あなたを生かす、呪いになれたら   作:端取合

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いつかきっと裁かれる罪


第三章 積み重ねるもの

 

 

 

 

 落ちていく。どこまでも深く。

 沈んでいく。かなたまで遠く。

 

 腐敗寸前まで熟れた闇だった。泥沼の如き夜一色で塗り潰された場所で、ただ繰り返し、抵抗らしい抵抗もできないまま奥底へと潜っていく。

 

 ふと、反復する夜闇のなか。

 

 綺羅星が瞬いた。むせかえるような光の匂いがした。数多の花びらが鮮やかに視界を埋め尽くす。甘やかな温度に包まれて、満たされていく。

 閃光、眩さに思わず瞼を閉じた。

 薄い皮膚越しに光が淡く変わったのを感じて、ゆっくりと視界を開いていく。

 

 はて、やわい日差しのなか。

 

 花びらが散った。辺り一面に広がる桜が晴れやかに咲いた。いつの間にか、水底ではなく花々の寝台に横たわっている。

 天上に向かい、上手く動かせない身体に鞭打って、手を伸ばす。

 伸ばすというよりも、思いがけず浮かんだ、に等しい動作だった。外界からの作用が、偶然にも自らの意思に一致した感覚。なんとなく上手く重なったそれは、時間にすれば数秒にすら満たなかったけれど。

 瞼の裏に、灯りを残して。

 

 どうしようもなく求めてやまなかった目覚めを女にもたらした。

 

 

 

 

 死んだと思っていた。

 もう二度と会うことはできないと、そう思っていた。

 

 等級違いの任務で釘崎(くぎさき)野薔薇(のばら)は同級生を喪った。

 会敵しても絶対に戦わないことを前提とした任務だった。変態前の呪胎(受胎)――相対するは特級に相当する呪霊で、自らが冠する等級よりもはるか上級に位置していた。比例して難易度は高かったが、任務内容はあくまでも生存者の確認と救出が目的のはずだった。

 

 その()()だったのだ。

 

 しかし蓋を開けてみれば「あくまでも」で終わる話ではなかった。

 気の置けない同級生との任務だ。他人と行動するよりも動きやすいだろうな、落ち着いて臨めるだろうな、という考えはあった。ただし油断をした覚えもなければ、気を抜いた覚えもない。

 指定された建物に入った途端、世界が変わった。

 外観からは想像もできない景色が広がって、虎杖と伏黒の起こしたひと悶着の最中、釘崎は別地点に飛ばされた。数えるのも馬鹿らしくなるほどの仮面と対面し、不気味さを凝縮した呪霊を祓って、祓って祓って、祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って祓って……――、攻撃手段も自衛手段も尽きて飲み込まれそうになっているところを、伏黒に助けてもらった。

 

 そうして。

 気を失って、目が覚めたら。

 

(全部終わってた)

 

 纏わりつくような微睡みから解放された先、告げられた同級生の訃報(ふほう)

 思い浮かぶのは笑顔ばかりだった。他の表情も見てきたはずなのに、能天気に笑う姿ばかりが記憶へと鮮烈に焼き付いて離れない。田舎から上京した釘崎にはじめてできた、呪術師の級友が、死してなお他人の心のなかでさえ、笑っている。

 

(ふざけるな)

 

 と、釘崎は思った。

 本人には口が裂けても言わないが、よくできた人間だった。伏黒みたいに言うなら善人で、自身のことを大事にする以上に、他人を優先するような人間だった。子どもにも似た怖いもの知らずさで両面宿儺の指を飲み込んだとは言え、

 

(誰かに貶されていい人間じゃない)

 

 と、釘崎は信じている。

 虎杖は強かった。同い年でありながら一般人として過ごしてきたからこその〝呪い〟への知識のなさを棚に上げても、虎杖は強かった。

 

(それでも、虎杖は死んだ)

 

 人格も、強さも、関係なかった。

 誰しもへ訪れる死は躊躇いもせず、あっという間に虎杖を飲み込んだ。

 遺体が棺桶に横たえられても、肉体が焼けたあとの骨が残っても、墓に収められても、明るい表情の遺影を飾っても、榊と線香が供えられた仏壇に祈っても、死んだ人間が生き返ることはない。どれほど悼もうと覆らない理は普遍のものだ。一般人よりもよほど死に近い環境で生きている自分にとって、それは覆ることのない真理だった。

 

 命が有限だと知っていて、尽きた命が蘇ることがないのもまた同じで。

 

 だからこそ死んだはずの同級生と再会することになるとは、(たば)ねた(わら)の一本ほどの想像もしてなかったのだ。

 

 だと言うのに。

 京都姉妹校交流会、顔合わせの最中。

 海外出張から帰国したという五条が、京都校の生徒たちに土産を手渡したあと、意気揚々に「故人の虎杖悠仁君でぇーっす‼」なんて(のたま)ってくれやがった。

五 条の操作するワゴンカートには大きな箱が載っていた。掛け声とともに閉まっていた蓋が音を立てて開くと、死んだと聞かされていた同級生が、こちらの気も知らずにおちゃらけて登場してきたのである。

 

「おい」

 

 そのときの、血が煮え(たぎ)るような思いを。

 深く突き刺さった釘が抜けるような思いを。

 

 何と呼ぶべきなのか、相応しい名をいまだ見つけられていない。

 

 悲しさ。生きているなら生きているで、どうして知らせてくれなかったんだ。

 悔しさ。呪いは祓ったけれど、手段尽きる最後のときまで呪術師らしく呪ってみせたけれど。死に立ち合うことすら、できなかった。

 嬉しさ。生きていてくれた。こうしてまた、顔を合わせることができた。

 情けなさ。いざ前にすると気が利いた言葉なんて出てこなくて。守ることができなかったのと、最期に「長生きしろよ」なんて言わせてしまった自分の弱さ。

 全身を渦巻く感情の整理ができなくて。でも大勢がいる場で取り乱すこともできない。

 なけなしの意地が、ようやく釘崎の口を開かせた。

 

「……何か言うことあんだろ」

 

 恨み言が、水に濡れてはいなかっただろうか。

 滲み、ぼやける視界の端の雫が、零れはしなかっただろうか。

 

