あなたを生かす、呪いになれたら   作:端取合

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息を潜めて生きている。


幕間 祝福、あるいは呪詛について

 便宜上ではあるが神域、換言すれば聖域と呼ばれる空間がある。

 

 たとえば神社や寺院、教会を訪れた際に空気が澄んでいると感じたことはないだろうか。

 強制的に肯定させたいのではない。もちろんただの自然気象、偶発的な現象だと認識してくれていてもかまわない。宗教論ではないため信じずとも差支えはない、のだが。

 

 不可視の存在のために場所が設けられ、

 不確かな存在のために人が寄り集まり、

 不明瞭な存在のために時間が費やされ、

 

 ――万人に証明することのできない存在のために努めている数々が有るのも、また揺るぐことのない事実である。

 存在は()ると認識されてはじめて存在として成立する。

 神聖なもの対する念も当然のように含まれる。まずは「高次の存在」もしくは「人とは一線を画する存在」の認識、次いで「成し遂げた偉業」「起こし得た奇跡」が認知される。

 逆の可能性もあるだろう。人が成し得ない御業であるからこその、高次の存在という証明でもあるのだから。

 助けてほしいと願った。救われたいと祈った。

 祈願へとかけられた温情は、そういった人の望みによって生まれたのかもしれない。

 人間が一生をかけても到達できないはるか高みから、施される奇跡という名の慈善は、最終的に「尊きもの」「清らけきもの」「聖なるもの」への傾倒に形を変える。

 それこそが信仰であると仮定するのだとして、人間に良きものが不浄であるはずもなく、清浄なものであるとも表現されるべきだ。

 

 ――〝清浄〟は〝(きよ)く、(きよ)い〟と書き、()れのない清らかさを指す。

 

 一片の穢れすら許さぬ存在が坐す空間だ。まさに神域、まさに聖域。そう呼ぶに値する言葉として、これほどに相応しいものはないだろう。

 

 さて、ここで。

 くだんの件について言及しよう。

 

 神を讃える礼拝堂、清らなる場所が呪いによって蝕まれた案件に関してのことである。

 某ホテルに隣接された礼拝堂に確認できた呪霊は四級であった。等級だけで言えばけして高くはない。低級に分類される四級三級から、難易度が跳ねあがる二級一級、凶悪さに至っては他を寄せ付けない特級まで、の最下層に位置するのが四級だ。が、この件で問題なのは、四級に見合わない空間の変異である。

 領域展開ではない。そもそも四級程度の呪霊に、術式を付与した生得領域を呪力で周囲に構築するだけの能力はない。圧倒的に呪力が足らず、また扱えるほどの知能も持たぬのだ。神聖なる場所で下級呪霊が人を害すなど本来は()()()()()出来事であるはずである。

 では、簡易ながらに聖域であった場所を、不浄へと転じさせたものは何だろうか。

 

 こびりついた人間の負の感情なのか。

 負の感情から生まれ出た呪霊なのか。

 それとも、――呪術を扱う者なのか。

 

 枚挙と例が連ねられる正体が何にせよ、事はすべてが終わったあと。

 真相は誰も知らず、事実が暴かれることはない。こればかりは昏睡状態にある被害者の一人が目覚めでもしない限り、手掛かりさえも残ってないのだから。

 

 

 

 

 

 任務から、およそ一カ月が経過した。

 被害者の一人である悠里は、いまだ目覚めないままでいる。

 高専保険医である家入硝子の治療の甲斐あって、血の通う肉体には、打撲どころか傷のひとつさえ確認できない。瞼を閉じて横たわっている姿は、もう一月も意識不明の状態であるというのに、穏やかに眠っているようにも見えた。

 触れた肌の温もり。

 体温を求めて握りしめても、反応を返してくれない手。

 身体の生命維持活動は正常なのだという。いつ意識が戻っても不思議ではないと診断されているのに、まるで死んでいる反応のなさが歯痒くてたまらなかった。肉親が日に日に細くなっていくのを目の当たりにしているのも、ゆっくりと心を削られていくようで、新しい朝を迎えるたびに虚しさが積もっていく。

 家族の覚醒を待ち続けることしか、今の悠仁にはできなかった。

 

「悠仁」

「ああ、悪い。呼びに来てくれたんだよな」

「友達に声かけただけだよ。謝らないで」

 

