継ぐもの~クシノ理事の金継ぎ修繕録~   作:rairaibou(風)

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4:凡夫の呼び継ぎ、情熱の傷痕

 段ボールの重たい匂いが、週末のリビングを満たしていた。

 

『ミアレシティ復興支援チャリティオークション』

 

 カントー・ジョウトポケモンリーグ協会が主催する、大規模な資金集めだ。

 その準備のため、クシノ夫妻は朝から荷造りに追われている。

 

 向かいでは、彼の妻であるアヤカが手際よく出品物を箱に詰めている。

 予備のスポーツ用サングラス。一度使用したハイパーボールをはじめとする、ポケモンバトル関連のグッズ。

 

 彼女の判断基準は常に合理的だ。状態が良く、落札者の役に立つか否か。そして何より、現役Aリーガーである自身が使用したという事実が、ブランドとして機能するかどうか、だ。

 

「あら」

 

 しかし、その手が止まる。

 

 アヤカが、クシノの用意した出品箱から一つの品をつまみ上げる。

 黒のストレートチップ。

 最高級のレザーで作られた一足。

 表面のホコリは払われている。だが、無数の深い傷が刻まれ、甲の折り目には修復不可能なひび割れが走っていた。

 

「ちょっと、本気でこれを出品するつもり?」

 

 アヤカの声音が一段と低くなる。

 クシノは手を止め、バツが悪そうに鼻の頭を掻いた。

 傷だらけのゴミを寄付金箱に放り込んだことを咎められている。そう思った。

 

「なんや、汚いか。まあ、俺にも昔からの物好きなファンがおるからな」

 

 苦笑を浮かべ、言葉を継ぐ。

 

「サインでも書いとけば、誰か買うてくれるやろ。そうやって寄付金を集めるのも、理事の立派な仕事やで」

 

 論理だ。

 傷ついた品でも、名前という付加価値をつければ資金に化ける。

 効率的で、非の打ち所のない正論。

 だが、アヤカの鋭い眼差しは揺るがない。

 彼女はゆっくりと首を横に振った。

 

「状態の話をしてるんじゃないわよ。これ、リーグトレーナー時代にずっと履いてた靴じゃない」

 

 沈黙が落ちた。

 クシノは手元の段ボールに視線を落とす。

 

 最高級のブランドスーツと革靴で、泥だらけのバトルフィールドに立つ。

 

 それが、現役時代のクシノの流儀だった。

 

 こんな高い服、汚したくないに違いない。相手にそう思わせたら、俺の勝ちや。

 

 盤外戦術。ブラフ。

 実際に、何着ものオーダースーツが泥と技の余波でオシャカになった。

 だが、このストレートチップだけは違った。

 何度もソールを張り替え、磨き上げ、ひび割れを埋めて履き続けた。

 泥濘を踏み締め、指示を飛ばし、勝利と敗北の味を共に噛み締めた。

 単なる道具ではない。戦場を生き抜いた、旧友だ。

 

 アヤカはそれを知っている。

 

「かけがえのないものじゃない。手放したら後悔するわよ」

 

 アヤカの問いが、静かにリビングに響く。

 だが、クシノの心にさざ波は立たない。

 手元のガムテープを無造作に引きちぎる。乾いた破裂音が鳴った。

 

 一つのため息の後に。クシノがそれに答える。

 

「もう、俺はリーグトレーナーには戻らんしな」

 

 事実だ。そこに感傷はない。

 

「理事の仕事に、泥濘を歩く靴は必要ないやろ」

 

 アヤカの手にある革靴を見つめて、続ける。

 

「過去の栄光に縋るほど、俺も老いぼれてへんわ」

 

 今の自分は協会本部の理事だ。空調の効いた執務室と、敷き詰められたカーペット。

 そこに泥濘はない。

 ならば、泥濘を歩くための重い靴も不要だ。

 過去は過去。執着は判断を鈍らせる。単なる物理的な処分でしかない。

 クシノはそう結論づけ、靴を再び出品箱に戻そうとした。

 

 だが。

 

 アヤカがそっと靴を取り上げ、クシノの手の届かない棚の上へと置いた。

 

「オークションまで。頭を冷やしなさい」

 

 反論の余地を与えない、決定事項。

 クシノは短くため息を吐き、逆らうことなく次の段ボールへと向き直った。

 

 

 翌週の月曜。

 

 ヤマブキシティ、ポケモンリーグ協会本部ビル。

 クシノはエントランスの大理石を、滑るように歩いていた。

 

 足取りは驚くほど軽い。

 先週、ネット通販で適当に購入した最新素材の軽量ビジネスシューズ。

 スニーカーと遜色ないクッション性。通気性も申し分ない。

 足首や膝への負担は皆無だ。

 

 最近の技術はすごいな。

 

 素直に感心する。

 理事の仕事に、重厚な革靴は必要ない。

 この軽さ、この歩きやすさ。現代のビジネスシーンにおける最適解だ。

 疲労感がまるで違う。

 何より、メンテナンスの手間が省ける。

 合理的だ。極めて合理的である。

 

 クシノはエレベーターのボタンを押し、閉まりゆく扉の鏡面に映る自分の足元を見下ろした。

 ピカピカの、傷一つない靴。

 これでいい。否、これがいい。

 

 理事としての長い一日が、また始まる。

 

 

 ヤマブキシティ。ポケモンリーグ協会本部ビル、高層階。

 理事執務室の窓下には、ミニチュアのように整然とした街並みが広がっている。

 クシノのデスクの上には、一ヶ月後に迫った『ミアレシティ復興支援チャリティオークション』の進行表。

 そして、モニタに表示された提供品リストのエクセルデータ。

 

 華やかなチャリティ。

 だが、その実態は泥臭いトラブル処理の連続だ。

 内線が鳴る。受話器を取る。報告が響く。

 

『シバ選手が提供予定だった修行用の岩が、輸送中に粉々になってただの砂利になりました』

 

 クシノは眉一つ動かさない。

 

「小瓶に詰めて『闘気砂』として出しなさい、多分本人もよく覚えていないだろうから」

 

 即答。電話を切る。再び鳴る。

 

『モモナリ選手が出品した、ハナダの洞窟の奥底で拾った出所不明の巨大な骨ですが。学術保護法の規定に抵触する恐れがあります』

 

 問題児のトラブル。

 ため息が出る。だが、声には出さない。

 

「私がオーキド研究所に連絡して、学術調査の名目にする。リストから外して保留だ」

 

 受話器を置く。

 事象の羅列。それを一つ一つ、適切な枠に嵌め込んでいく。

 それが理事の仕事だ。

 

 

 昼前。

 執務室のドアがノックされた。

 

「どうぞ」

「失礼します」

 

 入室してきたのは、広報部の新人職員。チサト。

 手にはオークションのパンフレットの束。最終確認の承認印を求めてきた。

 クシノは受け取り、視線を滑らせる。

 誤字はない。レイアウトも問題ない。

 朱肉に印を押し、所定の欄に捺印する。

 

「確認した。ご苦労様、チサト君」

 

 書類を返す。

 

「広報部も今週は山場だろう。体調管理には気をつけるように」

 

 新人の名前、顔、そして所属部署の進行状況。

 管理職として当然の把握。適度な距離感と労い。

 スマートな対応だ。

 だが、チサトは書類を受け取っても動かなかった。

 退出の気配がない。

 その場に立ち尽くし、足元に視線を落としている。

 

 沈黙。

 

 クシノはペンを置き、視線を上げた。

 チサトが意を決したように切り出す。

 

「あの、クシノ理事。オークションの件とは関係ない、個人的なご相談なのですが」

 

 声が微かに上ずっている。

 

「実は、私の祖父が」

 

 クシノは記憶の引き出しを開ける。

 職員の身上書。家族構成。

 

「君の祖父君というと、チョウジタウンで釣り人をしている方だったかな」

 

 チサトが弾かれたように顔を上げた。

 驚き。そして、安堵の表情。

 

「はい。その祖父が、今度のいかりの湖でのコイキングフィッシュ選手権を最後に、引退すると言い出しました。でも、それは本意じゃないんです」

 

 引退。

 プロの世界では珍しくない言葉だ。

 だが、本意ではないという。

 

「愛用していた竿が壊れちゃって、それで」

 

 チサトの口から紡がれるのは、よくある喪失の形だった。

 祖父のカジキが長年愛用していた古い釣具。それを壊してしまったこと。

 

「理事は、個人的に古いボールの修繕を請け負うことがあると、先輩から伺いました」

 

 チサトが深く頭を下げる。

 

「どうか、祖父の道具を見てやっていただけないでしょうか」

 

 クシノはその言葉に考え込むような素振りを見せたが、本心では首を振りながら鼻を鳴らす。

 

 古い道具の破損。そして、引退。

 ありふれた、それでいて文句のつけようがないほど美しい因果関係だ。

 

「チサト君。今の時代、釣具など最新の軽くて性能の良いものがいくらでも手に入る。それに付け替えれば済む話だ」

 

 理屈だ。

 失われたなら、より良いもので代用すればいい。

 

「それでも、愛用の道具が壊れたから引退する。物語としては美しい理由じゃないか」

 

 断定。

 チサトは言葉に詰まった。

 だが、その目は真っ直ぐにクシノを捕らえて離さない。

 

「お願いします。私には、祖父がただ何かを諦めようとしているようにしか見えないんです」

 

 懇願。

 損得のない、純粋な情動。

 クシノは短く息を吐いた。

 手元のスケジュール帳を開く。週末の予定。

 幸か不幸か。

 

「わかった」

 

 ページを捲る。

 

「どのみち今週末は、ジョウト方面のジム視察が入っている。ついでにチョウジタウンに寄って、お祖父さんの気持ちを聞いてみよう」

 

 チサトの顔がパッと輝いた。

 再度、深く頭を下げる。

 弾むような足取りで退出していく彼女の背中を見送る。

 

 静まり返った執務室。

 クシノは端末のデータに視線を戻した。

 古い道具への執着。感傷。

 プロの引き際としては、潔くもある。

 クシノはマウスを握り、保留にしたリストの行を静かにスクロールさせた。

 

 

 週末の午後。

 ジョウト地方、チョウジタウン。

 冷涼な空気が、火照った頭をゆっくりと冷ましていく。

 クシノは公民館の重いガラス扉を押し開け、外の空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。

 

 地元のジム運営委員会とのミーティングは、予想通り退屈なものだった。

 議題は来期の予算割り振りと老朽化した防音壁の更新という事務的な内容であり、落とし所は最初から決まっている。それを互いに確認し合うための、儀式のような二時間だった。

