比名子と汐莉が恋仲になるまでのお話 作:しおひなを摂取したい
目を閉じると、波の音が聞こえてくる。
瞼の向こうには、深い海の色がにじんでくる。
終わりの見えない夏の匂いで満たされた空虚な日々のなか。
海のような瞳をした
波の音がする。
真夏の陽光がアスファルトに突き刺さり、白い光がゆらゆらと地面から立ち上る。
蝉時雨のなか、亜麻色の髪の女子生徒は学校へと続く道を歩いていた。
髪の長さは毛先が僅かに肩に触れる程度。表情は薄く、暗い雰囲気を纏っている。
「暑い……」
そう呟く彼女の半袖の制服の下には黒いインナー。細い首も手首も覆い隠されている。真夏には不釣り合いな格好だが、肌の露出を増やそうする気配はない。
彼女の名は
数分歩いたところで、道の先から大きな声が響いてきた。
「比名子〜!おはよっ」
見れば、垢抜けた雰囲気の女子生徒が大きく手を振り駆けてきた。首にチョーカー、右手に数珠を巻いた赤い髪の少女。
彼女は
「おはよう。美胡ちゃん」
ただし、美胡は人間ではない。その正体はこの土地に住む人間を長く見守ってきた狐の妖怪。妖怪に付け狙われる比名子を十年以上守ってきた存在。比名子にとっての太陽だ。
「ねえ、比名子聞いてよ。この前食べた新作スイーツが美味しくてさ〜。今度一緒に食べに行こうよ!」
「いいよ。美湖ちゃん」
二人は教室に到着するまで他愛のない会話を続けた。
~~~
「みんなーおはようっ」
美胡が元気よくクラスメートに挨拶するなか、比名子は自身の席に腰掛ける。
「おはよう。汐莉さん」
比名子の後ろの席に座る作られたように整った顔立ちに笑みを浮かべる女子生徒、汐莉。足にも届くほどの黒いロングヘアと白い貝殻の髪留め。しかし、比名子は彼女の瞳に吸い込まれる。果てしなく深い海のような色の瞳。
彼女もまた、人間ではない。
家族を事故で失い、理不尽な何かに殺して欲しいと願う比名子の前に現れ、『君を喰べにきました』と告げた
幼い頃から比名子の血肉を狙う数多の妖怪と同様に比名子を喰べにきた──と説明されたが、それが嘘であると比名子はもう知っている。
『一秒でも長く存在して欲しい。あの頃のように笑って欲しい』
それが汐莉の本心。家族も存在せず、気付いたら波間に存在していた汐莉。自分はこの世界の何者とも繋がりを持っていない。けれど、世界の”外側”で孤独に生きていた汐莉を”内側”に招いてくれたのは幼い頃の比名子だった。
菓子や食物を与え、言葉を交わし、硬い鱗と鋭い爪が生えた手に頬をすり寄せ、笑いかけてくれた。
『お魚さん。この海みたいでとってもきれい』
『だからね、お魚さんのこと怖くなんてないよ』
比名子がいるから汐莉は世界が輝いて見える。
この輝きを失いたくない。
だから、初めて祈った。
『どうかこの子が健やかに。この輝きを失わないように。幸せに生きてください』
しかし、汐莉の本心を知った比名子は激しく動揺した。
比名子は汐莉に喰べられたかったから。
『もう放っておいてよ!』
『嘘ばっかりで喰べてもくれない。ほかの妖怪に喰べられることも許してくれない』
『あの頃の…っ。汐莉さんが初めて出会った頃の私になんて……戻れる訳ないじゃない!』
そのすれ違いは二人の間に大きな亀裂を生んだが、既に比名子と汐莉は新たな約束を結び直している。
以前のような口約束ではない妖怪と人の正式な契り。
『君があの頃のように笑えたら、幸せになれたら、君を喰べる』
比名子が自らの命を絶たないように結んだ不本意な契約。
意趣返しとして汐莉は比名子の唇を噛んだ。
少しでも汐莉のことを比名子に感じていてほしかったから。
呼吸のように無意識で、日常のどこかに自分の影が落ちていてほしい。
比名子の世界の色に、自分という名の青が確かに混ざっていてほしい。
その願いを胸に沈めたまま、汐莉は目の前の少女をそっと呼ぶ。
「おはようございます。比名子」
その声音は静かで、けれど耳の奥に深く沈むような響きだった。
「唇の傷……もう治ってしまいましたか……」
「……うん」
汐莉は腕を伸ばし、比名子の唇に触れる。
ひんやりとした感触に、比名子の胸は小さく跳ねる。
「……」
二人の空気は、水底のように静かに満たされていた。
窓から差し込む光は水面を透過した陽光のように、汐莉の髪に揺らめきながら淡く反射する。
遠くの波音が水底でこだまするように教室に霞み、蝉の声は水の泡のように二人を包む。
比名子はほんのわずかに目を閉じ、指先の温もりを感じ続けた。
その静寂を破り、明るい声が水面を揺らす。
「比名子~!」
水底の世界に差し込む太陽の光のように、元気いっぱいの美胡が近づいてくる。
「あー!半魚人!なにしてんの!!」
「何って唇に触れているだけです。その目はお飾りですか?」