 時間があれば治療室に訪れるのが習慣になった悠仁に、こうして迎えが来るようになったのはいつだったろう。

 誰が言い出したのかは知らない。ただ時折放っておいたら疲労が回復できないような姿勢で夜を明かす悠仁を見るに見かねて、同じく時間が空いた者が、声をかけていくようになっただけのこと。

 皆口を揃えてなんでもないことのように言った。

 身を潜めている悠仁を考慮してか、悠里の眠る場所は内密に変更されて、こうしてお見舞いに訪れることも可能になっている。高専内にひっそりと設けられた一室の存在を知る者は限られているが、諸事情で死んだことになっている現在でさえも、人物が変わっただけで、誰かが迎えに来てくれる習慣は変わらなかった。

 気にかけてくれる。

 心配してくれる。

 そうやって悠仁の身を案じてくれる存在が、どれほど支えになっているか。ぽっかりと空いた深い沼底へと落ちていきそうになる心を、どれほど照らしてやまないか。

 

(知らないんだろうなあ)

 

 周囲が自覚なく与えてくれる優しさには頭が上がらない。

ぽんぽんと放られてくる思いやりは、気軽さとは反対に、ちっとも薄っぺらくはなくて。中身の伴った目に見えない質量に胸が満たされていく。

 

(俺も、返さなきゃ)

 

 きっとそれすらも周囲は望んでくれやしないのだろうけど。

 たぶん伏黒は悠仁の行動に共感してくれて、何をしようが黙認するだけだと思う。逆に釘崎あたりなんかは、わざと貸しだなんて言い方をして、悠仁が負い目を感じることのないよう気を遣ってくれるのだと思う。

 五条は教師の立場で、もしくは最強の称号に相応しい気軽さで、大丈夫だと心強い言葉をくれるだろうし、七海は大人の立ち位置から遠慮するなと子ども扱いするのだろう。

 

(行かなきゃ)

 

 床を擦る不協和音とともに悠仁は席を立った。

 優しさに甘えていたいけれど。いつだって悠里の傍は離れがたいけれど。

 悠仁が切望する未来のためには、一所(ひとところ)に留まってばかりもいられないから。

 

「ありがと」

 

 わざわざ呼びに来てくれた友人の、その隣に並び立つ。

 

「あはは、声を掛けただけだよ。お礼を言うのって変じゃない?」

「それはそれ、これはこれ。俺が感謝してるだけなんだから礼ぐらい言わせろよ」

「そっか、ならありがたく受け取っとくね」

「じゃあ、今日も元気に投げ飛ばされますか」

「元気に投げ飛ばされるって……、言い方最高だけど笑えないよ。五条先生、ほんっとうに容赦ないから」

 

 悠仁は扉を開けた。仄青(ほのあお)い一室から、日差しの入り込む明るい廊下へと歩み出す。家族が眠る場所を、もう振り返りはしなかった。

 

 

 

 

 

 虎杖悠仁は死んだ。

 両面宿儺によって殺された。

 

(ふざけるな)

 

 と、伏黒恵は思う。

 記憶を辿れば、脳裏に蘇るのは屈託のない笑顔ばかりだ。

 部活の先輩を助けるために、伏黒を生かすために、猛毒とも呼べる代物(しろもの)を食べた人間。しかも、あろうことか死ぬことも自我を取り込まれることもなく両面宿儺(呪いの王)の宿主となり、理不尽な秘匿死刑まで決まり、それでもなお人を救おうとした善人。

 

 もう一度。

 ふざけるなよ、と伏黒は思う。

 

 あんな死に方をしていい人間ではなかった。

 伏黒の姉と同じく、他人の幸せを心から願えるような善人だった。他人のために心を砕くことのできる人間で、それをいとも簡単に言葉と行動で示せる真っすぐさと強さを持ち合わせている人間だった。

 

 何度でも。

 ふざけるなよ、と伏黒は思う。

 

 その死を喜ばれていい人間ではなかった。

 もしかしたら。虎杖という人間を知らなければ、その性根を知らなければ、こうして思い悩むこともなかったのかもしれない。規定に従って呪霊を祓って、姉の呪いをいつか解くために戦って、他のことには目もくれずに日々を駆けていく。そんなふうに生きていたかもしれない。