 

「まあ、必要な仕事ではあるけどな」

 

 クシノはネクタイの結び目を少し緩め、短く息を吐いた。

 歩き出す。

 

 

 町外れの古い喫茶店。

 約束の時間より少し早く着いたが、店内の窓際の席にはすでに私服姿のチサトが座っていた。

 クシノが向かいの席に腰を下ろすと、間もなくして恰幅の良い女性オーナーがコーヒーを二つ運んできた。

 カップをテーブルに置く手つきがやけにゆっくりで、彼女の視線がクシノの仕立ての良いスーツとチサトの緊張した顔を往復する。

 そして、ニヤリと笑った。

 

「チサトちゃん、ついにこんな良い男を捕まえたのかい。おじいちゃんも安心だねえ」

 

 場馴れした、遠慮のないからかいだ。

 チサトは弾かれたように顔を上げ、耳まで真っ赤に染めた。

 

「ち、違います! この方はリーグ本部の、偉い理事さんで!」

 

 慌てふためく新人をよそに、クシノはカップの縁を指で軽く撫でた。

 

「ただの職場の世話焼きオヤジですよ」

 

 苦笑とともに返す。

 深く焙煎された豆の香りが鼻を抜けた。

 

 クシノはブラックのままコーヒーをすすり、口の中に広がる確かな苦味を味わった。

 

 

 カフェを出た二人は、町並みの外れにある古びた木造の平屋へと向かった。

 潮の匂いではなく、淡水特有の青臭い風が吹いている。

 庭先の縁側には、白髪交じりの頑強な老人が腰掛けていた。

 紫煙を燻らせながら、太い指先で数本の釣り竿のガイドを丹念に磨いている。彼こそがチサトの祖父であり、釣り人のカジキだ。

 

 来訪の気配に気づき、老人はゆっくりと顔を上げた。

 その視線が、クシノのスーツを値踏みするように舐める。

 

「チサトの奴、本当に本部の偉いさんを連れてきおって」

 

 煙草を灰皿に押し付け、カジキは深くシワの刻まれた顔をさらにしかめた。

 歓迎されていないことは明白だ。

 クシノは内ポケットから名刺入れを取り出し、静かに一歩踏み出す。

 

「カントー・ジョウトポケモンリーグ協会のクシノと申します。本日は休日のところ、お時間をいただき恐縮です」

 

 完璧な角度の礼と、隙のない社会人としての作法。

 カジキは名刺を受け取り、小さく鼻を鳴らした。不承不承ではあるが、門前払いする理由も潰された形だ。

 老人は無言のまま顎をしゃくり、二人を家の中へと促す。

 

 

 薄暗い玄関に足を踏み入れた瞬間、クシノの動きが止まった。

 

 土壁を埋め尽くすように、無数の魚拓と色褪せた写真が飾られている。

 巨大なギャラドスをはじめとする、規格外のサイズを誇る水棲ポケモンたちのシルエット。墨の濃淡が、暴れる獲物の生命力を克明に写し取っていた。

 

 そして、中央に飾られた一枚の写真。

 今よりずっと若く、筋骨隆々としたカジキの姿があった。

 巨大な獲物を抱え上げ、カメラに向かって満面の笑みを見せている。その太い右手には、黒く重たそうな『ルアーボール』がしっかりと握られている。

 

 熱だ。

 

 写真の中の男は、誇りと生命力に満ち溢れている。

 水面下の命との、命懸けの引っ張り合い。その熱量が、古い印画紙から立ち上ってくるようだった。

 

 

 通された客間は、古い畳と線香の匂いが微かに混じり合っていた。

 カジキは部屋の奥の押し入れから、使い込まれた細長い木箱を慎重な手つきで運び出す。

 

 座卓の上に置かれ、ゆっくりと蓋が開かれる。

 

 中には、一本の釣り竿と、その先端のラインに結ばれたルアーボール、否、ルアーボールであったものが収められていた。

 

 竿は最新の合成素材などではない。しなやかで強靭な天然素材を幾重にも組み合わせた、いかにも年季の入った品だ。

 グリップの部分は持ち主の手の形に合わせて黒ずみ、深く摩耗している。

 

 そして問題のルアーボールは、金属製の外殻を持つ旧式の重量モデルだ。

 海や湖での過酷な使用を前提とした特殊コーティングのおかげで塩害によるサビこそ少ないものの、物理的な衝撃によって外殻の上半分が痛々しく砕け散り、内部の捕獲ネット機構が完全に露出していた。

 

「拝見します」

 

 クシノは短く断り、竿とボールを両手でそっと持ち上げる。

 

 まずはグリップを握り込む。カジキの太い指の跡が、まるでクシノの掌を拒絶するかのように不規則な凹凸をもって沈み込んでくる。

 

 次に、ラインの先でぶら下がるボールの重さを手のひらで量った。ずっしりとした、現代の軽量モデルには決して存在しない金属の確かな質量。

 

 この竿がいつの時代のものかは分からない。だが、この竿と重いボールがセットになることで初めて『カジキの腕の延長』として長年完璧なバランスを保ってきたという事実を、クシノは手元に伝わる感覚から瞬時に理解した。

 

 クシノはボールの砕けた断面を指先でなぞり、静かに息を吐く。

 

「なるほど。防錆処理は生きていますが、外殻の金属疲労と物理的な欠損ですね。完全に寿命です」

 

 静かな部屋に、冷徹な事実だけが落ちる。

 

「直すことは可能です。欠損部分を樹脂で埋めて成形し直せば、外見上の形は戻るでしょう。ですが、全体の強度は落ちるし、何より『重心』が変わってしまう」

 

 クシノはゆっくりと竿を木箱に戻し、カジキの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「私はただの器用な裏方であって、専門の修理業者じゃありませんが。カジキさんのような繊細な釣りをする方にとって、ミリ単位でバランスの狂った竿はもはや使い物にならないでしょう。これを元の感覚のまま、実戦レベルで直すのは無理な相談です」

 

 横で聞いていたチサトが、弾かれたように身を乗り出した。

 

「そんな! 理事、ボールの部分だけ新しいものに付け替えれば、まだこの竿は使えるじゃないですか!」

 

 素人目には極めて合理的で、無邪気な解決策。

 否、それは持ち主の歴史に対する残酷な冒涜である。

 クシノは首を横に振り、すがるようなチサトの視線を切り捨てた。

 

「チサト君。この竿は、この重い旧式ボールを投げるためだけに調整され、長い時間をかけてカジキさんの手に馴染んだ特注品だ。先端に軽い最新のボールを付ければ、竿のしなりも手元に伝わる感覚も全て別物になる。それはもう、カジキさんの竿ではないんだよ」

 

 道具の機能だけを見れば、代えはいくらでも利く。だが、持ち主との間に築かれた歴史と一体感を尊重するならば、安易な代替は不可能だ。

 それは道具の真価を知る者としての矜持であり、同時にカジキから水辺に立つ理由を奪い去る、残酷な正論だった。

 

「我々トレーナーだって、種族が同じだけの全く違うポケモンを扱えるわけではないようにね」

 

 否、嘘だ。

 あまりにも優れすぎたトレーナーは、それすらも可能にすることをクシノは知っている。

 それを言うと話がややこしくなるから言わないだけで。

 

 沈黙。

 カジキは深く、吐き出すような吐息を漏らし、ゆっくりと頷いた。

 

「あんた、本部の役人にしてはよく分かっとる。その通りだ。ガワだけ取り繕っても、ワシの指先までは騙せん」

 

 自嘲。

 老人の口角が、歪に吊り上がる。

 クシノが「直せない」と言い切ったこと。そこに、安易な同情ではない誠実さを読み取ったのだ。

 プロは嘘を嫌う。特に、自身の技術の根幹に関わる領域においては。

 

「こいつはもう、ワシの引退にふさわしいゴミなんだよ」

 

 断定。

 だが、その言葉には隠しきれない重みがある。

 

「そんな。おじいちゃん、道具が壊れたなら新しいのを使えばいいじゃない。お願いだから、釣りをやめないで!」

 

 チサトの声が震える。

 彼女にとって、直すべきは竿ではない。

 祖父の人生そのものだ。釣りという生きがいを失い、ただ枯れていく老人を直視することへの、剥き出しの恐怖。

 

「理事、なんとかならないんですか」

 

 すがるような視線。

 クシノはそれに答えず、ただ静かにカジキの次なる言葉を待った。

 老人はチサトを落ち着かせるように、大きな、節くれ立った手で空を制す。

 

「無理を言うな、チサト。今の時代は、トマシノのような連中のものなんだ」

 

 トマシノ。

 聞き慣れない固有名詞。

 クシノは眉をわずかに動かし、その名を意識の隅に書き留めた。

 

「トマシノ? どこのどなたですか」

 

 問い。

 カジキは遠く、いかりの湖の底でも覗き込むような目で語り始めた。

 

「今の現役トップを走るアングラーだ。あいつの釣りは、効率的で、無駄がない。最新の超音波ソナーで獲物の位置を完全に特定し、精密な電動リールで最も確実に食いつく深度を維持し続ける。若いがデータを上手く使う」

 

 それは、最速で、最高の結果を出すための、極限まで磨かれたシステムの使い手だった。

 

「あいつは言い切ったよ。釣りはオカルトではない、とな。ワシのような、古臭い勘や重たい道具に宿る魂なんてものは、データに表れないゴミだと言われたのと同じだ」

 

 技術の進化。

 それは、それまで「魔法」や「奇跡」と呼ばれていたものを、数式と論理の檻に閉じ込める作業に他ならない。

 カジキは傍らに置かれた最新のカーボンロッドを、複雑な心境を含めた視線で見つめる。

 

「新しい道具は、使いづらい」

 

 軽薄。

 効率を求めた結果、削ぎ落とされたのは「ノイズ」ではない。

 水面下の命と対峙するための、確かな手応え。

 その感触を失った手には、もはや重力すら感じられないのだろう。

 

「道具が変わり、釣りの形が変わった。ワシの腕は、もう今の時代の道具にも、トマシノの合理性にも合わせられん。このボールが壊れたのは、ただのきっかけだ。ワシはもう、潮時なんだよ」

 

 敗北感。

 否、納得の欠如だ。

 自分が愛した『釣り』という行為が、別の何かに変質してしまったことへの、静かな拒絶。

 

 クシノは、カジキの言葉を一つひとつ、重さを量るように咀嚼した。

 

