な老職人の纏う空気が、一瞬だけ鋭くなる。数多のトレーナーとポケモンを見てきた彼独特の嗅覚が、依頼人の背後にただならぬ事情を感じ取ったのだろうか。

 

『だから言うてやったわ「ワシは動けんが、信頼できる一番弟子に送っておく。そいつなら直せるかもしれん」とな』

 

「誰が一番弟子ですか! 僕はただ、ボールの扱いを教わりに行っただけでしょう!」

 

 クシノは思わず声を荒げた。

 かつて、工芸品としてのボール作りに興味を持ち、ヒワダへ通って技法を盗んだのは事実だ。だが、それはあくまで趣味の延長であり、彼の跡を継ぐつもりなど毛頭ない。都合のいい時だけ師弟関係を捏造しないでいただきたい。

 

『ガハハ! 頼んだぞ、理事サマ』

 

「ちょっと、待ち」

 

 切断音。

 こちらの反論を許さず、一方的に通話が切断される。

 無慈悲な電子音だけが、虚しく防音室に響き渡った。クシノはスマホの画面を睨みつけ、それから目の前の『ゴミ』へと視線を落とし、深いため息を吐き出した。

 

 

 クシノは端末をデスクに放り投げ、再び目の前の残骸と対峙した。

 ピンセットで歪んだシェルの端を持ち上げ、検分する。やはり、酷い有様だ。

 

「スイッチがないどころの話やない。こんなもん、もうモンスターボールの体を成してないで」

 

 ただ物理的に繋ぎ合わせるだけなら造作もない。強力な接着剤とパテがあれば、球体の形に戻すことはできるだろう。だが、心臓部である開閉機構が完全に破壊されている。基盤は粉砕され、ヒンジは飴細工のように捻じ曲がっていた。

 これを修理するなど、時間をドブに捨てるようなものだ。新品を買ったほうが早いし、安いし、安全だ。

 クシノはマツバの手紙を睨んだ。

 丁寧な言葉の裏に隠された、異様な執着。それが宗教的な意味合いなのか、それともただのセンチメンタリズムなのか、文面からは読み取れない。

 このまま適当に形だけ整えて送り返すこともできるが、それでは恐らく依頼人も納得しないだろうし、何よりクシノ自身の職人としてのプライドが許さなかった。あのガンテツに良い目をしたと言わせた男だ。半端な仕事で誤魔化せば、後味が悪くなるのは目に見えている。

 

 クシノは端末のカレンダーをタップした。

 週末のスケジュールは空いている。

 

「しゃあない。週末、エンジュに行くか」

 

 彼は防音室のドアを開け、リビングでストレッチを再開していたアヤカの背中に声を張る。

 

「おい、今度の連休、エンジュに行ってくるわ」

 

 アヤカは動きを止めずに、鏡越しにクシノを見た。

 

「あら、そうなの? 急ね」

 

「この依頼主のとこに直談判に行く。相手を見ずに無理やとは言えんからな。ついでに、もっとええ香炉とか、香りの道具も探してくるわ。今の環境じゃアカン」

 

 半分は仕事、半分は趣味のリベンジ。いかにもクシノらしい理屈付けだ。

 アヤカは苦笑交じりに肩を竦めた。夫の奇行も急な出張も、この家では日常茶飯事だ。一度こうと言い出したらテコでも動かないことは、長年の付き合いで嫌というほど理解していた。

 

「はいはい、好きにしなさい。貴方がそう言い出したら止まらないのは知ってるから」

 

 彼女は再びトレーニングへと意識を戻しかけ、不敵な笑みで付け加えた。

 

「帰ってきたらちゃんと埋め合わせはしてね」

 

 

 エンジュジムの長い回廊を渡る足音だけが、静寂の中に吸い込まれていく。

 

 

 通された最奥の私室は、昼間だというのに黄昏のような薄暗さに沈んでいた。磨き上げられた床板や柱は長い年月を経て黒光りし、障子越しに差し込む陽光を柔らかく拡散させている。

 

 

 畳の匂いに混じって、どこからか線香の煙が漂っていた。先日、自宅の防音室で嗅いだあの焦げ臭い失敗作とは違う。凛として透き通り、それでいてどこか懐かしさを覚えさせるような、極上の白檀の香りだ。この空間そのものが現世とは異なる理で守られた、一つの結界であるかのような静謐さを湛えている。

 

 その部屋の中央、古めかしい掛け軸の前に正座して待っていたのは、このジムの主であるマツバだった。

 トレードマークのバンダナに、少し長めの髪。ジョウト地方でも屈指の実力者として知られる彼だが、その纏う空気は荒々しい武人のそれではない。どちらかといえば修行僧か、あるいはこの世ならざるものと対話する霊媒師に近い、底知れぬ静けさを孕んでいる。

 

 クシノはリーグ理事としての肩書きでアポイントメントを取っていたため、マツバの対応は極めて丁重だった。

 上座を勧められ、茶が出される。湯呑みから立ち上る湯気が消えるまでの短い間、儀礼的な挨拶が交わされた。

 一通りの用向きを伝えた後、クシノは懐からクシャクシャになったメモ用紙を取り出した。それは名刺代わりの、ガンテツからの無礼極まりない紹介状だ。

 クシノはそれを丁寧に伸ばし、畳の上を滑らせて差し出した。

 

「先日、これが送られてきました」

 

 マツバはそれを拾い上げ、達筆すぎる走り書きに目を走らせる。

 無言のまま数秒が過ぎた。

 やがて、マツバの端正な顔に驚きの色が浮かび、その不思議な色をした瞳が大きく見開かれる。彼は信じられないものを見るように、メモとクシノの顔を交互に見比べた。

 

「まさか、あのガンテツさんが一番弟子と呼ぶ方が、クシノ理事だったとは。驚きました」

 

 その言葉を聞いた瞬間、クシノは胃のあたりが重くなるのを感じた。あの老職人は、自分を厄介事に巻き込むために勝手な肩書きを捏造したのだ。遠いヒワダの空に向かって盛大な悪態をつきたい衝動をこらえ、クシノは苦々しい笑みを浮かべて首を横に振った。

 

「買いかぶりすぎです。僕はただの道具屋みたいなもんです」

 

 謙遜する言葉とは裏腹に、その表情には厄介事を押し付けられた被害者の色が隠しきれずに滲み出ていた。だが同時に、その否定にはプロとしての矜持も含まれていた。自分は伝統工芸の後継者ではない。現代の技術で解を導き出す、エンジニアなのだという自負が。

 

 

 クシノは懐から愛用のルーペを取り出し、マツバの目の前で再び検分を行う。ここからは完全に仕事の顔だ。

 指先で慎重にボールを回転させ、光にかざして素材の破断面と歪みをチェックしていく。

 

 まずクシノの目が捉えたのは、二つのシェルを繋ぐ要、ヒンジの歪みだった。

 金属疲労を超えた急激な負荷によって、軸がコンマ数ミリずれている。

 さらに、外装の赤い樹脂部分が内側からの圧力でめくれ上がり、鮫の肌のように波打っている。

 

「ヒンジが死んでます。これじゃ重心が狂って、投げた時にカーブがかかって狙った場所に飛びません」

 

 クシノはルーペを覗き込んだまま、淡々と事実を告げる。

 ボールは投擲具だ。わずかな歪みは空気抵抗の変化を生み、極限のバトルにおいては致命的なミスキャストに繋がる。

 

「シェルも全体的に削り直してバランスを取り直さんと、空力特性でおかしくなる。見た目だけ直しても、実用品としては三流以下です」

 

 クシノはボールを畳の上に置き、ルーペをしまうと、真剣な眼差しでマツバを見た。

 これは意地悪でも怠慢でもない。技術屋としての誠実な診断だ。

 

「半人前ですが、一人の職人として助言します。修理は諦めるべきだ」

 

 マツバの表情は動かない。ただ静かに、クシノの言葉を待っている。

 クシノは一呼吸置き、依頼人の未練を断ち切るように言葉を続けた。

 

「ヒンジを交換し、外装をパテで埋めて削り直せば、形にはなります。ですが、一度破断した素材の強度は元には戻らない。次に強い衝撃が加われば、今度こそ粉々に砕け散るでしょう」

 

 クシノは言葉を選ばず、冷徹な事実を突きつけた。

 

「新しいボールを買うのが、貴方にとっても、中に入るポケモンにとっても最善です。このボールは、もう寿命を迎えています」

 

 クシノが買い替えを強く勧めた、その瞬間だった。

 

 腰のベルトに装着していたモンスターボールが、主の意思とは無関係に弾け飛んだ。

 

 

 飛び出したのは、クシノの相棒であるヤミラミだ。彼は畳の上に着地するなり、部屋の隅にある天井付近の暗がりを睨みつけた。両目の宝石が怪しく煌めき、喉の奥から威嚇するような低い唸り声を上げる。

 

「なんや」

 

 クシノが驚いて相棒の視線を追うと、何もないはずの虚空が泥のように滲んだ。

 そこから紫色の塊が、染み出すように姿を現す。

 

 ゲンガーだ。

 

 丸々としたそのポケモンは、口元に不敵なニヤけ笑いを貼り付けていた。だが、その赤い瞳は笑っていない。クシノを、いや、たった今ボールを寿命だと切り捨てたこの男を、氷のような冷たさで観察している。

 室内の温度が数度下がったような錯覚を覚え、クシノは息を呑んだ。

 

 対してマツバは動じる様子もなく、静かに頭を下げる。

 

「すみません。悪戯が好きなもので」

 

 彼は宙に浮くゲンガーへ視線を向け、愛おしげに目を細めた。

 

「このボールに入っていたのは、この子なんです」

 

 クシノは眉をひそめた。このレベルのゲンガーを収めていたのが、あの無惨な残骸だったのか。

 

「ゲンガーが、このボールを気に入っているんです。他のボールだと落ち着かないようでして」

 

 マツバは淡々と、しかし譲れない一線を示すように言葉を継いだ。

 

「だから、中身の部品がどうなろうと構いません。たとえ機能が失われていても、この外殻だけは残してやりたいんです」

 

 妙な話だ、とクシノは内心で首を傾げる。

 一般的にポケモンとトレーナーの信頼関係があれば、ボールの種類など些末な問題だ。ハイパーボールだろうがモンスターボールだろうが、彼らは主の命に従う。特定の個体にこれほど執着するのは、単なる住み心地や愛着といった次元の話ではないように思える。もっと別の、重く、切実な何かがそこにはある。

 だが、現時点でのクシノには、それが何であるかを推し量る材料がなかった。単に、古い道具への異常な愛着を持つ偏屈なペアなのだろう。そう解釈するしかなかった。

 

 長い沈黙が落ちた。

 ヤミラミはまだ警戒を解かず、ゲンガーもまた、値踏みするようにクシノを見下ろしている。

 クシノは大きなため息を一つ吐き出し、覚悟を決めたように膝を叩いた。

 

「分かりました。引き受けましょう」

 

 マツバの表情がぱっと明るくなるのを制するように、クシノは人差し指を立てる。

 

「ただし、条件があります」

 

 クシノは事務的な口調で捲し立てた。

 

「第一に、動作保証はしません。投げた瞬間に砕けても文句は言わんこと。第二に、作業工程はお見せできません。僕のやり方でやらせてもらいます。第三に、納期は未定です。数ヶ月は待ってもらうことになる」

 

 それは職人としての防衛線であり、同時にこの厄介な依頼に対する精一杯の抵抗でもあった。

 しかしマツバは、その厳しい条件を前にしても表情を曇らせることなく、畳に手をついて深く頭を下げた。

 

