あなたを生かす、呪いになれたら   作:端取合

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鮮やかな一縷の光


第四章 あなたを生かす「 」になれたら

 生死の懸かった戦場で敵から目を離すなど自殺行為に等しかった。

 油断できない相手であれば尚更(なおさら)のこと。激しい攻防戦だ。お世辞にも有利とは言い難い戦況を考えれば、二人掛かりでようやく対等に戦える強敵を優先しなければならなかったのに。

 理性でねじ伏せなければならない激情を、けれど悠仁は堪えることができなかった。

 真人の術式は不善だ。七海とともにあたった任務で、奥歯を噛みしめるほどに目の当たりにした。

 

 ――人間の、その内に秘められた魂の変質。

 

 高専で誰よりも真人を知る吉野は、苦々しく「真人は魂が先にあると考えていて、後から肉体がついてくるって言ってたよ」と当時を振り返って、そんなふうに説明した。

 

 卵が先か、鶏が先か。

 魂が先か、肉体が先か。

 

 真偽のほどはともあれ、真人の術式は「魂が先だと考えた(そういうものである)」と開示されている。

 外部からの干渉により強制的に転換された魂は、解剖生理さえ無視して肉体をも変態させる。命を弄ぶ所業だ。無辜(むこ)の人々の尊厳が貶められ、限りなく広がる未来が奪われた。自らの手を血で濡らすことになった悠仁は、略奪者がいかに邪悪であるかを知っている。

 そんな魔の手が悠里にかかった。

 冷静になれるはずがなかった。人間として成り立たない姿にされ、意思すらも剥奪されて、真人の操り人形になってしまう一寸先を想像した。悠里が原型を留めていない肉塊になるかもしれない恐怖が膨れ上がって、瞬時に「嫌だ」と拒絶へ形を変える。

 色濃くなっていく呪力。領域を広げていく圧迫感。

 真人の継ぎ接いだ皮膚がいやに目についた。

 玩具(おもちゃ)を前にした子どものように異色の瞳を輝かせて、生命を冒涜する腕が、悠里の細い喉元をさらに締め上げた。

 手を伸ばす。

 間に合わない。

 

 止める間もなく術式は――「無為転変」――発動された。

 

「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」

 

 ぞわり、と全身が震えた。

 血の気が引いた。動悸が止まらなかった。

 走る。駆ける。強張りそうな筋肉を急き立たせ、ひたすら真人に向かっていく。視界は前に前にと進んでいるのに、上手く身体が動かせないような気さえする。

 最悪の事態だった。認めがたくて、目を逸らしてしまいたいほどの絶望だった。

 悠里が自我奪われた肉塊になったら、

 

祓わ(殺さ)なくちゃ、いけない)

 

 たったひとり、残された家族。

 傍にいてくれた、優しいひと。

 

 幼い頃は悠仁が手を引かなければ消えてしまいそうなほど曖昧だった。ふらふらとどこかに行ってしまうんじゃないかと思うくらい弱い存在で、なのに、いつの間にか強い悠仁のことを庇うひとになっていた。

 不可視のはずの〝呪い〟が見えることなんか一言だって口にしてくれやしなかった。呪いを宿したという悠仁の隠し事にだって気付かないふりをして、遠く離れた地で見守っていてくれていた。

 何も知らないふりをすることで、当然のように悠仁を守ってくれていたのだ。

 頼もしい背中をしたひとを、今度こそ守りたかったのに。

 

(どうして……)

 

 大切なものは手のひらから簡単にこぼれ落ちてしまうんだろう。

 

(どうして、すぐに……)

 

 奪われてしまうんだろう。

 残酷な現実に憎悪が燃えた。

 

 臓腑の芯から焼くような殺意となって、腹底を焼き尽くさんとばかりに燃えている。戸惑いが浮かんだ。傀儡となった悠里をはたして祓うものとして見れるだろうかと、戸惑いが浮かんでいる。諦観が広がった。もうどうしようもないのだ、という諦観が広がる。

