継ぐもの~クシノ理事の金継ぎ修繕録~   作:rairaibou(風)

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3:澱を継ぐ

 ジョウト地方、エンジュシティ。

 

 古都の路地裏に佇む老舗のガラス工房は、季節を忘れるほどの熱気に包まれていた。

 轟々と唸る溶解炉の前、オレンジ色の火照りが、男の顔を照らし出している。

 

 クシノ=ヨウイチロウ。

 

 その額には玉のような汗が浮かび、頬を伝って顎先から滴り落ちるが、彼はそれを拭おうともしない。

 彼の手にあるのは、一本の吹き竿。先端には、水飴のように溶けた真っ赤なガラス塊が巻き付いている。

 

 クシノが肺の空気を細く、長く吹き竿へと送り込むと、先端に巻き付いた硝子の塊がふわりと膨らんだ。

 竿を回す手は一定のリズムを刻み、重力に逆らって形を整えていく。その瞳は、灼熱の赤の中にだけある「正解の温度」を見据えていた。

 

 工房の主である老職人は、腕組みをしたまま黙ってその背中を見守っている。

 この男の腕が只者ではないことは嫌というほど見せつけられた。だからこそ、老人は口を出さない。

 だが、今回クシノが作ろうとしているモノは、あまりにも『異形』だった。

 

 ガラスの底は、まるで何かに抉られたかのように深く、鋭く内側へと突き上げられている。首の部分は奇妙にくびれ、全体が不安定にねじれているように見えた。

 常識的なガラス細工のセオリーからすれば、それは『失敗作』に近い。バランスが悪く、冷却時に割れるリスクも高い形状だ。

 

 しかし、クシノの手つきに迷いはなかった。

 濡れた新聞紙を当て、回転させながら一気に形を極める。遠心力と重力、そして彼自身の意図が拮抗し、ガラスは歪んだまま均衡を保った。

 

「よし」

 

 クシノが短く呟き、竿を切り離す。

 徐冷炉へと運ばれたそれは、まだ熱を帯びて赤く輝いているが、冷えれば歪な透明なボトルとなるだろう。

 

 老職人は、徐冷炉の中で赤熱するその硝子細工を見つめ、短く鼻を鳴らした。

 

「相変わらず、変なもんを作らせたら天下一品やな。どうや、ここを継がんか?」

 

 冗談めかしているが、目は笑っていない。本気の勧誘だ。

 

「うちの孫娘、今年で成人したばかりや。気立てもええし、ワシの目から見ても器量よしやぞ」

 

 技術への惚れ込みと、孫娘を使った露骨なヘッドハンティング。職人の世界では珍しくない話だ。

 

「何回言わすねん爺さん。嫁がおる言うとるやろ」

 

 空になったボトルを握りつぶし、苦笑いと共に付け加える。

 

「それも、怖くて現役のランカーがな。浮気なんかしてみぃ、俺もそのガラスみたいに捻じ切られるわ」

 

「ふん、相変わらず尻に敷かれとるな」

 

 老職人は憎まれ口を叩きつつ、話題を硝子へと戻した。

 

「しかし、何に使うんやその形。花瓶にしちゃ座りが悪いし、酒瓶にしちゃ底が深すぎる。洗い難くて敵わんぞ」

 

 常識的な用途からは外れたその造形に、老職人は首を傾げる。

 クシノは道具を片付けながら、炉の奥で冷えていく己の作品を一瞥した。

 

「『分ける』ための道具や」

 

「分ける?」

 

「ああ。近いうちに、ちと重たいモンを扱わなアカンかもしれんからな」

 

 クシノはそれ以上を語らず、ただ熱の残る掌を握りしめた。

 

 

 ヤマブキシティ。

 

 

 その一等地にそびえ立つポケモンリーグ協会本部ビル、最上層近くにある理事執務室からの眺めは壮観だった。

 眼下にはリニアステーションの流線型の屋根や、シルフカンパニーの威圧的なビル群が広がっている。だが、窓際に立つクシノの表情は、その絶景とは裏腹に渋いものだった。

 

 背後のデスクには、各地方ジムの修繕予算申請や、トレーナーライセンスの更新手続きといった決裁書類が山のように積まれている。

 クシノは携帯端末を耳に押し当てたまま、忌々しげに溜め息をついた。

 

「せやから。向こうの指名なんや。『どうしてもAリーグのモモナリ選手とやりたい』言うてきかんのや」

 

 電話の向こうからは、緊張感のかけらもない軽い声が返ってくる。

 

「へえ? 物好きだねえ。僕は公式戦のスケジュールで手一杯なんだけど」

 

 Aリーグ所属、モモナリ。クシノとは腐れ縁の友人であり、実力は確かだが、その性格には難がある男だ。

 

「白々しいこと言うな。数年前、お前その新人と一悶着起こしたらしいな? 公にはなっとらんが、報告書は上がっとるぞ。教育委員会から抗議が来とる」

 

 クシノが低い声で告げると、電話口の空気が一瞬だけ止まった。少しの間を置いて、心外だとでも言いたげな声が返ってくる。

 

「ああ、あの彼か。名前は覚えてるよ。でもおかしいなあ、厳しくした覚えなんてないよ」

 

 本気で言っているのか、とぼけているのか。どちらにせよ、被害者意識を持っているのは相手の方だ。

 そして大抵、そういう時はモモナリが悪い。

 

「向こうはそれを根に持っとるんや。『因縁』言うてたけど、どうせお前から吹っかけたんやろ。責任取って、決着つけてこい。これは業務命令や」

 

「まあいいよ、願ったりかなったりだ」

 

 端末の向こう側のにんまり顔が目に浮かぶ。

 一つため息をついて通話を終わろうとしたクシノに、モモナリが「ああ、そうだ」と声を上げた。 

 

「そういえば、さっきシゲルから連絡があってさ『クシノ理事に話があるから、アポを取っておいてくれ』って」

 