「構いません。全てお任せします。どうか、よろしくお願いいたします」

 

 その姿は、ジムリーダーとしての威厳よりも、ただ一人の相棒を想う青年の純粋さに満ちていた。

 

 

 ジムを後にしたクシノは、鬱屈した気分を払拭するべく、エンジュシティでも最も格式高いとされる老舗の香木店へと足を向けた。

 

 暖簾をくぐると、店内は外界の喧騒が嘘のように静まり返っている。陳列棚には値札のない桐箱が並び、ほのかに甘い香りが漂う。

 クシノはカウンター越しに、この店の女主人へと声をかけた。元舞妓という噂を持つ彼女は、品の良い白髪を夜会巻きにし、年齢を感じさせない凛とした佇まいで帳簿をつけていた。

 

「家で伽羅を焚いても、どうも香りが立たんのです。もっと熱伝導のええ銀葉か、火持ちのええ特別な炭はありませんか? 今の環境じゃスペック不足やと思うて」

 

 クシノの問いかけに、女主人はゆっくりと顔を上げた。

 彼女はクシノの顔をじっと見つめ、それから彼が選ぼうとしていた高価な道具へと視線を移す。やがて、手にした扇子をパチリと開き、口元を隠して目を細めた。それはエンジュ言葉特有の、柔らかいがゆえに拒絶の色が濃い笑顔だった。

 

「そないな立派なもん、うちには置いてまへんわ」

 

 やんわりとした拒絶だった。だがクシノは食い下がる。道具屋に道具がないわけがない。

 

「そんなこと言わんと。金なら出します。最高の環境で香を聞きたいんです」

 

「お客さん」

 

 女主人の声が、冷ややかな鈴のように響いた。彼女は扇子を閉じ、その先端でクシノの胸元を、あるいはその全身を指し示すように空を切る。

 

「お香は正直ですさかい。焚く人の『におい』が混じると、どんな名木も台無しになりますえ」

 

「匂い?」

 

 クシノは己の袖口を鼻に近づけた。汗臭いだろうか。

 

「そないな物理的な話やありまへん。お客さん、今日はえらい『せわしない』匂いがしますなあ」

 

 女主人はそれだけ言うと、興味を失ったように再び帳簿へと視線を戻してしまった。

 

「出直しておくれやす」

 

 その言葉は、丁寧な挨拶の皮を被った、明確な退店命令だった。これ以上何を言っても無駄だと悟り、クシノは何も買えずに店を出るしかなかった。

 

 エンジュの石畳を歩きながら、クシノは納得がいかない様子で首を傾げる。

 

「せわしない匂い、か。風呂なら入ったんやけどな」

 

 彼は自分のシャツの襟元を摘んで匂いを嗅ぐ。かすかに柔軟剤の香りがするだけで、不潔な要素はないはずだ。

 あの女主人が放った嫌味の真意にまでは、今のクシノはまだ辿り着けていなかった。

 

 

 エンジュから戻った数日後の夜。

 

 クシノは自宅の書斎に籠もり、マツバから持ち帰った『患者』と向き合っていた。

 部屋の空気には、先日焚いて失望した伽羅の残り香が、未練がましく微かに漂っている。その焦げたような匂いが、今のクシノの鬱屈した気分と妙にリンクしていた。

 

 デスクの上には、洗浄液と脱脂綿、そして無数のマスキングテープが並んでいる。

 クシノはピンセットを使い、バラバラになりかけた外殻の破片を一つずつ拾い上げ、元の球体へと組み上げていく。それはさながら、爆発で飛び散ったジグソーパズルを、設計図なしで復元するような地味で神経を使う作業だった。

 

「酷いもんやな」

 

 指先で歪みを確かめるたび、ため息が出る。

 内側からの圧力で素材そのものが引き伸ばされており、無理やり合わせようとしても微妙にチリが合わない。全体が膨張するように歪んでおり、これを正円に戻すには、相当な手間と、素材を削り直す覚悟が必要になるだろう。

 

 黙々とテープで仮止めを続け、ある程度の形が見えてきた頃。

 クシノの手が止まった。

 

 違和感の正体は、物理的な欠損だった。

 外殻を繋ぎ合わせていくと、どうしても埋まらない空白が一箇所だけ生まれるのだ。

 それはかつて開閉スイッチが存在していた場所の周辺である。

 内部のバネや基盤が破損しているのは分かる。だが、それを覆っていたはずの外殻の一部、親指の先ほどの大きさの破片までもが、綺麗さっぱり見当たらないのだ。

 

「ないな」

 

 クシノは念のため、送られてきた段ボール箱の中身をもう一度ひっくり返した。クッション材の古新聞を一枚ずつ広げ、箱の隅々までライトで照らす。

 だが、その欠片はどこにもなかった。

 

 不自然だ、とクシノは思う。

 マツバという男は、見た目通り几帳面で繊細な性格をしているはずだ。現に、送られてきた手紙の筆致からもそれは見て取れた。

 そんな男が、これほど目立つ大きな破片を拾い忘れるだろうか。

 あるいは、爆発の衝撃で粉塵レベルまで砕け散ってしまったのか。いや、周囲の破断面を見る限り、そこまで脆い壊れ方はしていない。何かが抜け落ちている。

 

「捨てたんか? いや、直してくれ言うて持ってきたんやから、普通は欠片も残すやろ」

 

 意図的に隠したのか、それとも不可抗力で紛失したのか。

 このポッカリと空いた穴は、単なる破損という事実以上に、何か語るべき言葉を飲み込んだ口のようにも見えた。

 クシノの中に、得体の知れない違和感がこびりつく。

 

 違和感の正体を探るべく、クシノはルーペの倍率を上げ、さらにボールの深部へと視線を潜らせた。

 彼が注目したのは、ねじ切れたロックピンの断面だ。

 金属疲労や経年劣化ではない。瞬間的な過負荷によって引きちぎられた、荒々しい破断面。そこで、クシノの職人としての目が決定的な異変を捉えた。

 

 ピンの破断角度が、『ロック状態』の位置で固定されている。

 

 モンスターボールには、誤開放防止のための『マニュアル・セーフティ』と呼ばれる機構が存在する。腰から落とした際などに、衝撃で勝手にポケモンが飛び出さないようにするための物理的なロック機能だ。初心者のトレーナーには推奨される安全装置である。

 しかし、マツバのようなジムリーダー級の上級者は違う。

 彼らにとってコンマ一秒の遅れは敗北に直結する。実戦において即座にボールを展開するため、このロックは『常に解除』にしておくのが常識だ。クシノ自身、このスイッチを使った記憶など新人時代以来ない。

 

 だが、このボールは『ロックされた状態』で、内側から破壊されている。

 つまりマツバは、ボールが壊れるその瞬間、ゲンガーを『意図的に、絶対に出られないように閉じ込めていた』ことになる。

 

「なんでロックなんか掛けたんや」

 

 クシノは眉間の皺を深くした。

 マツバは言った「ゲンガーがこのボールを気に入っている」「愛着がある」と。

 だが、物証が語る事実は真逆だ。これは愛着の証ではない。『監禁』と『脱獄』の痕跡だ。

 マツバが無理やり閉じ込め、ゲンガーがそれを拒絶して、内側から鍵ごとぶち破ったようにしか見えない。

 

 現地で見た時、二人の仲は良好そうに見えた。あれは演技だったのか。

 それとも、マツバが何かゲンガーに対して後ろめたいこと、例えば虐待や無理な酷使をしており、それを隠すために「愛着」という美談にすり替えて修理を依頼したのか?

 

「いや、それはありえへんやろ」

 

 あのレベルのゲンガーが、例えば虐待されていたとしても、認めていない相手にあれほど従順になるはずがない。

 何より、あの時クシノに向けたあの視線は、助けを求めるものではなかった。

 

「気色が悪いな」

 

 依頼人の美辞麗句と、物証が食い違っている。

 単なる破損なら直せる。だが、そこにドロリとした悪意や歪んだ関係性が介在しているのなら、話は別だ。このまま直していいものか、クシノの中に迷いが生じた。

 

 彼は作業を中断し、カチャリと音を立ててピンセットを置く。

 

 物理的にスイッチが欠損している以上、部品がないと直せないのは事実だ。

 だがそれ以上に『なぜ壊れたのか』の本当の理由が分からないままでは、どんな修理を施すべきかの設計図が引けない。強度を上げて二度と壊れない檻を作るべきか、それとも壊れる余地を残すべきか。それはエンジニアリングの根幹に関わる問題だ。

 

「もう一回、行かなアカンか」

 

 最初はただの部品探しか、あるいは観光ついでと思っていた。だが、どうやら依頼人であるマツバという人間そのものを、もう少し深く掘り下げる必要があるようだ。

 クシノは書斎の天井を仰ぎ、重い息を吐き出した。

 

「厄介な仕事になりそうやなあ」

 

 

 夕食後の片付けを終え、リビングには穏やかな時間が流れていた。

 アヤカはソファに深く身を預け、湯気の立つハーブティーのカップを両手で包み込んでいる。鍛え抜かれた肉体を休める、Aリーガーとしてのリカバリーの時間だ。

 クシノはその隣で端末を操作していたが、ふと顔を上げて問いかけた。

 

「なぁアヤカ。お前、モンスターボールのロックスイッチ、使ったことあるか?」

 

 アヤカはカップから口を離し、少しだけ首を傾げた。

 

「ん? ロック機能?」

 

 彼女は記憶の底を探るように視線を宙に彷徨わせる。

 

「初心者の頃は使ってたけど。今はもう触ることもないわね。私たちみたいなトレーナーには、むしろ邪魔になる機能じゃない?」

「せやな」

 

 当然の答えだった。彼女は不思議そうにクシノを見る。

 

「どうしてそんなこと聞くの?」

 

「いや、今直してるボールがな、どうもロックされた形跡があるんや」

 

「へえ、珍しいわね。マツバさんほどの人が、そんな初歩的なミスをするなんて」

 

 アヤカは意外そうに目を瞬かせたが、すぐに考え込むような表情になった。

 

「あ、でも、あの人なら何か深い考えがあるのかもね。私たちの常識じゃ計れないような、特殊な戦術とか」

 

 彼女はマツバの実力を認めているからこそ『操作ミス』と断じることには懐疑的だった。クシノもまた、その意見には同意せざるを得ない。だからこそ、確かめる必要がある。

 

「実験がしたいんや。サーナイトを貸してくれへんか」

 

「サーナイトを?」

 

「ああ。あのゲンガーと同等の力を持つポケモンが、内側からロックされたボールを無理やり破る時、どんな壊れ方をするか見たいんや」

 

 物理的な破壊痕の再現実験。クシノらしいアプローチだ。

 アヤカは呆れたように苦笑し、カップをソーサーに戻す。

 

「また、物騒な実験ね」

 

 だが、その瞳には面白がるような色が浮かんでいる。

 

「いいわよ。あの子も最近体がなまってるみたいだし。ちょうどいいストレス発散になるかもね」

 

 彼女はソファから立ち上がり、クシノに向かって釘を刺すように人差し指を立てた。

 

「でも、場所は選んでね? 家の壁に穴を開けたら、修理費は貴方のお小遣いから引くから」

 

 

 翌日、クシノとアヤカはリーグ協会が管理する堅牢なトレーニングルームにいた。

 コンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれたこの部屋なら、多少の暴発が起きても問題はない。

 

 クシノの手には、パッケージから出したばかりの新品のモンスターボールが握られている。

 その対面には、アヤカのエースであるサーナイトが静かに佇んでいる。主の意図を汲み取り、彼女は既に臨戦態勢に入っていた。

 

「よし、頼むで」

 