 

 伏黒はもう虎杖のことを知ってしまった。

 

 呆れるほどの善性を内包する為人(ひととあり)を知ったからこそ、そんな人間でさえ不条理に命を落とすことがあるのだと目の当たりにしたからこそ、自らの信条において不平等に人を助けるのだと改めて決意したからこそ。

 それだけに目の前の男女が。

 見知った禪院真依という生徒が。

 

「〝器〟なんて聞こえはいいけど要は半分呪いの化け物でしょ」

 

 紡いでいく言葉に耳を塞ぎたくなったし、自らの耳を塞ぐよりも禪院の口を塞いでしまいたかったし、お前らが何を知っているんだと胸倉を掴んで問い質したかった。

 

「そんな穢らわしい人外が隣で〝呪術師〟を名乗って虫唾が走っていたのよね?」

 

 死人に鞭打つようなセリフに心臓が脈打った。

 警戒ではなかった。恐怖でもなかった。恥辱にも似たそれは友人を貶された、怒りだ。

 そして。

 途方もない悪意と愉悦を含ませたセリフは、

 

「死んでせいせいしたんじゃない?」

 

 何よりも伏黒の逆鱗に触れた。

 

 どす黒く染まる感情が全身を駆けずり回った。

 抑えきれない腹立たしさが口元を歪ませて、今にも罵倒を吐き出そうとしている。ただ唯一、隣立つ釘崎の存在に「面倒事を起こすのは得策じゃない」と少しばかり理性が働くだけで、怒気は留まるところを知らずに膨れ上がっていく。

 釘崎でさえ張り詰めた糸と同じ雰囲気を纏っているのだから、何かあれば爆発するのは自明の理だった。

 

 一触即発。ひりついた空気。

 冷戦を破ったのは東堂葵の突拍子もない一言だった。

 

「どんな女がタイプだ?」

 

 緊張感を霧散した問いかけに何の意図があるのか。

 脈絡のない質問に対して伏黒と釘崎は小首を傾げた。東堂が己の好きなタイプを明かすが、女性のタイプで人間性を図れるのかは(はなは)だ疑問である。釘崎のムッツリ発言は無視するとして、なんとなく東堂に問われたことを考えてみる。

 

 伏黒が真っ先に思い浮かべたのは義理の姉だった。

 

 ()いた人、というのは違うかもしれなかった。なにしろ今は所在も分からぬ父親の再婚相手、その連れ子というのが津美紀だったのだから。

 幼いながら、お互いに親の救いようのない面を知っていた。早熟であったのは性分か、はたまた環境が育んだ諦観なのかは分からない。それでも腐ることなく在ったのが津美紀だった。

 

 清らけき春に咲く、可憐な花のようだったひと。

 眩しいほどに日の当たる場所がよく似合うひと。

 

 両親が蒸発したあと、身を寄せ合って生きてきたひとだった。五条に拾われ世界の裏側により踏み込んでからは八つ当たりで傷付けてしまった。自分の甘えを自覚することもないままに、風に吹かれて散るように意識が眠りについた彼女の姿を見て、はじめて傍にある温もりの尊さに気付く。

 いつだって大切なものは、失ってからその大きさを声高(こわだか)に叫ぶのだ。

 命も、家族も、友人も、いつだって全部そうだ。間に合わずに指の隙間から(こぼ)れ落ちたものがどれだけあっただろう。自分の無力さを恨み、嫌い、呪って、――なのに。

 

 ――屈託のない姉が、伏黒の優しさを肯定した善人が。

 ――思い出の向こう側で、どうしようもなく柔らかに微笑んでいる。

 

 真っすぐな性根で、揺らぐことのない善性を持ち、泣きたくなるほど優しかった。下手をすれば伏黒なんかよりもずっと、ずっと心の在り方が強かった。

 

 きっと津美紀は、伏黒を呪わない。

 どころか「恵が無事で良かった」なんて安心するに違いなかった。

 

 死の間際とて伏黒たちの幸せを望んだ虎杖も同じだった。誰かのために、ときに名も知らぬ誰かのために行動できる人間だった。目の前の誰かを助けるために、たったひとりの、眠り続ける家族すらも置き去りにして。

 そういう人間こそが、報われる世界であるべきだろう。

 