「なるほど。感覚のズレはどうにもならない。カジキさんが今の道具に合わせられない。あるいは、合わせたくないのであれば、無理に直す意味はありませんね」

 

 肯定。

 それはチサトにとっては残酷な響きだったかもしれない。

 だが、クシノにとっては、一人のプロの引き際に対する、最大限の敬意だった。

 

 無理に繋ぎ止めることは、再生ではない。

 それは、死にゆく者の尊厳を汚す、ただの延命だ。

 

 クシノは木箱の中の、砕けたルアーボールを指先で弾いた。

 乾いた、虚ろな音が響いた。

 

 沈黙。

 カジキが吐き出した「潮時だ」という言葉は、客間の湿った空気の中に重く、静かに沈殿した。

 

 クシノは老人を哀れむような真似はしなかった。

 ただ、一人の熟練した表現者が、自身の表現媒体である道具と、それを許容する時代を同時に失ったという事実。

 それを、対等なプロとして静かに受け入れた。

 

「よく分かりました。これ以上、私が口を挟む領域ではありませんね」

 

 幕引きだ。

 クシノは丁寧に一礼し、木箱の蓋を閉めた。

 修理を請け負う素振りも見せず、仕事用の鞄を手に取る。

 

「お時間を取らせて申し訳ありませんでした。カジキさん、良いものを見せていただきました」

 

 カジキは灰皿に煙草を押し付け、短く「ああ。わざわざ済まなかったな」とだけ答えた。

 その声に、チサトが望んでいた未練の響きは、微塵もなかった。

 故に、完結である。

 

 

「理事! 本当に行っちゃうんですか!?」

 

 立ち上がったクシノの袖を、チサトが縋るように掴んだ。

 彼女には、この二人の間に流れる『納得』が理解できない。

 ただ、目の前で祖父の人生の灯が、音もなく消えようとしていることが耐えられなかった。

 

「お願いです、嘘でもいいから直せるって言ってください! 何か希望を」

 

 懇願。

 クシノはチサトの手を静かに、だが毅然と外した。

 

「チサト君。プロの言葉に希望を贈るのは、最大の侮辱だ」

 

 突き放す。

 厳しく、冷徹な声。

 

「カジキさんは、自分の足で舞台を降りようとしている。それを邪魔するのは、身内のわがままだよ」

 

 敬意だ。

 一人の男が守り抜いた誇りを、安っぽい同情で汚させはしない。

 クシノはそのまま、一度も振り返ることなく玄関へと向かった。

 

 

 チョウジタウンの夕暮れ。

 駅へと続く道中、チサトは俯き、声を殺して泣いていた。

 

 クシノは掛ける言葉を持たず、ただ前を見て歩く。

 頭の中では、カジキが語ったトマシノの言葉が、何度も反芻されていた。

 

『釣りはオカルトではない』

 

 効率。データ。再現性。

 それは、数値化できない手応えや勘を頼りに生きてきた人間にとって、もっとも残酷な宣告だ。

 正論は、時に凶器よりも鋭く、人の魂を削ぎ落とす。

 

「オカルト、か。合理的やな」

 

 独白。

 カジキの頑なな引退理由は、単なる逃げではない。

 自分の信じてきた「手触りのある世界」が、根底から否定され、消え去ったことへの絶望だ。

 正解だけが支配する世界に、彼の居場所はもうない。

 

「チサト君。お祖父さんの言ったことは、正しいよ。時代が変われば、正解も変わる」

 

 立ち止まらずに、クシノは呟いた。

 

「尤も、正解にも才能が必要ではあるが」

 

 そんなに簡単な世界なら、自分はもうちょっと頑張れた。

 

 夕暮れの風が、その言葉をさらっていく。

 クシノは、自身の感情を押し殺すように、ネクタイをきつく締め直した。

 

 

 ヤマブキシティ、裏路地の雑居ビル。

 その地下に潜む会員制バー『ナイト・シェイド』の空気は、地上の喧騒を拒絶するように冷ややかで、それでいて熟成された酒精の芳香が深く立ち込めていた。

 

 クシノはカウンターの端に座り、液体の中でゆっくりと角が取れていく氷を眺めている。

 隣には、カントージョウトリーグトレーナー、モモナリ。

 別段特別なオーラのある男ではない、むしろその風貌やまとった空気は、会員制バーであるナイト・シェイドにはいささか不釣り合いなようにすら思えた。

 尤も、ここに呼び出された理由はとてもではないが普通のものではないが。

 

「おまえよお、ハナダのどうくつの出所不明な骨を、チャリティに出そうなんて二度と考えんといてくれ。あれがどれだけ学術的に厄介なもんか、お前でも分かるやろ。始末書やら鑑定依頼やら、書類を作る俺の身にもなってくれや」

 

 クシノは手元のグラスを睨んだまま、低い、だが確かな刺を込めた声を出す。

 管理職としての責務。あるいは、長年の付き合いゆえの諦念か。

 

 モモナリは試作のカクテルを啜りながら、悪びれもせずに肩をすくめた。

 クシノはポケモン用のきのみを使用した試作品の『治験』をでき、モモナリはタダ酒にありつける。

 

「そんなこと言ったって、僕、特に出せるものなんてないからさあ。あの骨、結構カッコよかっただろ? 床の間に飾っておけば、それだけで強くなった気がすると思うんだけどなあ」

 

 悪意はない。ただ、圧倒的なまでの価値観の断絶。

 クシノは重いため息を一つ、グラスの縁に落とした。

 話題を変えるべきだ。そうしなければ、今夜はこの男の無邪気な暴論に、胃を焼かれるだけで終わってしまう。

 

「チョウジタウンへ行ってきた。一人の釣り人が、引退を決めたらしい。理由は、長年愛用していた道具が壊れたことや」

 

 クシノは自分に言い聞かせるように、氷を揺らした。

 

「一人の競技者にとって、引退というもんは重いもんや。他人が外からどうこう言えるもんやない。たとえそれが、傍から見ればたかが道具が壊れただけのように見えてもな」

 

 モモナリはグラスの中の果実の欠片を、指先で退屈そうに弄んだ。

 

「だけどさ、道具が壊れたくらいで引退するって、少し大げさな気がするけどなあ。今の時代、新しいのを買えばいいじゃない。もっと軽くて、性能の良いやつをさ」

 

「それはお前だからそう思うんや。言っちゃ悪いが、お前に引退する競技者の気持ちなんかわからんやろ。お前は負けることすら楽しんどる、規格外の怪物なんやからな」

 

 断定。

 十四歳で剥き出しの戦場に立ち、以来、一度も立ち止まることなく戦場を駆け抜けてきた男。

 己の限界という壁に激突し、血を流して去る者の泥臭い絶望。

 そんなものは、この男の辞書には一文字も記されていない。

 クシノはそう確信していた。

 

「いいや。気持ちはわかるよ」

 

 モモナリがふと、果実を弄ぶ手を止めた。

 その声は凪のように静かで、不思議な透明感を伴っていた。

 

「ほう、どんな気持ちや。言うてみ」

 

 自嘲。

 クシノは感傷を振り払うように、促した。

 だが、モモナリが向けた瞳には、いつもの戦慄するような狂気ではなく、深い湖底のような静謐があった。

 

「『情熱』を失ったんだ」

 

 沈黙が、カウンターの上に重く横たわる。

 

「『情熱』ぅ?」

「ああ。自分を支えていた一番熱い部分が、道具と一緒にポッキリ折れちゃったんだよ。それは、新しい道具を買って埋まるもんじゃない。その道具じゃなきゃ、その世界と繋がれない。そういう呪いのような一体感。それがポロッと消えちゃったんだ」

 

 モモナリはグラスを見つめたまま、言葉を紡ぐ。

 

「それは、新しい性能で上書きできるものじゃない。そうだろ?」

 

 感性。

 合理性という名の正論で武装したクシノの脳裏に、カジキのあの虚ろな目がよぎる。

 トマシノという新時代の波。データ。効率。

 それらに抗うための唯一の武器であった道具を失い、心臓の鼓動を支えていた火種が消えた。

 

 その言葉の意味を追求しようとした、その時だった。

 

 バーの重厚な扉が、場の静寂を切り裂いて開かれた。

 

 場にそぐわない、激しい呼吸の音。

 そこに立っていたのは、広報部の新人、チサトだった。

 

 その登場に、クシノは目を見開く。

 当然、この場で待ち合わせなどしているわけがない。

 

 必死に、なりふり構わず、夜の街を彷徨い歩いて、ようやくこの隠れ家に辿り着いたのだろう。

 乱れた髪と、潤んだ瞳が、彼女の切迫した内面を雄弁に物語っていた。

 

 クシノは一瞬、眉を寄せたが、即座に表情から余計な感情を削ぎ落とした。

『理事』としての、冷徹で洗練された仮面。

 

「落ち着きなさい、チサト君。こんな夜更けにレディが血相を変えるもんじゃない」

 

 流れるような動作で隣の空いた椅子を引き、バーテンダーに短く目配せをする。

 

「冷たい水を。彼女に」

 

 チサトが促されるままに席に着き、震える手で水を一口、二口と含んで落ち着くのを待つ。

 その間、隣のモモナリは、チサトの顔を一度も見ようとはしなかった。

 彼は扉が開いたその瞬間に、彼女の腰にモンスターボールが無いことを確認していたからだ。

 

 そこには興味も、侮蔑も存在しない。

 

「さて。話を聞こうか」

 

 クシノは、氷の溶けきったグラスを置いた。

 

「理事、お願いします。もう一度、祖父に会ってください!」

 

 チサトの瞳が、再び潤む。

 だが、クシノはそれを揺るぎない理屈で遮った。

 

「チサト君。それは君の『エゴ』だと言ったはずだ。一人の男が、自らの足で舞台を降りると決めた。その誇りある幕引きを、身内の寂しさという感情で汚すべきじゃない」

 

 正論だ。

 プロとして、これ以上の答えはない。

 

 チサトも、それは理解、否、それに対する反論が存在しないことを知っている。

 故に、その声が上がるまで、彼女はそれに言い返せないでいた。

 

「もう一度、会ってあげればいいのに」

 

 沈黙を破ったのは、モモナリだった。

 

 衝撃。

 クシノは目を見開き、隣の男を見る。

 

「何を言うとる? お前だってこっち側のはずやろ」

 

 クシノが知る限り、隣の男、モモナリという存在は、生粋の、生まれたついたその時より本能に『実力主義』がインプットされているような男だ。

 そして何より、若い女の味方をしてポイントを稼ごうなどという魂胆がある浅はかな男でもない。

 故に、彼を持ってしてもその言葉の真意が読み取れなかった。

 