 走らせていたペンの先が、書類の上でピタリと止まった。

 

「シゲルさんが? 俺に?」

 

「うん。何か個人的な頼み事みたいだよ。珍しいよね、あの人が他人を頼るなんて」

 

 用件だけを伝えて切れた通話の後、クシノは携帯端末をデスクに放り出し、天井を仰いで深いため息をついた。

 

 オーキド=シゲル。

 

 

 カントー地方最強と謳われるトキワジムのリーダーであり、あのオーキド博士の孫。そして何より、かつて一瞬とはいえ頂点に立った元チャンピオンでもある。

 組織図の上では、協会の「理事」であるクシノが管理職であり、現場の「ジムリーダー」であるシゲルは部下にあたる。命令系統だけで言えば、クシノの方が上だ。

 だが、シゲルはクシノより年齢もキャリアも上の大先輩であり、ポケモントレーナーとしての格は雲泥の差がある。

 モモナリにとっては「同世代の悪友」だろうが、クシノにとっては「友人の友人」という、一番距離感が掴みづらい相手だった。

 

「一番気ぃ遣う相手やないか」

 

 クシノはスケジュール帳を開き、埋まっている予定の隙間を探す。

 個人的な頼み事、というのが余計に不気味だった。あの完璧主義の男が、わざわざ組織を通さずに連絡をしてくるなど、よほどの事態に違いない。

 

「断れるわけないやろ、そんなもん」

 

 彼は秘書に連絡を入れる前に、もう一度大きく息を吐き出し、喉元を締め付けるネクタイを少し緩めた。

 

 

 カントー地方、トキワジム。その最奥にあるジムリーダー執務室は、主の性格を体現したような、隙のない厳格さと高級感に満ちていた。

 クシノは革張りの重厚なソファに腰を下ろし、出されたコーヒーを一口含んだ。ブルーマウンテンのストレート。雑味がなく、凛とした苦味と芳醇な香りが鼻腔を抜ける。砂糖もミルクも要さない完成された味に、クシノは目の前の男の美意識の高さを感じずにはいられなかった。

 

 クシノは音を立てぬようソーサーにカップを戻し、居住まいを正した。

 

「急な呼び出しで驚きましたわ。……まずは理事として、日頃の完璧なジム運営に礼を言わせてください。ここは最後の砦、あなたのおかげでリーグの質が保たれとる」

 

 用件を聞く前に、まずは『理事とジムリーダー』という公的な関係での感謝を述べる。それが礼儀であり、この緊張感漂う場の空気を整えるための、クシノなりの大人の流儀だった。

 対面に座るシゲルは、涼しい顔で一つ頷く。

 

「当然の仕事をしているだけですよ」

 

 さらりと口にするが、嫌味ではない。事実として、彼は門番の役割を完璧に遂行している自負があるのだ。

 シゲルは足を優雅に組み替え、話題を変えた。

 

「今年のバッジ取得者は粒ぞろいでしたよ。特に、最後の最後に滑り込んできた数名は面白かった」

 

 シゲルの視線が、クシノを射抜くように細められ、口元に意味深な笑みが浮かぶ。

 

「あなたのところの『お弟子さん』も含めてね」

 

 クシノは苦笑して肩をすくめた。

 

「……耳が痛い話や。あいつ、粗相しませんでしたか?」

 

「いいえ。実に真っ直ぐで、いい勝負でした」

 

 一通りの世間話を終えると、シゲルの纏う空気がふっと変わった。営業用の涼やかな笑顔が消え、射抜くような真剣な眼差しがクシノを捉える。

 

「さて、理事。今日わざわざ来てもらったのは、そんな報告をするためじゃない」

 

 シゲルは背もたれから身体を起こし、真正面からクシノを見据えた。

 

「単刀直入に聞きます。ワタルさんのボールを直したのは、あなたですね?」

 

 クシノは一瞬きょとんとしてから、やれやれといった風に頭をかいた。予期せぬ名前が出たことに、数瞬の沈黙が降りる。

 

「ワタルさんが言うてましたか? あの人、口は堅いほうやと思っとったんですが」

 

「あの人は仲間には隠し事ができないタチだ。それに、僕と彼は古い付き合いですからね。『いい腕の職人がいる』と自慢されましたよ」

 

 クシノが観念したように沈黙で肯定すると、シゲルはさらに身を乗り出した。

 

「なら話は早い」

 

 シゲルはそこで一度言葉を飲み込み、喉の奥から絞り出すように続けた。

 

「俺のボールも、やってほしいんだ」

 

 さきほどまでの理事への対応ではなく、一人のトレーナーとして、切実な響きを含んだ声色だった。

 クシノは居住まいを正し、職人の顔で応える。

 

「現物を見せてもらえますか」

 

 

 シゲルはデスクの引き出しを開け、ハンカチに包まれた小さな物体を取り出した。それをガラスのテーブルの上に置き、ゆっくりと包みを開く。

 布が解かれた瞬間、クシノの鼻腔を微かな鉄の臭いが刺激した。それはただの金属臭ではない。長い時間をかけて湿気が鉄を食い荒らした、酸化の臭いだった。

 

 クシノは目を細めてその物体を検分する。

 モンスターボールだ。しかし、現行の規格ではない。少なくとも十数年は前の旧式モデルである。

 かつて鮮やかな赤色だった上部は色褪せてくすんだ赤茶色になり、白かった下部は古びた骨や歯のように黄ばんで変質している。中央の金属リングは赤錆で固着し、何より致命的なのは、樹脂の表面を稲妻のように走る深い亀裂だった。

 

 酷いな、とクシノは内心で毒づく。

 

 

 これは修理依頼ではない。検死解剖だ。

 適切なケースにも入れられず、温度変化の激しい物置か何かに長期間放置されていた成れの果て。道具としての寿命などとっくに尽きている。

 

