継ぐもの~クシノ理事の金継ぎ修繕録~   作:rairaibou(風)

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5:あやふやな領域の始末

 遮光ブラインドが、午後の陽光を無機質な細い線へと切り刻んでいる。

 

 会議室特有の、わずかに乾燥した空気。インクの香り。

 中央の長机にはマイクと端末が等間隔に並び、上座には重厚な革張りの椅子が鎮座している。

 カントー・ジョウトリーグポケモン協会、理事会。

 

 クシノは姿勢を崩さない。ただ、机の下で組んだ指の節々に力を込めている。

 スーツの袖口から覗く前腕がこわばる。

 今日の議題の一つは、手強い。

 

 室内が暗転した。

 正面のモニターに、数枚の写真がスライドされる。

 シンオウ地方。名前も知れぬ地方都市の港湾地区。

 ひっくり返ったコンテナ。高熱でどろりと溶けたアスファルト。

 

「所属リーグトレーナー、モモナリ氏による独断戦闘の痕跡です」

 

 外部理事、ヒシダの声が響いた。

 一切のノイズを排した、抑揚のない発声。彼はスタイラスペンで、モニターの一部を冷酷に指し示す。

 

「現地警察の報告によれば、彼は公式行事の合間に、現地の反社会勢力が管理する倉庫を実力行使で沈黙させた。要請も、正当な手続きもない。私的な暴力です」

 

 クシノは手元の資料に目を落としたまま、ペンを回すこともせず、ただ紙面の一点を見つめている。

 まあ、間違ってはいない。

 彼は、思考の重みを隠すように、ゆっくりと口を開いた。

 

「事実を補足させてください。その倉庫には、不当に拘束されていた現地の少年トレーナーが数名いた。モモナリは現場の判断で介入し、彼らを救出したんです」

 

 これも、間違いではない。

 実際には、その少年たちが老婆から奪った財布を取り返しただけだそうだが。

 

「結果、地元警察からは既に感謝状の贈呈が決定している。リーグのブランドイメージとしては、マイナスどころか大幅な加点ですよ」

「論点のすり替えだ」

 

 ヒシダが吐き捨てる。瞬き一つしない。

 

「感謝状か。あいつも少しは世渡りが上手くなったな」

 

 斜め向かいの席で、事態を愉しむように静観していた男が口を開いた。

 専任理事、オークボ。

 十数年モモナリの後始末を行っていた『初代モモナリ担当理事』は、目を細めて続ける。

 

「ヒシダ君。君が言いたいのはコンプライアンスだろうが、正論だけでは現場は捌けないよ」

 

 その一言が、室内の空気を重く沈める。

 協会の現場至上主義。ヒシダの管理主義。

 相容れない価値観の輪郭が、くっきりと浮かび上がっている。

 

 ヒシダは表情を変えない。視線をオークボから外し、クシノを真っ直ぐに見据えた。

 

「クシノ理事。彼が今回たまたま英雄になったからといって、管理不能な劇薬を放置していい理由にはならない。一歩間違えれば国際問題だ。組織として、ライセンスの一時停止を含めた強力な指導を下すべきだ」

 

 クシノは椅子を引き、前傾姿勢になった。

 ヒシダの乾いた言葉を、正面から受け止める。

 

「指導が必要? そんなこと、とっくに承知していますよ。私からも、自身の身を無駄な危険に晒した慢心については厳重に注意します。ヒシダ理事。では聞きますが」

 

 声が、実務家としての冷徹さを帯びる。

 

「彼を処分して、その牙を抜くことがリーグの利益になりますか」

 

 その言葉に、ヒシダは声を止めた。

 

「対外試合。特にシンオウのようなアウェイの過酷な環境で、何が起こるか分からない現場に送り出し、確実に勝負を行える人間が他に何人いるんですか。規定を完璧に守るが現場で震えるだけの若者を送って、不測の事態に無様に敗北して戻ってきたら。誰がその損失のケツを拭くんですか」

 

 ヒシダの眼差しが、わずかに冷ややかさを増した。

 

「個人的な友情による擁護ではないか」

「友情? そんな綺麗なもんじゃないですよ」

 

 即座に切り捨てる。

 

「彼を一人走らせることで、私がどれほどの始末書を書かされていると思っているんです。あなたは先程『一歩間違えれば国際問題だ』と言いましたが。こちらから言わせるとあいつはすでに歩く国際問題です」

 

 その言葉に、古株の理事たちから小さな笑い声が漏れ、ヒシダはその反応に眉を潜める。

 

「ただ、モモナリは経験豊富で物怖じせず、フットワークも軽い。他地方チャンピオンとのエキシビションの代役を前日に要請して了承するなんて世界でもあの男くらいです。バトルのモチベーションが異常に高い。対外試合という厳しい環境において、これほど適任の存在は他にいない」

 

 戦える駒。

 その一点において、モモナリの代わりは存在しない。

 

「彼のような稀少な勝てる駒を、つまらない形式論で潰してしまうほど、この協会は愚かではないと信じていますよ」

 

 沈黙が落ちる。

 ヒシダは数秒間クシノを凝視し、やがて、不満を隠そうともせずに端末のカバーを閉じた。

 パタン、と硬い音が響いた。

 

「クシノ理事の厳重注意で留める。今回の件は、それで議事録を閉じましょう」

 

 オークボの裁定が下る。

 議事録は閉じられた。

 

 正論で現場は回らない。否、現場の血の匂いだけでは組織は守れない。

 どちらも真だろう。だが、だからこそ衝突は避けられない。

 

 

 会議室の重苦しい空気から解放された廊下には、午後の斜光が長く差し込んでいた。

 厚手の絨毯が、二人の足音を静かに吸い込んでいく。

 窓の外には、ヤマブキの市街地が整然と広がっていた。

 

 歩調は、合っていた。

 否、合わされていたのだ。ヒシダの無機質な足取りに。

 

「良い靴ですね、クシノ理事。職人の手仕事を感じさせる」

 

 ヒシダがふと、クシノの足元に目をやった。

 社交辞令。

 激論の後の、プロフェッショナルな休戦のように見える。

 

「趣味でね。直したり、作ったりするのが好きなんですよ」

 

 クシノは穏やかな笑みを浮かべる。

 だが、その目は笑っていない。

 自らの前腕に走る、かつてトレーナーとして、そして職人として刻んできた微かな筋肉の緊張を自覚していた。

 

「クシノ理事。私は何も、モモナリ氏という個人を排斥したいわけではないんです」

 

 ヒシダが本題を切り出した。

 声のトーンは一定で、揺らぎがない。

 

「私が危惧しているのは、あのような『例外』を許容し続ける、この協会の体質そのものですよ。エシカル・ガバナンス。これからの組織は、あらゆるステークホルダーに対して、完全に説明可能でなければならない」

 

 透明な組織。

 耳障りのいい、極めて冷たい言葉。

 

「恩義、絆、貸し借り。現状の協会は、そんな数値化できない『あやふやな情動』で回っている。それは組織として未成熟であり、脆弱だ。私はそれを、透明で頑強なシステムにビルドアップしたいだけなのです」

 

 非トレーナーであるヒシダにとって、命のやり取りの中で生まれる共鳴は、管理を妨げるノイズでしかないのだろう。

 ヒシダの言うことは、近代組織として百パーセント正しい。

 一点の曇りもない、正論だ。

 

 だが。

 