 グラスに残った最後の氷をカランと揺らし、モモナリは独白のように言葉を継ぐ。

 

「君が引退して理事になると決めた時。もし僕に、それを止めることができたのならと、今でもたまに思うよ」

 

 その言葉は、クシノの思考を止めるのに十分な威力を持っていた。

 

「だけど、僕には『情熱』を再び燃え上がらせる手段を、何も知らなかった。それは今もさ、今だって、分かりはしない」

 

 モモナリは視線を上げ、クシノの目を真っ直ぐに射抜いた。

 

「だけど、今の君には、そのための『技術』があるんじゃないのか?」

 

 問い。

 道具を直すのではない。

 砕け散った外殻を繋ぎ合わせるその指先で、老いた釣り師の、死に絶えようとしている魂を再び呼び覚ますこと。

 それは、修復師という名の魔法を使いこなす、今のクシノにしか成し得ない「仕事」ではないのか。

 

「もし君に、それができるのなら?」

 

 モモナリがクシノの瞳を覗き込む。

 そこにあるのは『羨望』そして『尊敬』

 

 

 ジョウト地方の片隅。

 潮騒だけが支配する、人影のまばらな古い漁港。

 夕暮れの陽光が、錆びついた防波堤を長く、赤黒く染め上げる。

 

 その先端。

 一人の老人が、独り海に向かって竿を振っていた。

 カジキ。

 その手に握られているのは、あの木箱に収められていた重厚な古道具ではない。

 最新の人間工学に基づいた、驚くほどスタイリッシュで軽量なデザインの釣り竿だ。

 無駄のない直線。計算された反発力によるしなり。

 それは、効率という名の正解を形にしたような代物である。

 

「また来たのか。しつこい連中だ」

 

 背後から近づく二人の気配を察し、カジキは海面を見つめたまま、露骨に眉間に皺を寄せる。

 クシノは落ち着いた足取りでその隣に立ち、一度だけ深く礼をした。

 そして、傍らに立つチサトへ静かに告げる。

 

「チサト君、少し席を外してくれないか。二人で、男同士の話がしたい」

 

 チサトは何かを言いかけ、だがクシノの横顔にある峻烈な色に気圧される。

 言葉を飲み込み、防波堤の付け根の方へと歩いていった。

 

 

 波の音だけが、二人の間を通り過ぎていく。

 カジキが溜息混じりに、折れそうなほど細い最新の竿を揺らした。

 

「孫は何人かいるが、なぜかあれが一番ワシに懐いとる。理解に苦しむな」

 

「悪いことだとは思っていないでしょう?」

 

 クシノの問いに、カジキはわずかに表情を緩め、小さく鼻を鳴らす。

 肯定。否、照れ隠しだ。

 老人は海面に視線を戻し、低い、重厚な声を響かせる。

 

「聞いたぞ。あんた、昔はリーグトレーナーだったらしいな。なら、ワシの気持ちも分かるだろう」

 

「ええ。正直に言えば、あなたの気持ちの方が、痛いほどによく分かりますよ」

 

 クシノは否定せず、静かに答えた。

 カジキは満足げに、一度だけ深く頷く。

 

「ああ、そうだろうな。人には得てして、何かを辞めるときがくるものだ。あんたも、そうだったんだろう?」

 

 引き際。

 それは、誇り高い者ほど残酷に、そして鮮明に訪れる。

 

「カジキさん。あなたは、情熱を失いましたか」

 

 昨夜バーで怪物が吐き出した言葉。それをそのまま投げつける。

 カジキは答えを探すように視線を泳がせた。

 潮風が老人の薄い白髪を揺らし、沈黙が防波堤の上に重く横たわる。

 数秒の逡巡。

 やがて老人は、逆に問いを返した。

 

「あんたはどうだったんだ?」

 

 射抜くような視線。

 一瞬の緊張。厳しい質問。

 クシノは自分自身が同じ問いを投げたのだと思い直し、一つ、深く息を吐く。

 

「私にとっては、端から厳しい世界だったんですよ。私のような半端な人間が生き残るにはね」

 

 独白。

 それは、過去の自分を切り捨てるための儀式だ。

 

「情熱だの何だのと言う前に、金と生活。これが生きて行く唯一の術なんだと自分に言い聞かせなきゃ、ここまで続けられなかった」

 

「その割には、良い身なりをしているな」

 

「舞台を降りてから手に入れたものです。皮肉なもんですよ」

 

 自嘲。

 クシノは海を睨んだ。

 

「私が一番踊りたかったダンスの才能は、私にはなかった。カジキさん、あなたとは違うんです」

 

 カジキは少し意外そうに目を細める。

 クシノの言葉に含まれた、隠しきれないどす黒い悔恨。

 老人はそれを正確に汲み取った。

 

「あまり卑下するな。あんたも立派な経歴だ」

 

 静かな、慰めにも似た肯定である。

 

 陽光が完全に沈み、海が藍色に塗り潰されていく。

 二人の間に、解答の出ない沈黙が再び訪れた。

 やがて、カジキが観念したように提案する。

 

「かわいい孫娘の願いだ。お互いに一芝居打とうじゃないか」

 

「芝居?」

 

「あんたにあの竿を預ける。修繕だろうが何だろうが好きにするがいい。どのみち、ワシはそれに納得することはないだろう。それでいいじゃないか」

 

 クシノは、その提案に一つ鼻を鳴らした。

 誰も傷つかず、誰もが少しずつ損をして終わる。

 大人の幕引き。

 

「あんたもワシも、チサトも、三人が少しずつ損をして終わる。それが一番綺麗な解決法だ」

 

 老人は、自身の尊厳と孫の気持ちを秤にかけ、その妥協点を見出した。

 正しい判断。

 理事としてのクシノであれば、迷わずその提案を呑んでいただろう。

 

 だが。

 職人としての、あるいは、かつて戦場を這いずり回った競技者としての何かが、その逃げ道を拒絶する。

 

「もし、本当に直せたら?」

 

 クシノの声が、夕闇を裂く。

 カジキは動きを止めた。

 期待も失望も、もはやそこにはない。

 老人はただ、乾いた声で鼻を鳴らす。

 

「出来てから言え」

 

 

 人影のない夜道。

 街灯がまばらに落とす光の中を、二つの足音が重なり合う。

 隣を歩くチサトの横顔には、さきほどまでの絶望は消えていた。

 安堵。そして、微かな希望。

 それが彼女の歩調を、わずかに弾ませている。

 

「理事、本当にありがとうございます。おじいちゃん、あんなに頑固だったのに」

 

 感謝。

 だが、クシノはその声に温度を返さない。

 視線は真っ直ぐ前方の闇を射抜いたままだ。

 

「勘違いするなよ、チサト君。私は預かると言っただけだ」

 

 断定。

 そして、冷徹な否定を重ねる。

 

「直せるとは言っていない。期待しすぎるのは、毒になるぞ」

 

 忠告。

 過剰な希望は、裏切られた際の絶望をより深く、鋭くする。

 それを知るからこその、突き放しである。

 

 芝居だ。

 カジキが提示した妥協案を反芻する。

 三人が少しずつ損をして終わる幕引き。

 たしかに、合理的だ。

 誰もが納得し、誰もが救われないまま、静かに物語が完結する。

 だが、クシノの胸の奥で、職人としての矜持が燻り続けていた。

 

 

 再び訪れたカジキの自宅。

 主のいない家は、主の存在感だけを色濃く残して静まり返っている。

 クシノは客間に置かれたままの、年季の入った木箱を抱え上げた。

 

 ずっしりとした、確かな質量。

 それは単なる竿とボールの合算ではない。

 一人の男が数十年の歳月を費やして磨き上げ、馴染ませ、そして今、手放そうとしている人生そのものの重みだ。

 腕に伝わる重力。

 それが、カジキというアングラーの歩んできた時間の長さを物語る。

 

 

 木箱を抱え、玄関へ向かおうとしたクシノの足が止まった。

 土壁に飾られた、一枚の写真。

 ここ数年の間に撮られたと思われる、比較的新しい記録だ。

 白髪の目立つ、現在の姿に近いカジキ。

 立派な獲物を掲げ、誇らしげに笑うその姿を、クシノは無言で凝視する。

 

 違和感。

 否、明確なノイズ。

 

 昨日から今日にかけて観察してきた、老人の動作。

 預かった道具の、偏った摩耗。

 それらと、数年前の姿であるはずの写真の中の細部が、どうしても脳内で噛み合わない。

 

 致命的な矛盾ではない。

 一見すれば、ただの成功者の記録だ。

 だが、プロの修復師としての直感。

 あるいは、かつて勝負の世界で神経を削り取ってきた者の嗅覚が、微かな不協和音を検知していた。

 

 この写真、何か変や。

 

 クシノは写真を見つめたまま、背後のチサトに声をかける。

 

「チサト君。お祖父さんのここ数年の活動を記録したアルバムや、大会の映像などは残っているか?」

 

 チサトは目を瞬かせた。

 意外な頼みに、戸惑いが表情をかすめる。

 

「最近の、ですか? ええ、ここ三、四年分の選手権の公式写真集や、地元紙の切り抜きなら、物置にまとめてありますけど」

 

「それも一緒に預からせてほしい。少し、確かめたいことがある」

 

 

 ポケモンリーグ協会本部、理事執務室。

 

 空調の効いた室内は快適で、窓外の景色はいつも通りジオラマのように整然としている。

 クシノはデスクに向かい、一ヶ月後に迫った『ミアレシティ復興支援チャリティオークション』の出品リストの最終確認を行っていた。

 

 カジキから預かった道具の修繕については、すでに手を打ってある。

 特殊な合金パーツや高純度の漆など、必要な材料は注文済みだ。到着を待つばかり。

 作業工程も頭の中で組み上がっている。

 だが、クシノの胸中には拭いきれない澱が残っていた。

 

 三人が少しずつ損をする芝居。

 

 カジキの要望通り、それらしい形に戻せば、形の上では丸く収まる。

 だが、果たしてそれだけであの老人は納得するのだろうか。

 完璧に直ったとして、あの死んだような目が、もう一度釣りに向くとは思えない。

 修繕とは、ただ形を戻すことではない。

 持ち主が再び、その道具とともに生きるための「理由」を取り戻す作業であるべきだ。

 今のままでは、カジキにその理由は与えられない。

 

 

「やあ、クシノ。オークションに出す目玉、やっと手に入ったよ」

 