 クシノはボールには触れず、冷ややかな声で告げた。

 

「無理ですね。樹脂が死んでます。接着しても強度は戻りませんから、ポケモンを入れたらその捕獲圧力で砕け散りますわ」

 

 職人としての率直な通告だった。

 

「新しいのを買いなはれ。思い出の品として飾りたいなら、レプリカの方がよほど綺麗や」

 

「分かっています。実家の物置に、ずっとしまっていた」

 

 シゲルは静かに認めた。その声には、いつもの自信や覇気は微塵もない。

 

「バトルでも捕獲でも使わない。ただ、形を留めておきたいんだ。このままだと、いつか粉々になって消えてしまいそうで」

 

 縋るような視線がクシノに向けられる。

 その言葉を聞いた瞬間、クシノの胸の奥で苛立ちの火が灯った。

 そんなに大事なら、なぜ手入れをしなかったのか。なぜ、中身が腐り落ちるまで風雨に晒しておいたのか。道具を愛する職人として、持ち主の今更な未練に対する憤りが湧き上がる。

 本来なら、帰れと突き返すところだ。

 だが、相手はこの地方を守る最強のジムリーダーであり、何よりあのワタルの紹介だった。無下に突っぱねれば角が立つ。

 

 クシノは深いため息をつき、ハンカチごとボールを自分の手元へ引き寄せた。

 

「引き受けましょう。ただし、相手は天下のシゲルさんでも特別扱いはしまへん。条件は三つです」

 

 クシノは指を立てて提示する。

 

「一つ、俺の工房は他人立入禁止や。どんな直し方をしても文句は言わせん」

 

「二つ、樹脂の劣化が激しい。作業中に崩壊して砂になっても、俺は責任を取らん」

 

「三つ、急かさんといてください。気が乗った時にしかやらんので、半年かかっても待ってもらう」

 

 足元を見るような厳しい条件だったが、シゲルの回答は早かった。

 

「構わない。頼む」

 

 クシノはボロボロのボールを布で包み直した。

 ずしりと重い。それは物質的な質量以上の、やりきれない澱のような重みだった。

 

「預かります」

 

 クシノはそう言って席を立ち、小さく吐き捨てるように呟いた。

 

「えらい重い患者やな」

 

 

 ヤマブキシティ。

 その一角にあるマンションの扉を開けたクシノは、玄関の照明をつけると同時に、やれやれと息をついた。

 タタキには、見覚えのない、しかし攻撃的なほどヒールの高いピンヒールが脱ぎ捨てられている。

 靴そのものを見るのは初めてだが、こんな歩きにくい靴を武器のように履く人間が誰なのか、クシノは即座に理解していた。

 

 リビングに入ると、革張りのソファーに我が物顔で座っている少女の姿があった。

 

 

 デュラ。クシノが目をかけている弟子の一人だ。

 

 

 季節外れなほど露出度の高いミニスカートに、背中やデコルテが大きく開いたトップス。傍らには、見るからに手触りの良さそうな豪奢なファーコートが乱雑に放り出されている。

 派手なメイクと服装で着飾ってはいるが、その奥にある瞳は、都会の満たされた子供たちとは違う、飢えた獣のように鋭い光を宿していた。

 

 クシノは黙ってキッチンへ向かい、二人分のコーヒーを淹れ始める。

 

「シンプルに寒いやろ。風邪ひいても知らんで」

 

 カップを二つ持って戻ると、デュラはふふんと鼻を鳴らして脚を組み替えた。

 

「オシャレは我慢です。それに、肌を出して価値があるのは今だけですから。使えるモンは鮮度が良いうちに使わんと」

 

 自分の肉体や若さすらも資源としてシビアに見積もる価値観。それは彼女がかつていた場所で培われた生存本能だ。

 デュラはコーヒーを受け取り、湯気を楽しむように目を細める。

 

「それに、あの頃の夜の冷たさに比べたら、こんなん寒い内に入りません」

 

 かつて味わった骨まで凍るような夜に比べれば、空調の効いた部屋の冷気など天国だと言いたげだった。

 

「シンオウ地方はもう飽きました。ヌルい奴ばかりです」

 

 デュラはカップに口をつけ、上目遣いにクシノを見た。

 

「もっとヒリつく場所に行きたい。シロガネ山かハナダの洞窟、許可証を出してください」

 

 クシノは自分のコーヒーを飲み、即答する。

 

「アホか。あそこは入山規定がある。チャンピオン経験者、もしくはそれに準ずる実績がないと入れん。お前はまだ早い」

 

 不満げに頬を膨らませる弟子を見て、クシノは口元を歪めた。

 

「せやけど、ハナダの洞窟になら行ってもええぞ」

 

 デュラの表情が一瞬輝き、すぐに曇った。露骨に嫌そうな顔だ。

 

「先生、性格悪いですね。あの人がおるでしょう」

 

 ハナダの番人、モモナリ。

 彼は洞窟の前に立っているわけではない。近所に住んでいるだけだ。しかし、彼に実力を認められていない者が洞窟に足を踏み入れれば、彼は必ず感知し、仕事として、あるいは暇つぶしとして狩りに来る。

 過去、デュラは何度も挑んでは、あしらわれるように跳ね返されてきた壁だった。

 

「ビビってたらあかんぞ。来年からはあいつも友達や。少なくとも、ビビってたら同じ土俵にも立てん」

 

 クシノは少し沈黙し、コーヒーの黒い液面を見つめて自嘲気味に付け加える。

 

「俺みたいにな」

 

 その言葉に、デュラの目がすっと細まる。真顔になった彼女は、強い視線をクシノに向けた。

 

「先生はビビってたわけじゃないじゃん。ただちょっと、強くはなかっただけでさ」

 

 彼女なりの精一杯の擁護だった。クシノは照れ隠しに顔を背ける。

 

「やかましいわ」

 