 クシノの脳裏に、数多の顔が浮かぶ。

 台風の目のようなモモナリ。

 ストイックな妻、アヤカ。

 彼らが死線を越えるとき、その背中を押し、踏み止まらせるのは、果たしてシステムなのか。

 

 違う。

 それは、システムには決して記述できない、泥臭い情のはずだ。

 

 クシノは足を止めた。

 窓の外、碁盤の目のように整理された大通りの脇に、歪な形の古い路地が張り付いているのが見えた。

 

「ヒシダ理事。あなたが言う『透明な組織』が理想なのは分かります。ですが、ポケモンという予測不能な生命体を相手にする以上、どうしても割り切れないものが残る。それを削ぎ落とした後に残るものが、果たして人の心を打つ『リーグ』と言えるんでしょうか」

 

 ヒシダは立ち止まらず、数歩先で静かに振り返った。

 

「心の機微で運営される組織は、一人の感情の暴走で崩壊する。私はそれを防ぎたい。それだけです」

 

 エレベーターホールに到着する。

 ヒシダがボタンを押すと、冷機を伴った風が抜けた。

 

「傷のある組織は、いつか必ず致命的な綻びを見せる。失礼します」

 

 扉が閉まる。

 ヒシダの無機質な視線が、最後の一線までクシノを捉えていた。

 

 一人、廊下に残される。

 クシノは大きく息を吐き、窮屈なネクタイの結び目を緩めた。

 

 眼下には、斜陽に照らされた街。

 美しく整えられた大通りと、影の中に沈む雑多な路地裏。

 

「正論は結構やけどな、ヒシダさん」

 

 独り言。

 

 

「あやふやで、不格好で、傷だらけの歴史があるからこそ。人はそれを、愛おしいと思うんやで」

 

 自分も、その一人だ。

 

 

 窓の外、ヤマブキシティの夜景は冷たく冴えわたっている。

 無機質な光の群れ。その一つひとつが、誰かの生活であり、利権であり、あるいは綻びだろう。

 

 クシノはジャケットを放り出し、シャツの袖を乱暴に捲り上げた。

 リビングの机には、数足の試作品と、最終段階に入った企画書が並んでいる。

 ガラル地方の老舗工房と進めてきた、共同プロジェクトの結実だ。

 

 鈍い光を放つ、深みのあるマホガニーの革。

 指先で触れれば、上質なオイルの質感が熱を帯びて伝わってくる。

 ウェルト製法。

 ソールの交換を前提とした、頑強で不器用なほど誠実な作り。

 

「泥濘でも、砂嵐でも。カイリューの巻き起こす突風にすら耐えられる剛性。それでいて、そのまま表彰式の壇上に立てる」

 

 独り言ち、クシノは企画書の最終項に目を通した。

 使い捨てではない。傷つくたびに修復し、歴史を重ねていく道具。

 それは、効率と情動の狭間で生きる、彼の哲学そのものだった。

 

「また、そんな小難しい顔して。仕事はオフィスに置いてきなさいよ」

 

 背後から、凛とした声が届く。

 妻のアヤカだった。

 トレーニングウェアに身を包んだその肉体は、現役のAリーガーとして完璧に研ぎ澄まされている。

 自宅にあっても、彼女はプロフェッショナルとしての緊張感を失わない。

 

「ガラルとの靴の話? それとも、今日の理事会の残り香?」

 

「両方やな。モモナリのシンオウでの件で、ヒシダ理事にこっぴどく詰められたよ」

 

 クシノは椅子に深く背を預け、小さく首を鳴らした。

 アヤカは呆れたように肩をすくめる。

 

「またあの人なの。外部理事のヒシダさん、あなたやモモナリさんとは一番相性が悪いでしょうに」

 

「いや、ヒシダ理事は優秀な男や。そこは認めなあかん」

 

 クシノの声は、意外なほどフラットだった。

 感情を排除した、実務家としての評価。

 

「実際、あいつが導入したシステムで救われとる部署も多い。それに、俺が理事の癖に現場の連中と近すぎるのも、本来は褒められたことやないんや。組織のガバナンスとしては、あいつの方が正しい」

 

 正論は、常に冷たくて硬い。

 だが、その硬さがなければ組織は形を保てない。

 理解している。理屈では。

 

「あら。案外、弱気なのね」

 

 アヤカがクシノの隣に立ち、軽く髪を撫でた。

 微かなスポーツクリームの香りが、室内の静寂に混じる。

 

「そんなに気に病まなくてもいいわよ。だって私、理事選であなたに投票したこと一度も無いもの」

「え? まじで?」

 

 クシノの思考が、一瞬停止した。

 

「一票くらいは、身内の情があると思ってたんやけど。ショックやわ」

 

「公私混同は良くないんでしょ? さっきあなたが自分で言ったじゃない」

 

 アヤカは平然と言い放ち、悪戯っぽく笑う。

 

 一本取られた。

 愕然として肩を落とすクシノを、彼女は満足そうに見つめている。

 

 この『あやふやさ』こそが、自分の立脚点なのだ。

 システムの外側にある、割り切れない情動。

 それを守るために、自分はあの冷徹な会議室で泥を被り続けている。

 

 クシノは企画書を閉じ、試作の靴の踵を優しく撫でた。

 

「せやな。理屈じゃ動かんからこそ、面白いんやろうしな」

 

 苦笑まじりに呟き、クシノは立ち上がった。

 

 

 外界の騒音から切り離された、役員用談話室。

 重厚な革張りのソファが、座る者の重みを静かに受け止めている。

 テーブルの上には、モモナリがシンオウで撒き散らした破壊の爪痕、その損害査定に関する膨大な書類が並んでいた。

 

 ブラインドの隙間から差し込む夕刻の斜光が、縞模様の影を床に長く伸ばしている。

 

 ドージマが万年筆を置き、優雅な仕草で書類をこちらへ滑らせた。

 タマムシ中央損保、副社長。

 協会の喉元を握る、最大手スポンサーの顔。

 

「シンオウでの件、民間施設への賠償はすべて『広報活動中の特例』として処理を終えました。本来なら理事会で首が飛ぶほどの損失ですが……私の方で、適切に調整を済ませておきましたよ」

 

 ドージマの声は、滑らかで慈悲深い。

 だが、その裏には『絶大な恩』を売ったという確信が透けて見える。

 

 クシノは書類の内容を精査し、淀みなくサインを書き入れた。

 

「助かります、ドージマ副社長。彼を送り出した責任者として、この計らいには感謝します。これで、理事会への報告も円滑に進む」

 

 ドージマは満足げに頷き、背もたれに体を預けた。

 

「さて、交渉のついでと言っては何ですが。一つ、相談がありましてね」

 

 ドージマがコーヒーを一口含み、本題を切り出す。

 その声の響きが、わずかに質を変えた。

 

「今後の損害保証基準をより精密に策定するために、経年劣化したボールの『修繕プロセス』をデータ化したいのです。そこで、近く一個の古いボールを、あなたに修繕していただきたい」

 

 ビジネスの「付帯調査」という体裁。

 だが、その標的は明らかにクシノ個人の技術に向けられていた。

 

 クシノは微かに眉を寄せる。

 自分の隠れた腕前が、なぜこの男の耳に入っているのか。

 

「私のボール修繕は、あくまで個人的な趣味に過ぎません。公式なデータ取りであれば、専門の研究所やメーカーの技術者に依頼するのが筋ではないでしょうか」

 