 ノックの音とほぼ同時に、執務室のドアが開いた。

 モモナリ。

 相変わらずの軽薄な足取りで近づいてくる。

 その手には、厳重に密封された透明な袋が握られていた。

 

「またお前か。今度は何や」

 

 クシノは眉間を揉みながら、ため息を吐いた。

 モモナリがデスクの上に無造作に置いたのは、手のひらほどもある、禍々しくも美しい巨大な『うろこ』だった。

 鈍く光るその一枚は、明らかに並のポケモンから剥がれ落ちたものではない。

 

「僕のガブリアスが、成長の過程で自然に落とした『逆鱗』の部分の鱗さ」

 

 誇らしげな笑み。

 クシノはそれを見た瞬間、頭を抱えた。

 

「お前なあ」

 

 低い声が漏れる。

 

「それがどれだけ貴重かは認めるが、扱いを考えろや。逆鱗なんて、希少部位保護の規定に抵触する恐れがあるやろ。出所を証明する書類を揃えるだけで、俺の仕事がどれだけ増えると思てんねん。また厄介を持ち込みやがって」

 

 正論による小言。

 だが、モモナリは全く堪えた様子もなく「えー、格好いいのに」と不満そうに口を尖らせた。

 

 モモナリの視線が、クシノのデスクの横に置かれた段ボールへと移る。

 チャリティへの出品物。

 

「で、君は何を出したんだい?」

 

 特に意味のある質問ではなかった。

 故に、クシノも特に考えることなく答える。

 

「バトルの時に履いてた革靴や。もうボロボロやけど、磨けばなんとか見れるようになるやろ」

 

 だが、その言葉を聞いた瞬間、モモナリの表情からいつもの軽薄さが消え失せた。

 明らかな驚き。

 信じられないといった様子で、クシノの顔を凝視している。

 

「本気かい? 何をやってるんだ、もったいない。出品なんてやめなよ」

 

 モモナリらしからぬ、真剣な口調。

 

「なんや。あんな泥臭い靴、お前は嫌いかと思っとったわ」

 

「嫌いなわけないだろ」

 

 モモナリは袋に入った逆鱗を揺らしながら、静かに、重い一言を放った。

 

「こんなものよりよっぽど価値がある。その靴は、誰よりも、何よりも、一番『君』を知っているはずだ」

 

 沈黙が落ちた。

 

「君がどんなステップで土を蹴り、どんな時に足元を震わせていたか。それを一番近くで記録し続けてきたのが、その靴じゃないか」

 

 モモナリの瞳が、クシノの奥底を覗き込む。

 

「それを手放すなんて、まるで自分の歴史を売り飛ばすようなもんだよ」

 

 胸の奥深くに、その言葉が突き刺さる。

 

「お前がそんな情緒的なこと言うなんて、珍しいな」

 

 クシノは皮肉で返すが、声は自分でも驚くほど硬かった。

 モモナリはもう興味を失ったように「じゃあ、あとはよろしく」と手を振り、部屋を出ていった。

 

 一人残された執務室。

 クシノは、モモナリの言葉を何度も反芻する。

 

『その靴が、一番君を知っている』

 

 もしそうなら。

 カジキにとって、あの古い竿と砕けたボールは何なのだろうか。

 単なる古い釣具ではない。

 カジキの全盛期から現在に至るまで、彼のすべての投擲と、そして迷いを、一番近くで受け止めてきた唯一の証人。

 

 あの爺さんがトマシノに負けとるんは、腕やない。

 竿だけが知っている、別の何かなんやないか。

 

 クシノは、チサトから預かったカジキの最近の記録写真を、もう一度デスクに広げた。

 白髪の老人が、立派な獲物を掲げて笑っている。

 その姿を、食い入るように見つめ直す。

 

 やはり、おかしい。

 どうしても納得できない部分があった。

 

 

 クシノの自宅マンションの一室、書斎兼工房として使われている空間。

 デスクの上には、カジキから預かった木箱が口を開けたまま置かれている。

 天然素材の竿と、砕けた金属のボール。

 クシノはそれを睨みつけたまま、しばらく動かなかった。

 

 やがて、短く息を吐き、立ち上がる。

 リビングへ向かう。

 そこでは、アヤカがソファで雑誌をめくっていた。

 

「この前、俺が出そうとしとった革靴、どこやったか知らんか」

 

 アヤカはページをめくる手を止め、呆れたように小さくため息をついた。

 そして立ち上がり、自身の衣装ダンスを開ける。

 そこは、クシノが絶対に触れることを許されていない領域だ。

 彼女は奥から紙箱を取り出し、クシノの胸に押し付けた。

 

「ここにあるわよ」

 

 静かな声。

 見透かしている目だ。

 

「ほら。少しは頭、冷えた?」

 

 クシノは箱の重みを受け取り、視線を落とす。

 

「ああ。すまんな」

 

 それだけを言い残し、クシノは再び書斎へと戻った。

 

 

 机に紙箱を置き、靴を取り出す。

 無言でブラシを手に取り、表面のホコリを払う。

 指先に少量のワックスを取り、円を描くように革の表面へ塗り込んでいく。

 一定の、静かなリズム。

 鈍く光り始める革の表面を見つめながら、クシノは自問自答する。

 

 なんで俺は、こいつを手放そうとしたんやろな。

 

 もう必要ないから。

 泥濘を歩く靴は、理事の仕事には不要だから。

 そう理屈をつけていた。

 だが、本当は違う。

 

 一番泥臭く、一番情熱だけで戦っていた頃の自分を、今の堅実な生き方しかできない社会人としての人生から、切り離そうとしていたのだ。

 

 過去の熱をなかったことにして、安全で均一な場所へ逃げ込もうとしていた。

 

 カジキの爺さんは、その逆やな。

 

 自分は自ら過去を捨てようとした。

 だがカジキは、長年人生を共にしてきた道具という過去が壊れたことをきっかけに、自らの人生そのものを切り離そうとしている。

 道具が死んだから、自分も死ぬ。

 その絶望の深さ。

 それは、トマシノのような新しい合理性に敗北したからではない。

 自分を証明する唯一の歴史が、物理的に失われたからだ。

 

 クシノの指先が、つま先のひび割れを優しく撫でた。

 

 時刻は夜の十一時。

 まだ失礼には当たらない、ギリギリのタイミングだ。

 クシノは私用の携帯端末を手に取り、アドレス帳からある高名な道具コレクターの番号を呼び出した。

 数回のコール音の後、繋がる。

 

「夜分に失礼いたします、クシノです」

 

 声のトーンを、即座に「交渉の場」のものへと切り替える。

 

「ええ、ご無沙汰しております。今回はご相談がありまして」

 

 相手との長年の付き合いを感じさせつつ、一切の無駄なく本題へと移行する。

 

「実はお手元のコレクションに、『あれ』の未使用品があると伺いまして。……はい。ええ、どうしても必要なのです」

 

 相手が難色を示すのが、声の響きから伝わってくる。

 手放したくない。あるいは、より高い対価を引き出したい。

 

 コレクターは暗に『リーグのチャリティオークションで、特定の品を優先的に落札させろ』と要求してきた。

 

 クシノは、電話口で微苦笑を浮かべ、それを柔らかく躱す。

 

「お言葉ですが、私は理事としての顔を安売りするつもりはありません」

 

 明確な拒絶。

 だが、交渉を終わらせるわけではない。

 

「代わりに、来週、あなたが買い取る予定だと仰っていた『ヒスイ式のギガトンボール』あれの取引に、私が個人的に同行しましょう」

 

 カードを切る。

 旧ヒスイ地方に伝わる古代のボールは、歴史的美術品として桁違いの価値を持つ。だが、それゆえに精巧な贋作が後を絶たない。

 

「最近、現代の鉄を加工して古びたように見せかけた紛い物が出回っているのはご存知でしょう? どんな最新の鑑定機を通しても、作り手の『嘘』までは見抜けない」

 

 電話先のコレクターは沈黙をもってしてそれを肯定する。

 クシノがたたみかける。

 

「ですが、私は一目見れば分かる。それが本当に数百年を耐え抜いた鉄か、後から酸で焼かれただけの鉄か。あなたが数千万の損を被るリスクを、私の『目』でゼロにして差し上げる。どうです?」

 

 組織の力など一切使わない。

 己が培ってきた『審美眼』という、骨董商すら一目置く、絶対的な価値の提示。

 クシノの『みやぶる』の信頼は絶大だ。電話口の沈黙は短かった。

 

「ありがとうございます。では、明日取りに行きますので、よろしくお願いいたします」

 

 交渉成立。

 通信を切り、クシノは端末をデスクに置く。

 

 再び、自分の革靴に目を落とす。

 磨き上げられたつま先が、自分の顔を鏡のように映し出していた。

 傷だらけで、だが確かな輪郭を持った男の顔。

 

「三人が少しずつ損をする芝居、か」

 

 独り言が、防音室の壁に吸い込まれていく。

 

「ご免やで、爺さん。あんたの人生、そんな安っぽい台本で終わらせるわけにはいかんわ」

 

 クシノはカジキに突きつけるための『決定的な武器』を手配し終えた。

 静かに立ち上がる。

 

 

 ジョウト地方、アサギシティ沖合。

 朝靄が立ち込める海。遠くに、かがやきの灯台がぼんやりと鈍い光を放っている。

 長く伸びた灰色の防波堤の先端。

 カジキは一人、波の音だけが響く世界に立っていた。

 

 手の中にあるのは、かつての重厚な道具ではない。

 トマシノに代表される、新世代の最高級タックル。

 無駄な装飾を極限まで削ぎ落としたスタイリッシュなデザインのカーボンロッドと、精密機械のような冷たい輝きを放つ最新のリールだ。

 

 流れるような動作。

 カジキは竿を振り抜く。

 

 投擲。

 

 最新の軽量ラインが風を切り、目指すポイントへと狂いなくルアーボールを届ける。

 着水音は小さく、しかし確かな波紋を描いた。

 

 最新の機材を、カジキは驚くほど完璧に使いこなしている。

 センサーが海底の起伏を電気信号のように手元へ伝え、老人の太い指先が、その情報を処理してルアーに微細な生命を吹き込む。

 そこにあるのは、老いによる衰えではない。

 数十年の経験が最新技術と融合した、最高峰の技術の顕現だった。

 

 

 微小な異変。

 最新ロッドの高感度な穂先が、羽が触れたような微かな振動を捉えた。

 常人であれば、波のノイズとして見逃す程度のシグナル。

 だが、カジキの目が鋭く細められる。

 一瞬の溜め。

 次の一瞬、彼は鋭く竿を振り上げ、力強い合わせを入れた。

 