 それから、あとは覚悟が。

 たったひとりの優しい家族が、誰かの命を背負う前に。

 けして自らが望まずとも、罪に値する行動を強要される前に。

 

(俺が、――殺す)

 

 決意する。腹の底から湧き上がる情動。煮え滾る感情を糧に、呪力を練り上げる。

 満たせ。

 全身を満たせ。

 血流とともに巡れ。

 思いもぜんぶ溶かして、廻れ。

 頭の天辺から爪の先まで、すべてを満たせ。

 

「――ころす」

 

 この手で、必ず。

 苦しみも、痛みさえもなく、一撃で仕留められるように。

 家族の命を奪えるだろうか。惑わす雑念を噛み砕いて飲み込んだ。

 ぶれるな。迷えば揺らぐ、揺らげば乱れ、乱れればきっと――殺せなくなるから。

 

「殺す」

 

 もう一度深く息を吐いて、悠仁は拳を構えた。

 

 

 

 

 

「あれ、なんで?」

 

 張り詰めた空気を霧散させたのは真人の疑問だった。

 

「おかしいなあ」

 

 どうして弾かれたのかなあ、と。

 

「ねえ、虎杖悠仁の姉」

 

 こてり。童子のように首を傾げている。

 

「なんで俺の術式が発動しないの? なんかした?」

 

 問い掛けであるが答えは求めていないのだろう。

 掴んだ悠里の首を支点に、無遠慮にその身体を左右に振りくった。重力に従って吊り下がる肢体に、遠心力によってかかる負荷は計り知れない。言葉を発すどころか呼吸も絶え絶えの態勢だ。

 悠里が悠里足る要素を損なわないままに生きている。

 そうであるのなら。どういう理由であっても目的は変わった。

 

(はやくアイツから取り返さないと……! じゃないと純粋に呪力と暴力で殺される)

 

 悠仁は行動に移った。

 即座に真人に向かって直進。

 陽動は必要ない。距離を縮めることを優先。

 超常的速度で成長する花御の樹腕に邪魔をされそうになる、前に東堂が蹴りを入れる。巨木を思わせる身体が大きく傾いたところを、吉野が澱月を発動、防御の柔軟性を上げる要領で弾く。

 真人との距離が近づくも。

 

「離れろ、ブラザー!」

 

 藤堂の警告。

 咄嗟に一時的な停止。

 勢いよく捲るような音が鳴り渡った。

 天上から降ってくる膨大な呪力の放出。命を脅かさんとする格の違いに、生き物としての本能的な畏怖から肌が粟立つ。重苦しい力は圧倒的だ。

 源の気配を辿る。上空、抜けるような晴天を背に。

 

「五条先生!」

 

 にこやかに手を振る最強が立っていた。

 

「時間切れか、残念」

 

 五条の登場に真人が目を見開いた。遊んでいた悠里の身体を躊躇いなく放り出して、背を向けて走り出す。

 力の抜けた五体が投げ捨てられたのを、悠仁が無視できるはずがなかった。

 逃走を図った真人と花御の元へは吉野と東堂が向かっている。大丈夫だ。

 

「悠里!」

 

 落下点を捕捉。落とさないように掴みながら、接触の衝撃をいなして抱きとめる。

 息は弱々しく、顔色も悪い。

 けれど。

 

(生きてる)

 

 腕のなかの体温が。

 

(生きてる……!)