「いや、あなたの腕前は業界内でも有名だ。資料室に眠っていた所有者不明の古いサンプルですが、これを『職人の目』で直していく過程こそが、我々の求めているデータなのです」

 

 ドージマの笑みは崩れない。

 断らせるつもりなど、毛頭ないのだろう。

 モモナリの件で背負わされたばかりの巨大な負債が、クシノの肩に重くのしかかる。

 

 断りづらい。

 

「承知しました。持ってきてください。趣味の範疇で良ければ、拝見しましょう」

 

「期待していますよ」

 

 ドージマは短く言い、満足げに席を立った。

 去り際、彼の外套が揺れ、高価な香水の匂いが室内に残る。

 

 扉が閉まる。

 静寂が戻った談話室で、クシノは冷めたコーヒーを口にした。

 

 舌に絡みつく、不快な苦味。

 

 理事の俺にわざわざ『趣味の仕事』を頼むか。

 ドージマ副社長。あの人の目的はどこにある。

 

 ただの好奇心か。それとも、更なる楔か。

 

「アカンな。また、ややこしいことになりそうやわ」

 

 独り言ちた言葉は、重く湿った夕闇の中に消えた。

 

 

 

 あの交渉から、数日が経過していた。

 貸した恩の清算を求めるには、十分すぎる時間。

 ドージマは、約束通り『サンプル』を携えて談話室に現れた。

 

 ブラインドの隙間から差し込む夕光が、テーブルに置かれた一個のボールを冷酷に照らし出している。

 ドージマが、柔らかい布に包まれたそれを指先で押し出した。

 

「先日お話ししたサンプルです。資料室で見つかった、所有者不明の古いロットだ。見ての通り、シェルの亀裂とロック機構の歪みが酷い。データ取りには最適な『壊れ物』ですよ」

「なるほど、では確認されてもらいます」

 

 クシノは無言で、胸ポケットからルーペを取り出した。

 片目を細め、レンズ越しに球体の表面をなぞる。

 沈黙。

 ただ、拡大された金属の質感がクシノの網膜に焼き付いていく。

 

 やがて、クシノはルーペを置いた。

 ボールをテーブルの中央へ、突き戻すように置く。

 

「残念ですが、お引き受けできません。お引き取りを」

 

 その言葉に、ドージマの笑みが凍りついた。

 

「今、なんと?」

 

「お断りしますと言ったんです、ドージマさん」

 

 クシノは立ち上がり、ドージマの目を真っ直ぐに見据えた。

 その視線は、もはや理事のものではない。職人の、あるいはかつて修羅場を潜ったトレーナーのそれだ。

 

「商売の基本は信頼関係です。これほど雄弁に『歴史』を語っているボールを、価値のない壊れ物だと嘘をつくような方の依頼を、私は受ける気になれない」

 

「嘘? 何を根拠に」

 

 クシノは冷徹に、レンズ越しに見た事実を羅列した。

 

「三十年以上前の初期ロット。現在の配合とは違う、重厚なシェルの質感。そして、左側のシェルの塗装だけが、不自然に滑らかに摩耗している。長年、同じ指の配置で、左手で握り込まれた痕跡だ。さらにヒンジ部分には、高熱を帯びた攻撃を受けた際のものと思われる、微細な金属変色がある」

 

 ドージマが息を呑む。

 

「これは資料室のサンプルなどではない。一人のトレーナーが人生を懸けて使い込み、魂を分かち合った半身だ。そうでしょう?」

 

 ドージマの余裕が、音を立てて崩れ去った。

 

「直したい理由すら偽るような方に、私の技術を貸すつもりはありません。このボールを『資料』と呼ぶのは、この道具への、そして使い手への侮辱ですよ」

 

 談話室の空気が、瞬時に冷え切る。

 仮面が剥がれたドージマの顔に、昏い炎が宿った。

 

「クシノ理事。分かっているのか。私はこの協会の理事選において、誰が票を得るべきかを決定できる立場にある。君がその椅子に座り続けられるかどうか、私の出す一票を、軽んじない方がいい」

 

 低く、湿った脅迫。

 だが、クシノは緊張感を楽しむように、愉しげに笑った。

 

「自分の地位にしがみつくためにした仕事が、果たして『だれか』を満足させられますかね。無理ですわ、そんなもん」

 

 クシノは出口を促すように、ドアの方を指差した。

 

「理事選についてはお任せしますよ。何なら、うちの妻すら私には投票しないらしいですから。今さら一票や二票、減ったところでどうってことありませんわ」

 

 ドージマは屈辱に顔を歪ませた。

 震える手で、テーブルの上のボールを、まるで傷口を隠すかのように乱暴に回収する。

 

「少し、考えさせてほしい」

 

 ドージマは吐き捨てるように言い残し、談話室を去った。

 

 一人残された室内に、冷めた珈琲の苦味だけが漂っている。

 

 嘘を吐いてまで守りたいもんが、それかい。

 あんたも、難儀な男やな。

 

 クシノは自分の指先を見つめた。

 道具の声を無視して、ロジックだけで生きることはできない。

 

 この手は誰かの真実を救うために有りたい。

 

 

 朝の光が、連絡通路を鋭いナイフのように切り裂いている。

 行き交う職員たちの忙しない足音。活気づくオフィスの騒めきの中で、そこだけが不自然に静止していた。

 

 クシノの正面に、ヒシダが立っている。

 一晩かけて磨き上げられたような、非の打ち所のない疑念を瞳に宿して。

 

「おはようございます、クシノ理事。昨日の夕刻、ドージマ副社長とお話しされていたそうですね」

 

 ヒシダの声は穏やかだ。だが、その視線はクシノの表情の微かな揺らぎすら逃すまいと固定されている。

 

「彼とは、今後どのような協力関係を築くおつもりで?」

 

 政治的な詰問。

 ドージマは、ヒシダが進める組織改革案の最大の理解者であり、その票田の要だ。現場派のクシノがそこに接触した事実に、彼は本能的な焦燥を感じている。

 何より、ドージマもクシノの経歴に似合わぬ社会的能力を評価しているということだった。

「彼は私の改革案を支持してくれている、貴重なパートナーだ。現場側のあなたが、私の基盤である彼に接触することに、どうも解せないものを感じてね。重要な相談であれば、協会として共有すべきではないかな」

 

 クシノは慎重に、言葉を吟味する。

 脳裏をよぎるのは、昨夜見たあのボロボロのモンスターボールだ。

 ドージマが嘘を吐いてまで守ろうとした、剥き出しの傷。

 

 それを今、ここで詳らかにすれば、ヒシダは納得するだろう。だが、同時にドージマが必死に隠そうとした『歪な歴史』までもが、白日の下に晒されることになる。

 

 人には、他人に知られたくないことがある。

 ロジックや効率で測れるものではない、個人的な痛み。

 それを暴くことは、クシノの流儀に反した。

 

「話を大きく考えすぎですよ」

 

 クシノは、大人の余裕を纏った微笑を浮かべた。

 

「彼はただ、個人的な骨董品の修繕を持ち込んできただけですよ。あの方のような地位の方に、協会が関わるような大それた提案などありません」

 

 嘘は吐いていない。

 ただ、情報を『取るに足らない雑談』へと意図的に矮小化した。

 

「ただの骨董品の話か。ならいいが、現場の人間が彼と個人的な繋がりを持つことは、組織として公私混同を招きかねない。慎むべきです」

 