 激突。

 

 途端、スタイリッシュなロッドが三日月のように極限までしなり、素材の悲鳴を上げる。

 水中の獲物は巨大だ。

 リールのドラグが乾いた音を立て、高速でラインを放出する。

 自動調整。

 もしこの機構がなければ、ラインは一瞬の抵抗で引きちぎられていただろう。

 

 水面下の攻防。

 ルアーボールに閉じ込められた水棲ポケモンが、狂ったように暴れ回っている。

 この釣りの本質は、釣り上げてからバトルをすることではない。

 竿のしなりで衝撃を吸収し、ラインの放出量で獲物の走りを制御し、ルアーボールの中に閉じ込めたまま、水中で相手の体力を削り、戦意を奪い去ること。

 

 カジキは直感した。

 リールのドラグ放出が、僅かに早すぎる。

 機械の計算を超える、獲物の不規則で狂暴な動き。

 老人はリールのスプールに親指の腹を当て、指の皮を焼くような摩擦に耐えながら、手動でラインの抵抗を微調整していく。

 機械の限界を、人間の勘が補う。

 

 数分に及ぶ、姿の見えない巨大な暴力との知恵比べ。

 やがて、水中の暴威が徐々に静まり、抵抗が弱まっていく。

 カジキは一定のテンションを保ったまま、確実なリズムでラインを巻き上げ始めた。

 最新のリールは驚くほど軽く、パワフルに獲物を引き寄せる。

 

 海面に浮上したのは、獲物を中に収め、カチリとロックがかかったルアーボールだった。

 カジキは竿を置き、そのボールを拾い上げる。

 手の中に収まる、冷たい勝利の感触。

 

 最新の道具を使い、最新の理論に基づき、完璧な手順で大物を仕留めた。

 そこには、一つのミスも、一点の言い訳も存在しなかった。

 

 

「新しい竿の調子は、良さそうですね」

 

 完璧な勝利を収め、緊張を解いたカジキの背後から声がかかった。

 海中とのやり取りに極限まで集中していたため、気配に全く気づかなかった。

 振り返ると、そこにはクシノが立っていた。

 アサギの防波堤には不釣り合いな、仕立ての良いスーツに、磨き上げられた古い革靴。

 その手には、革製の重厚なロッドケースが握られている。

 

 カジキは少しばつが悪そうに鼻を鳴らした。

 

「メーカーの商品の調子を見るバイトみたいなもんだ。で、修理は終わったのか?」

 

「いいえ、まだです。それよりも、どうしても聞きたいことがあって来ました」

 

 クシノは首を横に振り、静かに、だが確かな刺を込めた言葉を放つ。

 

「玄関の写真を見た時、なんだか違和感がありましてね。かっこよすぎたんですわ。なんでやろかと思ったら、なんのことはない、写真のあなたが持っている竿が、やたら細くて黒い、スタイリッシュな最新のものだった」

 

 カジキの表情が、わずかに硬直する。

 

「チサトさんから貰った他の写真や大会の記録も調べましたが、カジキさん、あなたは間違いなく、最新の釣り具を使いこなしている側だ」

 

 嘘の看破。

 カジキは肩をすくめ、深いシワを刻んだ顔を歪めた。

 

「そりゃそうだろう。メーカーの連中は、どうすれば素人をワシらに近づけることができるかばかり考えてる。まあ、まだ詰めが足りんがな」

 

 クシノは鋭く目を細める。

 

「だからこそおかしい。愛用の竿が壊れたから、新しい釣りにはついていけないからと言っていましたが、それは嘘だ。あなたはなぜ、引退を考えたんです?」

 

 カジキはそれに黙り込んだ、明らかに図星だ。

 

 彼は深いため息をつき、海に顔を向ける。

 朝靄が晴れ始め、陽光が波頭をきらきらと反射していた。

 

「老いぼれが引退することに、いちいち理由が必要か? あまり辛いことを言わせるな。それを聞いて、何になる」

 

 その言葉を待っていたかのように、クシノが返す。

 

「あなたの情熱を、取り戻せるかもしれない」

 

 断定。

 カジキは乾いた笑いを漏らした。

 

「無理だよ。あの竿は、ワシが数十年の歳月をかけて作り上げた、ワシだけのものだ。誰にも直せん」

 

「ええ、わかってます。だから、これを持ってきました」

 

 クシノはロッドケースを開けた。

 中から現れたのは、カジキの古い相棒と全く同じ型番の、数十年前のデッドストック。

 傷一つない、当時のままの姿。

 カジキは驚愕に目を見開いた。

 

「知り合いのコレクターから譲り受けました。これを使って、修繕の調整の参考にしたい」

 

 執念。そして、異常なまでの熱量。

 カジキは、目の前の男がただの役人ではないことを改めて理解した。

 

「何が、君をそうまでさせる?」

 

 クシノは苦笑いしながら首をひねり、それに答える。

 

「さあ、どうしてでしょうね。でも、何とかなりそうなものを、三方一両損にするのは、職人として癪なんですよ」

 

 カジキは、自分が本気にさせてしまった相手が、それなりのプライドを背負っていることを理解する。

 そして、クシノの覚悟に一つ息を吐き、重い口を開いた。

 

「タカツという奇特な釣り師がいてな。一度、奴の手引きで、ワシとトマシノ、タカツの三人で飲んだことがある」

 

 それは、頂点を極めた者たちだけの、静かな密室の会話。

 

「ワシとトマシノは何から何まで考えが違った。だが、ただ一つ、タカツも含めて全員の意見が一致したことがある。それは『釣りとは、最終的にはギャンブルである』ということだ」

 

 クシノはわずかに目を見張った。

 長年の経験を持つカジキ、データ至上主義のトマシノ、そして、彼らと対等に会話のできる男、タカツ。

 アプローチは違えど、必然性を追求するはずのトッププロたちが、釣りをギャンブルだと言い切ったのだ。

 

「ギャンブル、ですか」

 

「ああ。ワシがどれだけ経験則から竿を振ろうと、トマシノがどれだけ機械とにらめっこしようと、結局のところ、それにポケモンが食いつくかどうかは『神のみぞ知る』なんだ」

 

 カジキは防波堤の冷たいコンクリートを見下ろす。

 

「だが、ギャンブルというのは運否天賦のみで決まるわけではない。経験、情報、感性、テクニック、それらを極限まで研ぎ澄まし、最後の運命を神に託すのが、釣りなんだ」

 

 カジキは、クシノから渡された新品の竿を愛おしそうに撫でる。

 

「この竿は、ワシが釣りを愛し始めた時の最新のものだった。ずいぶんと使った。確かに、今の時代から見れば重く、乱雑で、細かな神経が必要だ。だが、それでもこいつはワシの『最終兵器』だった」

 

 拠り所。

 

「もし仮に全くダメな日だったとしても、神に見放された日だったとしても『これがあれば何とかなるかもしれない』と思えた。そして『この竿でダメなら、もう仕方がない』と諦めがつく、そういう存在だった」

 

 引退の真の理由。

 それは、老いでも時代の変化でもない。

 言い訳を許してくれる、究極の免罪符を失ったことだった。

 

「それを失った今、俺は最後のよりどころを失った。釣れるうちはいいさ。だが、もし釣れない日があったとして、『あの竿があれば違ったかもしれない』と後悔し続けるのは、辛いよ」

 

 カジキはクシノを真っ直ぐに見据える。

 

「直せるのか?」

 

 クシノは不敵に笑い、胸を張って答える。

 

「あなた次第だ」

 

 テストの開始。

 カジキは新品の竿を海に向け、ボールを底に落としていくつかのアクションを行う。

 シャクリ。フォール。

 

「ワシのものに比べると、これは少し軽い」

 

「だが、海中での抵抗はもう少しあるはずだ。おそらく、長年の無理な使用でついた傷や歪みが、妙な水流の抵抗を生んでいたんだろう」

 

 カジキの極限の感覚から紡ぎ出される、新品と愛用品の差異。

 ノイズ。

 クシノはそれを手帳に克明にメモしていく。

 完璧な形に戻すのではない。

 カジキが数十年の歳月をかけて歪ませた、あの不完全な形へと『再現』するのだ。

 

 

 データを集め終えたクシノは、手帳を閉じ、万年筆を胸ポケットに戻した。

 海風が、二人の間に流れる空気を冷やしていく。

 クシノはカジキを真っ直ぐに見据え、突き放すようなトーンで切り出した。

 

「正式に依頼を受ける以上、条件があります。三つだ」

 

 カジキは新品の竿を脇に抱え、静かに先を促す。

 

「一つ、工房への立ち入りは一切禁止。二つ、万が一失敗した時は、その場で未練を断ち切ること。三つ、納期は私の判断に任せ、決して急かさないこと」

 

 理屈だ。

 職人の聖域を守り、最悪の結末を想定させ、時間の支配権を握る。

 カジキは短く鼻で笑い、どこか満足げに頷いた。

 

「構わんよ。全部呑もう」

 

 契約は成立した。

 クシノはロッドケースを手に取り、静かに踵を返す。

 だが、数歩歩き出した背中に、カジキの低い声がかけられた。

 

「おい」

 

 立ち止まる。

 振り返ると、カジキは海ではなく、クシノの足元をじっと見つめていた。

 防波堤の無機質なコンクリートの上に立つ、ひび割れ、丹念に磨き上げられた黒の革靴。

 

「良い靴だな」

 

 クシノは一瞬、自分のつま先を見た。

 鏡面のように磨かれたそこには、アサギの空が歪んで映っている。

 言葉は返さない。ただ、短く顎を引いて肯定を示した。

 

「どうも」

 

 

 深夜の書斎。

 完全に外界から遮断された空間で、クシノは私服の袖を乱暴にまくり上げ、作業机に向かっていた。

 

 机の上に並ぶのは、カジキの壊れたルアーボールと古い竿。

 手配した、全く同じ型番のデッドストックの竿とボール。

 そして、防波堤で書き留めた、カジキの感覚のすべてを記した手帳。

 

 クシノは新品と壊れた品を、左右の手で持ち比べる。

 課題は明確だ。

 新品よりわずかに重く、かつ長年の無理な使用が生み出していた、妙な水の抵抗を再現すること。

 現代の樹脂で欠損を綺麗に埋めて成形し直せば、外見と強度は完璧に戻る。

 だが、それは軽くて滑らかな、ただの『直されたボール』だ。

 それでは、カジキの求めるノイズは生まれない。

 