 話題を変えるように、クシノは仕事用の鞄からハンカチの包みを取り出し、テーブルの上に広げた。

 現れたのは、ボロボロに朽ちた旧式のモンスターボール。赤錆と黄ばみに覆われ、亀裂の走った残骸だ。

 

「これ、どう思う?」

 

 デュラはそれをチラリと一瞥し、興味なさそうに吐き捨てた。

 

「ゴミ」

 

 機能しない道具には一ミリの価値も認めない。それは彼女の生存本能に基づいた、残酷なほど正直な鑑定だった。

 

 

 デュラは帰ろうとせず、「アヤカさんに会ってから帰る」と言ってソファに根を張った。クシノは勝手にしろと手を振り、自宅の奥にある書斎へと籠もった。

 

 作業机を照らすデスクライトの円形の中に、ハンカチに乗せられた砕けたボールが鎮座している。

 クシノはヘッドルーペを装着し、切っ先が鋭く研がれたピンセットと、極細の精密ドライバーを手に取った。

 

 慎重に、あくまで慎重に刃先を入れる。

 経年劣化を起こした樹脂は、まるで乾燥したカステラのように脆くなっていた。少しでも指先に込める力を間違えれば、その瞬間に崩壊し、二度と戻らない砂の山と化すだろう。

 クシノは呼吸を止め、心臓の鼓動すら指先に伝わらぬよう意識を制御しながら、赤錆で固着したヒンジの隙間に特殊な潤滑油を一滴垂らした。油が毛細管現象で錆の隙間へと浸透していくのを待ち、顕微鏡レベルの亀裂を探る。

 

 そこでクシノの手が止まった。

 表面を覆っているのは、物置での保管中に生じたボロボロの赤錆だ。しかし、その奥にある金属パーツの肌には、虫食いのような微細な穴が無数に穿たれていた。

 ただの湿気による酸化ではない。これは塩にやられた痕跡だ。

 

 

 クチバの港か、あるいはグレンの海か。

 このボールはかつて、濃密な潮風を浴びながら、長い旅路を歩んでいたのだ。

 

 クシノの中に、一つの疑問が浮かぶ。

 

 

 それほど激しい旅を共にした相棒であるならば、なぜメンテナンスもせずに朽ちるまで放置したのか。持ち主であるシゲルの洗練された性格を考えれば、あまりに不自然な扱われ方だった。

 

 クシノはデザインナイフの背を使い、ヒンジの裏にこびりついた錆をミリ単位で削り落とした。

 やがて、銀色の地金と共に、極小の刻印が浮かび上がる。

 それは、シルフカンパニーが十数年前に製造していた初期ロットの識別番号だった。

 

 

 この年代、シゲルはまだあどけない少年だったはずだ。つまりこれは、彼がトレーナーとしてデビューし、最初の旅に出た頃の品ということになる。

 

 

 伝説のトレーナーの、原点とも呼べる遺物。

 

 

 クシノはルーペ越しに、その痛々しいほど傷ついた球体を見つめ、静かに呟いた。

 

「こいつは、墓荒らしの気分やな」

 

 クシノは照明の角度を変え、ボールを真っ二つに引き裂いている亀裂の断面へと視線を落とした。

 一見すれば、経年劣化による自然崩壊に見える。

 だが、クシノの目はそこにある時間の悪戯を見逃さなかった。

 

 割れたのは最近だ。断面の酸化が進んでいないことから見て、ここ数ヶ月以内の出来事だろう。

 だが、その亀裂の起点となっている一点。そこには、遥か昔に刻まれたであろう、極めて微細な傷の痕跡があった。

 

 十五年前、何かに強く叩きつけられたか、あるいは激しい戦闘の衝撃で生じたマイクロクラック。

 肉眼では見えないほどのその傷は、物置という過酷な環境下で、夏の膨張と冬の収縮を何千回と繰り返すうちに、ゆっくりと、しかし確実に樹脂を蝕んでいったのだ。

 傷つけたのは一瞬の感情、あるいは不運だったかもしれない。だが、それをトドメと言える状態まで育て上げたのは、放置された十数年という時間そのものだった。

 

 クシノはピンセットを置き、ヘッドルーペを額へと跳ね上げた。

 

 

 作業の手が止まる。

 

 

 ただ直すだけなら、造作もないことだ。特殊なパテで亀裂を埋め、表面を研磨し、当時の塗料を調合して吹き付ければ、新品同様に偽装することはできる。

 

 

 だが、シゲルはそれを望んでいるのだろうか。

 

 

 この長い時間をかけて育ってしまった傷を、無かったことにしたいのか。それとも、この傷も含めて彼の歴史なのか。

 このままでは、仏を作って魂入れずだ。ただの綺麗なプラスチックの塊を返すだけになってしまう。

 

 クシノは椅子に深く背を預け、天井を見上げた。

 

「アカン。もう一度会わな」

 

 あの人が何を供養したがっているのか、腹を割って話さないことには、これ以上手が出せない。

 クシノは作業途中のボールを丁寧にケースへと戻すと、静かに書斎の明かりを落とした。

 

 

 トキワジムのメインアリーナから続く薄暗い通路。戦いの熱気が冷めやらぬ中、シゲルが首筋の汗をタオルで拭いながら歩いてきた。

 

 

 通路の影に寄りかかっていたクシノを見つけても、彼は驚く様子を見せない。ただ、その表情は勝利者とは思えないほど硬かった。

 

「えらい渋い顔ですな。今の挑戦者、ポケモンのレベルは相当なものやったに見えましたが」

 

 クシノが声をかけると、シゲルは不満げに吐き捨てた。

 

「レベルだけ、ですよ。トレーナーの方が追いついていない」

 

 シゲルは足を止め、振り返るようにアリーナの方角を見つめた。

 

「終始浮ついていた。『自分がここにいていいのか』という迷いが見て取れた。バッジを八個集めた後、自分がどうなりたいのか。そのビジョンが欠落している」

 