 喪失を抱えることになったこちらの気持ちなんて、虎杖は知らないんだ。ちょっとくらい困らせてやっても(ばち)は当たらないだろう。あたふたする虎杖を、釘崎は形ばかりに睨んだ。

 

 

 

 

 

 悠仁はどこから取り出されたかもわからない黒い額縁を持ち、身を縮こませて座っていた。

 普段通り、とは言い辛い動きだった。額縁内からはみ出さない程度の自主的な動作制限は傍から見れば生きた遺影である。五条の言う通りに登場してみたは良いものの、悠仁の単純な頭でさえサプライズ失敗を示していた。

 死んだことになっていた事情を、と言うかそもそも死んだのは事実であるのだが、必要性とともに説明する。

 

「許してやれって」

「喋った‼」

 

 肩を持ってくれたのはパンダ(パンダ!)で、

 

「しゃけしゃけ」

「なんて?」

 

 おそらく援護射撃をしてくれた先輩の言葉は、なんと食材(食材!)だった。

 

 パンダと狗巻棘の二人は、ここ呪術高等専門学校の先輩にあたるのだと言う。呪言師についてを含む紹介を伏黒から受けながら、もう一人の女の先輩――禪院真紀からの「屠坐魔(とざま)、返せよ」の催促に冷や汗が溢れた。なにせ該当の武器は破損して行方知らずなもので。

 そんなふうに初対面の先輩たちに間を取り持ってもらいながら、交流会開始に向けてのミーティングは進む。

 伏黒や釘崎と一緒に任務にあたったことはあるし、二人には内密で一級呪術師の七海と組んだこともある。五条に連れられて吉野と任務に行ったこともある。誰かと背中合わせに戦うことははじめではないが、命の懸かってない実践で、自らの力を試せるという絶好の機会に胸が躍る。

 そういった意味では、はじめての団体戦。

 期待はしてないと言われど役目を任されたのだ、良い意味での緊張感に気が引き締まる思いだった。

 

「勝つよ、俺」

 

 負けたくない理由がある。負けられない理由もある。悠仁の私情も全部ひっくるめて、絶対に勝つと決めた。

 

 

 

 

 

 同時刻、呪術高等専門学校敷地内。

 コツコツと音を響かせて悪意の権化(ごんげ)は闊歩していた。

 ()()いだ縫い目が印象的な身体。身に纏う不気味な空気。

 顔に張り付けた笑みは無垢なままに、糸で縫われたような腕から繋がる手は、無残に潰れた肉塊を掴んでいた。ひしゃげた肉の質量をものともせず、床の些細な摩擦とともに、ずるずると引き摺っている。

 新しく作られていく(わだち)は赤く、そして赤い。

 錆びた鉄の臭いは、鮮やかに床を這う色彩が源であるに違いなかった。不穏さを帯びた空気に乗って、赤く染まった臭気の範囲を広げていく。

 

「頼まれたものはしっかり回収しなきゃね」

 

 ぺろり。喰べるように舌舐めずり。

 人間から生まれ落ち、人間の形をした悪意の権化――〝呪い〟の名を、(しん)なる人間(にんげん)と書いて真人(まひと)といった。

 

 

 

 

 

 目が覚めると見知らぬ天井。

 ぼやけた意識に浮かんだセリフが現状のすべてだった。

 友人の結婚式でこともあろうか呪い騒動に巻き込まれて、死ぬ寸前で大事な家族に会えて、最終的に二度目の生に終わりを迎えたと思っていたのに。

 

(生きてる、ん、だよね……?)

 

 ここまできて半信半疑。

 思わず頬に触れて、これが現実であると、ようやくのことで実感する。

 誰が死んでもおかしくない状況だった。悠里が呪いを視認できると言っても、呪術師のようなことができるのかと問われれば答えは「否」だ。出来ることと言えば一般人の域をはみ出さない程度。呪術師のようには祓えやしない。

 それでも前世――と表現しても良いのかはわからないが――の記憶と、無駄に広く浅いオタク趣味が、かろうじて対抗策を組み立てている。

 

 要は暴論。

 要はこじつけ。

 

 ぼんやり(かじ)った程度の付け刃で、(いちじる)しく信憑性に欠ける知識だ。本職である呪術師たちからすればお粗末(そまつ)極まりない自衛だろう。しかし実際効果はあったのだ。少なくとも宮城で暮らしていくには充分だった。

 

 巻き込まれたくなかった。見えていると知られなけば関与されないと()()していたから、知らないふりをした。

 祓うだけの力は持たなかった。浄化されれば消えると()()していたから、もっぱら逃げ込む先は神社や教会だった。

 

 やむを得ず巻き込まれて逃げ込む先がないときは、古今東西邪悪なものに効くと()()されているから、信心深くもないのに祈りを捧げてみたりした。

 

 自分の身は、そうやって守ってきた。

 

 ――ほんとうは。

 ――何も知らないまま生きていたかった。

 

 もしも叶うのなら、世界の裏側があることなんて認めないまま生きていたかった。

 人間から生まれ落ちたにも関わらず、人の理から外れた〝呪い〟という存在。以前の日常にはなかった未知のものは恐怖の対象でしかなくて、けれど、古くの記憶が「家族を守れるかもしれない」と囁いたから。

 怖気付(おじけづ)く心と身体を叱咤(しった)して、今まで生きてこられた。

 その生ですらも、数多の犠牲を積み重ねてきたものだ。

 

 世界が架空の物語であった記憶を持っていることは、訪れる可能性のある未来のひとつを知っていることと同義だった。

 

 なにが。

 どこで。

 誰が。

 どうやって。

 いつ。

 

 ――()()()()()()、を悠里は知っていた。

 

 傷付く誰かを知っていた。

 喪われる命を知っていた。

 なのに何もできなかった。

 

 呪いは見えども祓えはせず、肉体は多少頑丈であれど天性の身体能力は持たず、精神年齢はそれなりに高けれど天才的な頭脳は持たず、愛想はあれど周囲を巻き込まるほどの性質はなく、――物語で活躍する主人公のような特別な素養を、いつだって自分は持ち得なかったから。

 そんな悠里に何ができるとも思わなかった。

 違う、何もしようとしなかったの間違いだ。

 

 口を噤んだ。

 瞼を閉じた。

 耳を塞いだ。

 