 ただ直すんやない。

 

 カジキの爺さんが三十年かけて意図せず作り上げた、あの歪な傷と重み。

 それを、意図的にデザインして組み込む。

 修復ではない。再構築だ。

 

 クシノが選択したのは『呼び継ぎ』という技法だった。

 破片が完全に欠損している場合、全く別の器の破片を削り出し、パズルのように嵌め込む伝統的な修復技術。

 

 重さと抵抗を生むための異物。

 クシノが机の引き出しから取り出したのは、かつて骨董市で見つけ、買い取っておいた『出所不明の古いルアーボールの残骸』だった。

 別の誰かが使い込み、海の底に沈み、そして砕け散った、全く別の歴史。

 その金属片が持つ独特の質量と、海水で侵食された荒い表面の凹凸。

 これを、カジキのボールの欠損部分に移植する。

 

 ルーターの甲高い駆動音が、防音室に響く。

 クシノは骨董品の破片を、欠損部分の複雑なラインに合わせてミリ単位で削り出していく。

 

 金属の粉が舞い、独特の匂いが鼻を突く。

 接着には、強力な耐水性と耐久性を持つ天然の本漆を使用する。

 さらに、全体の重量バランスを「新品よりわずかに重く」するため、見えない内部構造の隙間に液状の鉛を数滴垂らし、重心を底へと沈めた。

 

 削り、嵌め込み、重さを量る。

 クシノは何度も新品と持ち比べ、目を閉じた。

 カジキがアサギの防波堤で見せた、あの完璧な投擲の動き。

 それを脳内でシミュレートしながら、グラム単位の微調整を繰り返す。

 

 もう少し重く。

 もう少し、底に沈む時の引っかかりを。

 

 指先の感覚だけが頼りだ。

 データではない。機械では計れない、人間と道具の間にしか存在しない「オカルト」。

 それを、物理的な質量として形にしていく。

 

 

 漆でパズルを組み上げた後、継ぎ目を装飾する。

 通常、金継ぎにおいては金粉を蒔く。

 だが、今回は違う。

 過酷な海水での使用。そして何より、ギャンブラーの『最終兵器』としての冷徹さを表現するためには、黄金の華やかさは不要だ。

 

 クシノが選んだのは、金よりも重く、決して錆びず、鈍い光を放つプラチナ粉だった。

 

 銀色のプラチナの筋が、継ぎ接ぎだらけのルアーボールの表面を這うように覆っていく。

 それは無骨で、元の流線型の美しさなど見る影もない。

 醜悪なまでの、傷痕。

 しかし、手にした時のずっしりとした重みと、表面の意図的な凹凸は、間違いなくカジキが求めていた最終兵器の質量を再現していた。

 

 クシノは完成したボールをそっと両手で包み込み、額の汗を手の甲で拭う。

 

 漆は、乾燥して固まるのではない。

 空気中の水分を取り込み、自ら化学変化を起こして硬化するのだ。

 

 クシノは立ち上がり、工房の隅にある木箱へ向かった。

 温度と湿度が厳密に管理された「室」の扉を開ける。

 ボールを安置し、静かに扉を閉めた。

 

「あとは、お前が時間をかけて馴染むだけや」

 

 かすかな閉鎖音が、深夜の工房に吸い込まれる。

 修復師の仕事は、ここで終わる。

 あとは、道具自身が新しい歴史を受け入れるのを待つだけだった。

 

 

 カジキのボールを「室」に入れてから、十数日が経過した。

 漆は静かに、そして確実に、空気中の水分を取り込みながら硬化していく。

 

 ある平日の夜。

 クシノが協会の仕事から帰宅すると、玄関の床に、ド派手なピンヒールのブーツが無造作に脱ぎ捨てられていた。

 一目見た瞬間、それが誰のものか理解し、クシノは小さくため息をつく。

 

 相変わらず図々しい奴やな。

 アヤカは今週、ジョウトの遠征で留守やというのに。

 

 クシノはネクタイを緩めながら、リビングのドアを開けた。

 予想通り、ソファーの上には、相変わらず露出度の高い服にファーコートを羽織ったデュラが、ふんぞり返って座っていた。

 まるで自分の家のようにくつろいでいる。

 

「で、Cリーグのトップランカー様が何の用や?」

 

 クシノは呆れながらも、キッチンへ向かい、二つのマグカップにコーヒーを注ぐ。

 一つをデュラに手渡しながら、皮肉交じりに問うた。

 

 デュラは悪びれる様子もなくそれを受け取って答える。

 

「靴、もらいに来たんですよ」

 

「靴?」

 

 クシノが首をひねると、デュラはコーヒーを一口啜り、カップを見つめたまま続けた。

 

「捨てるんでしょ? アヤカさんから聞きましたよ。先生が、あの昔のボロ靴をチャリティに出すって」

 

「捨てないよ。オークションに出そうと思っとっただけや」

 

 クシノは冷静に訂正する。

 だが、デュラは鼻で笑って吐き捨てた。

 

「そんなの、捨てるみたいなもんでしょ。見ず知らずの他人の手になんか渡るくらいなら、私がもらっておきたいんです」

 

 彼女の視線が、クシノの顔を真っ直ぐに捕らえる。

 

「飾るくらいなら、できますから」

 

 乱暴な言葉遣い。

 だが、そこにあるのは、師に対する彼女なりの純粋な敬意だった。

 

「残念ながら、オークションに出すのはやめや」

 

 クシノは自分のマグカップを見つめ、静かに答える。

 

「靴箱の奥に仕舞い込んだまま、すっかり乾かしてしもうとったからな。ちゃんと磨き直して、もうしばらく自分で使ってみようと思っとる」

 

 その言葉を聞いた瞬間、デュラは目に見えて肩の力を抜いた。

 安心したような、深い溜息を吐く。

 

「ふーん。まあ、先生がそう言うなら、それでいいですけど」

 

「お前といい、アヤカといい、モモナリといい。たかが靴一足で騒ぎすぎやろ」

 

 クシノが苦笑してこぼすと、デュラはそっぽを向いた。

 カップを両手で包み込みながら、ボソリと呟く。

 

「みんな、その頃の『泥臭い先生』が好きなんですよ。まあ、今の小綺麗な理事サマも、悪かないですけど」

 

 言い終わってから、自分でもらしくない素直なことを言ったと気づいたのだろう。

 ファーコートの襟に顔を埋め、赤くなった耳を隠そうとしている。

 

「好き勝手言うてくれるなや」

 

 クシノは窓の外の夜景を見やりながら、小さく呟いた。

 

 泥臭い時代、か。

 そりゃあ俺かて、出来ることならあのまま泥に塗れてトップを走り続けたかったわ。

 

 独白。

 だが、そこに悲壮感はない。

 

 決定的に才能が無かった。

 

 お前やモモナリやアヤカのような、選ばれた連中のようには踊れんかったんや。

 

 だから、舞台を降りて生き残る道を選んだ。

 その選択を後悔したことは、一度もない。

 

 限界を知り、それを受け入れ、裏方の「理事」として自分の価値を築き上げたこと。

 それ自体が、クシノの確固たる誇りだった。

 

 だが、同時に思う。

 

 デュラやモモナリの言葉を聞いて、あの靴を、あの情熱を完全に捨て去らなくて良かったと安堵している自分も、確かに存在していると。

 

 クシノは冷めかけたコーヒーを飲み干した。

 視線は夜景から外れ、書斎の扉へと向かう。

 あの奥の暗闇で、静かに、だが確実に硬化を続けるカジキのボール。

 

 お前の情熱は、ちゃんと戻るやろか。

 

 クシノの静かな祈りのような思いが、夜の部屋に溶けていった。

 

 

 大会を一週間後に控えた、ジョウト地方、いかりの湖。

 正午過ぎの太陽が、湖面をぎらぎらと照らし出している。

 クシノは、漆が完全に硬化し、プラチナの筋が走るルアーボールを収めた木箱を抱え、湖畔の指定された場所へと歩みを進めていた。

 

 待ち合わせていたのは、カジキとチサト。

 カジキの目は、クシノの顔ではなく、手元の木箱を真っ直ぐに射抜いている。

 

「こちらになります」

 

 クシノ、平らな岩の上に木箱を置いて蓋を開けた。

 カジキの手が微かに震えながら、中身を取り出す。

 

 そこにあるのは、銀色のプラチナの筋が縦横に走り、別種のルアーの破片をパズルのように継ぎ合わされた、無骨なルアーボールだった。

 元の流線型の美しさはない。

 戦い抜いた歴史を無理やり統合したような、異形の姿。

 

「つぎはぎだらけだな。まあ、前よりかはましかもしれんが」

 

 第一声は辛辣だった。

 だが、カジキの目は、ルアーの表面に刻まれた意図的な凹凸を、まるで旧友の顔のシワを撫でるように、慈しむように見つめていた。

 

「『呼び継ぎ』です」

 

 クシノは立ち上がり、静かに説明する。

 

「カジキさんの求めていた重みと抵抗を再現するために、別の古い素材を埋め込みました。新品に戻したわけではない。あなたが重ねてきた無理を、そのまま形にした進化形です」

 

「なるほど、お前さんなりに考えたわけだな」

 

 カジキは愛用の竿を手に取り、その異物をラインの先に結んだ。

 一歩、二歩と水辺へ歩み寄り、一呼吸置く。

 次の瞬間、老人の全身が鞭のようにしなり、ルアーボールが空を裂いて湖面へと吸い込まれた。

 

 ジィッ、とリールが短く鳴る。

 カジキは目を閉じ、指先の腹でラインの振動を感じ取っていた。

 沈黙。

 風の音だけが、三人の間を吹き抜ける。

 

「違うな。これは、ワシが使っていたあのボールではない」

 

 チサトが不安げにクシノを見た。

 だが、クシノは表情を変えず、黙って続きを待つ。

 

「だが、こいつを使い続け、無理を重ねてきた末に辿り着く姿としては、この重みは納得できる。新品に戻ったわけじゃない。傷を背負ったまま、次のステージに無理やり引きずり出されたような感覚だ」

 

 カジキは目を開け、リールを巻き始めた。

 

「悪くない」

 

 しばらく竿を振った後に、カジキはクシノに向かって呟く。

 

「理事さん。あんた、なぜここまでやる」

 

 リールを巻き上げる。

 

「この前提案した、三人が少しずつ損をする芝居。あれは、お互いにとって最善の逃げ道だったはずだぞ」

 

 隣で聞いていたチサトが、不思議そうに首をかしげる。

 