 ただ強いポケモンを並べ、コマンドを出すだけなら誰にでもできる。だが、最後のジムリーダーであるシゲルが求めているのは、その先にある覚悟だ。

 

「昔を懐古する趣味はないですが、そこは『チャンピオンロード世代』にはあった。今年バッジを渡した連中、あなたのところのお弟子さんも含めて、全員そこが違った。『自分が何者か』それを理解している奴だけが、最後のバッジを手にできる」

 

 クシノは深く頷いた。

 

「技術より『しん』の話ですね。確かに、迷いのある奴に、あなたの壁は越えられん。そして、リーグを勝ちぬくことも」

 

 二人はしばらくの間、トレーナーという生き物の本質について言葉を交わした。それは修理屋と依頼人としてではなく、同じ世界を見てきた対等な大人としての会話だった。

 そうして場の空気が十分に整った頃合いを見計らい、クシノは一歩、シゲルの領域へと踏み込んだ。

 

「さて、仕事の話に戻りましょうか。あのボールのことです」

 

 クシノの声色が、理事のものから職人のそれへと変わる。

 

「直し方は、持ち主の想い次第で変わります。せやから、少し突っ込んだことを聞かせてもらいます」

 

 シゲルは黙ってクシノを見返した。クシノは続ける。

 

「あの錆は、ただの放置やない。金属の奥に塩が噛んでる。あれは海風に吹かれ、長い旅をしてきた証拠や。それに製造番号も見ました。あれは、あなたがまだ一般のトレーナーやった頃、マサラタウンを出たばかりの時期の品や」

 

 クシノは一呼吸置き、シゲルの瞳を覗き込むようにして問うた。

 

「そんな苦楽を共にした相棒のボールを、なんで十数年も手入れもせず放置したんです。あれに、何があったんですか」

 

 シゲルは目を丸くし、やがて感服したように息を吐いた。

 ただの古い道具から、そこまで正確に過去を読み取られるとは思っていなかったのだろう。その眼光の鋭さは、一流のトレーナーが対戦相手の心理を読むそれとはまた違う、物質の真実を暴く職人特有の凄味があった。

 彼は降参するように両手を軽く挙げ、隠し立ては無意味だと悟ったように重い口を開いた。

 

「ラッタですよ」

 

 その名を聞いた瞬間、クシノの眉がピクリと動いた。

 ラッタ。カメックスやウインディ、ナッシーではない。コラッタの進化系か。

 最強のライバル、元チャンピオンとしてのシゲルを構成する強力なポケモンたちのイメージの中に、ラッタというピースはどこか不釣り合いだった。

 クシノの記憶にある限り、あの大舞台であるチャンピオン戦に、そのポケモンの姿はなかったはずだ。

 

「旅の途中で、あいつは死んだ。怪我の回復が間に合わなかった」

 

 シゲルは淡々と、しかし抑揚のない声で事実を告げた。

 

「それ以来、俺はあのボールを見ることすら避けていた。実家の物置に放り込んで、二度と開けないつもりだった。その時はまだ、割れてはいなかったはずだ」

 

「やっぱりな」

 

 クシノは短く納得の声を漏らす。

 

「シゲルさん、あなた物置に入れる時、叩きつけたんやないですか」

 

 シゲルの目が僅かに見開かれる。

 

「樹脂の断面に、強い衝撃の痕跡がある。見えんヒビが、十数年の温度変化で広がって割れたんや」

 

 若き日の激情、あるいはやり場のない悔恨。ボールについた傷は、当時のシゲルが抱えていた感情そのものだった。

 シゲルは視線を床へと落とす。

 

「覚えていない。だが、当時の俺なら、そうしていても不思議じゃない」

 

 それは、若さ故の過ちを認める言葉だった。

 クシノは事情をすべて飲み込み、小さく頷いた。

 

「なるほど。なら、どうします。直して、また手元に置きますか」

 

 シゲルは首を横に振った。

 

「分からない。まだ決めていないんだ。だが、できれば」

 

 彼は視線を上げ、どこか遠い場所を見るような目をした。

 

「あいつの元にあるのが、あるべき姿なのだろうな」

 

 

 深夜二時。都市の喧騒はとうに沈黙し、部屋には換気扇が回る低い駆動音だけが響いていた。

 クシノの作業台には、解体されたボールの樹脂パーツ、赤錆に覆われた金属リング、そして細かなヒンジが整然と並べられている。

 空間を満たしているのは、独特の酸味と甘みが混じり合ったような、漆の香りだった。

 

 クシノは硝子のパレットの上で、ヘラを使い二つの素材を練り合わせ始めた。

 主役となるのは、精製された生漆。そこへ、つなぎとなる小麦粉を加えていく。ヘラで練り込むたびに、二つの素材は互いを喰らい合うように混ざり合い、やがて粘り気のあるゴムのようなペースト状、麦漆へと変化していく。

 

「硬すぎても脆い、柔すぎても弱い。骨を繋ぐ軟骨くらいの粘りが要るんや」

 

 独り言のように呟きながら、クシノはヘラの手応えを指先で確かめる。

 

 糊の準備を終えたクシノは、接着の工程に移る前に、金属のリング部分を手に取った。

 全体が赤茶けた錆に覆われ、表面はザラザラに荒れている。

 クシノの手が、無意識に研磨剤の方へと伸びかけた。

 これを布につけて磨けば、ものの数分で錆は落ち、新品のような銀色の輝きを取り戻せるだろう。それが一般的な修理だ。

 

 だが、クシノはその手を空中で止めた。

 

 

 磨くのは簡単だ。だが、この錆を削り落とすことは、このボールが吸い込んだ潮風と、物置の中で過ごした十数年の沈黙という時間を、すべてなかったことにする行為に他ならない。

 シゲルは思い出を直したいと言った。ならば、この痛みもまた、デザインの一部として残すべきだ。

 