 

 それだけが今のすべてで。

 脈打つ命の存在がとてつもなく大きすぎて、他のことを気にしている余裕を悠仁は持たなかった。

 

 

 

 

 

 ――虎杖悠里は前世の記憶がある。

 

 あくまでも便宜上前世と称しているのであって、実際のところ彼女自身の古い記憶は、もしかしたらただの知識なのかもしれない。曖昧ながらにも人間一人分の記憶を抱え、さらには今もなお生を積み重ね続けているのだ。自らが何者であるのかは正確に解答できずとも、自身が何であるかをよく知っていた。

 

 ――虎杖悠里は〝呪い〟を視認できる程度の呪力を持っている。

 

 呪いを視認することができるが呪術師ではなく、当然呪いを祓う才能は敵わない。しかし呪術師ではない故の自由な解釈ができ、呪いが自分の手に負える範囲の存在で在ってくれればいいという前提で、認識の辻褄(つじつま)合わせな暴論を展開することができるだけの知識がある。

 

 ――虎杖悠里は両面宿儺の器足る素質を持った少年の縁者である。

 

 呪術師の家系における才能の話のようなものだ。代々伝わる祓う術を受け継ぐのは稀なことではあるが、血族に連なり、血脈として繋がっていなくては遺伝を後世には残せない。要は遺伝子情報が重要であるという話だ。悠里は天性の身体能力を持たず、また生まれながらの才能とされる術式も持たず、しかしながら器足る素質の血縁者であるがために、その身体の耐久性だけは優れていた。

 

 ――故に、自らが何たるかを理解し、少なからず呪力を有し、さらに耐久性に優れた身体を持つ虎杖悠里に、全力で臨まなかった真人の魂への干渉(真人の術式)は通じない。

 

 偶然の掛け合わせによって生まれた資質のなかに問題があるとすれば、術式に耐えられたとしても純粋な呪力や暴力に耐えうる許容の有無だろう。虎杖悠里は呪いが視認できるとは言え呪力量は多くなく、また祓う才能に溢れているわけでもなく、天性の身体能力を持つこともない。

 だからこそ真人の術式(無為転変)に魂と器が耐えられたとして、それが「生命活動の維持」と同義になるかは別の話だったのである。

 

 

 

 

 

 い。

 たい。

 いたい。

 さみしい。

 いたい。いや。

 きもちわるい。つらい。

 さむい。いたい。いたい。

 くるしい。あつい。こわい。

 いたい。さみしい。つらい。かなしい。

 おもい。さむい。さむい。いたい。あつい。

 いたい。きらい。こわい。あいたい。さみしい。

 あつい。いたい。くるしい。さむい。さむい。いたい。

 つらい。かなしい。いたい。くるしい。さむい。さむい。いたい。

 はずかしい。おもい。いたい。つらい。おぞましい。かなしい。かなしい。

 こわい。さむい。しあわせ。こわい。あつい。いたい。くるしい。きもちわるい。

 つらい。いたい。くるしい。おそろしい。きもちわるい。おもい。つらい。こわい。

 いたい。くるしい。こわい。かなしい。きもちわるい。かなしい。さむい。さむい。にくい。いたい。さみしい。つらい。すき。ひどい。いたい。つらい。くるしい。こわい。いたい。すき。あつい。くるしい。きもちわるい。おもい。にくい。だいすき。いたい。さみしい。おもい。あいしている。こわい。つらい。さみしい。ひどい。いたい。いや。くるしい。いきたい。しにたい。きらい。つらい。にくい。かなしい。こわい。こわい。さむい。つらい。こわい。くるしい。くるしい。いきたい。すき。しにたい。くるしい。あつい。きもちわるい。つらい。いたい。くるしい。すき。だいすき。おもい。いたい。さみしい。くるしい。いたい。すき。さむい。さみしい。こわい。おそろしい。……――なみなみと注がれていく感情は、水底の凪いだ一線を乱すような激しさがあった。

 やがて形なき体積の縁に辿り着く。暗く満たしてからなおも満たそうとする質量は暴力に等しかった。寄せてくるばかりで反すことを知らず、意識には抱えきれないほどの重たさをもって、許容量を超えて外へと溢れ出ていこうとする。

 このままでは溺死だ。きっと抱えきれない感情に余白を潰されてしまう。

 心の柔い部分をぐちゃぐちゃに引っ掻き回された心地だ。ひどく気分が悪くて、どうにか息継ぎをしようと手を伸ばす。

 