 クシノがボールを掲げると、サーナイトは瞬く間に球体の中へ入る。

 

 手のひらに、質量が戻ると同時に蓋が閉まる密閉感が伝わった。

 

 クシノは間髪入れず、ボール中央のボタンを親指で深く押し込んだ。指先に硬い抵抗があり、内部でロックピンが噛み合ったことを告げる感触が返ってくる。これで物理的な施錠が完了した状態だ。

 

 クシノはボールを床に置き、数歩下がって距離を取った。

 

「よし、サーナイト。『出たい』と強く念じて、自力でこじ開けて出てきてくれ」

 

 指示が出た直後だった。

 床上のボールが、まるで意思を持った生き物のように激しく振動を始めた。赤と白の境界線から眩い光が漏れ出し、内部からの圧力が限界点へと達する。

 

 一際高い、硬質樹脂が限界を迎えてへし折れる破砕音が室内に響き渡った。

 

 ボールの上半分が弾け飛び、解放された光の中からサーナイトが涼しい顔で姿を現す。彼女は何事もなかったかのようにスカートの埃を払い、アヤカの元へと歩み寄った。

 

 クシノはすぐさま床に転がる残骸へと駆け寄り、検分を開始する。

 

「なるほどな」

 

 予想通り、ボールは壊れていた。

 上下のシェルを繋ぎ止めるための人工樹脂の爪が、根元から綺麗にねじ切れている。ロックされた状態で無理やり開こうとしたため、一番強度の低い部分が犠牲になったのだ。

 

 だが、クシノの表情は曇ったままだ。

 

 

 肝心のスイッチ部分は無傷で残っている。ロックピンは変形しているものの、マツバのボールのように跡形もなく粉砕されてはいなかった。

 

「これじゃアカンな。ただの『脱出』なら、ヒンジや爪が壊れるだけで、スイッチまでは吹き飛ばん」

 

 逃げたい、出たいという意思による開放では、力のベクトルが蓋を開ける方向に向く。だからこそ、留め具が弾け飛ぶだけで済むのだ。

 あの残骸のように、心臓部であるスイッチごと爆散させるには、もっと別の、破壊的なエネルギーの向きが必要になる。

 

 

 アヤカは顎に手を当て、床に転がる残骸を見下ろしながら何かを納得したように頷いた。

 

「やっぱり、ただ出るだけじゃ駄目なのね。貸して」

 

 彼女はクシノの手から新しいモンスターボールを引ったくると、サーナイトを内部へ戻し、なれない手つきでもたつきながらロックピンを押し込んだ。

 そして、部屋の隅へ移動しながらクシノに目配せをする。

 

「耳、塞いどいてね」

 

 忠告の意味をクシノが理解するよりも早く、アヤカはボールを床へと放り投げた。

 ボールが転がる音が止むか止まないかの刹那、彼女は喉を引き絞り、悲痛な叫び声を上げた。

 

「きゃああっ!! 助けて、サーナイト!!」

 

 その声には、長年連れ添ったパートナーの心臓を直接鷲掴みにするような、切実な響きが込められていた。演技と分かっていても背筋が凍るような、魂の叫びだ。

 

 反応は劇的だった。

 

 床のボールが赤熱し、一瞬にして元のサイズを無視するほどに膨張する。

 鼓膜を叩き潰すような轟音と衝撃波が、密閉されたトレーニングルームを揺るがした。

 爆風が巻き起こり、クシノは思わず腕で顔を覆って身を屈める。先ほどの実験とは桁が違う。それは脱出のための破壊ではなく、敵を排除するための爆撃に近いエネルギーの放出だった。

 

 舞い上がった粉塵が薄れる中、そこにはアヤカを背に庇い、半透明のサイコフィールドを展開したサーナイトの姿があった。その瞳は完全に据わり、見えざる敵を殲滅すべく殺気を漲らせている。

 

 アヤカはすぐにサーナイトの背中を抱きしめ、優しく撫でた。

 

「ごめんごめん、演技よ。ありがとうね、怖かったわね」

 

 主の無事を確認し、サーナイトの殺気が霧散していく。

 その横で、クシノは床に散らばる人工樹脂片を拾い上げていた。

 

 今度は、開閉スイッチの基部ごとねじ切れ、吹き飛んでいた。

 断面を確認すると、熱で溶けた飴のようにねじれ、引きちぎられている。あのマツバのボールに残されていた痕跡と、完全に一致する壊れ方だった。

 

「これや。この壊れ方や」

 

 クシノは確信と共に呟いた。

 ようやく全てのピースが噛み合った。なぜロックされていたのか。なぜスイッチごと吹き飛んだのか。そして、なぜマツバが「愛着」などという言葉を使ったのか。

 

「間違いない。あれは脱走やない。緊急救出や」

 

 クシノは掌の上の残骸を握りしめる。

 

「マツバさんの身に命に関わる危険が迫り、ゲンガーがなりふり構わず檻を爆破して助けに出たんや。ロックなんぞ関係ない。主を守るという意思が、物理的な機構そのものを消し飛ばしたんや」

 

 

 爆風が収まった部屋の隅で、クシノは散らばった残骸を一つ残らず拾い集めていた。

 サーナイトの放出したエネルギーによって吹き飛ばされた、モンスターボールの破片たちだ。

 熱で溶解し、ひどく歪んではいる。だが、クシノは掌の上でそれらを並べ、慎重に検分する。

 外殻の破片、内部のピン、バネに至るまで。すべての破片をかき集めた結果、紛失した欠片は一つとしてなかった。

 そこには、ただ形を変えただけのボールの全てが、確かに存在していた。

 

 クシノは掌にあるその塊を見つめ、眉間に深い皺を刻み込む。

 不可解だ。

 マツバから預かったボールには、この部分が欠落していた。

 箱の中も、梱包材の隙間もくまなく探したが、見つからなかったあの欠片。

 これほどの衝撃を受けてなお、形を留める強度がこのパーツにはある。ならば、あの事故現場にも、これと同じものが転がっているはずだ。

 マツバほどの男が、これほど目立つ赤い塊を見落として回収し忘れるとは考えにくい。あるいは、回収できない理由があったのか、意図的に残してきたのか。

 いずれにせよ、あの穴の空いたボールは、まだ全ての真実を語ってはいない。

 

 クシノは拾ったパーツを強く握りしめた。

 欠けたピースを埋めなければ、修理は始まらない。

 

「探しに行かんとな。その消えた破片の行方を」

 

 クシノの視線は、壁の向こう、遥か東にある古都エンジュの方角へと向けられていた。

 

 

 再び訪れたエンジュシティは、相変わらず古都特有の重厚な空気を纏っていた。

 

 

 瓦屋根の家並みを見下ろすように聳え立つ二つの塔。石畳を歩く観光客の喧騒すらも、この街が醸し出す長い歴史の静寂に吸い込まれていくようだ。

 クシノは足早に通りを抜け、エンジュジムの門をくぐった。観光に来たわけではない。鞄の中には、修復の道筋が見えないあの『患者』と、鋭い尋問の言葉が詰め込まれている。

 通されたのは前回と同じ、線香の香りが染み付いた薄暗い私室だった。

 

 クシノは上座に座るマツバに向き合い、検分の結果をまとめたメモを片手に淡々と切り出した。挨拶もそこそこに、本題へ入る。

 

「単刀直入に伺います。開閉スイッチ周辺の破片がごっそりありません。破片はあれで全部ですか?」

 

 その質問を予測していたのだろうか、マツバは僅かに視線を伏せ、申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「修行中の混乱で紛失しました。後になって探しましたが見つかりません」

 

 嘘をついている風には見えない。だが、真実を全て語っている風にも見えなかった。

 クシノは短く息を吐き、手帳にペンを走らせる。

 

「そうですか。なら、あの穴は別の素材で埋めます。オリジナルの部材がない以上、元通りにはなりません」

 

「構いません。お任せします」

 

 マツバの承諾を得て、クシノは次の、そして本命の質問へと踏み込んだ。

 

「それと、内部のロックピンが折れてました。あの時、ゲンガーにロックを掛けてましたね? 即応性が命のプロである貴方らしくない」

 

 その言葉が落ちた瞬間、湯呑みに添えられたマツバの指先が、一瞬だけ強く震えた。完璧に整っていた仮面のような微笑みに、微かな亀裂が走る。

 長い沈黙の後、マツバはほうと息を吐き出し、どこか憑き物が落ちたような、それでいて深い諦念を含んだ声を出した。

 

「よく気づきましたね」

 

 それは職人としてのクシノの眼力に対する、純粋な感嘆の響きだった。

 マツバは居住まいを正し、静かな瞳でクシノを見返す。

 

「あの子は悪戯好きでして。修行中、私の集中を乱さないようロックを掛けるようにしていました」

 

 淀みない回答だった。

 確かにゲンガーというポケモンの性質を考えれば、トレーナーへの過剰なちょっかいを防ぐために物理的に閉じ込めるという判断は、論理的には成立する。

 筋は通っている。

 だが、クシノの職人としての勘は、それが真実の全てではないと警鐘を鳴らしていた。あの破壊痕は、単なる悪戯っ子がかんしゃくを起こして暴れた程度のものではない。もっと切迫した、命懸けの脱出劇の痕跡だ。

 

 しかし、これ以上追求する材料はクシノの手元にはない。

 クシノは表情を崩さず、疑念を腹の底へと沈めた。

 

「なるほど。そういうことでしたか」

 

 彼は一旦、引き下がることを選んだ。深入りするには、まだ情報が足りなすぎる。

 

 

 マツバの言葉の裏を取るため、クシノはエンジュシティの演舞場へと向かった。

 朱塗りの柱と白壁が美しいその建物は、観光客向けの華やかさとは裏腹に、奥へ進むほどに人を拒むような張り詰めた空気が漂っている。

 受付で名を告げると、すぐに奥座敷へと案内された。事前にリーグ理事としての肩書きを利用してアポイントメントを取り付けていたため、表向きの対応はスムーズだ。しかし、廊下ですれ違う関係者たちの視線には、異邦人を警戒するような冷たさが混じっていた。

 

 通された最奥の座敷では、一人の年嵩の女性が、若い舞子たちの稽古をつけていた。

 彼女の名はサヨ。エンジュの舞子たちを束ねる顔役であり、その言葉は街の裏の掟そのものだ。

 クシノが入室すると、サヨは手に持っていた扇子をパチリと閉じて稽古を止め、ゆっくりと振り返った。

 

「お待ちしてましたえ、カントーの理事はん。わざわざご予約まで入れて、何の御用どす?」

 

 挨拶は丁寧だが、その瞳は笑っていない。

 クシノは一礼し、まずは部屋を見渡して感嘆の息を漏らしてみせた。

 

「いやあ、素晴らしい稽古場ですね。張り詰めた空気というか、凛とした緊張感がある。若い舞子さんたちの所作も、並大抵の鍛錬やないのが素人目にも分かりますわ」

 

「お褒めにあずかり光栄どす。伝統を守るというのは、そういうことですので」

 

 サヨは表情を崩さず、さらりと受け流す。

 

「伝統、ですか。そういえば、こちらのジムリーダーのマツバ君も、随分と伝統を重んじる方のようだ。僕のところに修行で壊れたボールを持ち込まれたんですが、その壊れ方がまた凄まじくてね。あんなになるまで打ち込むとは、エンジュの流儀というのは実に激しい」

 

 クシノは世間話の延長線上にあるような軽妙な口調で、しかし核心へと踏み込んだ。

 サヨの眉が、ピクリと動く。

 

「熱心なのは結構なことどす。あの方は誰よりも真面目やさかい」

 