「野暮ってもんやな」

 

 彼は研磨剤を棚に戻し、代わりに浸透性の硬化油を筆に取った。

 赤錆の上から、それをたっぷりと塗り込む。乾いた錆が油を吸い込み、濡れたような深い黒色へと変貌していく。

 もはや進行することのない、安定した錆。それは汚れではなく、長い歳月を経た道具だけが纏える風合いへと昇華された。

 

 金属の処置を終え、いよいよ樹脂の接合に取り掛かる。

 先ほど練り合わせた麦漆を、割れた断面に薄く、均一に塗っていく。乾いたスポンジのような断面が、貪欲に漆を吸い込んでいくのが分かった。

 割れたパーツ同士を慎重に合わせ、指先で慎重に押し込む。

 ニュルリ、と継ぎ目から余分な糊が微かにはみ出してくる。拭き取らずに残したそのわずかな隆起こそが、後に金粉を纏い、景色と呼ばれる継ぎ目となる土台だ。

 ズレが生じないよう、専用のテープできつく縛り上げ、完全に固定する。クシノはボールの曲面を指の腹で何度もなぞり、ミクロン単位の段差がないことを確認して大きく息を吐いた。

 

 接合されたボールを、湿度の高い木の箱、室へと安置する。

 漆は乾燥では固まらない。空気中の水分を吸って化学変化を起こし、長い時間をかけて石のように硬化するのだ。

 ここからは、もう職人の手は出せない。湿気の中で、ゆっくりと傷が癒えるのを待つしかない。

 クシノは静かに扉を閉める。

 

 深い闇の中で、ボールの再生が始まった。

 

 

 ヤマブキシティの路地裏にひっそりと看板を掲げる、会員制のバー。

 重厚な木の扉が外界の喧騒を遮断した店内には、ジャズが静かに流れていた。

 カウンターに並んで座るクシノとモモナリの前には、ステムの長い繊細なグラスが置かれている。モモナリは上機嫌にグラスを揺らしているが、対照的にクシノは肘をつき、どこか気怠げに黄金色の液体を見つめていた。

 

 その夜の酒は、幻と名高いスターのみを贅沢に使用したフルーツワインだった。

 徹底的なフィルター濾過が施されたそれは、不純物の一切ない、宝石のように透き通った輝きを放っている。

 

「美味い。雑味がなくて、まるで水みたいに飲めるね」

 

 モモナリが感嘆の声を上げる。

 だが、クシノはグラスの中の黄金色を睨み、低い声で言った。

 

「綺麗すぎるわ。皮の渋みも種の油分も、全部フィルターで取り除かれとる。味は整っとるが、奥行きがない」

 

 それは酒の批評であり、同時にクシノがいま向き合っている修理への思考でもあった。

 傷や汚れといった過去をすべて取り除き、ただ綺麗にするだけの修理は、この酒と同じだ。美しくはあるが、そこには歴史という名の深みが存在しない。

 

 モモナリはもう一口だけワインを含み、不思議そうに首を捻る。

 

「厳しいねえ」

 

 モモナリは苦笑しながら、唐突に話題を変えた。

 

「そういえば、君のところのデュラ、ハナダに来たよ」

 

 彼は思い出したように続ける。

 

「いい筋をしてる。でも、疑問だな。あれだけの実力があれば、もっと前にバッジを集められたはずだ。なんで足止めした」

 

 クシノはグラスを置き、指先でその縁をなぞった。

 

「俺が止めたんや。ジム巡りを中断させて、学校に通わせ、友人を作らせて、ボランティアやバイトをさせた」

 

「学生生活? トレーニングじゃなくて?」

 

 意外そうに目を丸くする友人に、クシノは淡々と答えた。

 

「ああ。普通のガキとしての生活や。接客、クレーム処理、理不尽な人間関係。暴力、つまりポケモンバトルが通用しない社会のルールを叩き込ませた」

 

 強い力を持つ者が、必ずしも優れた人間であるとは限らない。むしろ、力があるからこそ、社会的な摩擦を力でねじ伏せようとする。

 

「強くなるのが早すぎると、心が追いつかん。社会の中で頭を下げる経験がないまま力を持つと、どうなると思う」

 

 クシノは横目で、隣に座る男の横顔をじっと見た。

 

「体だけデカくて、中身が赤ちゃんのまま力だけ振り回すバケモノになられても、協会が困るんや」

 

 それは、明らかにモモナリ自身を指した強烈な皮肉だった。

 しかし、モモナリは深く、実に深く頷き、感心したように声を上げた。

 

「なるほどねえ。確かに、力に振り回される子供は見てて危なっかしいもんね。教育者としての責任感、感服したよ」

 

 全く気づいていない。

 自分のことだとは微塵も思わず、純粋に教育論として肯定しているその姿に、クシノは毒気を抜かれたように口元を引きつらせた。

 

「まあ、難しいことはいいよ。結局のところ、気持ちよく酔えればなんだっていい酒さ」

 

 モモナリは残っていた希少なワインを一気に煽り、空になったグラスを置いた。

 その香りを鼻孔で楽しむでもなく、余韻を味わうでもない。ただの液体として消費するその無粋さに、クシノは深いため息をついた。

 

「ほんま、お前にこんな高い酒飲ますんが一番の無駄やわ」

 

 だが、同時に思う。

 この男の、裏表のない単純さが、シゲルのような複雑な過去を背負った人間にとっては、数少ない救いだったのかもしれない、と。

 

 

 バーでの出来事から数日後の深夜。クシノの書斎には、独特の酸味と甘みが混じり合ったような、漆の香りが充満していた。

 

 換気扇の低い回転音だけが響く静寂の中、クシノは湿度計の数値が適正であることを確認し、作業用の手袋とヘッドルーペを装着した。

 

 クシノは木板で作られた保管棚、室の扉を静かに開ける。

 

 