(そうだ、一緒じゃないか)

 

 伏黒は呪術師だ。

 決して正義の味方にはなれない。

 そうであるのならせめて強くならなければいけない。少なくとも自分の決めた誰かを守れるくらいには。

 

「その人に揺るがない人間性があれば、それ以上は何も求めません」

 

 だから相手に求めることなど、心根をおいて他に有り得ないのだ。回答に何を見出そうとしたのかは知らないが、相対する東堂を見据えて、伏黒は言い切った。

 

 

 

 

 

 虎杖悠仁は死んだ。

 両面宿儺によって殺された。

 

 虎杖悠仁は生き返った。

 両面宿儺によって、この世に戻された。

 

 この世すべての悪辣(あくらつ)を煮詰めて人間の型に溶かし込んだような、まさに――厄災の塊が両面宿儺という〝呪い〟である。

 

「分っかんねえな」

 

 王とまで称される呪いである宿儺の印象と言えば、悠仁にとってはそんなものだった。

 ただ「呪いである」ということだけが、骨身に染みて分かっている。

 集英院で入れ替わったとき。あまりにも邪悪で、二度と身体を明け渡すことなんてできないと思った。特級呪霊を殺したのは悠仁も願ったことだから手段は問わないとしても、伏黒に対する暴虐は許せないし、己から心臓を抜き取って殺したことも許せない。

 そういえば、いまだ生得領域で持ち掛けられた取引の意図もわかっていない。

 

 

 

 

 心臓を抜き取られたときのこと。()わば心のなかであるという生得領域(しょうとくりょういき)に、むかっ腹を立てた悠仁はいた。

 

「オマエが条件を呑めば心臓を治し生き返らせてやる」

 

 怒気に震える悠仁に、宿儺は告げた。

 ――ひとつ、宿儺が「契闊(けいかつ)」と唱えたら一分間体を明け渡すこと。

 ――ふたつ、この約束を忘れること。

 目的が不明だと意義を唱えれば「ならばその一分間誰も殺さんし傷つけんと約束しよう」などと言うし、本当に何を考えているのか分からない。言葉を尽くされたとて、理解もできないのだろう。

 なぜなら宿儺は人間とは理の違う、あくまでも〝呪い〟という存在なのだから。

 

「……聞きたいんだけど」

「なんだ、小僧?」

 

 羽虫を見るような目をして宿儺が問うたから、紅々とした複瞳を見上げて悠仁は尋ねた。

 

「お前の言う人間の(くく)りは?」

「傷付けない、殺さないという範囲は?」

「縛りはどこまで強制力がある?」

 

 条件、と宿儺は言った。

 ならばこれは契約に基づく制約である。

 不明瞭な内訳では、何が不利益になるか分かりやしない。内容を確認するのは当然だった。しかし、である。そもそもの話、取引に応じない選択肢もあるにはあったのだ。

 でも。

 

(この先も宿儺の器として生きていくのなら)

 

 悠仁が考える〝正しい死〟を迎えるまで生きていくならば、宿儺との間には一定の規則を敷かなければならないのもまた事実だった。

 

 故の、線引き。

 故の、境界線。

 故の、定め事。

 

 宿儺の表情が目に見えて歪んだ。苦虫を潰した面持ちで悠仁を見下ろし、忌々しいとばかりに呟いた。

 

「……ただ頷いておればいいものを」

「契約内容をきちんとお確かめのうえで、って言うし」

「脳内花畑そうな見た目に反して小賢しいものだな、小僧」

「今はお前も俺と同じ見た目だって知ってる? 水面覗けば? よおく映ってんよ」

 

 わりと自分にもダメージのくる返答を打ち返せば、禍々しい空間に乾いた舌打ちが響いた。苛立ちを隠さない姿に自分の対応が間違ってなかったと安堵する。

 宿儺の告げたように生き返ることが可能であるなら、先の選択は今後を左右するものだ。一歩踏み外せば、歩む地獄がさらに純度を増すのだと、考えることが苦手であっても簡単に予想ができた。

 だって。

 

(ちゃんと考えて)

 

 と、悠里は口癖のように言っていた。

 即決を求められることもあるだろうが、とご丁寧なことに注釈もして。

 

(でもこれはたぶん、すぐに頷いちゃけないやつだ)

 