「ええ、真面目すぎますわ。中身の機械が溶けてなくなるほど爆発させるなんて、普通の練習ではまずありえへん。あれじゃまるで、命のやり取りをした戦場の遺留品や」

 

 クシノは笑みを消し、探るような視線をサヨの瞳に突き刺した。

 

「マツバ君はただの事故やと言いましたが、僕はどうも腑に落ちんのです。あれは何かを守ろうとした『緊急救出』の痕跡に見える。エンジュの影で、何が起きてるんですか?」

 

 サヨはゆったりと扇子を開き、口元を優雅に隠した。その目元には、冷ややかな鉄壁の拒絶が浮かんでいる。

 

「何のお話か分かりまへんが、事故は事故。それ以上でも以下でもおへん」

 

「しらを切りますか。でも、僕は依頼人の命を預かる道具を直すんです。原因も知らんと適当に直して、また同じことが起きたら、次はマツバ君が死ぬかもしれん。貴女方はそれでええんですか」

 

 クシノの言葉に、座敷の空気が凍りついた。

 サヨの纏う雰囲気が、優雅な舞子のものから、街を守護する番人のそれへと変貌する。彼女は扇子を畳に向け、低い声で告げた。

 

「ここの話は『伝説』に関わること。マツバはんが背負うてるもんは、よそ者さんが土足で踏み入ってええ話やおへん」

 

 明確な拒絶。だが、そこには同時に、クシノの覚悟を計るような響きが含まれていた。

 クシノが一歩も退かずに視線を受け止め続けると、サヨはふっと息を吐き、獰猛な笑みを浮かべた。

 

「よろし。覚悟がおありやと。ほな、試させてもらいまひょか」

 

 サヨが短く手を叩く。

 その乾いた音を合図に、控えていた五人の舞子たちが音もなく立ち上がり、流れるような動作でクシノを取り囲んだ。彼女たちの振袖がふわりと舞い、その手にはそれぞれモンスターボールが握られている。

 

「エンジュの伝統、五人掛かりの勝ち抜き戦。マツバはんの背負う重み、それに触れる資格があるか、舞で計らせてもらいます」

 

 一対五。

 

「やれやれ。理事の仕事はデスクワークだけやないってことか」

 

 クシノは小さく嘆息すると、誰に聞かせるでもなくぼやいた。

 

「こういうのは、本来モモナリの仕事なんやがなあ」

 

 荒事専門の友人の顔を思い浮かべつつ、彼は羽織っていたジャケットを脱ぎ捨てた。バサリ、と床に落ちる音が、開戦の合図のように静寂を切り裂く。

 クシノは気だるげにネクタイのノットに指を掛け、左右に引いて緩めた。窮屈な締め付けから解放され、シャツの第一ボタンを外すと、喉仏と鎖骨が露わになる。

 続いて、カフスボタンを外し、袖を肘まで乱暴に捲り上げた。露わになった前腕には、職人として、そしてかつて戦士として鍛えた筋肉の筋が浮き上がっている。

 その一連の仕草は、大人の男だけが醸し出せる色気と、隠し持っていた野性を同時に滲ませるものだった。

 

 ただの道具屋でも、堅苦しい理事でもない。

 そこに立っていたのは、かつてカントー・ジョウトのプロリーグを生き抜いた、『元Bリーガー』としてのクシノだった。腐ってもプロ。その身に刻まれた闘争本能が、長い眠りから目を覚ます。

 

「お手柔らかに頼みますよ。こっちはブランク明けなんでね」

 

 言葉とは裏腹に、クシノが構えたボールからは、肌を焼くような濃密なプレッシャーが立ち昇っていた。

 

 

 静寂が戻った座敷には、荒い息を吐き、あるいは膝をつく五人の舞子たちと、戦闘不能となってリタイアしたポケモンたちが横たわっていた。

 ブラッキー、エーフィ、サンダース。

 エンジュの誇る精鋭たちが、完膚なきまでに沈黙している。連携も見事、個々の練度も高かった。だが、それでも届かなかった。

 

 対照的に、部屋の中央に立つクシノは、乱れた呼吸一つ見せていなかった。

 彼は手元のボールをシュルリと縮小させ、慣れた手つきで腰のホルダーへと戻す。額に汗一粒すら浮かんでいないその涼しい顔は、まるで軽い準備運動を終えた直後のようだった。

 クシノは床のジャケットを拾い上げ、パンパンと埃を払うと、呆然と扇子を取り落としているサヨの方を向いた。

 

「これで、お眼鏡に叶いましたか?」

 

 

 座敷に満ちていた殺気が、波が引くように消え去った。

 サヨは畳に膝をつき、深々と頭を下げた。それは敗北を認めた証であり、同時に一人の実力者に対する最敬礼でもあった。

 

「失礼いたしました。さすがは、修羅場を潜ってきはったお人や。ただの背広さんやありまへんな」

 

 サヨが扇子を揺らすと、敗れた舞子たちは無言のまま一礼し、襖の奥へと姿を消した。

 

 

 二人きりになった座敷で、サヨは居住まいを正し、先ほどまでの刺々しさを消して静かに語り始めた。

 

「あのお人は、稀代の『千里眼』どす。常人には見えへんもんが見えて、スズの塔にて遥か高みにおわす伝説のポケモン、ホウオウ様の背中を追うてはる」

 

 サヨの瞳に、畏怖と憂いが混じる。

 

「せやけど、最近は焦ってはるんか、深く潜りすぎて、時々、現世におらへんような目をしはるんです。生きたまま、あちら側の理に触れようとしてるみたいに」

 

 クシノは黙って耳を傾ける。マツバの浮世離れした雰囲気は、単なる性格ではなく、異能によるものだったということか。

 

「先日も、スズの塔でボヤ騒ぎがありました。マツバはんが修行中に倒れて、相棒のポケモンが命からがら助け出したとか。きっと、貴方様の言う通り、あの子が無理やり連れ戻したんでしょう」

 

 サヨは身を乗り出し、クシノの手を両手で包み込んだ。その掌は冷たく、小刻みに震えている。

 

「理事はん、お願いどす。直したっておくれやす。あのお人が、空の向こうへ飛んで行かんように。現世に魂を繋ぎ止める重石を、あんたはんの手で作っとくんなはれ」

 

 それは依頼というより、悲痛な祈りに近かった。

 

 

 演舞場を出たクシノは、暮れなずむエンジュの街を歩きながら情報を整理した。

 サヨの話で、推測の大部分は裏付けられた。

 マツバの修行は命懸けであり、精神世界か何かへのダイブを行っている。あのボールの破壊痕は、限界を超えたマツバをゲンガーが強制的に現実へ連れ戻す際の緊急救出によるものだ。

 動機も、状況証拠も揃った。

 

 だが、たった一つ。物理的なパーツの消失という一点だけが、まだ論理的に説明がつかない。

 

 スズの塔での事故なら、現場は物理的な床の上だ。どれだけ激しく爆発しても、あの目立つ赤い人工樹脂片が見つからないはずがないのだ。

 

「まさか」

 

 クシノの脳裏に、ふとオカルトめいた仮説が浮かぶ。

 マツバが見ている世界。ゲンガーが干渉できる領域。

 

 もしもあの事故が、物理的な場所ではなく、もっと境界線に近い場所で起きたとしたら。

 

「現世やなくて、あちら側に落ちたとでも言うんか?」

 

 消えた破片は、現実世界にはもう存在しないのではないか。

 クシノは鼻を鳴らし、バカバカしいとばかりに頭を振って苦笑した。

 

「いやいや、まさかな。幽霊じゃあるまいし」

 

 だが、その背筋には、言い知れぬ寒気がへばりついて離れなかった。

 

 

 演舞場を後にしたクシノが石畳の道を歩く頃には、エンジュの街はすっかり茜色に染め上げられていた。

 

 西の空に沈みゆく太陽が、スズの塔の巨大なシルエットを長く、長く引き伸ばしている。その影はまるで、この古都の歴史そのものが路地に横たわっているかのような重圧感を放っていた。

 

 クシノはポケットに手を突っ込み、足元の影を踏みながら思考を巡らせる。

 サヨの言葉と、マツバの現状。そして、依然として行方の知れない物理的な破片。

 魂を繋ぎ止める重石を作れ、と彼女は言った。だが、肝心の材料も設計図も、決定的な何かが欠けたままだ。オカルトめいた仮説を打ち消しはしたものの、現実的な解決策が見つかったわけではない。

 

 その時、腰のホルダーでカチリと硬質な音が鳴った。

 クシノが反応するよりも早く、装着していたモンスターボールの一つが独りでに開放され、白い光が石畳の上に奔る。

 実体化したのは、クシノの相棒であるヤミラミだった。

 

「おい、また勝手に出てきおって。ここは散歩コースちゃうぞ」

 

 クシノが呆れて声をかけるが、ヤミラミは主の方を振り返りもしない。

 彼は宝石のような瞳を輝かせ、何かに吸い寄せられるように路地裏へとふらふらと歩いていく。そして、朽ちかけた小さなお堂の軒下で立ち止まり、じっと頭上を見上げた。

 ヤミラミは宝石や貴金属、光るものを好む習性がある。その視線の先を追うように、クシノも見上げた。

 

 そこには、夕日を受けてキラリと儚げな光を放つものがあった。

 軒先に吊るされた、古いガラスの風鈴だ。

 かつては涼やかな音色を奏でていただろうそれは、しかし今は半分以上が割れて欠損していた。舌と呼ばれる音を鳴らす部品も失われているのか、あるいはガラスの共鳴する部分がないからか。夕暮れの風を受けてくるくると虚しく回るだけで、音はしない。

 

 チロリ、とも鳴らない。

 ただ光を反射し、沈黙を守ったまま揺れている。

 

 風鈴を見上げるクシノとヤミラミの背後から、ザッ、ザッ、と竹箒が砂利を掃く規則正しい音が近づいてきた。

 

「お珍しい。その壊れた風鈴が気になりますかな」

 

 声をかけてきたのは、このお堂を管理しているのだろう、作務衣を着た古老だった。深い皺が刻まれた顔には、枯れ木のような穏やかな笑みが張り付いている。

 クシノは慌てて姿勢を正し、丁寧な口調で問い返した。

 

「ええ。なぜ、直さずにそのまま吊るしてあるんですか。何か意味が?」

 

 職人としての純粋な疑問だった。道具は本来の機能を果たしてこそ美しい。音が鳴らない風鈴は、死んだも同然ではないか。

 古老は箒の手を休め、夕日に揺れるガラスの残骸を見上げた。

 

「スズの塔の大鐘は、伝説のポケモンであるホウオウ様を呼ぶためのもの。ゆえに、一点の曇りもない完璧で重厚な音が求められます」

 

 古老の視線が、遥か高みに聳える塔へと向けられる。そして再び、目の前の小さな風鈴へと戻された。

 

「対して、この風鈴はホウオウ様の帰りを、風の余韻を聴くためのもの。壊れて音が鳴らなくなっても、風が吹けば揺れますわな」

 

「揺れる?」

 

「そうです。音は聞こえずとも、神である風は今ここにおる。壊れた風鈴は、それを目で見て感じるための標なんですわ」

 

 クシノはハッとして風鈴を見つめ直した。

 音はしない。だが、ガラス片は確かに揺れ、夕日を反射してキラキラと輝いている。そこに見えない風が存在することを、その身の揺らぎだけで証明している。

 音が鳴らないから捨てるのではない。壊れていても、そこに風があることを教えてくれる機能は生きている。

 その考え方は、スイッチという心臓部を失ってもなお、ゲンガーとの繋がりを証明するために側を残そうとする、あのマツバの姿と痛いほどに重なった。

 