 数週間、適度な湿気の中で眠らせていたボールのパーツを慎重に取り出した。

 

 

 割れ目に塗り込んだ樹液と穀物粉のペースト、麦漆は、空気中の水分を吸って石のように硬化し、樹脂と完全に一体化している。金属パーツも同様だ。硬化オイルをたっぷりと吸った赤錆は、濡れたような深い黒褐色へと変色し、金属の肌の一部として定着していた。

 

 

 中まで乾いている。骨は繋がったのだ。

 

 クシノは小刀と乾燥した硬い葉を使い、接着面からはみ出した余分なペーストを削り落としていく。指先で何度もそのラインを撫で、段差が消えて滑らかな一本の線になるまで整える作業だ。

 研ぎを終えると、削り出したラインの上に、極細の筆で紅色の樹液を薄く、均一に引いていく。これが金粉を捕まえるための最後の糊となる。

 筆先が震えぬよう息を止める。線の太さが呼吸一つで変わってしまう、極限の緊張感がそこにはあった。

 

 クシノが小皿に取り出したのは、市販の工芸品に使われるような煌びやかな金粉ではない。粒子が極限まで細かく、光を乱反射せずに吸い込むような艶消しの金粉だ。

 真綿にその粉を含ませ、紅色のラインの上を優しく叩くように落としていく。

 紅い樹液が金を吸い、鮮やかな、しかし決して派手ではない黄金色が浮かび上がった。それは鏡のような輝きではなく、月明かりのように鈍く、静かな光だ。

 

 

 ピカピカに直してしまえば、それは新品への未練になる。この鈍い光こそが、過去を受け入れた証であり、弔いと再起のための色なのだ。

 

 金粉が定着したのを確認し、黒く錆びついた金属パーツと、金継ぎを施された樹脂パーツを組み合わせる。微調整したヒンジにピンを通すと、カチッという硬質な音が響き、ボールが完全な球体へと戻った。

 完成したその姿は、全体的に古びたアンティークのような質感を帯びている。しかし、中央を走る稲妻のような金の亀裂が、このボールがただの古い道具ではなく、特別な歴史を持つ一点物であることを静かに主張していた。

 

 クシノはルーペを外し、完成したボールを掌で包み込んだ。

 伝わってくる冷たさと重みを確かめるように、クシノは満足げに呟いた。

 

「ええ顔になった。行こうか、主のところへ」

 

 

 トキワシティの外れにある公営墓地。かつてシオンタウンのポケモンタワーがラジオ塔へと改修された際、行き場を失った遺骨の一部がここに移送され、手厚く葬られていた。深い緑に囲まれた、静寂な場所だ。

 

 待ち合わせ場所に現れたクシノを見て、黒いジャケット姿のシゲルは少し驚いたように眉を上げ、ふっと笑みをこぼした。

 クシノは派手すぎないダークグレーのスーツに、黒いネクタイを締めている。完全な喪服ではないが、明らかにこの場に対する弔意を示した装いだ。

 

「流石だな。何も言わなくても、理解している」

 

「職人の嗜みですわ」

 

 二人は並んで歩き、ある小さな墓石の前で足を止めた。そこには『ラッタ』の名が刻まれている。

 クシノは懐から木の箱を取り出し、恭しくシゲルへと手渡した。

 

 シゲルがゆっくりと蓋を開ける。

 そこに鎮座していたのは、新品同様にリペアされたボールではなかった。

 金属部分は硬化油によって濡れたような黒褐色に沈み、樹脂部分を走る亀裂は、艶消しの金によって継ぎ合わされている。

 旅の記憶である錆と、別れの傷である金の継ぎ目。それらが混ざり合い、一つの景色として完成された、重厚なボールだった。

 

 シゲルは息を飲み、震える指先でその金の亀裂をなぞった。指の腹に伝わる段差のない滑らかな感触に、遠い日々の記憶が蘇る。

 

「ああ。そうだ。俺たちはこうやって、ボロボロになるまで走ったんだ」

 

 彼はボールを墓石の前に供えた。

 その瞬間、それは単なる捕獲道具ではなく、魂の宿る遺品へと昇華されたのだった。

 

 立ち上る線香の細い煙を目で追いながら、シゲルがポツリと語り出した。

 

「こないだ、ある挑戦者にバッジを渡したんだ。数年前に一度ジム戦で挫折し、トレーナーへの道を諦めかけた男だった」

 

 シゲルは懐かしむように目を細める。

 

「そんな彼が再挑戦の際、パーティの切り札に据えていたのは『ブニャット』だった」

 

 その選択に、シゲルはかつての自分とは違う何かを見たのだろう。彼は噛み締めるように続けた。

 

「彼は言っていた。『こいつは俺の最初のポケモンです。一度は力不足だと思って外した。でも、こいつと勝てなきゃ意味がないって気付いたんです』と」

 

 シゲルは小さく息を吐いた。

 

「そのブニャットは、泥臭く粘って、俺の精鋭を倒した。俺には、そいつらが酷く眩しく見えたよ」

 

 シゲルの視線が、目の前の墓石へと落ちる。

 

「ラッタは、正直、強くはなかった。当時の俺も、心のどこかで力不足を感じていた」

 

 そしてあの日、ラッタは死んだ。

 シゲルは唇を噛み、胸の内に巣食う昏い罪悪感を吐露した。ラッタがいなくなったことで、彼はパーティを再構築し、より強力なポケモンを組み込んだ。結果として、彼はカントーの頂点、チャンピオンへと上り詰めたのだ。

 

「俺は時々、怖くなる。『ラッタが死んだから、俺は完成したんじゃないか』と」

 

 声が微かに震える。

 

「あいつの死を踏み台にして、最強の座を手に入れた俺を、あいつは誇りに思ってくれるだろうか」

 

 伝説のトレーナーが抱える、あまりに人間臭い葛藤。クシノは彼を顧客としてではなく、過去に縛られた一人の青年として見つめた。

 