 あとはもう一個。

 想像して、と悠里はよく言っていた。

 選び取った先のこと。悠仁が取った選択肢の、その未来のこと。しっかりと想像してから決めるべきだと記憶のなかで悠里が諭す。

 宿儺の指を飲み込んだときはとにかく必死で、満足に考えることなんてできなかった。呪いの王の器となったことに後悔はないけれど、きちんと考えていれば、また今とは別の未来があったかもしれない。

 だから。可能性があるのであれば。悠仁がきちんと考えて決めたことで、少しでも未来が明るくなる可能性があるのならば。

 けして得意じゃない、思考することも選択肢のなかに入れなきゃならない。

 

(まあ……なるべく、だけど)

 

 思い立ったままには行動しない、とは言い切れなかった。

 ほんのちょっとの情けなさを、けれど悠里はきっと笑わない。仕方ないなあと笑って、逆に言い切らないだけ誠実だよなんて何事もなく声を掛けてくれるだろう。

 黙り込み、思い出に浸かる悠仁の頬が緩んだ。

 

「なんだ小僧、この俺を前にして思い出し笑いか」

「そうだよ。お前を相手するのは疲れるからな。……どうせ相手するなら、ちょっとでも俺にとって良い方向に考えてやる」

「……生意気な」

 

 ふと、音が途絶えた。

 

 次の瞬間、襲ってくる衝撃。

 腹を殴られた、という気付きが遅れてやってくる。

 足首よりも上。混濁した水のなか、ぶつけられた力を受け流しながら転がる。巨大な骨の一端に背中が当たった。その反動で立ち上がる。

 両手で拳を作り、腰を低く構える。

 迎撃の準備。

 

 即座に臨戦態勢を組んだ悠仁に、呪いの王は――(わら)った。

 

「良い、此度の無礼は許そう。……どれ、オマエの言う条件とやらを確認してみようではないか」

 

 天上天下。

 唯我独尊。

 

 独裁者の傲慢さで両面宿儺は告げた。

 己が世界の中心だと信じて疑わない宿儺の何に琴線が触れたのかは分からない。

 ふてぶてしい態度でありながら、多少なりとも対話を強要してきた身勝手さに、とりあえず悠仁は応じることにしたのだった。

 

 

 

 

 その結果が「生きているのを隠している」という現状である。

 正確には〝生き返った〟ではあるのだが、現実的には考え難い事実であるため、詳細は伏せておく。宿儺の関与があったことは事実で、ただ露見すればそれはそれで面倒なことになる。

悠仁の生存を知る者は少ない。

 担任の五条、保険医の家入、補助監督の伊地知、一級術師の七海、そしてめでたく高専生になった――吉野順平その人である。

 

 

 

 

 

「はい、順平は終わり~」

「……あっ、……り、が、……とう、ございま、し、た……」

 

 五条に足払いをされて地面に転がり込んだ吉野は息も絶え絶えだった。

 すでに立ち上がるだけの気力も体力もない。目礼と、やっとこさ言語になったような礼を言って、電池の切れた時計のように沈黙した。

 

「ん、順平はもっと体力つけなきゃね。ここには比較対象が悠仁しかいないから自覚し辛いだろうけど、ちゃんと動けるようになってきてるから、この調子この調子」

「う、……は、い」

 

 返事もできない状態で褒められてもなあ、とは吉野の心の声である。

 ただでさえインドア生活を送ってきた吉野には、手加減してくれているとしても五条のしごきはスパルタだ。食らいついていく悠仁が規格外なのである。吉野は友人をちょっとばかし(うらや)んだ。

 

「順平、大丈夫か?」

 

 心配の声とともに手を差し出してくれた悠仁は友人である。

 同時に奪われるかもしれなかった命を救ってくれた恩人だ。

 人間から生まれたという呪い――真人から吉野の命を救ってくれて、心まで掬いあげてくれた、強いひと。

 反対に真人と言えば。

 

(……憧れみたいなものだったのかもしれない)

 

 憎悪に絡みついて湧いてくるのは、そんな単純でいて不可解な気持ちだった。

 吉野をいじめていた生徒たちを殺してくれた。世の中の仕組みを教えてくれた。理不尽さには怒ってみせてくれた。悲しみに打ちひしがれるときには優しい言葉をくれた。学校に通う教師や生徒とは違う、母親とも違う、そんな他人から与えられたものが嬉しかったのだ。