「ご忠告感謝します。ですが、仕事に差し障りがない範囲での個人の交流まで制限される謂れはありませんのでね」

 

 コンプライアンスという盾を、クシノは軽やかにいなす。

 正論は結構。だが、正論だけでは説明できない領域を、人は抱えて生きている。

 

 その時、クシノのポケットで端末が短く震えた。

 画面には、ドージマの名。

 

 クシノは表情を変えず、挑発することも、動揺することもなく、淡々と端末をポケットに収めた。

 

「失礼、仕事の連絡が入りまして。では、また後ほど」

 

 一礼。

 クシノは背筋を伸ばし、ヒシダの横を通り抜けた。

 背後に残された焦燥の気配を、絨毯が静かに吸い込んでいく。

 

 人混みに紛れ、クシノは再び端末を取り出した。

 そこには、昨夜の屈辱を押し殺したような、短いメッセージ。

 

『至急、会いたい。来てほしい場所がある』

 

 指定された住所は、郊外にある高齢者向けの手厚いケア施設だった。

 

「なるほどね」

 

 やはり、ただのデータ取りの話やない。

 

 クシノは窓の外、遠く霞む山々を見つめた。

 

 傷をさらけ出す勇気か、あるいは、更なる隠蔽のための依頼か。

 どちらにせよ、放っておくわけにはいかない。

 

「しゃあないな。毒を食らわば、や」

 

 クシノは歩を早めた。

 現場の理事として。あるいは、不器用な歴史を修復する職人として。

 

 

 街外れの、静謐を絵に描いたような高齢者福祉施設。

 駐車場のコンクリートは白く乾き、遠くで鳴く鳥の声だけが耳につく。

 

 車を降りると、ドージマがエントランスの前で立っていた。

 昨日までの、権力の中心に座る男の余裕は微塵もない。

 何度も時計を確認し、指を組み替え、落ち着きなく地面を見つめている。

 その姿は、ただの、追い詰められた一人の男だった。

 

「急な呼び出しに応えてくれて感謝する。昨日の無礼を、詫びる余裕もなかった」

 

 ドージマの声は掠れていた。

 彼は多くを語らず、促すように施設の中へ歩き出す。

 自動ドアが開き、消毒液の匂いが鼻腔を突いた。

 

「あのボールは、私の父、ゲンゾウのものだ」

 

 歩きながら漏らされた告白。

 クシノはその背中に、何も言わずに従った。

 

 

 案内された面会室の窓辺。

 一人の老人が、日差しを浴びて椅子に座っている。

 覇気はない、ただただ日光を受け入れているだけ。

 

 

 その足元には、一匹の老いたキュウコンが穏やかに丸まっていた。

 

「父さん、面会だ」

 

 ドージマが声をかける。

 老人とキュウコンがゆっくりと顔を上げた。

 だが、ドージマの足元に擦り寄って挨拶するキュウコンと違って、老人の瞳に息子を映す光はない。

 

「ああ、いつも済まないね。ところで、私のボールを見なかったかね? 誰かが盗んでいったんだ。私のキュウコンを、野ざらしにするつもりだろうか」

 

 ゲンゾウの視線は鋭く、周囲を疑うように彷徨う。

 息子を『丁寧な職員』と誤認し、ただ一点の執着だけを口にする。

 ドージマは苦しげに俯き、拳を固く握りしめた。

 

 部屋の隅。ドージマが重苦しい沈黙を破る。

 

「認知症だ。他のポケモンはすべて手放したが、このキュウコンだけは側に置いた。ある日、父が手を滑らせてボールが破損した。経年劣化もあったのだろう」

 

 ドージマは窓の外に目を向けた。

 

「父はそれを忘れ、いまだにボールを探し続けている。新しいボールを渡そうとした。最新の、もっと性能のいいものを。だが、父はすぐに見抜くんだ」

 

 新しいものなら、いくらでもある。

 だが。

 

「あの独特の握り心地、長年使い込まれた凹み。指先に馴染む感触。あれがないボールは、父にとって偽物なんだよ。父が共に歩んだ歴史は、あの壊れた器の中にしかないんだ」

 

 クシノは、ゲンゾウの節くれだった老いた手を見つめた。

 昨日、ルーペ越しに見たあの摩耗。

 左利きの、執拗なまでの使い込み。

 

 理屈ではない。

 それは、身体が覚えている『記憶』だ。

 どんな高性能なシステムも、その馴染みを再現することはできない。

 

「分かりました」

 

 クシノは短く答えた。

 

「そのボールが、彼の手の中に馴染むように。修繕しましょう」

 

 ドージマが驚いたように顔を上げる。

 

「ただし、三つの条件があります」

 

 クシノの声が、職人のそれへと切り替わる。

 

「一つ、私の工房への立ち入りは一切禁止。二つ、万が一失敗した時は、その場で未練を断ち切ること。三つ、納期は私の判断に任せ、決して急かさないこと」

 

 ドージマは深く、何度も頷いた。

 その瞳には、協会のスポンサーとしての顔ではなく、ただ父を想う息子の色が宿っていた。

 

「頼む。本当に、頼む」

 

 背後では、ゲンゾウがまだ見ぬボールを求めて、虚空をなぞるように指を動かしている。

 

 預かるのは、壊れたプラスチックと金属の塊ではない。

 一人の人間の、最期に残された尊厳と歴史だ。

 

 また、重い仕事を引き受けてしまった。

 だが、やる価値はあるだろう。

 

 

 夕刻。

 整理整頓された機能的なデスクの上に、ヤマブキシティの夕景が長い影を落としていた。

 室温は適切に管理されているはずだが、そこに漂うのはヒシダの放つ『正論』の冷気だ。

 

 クシノが執務室に戻ると、ヒシダは既にそこに待ち構えていた。

 その存在すら、彼の論理的な主張の一部であるかのように。

 

「ドージマ副社長との密会について、報告を」

 

 ヒシダの声は低く、そして揺るぎない。

 一歩も引かぬエリートの矜持。

 

「彼は私の改革案を支持する最大のスポンサーだ。現場側のあなたが、独断で彼に個人的な接触を試みる。これは組織のガバナンスとして看過できるものではない」

 

「ガバナンスは、雑談も許さないのですか?」

 

 クシノは椅子に腰を下ろし、ヒシダを真っ向から見据えた。

 あの重い事情を知った以上、それを軽々しく語る必要はない、ビジネスは『信頼関係』からなる。

 

「依頼は協会とは無関係な仕事だ。内容を明かす義理はない」

 

 ヒシダにとって、それは面白くない返答だっただろう。

 

「コンプライアンス違反だ、クシノ理事。この不透明な関係性は、理事会に諮らせてもらう。場合によっては、それなりの処置を検討することになるぞ」

 

 ヒシダは声を荒げない。

 ただ、静かに、そして致命的な言葉を並べていく。

 ロジックという名の暴力。それが組織を統率するための、彼の正義だ。

 

 その時。

 

「おうい、始末書書けたよぉ」

 

 扉が、ノックもなしに乱暴に開かれた。

 

「おや、先客?」

 

 現れたのは、カントー・ジョウトリーグトレーナー、モモナリだった。

 シンオウ遠征の報告書と思わしき束を片手に、退屈そうに入室してくる。

 

 室内の険悪な空気を、彼は一瞬で察知した。

 だが、気にする様子はない。

 