「   」

 

 誰かに、呼ばれた気がした。

 暗い世界が心許なくて、固く閉じられた瞼を必死に抉じ開ける。

 

「ゆうじ」

 

 視界が明るくなると、そこには傷だらけの悠仁の姿があった。

 かすり傷なんて一言では納まらないほど重症だ。打撲痕もある。切り口から流れる血が見るからに痛々しい。

 同じように悠里も、身体のあちこちが痛かった。

 心窩部から吐き気がせり上がってくる。感覚さえ鈍麻しているようで、やけに動くのが億劫だ。どうにもすっきりしないままで、すぐ傍にある温度だけが心地が良い。

 よく知った匂いと温もりだった。

 朝の目覚めを告げるような声音で。縋りつくような温度で。

 

「悠里」

 

 と、名を呼んでくれた。

 背中と両膝に腕を回された体勢。すっぽりと抱えられた状態で、情けないなあと思いながら、悠里は「だいじょうぶ?」と、悠仁の頬に手を伸ばした。

 傷口を避けて触れると、そっと頬が寄せられた。

 指先に触れる熱が、感じる息遣いが、ありありと命の存在を感じさせて。生きているという実感がじわじわと湧いてくる。

 

「それは俺のセリフだかんな。悠里こそ辛いだろ、もう喋んないで。はやく看てもらおう」

 

 泣きそうな顔だった。置いていかれるのを嫌がる子どもが浮かべる表情だ。

 まるで命の灯が揺らいだときの日と近しいもので。

 考えてみたところで変わらない。結局のところ悠里は悠里であるのだから、またいつかのときと同じように口を開いた。

 

「……おねがい、きいて」

 

 ひとり怪異へと飛び込んだときとは違い、少しだけ余裕があった。

 意識は晴れ渡って、抱えてくれる悠仁がはっきとり見えて、なんとなく周囲にも人の気配を感じられた。

 それでも。残された時間は少ないのだと、身体が悲鳴を上げている。

 前は助かった。でも。

 今度は助かるか、分からない。

 

「うん。うん、聞くよ。最後までちゃんと聞くから。だから悠里も頑張ってよ。助かるまで頑張って」

「あはは、おーぼーだなあ」

「知らなかった? 俺、けっこうワガママなんだよ」

「このよくばりさんめ」

「別に悠里ほどじゃないし」

「いうねえ」

 

 嗚呼、良かった。

 言葉を伝えることのできる余力があって。

 

(だって、……――)

 

 こうしてまた。

 生きているうちに。

 

「あのね、ゆうじ」

 

 思いを言葉にして。

 心を遺すことができる。

 

「これからもずっと、あなたのゆくさきが、すてきなものでありますように」

 

 道に迷ったときは、手を引いてくれる誰かが隣にいますように。

 立ち止まったときには背中を押してくれる誰かがにますように。

 暗闇で前が見えないときには灯りを持ってきてくれる誰かがいますように。

 土砂降りの雨に濡れる日には、傘を持って迎えに来てくれる誰かがいますように。

 悲しいことはたくさんあるだろうけど、気兼ねなく縋りつける場所がありますように。でも悲しいのは辛いから、そんな出来事がちょっとでも起こりませんように。

 波乱に満ちた人生になるのを防げはしなかったけれど、これから見守れもしないけれど、それでも穏やかに年を重ねられますように。

 好きな人ができたとしたら、思いが実って一緒になれますように。将来を誓った相手とたくさんの時間を共にできますように。

 美味しいものがお腹いっぱい食べられますように。

 あったかい布団で、悪夢なんて裸足で逃げ出すほどぐっすりと眠れますように。

 答えのない疑問に躓いたときには、正しく導いてくれる大人がいますように。もしくは一緒に考えてくれる友人がいますように。

 死と手を繋いでいるような生業ではあるけれど、できれば怪我なんてしませんように。ちょっとでも痛い思いをしなくてすみますように。

 泣きたいときに、我慢することなく泣けますように。

 誰よりも優しい手が、誰かを傷付けることが少しでも減りますように。

 大事なものを、大切なものを何ひとつとして損なうことがありませんように。

 