 

 ――たとえそれが仮初(かりそめ)のものであったのだとしても。

 

 信じていたから、裏切られたと感じるのだ。

 真人は最初から吉野のことを利用する気でいたのに、まったく気付けなかった。他人と自分は違う。どこか自分は特別であるという意識があって、吉野の目を曇らせていたんだろう、と今になって思い至る。

 

 自宅の遺体。花々の代わりに敷き詰められた保冷剤。

 惨劇の痕。血濡れた嵐が過ぎ去った後に遺った現実。

 

 泣き叫んで、名前を呼んだって喪った命は返ってこない。見るも無残にぐしゃぐしゃになった身体だって、人間としての尊厳を踏みにじられたようなもので。

 

 陽だまりが似合うひと。

 水槽よりも大海が似合うような、懐の大きなひと。

 

 そんなひとがこんな残酷な目に合うと言うのなら、きっとこの世に神様なんていない。

 何もかも壊してしまえばいい、自分にはその能力がある。自失する吉野への真人の囁きは、あまりにも甘美だった。

 母を悪意に晒した人物。そのときの吉野には思い当たるのは一人しかいなくて、衝動のままに学校へと向かった。碌に確証も取れないまま同級生を殺そうとして、駆けつけてきた悠仁に止められた。

 もしも悠仁が来なかったら、きっと吉野は赤い水槽に身を沈めていた。

 生きる場所は好きに選べばいい。そう宣言した母に顔向けができなくなっていた。夜の匂いがする学校で、吉野は確かに心と誇りを掬われた。

 そして語らいの途中で、呪いに関する情報に思考が止まった。

 人間の感情から産まれ堕ち、人間を害する存在。悪意に悪意を接ぎ足して固めた凶悪さで、善悪区別なく、在るべくして等しく誰かを呪う存在なのだとしたら。

 

「……あれ?」

 

 ――そういえば、どうして真人さんは僕に声を掛けたのだろう。

 

 おかしいのだ。両面宿儺の指だとかの知識も、そこからすぐに吉野が考える関係者の誰かが置いたと話が飛躍するのも、全部、全部おかしいのだ。

 

 なぜ気付かなかった。

 どうして考えられなかった。

 

「今頃気付いたの? 順平ってさ、賢いから短慮以上の愚行を招くんだよ」

 

 真人が嘲笑った。

 音もなく現れた(呪い)は、確かに悪意そのものだった。

 

 ――母さんが呪われたのは、僕のせい。

 

 絶叫。

 果てしない絶望。淵のない空虚。

 

 自らの命に手がかけられて思い知る、吉野に向けられた痛いほどの悪意。

 

(僕がしっかりしていれば、母さんは死ななかったかもしれないのに!)

 

 吉野のことを、吉野以上に案じてくれたひとだった。

 大事だった。大切だった。当然のように明日が来るのだと信じていた。照れくさくて普段は言えなかったけど、ちゃんと愛していた。

 

「かあさん……!」

 

 伸びてくる真人の手を見て自分も死ねるのかと後悔に落ちていく最中に。

 

「順平!」

 

 ――名前を呼んでくれた君のことを、僕は一生忘れはしない。

 

 目の前で真人が吹き飛んだ。

 吉野のことを、悠仁が背に庇った。少しだけこちらを振り返って「大丈夫か?」と心配してくれた心強さに、余計に自分が惨めになって、でも、絶対に助けるからと悠仁が笑ったから。

 

 ――一緒に戦おうと言ってくれたから、生きなくちゃ(戦わなくちゃ)と思ったんだ。

 

 真人が与え、

 真人が教え、

 真人が手解きした澱月(吉野の呪い)で、真人を殺すのだと決めた。

 

 それから先のことは、よく覚えていない。たぶんランナーズハイみたいになって、一時的に普段以上に動けていたような気がする。

 いつもなら顔を顰めるどころか動けないような傷を負っても痛みはなかった。凝り固まった筋肉を酷使してさえ苦しさも感じなかった。

 輪郭を持った殺意と、感謝の念。

 母を奪ったことへの殺意と、戦えるだけの力をくれた感謝。

 

 ――殺さないと。

 