「芝居? おじいちゃん、何の話? 理事と何か約束でもしてたの?」

 

 二人の男はチサトの問いには答えず、ただ互いの目を覗き込む。

 クシノは湖面を見つめたまま、自嘲気味に肩をすくめた。

 

「カジキさん。私は元リーグトレーナーですよ」

 

 さらに肩を張って続ける。

 

「やるからには、白黒ははっきりつけたい」

 

 その単純な答えにカジキはしばらくの間沈黙し、やがて短く鼻を鳴らす。

 

「なるほど。あんたも、相当に業の深い男だ」

 

 老人は、再び湖に顔を向けた。

 その横顔には、数日前までの枯死したような色はもうない。

 確かな血が通い、闘志が静かに燃え始めている。

 

「いいだろう。一週間あれば、この新しい馴染みをワシの血肉にできる」

 

「期待しています。チサト君、お祖父さんが二度と道具のせいにできないよう、しっかり見張っておくんだぞ」

 

 クシノはビジネスライクな一礼をし、踵を返した。

 背後からは、正午の強い光を浴びた湖面を、重いルアーボールが何度も何度も叩く、規則正しい音が響き始めていた。

 

 

 いかりの湖。

 コイキングフィッシュ選手権、当日。

 朝の空気は、数千人の観客とアングラーが放つ熱気に、湿っぽく濁っている。

 湖畔は祭りのような喧騒に包まれていた。

 

 クシノは会場の端、古びたベンチの横に立ち、人混みの中に一人の老人を探した。

 

 別に、見届けると約束したわけではない。

 理事としての公務でもない。

 ただ、自分の「仕事」の結果を、網膜に焼き付けておく必要がある。

 そう自分に言い聞かせ、クシノは双眼鏡のピントを合わせた。

 

 桟橋に、カジキの姿があった。

 

 だが、その手に握られているのは、あのプラチナの傷を持つ不細工な古道具ではない。

 最新の理論に基づいた、冷徹なまでの機能美を放つカーボンロッドだった。

 

 クシノは双眼鏡越しに、静かに頷いた。

 

 それでいい。否、それが正しい。

 

 もしカジキが、意地や義務感であの古い竿を振っていたなら、クシノは即座に彼を失格と見なしただろう。

 それはプロの判断ではない。ただの感傷だ。

 

 カジキの背後。ロッドケースの中には、あの最終兵器が収まっている。

 これがあれば、何とかなる。

 これでダメなら、仕方がない。

 

 逃げ場を失うための、究極の免罪符。

 それが手元にあるからこそ、カジキは迷いなく、最新の機材をただの「道具」として屈服させることができる。

 

 信頼だ。

 道具に魂を売るのではなく、魂を預ける場所を手に入れた。

 桟橋に立つ老人の背中は、数日前とは比較にならないほど、強固な質量を持っていた。

 

 

「あなたが、カジキさんの古い竿を直した方ですか?」

 

 不意に、横から声がした。

 振り向くと、そこには最新の機能性ウェアを身に纏い、高性能のタブレットを抱えた若い男が立っていた。

 

 トマシノ。

 カジキが語った、新時代の象徴。

 

 クシノは視線を鋭くし、理事としての『仮面』を被る。

 

「いかにも。それが何か」

 

 トマシノは、意外なほどにおどおどとした様子で、深く、丁寧に頭を下げた。

 

「ありがとうございます。本当に、お礼を言いたかったんです」

 

 言葉が詰まっている。

 データと効率を重んじる冷徹なアングラー。そのイメージとは程遠い、剥き出しの困惑。

 

「カジキさんが引退するという噂を聞いて、僕は。本当に、どうすればいいか分からなかった。あの方は、僕にとっての目標のような存在ですから」

 

「ライバルではないのですか?」

 

「ええ、競い合う相手です。でも、それ以上に、僕たちの理想なんです」

 

 トマシノはキラキラとした視線で桟橋のカジキを見つめた。

 

「あんな年齢になっても、あんなに真っ直ぐに、釣りに情熱を持ち続けられる人は他にいない。今日のあの方を見てください。活気が、全盛期のそれに戻っている」

 

 トマシノもまた、焦がれていたのだ。

 カジキが持つ、数値化できない、自分にはない熱。

 それを守りたいと願っていたのは、他でもない、彼を追い詰めたはずの若き天才だった。

 

 情熱、か。

 

 クシノは無意識に呟いた。

 

 天才が天才を想い、その火が消えぬことを願う。

 その間を繋ぐのが、自分のような『才能のない、器用な裏方』の仕事なのだとしたら。

 

 悪くない役回りやな。

 

 クシノは、磨き上げられた古い革靴の先を見た。

 自分は舞台を降りた。

 だが、誰かが踊り続けるための床を、この手で磨くことはできる。

 

 選手権開始十五分前のホーンが、湖畔に鳴り響いた。

 

「僕も負けていられません。失礼します」

 

 トマシノは一礼し、自らの戦場へと向かっていった。

 

 湖面を渡る風が、クシノの髪を乱す。

 彼はもう一度、桟橋の老人に視線を戻した。

 

 あとは、神のみぞ知る。

 

 

 ヤマブキシティの裏路地。

 地下に潜む会員制バー『ナイト・シェイド』

 店内には静かなジャズが流れ、間接照明が年季の入ったカウンターを鈍く照らしている。

 

 リーグ協会が総力を挙げた一大イベント『ミアレシティ復興支援チャリティオークション』が無事に終了し、数日が過ぎた夜。

 クシノは一段落ついた疲労をアルコールの冷たさで流し込んでいた。

 

 隣には、場違いなほど軽薄なオーラを纏い、鮮やかな色のカクテルグラスを傾けるモモナリの姿がある。

 

「いやあ、大成功だったねオークション。それにしても君の『靴』、随分と高く売れたじゃないか」

 

 モモナリがグラスの縁を指でなぞりながら、ニヤニヤと笑って口を開く。

 クシノは心底疲れたように、片手で顔を覆った。

 

 出品したのは、あの古い革靴ではない。

 

 ネット通販で購入し、数度だけ履いた『最新の軽量ビジネスシューズ』だ。

 誠実なクシノは、そこに直筆サインを入れ、わざわざ『二、三度着用済み』という事実を注釈として添えた。

 しかし、その『使用感』というワードが一部の熱狂的なマニアの心に火をつけ、落札価格が想定外に跳ね上がってしまったのだ。

 

「俺のファンは、ほんまによくわからんわ。靴の形が歪むほど履き込んだわけでもないのに」

 

 クシノがぼやくと、モモナリがケラケラと肩を揺らして笑う。

 

「笑うな」

 

 グラスを置き、氷のような目でモモナリをジロリと睨む。

 

「んで、お前の『逆鱗』は歴代最高金額で落札されたわけや」

 

 モモナリが提供した、ガブリアスの逆鱗。

 希少性と学術的価値が常軌を逸したその品は、世界中の富豪や研究機関による壮絶な入札競争を引き起こした。

 

 検疫を通し、出所の証明書を作るために、どれだけ各局に頭を下げて回ったことか。

 

 チャリティに出すという発想自体が常軌を逸している。

 クシノは呆れを通り越した顔で、隣の怪物を眺めた。

 

「もう一枚持ってるんだけどなあ」

 

 そうつぶやいたモモナリはふと少し身を乗り出し、カウンターの下へ視線を落とした。

 クシノの足元。

 そこには、オークションに出さず、磨き直して履き続けている古い革靴があった。

 

「やっぱり、そっちを残して正解だっただろ?」

 

 クシノは釣られるように自分の足元を見下ろし、つま先を少し動かしてから、肩をすくめた。

 

「どうやろな。磨き直して履いてみたが、別段、何も変わらんぞ。ただの、少し重い古い靴や。足が速くなるわけでも、疲れが消えるわけでもない」

 

 事実だ。

 魔法の靴ではない。

 モモナリはカクテルの中のヒメリを弄びながら、静かに、だが核心を突くように言った。

 

「それこそが、その靴が完全に君の『手足』になっているという証明じゃないか」

 

 クシノはハッとして目を丸くする。

 新しい軽量シューズを履いた時の、あの軽い浮遊感。

 それが一切ないこと。歩くという行為にノイズが混じらないこと。

 それこそが、この道具が自分の身体と完全に一体化している証拠なのだと、天才は一瞬で見抜いたのだ。

 

「お前、たまに核心突くから腹立つわ」

 

 クシノは微苦笑し、負けを認めるように酒を煽る。

 

「ところで、いかりの湖の選手権。結局、カジキとトマシノ、どっちが勝ったんだい?」

 

 モモナリは話題を変え、真っ直ぐにクシノを見た。

 

「さあ、知らんわ」

 

 素っ気なく答えるクシノに、モモナリは楽しげに目を細める。

 

「嘘だね。君がそんなことを知らないはずがないじゃないか。最後まで結果を見届けずに帰るなんて、君の性格上ありえない」

 

 見届けの義務。

 モモナリは、クシノの社会人としてのきっちりした部分を誰よりも信頼している。

 クシノは溜息をつき、グラスの縁を指でなぞった。

 

「どうでもええんや、そんなこと。結果がどっちやろうと、爺さんが引退を取り消し、チサト君が喜んだ。俺の仕事は、そこで終わりや」

 

 勝負の結果、ギャンブルの行方は、当人たちだけのものだ。

 職人がそこに踏み込む野暮を、クシノは許さない。

 モモナリは「ふうん」と頷き「まあ、じゃあいいか、それで」と追求をあっさりやめる。

 

 そして彼は自分のグラスを見つめ、少しだけトーンを落として呟く。

 

「君はその技術で、誰かの情熱を取り戻した。素晴らしいことだよ。僕には、絶対にできなかったことだからね」

 

 その声には、圧倒的な強者であるがゆえに、他者に何かを与え、繋ぎ止める術を持たない彼特有の、微かな寂しさが滲んでいた。

 クシノは、そう呟くモモナリの横顔をじっと眺める。

 

 類稀なる才能を持つこの男は、なぜかそれよりも、他者の情熱を繋ぐ力を羨む、妙な思想を持っている。

 本当に、不器用で厄介な生き物だ。

 

「お前には、そんなもん必要ないやろ」

 

 クシノは小さく笑い、自分のグラスを傾ける。

 モモナリもそれに応じ、二つのグラスが軽く触れ合った。

 カラン、と氷が乾いた音を立てる。

 

 クシノの足元では、持ち主の手足となった古い革靴が、薄暗いバーの床を静かに、そして力強く踏みしめていた。




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