 ねえ、どうか。

 私の優しい家族が。

 心優しすぎるひとが。

 

「どうか、いつ、いついつまでも――」

 

 誰よりも幸福な未来を迎えられますように。

 願い、祈るは。あげたかったはずの優しい未来で。

 

 

「――どんなときでも、しあわせでありますように」

 

 

 (想い)を込めて縋るように、この(呪い)があなたを生かせよと。

 そう胸のうちで囁いて、ひどく穏やかな気持ちで瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 幸せになって、と悠里は言った。

 無責任だと思った。自分の命を勘定に入れず、どころかとっとと手放して、甘やかな願いだけを押し付けていった。

 ずるいと思った。幸せになれと願われたら幸せになりたくなるし、未来を願われては呪いの器として潰えるはずの未来を諦めきれなくなる。

 両面宿儺の器になったことを、後悔したことがないと言えば嘘になる。

 死ぬのは嫌だ。あまり納得もできていない。けれどそれは間違いなく悠仁自身が決めたことで、今さらどうのこうのと蒸し返すつもりはない。

 しかし家族は違う。

 悠仁の業は悠仁の業で、あくまでも悠里は関係ないのだ。

 悠里がどのような形であれ〝呪い〟について知っていたのは誤算だったが、それでも悠仁自身を取り巻く厄介な状況に巻き込みたくなかったという気持ちは変わらない。

 沈黙を保つことで遠ざけたにも関わらず危険は簡単に無知の壁を通り抜けて、あずかり知らないところで悠里は巻き込まれてしまった。世界の裏側を知っていたのだとしても、悠仁が両面宿儺の器に満足(みた)らなければ、きっと命を脅かされることなどなかったのだ。

 悠仁の背負い込んだ業の、その結果に巻き込んでしまった。

 そんな死の淵でさえ悠仁の幸せを願い続けたひとを。

 

「たすけて、先生」

 

 やれることなら、何でもするから。悠仁が果たすべき死に様以外であれば、悠里が望んだ悠仁自身の命以外であれば、何を差し出しても良いから。

 救ってほしい。

 すぐにでも秘匿死刑されるかもしれなかった悠仁の命を救ったように、手を差し伸べてほしかった。 

 

「大切な家族なんだ。俺の未来なんかを祈るような優しいひとで、幸せな未来を手に入れるはずのひとなんだ。お願い、……――」

 

 もう二度と瞼を開けることのなかったかもしれない悠里が目覚めたのに。もう一度会えたと思ったらこの状況だ。今度こそ「次」がないかもしれない。

 

「ゆうりを、たすけて」

 

 希望から絶望に落とされたまま諦めることはできず、悠仁は心の底から他者に縋った。

 

 

 

 

 

 たすけて、と。

 両腕に命の砂時計が削れていく少女を抱えた教え子は願った。

 必死な姿は守るべき生徒の命を奪われた教師のようであったし、友人の死に目に立ち会って絶望した後輩のようであったし、弱さを指摘すると烈火の如く怒る先輩のようであったし、青い春をともに駆け抜けた仲間を失って憂いを抱えた同輩のようであったし、――つまるところ、教え子から表現し難いほどの感情の波をぶつけられて、五条悟は戸惑ったのだ。

 呪術師は皆どこかしら歪みを抱えている。

 五条含め多くの関係者はその素質をイカれていると称する。

 呪術の世界に踏み込んだ悠仁はイカれてはいるものの、見合わない真っ直ぐな性根があった。竹を割ったような性格。けして無情ではなく、他者に対する無関心でもないが、どろりとした粘着さにも似た執着はないような、そんな印象があった。

 

(知らなかっただけ、か)

 

 家族に抱き縋り、助命を乞う様子は不格好だ。なりふり構わず、ただひたすらに救いを乞う悠仁を、過去の五条であれば「くだらねぇ」と一蹴したことだろう。大げさに顔を顰(しか)めて、舌を出して吐く真似事をして、そうして罵ったに違いない。

 

 他人のために心を砕く?