 誰かと、強い感情を共有していた気がする。悠仁と、あとは上手く思い出せない。経験のないままに呪力を奮い、術式を行使し、死闘を繰り広げ、いつの間にか吉野は意識を失っていた。

目が覚めると知らない天上。

 それといかにも怪しいですといったふうな、目隠しをした男―――五条悟が囁いた「地獄へようこそ」という歓迎の言葉。

 意味不明な覚醒のなか、確かなことは、吉野が生きているということだった。

 

 

 

 

 

 虎杖悠仁が生きていると知られれば、間違いなく排斥しようと企む者たちがいる。

 そんな理由で身を隠している悠仁だったが、任務先で友人になった吉野が傍にいることは、宮城ではついぞ参加することのなかった合宿を思わせた。友人とお泊り、強くなるための修行、どこぞのバトル漫画を連想させる展開だ。そうなれば俄然気合も入るというもの。連日悠仁の機嫌は晴れ渡っていた。

 反対に吉野の機嫌は、というよりも体力は瀕死だった。悠仁が規格外であるのは当然のこと、体術を教える五条もそれはそれはもう規格外、加えて水面下で行われた高専への入学時に会った学長の夜蛾正道とて例外ではなく。試練に続く試練に身体が悲鳴を上げていた。

 

「はい、というわけで!」

「……どういうわけですか?」

「悠仁には交流会に参加してもらいま~す」

 

 テンションの高い五条に、吉野がツッコみを入れるも、いっそ清々しいまでの無視である。本題と言わんばかりのセリフに「ちなみに順平は観客ね」と続いた。

 

「ねえ、先生」

「はい、悠仁君!」

「交流会って何でしょーか?」

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「僕も悠仁君も聞いてませんよ……」

「ん~、簡単に言うと、――殺す以外なら何してもいい対校呪術合戦さ」

「対校?」

「呪術合戦?」

「はは、二人とも一般家庭の出だもんね。よくわかんないか」

 

 いまいちピンときていない悠仁と吉野に、五条は人差し指を突きつけた。

 

「日本に二校しかない呪術高等専門学校は東京と京都に設立されているのは前も説明されたよね。一応京都とは姉妹校と銘打ってはいる。まあ、いざ交流会になったら殺伐としたもんでさ」

 

 学長の方向性も含むのだろう。

 

「革新派の東京、保守派の京都。まあ京都が古き良きを守るって風体を保ってるんだけど、僕はこれが大嫌いでね」

 

 腐った蜜柑のバーゲンセールってヤツ、と五条が冷たく告げる。

 

「保身に世襲、高慢ってやつらをごちゃまぜに煮詰めた闇鍋。ときに人間としての尊厳を踏みにじるような魔窟……まったく、いつの時代なんだか」

 

 馬鹿々々(ばかばか)しい――呪力を持つ者と、持たない者との扱いの差。優秀な女性の基準が術式を持つ子を産める胎を持っているかどうか。術式が継がれたとしても、相伝ではなかった場合。血で血を洗うような、凄惨な後継ぎ問題。――淡々と五条は吐き捨てた。

 

「伝統を守る? 血を保っていく? それが世界を守ることに繋がる?」

 

 五条の教師としての皮を殴り捨てたような物言いだった。

 矢継に重ねられる言葉。人間としての本音に感じる凄みを間近で浴びて、悠仁と吉野は息を呑んだ。

 それから、一般家庭で培われた常識が呪術界へと嫌悪を抱かせる。

 

「ふざけてるだろ?」

 

 今をなくして未来は有り得ない。

 過去に縋りついては、今をも守れない。

 理想論とも呼べるそれらは、けれど綺麗事であるが故に他者の心を打つ。

 悠仁と吉野、若人(わこうど)二人は本来大人に庇護されるべき子どもだ。本当なら平穏な日常を享受していれば良かっただけの、どこにでもいるような高校生だった。なのに〝呪い〟に巻き込まれ、そして飛び込み、だからこそ彼らはもう、世界が綺麗事だけで成り立たないことを知っている。

 

 けれど。

 世界が綺麗事でしか変えられないのを、大人よりも柔らかい心が、ほんの少しだけ知っているから。

 大人の目論見に、ほんのちょっとだけでも、自分たちの働きが手助けになればと思った。

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