 遠くの犠牲を素知らぬふりして、今まで生きてきた。

 呪いを祓うことができなくても情報を伝えるだけで何かが変わったかもしれない。悠里にはできないことも、他の誰かなら為し得ることができたかもしれない。

 

 でも、できなかった。

 

 幼子の戯言だと受け取ってもらえればいいが気狂いと罵られるかもしれなかった。もしくは未来が視えると誤認されて捕えられるかもしれなかった。最悪、殺される未来だって考えられた。

 知識があることは、知恵があることは、つまり様々な未来(もしも)を考えられるということで、原作から知る呪術界を考慮すれば到底手を出すことなどできなかった。

 自分の命を、誰か他人のためには懸けられなかったのだ。

 保身に走った悠里を誰が責められようか。自分の命あってこそ、他者の命は感じられるものである。生きたいと願うことは罪ではない。生きるために身を守ることもまた同じく、罪ではない。

けれど見捨てるという選択をしたのは紛れもなく事実だった。

 命に貴賤(きせん)はなく、優劣すらもない。主観による好き嫌いはあれど、誰かにとっての誰かは等しく価値のあるものに違いなかった。大切なものが定まった悠里にはそれが痛い程よく分かる。

 にも関わらず何も行動を起こさなかったことだけは、確かに悠里の罪であるのだろう。

 

 異形の姿が見えること。

 人の命を見捨てたこと。

 

 二度目の生にしてこの仕打ちは残酷だ。()()()()変わらず一般人である悠里には荷が重いと感じるが、それをもう不幸だとは思わない。

 むしろ僥倖(ぎょうこう)、感謝さえしている。

 

 友人を守れた。

 家族を生かせた。

 

 身勝手な自分には過ぎたる、そんな幸福を受け止めて死んだと思っていたのに。

 

「……生きてる」

 

 嗚呼、自分はまだ。

 こうして生きているのだ。

 生存を噛みしめて現実を飲み込む直前。轟き、響いた、――爆発音に、悠里は大きく目を見開いた。

 

 

 

 

 

(目が覚めて爆発音とは?)

 

 どこかもわからない場所で、ただならぬことに巻き込まれていることだけは理解できた。

 どれほど眠っていたのだろう。重い身体に力を込めて、ゆっくりと上体を起こす。見渡せどやはり思い当たる節はない。

 病人用のベッド。身体に当てられた枕。薬品の匂い。鼻に挿入されたチューブ。脱ぎ着がしやすい造りの寝衣。

 寝たきりだった悠里を生かしていたそれらに見覚えはなく、どうしたものかと考えていると、聴覚が足音を拾った。

 障害物がないのか、それとも器用にも避けているのか。途切れることなく音は駆けている。それは悠里のいる部屋の前で止まり、

 

「……え?」

 

 変わった制服に身を包んだ少年の声とともに、扉を開けて飛び込んできた。

 気まずい沈黙が落ちた。

 なにせ初対面の人間同士。しかも片や息を切らして入室してきた少年、片やベッドに座った少女である。談笑せよというほうが無理な話だった。

 

「え、っと、虎杖悠里さん、で、合ってるよね?」

 

 混乱しつつも開口したのは少年であった。

 悠里への本人確認にゆっくりと頷けば、少年は小さく息を吐いて「僕は吉野順平です」と自らをそう名乗った。

 

「よろしくお願いします……?」

「あ、よろしくお願いします」

 

 お互い何をやってんだ状態で成り立った会話はたどたどしい。(はた)から見れば可愛らしいものであったが、悠里の心中は穏やかではなかった。

 

(吉野順?!)

 

 生きていて嬉しいと思う。

 同時に何故生きているのだと疑問が浮かぶ。

 相反する思いと疑問は、悠里が呪術廻戦という物語を知っているからに他ならなかった。

 原作で死んだはずの人間が、――そもそも死んでいる時系列ではなかったとしても――知らない場所で悠里とこうして接触しているのはなぜなのか。

 

「虎杖さん」

 

 吉野の呼び掛けが脳内を巡る思考に終止符を打つ。

 

「意識が戻ってすぐにこんな状況だもんね、すごく混乱してると思う。でも説明させてほしい。訳がわからないかもしれないけど、それでも今は納得してほしい」

 

 突拍子もない話をするぞ、と。

 それでも信じてほしいのだ、と。

 

 理不尽なことを、けれど真摯な態度で吉野は言った。

 嘘を吐くような子ではない。反則のような知識で知っていたから、返事の代わりに一度、悠里は首を縦に振った。

 

 

 

 

 

 吉野順平という少年は、虎杖悠仁という人間に救われた。

 〝呪い〟というもの――世界の裏側について、おおよそを説明するだけだ。時間に余裕はないのだし詳細を話す必要はないのだが、思い出される記憶はあまりにも陰鬱(いんうつ)として、(ゆが)んだ感情が引っ張り出されそうになる。吉野の心を無遠慮に突っついては取り繕った冷静さを崩そうとするのだ。

 

(でも今は、……)

 

 吉野は瞼を閉じた。

 大きく息を吸う。肺をぺしゃんこにするつもりで、静かに、ゆっくりと吐き出す。

 

 吉野は瞼を開けた。

 向かい合った少女の容貌は恩人である少年と似ているわけではないのに、どこか雰囲気が似通っていることに気付く。

 

 吉野が知る虎杖悠里という少女は、ずっと寝たきりだった。実際に悠仁と会話をしているところを見たことはない。ただ確かに二人は家族なんだなあと感じさせる何かに、守らなければ、と強く思う。

 

 だって吉野は悠仁に助けられた。

 だとすれば今度は、吉野が誰かのことを助ける番だった。

 

 自分の成すべきことを再確認する。暴力的な感情に振り回されている暇も、過去を嘆き蹲っている時間もない。縋りついてくる過去を無理矢理に振り払って、現状を語っていく。

 

「ここは今、攻撃を受けている」

 

 現在地が東京にある呪術高等専門学校に位置すること。一般人には見えない〝呪い〟を専門に扱う、拠点ともされるこの場所が、敵対する組織に所属する侵入者を許してしまったこと。

 

「だから助けを呼ばなくちゃいけないんだけど、生憎頼れる大人は音信不通で孤立無援。どうにか戦おうとした人たちは、たぶん、……死んでるんだと思う」

 

 スマホの画面に並ぶのは発信履歴ばかり。

 加えて高専内にいる職員だとて、その全員と連絡先を交換したわけではない。正しい被害状況も把握できない状況にあった。

 スマホが繋がらなければ外部に助けを求めることも、――

(……外部?)