 他人のために労力を割く?

 他人のために時間を費やす?

 

 自分以外の誰かのために、なんていうのは所詮綺麗事だ。

 人間は自分のことしか考えてないのである。たとえ施しとして与えようが結局は自己満足でしかない。強者に弱者は淘汰されていくか、あるいは上手く取り入って甘い蜜を啜るか、利用し利用されることこそが本質だ。

 少なくとも御三家の一角に産まれ、光り輝く天つ才として育てられた、呪術界の寵児である五条にとっての他者とは有象無象でしかなかった。

 手に入らないものはなかった。

 仕立ての良い着物も、高級食材ばかりの並ぶお膳も、肌触りの良い寝具も、貴書から禁書まで揃う蔵書も、一級品の家具も、……挙げていけば際限がないものの、衣食住にも娯楽にも困ったことはなかった。

 その代わりとでもいうように五条の傍には常に人がいた。

 優しい人がいなかった、わけではなかったと思う。大事にもされていた。

 それでも陰謀の渦巻く五条家で掛け値なしに、色眼鏡を外して〝五条悟〟という()()を見てくれる人間がいるとは信じられなかった。

 なぜなら求められているのは自我ではなく、術式を扱うという存在自体だったことを、幼いながらに五条は感じていたからだった。

 家族に関してもそうだ。彼らなりの情は確かにあったのかもしれない。しかし身内に向けるものとして正しかったかと問われれば、今でこそと理解しているが「否」であるのだろう。一般に言う無償の愛とは無縁のものだ。

 悪いことではない。

 珍しくもない話だ。

 だが、つまらない。

 一変したのは高専に入学してのこと。呪術師に囲まれて育ったと表現しても過言ではない環境に潔く切り口が入った。呪術師という同じ泥穴の狢でありながら、一般家庭出身者の価値観は風が吹き込んでくるような新鮮さがあった。

 

 夜蛾正道は五条のことを徹底して子どもとして扱った。

 夏油傑は五条のことを背中を預け、並び立つ友人として扱った。

 家入硝子は五条のことを対等に仲間として扱った。

 

 彼らにしてみれば至極普通のことであったに違いない。けれど人間として当然のような扱いが、当時の五条にとってどれほど稀有なことであったか。

 ――歪な情緒にどれほど深く爪を立てたのか。

 けして彼らは知らないだろう。気付かれなくてかまわなかった。ただ現在の五条悟という人間性の根幹は、そこで育まれたのだとさえ思う。

 主張が対立して、道分かたれてしまった友人もいる。心から対等だと感じ、これ以上ないと確信した友の命さえ奪ったけれど。

 

 それでも。

 

 繋がれた関係の糸を。

 そこに生まれる感情を。

 

 五条はもう無益なものとは馬鹿にしない。

 

 そうやって五条が家を出てはじめて与えられた数々を、普通の学生生活を送ってきた悠仁は、生まれてからずっと一心に受け止めてきたのだ。

 普通の生活も、普通の家族も、普通の幸福も、理解とは少しばかり距離をおいた場所にある。他者からもらったものたちの積み重ねによって、五条はそれらが尊いものであると言外に教えられたから、なんとなくは知っている。

 

(だからこそ)

 

 離れがたいだろう。

 手放しがたいだろう。

 

(そして何より、……)

 

 ずっと一緒にいたいだろう。

 後追いでもしそうな勢いだった。何を差し出しても、それこそ命だって投げだしてもかまわないという苛烈さで、縋っているのに凄みさえある。

 けれど家族が残した「しあわせになって」という(想い)が、

 