「だから!比名子の唇に触れるなって言ってんの!だいたいお前はいつも比名子にくっつきすぎなんだよ!」
「はいはい。騒がしい狐ですね。──比名子、耳栓は必要ありませんか?」
「おいっっっ!!」
途端に騒がしくなった比名子の席。美胡は眉を吊り上げ、今にも噛みつきそうな勢いで怒った顔を向け、対する汐莉は薄く笑みを浮かべたまま涼しい顔で応じていた。
言い争う二人を落ち着かせるように比名子は優しく声をかける。
「美胡ちゃん、もうそろ先生来ちゃうよ?」
その言葉に、美胡はぴしっと動きを止めた。
「……っやば。ほんとに来る時間じゃん──」
ガララッ。
教室の扉が開く乾いた音が、三人の頭上に落ちた。
「おまえら、朝から元気だな。席つけー」
担任の低い声に、美胡は「むぅー……」と不満げに頬をふくらませながら自分の席へ戻り、汐莉は笑顔を崩さないまま静かに姿勢を正す。
その二人を見た比名子は、どこか困ったように眉を下げ、席につき直した。
こうして夏の朝の小さな騒動は、チャイムの音に溶けていった──。
~~~
いくつかの授業が淡々と流れていき、真夏の光はますます強さを増していく。
窓の外の蝉の声は、午前の終わりに向かうにつれて勢いを増していった。
そして、昼休みのチャイムが鳴る。
比名子と美胡はお弁当を、汐莉は購買で購入したパンが入った袋を手に持って校舎裏のベンチに向かう。
背の高い植木が日光を遮ってくれるため、真夏でもそこだけは少しだけ涼しい。
比名子を挟むように汐莉と美胡が座り、それぞれ食事を始めた。
「おや、比名子。その卵焼き美味しそうですね、一つください」
そう言った次の瞬間には、汐莉は比名子のほうへすっと身体を傾け、口を小さく開けて待っていた。
比名子は思わず手を止め、ぱちぱちと瞬きをした。
「え……あ、あーんで……?」
すぐ隣で、美胡が「はあ!?」と声を上げる気配がした。
「ちょっと!!比名子はちゃんと自分のご飯を食べて! なんであーんなんだよ!」
「まあまあ、私のパンを何個かあげますから」
汐莉は微笑み、さらりと購買袋を差し出してくる。
袋の中には、どう見ても一人用とは思えない大きなパンが
顔ほどのサイズで、しかも数個ぎっしり詰まっていた。
「……いや量の問題じゃなくて!!」
とツッコミを入れるが、
汐莉は開けたままの口を閉じようともしない。
比名子は、その大きく開いた口の奥──
鋭い犬歯がちらりとのぞくのを見て、
胸がどくり、と跳ねた。
(……あの歯が、私の唇に……)
箸先が微かに震えた、そのとき。
ふいに、汐莉の目と視線がぶつかった。
海のような瞳。呼吸を忘れるほど真っすぐで、拒めと言われても拒めない吸引力を持っている。
「比名子」
名前が溶けるように呼ばれ、比名子の心臓がひとつ大きく跳ねた。
「あ…うん……」
何も考えられず、ただその声に引かれる。
そして、意識より先に身体が動いた。
――ぱくり。
「ありがとうございます。美味しかったですよ」
笑みを浮かべる汐莉。隣で騒ぐ美胡の声も耳に入らず──
比名子は、ただその微笑に息を奪われていた。
視界の端が少し波打つ。
汐莉は比名子の弁当からミニトマトをつまみ、濡れたような声で囁いた。
「次は、私が食べさせて差し上げますね。順番ですから」
汐莉が比名子の頬に左手を添え、右手でミニトマトをそっと運ぶ。
距離が、近い。呼吸も、視線も、逃げ場がない。
「口を開けてください」
命令というには静かすぎて、懇願というには甘すぎて。
比名子は、従うほかになかった。
──あむ。
柔らかな果肉が唇の内側で弾ける。酸味とわずかな甘さ。
けれど、それ以上に強く残るのは──汐莉の指先の冷たさ。
触れた皮膚から胸の奥へ、潮の気配が落ちてくる。
「比名子」
その呼び声に、思考が波間に沈む。
比名子は頬に手を当て、俯いた。
鼓動が騒がしくて、蝉の声が薄い膜越しに聞こえる。
(……どうして、こんな)
ただのミニトマトのはずなのに。
唇に残る温度が、まるで心へ染み込んでいく。
真夏の光が眩しい。
誰もいない海に一人放り出されたみたいに息が苦しい。
それでも──
目を閉じれば、波の音がした。
「比名子ーっ!」
現実へ引き戻すように跳ねる美胡の声。
慌てたように、自分の弁当を差し出してくる。
「は、はいっ! あーんして!ほら!これ私の卵焼き!絶対こっちのほうがおいしいから!!」
比名子はわずかに視線を揺らす。
胸の奥がざわつきすぎて、言葉にならない。
汐莉の指先が触れた場所が
まだ、ひり…と熱を帯びている。
(……私、どうしたいんだろう)
終わりを望んできたはずなのに。
死にたい気持ちが、確かにあったのに。
なのに。
この熱をどうして手放せないんだろう。
握りしめた指先が震え続けていた。