 

 ああ、そうか。

 そうだった。

 

(今日は外部から人が来てるじゃないか!)

 

 五条も引率を務める教師の内の一人だという、京都姉妹校との交流会。

 参加者は手練(てだ)ればかりで、呪術に関してはずぶの素人吉野は留守番だったが、もしもその実力者に助力を()うことができさえすれば、状況も変わるかもしれない。

 

 一番の難関となるのは侵入者がおそらく()()であるということだ。

 

 薄気味の悪い気配がする。刺すような、それでいて絡めとるような、そんな呪いの帯びた空気は、 吉野だからこそ知覚できたのかもしれなかった。一時期とは言え真人を慕い、すぐ傍で教えを受けていたのだから。

 また自らの術式を手にしてそれなりに扱えるようになったことで、人の世を害す呪いへの理解は格段に深まった。穏やかな日常の喪失を埋めるように詰め込んだそれら――呪霊、発生、原因、等級、呪術、御三家、残穢、……――数多の世界の裏側は、吉野の能力を飛躍的に成長させた。

 真人という呪いの存在を知り、離れた場所からでも感知できるだけの実力をも持ち合わせている。

 だからこその躊躇いがある。

 真人が目的もなく行動するはずがないという確信が、得体の知れない不気味さになって、警鐘を鳴らし、短絡的な行動を(いさ)めている。

 

(気取られずに助けを求めるなんてできるか? 絶対に邪魔してくるだろ

(というか逃げられる?

(そもそもの目的は?

(僕が狙い? いや、それはない。わざわざ専内に侵入するリスクを冒してまでするようなことじゃない

(なら七海さん? 興味があるようには見えなかったけど

(悠仁が目的ならまだわかる。呪いの王の器なんて面白いだろうし、戦いも楽しんでたみたいだった。でもこんなリスキーな方法を取らなくても、こうもっとタイミングががあったはずだろ

(え、でも待って。悠仁の生存って隠されてるんじゃなかった? 書類上では死亡として偽装してるって聞いたんだけど。まず第一に同級生にも伝えてないレベルの秘匿具合。だったらどこから漏れた?

(悠仁が狙いじゃない可能性もある?

(なんにせよ真人は無策に単独で敵の本拠地に乗り込んでくるほど馬鹿じゃない。たぶん協力者がいるはずなんだ

(呪術師の敵は……呪霊と、あとは呪詛師?

(会話が成り立つ呪霊がいるとは五条先生からも聞いたけど、わざわざ高専内に忍び込んでくるメリットがない。呪霊が徒党を組んでまで高専を襲撃するもの?

(本拠地をただ攻めてくるなら無謀だけど理には適ってる。本丸みたいなものだもんね、ここが落ちれば後はなし崩しに呪術師の形態は瓦解していく

(……というかそこまで呪霊が裏を読めるもの? もしかして参謀役がいるとか?

(獲れるもんなら首級(しるし)がほしいけど潰すなら末端。大将でも炙り出したいわけ? そんなチマチマやってたら非効率じゃない?

(あ、五条先生と連絡がつかないのってそういうこと?

(でも分断されて困るのは五条先生じゃない。ジリ貧な弱者、僕たちのほうだ

(なら狙いは?

(高専にあるもの? なんか貴重な資料とか? 呪具とかも保管されてるんだっけ? 警備の説明でなんか特殊な結界が張られてるとか言ってたし。……お宝とか? どこにも出せないような、代物的な、感じ、の……――)

 

 ああ、そうだ。

 あるじゃないか。

 

「……両面宿儺の指だ」

 

 高専内に保管されているもの。価値のあるもの。

 呪霊にとって、何が一番美味しい目的となるのか。至った考えに、全身の血の気が引いた。

 

 

 

 

 

 真人(呪い)両面宿儺の指(特級呪物)を強奪しに呪術高等専門学校に侵入した。

 呪術師の拠点地とも呼べる、要の場所だ。敵地へと単身乗り込んできた真人の行動は、一見後先省(あとさきかえり)みない強硬手段にもとれる。しかし目的に思い至った吉野は、全身の血潮が引いていくのを感じた。

 

 特級呪霊が特級呪物を獲るということは、呪いが呪いを手に入れるということだ。

 それはつまり「人に害なす存在が、人に害なす物を扱う」ということに他ならない。

 

 呪霊を馬鹿にしているわけではないが、人間の悪感情から産まれた存在の、その思考のなかに協力の文字が刻まれているかは疑問である。徒党を組むよりも、独裁的な行動原理で動いている個体が多い。個人主義であるからこそ狡猾に、排他主義であるからこそ貪欲に、自らの本能に従って人間を呪う。有象無象の介在する余地はない。

 呪詛師が噛んでいるのではないか、と吉野は睨んだ。

 まだ真人の背景に誰がいるのかは予想段階ではあるが、意図引く人物が何者であれ、高専へと直接手を出してきたあたり碌なものではないに決まっている。

 

(どうすればいい?)

 

 連絡先を知らなければ外部協力者へ助けを求める手段はないし、スマホは通じない状況にある。

夜蛾や五条に報告しようにも、同じ敷地内とは言え姉妹校交流会のため離れた場所にいるのだから、物理的距離が空いている以上こちらの危機に気付きようもない、頼りにできる教師陣にも救援は望めない。

 

(校内にいる職員さんや、あとは呪術師さえも真人に勝てるとは思えない)

 

 真人に関われば関わるだけ被害は広がっていくだけだ。

 母を喪い、普通の日常を失った吉野だからこそ、冷静に危険性の判断ができる。どう立ち向かおうが真人相手に戦って、自分たちに勝ち目はない。

 校内にいる人間は避難に徹すべきだ。

 

(……どうやって?)

 

 逃げ一択、というのは簡単だ。

 では、戦略的撤退のための情報共有する方法はどうするというのだ。

 

(呪力を感知しながら地道に探す?)