「本当に、……愛はこの世で最も歪んだ呪いだよ」

 

 何があっても悠仁に生きるという選択肢を取らせることだろう。

 歩んできた道が地獄であればあるほど、これから先の道が奈落に続いていればいるほど、苦痛の終着点である死はとびきりの蜜だ。死んだほうがマシだ、という現実は掃いて捨てるほどある。死が安楽へ通じる一種の手段であることは否定しない。

 死が救いになることはあっても、その救済にけして未来はない。

 確かに刹那の慰めにはなるだろう。救援依頼に従って向かった先、五条とて恐怖に引き攣った表情以外にも、少なからず穏やかな死に顔をいくつも見た。ただ明日以降の一切を投げ出す結果であることには違いないのだ。

 だからこそ幸せであれ、と少女は祈ったのだと思う。

 修羅の道を往く家族に強欲なまでに紡いだ、幸福への希望。

 きっと祝福だった。

 

 これから先の人生が幸せなものであってくれと(こいねが)った想いの形。神に頼ることのない人間の情による祝福は一種の(まじな)い。

 

 呪力を纏わない言葉が、心身を縛るほどの枷に転じるのなら本当に大したものだ。

 自覚の有無は分からない。ただ未来の先にある幸福を願ったことで、確実に悠仁の意識を死から遠ざけた。想いを正しく言葉で紡ぎ、優しい願いでこの世に縛って、なのにそれは支配ではなく、確かに相手を慮った至上の望みなのだ。

 

「嗚呼、本当に……――」

 

 ――愛は歪な呪いであることだろうよ。

 器から溢れんばかりの祝福を受けた教え子に、五条は声もなく呟いた。

 

 

 

 

 

 とん、と悠仁の額に触れた。

 崩れ落ちていく身体を、とうに意識を失った少女の肢体とともに受け止める。

 倒れ込んできた質量を抱きとめる。温かさは二人分の命の感触だ。五条の手からこぼれ落ちていかなかった輝に、自ら青い春を重ねてどうしようもなく安堵する。分かつことのなかった教え子たちに、まだ失われていないその家族に、求められた五条のほうこそが救われた気分になる。

 

「……さ、硝子に見せよっか」

 

 二人分の荷重を軽々と担ぎ上げた五条の顔に、普段浮かべるような表情はなかった。

 

「お前たちも早く戻るよ。ああ、葵には悠仁を任せて……」

 

 東堂に預けようとした矢先。

 どれほどの強さで抱えているのか、引っ付いた二人は離れなかった。

 腕力で引き離せるだろう拘束は意識のない牽制だった。離すまいとする、奪われまいとする、思いの表れ。負担なく運ぶのであれば悠仁を東堂に頼み、重症の度合いも測れない悠里を連れて行けば良かったが、――柔らかな執着の形を、なぜだか五条は解くことができなかった。

 

「あー、やっぱいいや。先に硝子んとこに行ってるから」

「ふっ、……ブラザーにとってはそれが良いだろう」

「そうだろうね。ああ、葵。あとは残党の討伐は頼むよ。見つけ次第各個撃破で」

「承知した」

「順平もまだやれるね」

「はい」

 

 力強く返答する生徒の頼もしいこと。

 ざっと索敵しても手の掛かりそうな呪霊の反応はない。東堂と吉野であれば難なく残党狩りを終わらせる実力もあるのだし。

 

(まあ相性は……なんとかなるか!)

 

 個性的で直情的な東堂。

 没個性的で理性的な吉野。

 押せ押せな東堂にたじたじな様子の吉野が流れるように脳裏に浮かぶが、なにせ同じ呪術師同士(イカレ野郎)である。しかも悠仁を共通の知人にする二人だ、どうにかなるだろう。

初対面の若人たちをその場に置いて、瞬きの間に五条は空間を飛んだ。

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