 モモナリの視線がふと、ヒシダの腰元に落ちる。

 そこには、事務方らしく整然と備え付けられた、一個だけのモンスターボール。

 

 モモナリは、鼻で笑うことすらしない。

 ただ「そこに戦う意志も力もない人間がいる」という無機質な事実を確認しただけ。

 道端の石を眺めるような、空虚で冷徹な視線。

 

 ヒシダの背筋に、微かな震えが走った。

 彼がこれまで築き上げてきた社会的地位も、精緻な論理も。

 目の前の『野生の捕食者』の前では、一切の価値を持たない。

 住む世界の、絶対的な断絶。

 

 ヒシダは自身の服の皺を整えるように、ゆっくりと姿勢を正した。

 議論の無意味さを、彼は一瞬で悟ったのだ。

 

「なるほど。クシノ理事、あなたは本当に『良い友人』をお持ちのようだ」

「そりゃどうも」

 

 嫌味をたっぷりと込めた、社交辞令。

 ヒシダは格を保ったまま、静かに、しかし逃げるように執務室を去った。

 

 扉が閉まる。

 

 モモナリは手に持った始末書を、無造作にデスクへ放り出した。

 

「別に、加勢する必要はないだろ?」

 

 モモナリは『社会』を理解することはできないが、人間の『殺気』を感じ取ることには人一倍長けている。

 

「何でもかんでも、バトルで解決できるわけないやろ」

 

 クシノは苦笑し、椅子に深く背を預けた。

 口を突いて出るのは、隠しようのない訛りだ。

 

「相手は社会のプロやぞ。コンプライアンスだの票田だの。俺たちが普段相手にしてるものとは別の刃物を使ってくるんや」

 

「それは君もだろ?」

 

 モモナリが、ノーてんきに笑う。

 だがその瞳の奥には、確かな確信があった。

 

 クシノという男もまた、政治やルールという名の刃物を使いこなし、泥の中に立ち続ける強者であることを知っている。

 彼なりの、最大級の敬意。

 

「やかましいわ。さっさと帰れ」

 

 モモナリを部屋から追い出し、再び静寂が戻る。

 

 クシノは一人、ゲンゾウの古いボールを思い浮かべる。

 ヒシダのような人種には、決して理解できない領域。

 あやふやで、不格好で、しかし何物にも代えがたい情動の世界。

 

 そこに再び、足を踏み入れる。

 

 これから直すのは、ただの器ではない。

 壊れてしまった、記憶の形だ。

 

 

 書斎の分厚い扉を閉めると、外界の喧騒がふっつりと途絶えた。

 静寂。

 

 

 微かに漂う樹液と溶剤、そして古い金属の匂い。

 

 クシノはネクタイを緩め、腕時計を外した。

 理事としての「私」を脱ぎ捨てる、静かな儀式。

 作業台の中央には、ドージマから預かった一個のボールが鎮座している。

 一人の男の人生の重み。

 

 クシノは高倍率のルーペを覗き込み、極小の世界へと沈んでいく。

 金属の表面に刻まれた、無数の傷と対話する。

 

 二種類の傷が、そこにはあった。

 

 一つは『歴史の傷』だ。

 左側のシェルの表面。長年、同じ指の配置で握り込まれたことによって、塗装が薄く、滑らかに『手擦れ』している。

 ヒンジ周辺に残る、電撃や炎による微細な金属変色。

 ゲンゾウという男が積み上げてきた、研鑽と激戦の記録。

 

 そしてもう一つが『老いの傷』である。

 シェルを縦に走る痛々しい亀裂。衝撃でわずかに歪んだ、ロック機構のヒンジ。

 老いて震える手からボールが滑り落ちたという、残酷な現実に他ならない。

 

 クシノの手が、無意識に金粉の小瓶へと伸びた。

 普通なら、この亀裂も『歴史』として黄金で飾る。

 だが。

 

 小瓶を、静かに元の位置へ戻す。

 

 ドージマが守りたかったのは、父の威厳だ。

 この亀裂は、彼らにとって『父の衰え』という直視しがたいエラーでしかない。

 作家性を押し付ける場面ではない。今はただ、顧客の祈りに寄り添う。

 

 クシノは極小のハンマーとピンセットを手に取った。

 歪んだ内部機構を、ミリ単位で調整していく。

 カチリ。

 一度も引っかかることなく、滑らかにロックが噛み合う音が響くまで、幾度も繰り返す。

 

 次に、亀裂に錆漆を流し込む。

 硬化を待ってから、番手を上げた耐水ペーパーで慎重に削り出す。

 微かな摩擦音。

 余分な盛り上がりを削りつつ、周囲の絶妙な摩耗具合を絶対に損なわないよう、極限の力加減を保つ。

 

 そして、共色直し。

 パレットの上で、いくつもの顔料を調合していく。

 単なる黒や赤ではない。新品の、死んだ色ではない。

 三十年分の紫外線で退色し、脂や埃が染み込んだ、今このボールにしか存在しない『生きている色』

 

 クシノは極細の筆を取り、息を止めた。

 亀裂のラインにだけ、調合した色を乗せていく。

 周囲の手擦れの跡を殺さぬよう、境界線をぼかし、質感まで完全に同化させる。

 削り、塗り、また削る。

 

 ミクロの隠蔽作業。

 やがて、筆を置いた。

 

 作業台の上。

 そこには『落とした痕跡』だけが魔法のように消え去ったボールがあった。

 しかし、ゲンゾウが長年指を置いてきた窪みや、戦いでついた古傷は、あえてそのまま残されている。

 

 これでいい。

 ドージマの守りたかった父の威厳は守られ、ゲンゾウの指先は、慣れ親しんだ自分の歴史だけを思い出すことができる。

 

 クシノは静かに息を吐き、完成したボールを漆の乾燥用である室へと納めた。

 

 木の扉を閉める、小さな音が響く。

 祈りが、ゆっくりと定着していく。

 

 

 ヤマブキ・ステーションビル内。

 クシノがプロデュースするアパレル店舗は、閉店後の静寂に包まれていた。

 洗練されたスポットライトが、高級感のある什器と最新のコレクションを照らし出している。

 大きなガラス窓の向こうには、都会の夜景が無機質に煌めいていた。

 

 クシノは床に片膝をつき、モモナリの足元を見下ろしている。

 モモナリは、ガラル地方の老舗と共同開発した黒いウェルト製法の革靴を履き、大理石の床の上で足首を回し、軽くステップを踏んだ。

 

 カツン。

 

「普通の革靴に比べたらマシだけど、やっぱり少し硬いかな」

 

 モモナリの言葉に、クシノは内心で確かな手応えを感じた。

 

「その『マシ』を引き出すのが、さすがガラルの老舗や」

 

 利便性と野生至上主義を好むこの男が、不自由な革靴を『マシ』と評する。それは、並大抵のクッション性やフィット感ではない証拠だ。

 

「バトル場でならどうや? 砂地や雨天も想定しとる」

 

 カツン。

 

「水は吸う?」

 

 モモナリが、靴のつま先をトントンと床に叩いて問う。

 

「スニーカーより吸わん。伝統的な防水技法と、特注のラバーソールのおかげや。もしゴムがすり減っても、この製法ならソールの交換ができる。その気になれば、一生もんにできるように作っとるんや」

 

 使い捨てではない。修理して使い続ける。

 それは、修繕職人としてのクシノの哲学そのものだ。

 