 

 効率的じゃない。なにより吉野が探し出すより先に、真人に見つかって殺されるほうが早い。無駄に犠牲が増えていくばかりだ。

 見捨てて逃げる選択肢もあった。

 敵わないのは痛いほど理解している。自らの身と、悠里を守るのであれば、自分たちだけでも即時撤退したほうが確実だ。

 けれど。

 

(見捨てることなんて、できるはずないじゃないか)

 

 喪失を抱えた吉野に、ここの人たちは良くしてくれた。

 それは呪われた人間への同情だったかもしれない。あるいは母を喪った子への哀れみだったのかもしれない。

 以前の吉野であれば余計なお世話だと吐き捨てて終わったことだろう。何も知りはしないくせにと詰って、どうして助けてくれなかったんだと責め立てて、当たり散らしたことだろう。

 

 しかし吉野は知ってしまった。

 

 残酷な世界の裏側で、けれど戦って傷付いている人間がいる。お世辞にも良好とは言えない状況下で、それでも他者への(おもんぱか)りを忘れない心が、どれほど尊いものであるか。呪いの渦中の人間になって、当事者になって、はじめて知ったから。

 

 どんな思惑があってもいい。

 だって確かに吉野は救われた。

 

 与えられた分は与え返したい。報われた分は応えたい。そういうふうに考えることができたし、いつか、そういうふうに全部のことが循環していけばいいと思う。

 

(なのに、なんでっ……!)

 

 助けるための方法が吉野の手中にはない。

 真人を祓うだけの実力もなければ、被害を少しでも減らすだけの能力もなく。立ち止まっている暇はないのに、時間だけが少しずつ経過していく。

 

「吉野君」

 

 悠里の呼びかけに、俯いた吉野の顔が上がる。

 

「この状況で、今したいことは?」

 

 できることはある?

 問い掛ける悠里と視線が合った。しっかりと前を見据えた瞳は揺らぐことなく、吉野よりもずっと混乱しているだろうに、よほど理性的だった。

 

「……校内にいる人達に現状を伝えたい。侵入者と戦っちゃ駄目だ、犬死するだけから。でも一人一人探し出して伝えるような余裕はない」

 

 とにかく簡潔に。分かりやすく。

 何をしたいかだけを訴える。

 

「ここ、学校なんだよね?」

「え、うん。そうだけど……」

「だったら放送室に行こう、場所がわからなければ職員室。そこにマイクがあったら全校放送、でもって、なかったら持ち運び用のスピーカーを探そう」

 

 やはり自分は冷静ではなかったらしい。想像以上に慌てていたことを再度自覚する。言われてみれば、訓練中にも校内放送を耳にしたことがある以上どこかにはあるだろう。

もっともな悠里の提案に頷き、吉野たちは行動を開始した。

 

 

 

 

「連絡します!」

 

 高専内に放送が響いた。

 

「現在、当校は襲撃を受けています! 未登録ではありますが特級呪霊に相当、狙いは両面宿儺の指と思われます! 七海一級術師が重傷を負い、健闘惜しく取り逃がした呪いです! 相対したらまず殺されます。即時撤退してください!」

 

 懸命な少年の声に対し、説明は簡素だった。

 守るべきものを放棄しての撤退に対する躊躇と、会敵した際の一級術師の状況への理解により、校内に残った一同はすぐに退却の方向へと行動を移した。

 

 ――不可視であるはずの呪いが見える。

 ――一般人よりも戦う術に優れている。

 

 それこそがまさに呪いのような(ごう)に、けれど持ち得る者こその矜持(きょうじ)が、補助監督や呪術師にはあるように思う。担った任務を当然のように全うし、終われば次に向かう。恐怖も憎悪も飲み込んで、命を懸けて戦って、なおも戦い続けている。

 だからこそ彼らは引き際の見極めにも優れている。

 

「繰り返します、即時撤退してください!」

 

 呪いが見えるという同じ穴の(むじな)への信頼。

 同じ世界で生きるからこその、一級を冠する呪術師の実力への信頼。

 すべては只人には不可視の世界を共有する者たちへの、絶大な信頼からくる判断だった。

 

 ――無駄死はできない。

 ――逃げ伸びて、情報を届ける。

 ――救援を呼ばなければ。

 

 数秒にも満たない限られた時間のなか、言葉は交わさずとも意思は共有された。

 パソコンを起動する者、スマホを開く者、帳を下ろす者、避難口へと移動する者、――各自、己が成すべきことを成すために動きはじめた。

 

 

 

 

 あれ、と真人は呟いた。

 校舎に響き渡った声に聞き覚えがあったからだ。

 

「順平じゃん」

 

 世の中を斜めに構えて見ていた人間だった、と真人は過去を振り返る。

 

 正義感を持つのにどこか卑屈で。

 賢いからこその傲慢さを抱えて。

 

 ひどく生き辛そうな人間だった。逃げはせども、弱さを言い訳にすることなく生きる子どものことを、飽き性な真人にしては可愛がった記憶がある。

 肯定してあげた。利用するためではあるけど、色々と――世の中のことを、魂のことを、呪いのことを、――ちゃあんと教えてあげた。最終的には呪おう(特別にしてあげよう)としてあげたのだけど。

 

「邪魔されちゃったしなあ」

 

 とびっきりの贈り物の前に。

 両面宿儺の器である虎杖悠仁に妨害された。

 魂の形を変えられる機会なんてそうそうないだろうから、無為転変の話を身近で聞いていた吉野が、実体験してみたら面白いんじゃないだろうか。楽しそうな案を実行しようとしたのに、虎杖にはいい気分のところを妨げられた。だからきっと真人は怒っていいはずなのだ。

 

(あ、でも今なら会えるのか)

 

 真人は思い付いた。

 自分の考えに何度も頷いてみる。

 

「んー、こっちだね」

 

 本来の目的を忘れたわけではない。

 両面宿儺の指を奪う。呪胎九相図を奪う。

 奪ったものを持ち帰る。忘れたわけではない、のだが。

 両面宿儺ほどでなくとも、真人という呪いは己の快不快に行動を左右される性分である。

 人間から産まれた呪いであるが故の合理的な考え方はできるが、同じくして真人という呪霊は人間から産まれたのである。気ままに、身勝手に、面白可笑しく、ただただ自由に人を呪う。

 故に、関心の赴くままに振る舞うこともまた何らおかしなことではなかった。

 

 

 

 

 

 寄ってくる気配を悟り、吉野は自らの感知能力に感謝した。

 

(そう来ると思ったよ!)