「なるほど。深いもんですね」

 

 クシノは感銘と共に、ある一つの恐ろしい仮説の裏付けを取ることにした。

 

「つかぬことを伺いますが。この街の修験者たち、つまりマツバ君たちが行う修行というのは、どのようなものなんです」

 

 古老は少しだけ目を細めた。値踏みするような視線ではなく、哀れむような、あるいは戒めるような静かな瞳だ。

 

「彼らの修行は境界超え。五感を極限まで遮断し、仮死状態に近い瞑想に入ることで、生者と死者の境界を曖昧にする荒行です」

 

 古老の声が、夕暮れの空気に溶けていく。

 

「成功すれば、常人には見えぬものを見る千里眼が開く。ですが、失敗すれば魂があちら側へ引っぱられて、二度と戻れんようになる」

 

 クシノの中で、全ての辻褄が合った。

 やはり、そういうことか。

 あのボールの爆発は、境界を超えて彼岸へ渡りかけたマツバを、ゲンガーが無理やり現世へ叩き戻した際の衝撃だ。物理的なロックなどという生ぬるい壁ではなく、次元の壁ごとぶち破るような救出劇。

 

 そして、消えたパーツについてだ。

 

 単純に見落としたというつまらない理由かもしれない。クシノはまず、その可能性を脳内で反芻した。爆風でどこかの隙間に挟まったか、あるいは掃除の際うっかり捨ててしまったか。そうであれば、どれほど気が楽だろうか。

 

 あちら側へ落ちた、などというオカルトは信じられない。だが、物理的にこれだけ探して無いのだとしたら、現世には無いと考える方法もあるのかもしれない。

 霊的な消滅か、次元の狭間への落下か。

 

 クシノは古老に礼を言い、深まる夜の闇を見つめた。

 

「厄介なこっちゃ。ほんまに、僕の専門外や」

 

 クシノはヤミラミが見つけた、割れた風鈴をじっと見つめた。

 夕闇の中で、その鋭利な破断面が最後の光を吸い込み、鈍く輝いている。

 マツバのボールに空いた、埋まらない穴。あそこを塞ぐべき素材は、ありふれたプラスチックや、無骨な金属であってはならない。

 壊れていても風を感じられる、目に見えないものを映し出すこのガラスこそが、あの修験者の持つ特殊なボールには相応しい。

 

 だが、そこらに転がっているガラス片を適当に詰めるだけでは、プロの仕事とは言えない。強度が足りないし、何より寸法が合わない。

 ボールの球体としての曲面を完璧に再現し、かつ爆発的な衝撃にも耐えうる硬度を持った、あの穴に吸い付くような特注のガラス栓が必要だ。既製品には存在しない、世界にたった一つのパーツ。

 

 クシノは懐から手帳を取り出し、スケジュールを確認した。

 来週の予定を指でなぞり、空白を見つけると、そこに力強くペンを走らせる。

 

「来週、もう一度ここへ来なアカンな」

 

 誰に聞かせるわけでもなく、クシノは小さく呟いた。

 このエンジュシティには、古くから伝わるビードロの工房があるはずだ。そこで窯を借り、自分自身の手でガラスを吹き、削り出し、焼き上げる。

 マツバという男が失くした目、あるいは彼岸を覗くためのレンズの代わりは、このクシノが作る。

 

 クシノの決意を知ってか知らずか、ヤミラミが長い爪を伸ばし、軒下の風鈴を掠め取ろうとした。彼にとってそれは、ただの魅力的な光るガラクタでしかない。

 彼はすかさず相棒の首根っこを掴み、ぐいと引き寄せた。

 

「手癖の悪いやっちゃな。神の帰りがわからんくなるやろが」

 

 不満げに唸るヤミラミを、クシノは強制的にボールへと戻す。

 

「そんな脆いモンじゃあかん。俺がもっとええもんを作ったる」

 

 クシノは夕闇に沈みゆくスズの塔を一瞥した。

 巨大な塔は、生者と死者の世界を繋ぐ墓標のように、圧倒的な存在感で街を見下ろしている。あそこには、人の身では触れてはならない領域があるのかもしれない。

 だが、技術屋には技術屋の意地がある。

 クシノは口の端を吊り上げ、見えない相手に向かって不敵に笑った。

 

「待っとけよ、天才。お前を現世に縛り付ける、極上の鎖を用意したるわ」

 

 

 深夜の書斎は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれていた。微かに漂う香の甘い匂いが、張り詰めた神経を心地よく鎮めていく。

 クシノはデスクの上に、厚手の黒いフェルト布を広げた。光を吸い込むその漆黒の舞台へ、小袋から取り出した赤いプラスチック片を丁寧に並べていく。

 

 これらはかつて、内部からの凄まじい爆発によって、ささくれのように外側へめくれ上がっていたボールの残骸だ。触れれば指を切るほど鋭利で、拒絶の意志をそのまま形にしたような荒々しい断面を持っていた。

 だが今、デスクライトに照らされた破片たちは、穏やかな曲線を描いている。

 

「あんな盛大な音が出る作業、マンションじゃできんわな」

 

 クシノは満足げに一つ頷き、独りごちた。

 彼は昼間の行動を思い返す。街のレンタル防音工作室に籠もり、高速回転するリューターとヤスリを駆使して、徹底的に不要な部分を削り落としてきたのだ。

 耳をつんざくような切削音と共に、ねじ切れ、毛羽立っていた樹脂の傷跡は粉塵となって消え去った。

 

「綺麗さっぱり、破壊の記憶は消えたか」

 

 ここに在るのは、痛々しい過去の傷跡ではない。

 再構築の時を静かに待つ、清潔なピースだけだった。

 

 クシノはピンセットを手に取った。その先端ですくい上げたのは、麦漆と呼ばれる粘度の高い接着剤だ。金継ぎにも使われるその古風な接合材を、削り出した破片の断面へ慎重に塗布していく。

 呼吸を止めた。

 指先の僅かな震えさえも許されない精密作業が続く。部屋には、ピンセットがプラスチックに触れる微かな音だけが響く。それはまるで、バラバラになった記憶のパズルを埋めていく儀式のようだった。赤いシェルと白いシェルが、一枚、また一枚と噛み合い、徐々に本来の球体としての姿を取り戻していく。

 

 全てを繋ぎ終え、固定用のマスキングテープを貼った時、そこに明確な空白が浮かび上がった。

 

 場所はボールの頂点、開閉スイッチが収まる円形の枠のすぐ隣だ。

 スイッチのハウジング部分に寄り添うように、親指大のいびつな穴がぽっかりと口を開けている。まるで、そこだけ世界から切り取られたかのような欠損だった。

 

 クシノはテープで固定された仮組みのボールを持ち上げ、様々な角度からその穴を覗き込んだ。長い沈黙の後、彼は独り言のように漏らす。

 

「スイッチごと吹っ飛んだわけやない。ロックされた扉を避けて、その横の壁が弾けたんか」

 

 その穴の形が、あの夜の真実を雄弁に語っていた。

 ゲンガーは、ロックされたスイッチそのものを破壊したのではない。開かない扉を無理にこじ開けるのではなく、扉の横にある装甲そのものをブチ破って、主を外へと引きずり出したのだ。

 

 クシノは引き出しから、工業用のモデリング粘土を取り出した。

 指先で練り、柔らかく温めた青色の塊を、その虚ろな穴へと慎重に押し当てていく。内部の湾曲、破断面のギザギザとした凹凸。それらすべてを正確に転写し、これから作るガラスパーツの礎とするためだ。

 ゆっくりと引き抜かれた粘土には、破壊の痕跡が生々しく象られていた。

 それは歪で、しかしゲンガーのなりふり構わぬ脱出劇の記録そのものとして、クシノの手のひらに残された。

 

 クシノはトレイから、メーカーから取り寄せた新品のスイッチユニットとヒンジを指先で摘み上げる。

 物理的なスペースは確保されている。この真新しい心臓部を埋め込むことは、造作もない作業だ。

 だが、彼の手はそこで止まる。

 問題は、このスイッチが持つ機能をどこまで復元するか、という点にある。

 

 新品のユニットをそのまま組み込めば、当然ながらマニュアル・ロック機能も復活する。マツバは再び、己の都合でゲンガーを閉じ込めることが可能になる。職人としての正解は、間違いなくこちらだ。依頼された通り、元通りに直す。だが、それではまたあの悲劇が、いや、次は取り返しのつかない惨劇が繰り返されるのではないかという懸念が拭えない。

 

 一方で、内部のロックピンをあえて削り取るという選択肢もある。

 押せば開くが、ロックはできない。絶対に閉じ込められない仕様への改造。トレーナーとしてのクシノ、そして一人の人間としての感情は、強くこちらを推していた。しかし、依頼人の意図を無視して勝手に仕様を変えるのは、職人の越権行為であり、傲慢以外の何物でもない。

 

 クシノは長く息を吐き、迷いを断ち切るようにユニットをトレイへと戻した。

 今は決められない。

 この答えは、あの穴を塞ぐガラス、すなわち新しい目を入れて、全体のバランスを見てから決めることにした。

 

 接着に使用した麦漆が乾き、実用レベルの強度が戻るまでには数週間を要する。漆は時間を食う素材だ。だが、そのタイムラグこそが今のクシノには好都合だった。

 

 

 この穴が塞がるのを待つ間に、埋めるべきものを作ってくる必要がある。

 

 クシノは、つぎはぎだらけのボールを、湿度管理された乾燥箱、通称ムロの中へと恭しく寝かせ、静かに蓋をした。暗闇の中で、ボールは再生の時を待つ。

 クシノは鞄に愛用のスケッチブックと、使い慣れた道具を詰め込んだ。

 向かう先は再び、古都エンジュシティ。

 あの街にあるガラス工房で、あの虚ろな空白を埋めるための、特注の光を作り出すのだ。

 

 

 エンジュシティの街外れ、静かな森の入り口にそのガラス工房はあった。

 借り受けた作業台の前で、クシノは道具を整然と並べていく。その手つきは、これから芸術作品を作るというよりは、外科手術の準備をする医師のように冷徹で合理的だった。

 

 彼が鞄から取り出したのは、二つの特注治具だ。

 一つは、ボールの欠損部分を粘土で写し取り、それを元に耐火石膏で起こした白い雌型。

 もう一つは、モンスターボールの表面と完全に同一の曲率半径を持つよう削り出された、黒鉛の雄型ブロック。

 

 クシノが酸素バーナーのバルブを開くと、ガスのはじける音と共に鋭い青い炎が噴き出した。

 背後では、この工房の主である老職人が、珍しい客の手元をじっと見守っている。最初は単なる場所貸しのつもりだったのだろうが、今はその目に真剣な鑑定の色が浮かんでいた。

 

 クシノの手には、透明度の高いガラスロッドが握られている。

 二千度の炎の中で赤熱し、水飴のように柔らかくなったガラスの塊を、彼は躊躇なく操作した。

 狙いは一点。

 溶けたガラスを石膏の雌型へと正確に流し込み、間髪入れずに上から黒鉛の雄型をプレスする。

 

 微かな音。

 黒鉛の型を通じ、クシノの指先に確かな手応えが伝わる。

 下からは複雑怪奇な破断面の形状を、上からはボールとしてあるべき完璧な曲面を。二つの型でガラスを挟み込むことで、かつてそこに存在したはずの壁を強制的に再構築する。

 重力と温度、そして事前の準備だけが支配する数秒間。

 クシノの額に脂汗が滲むが、その瞳は炎の照り返しを受けて鋭く光り、瞬きすらしなかった。

 