「なるほどね」

 

 モモナリはクシノらしい執着心に感心したように呟き、再び足首を回す。

 

「でも、バトルに関しては、やってみないことにはわからないなあ」

 

 意味深な含み笑い。

 だが、モモナリは唐突に話題を変えた。

 

「で、あの人とはどうなの? まだガミガミ言われてるの?」

 

 数日前の執務室での出来事。

 クシノはメンテナンス用のクリームの蓋を閉めながら、平然と答えた。

 

「仕事やからな。対立するのはしゃーない。ヒシダは有能な男や。ただ、あいつは外部理事やから、協会内に地盤がない。立場的に弱くて必死なんや。そこは少し、同情しとる」

 

 自分を追い詰める相手の背景すら冷静に分析し、憐れむ余裕。

 それが、社会のプロとしてのクシノの戦い方だ。

 

「ふうん」

 

 政治や理屈の話に、モモナリは興味を無くした様子で生返事をした。

 彼は再び、革靴の感触を確かめるように鋭く足を動かす。

 

 カツン、カツン、カツン。

 

 大理石を打つ硬質な音が、無人の店内に連続して響く。

 その音のテンポが速まった瞬間。

 モモナリの目が、無邪気な友人から、最強の捕食者へと変貌した。

 まるで獲物を狙うドラゴンのように、しなやかで危険な予備動作。

 

「やっぱり、今動けるかどうか知りたいな」

 

 靴のテストという建前。

 だがその実態は、クシノという男の牙がまだ錆びていないかを確かめようとする、紛れもない戦いの誘いだった。

 

 クシノはわざとらしく溜息をついた。

 

「しゃーないやっちゃなあ」

 

 呆れたように笑いながらも、クシノの胸の奥底で、密かな熱が静かに燃え上がった。

 

 老い。

 

 ボールすら握れなくなった、ゲンゾウの痛切な姿。

 修繕職人として、そして元トレーナーとして、ここ数日その残酷さを深く考えていた。

 老いは誰にでも訪れ、かつての英雄もいずれは歴史の澱へと沈んでいく。

 

 しかし、今。

 目の前の、現役最高峰のバケモノが、自分を『まだ戦うに値する人間』として認識し、敬意を込めて牙を剥いている。

 その事実が、たまらなく誇らしかった。

 

「一戦だけやぞ。靴の耐久テストやからな」

 

 クシノは立ち上がり、店舗のメイン照明を落とした。

 薄暗闇の中に、二人の不敵な笑みが浮かび上がる。

 

 二人は夜のヤマブキの街へ、あるいは秘密のバトルフィールドへと、革靴の音を硬く響かせながら歩み去っていった。

 

 

 街外れの、閑静な高齢者福祉施設。

 西日が長く伸びる廊下を歩きながら、クシノは微かなアルコール消毒の匂いと、静まり返った空気を感じ取っていた。

 

 ドージマの足取りは重い。

 昨日までの、協会のスポンサーとして権力を振るっていた男の面影はない。ただ、老いた父の元へ通う、一人のすり減った息子の背中だった。

 

 個室の扉を、ゆっくりと開ける。

 

 窓から差し込む斜光が、部屋を深いオレンジ色の黄昏で満たしていた。

 車椅子に深く腰掛け、窓の外をぼんやりと眺めるゲンゾウ。

 その足元には、九つの尾を持つ老いたキュウコンが丸まっている。毛並みはかつての黄金の輝きを失い、白くくすんでいるが、その穏やかな呼吸は、主人と完全に同調していた。

 

 来客の気配に、キュウコンだけが静かに顔を上げる。

 威嚇はない。ただ、賢しい瞳でクシノとドージマを見つめた。

 

「父さん。面会に来たよ」

 

 ドージマが、痛ましそうに声をかける。

 ゲンゾウは、ゆっくりと首を巡らせた。

 その瞳は濁り、焦点が定まらない。目の前に立つ男を、彼は『息子』としては認識していなかった。

 

「ああ、すまないね。いつも、世話をかけて」

 

 ドージマを、親切な施設の職員だと信じ込んでいる。

 息子の肩が、微かに震えていた。

 

「ところで、今日は、私の息子は来なかったかね?」

 

 ゲンゾウの口からこぼれたのは、寂しげな問いかけだった。

 目の前の実の息子に対し、息子を想う言葉を吐く。

 それは、どんな鋭利な刃物よりも深く、ドージマの胸をえぐったはずだ。

 

「しばらく、顔を見ていないんだ。忙しい子でね。なかなか、会えないんだよ」

 

 ドージマは唇を強く噛み締めた。

 スーツのズボンを握る手が、白く鬱血している。

 理屈でどうにかなるものではない。これが、老いという残酷な現実だ。

 

「ああ。きっと、すぐ来るよ。父さん」

 

 ドージマは声を絞り出し、ただそう答えるしかなかった。

 

 ゲンゾウの視線が、ふと、ドージマの背後に立つクシノへと向く。

 

「そちらの方は、どなたかな?」

 

 クシノは一歩前に出た。

 背筋を伸ばし、両手を体の横に添える。最敬礼に近い丁寧さで、深く頭を下げた。

 

「ポケモンリーグ協会理事の、クシノと申します。ゲンゾウさん。ご無沙汰しております」

 

『リーグ』という単語。

 それが、錆びついた記憶の引き金となったのか。

 ゲンゾウの瞳の奥に、一瞬だけ、かつての鋭い光が宿った。

 老いた体が、わずかに前傾姿勢をとる。

 

「協会か。先週、キクコと戦ったんだ。あいつはまだ青いが、いずれチャンピオンになる器だ。しっかりサポートしてやってくれ」

 

 数十年前の記憶。

 現在と過去が混ざり合った、狂気にも似た言葉。

 だが、クシノはその言葉を一切否定せず、偉大な先達の遺言のように厳粛に受け止めた。

 

「ええ。必ず、伝えます」

 

 ゲンゾウは満足そうに頷くと、再び視線を落とした。

 空になった左手を、何度も握り直す。

 何かを探すように。失われた半身を求めるように。

 

「ボールを、無くしてしまったんだ」

 

 ひどく不安げな、子供のような呟き。

 

 ドージマが意を決して歩み寄る。

 ポケットから、クシノが修繕したあのボールを取り出し、父の震える左手へ、そっと差し出した。

 

「父さん。ここにあるよ。ずっと、探していたんだろう?」

 

 ゲンゾウの左手が、ボールを包み込む。

 

 クシノは息を呑み、その瞬間を凝視した。

 ここから先は、職人の領域だ。

 

 ゲンゾウの指が、ボールの表面をなぞる。

 三十年分の、生きている色。

 そして、クシノが執念で復元し、あえて残した『左指の窪み』

 

 ゲンゾウの親指と人差し指が、まるでパズルの最後のピースが嵌まるように。

 吸い付くように、その窪みに収まった。

 

 完璧な、適合。

 ゲンゾウの表情から、すべての「不安」が波が引くように消え去った。

 深い安堵。

 これが自分のボールであるという、肉体を通じた絶対の確信。

 

 彼は迷いなくボタンを押した。

 赤い光が放たれ、足元にいた老キュウコンが、静かにボールへと収まる。

 

 カチリ、と。

 

 クシノが極限まで調整したロック機構が、一度の引っかかりもなく、完璧に噛み合う音が響いた。

 