 

 真人は子どもだ。

 一級術師である七海はそう表現した。

 言い得て妙だった。吉野を肯定し、世の中について教え、大人然として導く姿とともに、思い返される真人の言動はどこか稚拙さを残すものだったから。

 好奇心に満ち溢れていた。

 世界を別視点から見ていた。

 

(身軽で、自由で、どこまでも気ままで、……)

 

 今になって察するなんて本当に目がなかったものだ。

 ひょっとしたらあのときは、見えないふりをしていたのかもしれない。自分の都合の良いように応えてくれる大人として、勝手に縋って、裏側で嗤っていることに気付けなかった。

 憧れていなかった、と言えば嘘になる。

 学校で上手くいかなかった吉野を肯定してくれたことは感謝している。最悪吉野を呪おうとしたことも納得はできずとも、そういうことだったと理解はできる、

 

 ―――けれど。

 

(邪悪な〝呪い〟だ)

 

 母を巻き込み、殺したことは。

 大切なひとを害すのであれば。

 

 ――絶対に許さない。

 

(子どもが蟻を踏み潰して遊ぶような気軽さで人間を殺すんだろう。そして強情な子どもみたいに、殺そうとした人間が生きていることを、きっと真人は許せない。結果的に邪魔をした悠仁のことだって腹立たしく思っているはずだ)

 

 そんな奴のためになんて、軽々しくは――死ねない。

 真人がこちらを害す気であるのならば、吉野だってどんな手段を使ってでも抗ってやる。

 

「虎杖さん! 敵がこっちに気付いた! 向かってきてる、予定通り逃げよう!」

「了解!」

 

 決意を胸に、協力者とともに駆けだした。

 

 

 

 

 

  呪術高等専門学校は東京郊山のなかに建立されており、広大な敷地面積を誇る。

  平凡とは程遠い授業内容であれど「私立の宗教系学校」と銘打っている以上は、外部からの印象操作も兼ね正式な校舎が建築されているのは当然として、生徒たちが切磋琢磨し自身の能力を存分に鍛えることができるよう校舎近くには広々とした校庭が広がり、校内にはいくつかの道場が造られ、校外には自然環境が残されていたりする。

 呪具や呪物の保管、もしくは封印、といった専門性の高い業務を担っているのも知られているだろう。

 また呪術師の任務斡旋、そのサポート活動をしているのだから、呪術界の要と呼ばれるに相応しく、それなりの施設も整えられている。

 さらに守りの主である結界に関する設備がある地下を含めれば、広大と一言に括っても、その複雑さを簡単に説明することはできない。

 施設設立のために開拓された山ではあるが、地形を利用するために、意図的に人間が手を入れてない部分がある。自然環境をそのままに現存させた山からは、暴力的なまでに命の気配がする。

 

 虫が鳴いている。

 木々の隙間を風が通り過る。

 水っぽさと土が混ざった匂いを運んでくる。

 所々に名も知らぬ花々が咲いて、大きな岩石にひっそりと寄り添っている。

 

 襲い掛かるかのように生い茂る草木は四方へと手を伸ばし、声持たぬ命たちは、山奥に踏み込んでくる何者をも拒んでいるのかにも見えた。

 

 そんな獣道とも言えない、道なき道を。

 あろうことか、今日ばかりは凄まじいエンジン音が駆けていた。

 

 黒く艶めく車体だった。

 車高は低め。タイヤは少し擦り減っている。街中で見掛けるような普通車。

 少なくとも山道には相応しくない自動車が、凸凹な地面を飛び跳ねるように進んでいる。草花を敷き、若木をなぎ倒し、小川を飛び越え、成木を避けながら、トップスピードを落とすことなく走り抜けている。

 障害物を気に留めず、我が道を行く爆速進行中の四輪車。

 三倍速い赤いボディでもないし、怒りで我を忘れているわけではないが、要素も激情も持たずとも車体が止まることはない。車内には少年と少女の二人が乗っていて、運転席には少女――悠里が座り、ハンドルを巧みに操って無茶苦茶な走駆をしている。

 真人の襲撃を受けた校舎から離れ、連絡の通じなくなった教師陣へ報告するために、交流会開催地へと向かっている最中であった。

 運転している身としては必死である。

 なにせ人死が関わっている前提で、しかも背後には自分たちの命を狙う存在が追いかけてきている。おまけとばかりに付け加えるなら、向かっている地点では、これまた別の敵が待ち構えているのが確定されている。

 物理的に視界は不良。

 待ち受ける展開も一寸どころか、その先までもが闇。

 留まることができなければ、引き返すこともできない。

 状況はまさに門前の虎に後門の狼、どのみち逃げ場はないのだ。強制的な二者択一であるのなら、より可能性あるほうを選ぶ気概は持ち合わせている。

 

「ちょっ……、と、嘘だ、ろ?! うわぁぁぁぁぁああああ!!」

 

 ガタガタと跳ねる車体に、これまた跳ねる身体。

 賑やか、というよりも騒がしい車内に、さらに加わる吉野の叫び声。

 絶叫を奏でる後部座席を気にしている余裕はなかった。後方から迫ってくる真人から逃げるため、道を開拓するレベルで爆走しているのである。目的地に車を進めることに意識は集中していた。

 

「気を付けないと舌噛むよ!」

「どこの走り屋のセリフだよ! 虎杖さんはどうして車の運転なんてできるのさ?! 悠仁と双子だって話じゃなかった? 同い年なら免許持ってないはずだよ?? 僕の覚え間違いだっけ?!」

 

 間違ってなど、いない。

 悠里は()()()()に生まれて十五年しか生きていないのだから。

 少なくとも身体はだけ二十にも満たぬ少女で、悠仁の双子の姉であり、間違いなく吉野の同級生である。大人の庇護下にある年齢にあることに変わりはない。

 

「そもそも誰に習ったわけ?!」

 

 ただし肉体年齢に見合わない精神年齢をひっそりと抱え、不要な知識をこっそりと隠し持っている。

 劇薬を服用したわけではなく、天才的な頭脳は持たず、超人的な身体能力も持たず、危機的状況で名を呼ぶ幼馴染みもいなければ、世界的作家の父も大女優な母もいないけれど。

 