 長い徐冷時間を経て、完成したガラス片が作業台の上に置かれた。

 老職人が無言でノギスを手に取り、その小さなガラスの塊を挟み込む。

 数カ所を計測し、さらに光にかざして歪みをチェックする。

 やがて、彼はふぅと深く長い息を吐き出した。

 

「コンマミリの狂いもおへん。用意周到な治具と、それを使いこなす迷いのない手際。ええ仕事や」

 

 老職人はノギスを置くと、ガラスではなくクシノの顔を、値踏みするようにまじまじと見つめた。

 

「兄ちゃん、歳はいくつや。ここの窯、継ぐ気はないか」

 

「は?」

 

 突然の言葉に、道具を片付けていたクシノの手が止まる。

 老職人は冗談を言っている目ではなかった。切実な、後継者不足に悩む親方の目だ。

 

「わしの代で畳むつもりやったが、その腕と段取りの良さ、埋もれさすには惜しい。なんなら、まだ嫁に行ってへん娘もおるんやが」

 

 工房ごと、いや家ごと託そうとする勢いだ。最大限の賛辞であり、同時に最も重たい勧誘である。

 クシノは苦笑し、丁重に、しかしきっぱりと首を振った。

 

「ありがたい話ですが、丁重にお断りします。あいにくですが、家には妻がおりますので」

 

 それを聞いた老職人は、クシノの顔をまじまじと覗き込んだ。

 炎と格闘した後だというのに涼やかな目元、整った鼻筋。職人としての腕だけでなく、男としての器量も申し分ない。

 老職人は、そらそうかと納得したように何度も頷いた。

 

「せやな。その顔でその腕や、引く手あまたか」

 

 彼は深く、心底残念そうにため息をついた。

 

「惜しいなあ。もっとはよう出会えたらなあ」

 

 その嘆きを背中で受け流しつつ、クシノは完成したガラスの瞳を、綿を敷き詰めた小瓶へと丁寧に収めた。

 透明なガラスは、瓶の中で周囲の光を集め、静かに輝いている。それはまるで、これから嵌め込まれるべき場所を予期して息づいているようだった。

 

 礼を言って工房を後にするクシノの足取りは軽い。

 最難関のパーツは、論理と準備によって手に入れた。あとは仕上げるだけだ。

 

 

 夕闇がスズの塔の参道を黒く塗りつぶそうとしていた。

 ヤミカラスの鳴き声が遠く響く中、クシノは参道の脇にある石灯籠にもたれかかり、腕を組んで静かにその時を待っていた。

 

 やがて、砂利を踏む規則正しい音が近づいてきた。

 白い修行着に身を包んだマツバが、塔の方から降りてくる。修行の疲労か、その足取りは重いが、顔つきは研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。

 

 彼は待ち構えていた背広姿の男に気づくと、足を止めた。

 

「クシノさん。こんなところで、待ち伏せですか」

 

 マツバは僅かに眉を寄せた。

 クシノは石灯籠から背を離し、飄々とした態度で向き直る。

 

「ちと、こっちの方に野暮用がありましてね。精が出ますな」

 

 白々しい言い訳を口にするクシノに対し、マツバは静かにため息をついた。彼はクシノの顔を真っ直ぐに見つめ、少し申し訳無さそうに、しかしどこか探るような響きを含んで問いかけた。

 

「修理に、行き詰まりましたか」

 

 その言葉には、諦念に近い予感があった。あの粉々の惨状を見れば、直せないと判断するか、あるいは特殊なパーツが足りずに匙を投げたと考えるのが普通だ。マツバの瞳の奥には、期待外れだったという落胆と、やはり駄目だったかという感情が複雑に混ざり合っているように見えた。

 

 だが、クシノは即座に否定した。

 

「いいえ。素材は用意しました」

 

 マツバが意外そうに目を丸くする。クシノはその反応を見逃さず、さらに言葉を重ねた。

 

「その前に、答え合わせをさせてください」

 

 クシノは懐から、小さなチャック付きの小袋を取り出した。

 夕闇の中で、袋の中身が微かにチャリと音を立てる。入っているのは、顕微鏡で検証した際に採取しておいた、ねじ切れた金属ピンと、高熱で溶解したスイッチの基部だ。

 クシノはそれをマツバの目の前に突きつけた。

 

「以前、ロックの話はしましたね。でも、改めて断面を見て確信しました」

 

 クシノは言葉を区切り、マツバの表情を観察する。

 

「これは、ただ外に出たいと暴れて壊せるもんやない。樹脂が熱で溶けるほどのエネルギー、つまり瞬間的な爆発負荷がかかっています」

 

 ただの脱走なら、もっと物理的な爪痕が残るはずだ。だが、これは違う。

 クシノは射抜くような視線をマツバに向けた。

 

「これは脱走なんかやない。ロックを解除する暇すらない、一刻を争う緊急事態が起きたんやないですか」

 

 沈黙が落ちた。

 マツバは証拠品を見つめ、観念したように静かに頷いた。

 

「お見通しですね」

 

 彼は視線を外し、闇に沈む塔の頂上を見上げた。

 

「ぼくは、焦っていました。いつまでもホウオウに認められない、自分自身の不甲斐なさに」

 

 マツバの独白が、夜の帳に溶けていく。

 

「だから、誰よりも深く潜ろうとした。その結果、生者の領域を超え、この世ともあの世とも隔絶された、安定しない世界にまで意識が落ちてしまったのです」

 

 よくわからない単語の出現に、クシノは首を捻る。

 

「隔絶された世界?」

 

「そこには、何もありませんでした。ただ、強大なドラゴンのような影が蠢いていて。ぼくは愚かにも、それにコンタクトを取ろうとした」

 

 マツバの声が僅かに震えた。それは未知への恐怖か、己の無謀さへの悔恨か。

 

「ですが、あちらの世界の圧力が強すぎた。私の魂ごと、向こう側へ飲み込まれそうになりました」

 

 その時だ。

 マツバの腰元で、ゲンガーが動いたのは。

 

「ゲンガーはそれを察知したんです。ロックされた装甲を内側からブチ破り、私の影を掴んで、無理やり現世へ引き戻してくれた」

 

 それが、あの爆発の正体だった。

 出入り口が開かないのなら、壁ごと破壊してでも主を救い出す。忠誠心が生んだ、荒療治そのものの救出劇。

 

「その時の衝撃で、ボールは弾け飛びました」

 

 マツバは寂しげに笑い、クシノの手にある小袋を見た。

 

「スイッチ周りのパーツが見つからないのも当然です。あれは、私の身代わりになって、その隔絶された世界へ吸い込まれたのでしょう」

 

 物理的なパーツの消失。その不気味な謎の答えは、あまりにもオカルトじみていたが、クシノは不思議と納得していた。

 理屈で説明できない現象が起きるのが、この世界だ。

 

 ドラゴンのような影、隔絶された世界。

 それが何処なのか、その影の正体が何なのか。そんなことは、クシノの知ったことではなかった。

 重要なのは、この依頼人が人智を超えた危険な領域に片足を突っ込みかけ、それを物理的な破壊によって回避したという事実だけだ。

 現象の裏付けさえ取れれば、対策は立てられる。

 

「ようやく、全部の図面が引けましたわ」

 

 クシノは重苦しい空気を払うように、努めて明るい声を出した。

 彼は別のポケットから、綿の詰まった小瓶を取り出す。中から取り出したのは、エンジュの工房で削り出したばかりの、透明なガラスのパーツだ。

 残照にかざすと、その小さな欠片は周囲の風景を歪曲させながら、凛とした輝きを放った。

 

「事情は分かりました。なら、こうします」

 

 クシノはガラスを指先で弾き、マツバに突きつけた。

 

「スイッチの機能は殺します。内部のピンを削り取って、もう二度と、彼を閉じ込められんようにする」

 

 それは依頼内容への背信であり、職人としての越権行為だ。だが、クシノの目は笑っていなかった。

 

「その代わり、パーツが消失したあの空洞には、このガラスを嵌めます。中が見える窓です」

 

「窓、ですか」

 

「ええ。スイッチの代わりに、いつでも相棒の顔が見える覗き穴や」

 

 クシノはマツバの胸元を指差した。そこには、常に彼を支える影がいるはずだ。

 

「自分は一人じゃないってことを確認してから、修行に行きなはれ。それが、このボールを直す条件です」

 

 覗けば、そこには必ず相棒がいる。

 その視覚情報こそが、彼岸へ引かれるマツバの魂を現世に繋ぎ止める、最強のアンカーになるはずだ。

 

 マツバは、夕日を通して輝くそのガラスを、眩しそうに見つめた。

 それは失った機能の代用品などではない。自分の弱さを補い、過ちを許すための、新しい瞳だ。

 彼は静かに目を閉じ、クシノに向かって深々と頭を下げた。

 

 

 エンジュシティから戻って数日が過ぎた夜、クシノは書斎にある特別な木箱の前に立っていた。

 室と呼ばれる、湿度と温度が厳格に管理されたその箱の蓋を、静かに持ち上げる。

 漂い出るのは、独特の甘く湿った漆の香りだ。

 

 クシノが取り出したのは、かつては無残な破片の集合体だったボールの外殻である。

 数週間の時間をかけて寝かせたことで、繋ぎ目に施した接着剤は完全に硬化し、本来の強度を取り戻していた。硬質な赤い球体には、継ぎ接ぎの黒い線が走っている。それは傷跡というよりは、新たな血管のようにも見えた。

 そして頂点、スイッチユニットが収まるべき場所のすぐ隣には、親指大の歪な穴がぽっかりと口を開けて待っている。

 

「よう寝たな。さて、新しい目を入れたろか」

 

 クシノはボールを固定台に据え、準備に取り掛かった。

 ガラス板の上に、少量の小麦粉と、精製前の生漆を垂らす。それをヘラで丹念に練り合わせていく。

 粉と樹液が混ざり合い、次第に飴色の粘り気のあるペーストへと変化する。これが麦漆と呼ばれる、古来より伝わる強力な天然接着剤だ。

 

 モンスターボールという特殊な樹脂素材と、ガラス。本来は馴染まない異素材同士を、衝撃に耐えうる強度でガッチリと繋ぐには、これくらいの粘りと時間が必要になる。

 ヘラを持ち上げ、糸を引く漆の粘度を目で確認し、満足げに頷いた。

 

 いよいよ、異質な融合の時だ。

 小瓶から、エンジュの工房で自ら削り出したガラスの栓を取り出す。

 ピンセットで慎重に摘み上げ、ボールの欠損穴へと運ぶ。まだ接着剤は塗らない。寸法の最終確認だ。

 硝子の塊が、赤い樹脂の空洞へと滑り込む。

 

 カチリ。

 

 軽やかな音と共に、ガラスは穴の中へと収まった。

 指先で揺すると、カタ、と僅かに動く遊びがある。周囲に髪の毛一本分ほどの隙間があり、表面もボールの曲面よりコンマ数ミリだけ沈んでいる。

 失敗ではない。

 この『遊び』こそが、粘度の高い麦漆が入り込み、強固な接着層となるための計算された『糊代』だ。

 クシノは満足げに頷き、一度ガラスを取り出した。

 

 ガラスの側面と、ボールの穴の断面に、先ほど練り上げた麦漆を竹べらで薄く、均一に塗布していく。

 多すぎればはみ出して美観を損ね、少なければ隙間が埋まらず強度が落ちる。職人の勘と経験が試される一瞬だ。

 呼吸を整え、再びガラスを穴へ沈める。

 