 修繕は、成功した。

 ドージマは、父がボールを取り戻し、満足したのだと思ったのだろう。

 トレーナーとしての過去の栄光への執着。それに寄り添えた悲しさと切なさを抱え、彼は静かに背を向けた。

 

「じゃあ、帰るからな。また来るよ」

 

 ドージマが、ドアノブに手をかけた、その時。

 

「待て」

 

 部屋の空気が、一変した。

 背後から響いたのは、これまでの弱々しさが嘘のような、腹の底から響く力強い声。

 現役時代のゲンゾウが戻ってきたかのような、威厳に満ちた一言だった。

 

 ドージマが驚いて振り返る。

 そこには、車椅子の上で背筋を伸ばし、かつての覇気を取り戻した『トレーナー・ゲンゾウ』がいた。

 濁っていた瞳に、確かな理性の光が灯っている。

 

 ゲンゾウは震える手で、しかし真っ直ぐに。

 キュウコンの入ったボールを、息子であるドージマへと差し出していた。

 

「こいつを、頼む」

 

 ドージマが、息を呑む。

 

「もう、私の手では重すぎる」

 

 すべてを、悟った。

 

 父がボールを必死に探していたのは、過去の栄光にすがるためではない。

 自分の限界を悟っていたのだ。

 相棒を、最も信頼できる息子へ『正しく引き継ぐ』ために。

 どうしても、使い慣れたあのボールが必要だったのだ。

 

 偽物のボールでは、引退の儀式は成立しない。

 自分の歴史が刻まれたあの器でなければ、相棒の命を託すことはできなかった。

 

 ドージマの瞳から、堪えきれない涙が溢れ出した。

 父が隠そうとしていた老いは、相棒の未来を想う、高潔な覚悟だった。

 それを自分は、ただの認知の歪みだと、厄介な執着だと思い込んでいた。

 

 ドージマは、両手を差し出した。

 父の手から、恭しく、そしてしっかりとボールを受け取る。

 

 重い。

 ただのプラスチックと金属の塊ではない。

 一人の男の人生と、託された命の重さだ。

 

「ああ。任せてくれ、父さん」

 

 涙声で、ドージマは誓った。

 

 ゲンゾウは満足げに小さく頷くと、深く息を吐いた。

 肩の力が抜け、再び静かに窓の外へと目を向ける。

 その横顔には、すべての重責を果たした男の、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

 歴史は、正しく引き継がれた。

 ロジックや効率では決して測れない、あやふやで、不格好で、美しい情動の帰結。

 

 クシノは静かに、深々と一礼した。

 この神聖な空間に、これ以上自分が留まる理由はない。

 

 足音を殺し、黄昏の部屋を後にする。

 扉を閉める直前、親子の静かな時間が、夕陽の中に溶けていくのが見えた。

 

 

 施設のエントランスを出ると、冷たくなり始めた夕風が吹き抜けた。

 黄昏時。施設の窓から漏れる灯りが、コンクリートの上に二人の影を長く伸ばしている。

 室内の沈滞した空気を洗い流すような、心地よい風だった。

 

 駐車場で立ち止まったドージマが、クシノの方へ向き直る。

 そこにはもう、エリートとしての虚勢も、権力者としての威圧感もない。

 ただ、憑き物が落ちたような、しかし父から相棒を託された『次世代の責任感』を帯びた、一人の男の顔があった。

 

 ドージマは、深く、真摯な礼をした。

 

「クシノ理事。君には、感謝してもしきれない」

 

 顔を上げた彼の瞳は、澄んでいた。

 

「君がいなければ、私は父の最期の覚悟すら、ただの惨めな老いだと切り捨てていたかもしれない。この借りは、必ず返す」

 

 ドージマは真っ直ぐにクシノを見据えた。

 

「少なくとも、次の理事選で君が困るようなことは絶対に無いと約束しよう。わが社の票と、それに付随する勢力はすべて、君のために動かす」

 

 協会の屋台骨である、タマムシ中央損保からの当選確約。

 理事の椅子に座る者にとって、それはこれ以上ないほど魅力的な、絶対の報酬だ。

 理屈で言えば、ここで頷くのが最も正しい選択である。

 

 しかし。

 クシノはポケットに手を入れたまま、困ったような、しかし一切の迷いがない笑みを浮かべて首を振った。

 

「お気持ちだけ、頂いときますわ」

 

 自然とこぼれ落ちた、関西弁。

 

「俺のこの技術は、リーグの成長に直接寄与するもんやない。ただの個人的な道楽ですわ。それを政治の取引材料にするほど、俺も支持に困っとるわけやないんでね」

 

 個人的な絆で受けた仕事の対価を、公的な票で受け取る。

 それは、自らの『職人としての誇り』を汚すことに等しい。

 あやふやな情動は、システムの利害と交換してはならない。それが、クシノの引いた大人の一線だった。

 

 驚くドージマに対し、クシノは意外な名前を口にする。

 

「それよりドージマさん。ヒシダ理事を、褒めたって下さい」

 

「ヒシダを?」

 

「ええ。あいつの言う『完璧なガバナンス』も、これからのリーグには絶対に必要なもんです。少々頭が固いのが玉に瑕ですけど、組織を支える背骨としては一級品や」

 

 自分を恫喝し、失脚させようとしていた政敵の有能さを認め、スポンサーにその活用を促す。

 ドージマは一瞬呆気にとられたが、やがて小さく息を吐き、苦笑した。

 クシノという男の底知れなさを、ようやく理解した顔だった。

 

「ヒシダが、君に迷惑をかけたようだな」

 

「まあ、仕事ですから」

 

「分かった。彼には、今回のことをすべて話そう。父の老いと、それを君がどう直したのかを」

 

 傷や老いを、排除すべき瑕疵と断じるヒシダ。

 彼にとって、完璧なエリートであるドージマが『不格好な情動』を受け入れ、救われたという事実は、その価値観を根底から揺さぶる強烈な毒となるだろう。

 あるいは、組織をより強靭にするための、苦い薬に。

 

「ええ。それがええです」

 

 クシノは静かに肯定した。

 

 ドージマは最後に一度、力強くクシノの手を握った。

 その掌には、キュウコンのボールを託された者の、確かな熱が宿っていた。

 

「ありがとう、クシノ君」

 

 ドージマは車に乗り込み、エンジンをかけた。

 クシノは走り去るテールランプを追うこともなく、軽く片手を挙げて背を向ける。

 

 正論という名のコンクリートだけでは、組織は息苦しくて死んでしまう。

 だが、情動という名の泥水だけでも、組織は形を保てない。

 そのあやふやな境界線に立ち、ひび割れを修復し続けること。

 

 それが、クシノ=ヨウイチロウの戦い方だ。

 

 夜風が、クシノのコートの裾を揺らす。

 明日はまた、始末書の続きを書かなければならない。

 あの男にビジネス文書を教えることはもう諦めた。

 

 クシノは小さく息を吐き、静かな日常へと歩き出した。

 

 

 午後の穏やかな光が、クシノの理事執務室に差し込んでいる。

 デスクの上には、モモナリが書き散らしたような、訂正だらけの始末書が山積みにされていた。

 クシノは万年筆を握り、それを淡々と処理していく。

 ペンの走る音だけが、静かに時を刻む。

 

 ノックの音。

 入室してきたのは、ヒシダだった。

 彼の表情からは、以前のような冷徹なトゲが消えている。どこか居心地の悪そうな、しかし吹っ切れたような、複雑な色が混じっていた。

 