「もうラッタはおらんから、断言はできません。死人に口なしですわ」

 

 クシノは空へと溶けていく線香の煙を見上げた。

 

「せやけど、あなたがそうやって悩み続けていること。それが答えなんと違いますか」

 

 シゲルが顔を上げる。

 

「正解なんか一生出ん。でも、『本当にこれで良かったんか』と思いながら生きることが、あなたがラッタさんに払える精一杯の誠意でしょう」

 

 シゲルは長く、深く息を吐き出した。その表情からは、憑き物が落ちたような安らぎが感じられた。

 

「そうだな。一生、背負っていくよ」

 

 彼は墓前に供えられたボールへと視線を落とす。

 

「このボールは、いずれ頃合いを見て、ここに埋めるつもりだ。土に還してやりたい」

 

 シゲルは申し訳なさそうにクシノを見た。

 

「すまないな。せっかく最高の手際で直してもらったのに、すぐに土の中だ」

 

 クシノは首を横に振った。

 

「かまへんのです。直すいうんは、使うためだけとちゃいます」

 

 クシノは墓石とボール、そして少しだけ背筋の伸びたシゲルを交互に見て、穏やかに告げた。

 

「綺麗に終わらせてやるんも、また修理です。最高の選択やと思います」

 

 

 クシノの自宅、ダイニングキッチン。

 エプロン姿のクシノが忙しなく手を動かす背後で、テーブルには二人の女性が向かい合っていた。

 一人は、クシノの妻であり現役のAリーグプロトレーナーであるアヤカ。グラスの水を優雅に回す彼女はリラックスした部屋着姿だが、その眼差しは鋭い。

 対して、向かいに座る弟子のデュラは、テーブルに頬杖をつき、あからさまに不貞腐れていた。

 

「勝てませんよ、あの人。理不尽です。ポケモンも本人も、動きがセオリー無視で滅茶苦茶だし」

 

 ハナダでの手合わせ、あるいは一方的な指導で完膚なきまでに叩きのめされたのだろう。デュラは納得がいかない様子で唇を尖らせた。

 アヤカは水を一口含み、諭すように言った。

 

「モモナリさんは野生に見えて、誰よりも人間を見てるわよ。貴方のポケモンは綺麗に育ってるけど、焦りや『スマートに決めたい』っていう欲を見透かされてるんじゃない?」

 

 図星を突かれたのか、デュラが押し黙る。

 

「強さには、泥臭さも必要なの。貴方にはそれが足りないわね」

 

 そこへ、ボトルを手にしたクシノが現れた。

 

「泥臭さの話か。なら、ちょうどええ教材がある」

 

 クシノが取り出したのは、底が深く歪な形状をしたガラスのデキャンタだった。

 

「何ですかその変な形。実験器具ですか」

 

 デュラの問いに、クシノはニヤリと笑う。

 

「泥と魂を分けるための、俺の最高傑作や」

 

 彼はそこに、幻のきのみであるスターのみを使用した果実酒を注ぎ込む。ドロドロとした液体が硝子の壁を伝い、底の溝に重たい澱となって溜まっていく。

 

「これは無濾過のワインや。皮も種も丸ごと使うて搾っとるから、どうしてもこういう『カス』が生まれる。ほら見ろ、この溝に重たいカスが溜まっとるやろ」

 

 クシノは手際よく、その上澄みだけを別の広口のデキャンタへと移し替え、空気に触れさせた。

 そして、上澄みの入ったデキャンタをアヤカの前に置き、澱がたっぷりと残った方の容器を持ってキッチンへと戻る。

 熱したフライパンには、分厚い赤身肉の塊を焼いた後の肉汁が残っている。クシノはそこへ、デキャンタの底に溜まったドロドロの澱を迷いなく投入した。

 

「うえっ。それカスでしょ。捨てるもんじゃないの」

 

 デュラが露骨に顔をしかめる。

 

「アホいえ。ここが一番味が濃いんや」

 

 フライパンの上で、肉汁と香味野菜、そして果実酒の澱が混ざり合う。

 最初はツンとした酸味が立ち上るが、加熱するにつれてアルコールと水分が飛び、鍋の中身は濃厚で艶のある黒褐色のソースへと変化していく。それはまさに、食材の命を別の形へと昇華させる錬金術だった。

 

 焼き上がったステーキに、たっぷりとその澱のソースを回しかけてテーブルへと運ぶ。

 クシノとアヤカのグラスにはデキャンタから透き通ったワインが、デュラには果実のジュースが注がれた。

 デュラは疑り深い目で皿を見つめていたが、意を決して肉を口へと運ぶ。

 

「美味い」

 

 デュラが目を見開く。

 

「甘いけど、なんか苦くて、味が深い」

 

「澱の渋みが、肉の脂を中和して甘みを引き立てるんや。綺麗なだけの上澄みソースじゃ、この味は出せん」

 

 クシノの説明に、アヤカはワインを一口飲み、満足げに微笑んだ。

 

「なるほどね。デュラちゃん、これが答えよ。苦い経験という名の澱を捨てずに煮詰めた人が、最後には一番いい味を出せるの」

 

 その言葉に、デュラは唇を尖らせた。

 

「私だってそーとー苦労してるんですけど」

 

「若い若い、まだまだ、ね」

 

 その言葉は、トレーナーとしての在り方だけでなく、人生そのものを説いているようだった。

 クシノは自分のグラスを手に取り、先日墓地で見送ったシゲルの顔を思い浮かべた。

 過去の傷も、拭えない後悔も、捨てずに背負うと決めた男。その生き様はこのソースのように、時を経て深い味わいとなるだろう。

 

「せやな。苦味も渋みも、煮詰めれば味になる」

 

 クシノが掲げたグラスに、二人が続く。

 三つの硝子が触れ合う硬質で涼やかな音が、ダイニングに響き渡った。




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