「こんなときの常套句(決まり文句)はね、ハワイで親父にって決まってるんだよ!」

 

 ――身体は子ども、頭脳は大人。

 言葉ばかりを取って借りてきたような今世には、お似合いの言い訳だと思った。

 

 

 

 

 

 呪霊討伐戦が開始した。

 開戦合図とともに疾走、悠仁は藤堂葵と相対。顔面に蹴りを入れて意識を引いた瞬間に、東京校生徒は呪霊が解き放たれた戦地へと散開した。

 以降の展開は怒涛である。

 東堂との交戦中、京都校生に集中的に狙われた。

 矢先を避け、弾丸を避け、斬撃を避け、――彼らの攻撃が妨害などではなく、目的が悠仁自身の殺害なのではと考え至り――そこを東堂に庇われ、なのに東堂との戦闘は続く。

 思いがけずに続行された闘いは、強くなるための学びの場だった。

 呪力に関して言葉としての理解はあったし、感覚としての理解もあった。その理解が改めて知識として、もしくは技術として納得へと変化し、確実に動作へ馴染んでいく。

 頭と身体が連動している心地を味わっている最中、背筋を切るような寒気がした。

 

 呪霊の気配。

 それも特級。

 

 東堂との戦闘は一時中断となった。

 二人でひりつくような気配を辿った先、川辺で血を流す伏黒たちがいた。植物が人型を真似たような姿形と向かい合う彼らは限界に近い。川辺に流れるおびただしい量の血液と、肉体への損傷が被害を物語っていた。

 あとは任せろとばかりに参戦するも、悠仁と東堂をおいて自身が後退することを伏黒は渋った。

が、重傷者相手に悠仁とて譲らない。説得を重ねられて退避を決めた伏黒の「次死んだら、殺す!!」の一言に背中を叩かれることになった。

 パンダが負傷者二名を抱えて撤退するのを確認後、すぐに特級呪霊との交戦が開始した。

 

 手は出さない。宣言通りに東堂は佇んでいる。

 

 悠仁が攻撃を受けているのを見ている。

 悠仁が攻撃するのを見定めている。

 悠仁が育つのを信じている。

 悠仁がモノにするのを待っている。

 

 ――東堂の視線。

 

 静観の色。害意がない、知覚する情報に不要。黙殺。存在の断線。

 

 ――目前の呪霊。

 

 戦意。音声言語は不明。内容を理解。不要、聞き流す。殺意、感覚を集中。

 実践は経験だ。

 己が身体が、張り詰められた神経が、力を己がモノにせんとしている。

 相手の動きを食らい尽くし、飲み込んで消化するために、巡る血液の熱さとは反対に脳内は冴えていく。

 

 

限界への挑戦、

 極限の集中、

 その果て、

 

 ――黒閃――

 

 瞬いた、

 黒い火花、

 闇色の閃光が、

 煌めいては消える。

 

 呪力操作によって桁違いの威力を誇る技だ。絶え間のない暴力。眩しい闇色をした連撃に、特級とは言え呪霊の動きが鈍る。

 祓える。東堂となら。

 お互いの動きが手に取るようにわかった。共闘の一番の難題は意思の共有だが、裏を返せば意思の共有ができれば、誰であろうと効率的な連携が可能であるということ。今ならできると思った。

 あとは自身に巡った全能感が。

 

 殺せ、と。

 殺せる、と。

 

 騒々しく叫んでいる。猛々しく鳴いている。

 

 ――その好機を虎杖悠仁は見逃さない。

 

 伸びてきた木の腕を避ける。懐に潜って拳を叩きつける。

 連撃、は無理だ。

 一旦身を引いた。

 後方に下がる重心。態勢を立て直す。

 その間に東堂が蹴りを入れた。

 呪力のぶつかり合いの余波の合間を縫って、もう一撃を放つ溜めを作る。

 

不義遊義(ブギウギ)

 

 東堂の術式――拍手ひとつで呪力を帯びたものを、自由に位置交換することができる――が発動した。単純で、だからこそ厄介な能力。

 数秒の滞空時間に、大きく腕を振りかぶった。動作のわりにコンパクトにスイング。

 弾くような一発が呪霊の脳天に決まった。

 

(一筋縄ではいかない、か)

 

 猛攻を浴びても臨戦態勢を解かない呪霊にちっさく息を吐いた。

 東堂に目配せ。

 先行は悠仁、追撃が東堂。

 声なき意思疎通。頷く。

 前を見据えた次の瞬間、悠仁は――空飛ぶ車を視認した。

 

「……は?」

 

 見間違いでなければ普通車である。

 それも補助監督が利用するような黒い車体の、というか、あれは高専所有車で間違いないと思う。なんとなく見覚えがある、ような気がする、が。

 

(あんなに傷だらけじゃなかったはずなんだけどな?!)

 

 たぶん。おそらく。

 きっと高専の所有だろう車が。

 茂みから轟音とともに、文字通り飛び出してきた。

 高く宙へと浮いた車体は物理法則に則って落下していき、その最中、扉からは人影が空へと身を投げ出した。

 

「はあ?!」

 

 しかもその人影が、よく知った人間のものだったので。

 相対する特級呪霊に注意を払いながらも、悠仁は再度混乱の海に落とされたのだった。

 

 

 

 

 

(しくった!)