 重たい抵抗感があり、ガラスがゆっくりと定位置へ吸い込まれていく。

 先ほどまでの隙間には漆が充填され、沈んでいた表面は、漆の厚みの分だけ持ち上がり、ボールの外殻と完全に一致した。

 計算通りだ。

 はみ出した僅かな漆を、油を含ませた布で素早く、かつ丁寧に拭き取る。

 

 ガラスが自重でズレないよう、マスキングテープで軽く固定すると、クシノは作業の手を止めて全体を眺めた。

 赤い硬質な曲面の中に、一つだけ透明な窓が生まれている。

 そこからは内部の構造が透けて見え、光を取り込み、また外の世界を映し出す。

 

 しかし、まだ完成ではない。

 ここから漆が芯まで乾き、異素材同士が分子レベルで馴染んで完全に一体化するまでには、さらに長い時間が必要になる。漆工芸とは、すなわち待つことと同義だ。

 

 クシノは再びボールを恭しく室の中へと戻した。

 暗く、湿った箱の底へ、再生途中の依頼品を横たえる。

 

「焦るなよ。じっくり馴染め」

 

 語りかけるように呟き、静かに蓋を閉じた。

 次にこの蓋を開けるのは、数週間後。

 黒い傷跡を黄金で飾り、名実ともに生まれ変わらせるのは、それからの仕事だ。

 

 

 クシノがオーナーを務める会員制のバーは、今夜も選ばれた人間だけが許される静謐な空気に満ちていた。

 琥珀色のダウンライトが、磨き上げられたカウンターと、そこに置かれたクリスタルのグラスを艶やかに照らし出している。

 彼は琥珀色の液体を揺らし、氷が奏でる涼やかな音に耳を傾けながら、肺の底から重い嘆息を吐き出した。

 

「暇や」

 

 その言葉に、隣でグラスを傾けていたモモナリが、くすりと口元を綻ばせる。

 

「おや、聞き捨てならないねえ。君のスケジュール帳は、会社の会議と、リーグ理事としての仕事で真っ黒なはずだろう。普通なら過労で倒れているレベルじゃないか」

 

「あんなもん、座ってハンコ突くだけのルーチンワークや。息してるのと変わらん」

 

 クシノは退屈そうに言い放った。

 常人なら発狂するほどの激務を呼吸と言い切るこの男にとって、自身の指先を使って何かを生み出していない時間は、全て暇という分類に放り込まれるのだ。

 そんな怪物を面白がるように、モモナリは悪戯っぽい視線を向けた。

 

「なら、僕が何か問題でも起こしてこようか?」

 

 優男の皮を被った怪物は、さらりと冗談めかして物騒な提案をする。クシノは顔をしかめて手を振った。

 

「やめろ。お前が動くと冗談にならん。大惨事の始末書を書くのは御免や」

 

「つれないねえ」

 

「俺の手がな、暇や言うて悲鳴上げとるんよ。あのボールに使た特殊な麦漆は、芯まで硬化するのに数週間かかる。その間、俺にできることは温度管理だけや。焦れったい話やで」

 

 クシノはエンジュシティでの仕事を思い出していた。あの街の空気、スズの塔の威容、そして人生を伝説に捧げた男、マツバ。

 

「それにしても、エンジュってのは変な街や。マツバさんといい、あの街の連中はどいつもこいつも、空の上のことばっかり見とる」

 

 クシノは小皿に盛られた乾き物を一つ摘み、口に放り込んだ。

 

「俺は伝説なんて見たいとも思わん。俺らはあくまで社会というシステムの中で生きてる人間や」

 

 彼は酔いの回った頭で、持論を展開し始めた。

 

「ああいう、世界がどうとか、選ばれし者がどうとかいう話はな、カンナさんとか、ワタルさんとかの領域の話や。雲の上の話なんよ。俺らみたいな、金貰って仕事するだけの一般のプロが首突っ込むことやない」

 

 モモナリは同意するように、細い指でグラスを持ち上げた。

 

「まあ、ねえ。そういうのは星の元に生まれた主人公、彼らの特権だろうさ。僕らはせいぜい脇役、あるいは通りすがりのAだ」

 

「せやろ。分相応が一番や」

 

「でも、僕は会ってみたいとは思うよ。純粋に、どれくらい強いのか興味があるからねえ」

 

 モモナリの優しげな瞳が、薄暗い照明の中で一瞬だけ異質な、冷たい光を帯びた。

 

「実際、何度か伝説と呼ばれるポケモンと対面したことはあるよ。仕事じゃなくて、単純に噂を聞きつけて戦いたくて現地に行ったんだ」

 

「ほんま、お前はブレへんな。で、どうやった」

 

「圧倒的だったよ。あれは理不尽なまでのエネルギーの塊だね。認められたとか、心が通じたとか、そんな高尚な経験はなかったけれど、ただ、バトルは最高に楽しかったよ。死ぬかと思ったけどね」

 

「お前、いつかバチ当たるぞ」

 

 クシノは深くため息をつき、強い酒を一気に煽った。

 アルコールが脳を麻痺させ、口を軽くする。クシノの中にある、職人ゆえの唯物論的な思考が鎌首をもたげた。

 

「せやけどな、モモナリ。ホウオウ言うても所詮はポケモン、つまり生物やろ」

 

「うん?」

 

「伝承通りスズの塔の透明なスズを鳴らせば来るって言うなら、それは奇跡やなくて、ただの条件付けや習性なんとちゃうか」

 

 クシノはグラスの縁を指でなぞりながら、冷めた目で笑った。

 

「餌付けされたポッポがベルの音で集まるのと同じ理屈で、正しい手順で特定の音波さえ鳴らせば、資格なんかなくてもホイホイ飛んでくるんちゃうか。それが生物としての反応というもんや」

 

 神秘も信仰もへったくれもない、身も蓋もない仮説。

 だが、それを聞いたモモナリは、怒るでも笑うでもなく、さらりと即答した。

 

「いやあ、それはないと思うよ。来なかったし」

 

 静かなバーに、氷が溶ける音だけがカランと響いた。

 クシノの手が止まる。その顔から表情が抜け落ちた。

 

「は?」

 

「ん?」

 

 モモナリは平然とグラスを傾けている。まるで天気の話でもするように。

 クシノは酔いが一瞬で冷めるのを感じながら、探るように問いかけた。

 

「今、来なかったって言うたな。あそこは、スズの塔は修験者以外、完全立ち入り禁止の聖域やぞ」

 

 クシノは声を潜めて詰問した。

 

「お前、スズの塔に入ったんか。あの厳重な警備をかいくぐって、最上階で勝手に鐘を鳴らしたんか」

 

 それは不法侵入などというレベルではない。宗教都市エンジュに対する、最大級の冒涜であり挑戦だ。

 だが、この優男の皮を被ったバトル狂は、悪びれもせずに答えた。

 

「若気の至り、というやつさ。どうしても確かめたくてねえ」

 

「この大バチ当たりが。依頼人のマツバさんが知ったら卒倒するぞ」

 

 頭を抱えるクシノに、モモナリは首を振って柔らかく微笑んだ。

 

「いや、見つかった時にマツバさんとも話したけど、彼は許してくれたよ。君のような純粋な探求心もまた、一つの真実だってね。ふふ、寛大な人だよねえ」

 

 クシノは言葉を失った。口をパクパクと開閉させ、やがて力なく椅子に沈み込む。

 

「あの人、人が良すぎるんか、ただの天然なんか分からんな」

 

 神聖な儀式を餌付け扱いする自分も大概だが、聖域に不法侵入して鐘を鳴らす友人も、それを笑顔で許す依頼人も、全員どこかネジが飛んでいる。

 結局、まともなのは社会のルールと激務に縛られている自分だけではないか。いや、こんな連中と付き合っている時点でもう同類なのかもしれない。

 クシノは思考を放棄し、空になったグラスを掲げた。

 

「バーテン、同じの。ストレートで頼むわ」

 

 

 季節が一つ進み、窓を叩く夜風には冬の気配が混じり始めていた。

 クシノは書斎の空気清浄機の音だけが響く静寂の中、湿度と温度を管理する育成箱、ムロの蓋を静かに持ち上げた。

 漂ってくるのは、もはや湿った刺激臭ではない。硬く、乾いた、完成された樹脂と樹液の匂いだ。

 

 クシノは箱の底から、主の帰りを待っていたボールを取り出した。

 指先で表面を撫でる。

 かつては別々の存在だった赤い人工樹脂の外殻と、後から埋め込んだガラスの栓。その境界線は、幾度もの研磨と拭き漆の工程を経て、完全に消失していた。

 指の腹で何度往復しても、段差はおろか、素材の違いによる温度差さえ感じさせない。ガラスは完全にボールの一部として同化し、滑らかな球体を描いている。

 

 だが、その見た目は未だ痛々しい。

 赤い肌には、接着に使った黒い漆のラインが、不規則な稲妻のように走っている。それは継ぎ接ぎだらけの傷物であることを主張していた。

 

「よう寝たな。さあ、化粧の時間や」

 

 クシノは作業机に、極細の面相筆と、小皿に出した弁柄漆を用意した。

 弁柄漆とは、酸化鉄を混ぜ込んだ赤い漆のことだ。これが、後に蒔く金粉を定着させるための接着剤となり、そして金の発色を助ける下地となる。

 

 筆先に少量の漆を含ませ、大きく息を吐き出して肺を空にした。

 

 

 呼吸を止める。

 

 

 世界から音が消える。

 

 

 穂先が、ボールの表面を走る黒い傷跡の上に、ふわりと着地した。

 一定の速度、一定の筆圧で、黒いラインを赤く塗り込めていく。僅かでも震えれば線は歪み、美しさは損なわれる。

 クシノがなぞっているその複雑な亀裂は、単なる破損ではない。あの日、あの時、ゲンガーが主であるマツバを、異界の淵から引き戻すために放ったエネルギーの奔流そのものだ。

 迷いなく走る亀裂、一点に集中した破砕痕。その一つ一つが、なりふり構わぬ救出劇の記録だった。

 

 筆を滑らせながら、クシノの脳裏に、先日酒を酌み交わした友人の言葉が蘇る。

 

 認められなくてもいい。ただ、目の前のバトルが楽しければそれでいい。

 

 モモナリはそう言って笑った。それは、重圧から解き放たれた者だけが持つ、眩しいほどの軽やかさだった。

 対して、このボールの持ち主は違う。

 

 あの子が私を救ってくれた、その傷跡を残したままで。

 

 マツバは自身の未熟さを、そして相棒からの献身を、一生背負う覚悟を決めている。

 どちらが正しいわけでもない。ただ、生き方が違うだけだ。

 クシノは息を継ぎ、再び筆を走らせる。

 だからこそ職人は、その重たい覚悟を、少しでも美しく昇華させなければならない。

 黒かった傷跡は今、鮮やかな赤へと塗り替えられ、黄金を纏うその時を静かに待っていた。

 

 

 朱色のラインを引き終え、漆が乾ききる直前の、ほんの一瞬の好機が訪れた。

 クシノは粉筒と呼ばれる竹の筒を指先で軽く弾いた。

 筒の先から、微粒子となった純金の粉が舞い落ちる。それは重力に従い、未だ粘り気を残す弁柄漆の上へと吸着していった。

 痛々しい赤黒い傷跡だったラインが、みるみるうちに鮮烈な黄金色へと染まり、部屋のわずかな光を反射して輝きだす。

 

 その光景を見た瞬間、クシノの脳裏に一つの答えがすとんと落ちてきた。

 

 マツバは、ホウオウという理想、あるいは完璧な自分を追い求めすぎて、心が壊れかけた。

 対してモモナリは、目の前にいる強敵という現実を、その不条理ごと楽しんでいるから、決して折れない。

 