 ヒシダは、少し古風で不格好な菓子折りをデスクに置いた。

 完璧主義の彼が、悩み抜いた末に選んだであろう、人間味のある選択。

 

「クシノ理事。先日は、その、非礼を働いた」

 

 ヒシダは、小さく息を吐いた。

 

「ドージマ副社長から、すべて聞いたよ。君が何を直していたのか。そして、彼が君をどう評価しているかも」

 

 自身の完璧なロジックでは測れなかった、クシノの仕事。

 ヒシダは、自身の価値観が根底から揺さぶられたことを、無言で認めていた。

 

 クシノは書類から目を上げず、飄々と答える。

 

「気にしてませんよ。組織なんやから、衝突があるんは健全な証拠です。お菓子、頂きますわ」

 

 ヒシダは椅子に座ることなく、クシノを見下ろした。

 少しだけ肩の荷を下ろしたような、実務家としての問い。

 

「一つ、訊いてもいいだろうか」

 

「何です?」

 

「君ほどの才覚があれば、ビジネスの世界でもっと表舞台に立ち、効率よく輝けるはずだ。ガラルの靴も、シニア層まで巻き込んで成功していると聞く。なぜ、この協会という古い組織の裏方で、あの手の付けられない連中の尻拭いばかりしているんだ?」

 

 ヒシダにとって、クシノという強者が、なぜあえて泥を被るような役回りに甘んじているのかが、合理的ではなかったのだ。

 

 クシノは万年筆を置き、少しだけ目を伏せた。

 自嘲するような、それでいて深い誇りを湛えた笑み。

 

「ヒシダ理事。あんたには笑われるかもしれませんが」

 

 クシノは窓の外、遠くに霞むバトルスタジアムの巨大な影を見つめた。

 

「俺は未だに、あの規格外のバケモノたちへの『憧れ』を捨てきれてないんですわ」

 

 その言葉に、ヒシダが、息を呑む。

 

「彼らに一番近い場所は、対戦相手として目の前に立つことや」

 

 彼はそこで言葉を一つ切り、目を閉じて昔を懐かしんだ。

 辛かったが、たしかにそこは特等席であった。

 

「でも、俺はもうそこにはおらん。やから、この厄介で泥臭い尻拭いの席が、俺にとって、彼らに『二番目に近い場所』なんですよ」

 

 かつての戦友として。今は、管理職として。

 たとえ剣を置いても、彼らという眩い光のそばにいたい。

 それが、クシノ=ヨウイチロウという男の、最も純粋で非合理な情熱だった。

 

 ヒシダは静かに息を吐き、深く納得したように頷いた。

 そこには以前のような正論の暴力はない。異なる哲学を持つプロへの、確かな敬意が混じっていた。

 

 クシノは立ち上がり、ヒシダが持ってきた菓子折りを軽く叩いた。

 

「俺には、彼らを数字やルールで『管理』することはできませんわ。そこはヒシダ理事、あんたの完璧なガバナンスにお任せします。だが」

 

 クシノはヒシダを真っ直ぐに見据え、不敵に微笑む。

 

「人間はどうしても『あやふや』な部分を抱え込む生き物や。老いやら、情やら、憧れやら。そのあやふやな部分の始末は、全部俺に任せてもろてええですよ」

 

 ヒシダは短く「分かった」と答え、執務室を後にする。

 

 正論と情動。相反する二人が、この巨大な協会の両輪として機能し始めたことを予感させる、力強い足音だった。

 

 一人残されたクシノは、再びデスクに向かう。

 山積みの始末書。

 そして、あやふやな情動を抱えた人間たち。

 

 クシノは万年筆を握り直す。

 ペンの走る音が、静かな執務室に心地よく響き続けた。

 

 

 ヤマブキの夜景が、大きな窓の向こうで静かに瞬いている。

 クシノの自宅マンション、ダイニング。

 テーブルにはアヤカが用意した夕食の余韻と、クシノが自作した果実酒のボトルが置かれていた。

 リラックスしているが、どこか洗練された大人の食卓。

 

「モモナリの奴、あの革靴がよほど気に入ったらしいわ」

 

 クシノはグラスを傾け、氷が立てる微かな音を楽しんだ。

 仕事の緊張を解き、数少ない友人の前でだけ見せる『素』の顔。

 

「この間の公式戦、本当にあの靴でバトル場に立ちよった。砂まみれのジャケット、クタクタのジーパンに傷だらけの革靴なんてわけわからん取り合わせでな。おかげで、変な需要が生まれとるわ」

 

「あの人が履いて壊れないなら、どんな過酷な現場でも大丈夫だろう。ってみんな思ってるわよ」

 

 アヤカはトレーニング後のリラックスした姿のまま、クシノの言葉に笑った。

 

「最高に説得力のある広告じゃない」

 

「不本意やけどな」

 

 クシノは苦笑した。

 モモナリという規格外の存在が、自分の新しい仕事を肯定している。皮肉な成功だ。

 

「ヒシダさんとはどうなの? まだガミガミ言われてるの?」

 

「いや。あれから新しいガバナンス案の作成を一緒に進めてる。あいつの理屈は相変わらず硬いが、最近は少しだけ『あやふやな事情』ってやつを計算に入れるようになったわ」

 

「いい傾向じゃない。あなた一人が泥を被る必要もなくなるでしょうし」

 

「まあな。あいつが背骨を支えてくれる分、俺はもっと別の、面倒な『情』の始末に専念できそうや」

 

 クシノはグラスに残った琥珀色の液体を飲み干し、ふと、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。

 

「ところでアヤカ。前から聞こうと思っとったんやけど」

 

「何?」

 

「なんでお前、理事選で俺に一票も入れへんのや?」

 

 クシノは身を乗り出し、生真面目な顔で問い詰めた。

 

「俺、そんなに仕事できへんか? それとも、家で何か気に入らんことでもやったか?」

 

 自らの能力や立ち振る舞いに一点の曇りもないと自負しているからこその、クシノらしい問い。

 アヤカは酒を一口含み、何でもないことのように、さらりと答えた。

 

「別に。仕事ぶりは認めてるわよ」

 

「じゃあ、なんで」

 

 その問いに、アヤカは恥ずかしげもなく答える。

 

「あなたが理事に落ちれば、もっと私と一緒にいられるでしょう? 理由はそれだけよ」

 

 クシノの思考が、完全に停止した。

 照れる様子もなく、極めて合理的な判断であるかのように言い放つ妻。

 彼女にとって、夫の出世よりも『二人で過ごす時間』を優先するのは、検討の余地すらない明確な優先順位なのだ。

 

「敵わんな」

 

 クシノは呆気に取られ、やがて自嘲気味に、しかし満たされた様子で苦笑した。

 

「俺が『あやふやなもんを大切にしろ』って言うた手前、文句も言えんわ」

 

 クシノはアヤカのグラスに、果実酒を注ぎ足した。

 

「しゃーない。お前に一票入れてもらえるくらい、もっと上手いこと立ち回れるよう努力させてもらいますわ」

 

「期待してるわよ」

 

 アヤカも短く笑い、グラスを合わせた。

 澄んだ音が、夜の静寂に溶けていく。

 

 不完全で、あやふやで、だからこそ愛おしい人間関係。

 クシノ=ヨウイチロウという男の、長く、そして幸福な一日の終わりを告げるように、夜が深く更けていった。




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