 

 後方から受けた攻撃に車体の一部が傷んだらしい。

 元より無茶な運転をしていたのもあるかもしれないが、機能として備えられているはずのブレーキが利かなくなっている。トップスピードを緩めることなく走らせてはいた。止まれないとも思っていた。

 しかし目的地を前にノンストップなんてオチは望んでいない。

 

「吉野君、残念なお知らせが!」

 

 飛来してくる攻撃を後部座席弾いている吉野に声を掛ければ、思いのほか冷静に「何、緊急?! それどころじゃないんだけど!」と返答。ギリギリだろうが喋ることはなんとかできるらしい。胸を撫で下ろし、続けざまに言い重ねていく。

 

「ブレーキが利かない、です!」

「……は?」

「突っ込むから合図と一緒に車から出て!」

「嘘だ?!」

 

 ――さん――

 

 狭苦しい視界の先。

 

 ――にい――

 

 生い茂る木々の合間から。

 

 ――いち――

 

 差し込んでくる眩しい光に向かって。

 

 思いっきりアクセルを踏み込んだ。樹木を踏み台にして進行、長くはもたない飛翔に「今!!」と声を張り上げる。

 ドアのロックはとっくに外している。

 レバーを引き、扉を開ける。車体ごと地面に叩きつけられることがないよう、座席を蹴って宙に飛び込んだ。

 

「虎杖さん!」

 

 吉野が伸ばした手に、自らの手を重ねた。

 自由に身動きが取れない青い空中で、ぐっ、と力強く身体が引かれる。頭を抱え込むような態勢で庇われたまま、二人してゴロゴロと地面を転がった。

 一際大きな衝撃とともに、動きが止まる。

 悠里の身体を守るようにして吉野が下敷きになったおかげで、身体は痛みで軋むものの、想像以上にダメージが少ない。

 

「……大丈夫だった?」

「それは私のセリフだけどね?? というかごめん吉野君、大丈夫?!」

「僕は大丈夫だよ、身を守る手段はあるから」

「でも痛くないわけじゃないんでしょ?」

「それは、まあ、うん」

「ごめんなさい、それと……」

 

 いくら呪力で肉体が強化できるのだとしても、悠里という一般人、つまり重荷を抱えての動作だ。負担も違うだろうし、それに吉野は呪術に触れてそう長くはないはずで、当然誰かを守りながらの戦いなど慣れてないだろう。ここではないどこかで得た知識悠里はことさら申し訳なくなった。

 でもって、心労になりたいわけではない。

 

「庇ってくれてありがとう」

 

 謝罪に対しての萎縮も、どことなく感じる申し訳なさも知っているから、同じように感謝の言葉も口にした。

 

 

 

 

 

「……ゆう、り?」

 

 悠仁の声だ。

 優しい声だ。泣きたくなるほどの、落ち着く声だ。

 上京して距離が離れてから、肉声を耳にすることはなかった。電話口で聞くのとは違う声音は温かで、疲労に沈みそうな身体にじんわりと染みていくような気持になる。

 

「悠仁!」

 

 呼び掛けながら振り向けば、呆然とこちらを凝視する悠仁の姿があって。

 少しばかり離れた場所に、屈強な体躯をした男と、近くに樹木を象ったような姿の呪霊がいて、同じようにこちらを見つめている。

 

(せめて教師陣の誰かのとこに出たかったんだけど、よりによってこの場面?! 二人がかりでようやっと戦える特級呪霊のいるとこに、しかも……――)

 

 頭を抱えて掻き(むし)ってしまいたかった。すべての情報をシャットダウンして気を失ってしまいたかった。

 だって。

 

「あれ、花御もいるじゃん」

 

 悠里たちが逃げていたのは真人からで。真人はいわずもがな特大級に厄介な呪いで。

 

(――特級を引き連れて来たなんて最悪にもほどがある……!)

 

 この場を特級呪霊二体の集まる混沌の地にしてしまった失態に、冷や汗が背筋を伝った。

 

 

 

 

 

 混乱による停止を真人は逃がさなかった。花御と呼ばれた呪霊も変わらない。

 

 真人は悠里と吉野の元へ。

 花御は悠仁と東堂の元へ。

 

 驚異的な速さでそれぞれ距離を詰める。

 呪力の伴った攻撃に、当然の話ではあるが高専生として席を置く悠仁、加えて呪術師としての実力もある東堂は対応できる。表舞台にはまだ立たずとも吉野とて教育を受けている身、例外ではなく身を守るための術は持ち得ている。

 

 ――だとすれば、悠里は?

 

 確かに〝呪い〟を視認することはできる。

 しかし呪術師のようなことができるのかと問われれば答えは「できない」のである。遠い昔の記憶と個人的な趣味が、かろうじて対抗策を組み立てているだけのこと。あくまでも「自分が生存するために〝呪い〟が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」という前提で、認識の辻褄合わせをしているだけであるのだ。

 暴論でこじつけ。

 付け刃でおままごと。

 あくまでも悠里は一般人の域を出ることはない。

 虎杖悠仁のような天性の身体能力もなく、吉野順平のような呪いに関する教育を受けたわけでもなく、東堂葵のように知識と理解を実践に生かせるだけの素地もない。

 

 ――だとすれば、悠里は?

 

 この状況下において最もたる弱者であり、真っ先に潰される人間に他ならなかった。

 

「逃げろ!!」

 

 悲鳴染みた警告は誰から発せられたものだったのか。

 真人の継ぎ接いだ腕が伸びてくるのを、悠里は避けられなかった。ゼロ距離になってはじめて触れられたことに気付いて、悍ましい空気が肌を這いずったと思ったら、意に反して身体が持ち上がった。

 

 ひゅう、と。

 気道が鳴った。

 

 喉元が詰まった。酸素の通り道が狭まって、少しずつ締まりがきつくなっていく。

 必死になって、締め上げてくる腕を掴んだ。痛みと苦しさで抵抗らしい抵抗もできなくて、意識が薄れていく。

 目の前にある真人の顔は愉悦に歪んでいた。

 幼子が蟻を踏み潰すような、そんな表情。こんなにも自分は苦悶に苛まれているのに腹立たしいものだが、抜け出す術を悠里は持たなくて、余計に怒りと、諦めとが駆け寄ってくる。

 

(……死、ぬの、かな……)

 

 それはやだなあ、と悠里は思った。

 

 せっかく目が覚めたのに。

 やっと悠仁に会えたのに。

 もっと、生きてたいのに。

 

「やめろぉぉぉぉぉおおおおおおおお!」

 

 悠仁の絶叫がはっきりと聞こえるはずであるのに、どうしてだか、ほんの少しだけ遠い気がした。

 湧き上がってくるのは後悔。

 もう本当に、守ってあげられない、という自分の弱さへの情けなさと。今度は言葉すらも残してあげられない、という身勝手さ。

 こんなときにさえ、自分のことばかりで。

 

(ごめんね、でも……)

 

 怖い顔、しないで。

 大きな声、出さなくても、大丈夫。

 こっちは平気だから、ちゃんと、自分のこと守ってよ。

 

「無為転変」

 

  知識として脳内にあった言葉を皮切りに、悠里の意識は、途切れ――

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