 理想を追うのではなく、今あるものを楽しむ。

 壊れたことを嘆き、無かったことにするのではない。壊れたからこそ生まれたこの景色を愛でる。

 金継ぎとは、そういう哲学だ。

 もう二度と、工場出荷時のつるりとした完璧な球体には戻らない。だが、無数の亀裂を黄金で飾り、異素材であるガラスを受け入れたこのボールは、新品の量産品よりもずっと味わい深く、そして強靭だ。

 

 クシノは満足げに頷き、最後の粉を払い落とした。

 

 外装が仕上がったボールに、中身であるメカニックを移植する工程へと移る。

 クシノは、ロックピンを切断し、内部構造を改造したスイッチユニットと、タッチセンサーを慎重に組み込んでいく。

 ロックをかける硬質な音はもうしない。

 この扉は、物理的なロック機能を持たない。

 閉じていても、新設されたガラスの窓からは中が見える。

 

 それは、対象を監禁するための檻から、対話するための部屋への変化だった。

 クシノは複雑な配線を繋ぎ終え、最後にメイン回路を接続しながら、ボールに語り掛ける。

 

「もう、閉じこもるなよ」

 

 全ての工程を終え、クシノはボールを柔らかい布で丁寧に磨き上げた。

 指紋や余分な金粉が拭い去られ、その全貌が露わになる。

 深い赤色の地肌を走る、稲妻のような黄金の亀裂。それはあの日、ゲンガーが放った爆発的なエネルギーの軌跡そのものだ。

 そして頂点には、内部の銀色のフレームを月のように映し出す、透明なガラスの瞳が静かに鎮座している。

『呼び継ぎ』と呼ばれる、異なる器の欠片を用いて修復する技法。

 その姿は、痛々しいジャンク品などではない。破壊と再生の物語を内包した、堂々たる美術品の風格を漂わせていた。

 

 クシノは完成品をデスクライトにかざし、口の端を吊り上げた。

 

「ええツラ構えや。これなら、神様の目にも止まるやろ」

 

 長い時間をかけた修復作業が、今、完結した。

 

 

 数日後の夜、エンジュジムの奥座敷は、研ぎ澄まされた静寂に包まれていた。

 開け放たれた障子の向こうでは、手入れの行き届いた庭園の池が、冴え冴えとした月を水面に浮かべている。

 上座に正座するマツバの姿勢は、微動だにしない。だが、その背後に伸びる影だけが、意思を持った生き物のように濃く、揺らめいていた。ゲンガーもまた、固唾を飲んで待っているのだ。

 

 クシノはマツバの正面に座し、持参した風呂敷を丁寧に解いた。

 現れたのは、木目が美しい白木の箱だ。

 彼はそれを畳の上を滑らせるようにして、マツバの目の前へと差し出した。

 

「お待たせしました。修理完了です」

 

 マツバが一礼し、恭しく箱に手を伸ばす。

 重厚な沈黙の中、桐箱の蓋が持ち上げられた。

 

 その瞬間、マツバの瞳が大きく見開かれた。

 箱の中に鎮座していたのは、彼が予想していたような、継ぎ接ぎだらけの無残な残骸ではなかった。

 

 デスクライトではなく、月光の下でこそ、その球体は真の姿を現す。

 深い朱色の曲面を、黄金の稲妻が奔放に、しかし優美に走っていた。かつて亀裂だった場所は、金粉を纏うことで煌びやかな意匠へと昇華されている。

 そして頂点。かつてスイッチごと抉り取られていた空洞には、エンジュの工房で削り出された透明なガラスが嵌め込まれていた。

 異なる器の欠片を継ぐ、呼び継ぎという技法。

 透明な瞳は月明かりを吸い込み、内部の銀色の機構を神秘的に映し出している。

 

「これは」

 

 マツバは絶句した。

 それは単なる修繕された道具ではなく、一つの完成された美術品としての風格を漂わせていたからだ。

 

「金継ぎ、と言います」

 

 クシノは淡々とした口調で解説を添えた。

 

「壊れた傷を隠してなかったことにするんやなく、金で飾って景色として愛でる。東洋の古い修復技法です」

 

 マツバが震える手でボールを取り上げる。指先が、黄金のラインをなぞる。

 

「あの日の爆発、ゲンガーが貴方を救おうとして放ったエネルギーの奔流。それを一番美しい形で残しました」

 

 クシノはマツバの影、そこに潜む相棒へ向けて語りかけるように続けた。

 

「完全な球体には戻りませんでしたし、強度は、まあ、メーカー品のような保証はしかねますな」

 

 クシノは肩をすくめ、職人として正直な見解を述べた。一度砕けた事実は消えない。新品同様の頑丈さを謳うのは詐欺だ。

 

「ただ、普通に使う分には十分です。あの時のように、世界の裏側へ飛び込むような無茶さえしなければ、ですが」

 

 釘を刺すような言葉に、マツバは苦笑を浮かべ、深く頷いた。

 

 クシノはさらに言葉を継いだ。

 

「それと、約束通り中身も弄らせてもらいました」

 

 クシノはボールのロック部分を指差した。

 

「内部のロックピンは切断し、ユニットごと取り払いました。余計なセンサーも入れてません。多くのプロが愛用する、一番シンプルな構造に戻してあります」

 

 それは、このボールがもはや監禁装置としては機能しないことを意味していた。

 

「つまり、もう物理的に彼を閉じ込めることは不可能です。彼が出ようと思えば、いつでも自分の意思で出入りできます」

 

 そこにあるのは強制力を持った檻ではない。主と相棒が共に過ごすための、ただの部屋なのだとクシノは告げた。

 

 マツバは黄金の継ぎ目が走るボールを両手で包み込むように持ち、背後の影に向かって静かに呼びかけた。

 

「入ってくれるかい。鍵はもう、ないよ」

 

 揺らめく影の底から、ゲンガーがぬるりと姿を現した。その表情から以前のような怯えは消え、主への信頼の色が戻っている。

 ゲンガーは短く鳴くと、自ら光の粒子となり、ボールの中へと吸い込まれていった。

 

 ボールが閉じる。

 マツバは、頂点に新設されたガラスの窓を覗き込んだ。

 そこには、内部でくつろぐゲンガーの放つ微かな光と、こちらを覗き返す愛嬌のある視線が見えた。

 ロック機構で縛り付けなくとも、ガラス一枚隔てた向こう側に、確かに相棒の息遣いがある。

 

「見えます。あの子が、ここにいる」

 

 マツバはボールを額に押し当て、震える声で礼を言った。

 

「ありがとうございます」

 

 その言葉を聞き届け、クシノは膝を払って立ち上がった。感傷的な時間はここまでだ。職人は現実へと戻る。

 

「代金は後日、請求書を送ります。材料費と技術料、それに特急料金も込みなんで、結構な額になりますけどね」

 

 マツバは目元を拭い、清々しい笑顔で頭を下げた。

 

「ええ。言い値で払わせてください」

 

 クシノは荷物をまとめ、部屋を出ようとする。

 障子に手を掛けたその時、背後からマツバが改めて深く頭を下げた。

 

「貴方に頼んで本当によかった」

 

 その言葉に、クシノは諭すのではなく、同じ道を歩く者として帽子を直して答えた。

 

「いいえ。今回は僕の方こそ、ええ勉強をさせてもらいました」

 

 クシノは一礼し、静かに部屋を後にした。

 

 エンジュの夜道は、冷たく澄んだ空気に満ちていた。

 クシノがふと空を見上げると、少し欠けた月が輝いている。その形は、あのボールに埋め込んだガラスの瞳のように、不完全でありながらも美しかった。

 

「さて、帰って一杯やるか。今日はええ酒が飲めそうや」

 

 

 全ての仕事を終え、数日が過ぎた休日の夕暮れ時。

 書斎は、琥珀色の西日と静寂に満たされていた。

 クシノはデスクに向かい、小さな香炉を机の上に置いている。

 灰の中で温められた銀葉の上から、一筋の煙が立ち上る。それは伽羅と呼ばれる、金と同等の価値を持つ貴重な香木が放つ、幽玄な香りだ。

 

 以前のクシノであれば、その香りを嗅いだ瞬間、脳内で成分を分析し、産地を特定し、その構造を完璧に理解しようと躍起になっていただろう。それは、見えない正解を追いかける行為だ。

 だが、今の彼は違った。

 

 追いかけるのではない。ただ、漂う香りに身を委ねて、自身の波長を合わせるだけだ。

 

 マツバとの仕事で学んだ、あるがままを受け入れる心。

 クシノは静かに目を閉じ、意識を内側へと沈めていく。理想の香りを探しに行くのではなく、今、ここにある香りが鼻腔をくすぐり、肺を満たし、精神と同調していく感覚を待つ。

 すると、今まで雑念に阻まれて感じ取れなかった奥深い甘みや、枯れた古木のような辛みが、すとんと腑に落ちてきた。

 無理に理解しようとしなくても、香りの方から語りかけてくる。

 クシノは、初めて香道の入り口に立ったような深い充足感に包まれた。

 

 ああ、こういうことか。香を聞くというのは。

 

 心が凪のように静まり、深い瞑想状態へと入っていく。

 時間の感覚が消失し、ただ香りだけが存在する世界。

 その至福の時間は、唐突な生温かい感触によって中断された。

 

 耳元をザリリと舐め上げられ、続けて甘噛みされる感触。

 

「ひゃうっ!?」

 

 クシノが変な声を上げて飛び起き、下を見ると、足元にペルシアンが座り込み、不満げに尻尾をバタンバタンと振っていた。

 伸び上がって主の意識を現実に引き戻した後、何食わぬ顔で鎮座しているのだ。飼い主が自分を差し置いて、煙なんぞに夢中になっているのが気に入らなかったらしい。

 

「お前なぁ、せっかくええところやったのに」

 

 クシノが耳を擦りながら抗議すると、ペルシアンはフンと鼻を鳴らし、短くひと鳴きして扉の方へ視線をやった。

 その意図を汲み取るよりも早く、書斎のドアが無言で開いた。

 

 そこに立っていたのは、アヤカだ。

 いつものラフな格好ではない。艶やかなドレスに身を包み、髪も綺麗にセットアップしている。その完璧な美貌の中で、瞳だけが冷ややかに笑っていた。

 彼女は腕を組み、静かに告げた。

 

「まさかとは思うけど。忘れてないわよね」

 

「え」

 

 クシノの間抜けな声が響く。

 

「今日は駅前のカロス料理店でディナーの予約入れてたはずだけど。もう予約時間の三十分前よ」

 

 その言葉に、クシノは弾かれたように壁掛け時計を見た。

 短針と長針が示す時刻は、まさに絶望的な現実を突きつけている。香りに集中しすぎていたのか、あるいはその心地よさに浸りすぎていたのか、想像以上に時間が経過していたのだ。

 

「ほんまや」

 

 クシノの顔から血の気が引いた。

 机の上の香炉の火を慌てて消し、椅子を蹴るようにして立ち上がる。

 

「すまん。すぐ着替える」

 

 アヤカは呆れたようにため息をついたが、その表情はどこか楽しげでもあった。

 

「五分で支度して。一分でも遅れたら、一番高いワイン奢ってもらうから覚悟しなさい」

 

 クシノはジャケットを引っ掴み、慌ただしく部屋を飛び出していった。

 その騒がしい背中を見送り、足元のペルシアンが大きな欠伸をする。

 主がいなくなった机の上には、まだ微かに香木の余韻が残っていた。

 伝説や神秘もいいが、この騒がしくも愛しい日常こそが、クシノにとっての今ある幸せなのだ。




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